もう夕暮れ時だろうか、流石に朝から何も食べてない俺に空腹が襲ってきた。窓の外の大澤さん達は…どこかに引き上げたらしい。しかし、俺この状況で食い物にありつけるのだろうか。そろそろ、実行するかと部屋の首吊紐をながめつつ体を起こした時、バリケードで塞いだドアの外で何やら物音がする。
「じゃいくよー!せーのっ!」
その瞬間ものすごい音と共にバリケードに使ってた衣装ケースやダンボールが、何かの壊れる音と共に崩れ、ドアぶち破り用の角材と散らかったダンボールを避けつつ、見慣れない眼鏡かけたロングヘアの一人のピンクのミニスーツ姿の女性が飛び込んできた。
「あー、ありがと。あとやるから。美樹ちゃん(広瀬)ありがと。よく連絡してくれたわね」
そう言ってその女性はドアに向かって軽く手を振ると、ずけずけと部屋の中に入り、俺の作った首吊紐に手をかける。
「な、なんだよ!あんたは!」
あまりの事にあっけに取られていた俺は、やっと声を出せた。
「ふーん、首吊りねーぇ。意外と安易な方法採ったのねぇ。知ってる?自殺の方法でこれって一番苦しいんだよ。それにさあ…」
メガネにロングヘアの女は、その紐を手で触りつつ続ける。
「これじゃ、あんたが死ぬ前にほどけちゃうわ。知ってる?自殺中に紐が解けて地面に落ちるとさ。一生寝たきりだよー。あ、あたし?こういう者」
そう言いながら彼女はスーツのポケットから一枚の名刺を出して、器用にくるくると俺に投げてよこす。それには、
(柴崎麗 精神科医 ライフサポートカウンセラー)
とだけ書かれていたが、なんだよ背景のキティちゃんの柄はよ!
「みんなあたしの事、自爆霊って呼んでるけどねー」
そう独り言みたいに喋りつつ。紐を解き、手早くそれを結びなおし、漫画とかで見る絞首刑用のものに結び直していく彼女。
「ほら、やってみな。これだと確実だからさ。苦しいぞー、うんこと小便もらすぞー、舌かむぞー、目ん玉飛び出るぞー」
「あんた、何しに来たんだよ」
もうすっかり首釣る気力なくしていた俺が、ちょっと圧倒されつつ言う。
「え?あたし?お友達の広瀬さんからさ、杏奈ちゃんの事で困ってるってさっき電話有ってさ」
「杏奈って、杏奈は…」
「いいっていいって、もうわかってるからさ。以前杏奈ちゃんが学校で苛められてた時あたしがカウンセリングした事有るから、あの子の事は大体わかってるしね」
俺はちょっと息を呑む。杏奈が苛められてたってのは意外だったけど、その杏奈が、一年で、さっきみたいな人気者になったって事か?この女のカウンセリングとやらで?
「死ぬんだったらさ、そうね、カリウム注射か、真冬に酒持って雪山行くのが一番楽かな」
俺は何と答えたらいいかわからず、黙って柴崎さんを見つめるだけだった。
「そうそう、君さあ、杏奈ちゃんになるって聞いたけどさあ」
「だからー!、そんなんになりたくないからー!こうしてさー!」
「ふーん、可愛い顔してんじゃん。ベースは問題ないかもねー」
そう言いながらベッドの上の俺に顔近づけてくる柴崎さんだけど、まあ、結構可愛くて美人な人だった。
「ねえ、自殺するの冬にしない?人生最後を女の子で暮らしてみようよ。そしてやっぱり嫌だったらあたしが睡眠薬で眠らせて雪山にほっぽってあげるからさ」
「な、なんじゃそりゃ?」
「だーいじょうぶよ。警察と新聞社さえ動かした京極家なんだもん。あんたの死なんて隠せるし、また別の人を杏奈ちゃんに仕立てるだろうからさ」
俺は間違いなくこの人の話術に陥っていく自分を感じていた。
「あーあ、突然呼び出されて車でこっち来て運動したから腹減ったわ。ねえ、ラーメンでも食いに行かない?江ノ島にいいとこ有るからさ」
「ら、ラーメン!?」
一瞬俺は下腹部の包帯に手を当てる。
「大丈夫よ。あんた手足の打撲だけなんだから。腸の破裂なんて杏奈ちゃんの卵巣と子宮埋め込む口実にすぎなかったんだし」
「な、な…」
「大体腸破裂してたらさ、あんた本当に今頃絶対安静のはずよ」
俺はがっくりと肩を落とし、自分のお腹の包帯に手を当てた。女性生殖器の移植はどうやら本当らしい。間違いであってほしいと思ったが。
しかし、体は正直だった。朝に簡単な病院食だけを食べただけの俺の腹は、ラーメンの言葉に敏感に反応し、続いて頭がもう
(食べに行くしかない!)
と反応し始める。とりあえず、今は飯にありつこう…。黙ってうなずく俺。
「広瀬さーん、ちょっと右京、じゃなくて杏奈ちゃんお借りしまーす」
いつの間にか水村さんと一緒に部屋のドアの修理を始めていた広瀬さんが立ち上がって、柴崎さんに深くお辞儀をした。でも俺まだ杏奈になるってとんでもない事決めてないし…。
夕焼け迫る中、柴崎さんは杏奈の衣装箪笥から、男が着ても問題なさそうな地味なグレーのスウェットパンツとブルーのTシャツを取り出して俺に渡す。それを着た俺は松葉杖を手に柴崎さんのメタリックピンクの新車のビートルに乗せられ、杏奈のカウンセリングの時に良く行ったと言う江ノ島近辺のラーメン屋に向かった。
途中、運転中の柴崎さんのうるさい事。
女って楽しいぞーとか、男からちやほやされるぞーとか、可愛い服いっぱい着れるぞーとか、メイクとかヘアアレンジ楽しいぞーとか、赤ちゃん産めるぞーとか、
少なくとも杏奈が生きてた時は、女って辛いと彼女が良く愚痴こぼしてたのを聞いてたんだけどな。
途中、稲村ケ崎の横の駐車場に車を入れた柴崎さんは、怪我人の俺の事なんておかまいなしに道路を渡って、砂浜の方へ向かって行く。
「何してんの、早くおいでよ」
なんて女だよ全くって思いつつ、俺はのろのろと彼女の待つ砂浜へ。まあ、なんとか足は痛むけど、松葉杖つくほどでもなくなってきた。さっきの大騒動の運動が結構リハビリになったのかも。砂浜へ降りると柴崎さんは年柄にもなく、ミュールを脱いで波と戯れの真っ最中。さっき聞いたけどもう年は三十近いのに。
「右京…君もやってみなよ。気持ちいいよ」
「嫌っすよ。そんな子供みたいな事」
「女はみんな子供よ。子供と遊ばなきゃいけないんだからさ」
しばしその様子を呆れた様子で眺める俺だった。ふと足を止めて俺の方へ向き直る柴崎さん。そして俺をじっと見つめて言う。
「杏奈ちゃんとね、よくここへ来てこうしながらお話したのよ。いろんな事ね」
杏奈と聞いて柴崎さんをじっと見つめなおす俺。
「高校入学して苛められたって言うからさ」
その途端立ち止まっている柴崎さんの足元に予期せぬ大波。短い悲鳴をあげて避け、間一髪でスカートが濡れるのを防いだ彼女が続ける。
「言ってやったのよ。勇気出して戦えって。やられたらやり返せって。あたしを苛めたら、只じゃすまないよって事相手に教えてやれって。喧嘩上等じゃん!場合によっては皆の見てる前でビンタかましてやれってさ。最悪は京極家が動くから安心しろって」
おとなしい性格の杏奈が高校へ入ってから、すごく活発な女の子になっていったけど、そういう事情が有ったんだ。
波遊びに飽きたらしい柴崎さんが海の方を時々振り向きつつ俺の方へ近寄ってくる。
「いい眺めよね、ここ。あれ葉山の漁港だよね」
日が暮れ始め、紺色になってきた海の向うに、いくつかの点々とした灯りが灯り始める。それをじっと眺めつつ何も言わない俺に柴崎さんが続ける。
「もうすぐ夏だよね。右京君、覚悟してよ。多分今年の夏は泳ぐ時はあんた胸隠さなきゃいけないから」
「なんすかそれ!」
「杏奈ちゃん、可愛い水着いっぱい持ってたからさ。今年はそれ着てさ。あたしも付き合ってあげよか」
「ちょっとー!俺まだ…」
冗談になってない彼女の言葉に俺がちょっと声を荒げた時、
「柴崎先生じゃないっすか!」
後ろの堤防の上で誰かの声。波音に負けないはっきりとした聞き覚えがあるその声。
「あらー、田柄君じゃない!よく見つけたわね!」
「何言ってんすか、先生!」
波の音に負けじとその男は叫び、そして砂浜への階段を降りてきた。田柄正義さん。孝明おじさんの妻の昌子さんの親戚で、今この近辺の有名大学に通ってる彼。高校の頃は京極家に居候してたらしいが、今は茅ヶ崎に下宿しているらしい。
会うのは去年、養子に行った杏奈とゴールデンウィークの時、彼のプジョーでドライブしてから一年ぶり。普通なら俺も再会を喜ぶはずなんだが、その、どうやら杏奈はこの男に好意を持っていたらしい。京極家に養子に行ってから後、会ったり電話で話した時何度もこの男の名前が彼女の口から…。逆に本人は杏奈の事どう思ってたか知らないけど。
今後杏奈の身代わりにされるかも知れない俺にとって、今彼に会うのはちょっと、気まずい。
「すぐ先生だってわかりましたよ。日本であんな派手な車に乗ってるのって先生くらいっすよ。今孝明さんの家に右京君の見舞いがてら行こうとして、途中で電話したら孝明さんも昌子おばさんもいないし、右京君は先生と出かけたって聞いたから、今日は帰ろうとしたんですけどね」
俳優の織田○二に似た、ジーパンジージャン姿の田柄さんが、懐かしそうに柴崎さんとなにやら話し始めた。暫く身の上話した後、
「田柄君、右京君の事、知ってるよね」
「あ、ええ、ちょっとびっくりしましたけど。大丈夫、俺口は堅いっすから」
そう言いながら俺の方をちらちらとバツ悪そうに見る彼。どうも俺の今の事情を知ってるらしい。そりゃ、顔合わせづらいだろう…。て、まさか田柄さんも杏奈に気が有ったなんて事ないだろな?
「あーあたし達さ、江ノ島のあのラーメン屋に晩御飯食べに行くんだけどさ、行かない?」
「いや、今日は遠慮しときますよ。こうして右京君の元気な姿も見れたし。それじゃ」
こうして足早に俺達から遠ざかっていく田柄さん。
「右京君、その…、またな!」
振り向きざまに何か俺に言いたげな事が有るらしいが、それを隠して彼は堤防の階段を登っていく。
あー、もう、やだなー俺。次彼と会う時って俺どうなってんだろ。
「らっしゃい、あれ誰かと思ったらレイちゃんじゃん、久しぶりだね。またこっちで仕事?」
伊武○刀に似たラーメン屋の親父に軽く愛想笑いする柴崎さん。
「おじさん、奥いい?」
「ああ、いいよ」
夕食時にはまだ少し早い時間だからだろうか、チキンと生姜の臭いの立ちこめる店内に人はまばらだった。俺は柴崎さんに招かれ、誰もいない奥座敷の一番端に陣取る。
「おじさん、ラーメンと餃子。あんた何にする?」
「あ、俺もラーメンでいいや」
「チャーシュー麺にしときなー」
「…なんで?」
「多分暫くあんた肉食えなくなるから」
「な、なんで!?」
柴崎さんはあたりを見回し、小声で言う。
「あんたこれから胸とお尻にいっぱい女の肉つけなきゃいけないんだからさ!質のいい物食べないとだめなんよ」
「だって、俺まだ正式にやると言ってないじゃん!」
小声でやり返す俺。
「おじさん、あとチャーシュー麺一つ。あとビール」
ビール?
「おい、俺を失業させる気か?今日も乗ってきたんだろ?あのど派手ピンクのワゲン。あんたいなくなってからも暫くここいらじゃちょっと有名だったぜ。ピンクにハートのワゲンに乗った眼鏡っ娘ってさ」
「はっはっはー嘘よっ嘘嘘っ」
ラーメン屋の親父にそう切り返しつつ、柴崎さんは持ってきた大きなカバンから、メタリックピンクの大きなノートパソコンを広げ始める。よほどピンクが好きなのか。それにしても、それに貼り付けてある大きなシールはなんだよ。誰かに描いてもらったあんたの三頭身のイラストか?
「まだあんたの情報とか京極さんからのメールとか、全部読んでないんだよねー」
そう言いつつ、俺の向かいでノートPCに向かい、何やらかちゃかちゃと操作し始める彼女。流石に目が悪いのか、俺から見れば完全にノートPCに顔が隠れてしまう位画面に顔を近づけている。と、そこへ、
「ほら、ノンアルコールビール差し入れとくから、またひいきにしてくんな」
「ありがとーん」
親父が水と一緒に持ってきてくれたそれを、PC操作しながら器用に手酌でグラスに継いで飲む彼女。と、
「まっずぅー…」
といいつつも二息で飲み、しかめっ面してPCの横に空のグラスを置く。
それからひたすら独り言をぶつぶつ言いながら俺には目もくれず、ひたすらノートPCをがちゃがちゃと操作する彼女。
「えい、お待ち!」
「あ、きたきた」
親父が運んできたラーメンを見ると、左手からシュシュを外し口にくわえて、長い髪を後ろ手に纏め上げるのを俺はじっと見ていた。
「何みてんのよ?珍しい?女はこうしないとラーメン食べれないのよ。髪邪魔でさ」
「めんどくせぇ…」
俺がぼそぼそとチャーシュー麺食べ始める横で、引き続きノートPCをいじる傍ら、すごい速さでラーメンをすすりギョーザを口に放り込む彼女。
「ギョーザ食べる?」
「いらねぇ…」
「あっそ」
最後に残ったギョーザを口に放り込み、ラーメンスープで流し込み、再びPCに向き直る彼女。と、
「えーすごい!こんなにくれるの?しかも経費別で無制限!やったー、これだから京極さんの仕事好きなんよー」
(がさつな女…)
こんな女もいるんだと思い、俺は再びラーメン丼を空にする事に専念した。と、柴崎さんのPC操作の手がだんだん遅くなる。何かあったのかと俺が彼女の方を見た時、
「やべ…」
一言はっきりと彼女は言い、そして顔をのそっと上げ、PC越しに俺の顔をじっと見つめた。
「右京君…」
「なんすか?」
「あんた、ていうか杏奈ちゃん。七月一日の海開きのキャンギャルにノミネートされてるわ…」
その瞬間口の中のラーメンを思いっきり丼に吹き出す俺。
「勝手に決めんなよなぁ…」
ごほごほ言ってる俺を尻目に、そう言いつつカバンからアイフォンを取り出す柴崎さん。
「二ヶ月無いじゃん…こりゃ手段選んでる暇ねーな…ゆっくり着実にやろうと思ってたのに、」
「無理無理無理無理!絶対無理!」
むせる喉を我慢し、やっと俺は抗議の言葉を口にしたが、
「御徒町のラスボスのチームにでも頼むか…」
「お、俺無視か…よ…」
「もうサイは投げられたのよ。あんたも覚悟しな…」
そう言いつつ、アイフォンを耳に当てる柴崎さん。
「もしもしー、あ、あっきーちゃん?お久しぶり、元気してる?また飲みに行こうよ。えへへー、あ、そいでさーすっごくいいお話が有るんだけど。…うん、只さー、大至急なんだよねー。お代はいい値でオッケー。へへへ、いいでしょー。それでさあ…」