俺の中の杏奈

(1)死んだのは俺なの?

 俺が目を覚ましたのは全く知らない部屋だった。次第に意識がはっきりして目もようやく眩しさに慣れた時、俺は口にマスクを宛がわれている事を知った。どうやら病院の部屋らしい。
「先生!先生!」
 看護師らしき女性が慌てて部屋から出て行くのを薄目で眺めつつ、そこが只の部屋では無い事を知った。どうやら集中治療室みたいな所らしい…。ベッドの上には俺の名前と年齢、望月右京、十六歳と書かれていた。
 でも、何故?俺がここに?、確か俺、親父とお袋と、そして親父の兄貴の所に養子に行った双子の妹の杏奈を車でうちに一時帰省に迎えに行って、その帰り…
「ち、ちょっと…」
 マスクを外し、起き上がろうとして全身に痛みを感じる俺。まず右腕にいくつもの痣、そしてお腹にどうやら包帯が巻かれている様子。そしてジーンズにポロシャツだった俺の服はブルーのパジャマに…。
「あ、あの、すみません!」
 まだ朦朧とする意識と体の痛みを覚えつつ俺が叫ぶと、程なく病室に何人か入ってくる。
「あ、おじさん」
 地味なスラックスとポロシャツの白髪の紳士を見た俺はほっとした。親父の兄貴の京極孝明さん、そして横には婦人の晶子おばさんもいた。そして医者らしき爺さんと看護師の女性二名。
「よかった、目覚ましてくれたか…」
 孝明おじさんが俺の顔を見るなり、天を仰いで呟く。昌子おばさんも片手を胸に当てうつむいた。
「あの、俺…」
 そう言う俺に、昌子おばさんがベッドに近づいてきて、そして大きく深呼吸して話し始めた。
「右京君。心して聞いてちょうだいね。あのね、実は…」
 でもなかなか昌子おばさんの次の言葉が出ない。そっと孝明おじさんも俺のベッドに近寄ってきて、昌子おばさんを片手で制し、そして何度か大きく息を吸って俺に話しかけた。
「右京君。大変話しにくいんだが、君達は車で事故に会った。君のお父さんとお母さん、そして、杏奈ちゃん…」
 呆然とする俺に、孝明おじさんはうつむいて体を震わせて続ける。
「三人とも、既に亡くなった。君だけが何とか命をとりとめた」

 ベッドの上で俺はもう何時間もただぼーっとして天井を見つめていた。時折看護師さんが何か話しかけてきたみたいだが何も覚えていない。はっきりしてるのは、俺は両親と可愛い妹を亡くして一人ぼっちになった事、これから先どうなるのか、俺には全く想像がつかない事。その悲しみと驚きは俺にはまだその事実を認識しきれない。
 今はもう夕方だろうか、病院の夕食と共に孝明おじさんが入ってきた。
「どうかね、幾分気持ちは落ち着いたかね。君には大変不幸な事だが、命に別状無かっただけ幸いだよ」
 その言葉に軽く首を振る俺。そしておじさんからの言葉にぽつぼつと事情がわかってきた。
 俺の親父の居眠り運転で車が道路脇の電柱に激突した事。三人即死の中、俺は妹の杏奈の下敷きとなって打撲と腸の破裂だけで命を取り留めた事。そして俺が目を覚ましたのは事故の四日後だった事。密葬だが既に両親と杏奈の葬式を終わらせた事。
 妹の杏奈のおかげで命を取り留めたらしい。昨日孝明おじさんの屋敷でのあの笑顔が脳裏に浮かび、思わず俺は目を覚まして以来始めて目頭を押さえる。
「それでなあ、今後なんだが、取り急ぎ右京君をうちで引き取る事にしたんだが、いいかね…」
 一人ぼっちになった俺には願ってもない事だ。断る理由ない。
「ありがとうございます。宜しくお願いします」
 目頭が赤いまま、俺は孝明おじさんに頭を下げた。
 
 孝明おじさんの京極家は鎌倉でも代々続く名家で、俺が入院していた病院も孝明おじさんが出資している所だった。他にもいくつか会社を持っている。だが子供が出来なくて弟である俺の親父の娘、俺の妹を養子に貰ったらしい。流石に長男の俺を貰うのはためらわれたらしいが。
 翌日、どうやら日付は五月四日。俺が事故に会ったのは杏奈を迎えに行った四月三十日だから、もう入院して五日だ。まだ少し痛むお腹をさすりつつ松葉杖をつきながら病院を後にし、孝明おじさんの秘書の広瀬美樹さんという女性と、大澤源三さんという孝明おじさんの執事みたいな初老の男性に黒塗りのシーマで連れられ、向かった先は鎌倉に有る孝明おじさんの別邸。そこは杏奈の居住先だった所だ。
 途中孝明おじさんの秘書の広瀬さんに今後の事とかいろいろ聞いてみたんだけど、俺が引き取られる話は突然決まった事だからと何も教えてくれなかった。只、俺の実家の物は全て処分の方向で進んでいる事、そして俺の通ってた高校には既に退学通知が出されていた事。
「なんだかさ、その…俺の立場ってもう無い訳?」
 とうとう不満げに呟く俺に、二人は何も答えてくれない。
 病院の有る横浜から高速に乗り、そして葉山へ。晴れた初夏の海は見てて気持ち良いはずなんだが、俺は両親と杏奈と最後に見たこの風景は悲しい思い出にしかならない。
「ねえ、事故の有った場所はどこなの?」
「右京君が落ち着いたらお話出来ますよ」
「そうですか…」
 車は海沿いの道から山の方へ向かうT字路。暫く山道を登っていくと到着した物静かな山間の大きな旧家。元は江戸時代から続く武家屋敷だったらしい。大きな木の門から車が入っていくと、孝明おじさんが迎えに出てくれていた。
「あの、宜しくお願い致します」
 松葉杖を突き殆ど荷物も持たない状態でここに来た俺の背中を、屋敷に招き入れる様に孝明おじさんが押す。
「とりあえず。杏奈ちゃんの部屋を使ってもらおう。部屋はそのままだけどね」
 その部屋はゴールデンウィーク初日、俺と杏奈、俺の両親が孝明おじさんや昌子おばさん達と最後に談笑した思い出の場所。がらんとした屋敷に冷たい空気とうっすらと檜の香りがする中、通された主を失ったその部屋はあの時のままだった。
 入院による体力減少と車の長旅で疲れた俺は、早々杏奈の残り香のするベッドの上に失礼させて貰った。
「休んでいた分仕事が溜まっていてね。申し訳ないがこれで失礼する。後は大澤と広瀬にお願いしてあるからね」
「はい、いろいろご迷惑おかけします」
 部屋からおじさんが出て行くのと入れ替わりに、大澤さんと広瀬さんが入ってきた。
「ご気分は如何ですか」
 老執事に穏やかな口調に
「いえ、全然問題無いです」
 と答える俺。只、俺はさっきから気になる事を尋ねる。
「あの、俺の両親とか杏奈の仏壇とか無いんですか?俺まだ線香一本上げてないし…」
「あ、あの…」
 俺の問いに広瀬さんが何か話そうとしている。
「右京さんのご両親の仏壇は、本家の方にあります。当京極家の仏壇内に祀られております。元気になられてからお参りに行かれればよろしいかと」
「わかりました。杏奈もそこに?」
「いえ、杏奈様は…」
 途端言葉が止まる広瀬さん。それを横目で見ながら、大澤さんが大きく深呼吸したのがわかった。
「杏奈お嬢様の仏壇は、ございません。なぜなら杏奈お嬢様は、今私の目の前におられます」
 俺はぎょっとしてあたりを見回したが、当然誰もいない。
「どういう事…ですか」
 そう言う俺に、大澤さんは着ているスーツのポケットから一枚の紙を取り出して俺に見せる。それは何かの新聞記事のコピーだった。小さな三行記事だったが一目見て俺達の事故の事だとわかった。保土ヶ谷バイパスにて自動車が照明灯のポールに激突、一家四人死傷。そして、衝撃的な事が書かれていた。
「これ、どういう事なんですか!死んだのは俺の両親と、右京って…俺じゃないですか!杏奈は重体って…」
「旦那様(孝明)の、お計らいです」
 震える手に持つ記事のコピーを見つつ、俺は何事が起こってるのかわからず只呆然としていた。
「旦那様は杏奈お嬢様をそれはそれは大切に扱われておりました。。旦那様と奥様にとっても、当京極家にとっても杏奈様は大事なお嬢様であり、公私に渡り多くの方々にも認められて参りました。今、杏奈様を失う訳には」
「だ、だからって、こんな事許されると…」
 俺はふと我に帰り、孝明おじさんを大声で呼んだ。しかし、
「旦那様は、奥様とたった今英国に出張されました」
「いつ帰ってくるんだよ」
「さあ、当分は…」
 そんな馬鹿馬鹿しい事!俺はベッドの布団を足で蹴飛ばし、足の痛みを我慢して降りようとした。しかし、大澤さんにがっしり捕まえられてしまう。
「右京様には申し訳ありませんが、屋敷のこの一角はロックされております。監視カメラも二十四時間稼動しております。かくを申す私も、今は執事を営んでおりますが、元はボディーガード業からここまで成り上がった者でございます」
 大澤さんは右手一本で、部屋のドアへ向かおうとする俺の動きを完全に止めてしまった。それを見た広瀬さんが始めて口を開く。
「今の右京様の気持ちもわかります。数日はご静養を…」
「うるさい!うるさいうるさい!」
 大澤さんにベッドに押しやられながら叫ぶ俺。と、その時、
「大変ですぅ!」
 部屋のドアから紺のミニのスーツ姿の可愛い女性が飛び込んでくる。見覚えがある。杏奈を実家に連れて帰る当日の朝、杏奈と共にいろいろ談笑した、京極家の事務兼お手伝いさんの水村五月(めい)だった。
「右京さん!これ着てこれ被ってくださーい!」
「な、何すんだよ水村さん」
 ベッドの俺の横に駆け寄り、なにやらウイッグの様な物を俺の頭に強引に被せようとする水村さん。
「何事ですか?」
「旦那様が行きがけにとうとう許しちゃったんです!あの、毎日押しかけてきた杏奈様のクラスメート達を屋敷の中に入れるのを!」
 大澤さんの問いかけに、抵抗する俺の手を必死で押さえながら水村さんが答える。と、広瀬さんも無言で水村さんから白地に花柄のパジャマの上着を手に取り、俺に着せようとする。やっと俺のまわりで起きている事が恐ろしい陰謀だとわかった。俺を杏奈の身代わりにする気だ!
「嫌だって、言ってんだろ!」
 とその時、部屋の大きな窓ガラスから見える池の向うにある渡り廊下、それは俺が今いる杏奈の部屋に通じる廊下だが、そこに大勢の俺と同じ高校生らしき奴ら。ベージュのブレザーに男は紺のネクタイに紺のチェックのスラックス、女は赤のネクタイに赤のチェックのミニスカート。
 そいつらが渡り廊下に向かって向こうの母屋の廊下を走ってくる。
「げ!」
 と俺が声を出し油断した瞬間、俺の頭には花の香りのするウイッグが被せられた。
「着せてる暇ないわ、羽織らせよう。水村さん、廊下の手前であの子達を止めて来て!」
 部屋を出た水村さんは程なく渡り廊下の途中で、向かってくる高校生の一段と鉢合わせ。
「ここから先はだめです!杏奈様はまだ重体で面会謝絶…」
 防音効果もあるのだろうその厚い窓ガラスのせいで、小さく聞こえる水村さんの声、そしてその声は杏奈のクラスメート達の歓声にかき消される。
「杏奈!杏奈!元気か!」
「元気出せよ!」
「早く戻って来い!」
 男子達の前では、手にお見舞いの花束を持った女の子達がキャーキャー騒ぎ、そして全員泣き出す始末。
「杏奈…、右京さん、ほら笑って手を振ってあげて」
 女物のウイッグを被せられ、花柄のパジャマを羽織らされた俺は、遠目には杏奈に見えたんだろう。あっけに取られたが、とうとう無意識に笑顔を作り、軽く胸元で手を振った。と女の子達の歓声が更に大きくなる。
「杏奈!元気出しなよ!」
「すっごいやつれたね」
「バカ!あいつの身にもなってやれよ!家族みんないなくなったんだぞ!」
「そうだったごめん!」
 口々に窓ガラス越に声援とお見舞いの言葉を送る生徒達。高校では杏奈って、こんなに人気物だったんだ。と
「皆様、お気持ちはわかりますが、杏奈様はまだ面会謝絶です。お体もお心もまだまだ傷ついたままです。今日はこれでお帰りください」
 頃合とみたのが、杏奈のクラスメート達に水村さんが諭す。
「わかったわかった!杏奈の顔みただけでいいぜ」
「フレーフレー、あ、ん、な!ガンバレガンバレ、あ、ん、な!」
 やたらとノリの良い一人の男子の古典的な声援に皆が声を合わせた後、再び俺に向かって手を振る彼ら。俺も思わず作り笑いを浮かべ、胸元で小さく手を振った。
 女の子達は指で涙を拭いた後、水村さんに花束を手渡し、そして皆何度も俺の方を振り返りながらようやく屋敷の渡り廊下から去っていく。
「どうすんだよ!杏奈完全に生き返っちまったじゃねーかよ!」
 俺はウイッグをベッドの布団に叩きつけ。両手で頭をかきむしった後、顔に手を当てる。傍らでは水村さんが女子生徒から手渡された花束を、大きな花瓶の中に移し替えていた。
「右京様、とにかくあなた様の今後の事、よくお考えください」
 そう言って丁寧なおじぎをして、大澤さんはなにやら広瀬さんに耳元で小声で何か話した後部屋から出て行った。
 広瀬さんは何か思いつめた顔をして天井を見つめた後、俺に話し始める。
「右京様、たった今よりあなた様を杏奈様とお呼びします。水村さん、着替えを…」
「だから!俺まだそんなおかしな事認めてないしさ!」
「でないと、ここを出て行ってもらう事になります」
「いいよ!出て行きゃいいんだろ!」
「ですが、右京…様は既にこの世の中にはいない事になっております」
 水村さんが持ってきた着替え、俺がさっき羽織ってたパジャマの上下に、隙間に見えるのは、あきらかにそれとわかる女物の下着!差し出されたそれを軽く手で払いのけて、頭に手をあて、あさっての方向を向く。
「いいさ。出て行って警察に駆け込んでやるさ。そしたら…」
「多分、こちらに連れ戻されるでしょうね」
 広瀬さんの言葉に、俺はあの新聞記事の事を思い出した。多分警察と新聞社は孝明おじさんとつるんでたんだ。
「それに、もう京極家も、そして右京…さんも、もう後には引けないんです」
「え、俺の事?ふん、ここ出ていってもどうにだって生きてやるさ!」
 もう完全に俺はふてくされ状態。しかし、横にいた水村さんの言葉を聞いた時、俺の頭の中は一瞬真っ白になった。
「右京さんは、もう、半分女の子なんです!」
「…え、何?」
「右京さんのお腹には…、右京さんのお腹にはね!死んだ杏奈さんの!杏奈さんの…、卵巣と子宮が移植されてるんですっ」

 杏奈のベッドの上でふと我に返る俺。あれからの事は覚えていない。ともかくおれはあらん限りのわめき声と共にまだ不自由な体で広瀬さんと水村さんを部屋から追い出し、たまたまあった内側からかける鍵をとっさにかけ、さらに手近に有った杏奈の衣装ケースや何かのダンボール箱をドアの前に積み上げた。そしてなにやら部屋の中を探し回ったのは覚えてる。
 そしてどうやら、杏奈のクローゼットから何かの紐を取り出し、部屋の梁に首釣り用の紐を作っていたらしい。
ベッドに寝転がりぼーっとそれを見つめる俺。部屋の窓の外では窓ガラスを叩きながら何か叫んでる広瀬さんと水村さんの横に、大澤さんまで加わり何か俺に話しかけてる様子。
 多分もう昼すぎだろう。俺はもう男じゃなくなったって事なのか。あまりにもひどすぎる。俺の存在は社会から全く消され、あげくのはてに杏奈の体の一部を…。
(早く首吊っちまえ!こんな侮辱耐えられねーだろ)
 心の奥で何かが囁くが、俺の体は死への恐怖で固まって動かない。俺と大澤さん達の窓ガラス越しのにらみ合いは続いていた。
 そしてその最中、屋敷の外にボルクスワーゲンビートルの停まる音と共に、あの女がやってきたらしい。

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