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叢書 わが沖縄

『叢書わが沖縄』谷川健一編 第6巻「沖縄の思想」

沖縄における天皇制思想


川 満 信 一



(一)

 第二次大戦の結末が原爆による広島・長崎の壊滅、非戦闘員の死まで賭けた沖縄戦、空襲による都市の廃墟化などによって、一部では決定的な敗戦として受けとめられ、他の一部には単なる終戦にとどまるものであったとしても、満州事変にはじまる15年戦争に仮託された日本国民の歴史目的の一大挫折であったことには間違いないわけで、このような歴史的挫折を経て、なおもかつての国民理念の結節点としての天皇(制)思想が、十分な分析と批判をなされなかったとすればそれはむしろおかしいことであろう。
 当然ながらわたしたちは戦後、天皇(制)に対する多くの批難や、天皇(制)に関して論究した数多くの著書に接してきた。そして、今では幾多の傑出した先達の論究によって、思想的にはすでに天皇(制)が乗り越えられたものとなっていることも知っている。天皇(制)が絶対的な支配力を持ち得た根拠や、その歴史過程、多様な要素についてもほぼ論じつくされているように思う。そしてさらに、天皇(制)成立の基盤となった豊耕社会の生産構造から高度工業生産構造に移行した現代の日本で、かつてのような絶対イデオロギーとしての天皇(制)思想が国民的イデオロギーとしていま一度支配力を復活し得る可能性はない、といった吉本隆明氏の説についてもそのとおりだろうと思う。ただ納得のいかない点があるとすれば、その拠って立つ土着的根幹性を失なってしまったにもかかわらず、たとえば憲法にみられるように法制度的には以前といくらも違わないかたちで天皇の位置づけが引き継がれているのはなぜか、といったことである。この疑問についてもすでに答は出ているかもしれないが、わたしには依然としてわからないし、さしあたっての主題ともはずれるのでさけるほかない。
 わたしにとって、さしあたっての関心は、明治に入るまで独自の歴史を辿ってきた『琉球』、さらに戦後、日本国からはずされて米軍統治下に無国籍地帯として置かれてきた沖縄において、国家とのかかわり方や天皇(制)とのかかわり方がどのようなものになっているのか、ということである。沖縄では戦前も戦後も、こと天皇(制)に関する限り、それを思想の問題として正面から論究する試みはほとんどなされていない。
 戦後、本土において多角的に究明された天皇(制)の問題は、ほとんど戦前、戦中世代による自己処罪の位相においてなされたものだが、明治以来の皇民化教育の成熟を極限まで発現した沖縄の戦前、戦中世代は、唯一の国内戦となった沖縄戦で、日本近代史の一大挫折を文字どおり血を浴びて生きのびてきていながら、目撃した大量の死と極限状態における醜怪な人間関係や自ら浴びた血の意味を問いつめて、日本資本主義の実体を構成した天皇(制)イデオロギーの偽意識の根拠を掘りかえし、崩壊させていく思想の営みをなんら形あるものとして表出していないのである。個人的体験に即していえば、明治政府の富国強兵政策にもとずく性急な同化策の方法として強化された皇民化教育の畸型的な肥大の過程で、方言使用の罰札を首にぶら下げながら、滑稽な燕尾服姿の校長が朗唱する教育勅語なるものを拝聴しても、それはさっぱり意味のわからないものでしかなかった。
 いわば馴染みのない祭式の呪詞として聞きながすほかなかったのである。
 白い被衣を着て、神歌をうたいながら村のお嶽で踊る司女(のろ)たちの祭式にくらべて、天皇(制)にまつわる種々の儀式は、いってみれば「異神」の祭として感受されていたように思う。そういうわけで、天皇信仰も天皇(制)思想も、主体のなかに核を形成しないうちに戦乱へ投げこまれたため、なんら血液のなかに澱をつくるものとはなり得なかった。
 戦中世代と違って、天皇(制)イデオロギーを内部の棘として対象化するという必然性を感じないままできたのはそのためでもある。
 しかし、復帰運動に象徴された沖縄の闘争は、昨年11月の日米共同声明によって、その内包していた矛盾を見事に国家の側から顕在化させられる結果になった。そして、大方の見解が一致しているように、日米安保強化の要石として、72年復帰が既設のレールとして敷きつめられることになった。強大な米軍事支配との直接的な摩擦に幻惑されて、国家問題をその主題から欠落させてきた沖縄は、その虚妄点をつかれ、一体、国家とはなんだ、という切実な問いかけに直面するのである。ところで、国家とのかかわりをめぐって、なにかを考えようとすると、どうしても歴史を遡及せざるを得なくなる。そして、まず立ちふさがってくるのが明治の琉球処分であり、琉球処分以降の日本国家、あるいは『本土』とのかかわり方から、第三の琉球処分といわれる72年復帰へと、わたしたちの問題意識は往復運動をくりかえすことになる。
 その過程で、国家の問題と天皇(制)の問題が切り離し難くない合わされていることを知るのである。戦後の国民的反省意識のなかで、日本は多くのすぐれた認識を導びき出した。人々が幻想を仮託するところの憲法もその一つであろう。しかし、それらのすぐれた所産も、いまは汚物をかけられ、腐臭はカンボジアへ、アジア全土へと広がりつつある。
 恥の思想、とさえ表現される程ナイーヴな自律的倫理に支えられているといわれてきた日本の、これが国民性の現実か。しかも、この逆流に竿さすかたちで、島ぐるみと呼ばれた沖縄の復帰運動は、凄まじいばかりの国家求心志向を押し進めてきたのである。そして、いまわたしたちは肥大した国家主義と向き合う瀬戸際まで追いこまれてしまっている。
 つまり、目前にのしかかってきた国家を相対化し、支配のイデオロギーを無化させることによって、国家目的にねじふせられない個々の人民の自立の根を深化させていかない限り、わたしたちの思想は一歩も前へ踏み出せない位置におかれているのである。
 国家を相対化する論理は、さしあたり近代へ遡及して、沖縄の歴史的特質を探り、今日におよんでくるのがた易い方法に思える。その過程で、天皇(制)の問題は、現在的な主題と緊密なつながりをもってくるのだと思う。
 明治政府の琉球処分とは沖縄にとってどのようなものであったか。また沖縄の歴史的条件のなかで、天皇(制)イデオロギーはどのようなかたちで受けとられ、定着していったのか。さらに戦時から戦後にかけて、どのように発現され、残存してきているか。こうした問題を考えることによって、そこから極めてオリジナルな幾つかの問題を連鎖的に引き出すことができるはずである。
 それらの問題について、わたしの力倆のおよばないものは、単に問題提起として投げ出していくほか仕方がない。


(二)

 天皇制の問題に入るまえに、まず明治以降の日本国家と沖縄のかかわり方の特質をはっきり押さえておきたい。
 第二尚王統の琉球統一にはじまる首里王府の支配は409年間続き、1872年(明治5年)、明治政府によって「琉球王国」の国号はけずられ「琉球藩」と改められ、さらに7年後の1879年(明治12年)には日支両属を嘆願する藩王および士族階級に対し、軍隊と警察を派遣してそれを圧え、「廃藩置県」を強行して沖縄の明治国家への吸収をひとまず終ることになった。
 琉球処分の意図を探る重要な手がかりの一つとして注目されるのは1871年に起きたいわゆる「台湾事件」である。つまり宮古から首里王府への献税を運搬する船が、暴風のため漕難して南台湾の海岸に漂着、品物を原住民の牡丹族に掠奪されたうえ、水夫や乗客を殺害された事件である。当時の明治政府と琉球の疎遠な関係からすれば、たかだか宮古島の貿易船の遭難など無視するのが当然だといえよう。ところが、当時朝鮮から明治新政府の承認を拒絶された日本は、対朝鮮政策の危機を深めていたにもかかわらず、急拠方向転換して、この台湾事件に関心を集中させ、その解決策にのりだした。このことは一見、唐突な感じだが、当時のアジア諸国の情勢と関連させてみると、背面からの迂回外交戦略として受けとれるものであろう。すなわち、朝鮮政府は不安定な状態にあったとはいえ、正面から武力で威圧するには日本の側の準備ができていなかった。
 同時に、シベリアの方からはロシアが朝鮮、満州へ侵略の手をのべつつあり、朝鮮との正面衝突は、満州やロシアとの戦争へ拡大される危険性をもっていた。それだけでなく、中国の朝鮮への加担という動向を誘い出す恐れもあり、また西欧列強に外交上の誅策をとらえる危険性もあった。こうした行きずまりのなかで、この台湾事件は迂回外交戦略として最大に利用され、同時に琉球への直接干渉の口実をつくった。
 しかも事件は琉球側の陳情に端を発したものだが、その後の損害賠償やそれにからむ琉球の帰属問題など、肝心の琉球側の意志は介入する余地を与えられなかった。このことは昨今の日米共同声明による復帰問題の処理の仕方と見事に符牒を合わせるもので、国家権力の支配の方法は歴史的に一貫したものとなっているといえよう。
 事件をめぐるもう一つの重要な意味は、中国をはじめとする欧州列強に対する「防衛」の問題である。G・H・カーは『琉球の歴史』のなかで「日本の防衛地域としてかくも危険な地点を、薩摩の手にゆだねて間接的な統治方法を行っていたのでは、冒険をおかしているのと同様であった」「中国が、1871年に宮古の漁夫の蒙った被害を償わなかったことは、海外における武力の必要性を唱えていた士族たちに、待望の口実を与え、同時に、帝国の国境確立を期していた政府の指導者たちの関心をひくに至った。」と述べている。
 説明するまでもなく日本国家にとって琉球・沖縄は国内矛盾を外へそらすためと、国家防衛の前哨砦として歴史的に必要とされ、同時に対外侵略の拠点として利用されてきたにすぎないということである。琉球処分をめぐる解釈では、一般にこうした国家目的が過小に解釈されるか、あるいはぼかされてきたように思う。
 たとえば「明治政府の『琉球処分』の最大の眼目は、日本の近代的中央集権的国家体制の中に沖縄を包摂することにあった。」というのが歴史家の一般的な解釈だが、結果的にはそうであっても動機としてはどうしてもひっかかりが出てくる。
 もし単に国家体制への包摂が眼目であったとしたら、その後における明治政府の沖縄政策は合理的に理解し難いのである。

 沖縄の廃藩置県は、「琉球処分」という迂余曲折を経て、明治12年に断行された。本土諸藩におくれること、8ヵ年であった。さらに、置県後においても、諸制度の改革は、すべておくれている。
 本土諸府県においては、明治21年(1888年)市町村制が、明治23年(1890年)府県制、郡制が公布された。これにくらべて、沖縄では、明治41年(1908年)に、特別町村制が、明治42年(1909年)に特別県制が施行された。本土諸府県におくれること、ほとんど20年、しかも、完全な自治制でなく、特別自治制であった。特別制度が廃止されて、諸県なみの府県制、市町村制が施行されたのは、大正9年(1920年)で、実に、置県以後、42年という半世紀に近い長年月を要している。
 沖縄の土地整理は、明治32年(1899年)にはじめられ、明治36年(1903年)に完成し、ただちに地租改正が行なわれた。本土では、明治5年(1872年)に土地整理が実施され、翌明治6年から地租改正が行われ、明治14年(1881年)にほぼ完成しているので、沖縄は、約20年おくれたことになる。(中略)各戸の地租額の決定は、衆議院議員選挙権決定の基準となり、沖縄県民は、これによって、はじめて、国政に参加する機会を得たのである。
 ところが、沖縄県民の衆議院議員の選挙権、被選挙権付与はなかなか実現せず、ようやく、明治45年(1912年)になって、選挙権、被選挙権が認められ(宮古、八重山では1919年から)、貴族院議員選挙権は大正7年(1918年)に認められた。本土に比較して、25年から30年もおくれて、はじめて、国政に参与する権利が与えられたのである。


 以上は安里彦紀氏の「沖縄教育の近代化を阻んだ歴史的要因についての研究」(琉大紀要論文)から引用したが、ここでみられる明治改革諸制度の沖縄への施行年月の大きなずれは一体何を意味するのだろうか。
 もし琉球処分が、動機的にみてことばどおりの日本近代国家体制への包摂を眼目としたものであったとしたら、置県とともに法およびその他の諸制度の同一化が断行されなければならなかったはずである。しかしながら、明治国家の錦の御旗である「富国強兵」の富国政策は沖縄においてはほとんどどうでもよいようにないがしろにされ、ただ強兵政策だけは置県の翌年(明治13年)から急ぎ断行されたのである。すなわち「国家権力に対して、民権論を以て抵抗し、国家社会体制の変革を求めるような批判的人間を根絶することを意図し、天皇制国家に従順にしたがい、かつそれを形成するにふさわしい意識をもった人間形成を目ざす教育思想」の強制的実践であった。
 こうした明治改革の片手落ちは、当時の士族出のインテリ−太田朝敷によって、「廃藩置県も名のみであって、県政の内容は殆んど旧制据置きで、改革の実を挙げたものは県の職制位のもの」「旧慣旧制を踏襲した県当局が、唯り教育に限り断然革新の方針」をとったのはどういう理由によるものか、と批判されている。
 明治政府の廃藩置県によって、島津と琉球王府の二重貢租からまねがれると期待し、“世がわり”として置県を受けとめた民衆は、むなしく期待をウラ切られ、王府の頃の貢租となんら変わらない負担に呻吟し、そのうえ・ヤマトフウ・にかわっていく役人によって物質的にも精神的にも、いよいよ身を屈していかなければならなかった。
 もともと明治政府の政策として、旧支配者層の社会的地位の確保は沖縄でも同じく実施されたが、たとえば教化政策を通して現われたように、琉球内での士族、平民の関係は問題ではなく、いずれも化外の民として身分の上下は無視されたため、下層民衆とはまったく違った理由で元士族の遊民階級たちによる不平も当然起きてきた。これに対して、明治政府はひたすら沖縄人の因習打破、皇民への同化、国家への忠誠心のかん養をはかるべく教育の強化策を遂行したし、沖縄側も非常に屈折したかたちでこれに対応した。
 歴史家のなかには、明治政府が沖縄の県政改革を遅らせたのは、旧支配層のなかに中国派をはじめとした強い反日感情があったためだとする見方もある。しかし、これは御用学者の見解であろう。生産基盤への改革策には手をつけず、文化上層のみを変えようとした明治政府の沖縄への構想からきたものであることは、教化政策の強行実施、国王を人質として東京へ移した強行手段などと比較した場合、明らかである。
 要するに、県政改革が遅れたことは、琉球処分が、単なる国家体制への包摂とか、民族統一の要諦からきたものではなく、あくまで当時の危機的な国際外交の舞台で日本の地位の優位性をはかり、国力を拡張していくための手がかりとして活用するという国家目的にあったからだととらえる方がすっきりする。
 その点、G・H・カーの視点は鋭く、妥当なものだといえよう。1872年(明治5年)には、琉球の中国との朝貢(貿易)関係を禁止しておきながら、1879年の東京・北京談判では「中国における日本の通商優先権を北京が拡大してくれることを希望し、これらの通商機会を作ってくれるのとひきかえに、八重山と宮古を中国に引き渡すこと」を申し入れ、琉球をして「国際的対外政策勝負の抵当物」に扱ったのである。このことは第二次大戦後における日米国家間の一連の取り引きを想起させずにはおかない。とくに72年復帰の態様をめぐる政府内の意見として、沖縄本島のみを残し宮古、八重山を分離返還させるなどの方法が出てきたりしたのは国家というものを考えるうえで見落とせないことであろう。
 「もし日本が大島から南の貧困に喘ぐ島々と引きかえに、中国内地との有益な通商を譲り受けられるなら、経済的にも感情的にも日本にとって障害となる何物もなかった。」というG・H・カーの見解をとるとすれば、対中国関係が落着し、国際外交のうえで名誉を得た日本国家にとって、廃藩置県後における沖縄の制度改革や民生問題はどうでもよいことではなかったのか。ましてや首里支配階級を中心とする煩らわしい改革反対派がいるのだから。……「土民旧来ノ慣習トナルモノハ勉メテ破ラザルヲ主トシ」「将来ノ県治ニ於テハ決シテ美治ノ急施ヲ要ス可ラズ」(松田琉球処分官の政府進言)といった放置政策も当然ではなかったろうか。
 こうして歴史解釈のうえで、個々の事象の背後に冷徹に貫かれていく国家目的をいささかの曖昧性も許さずにつかみとるとき、そこからわたしたちの歴史を止揚する可能性の視点が拓かれてくるものと思う。
 もう少し、台湾事件にこだわってみよう。当時の内務大臣大久保利通は、この事件の処理に関係して、沖縄の使節を東京に呼び、会談において国際情勢の急変を説明し、再組織が必要であるとして、琉球も新しい時代に呼応するには、因襲的制度を、近代化する必要があると強調、5項目の要求を出すとともに「琉球国民を保護するために、守備軍が沖縄に駐屯することになった」と伝えた。
 そして事件の被害者には救済米を、沖縄には能率的連絡船を給与すると恩を垂れた。
 しかし使節たちは、@軍備することにより、沖縄が敵国の注目を浴び、外国勢力が武力を行使するようになる。A連絡船の件は県政の損失上から保持できないし、代償支払いもできない。B事件の被害者には琉球自体ですでに補償した、と迂遠に大久保の申し出をことわった。薩摩藩士で固められた明治政府にとってかつての属国たる琉球・沖縄がこのような態度に出ることは伝統的にも許し難い懲罰ものであり、大久保はこの島津隷属者の分をわきまえない振舞いに対し「宮廷−天皇」を持ち出して最後通告をしたのである。
 沖縄を日本国の防衛前哨線とするのは絶対的な国家目的だったから、守備軍の沖縄駐屯は強制命令として断行されるのだが、そこから沖縄戦へ直線を引き下し、さらに72年復帰以降の自衛隊駐屯へと線をのばすとき、国家の軍事目的と沖縄の関係は自ずから明確に浮びあがってくる。日米安保体制の強化による対中国関係のクローズアップ、日・中間の軍事的危機を一層深めることを予測される沖縄基地の復帰後における機能、といったことを考えるとき「思想」のカテゴリーにおいてはたとえ情況主義者として冷笑を受けるとしても、そこに国家目的の歴史的な冷厳な貫徹を見る以上、わたしたちは宿命的な「情況主義者」からなかなか身をもぎ離せないのかも知れない。
 明治国家の外交と軍事−つまり海外侵略への基礎固めという目的を「琉球処分」のなかで正当に位置づけるとき、沖縄の明治インテリたちが疑問とした県制改革の遅滞と教育遂行のずれの問題ははっきりしてくるし、いわゆる「沖縄学」において評価の混乱をきたしている琉球処分についても、歴史を止揚していく視点からこれを位置づけることができると思う。
 たとえば、琉球処分をめぐる代表的な研究者たちの説は、@島津の琉球入りは、民族統一志向というよりも藩としての侵略による沖縄の奴隷化であったが、琉球処分は一種の奴隷化解放であった。A一種の奴隷解放とみるのは正確ではないが、封建的閉鎖経済から一国単位への現代経済への脱皮であった。B明治の改革は、少なくとも客観的、歴史的には、ある意味での解放を意味した、という三つの解釈に大別される。
 いうまでもなく、ここには歴史(学問)に対する客観主義が、近代日本の学問的伝統として色濃く投影しており、現実に対応する主体の思想性が希薄なため、琉球処分以降における沖縄近代史の苦悩を止揚していく力を欠いたものとなっている。すなわち国家支配の論理を相対化し、それに打ちかつことによって国家をも乗り越えていこうとする個々の論理の端緒が導き出されてこないのである。
 さきにふれたように、琉球処分が近代国家への包摂であり、保留附きの解放だったとしても、そういう視点でのとらえ方は歴史に対する結果論であって、歴史を織りなしていく歴史主体論の視点にはならないはずである。
 「明治の改革」は、中央においてはなるほど新興ブルジョアジーを中核とする文明開化であり、経済的力の躍進であったが、沖縄では「旧慣温存」策による棄民的県政によって、経済の構造は明治中期から末期におよぶまで放置されたはずである。そうした明治国家の沖縄政策に対して、沖縄側から盛んな不満や不平が出、あるいは一部の識者たちによってその窮状が公開され、あるいは政府へ進言される過程で、明治政府は国家目的としてはさほど重要視しなかった沖縄県政の改革に少しずつ手をつけていったことははっきりした史実の示すところである。さきにあげた制度改革の年代的ずれはそうした国家の意志の所在を示すものといってよい。
 すでに日本は近代資本主義に移行し、搾取形態は封建的搾取方法にとって変ったにもかかわらず、その搾取に対応する沖縄の生産構造は、旧王府の頃と変らない旧態依然の低生産性農業であったため、時がたつにつれて公税その他の国家的搾取は下層農民にとって負荷に耐えないまで苛酷なものとなった。下層民の窮状は極限に達し、たとえば大正期になって明るみにされた、「そてつ地獄」の状態に追いこまれていた。沖縄のなかの最下層民である宮古島の農民は1893年(明治26年)農民運動を起し、国会へ請願団を派遣、それによってはじめて明治政府は沖縄の諸制度改革に手をつけることになる。
 沖縄内の県当局の支配をとび越えて、あらゆる弾圧を承知で国会請願に赴いた宮古農民の運動が、沖縄県諸制度改正法案取調委員会の設置を実現させ、租税制度改正ほか土地整理に踏みきらせることになった、という歴史事実は、「明治の改革」すなわち国家が上から沖縄の奴隷化状態を解放したのではなく、最下層農民(宮古・八重山の農民は重疎外されている)が、自らの被支配者としての秩序意識に叛乱を起し、歴史をつくる主体として奴隷の状態から自らを解放していく契機をつくったということである。ここから歴史の主体を国家意志やその目的においてのみとらえるのではなく、被支配民衆の最下層の生存様式においてとらえていく視野が拓けてくる。
 こうした宮古島の農民は、廃藩置県前後においては「サンシー事件」といわれる保守反動事件の暗黙の共鳴者かあるいは傍観者でもある。サンシー事件とは置県による大和人、つまり明治政府の支配に反対して旧在藩小役人たちが血盟し、新設の警視派出所に傭われた1人の島人を私刑で惨殺した事件だが、このことはまえの国会請願と関連して、民衆の存在の仕方を示す典型的な事例だといえよう。
 つまり、この二つの事件でみられる民衆の反応の仕方は、民衆の生活思想が国家意志、あるいは支配者意志の相似的反映として規定づけられている、ということであり、また吉本隆明氏が、時の支配者の支配方法と様式が、大衆の即自体験や体験思想を逆さに映した鏡である、といったことと関連する。
 琉球処分は辺塞の民に「聖天の徳」「御陵威」をゆきわたらせるものとしてなされ、人々は一種の“世がわり”として、すくなくとも初期の頃は明るい期待を持った筈である。そして、その明るい期待が、現実化しない度合に応じて「聖天の徳」への救済幻想は逆に力を持った。それが「国会請願」を支えた農民たちのエネルギーであったといえる。一方、サンシー事件を暗黙し、傍観したのは、旧支配者の思想と相互規定の関係を残存させながら、同時に“世がわり”にも期待を持つ民衆の狡智からきたものとみてよい。
 物質的根拠、あるいは経済構造のうえからは階級としての支配と被支配関係をとりながら、生活思想のうえでは「差別」関係をとらない、ということは階級関係イコール差別関係という、これまでの革新通念では理解し難い点かも知れない。宮古の農民運動を指導した中村十作や城間正安は、農民たちの生活思想の擬態をとりながら、農民たちが生活思想をとび越え、超農民の観念や幻想を獲得した時点で、はじめて農民との間の内的差別関係を解消するのである。通常、農民が発現しないラジカルな可能性を彼らの思想としたとき、即自的な農民の生活は擬態になり、それによって農民との間の内的な差別関係をカムフラージュすることになる。
 そこからなんらかの意味を見い出すなら、時代の最下層で恒常的につむぎ出されているところの被支配者(自らの「根」としての民衆)の背叛する倒錯の幻想に執拗な論理を切りこませていくことによって、わたしたちは歴史の全体性に肉迫する思想を持ち得る、ということだろう。
 つまり、支配のヒエラルキーヘ上昇する志向によって、自らの秩序感覚に安定しようとする民衆の恣意性を常に相対化していく論理のなかに変革への可能性を探らなければ、絶えず「変革」の擬制に慣らされてしまうところの秩序感覚のなかで安定し、革命のつもりで国家目的の強力な遂行者となる、ということである。
 「琉球処分」をめぐって論じられた大方の歴史家たちの思想は、同一民族、同一国家という同化の概念に呪縛されて国家の枠から一寸たりとも首をのぞかせようとしなかったために、発想の様式として絶えず本土(国家)を相対化する志向を持ちながら、日本(本土)の歴史とずれた位置で成りたってきた琉球・沖縄の歴史を思想構築のたしかな礎とした国家論への展望をひらいていけなかった。同時にそのことは日本(本土)のなかの差別地域として沖縄全体を無階級的にとらえた「差別論」を成り立たせ、沖縄内部の思想的頽廃を決定的にする要因ともなっていくのである。
 わたしたちは、こうした被支配者の自己倒錯の幻想を執念深く論理で攻めたてるという方法をとることによって、国家とか地域社会といった偽善的な全体性を上位の価値観とする思想を覆滅し、その無効性を証しだて、そうすることで沖縄近代史の卑小性を断ち切る方途を見い出していくだろう。
 沖縄の近代史を思想化しそこねて、国家体制への埋没志向にすぎない民族独立や、たかだか国政参加要求、保守か革新かの立候補者選定に迷い悩むような情況的盲目主義に対し、きっぱり訣別するところから沖縄のこれからの思想は出発するものと思う。


(三)

 官僚カリスマと皇民化教育のなかで、沖縄の知識層が天皇(制)イデオロギーをどのように発現したかの好例として明治44年、沖縄へ講演にきた河上肇の舌禍事件をあげることができる。大田昌秀氏は「沖縄の民衆意識」でつぎのように紹介している。
 沖縄の旧地割調査のため来島した河上肇は、県当局の依頼で「新時代来る」と題して近代文明の潮流を語り、社会主義思想にも言及したが、そのなかで沖縄のことにふれた。


 余が沖縄を観察するに沖縄は言語・風俗・習慣・信仰・思想その他あらゆる点において内地とその歴史を異にするがごとし。而してあるいは本県人を以って忠君愛国の思想に乏しという。然れどもこれは決して嘆ずべきにあらず。余はこれなる為に、却って沖縄人に期待するところ多大なると同時にまた最も興味多く感ずるものなり。(中略)今日のごとく世界において最も国家心の盛なる日本の一部に於て、国家心の多少薄弱なる地方の存するは、最も興味あることに属す。如何となれば、過去の歴史について見るに時代を支配する偉人は多く国家的結合の薄弱なるところより生ずるの例にてキリストのユダヤに於ける釈迦の印度に於けるいずれも亡国が生み出したる千古の偉人にあらずや。(後略)


 この河上発言に対し「琉球新報」は翌日の社説で「河上助教授が本県民を指して忠君愛国の誠に欠けたると言い、さらにユダヤ、インドの亡国民の如く評下したるは本県民の面上に三斗の啖を吐いたも同然、聞き捨てならん」といきり立ち、さらに予定されていた講演も「沖縄県民は、この人から再度何等の言を聴く要はない。非国民的精神を鼓吹する彼のごとき人は日本帝国に存在する必要はない。」とついに取り止めさせたという。
 ここで河上肇が彼の社会主義理論を基底にイメージしているものは、歴史的条件によって天皇(国家)絶対主義の滲透をまだ受けつけていない化外の民衆のなかにあるもう一つの可能性であったといってよい。だからこそ国家目的と癒着した琉球新報の社説は頑強に排撃したのである。河上肇の発言は全く別の視点から糾弾されなければならなかった。
 明治13年から実施された沖縄の皇民化教育は、下からの選民志向(権力への上昇志向)を誘発するかたちで実績を収めていったが、半面「明治の改革」がさきにも指摘したようにいい加減なものだったため、底辺においては選民志向と生活の重苦の裂け目を大きくしていった。当時の琉球新報で社説を書いている人たちは、旧慣温存によっていち早く明治国家の恩恵を受けたか、あるいは士族外でも比較的恵まれた農漁村の家柄の出身である。つまり彼らは下層民衆の選民志向の現実化としての社会的位置を占めていた。いいかえれば天皇(制)国家の上等兵ないし下士官候補クラスとして、もっとも盲目な天皇(制)絶対主義者だったのである。
 久野収、鶴見俊輔共著の「現代日本の思想」(岩波新書)では、天皇(制)教育の巧緻な二重の仕組をつぎのようにのべている。


 ……国民全体には、天皇を絶対君主として信奉させ、この国民のエネルギーを国政に動員した上で、国政を運用する秘訣としては、立憲君主説、すなわち天皇国家最高機関説を採用するという仕方である。
 天皇は、国民にたいする「たてまえ」では、あくまで絶対君主、支配層間の「申しあわせ」としては、立憲君主、すなわち国政の最高機関であった。小、中学および軍隊では、「たてまえ」としての天皇が徹底的に教えこまれ、大学および高等文官試験にいたって、「申しあわせ」としての天皇がはじめて明らかにされ、「たてまえ」で教育された国民大衆が、「申しあわせ」に熟達した帝国大学卒業生たる官僚に指導されるシステムがあみ出された。


 沖縄では、当初から国家目的としての「強兵」育成の政策が徹底し、中央から派遣された県庁や教育関係の指導者は「たてまえ」信奉者か、あるいは仮に「申しあわせ」としての天皇機関説を了解していたとしても、「土民」を教化するのに「申しあわせ」の仕組まで教育する必要は全くない、と考えるのが当時の状況では自然であったとみてよい。
 したがって沖縄では天皇(制)は終始「たてまえ」としての低級な理解にとどまらざるを得なかった。そうした「たてまえ」としての天皇絶対信仰に対して、一部の識者による批判はあったが、それもおそらく天皇(制)の「申し合わせ」を知ったうえでの批判ではなかったとみられる。結局は、上等兵クラスの盲目的天皇絶対主義と、知識人の日本(本土)国民への同化思想とがない合わされて、ヒエラルキーへの上昇志向を徹底させていった。
 すなわち、彼らは天皇(制)の「申し合わせ」を了解する上昇極の指導者クラスにももちろんなれないし、下層民衆との間にも「選民」としての断絶を持っているために、天皇絶対主義の実体的存在としての役割を果たす位置にあったのである。底辺の民衆が持つところの支配秩序に対するアナーキーな叛乱の可能性は、彼らが「選民」として断ち切ってしまったものであり、そのために河上肇が講演で「沖縄人に期待するところ」として暗示しようとした民衆のなかのもう一面の可能性は、狂的に排撃されねばならなかった。
 そのことは沖縄近代史の過程を醜悪にいろどるところの「差別」の相互関係がどういう位相で成り立ったかを解明するうえで見逃せない点であり、同時に今日まで尾を引くところの「差別」論が、沖縄内部の立体的把握を省みようとせず、思想としての欺瞞性に終始し頽廃せざるを得なかった事実の要因として注目されよう。河上発言をめぐる沖縄の新聞の対応の仕方は、明治国家の旧慣温存政策によって、横すべりに好遇の地位を保障された旧士族や士族外の選民すなわち中間階級(沖縄現地の上層階級)のものであり、沖縄人の「心理」または「意識」一般として普遍化することは、沖縄内部におけるミニマムの支配−被支配の構造を地域的全体性に解消していく非科学的な視点だといえよう。
 このことは戦後の沖縄において、下からの権利要求として高まる民衆の即自的なエネルギーを地域経済の振興という方向にねじ曲げながら、日・米政府の援助増大や外資の導入、あるいは物品税の特別措置による過保護を利用して資本蓄積をはかってきた階級と、それを支える方向へ導かれた大衆運動のあり方を痛苦をもって捉えかえさなければならないという現在的なテーマとも重なってくる。
 沖縄人の『心理』一般とか、沖縄の『利害』一般というものはほとんどの場合ないといってよい。そのような偽意識や幻想をつくり出すのは、全体という名分のもとに特定の目的を達成しようとする特定の階級または組織だけである。かつての蘇鉄地獄の時期においても沖縄内で米の飯を飽食している層はあったのだ、という至極単純な事実から「差別」論の思想的欺瞞性を見破ることはた易いことなのである。
 制度的差別の問題にしても、差別された制度の内側ではその差別のほとんどを下層の被支配者に転嫁していく重層の差別制度が成り立たないという根拠はどこにもない。また制度が改革されても階級社会では改革された制度の施行システムのなかにいわゆる「差別」は活きる。したがって本土対沖縄というような無階層の差別論は、すくなくとも思想としては無意味だし、その方法では下層民のカオスの深みに錘鉛をおろし続けることも不可能だといえる。
 ところでこの河上発言についてはもう一つの反応があった。「沖縄毎日新聞」の伊波普猷とか比嘉春潮氏らの受けとめ方である。
 大田氏の前掲書によると伊波たちの文壇グループは「ただ読者の歓心をうるために学者の説に刃を向ける愚を恥じるべきだ。われわれは琉球新報記者の頭の中にある忠君愛国家たらんより亡国の民といわれるのを喜ぶ」として、「沖縄は未熟な個人が烏合の衆みたいに集っているだけで、50万の群豚は彼のような人物を容れえない。われわれはこの小天地に生れたのを悔み悲しく思う」とコラムで当時の三新聞を批判した。「読者」「琉球新報」「群豚」に対する伊波らの心理的位置のとり方はさきに指摘した「選民」としてのものだが、そのなかには近代の自我意識を萌芽させる知識人のタイプを読みとることができる。
 河上肇の講演は4月で、それより3ヶ月前の1月には大逆事件の幸徳秋水ら12名が死刑の判決を受けたが、この事件に対する伊波の感想は「官憲による思想弾圧への反動であり」力では思想を制することはできないとし、「想うに思想を制するものは、ただ思想のみ。ひとたび健全なる思想にあえば、不健全なる思想はたちまちその光を失いて影を没するにいたらん。」と書いている。
 大田昌秀氏は「日本本土への同化のみを心掛けていた県民にたいし、『西洋に目を向けよ』と呼びかけた点」で、当時の卓越した思想家だと評している。もちろんそこには大田氏の今日的な自己投影があるが、大田氏自身、復帰運動の波にゆすられるまま「国政参加」にのめり込んでいったのは「西洋の知識」にも徹底できず、戦前、戦中の皇民化教育に呪縛されたまま情況に見合った衣装をまとっている自己への切りこみが甘いためだといわれても仕方があるまい。「西洋の知識」によって自分を吊りあげ、土着性、島的ナショナリズムから上昇することによって「未熟な個人」「烏合の衆」「群豚」を俯瞰する知識人のいら立ちや悲しみはわかるとしても、「群豚」そのものがいかなる苛酷な支配の下にあっても自己完結していくところの生活原理の完璧さこそが思想の可能性と不可能性の分岐の基点であることを把えなければ、それはなにものでもない。
 「思想を制するものは、ただ思想あるのみ」といった伊波のことばは一面卓越したものだが、それは自らの内の「群豚」を飼い肥らせ「群牛」へ転生させていく「思想」ではなく、外来の観念体系に過ぎないから、人々の内奥へ転位して、自立的に増殖し、叛乱して支配のイデオロギーを喰い破っていくものとはならなかったし、人々の「選民」への上昇志向と秩序感覚に癒着した当時の新聞の論説者や、幸徳を裁いた官憲のイデオロギーを制するに足る思想にもなり得なかった。
 比嘉春潮氏によると河上講演は「目にみえないところで大きな影響を残し」「はじめて社会主義研究のほんものが足あと」をしるすことになったという。そして、それは大正期のデモクラシー、あるいは無政府主義運動へと引きつがれていくわけだが、所詮は「選民」たちの客気を出るものではなかったことは、大正期にそれらの運動に熱を入れた人々の戦前から戦後にかけての曲折をみれば明らかである。
 支那帰属から一転して、日琉同化に身変わりし、明治国家の目的遂行者となり、「他府県の人士にしていまだなお沖縄を以て蒙昧な蛮境とみなし、県民が誠心誠意同化せんと努力するを排異し圧迫しもしくは劣弱いたらずに媚態を呈する者として侮辱し嘲弄し、県民のこの新気運を無視するが如き者あり。」
 (島袋全発−「新沖縄の建設を如何」)といったように、国家目的の権化と化すことによって、他府県人の「差別」を告発し、同時に自らの「被差別感」を増長して逆に排他的「差別」の垣をつくったこれら「明治の選民」たちは、「40余万の人々を久志国頭の山に追いこめ石油をかけマッチにて点火すれば、さぞ面白かろう。」(当時の新聞のコラム)と琉球人焼殺の悪夢に惰落する。
 国家・他府県人・沖縄の民衆という三者に向けた彼ら「選民」の位置のとり方をみれば、当然にも天皇(制)イデオロギーのもっとも頽廃した観念に身を擬していくほかない必然性を示している。
 官僚的カリスマに吸引されていく過程で、彼ら「選民」たちの日本(本土)への幻想は輪を拡大し、その輪に重なって天皇(制)イデオロギーが定着していった。そして旧士族階層にとっては、旧慣温存による地位の保障によって首里王府との関係を、明治国家や天皇へずらせていき、遊民階層としての保身を全うする。
 彼らは時代に対する情熱を失なっているから、その内実は小心なデカダンスであり、情緒的虚無である。あたかも当時の明治国家の意志を体し、いち早く文明開化に同化したかのような擬態をとって、琉球人焼殺の捨てゼリフを吐いたのは、彼らの時代に対応する主題の喪失からくる虚無的言辞といえる。
 維新時において、天皇(制)思想が知識人に受けとめられる場合は、理念を求めるそれ相応のパトスがあり、またなければならない筈である。なぜなら、それは大衆という一つの全体性のイメージから浮上したものが、彼の世界観や理念の延長上に、天皇(制)思想の包括するあらゆる価値のプールを見い出し、そこにおいて民衆という全体性への合一の可能性をつかみとろうとするからだといえよう。
 知識人の理念の方へ大衆を引き寄せ、幕府や官僚支配、さらには資本主義国家の支配を倒し、天皇制の古代共同体を実現することによって、民衆という全体性との合一を達成しようとするのが、知識人一般にみられる天皇(制)思想の共通なあり方のように思える。


 ……過労と不潔と栄養不良のため肺病となる赤子がある。夫に死なれ愛児を育てるため淫売となる赤子がある。いかなる炎天にも雨風にも左に右にと叫んで四辻に立ちすくむ赤子がある。食えぬつらさに微罪を犯し獄裡に苦悶する赤子がある。これに反し、大罪を犯すも法律を左右して免れうる顕官がある。……われわれの祖先を戦死させ兵火にかけた大名は、華族に列せられて遊惰淫逸し、われわれの兄弟等の戦死によって将軍となった官吏は、自己一名の功であるかのごとく傲然として忠君愛国を切り売りしている。まことに思え、彼ら新華族は、われわれの血をすすった仇敵であり、大名華族は、われわれの祖先の生命をうばった仇敵であることを。


 昭和の超国家主義を抬頭させる神州義団団長、朝日平吾(大正10年、安田財閥の当主安田善次郎を刺殺、自害する)の遺書「死の叫び声」にみられる発想は、多かれ、少なかれ日本で維新時に天皇(制)イデオロギーが再生するときと共通のものではなかろうか。
 「天皇」という「とっておき」を除けば、そこには直接民主主義(一君万民平等)、あるいは「天皇(制)社会主義」とでも呼ぶほかないような変革ないし民衆救済の理念を梃子にしているのである。
 知識層においては旧権力体制に対する批判あるいは打倒のかなめとしてかつぎあげられ、民衆においては現実の窮状から脱却するための救済幻想として「天朝様」のイメージが描き出される。
 古代共同体の実現による全体性への合一、というイメージは、それ自体歴史錯誤であり、思想的錯誤であるとしても、かなり魅力的なものをもっており、国体的な無意識の感性が成り立ってくるのは、その辺の魅力にかかっているのではないだろうか。そして国家がいかに近代的に機能していっても、国家機能の背後に広がる合理性を超えた力が想定されるのは、そうした魅力ある錯誤が人々の内部で恒常的につむぎ出されているからではないか、と思えてならない。しかし、そうした天皇(制)のもつ幻想も、琉球士族出身の「選民」たちには縁のないものだった。
 むしろ問題は、廃藩置県後、教育の門戸が平民に開かれてから、かつての士族階級と肩を並べようとして、中学や師範学校へ進学し“選民”として社会へ出た階層において、天皇(制)思想がどう受けとめられていったか、ということである。
 羽地朝秀らによる日琉同祖論の影響かどうかは知らないが、大和を親国とする考え方はかなり下層の人々においても、琉球処分以前からあったようだ。
 宮古の人頭税の「割重事件」から10年後の万延元年(1860)に起きた、那覇在番奉行への「投書事件」では、すでにそのことがはっきり出ている。稲村賢敷氏や慶世村恒任氏らの研究によると、前島尻与人波平恵教という人が、首里王府による苛政を訴え、その改善策を嘆願した文を薩摩商人に密托し、那覇の在番奉行へ届けようとしたのがこの事件だが、その投書には「当島は往古自立の政を行い来りしものにて、与那覇勢頭中山に服属の途を講ぜしより、其の属領となりしも、用語と云ひ、先祖の由来と云ひ、寧ろ大和に近きものなれば、下々の者皆大和を以て親国と云ひ、これに帰するを喜ばずと云ふ者あらざる也。希くは、此の素懐を大和親国の高官に致し、談合折衝の宜しきを得、悪政に困幣する島民を公道の下に救ひ給はば、衆庶靡然として、聖天の徳化に服すべきや必せり。」(傍点−筆者)といっており、文面からするとかならずしも島津支配者に対する虚礼としてではなく、親国大和に対する民衆の傾倒の深さを示している。こうした民衆の土壌から、中等教育を受けて知的に上昇した置県後の「選民」たちが、旧士族階級との垣を乗り越すことによって、いわゆる明治の資本主義初期にみられた、腕一本で立身出世し、郷土の為、お国の為に尽す、という素直なナショナリズムを身につけたであろうことは当然考えられる。
 しかし、多くの歴史的事実が示すように、彼らの夢は、明治の官僚主義に根ざした中央からの差別によって大きく阻まれ、辺地の小役人か学校の教師どまり、という結果になった。もちろん、なかには軍国主義への夢を培う巧妙な手段として、軍隊で佐官級まで昇進の道を開かれたものも少数はいたが、謝花昇らの例にみられるように、中央の大学教育を受けたものでさえ、県庁の係長、課長どまりがやっとだったのである。そのため彼らの上昇志向はUターンして民衆の方へ屈折していった。
 比較的民衆と直に接触できる教職に殆んど落ち着いたのは、当時の国家的要請という事情もあったが、民衆に対して「選民」としての地位を誇示するのにもっとも適した職種だった、という事情にもよっている、とみたいのである。そのような民衆への対し方からは、民衆の心情や意志を読みとり、それによってたとえばさきにあげた朝日平吾のように権力を批判し、それと対決していく方向に身をふり向けていくことはできない。そこでは専ら民衆の敬意を集め、かつがれることだけが必要となるだろう。そして、そのためには、「たてまえ」教育で身につけた天皇(制)イデオロギーや国体観念を、自己の権威とダブらせることによって、支配ヒエラルキーの末端の役割を果たすことになる。沖縄では伝統的に教師の社会的地位が異常なまでに高い。民衆の感性ではどんなバカ教師でも神様である。教師はあたかも万能のように政治家にも社会集団の長にものそのそ出しゃばっていく。それはいま述べたような明治以来踏襲されてきた社会通念に拠るものだといえよう。
いずれにしてもこうした明治の教師たち(大正、昭和前期も同様だが)は、自らを中央の先進文化に同化したものとして、化外の民である民衆の教化にあたっていった。
 士族階級出身が、一把ひとからげに蔑視的に対してくる中央官僚への鬱屈した心情と、時代に対応する主題の喪失から「琉球人焼殺」の虚無的言辞を吐いたのと、方言使用の罰札を生徒の首にぶら下げて、いわれもない屈辱感を与えた士族ほか選民教師たちの民衆へのかかわり方には、いずれも思想の不毛性を孕む必然性があった。
 明治維新や昭和維新を支えた思想のモメントには、天皇を表看板にかかげ、天皇(制)思想の呪縛にからめられつつも、民衆のための“世なおし”という志向がどこかにあった。
 しかし、こうした維新時における天皇(制)思想の内実にあった一種の変革性は、官僚主義による「たてまえ」教育と、「選民」という沖縄の知識人たちの社会意識によって、二重に遮断され、薄っぺらなイデオロギー次元での認識にとどまった。そして被差別意識の拡大再生産の方向へのみ膨脹していったのである。
 わずかに謝花昇に代表される自由民権思想の実践過程に、大衆次元における天皇(制)のプラス極(世なおし)に連なる要素が芽生えたが、孤立したまま潰え去ってしまった。なぜ謝花の運動が民衆の支持を得なかったのか、この疑問はいずれ解明されなければならない。


(四)

 民権運動の影響もあってはやくから社会主義に関心を抱いた比嘉春潮氏は、幸徳秋水事件から二ヵ月あとの日記(3月7日)で、天皇と琉球の王に対する感想を記している。
 そこには天皇と国家を切り離した考えがあり、国家と国民の分離を「天皇」(大なる心)か、あるいは経済構造の改革で連結する必要がある、としている。日記であるため天皇機関説がどの程度理解されていたかを知るには十分ではない。ただ、ここで見逃してならないのは「天皇」と「琉球王」を比較しようとした視点である。明治13年にはじまる皇民化教育は、明治40年には平均92.81%の就学率に達し、就学率のもっとも低い宮古島でも男子89.13%、女子75.19%の就学率に達している(安里彦紀氏の紀要論文−前掲)が、それでも方言論争にみるように人々の言語や習俗を根っから改めてしまうというわけにはいかなかった。
 生産の下部構造や社会構成をほぼ旧態のままに放置しながら、上部構造のみを国家目的の鋳型にはめこんでいこうとした当時の明治政府の政策が最初から決定的に非合理だったということは先にも指摘したが、それが方言論争や差別論にみられる沖縄の人々の種々の位相における不幸の要因でもあり、そうした当時の状態において新たな支配者の絶対理念として、皇民化教育を通じて現われた「天皇」と、旧支配の絶対者である「琉球王」に対する心情が人々のなかでどういうふうに合理化されていったか、ということは沖縄における天皇(制)思想を考えるうえで大切なポイントになるはずである。
 比嘉春潮氏の日記はつぎのように記している。


 青年の多くは反国家的思想を持って居ると読売新聞は論じた。自分は恐れる、これがこの儘進んで先きはどうなるだろう。国家はどうなるだろう。
 独逸のある人が「今の日本皇帝は国民より神聖視せらるべき最後の天皇なり」云ふたと。
 今迄の様な心は迚も君主や国家に対して持つのは少なかろう。愛国者は居っても、忠君と云ふ考は薄くなるだろう。
 それで、これらの青年に依りて立つ国は是非皆を真の愛国者にせねばならぬ。今迄の様な僅かの名誉心の上に立つ愛国心は、現代青年をひくには足らぬ。どうしても大なる心か或は経済方面から成り立つ様にせねばならぬと思ふ。
 日本は皇室は常に九重深き所にあって、鎌倉があり北条、藤原、足利、徳川と直接に民に接したのは幕府の様なものであった。それで悪政がある時には幕府をうらんで之を倒した。
 沖縄でも土地は各大名に分け与へて、各大名は国王に租税を納める。重税を課されても、人民は大名を怨むばかりで国王をうらまない。そして時々国王から大名に余まり租税を多く取るなと命令する。すると人はお上はあんな情深いことをおっしゃる有り難いことだと有難がる。こんなにして沖縄では王と人民は非常に親しかった。伊藤公が憲法を制定した時に外国人の誰かに皇帝の下に幕府の様なものは置けないかと相談したら、其人は日本の歴史を知らぬから、欧米文明国にはそんな例はないと云ふて止めたさうだ。伊藤公は先見の明があったと云ふて宜ろしい。


 なお、これは伊波普猷との間で話されたものとなっているが、大名をうらませておいて、国王と人民を結びつけるという「琉球王」の支配形態を前提として、天皇の下に幕府を置く構想をもった伊藤博文を先見の明としているのは、天皇機関説の見解にほぼ近いものとみてよい。天皇機関説は、支配者の側からすれば人民を欺いていく巧緻な支配方法として考えられ、維新をめざすものからは奸官を倒す、つまりクーデターの正当性をウラ付けるものとして考えられてきた、ということはすでに多くの説が一致するところだが、いずれの場合も民衆に対しては「たてまえ」と「ほんね」の両面性を操作しながら「天皇」の絶対性に従わせてしまう、といういき方である。比嘉氏の日記にみる「天皇機関説?」が、維新の観点からではなく、国家統治の安泰をはかるという観点に立っていることはその記述から明らかである。
 「天皇はどこまでも日本国家の統治者であられたけれども、歴史的事実の明かに知られる時代になってからは、実際に政治の局に当られたことは、一、二の例外を除けば全く無いといってもよく」「従って政治上の責任はおのずから権家に帰することになって」「国民は皇室と権力関係における対立の地位にあったのではなく、従ってまた国民は、皇室に権力があるものとして、それに対して畏怖もしくは反抗の念を抱いた、というようなことはただの一度も無い」(津田左右吉−日本の皇室)という「天皇」のとらえ方と「沖縄では王と人民は非常に親しかった」という場合の「琉球王」のとらえ方は相似である。
 しかし「天皇」と「琉球王」は、支配のマヌーバから多くの相似点を持ちながら、やはり異質な性格を持っていた。
 その一つは、地位形成の歴史過程の違いである。「琉球王」の歴史がおぼろげながら、史実で確認されるのは13世紀初期の舜天王統の頃からであり、しかもそれは単なる地域の按司に過ぎないものであって、幾多の対立勢力の一つに過ぎない。
 また73年後に政権交代した英租王統は、神話に遡及して天孫氏の後裔ということになっているが、これも後世の史家が支配者の権威を付与するために創造したものだろう、という程度でもちろん実証性があるわけではない。
 同じく、英租王統に変わった察度王統も羽衣伝説の天女の子として、伝説に結びつけられているが、察度が中山の王位につくのが、1350年、後村上天皇の代だから、もはや天女伝説もあったものではない。
 察度から第一尚氏へ、第一尚氏から第二尚氏へと、百年足らずの期間で血統の違った王統が交代し、攻略によって、あるいは平和裡に王位がかわっている。万世一系の純血統を継承したとされる天皇族と違って、第二尚氏でさえ四百余年(19代)しか続いていない。1500年以降に三山をはじめ、全琉の統治に成功した中山王統(第二尚氏)は、第一尚氏系の按司や他の按司たちとの間に積極的な姻籍関係を取りつけ、それらの統治権者たちの血統を、第二尚司の血統へ吸収することによって、血統のメタファーを利用し、統治権の安定をはかっている。
 こうした血統の収奪は、支配者がその統治権や威力を保持し続けるためにやってきた民衆の宗教的祭事の収奪とも関連して考えられるものと思う。万世一系といわれる天皇の純血統が、どこまで遡及するものかわからないが、第一尚氏の血統を第二尚氏が吸収していったのと似たような操作がどこかでなされながら、逆に国家起源にまで天皇の血統が一系として遡及させられる、という操作がなされているのではないか、という疑いも出てくる。
 それはともかく、天皇の血統が神話の世界へつながっているのに対し、琉球王の血統が神話につながるためには、五ないし六の違った血統を辿らなければならない。ということはその歴史的役割の違いを示すもので、王統の断続は、王自ら統治の前面に位置し、外部勢力との侵攻関係のなかでその地位を確立してきたということである。では天皇の場合はどうか。
 長い皇室氏において、天皇が自ら兵を指揮し、戦乱の前面に躍り出したのは神話のなかの神武天皇くらいのもので、史実に現われた天皇はほとんど、ある勢力からかつぎあげられることはあっても、国王として文武の実権を握り、その政治手腕を発揮するという例はほとんどない。明治天皇の場合でさえそうである。
 「国家の思想」(戦後日本思想大系5−筑摩書房)に収められた論文から、天皇の具体的役割を抽出してみると、


 〈天皇(制)〉が本来的に世襲してきたものは、特殊な宗教的な祭儀だけだといっていいことである。そしてこの祭儀は天皇位を相続する祭儀にもっとも集約してあらわれるといってもよい。(吉本隆明)

 皇室の行われたことの主要なものは年中行事としての種々の儀礼であったが、その儀礼を行われることの意味はここ(天皇が国家の象徴であること=筆者注)にある。また公家でも武家でも政治的権力をもつには皇室の命によることが必要の条件とせられ、皇室から官位の叙任をうけるという形においてその地位を皇室から与えられまたは皇室によって承認せられたのは、これがためであり、地方の諸大名がかかる叙任をうけたのも、ここから派生したことである。皇室を名誉の源泉として考えたのも、ここから派生した。(津田左右吉)


 つまりは「宗教的祭儀」の司祭と「官位・叙勲」が天皇の具体的役割であり、そこに政治権力の変遷とはかかわりなく最高権威を国民のうえに維持し続ける天皇の存在根拠がある、ということである。だとすればこの点で天皇と琉球の王とは役割が異るということになる。なぜなら琉球では宗教的祭儀も王自身の官位叙任さえも「のろ(女神官)」である聞得大君の司祭でなされ、聞得大君を介して神託を受けた王が政治をつかさどるというシステムで、「祭」と「政」は末端の按司に到るまで職掌のうえでははっきりした形式を残してきている。
 古代に遡るほど祭儀をつかさどる「のろ」の権限は強く、その呪力が統治権者の進退を決めるほどの威力を持っていたことが多くの史実によって示されている。特殊な例を除いて、共同体の祭儀に関する限り、女性はほぼ絶対的な権限を持ち、男性は祭儀にたずさわれないか、補佐的役割を果たすにとどまっている。自然発生的な宗教感情が、血縁共同体の宗教を抽出し、タブーを成立させていく過程で、女性が神と親近する、あるいは神として崇められる対象を守る(火の神のような)与件があったものと推測されるし、そうした女性と祭儀の結びつきは、母権社会の成立根拠や、国家起源の本質を探る鍵としても、すでに注目されてきているところである。
 オナリ神信仰は、一つの部族ないし血族共同体が形成される神話や伝説のなかで、いろいろに形を変えながら現われてくる。
 部族や血族の共同体が成立する与件として考えられることは、人々が単独に食を漁るのではなく、食糧の採取に工夫をこらしたり、自然に働らきかける方法(農耕、魚寄せ)を取るようになったからだろう。
 自然信仰における「豊穰」の観念がそこから生じ、種子とみのりは、性につながり、女性は“みのり”すなわち「豊穰」を象徴するものとなる。祭儀における女性の神聖化または神性化は、自然の「豊穰」に対する祈念と重複しながら、宗教意識を発展させていったものと考えたい。
 「豊穰」に対する祈念は、宗教意識−祭儀−を発展させるとともに統治のあり方をも規定し、統治者をも決めていくものとなる。
 このようにみてくると、自然宗教に根拠をもつ祭儀の司祭は、女性に属するのが自然な形であり、統治者(男性)が祭儀の司祭権をもつのは不自然だということになる。
 古代に遡及するに従って「豊穰」の祈念のなかに「祭」と「政」は強く結びつき、そのため姉妹と兄弟というもっとも近い血縁(あるいは性関係)において「祭」と「政」の融合がなされたのだろう。この「豊穰」祈念のなかで一体化していた「祭」と「政」が、後世になるに従って分離し、男性の政治権力が強大化するに従って、女性の祭儀権が衰微していった。その過程で、琉球においては、形態としては近代に到るまで古代から伝承された女性の祭儀権を存続させ、天皇の場合はそれを全て盗み取ってしまった、ということになる。琉球王の場合も、もちろん後代になるに従って、王の統治権が強くなり、聞得大君は王の姉妹から妻に変わるなど、王の政治支配の手段として巧みに利用され、祭儀権の本来的な意味を奪われてはいるが、それでも琉球最後の王尚泰の廃位まで、共同体の「祭」を取りしきる地方“のろ”たちの最高位である聞得大君は、天皇の大嘗祭に相当する「新降(あらうり)」の御規式を、第一尚王統の発祥地とされる知念の斎場御嶽(さいふあおたけ)で行なっている。かつてそこは男子禁制の場所として、神域の第一の階段までしか男は参詣できなかったという。
 ところで、“のろ”の中央集権化による聞得大君のカリスマができたのは、尚真王(1477年から1526年まで王位)の三山および両先島統一に伴ってであり、それまでは地方の“のろ”たちは、独自の勢力を持ってそれぞれの形式に従った司祭権を賦与されていた。これからみると中央集権化(国家時代)への移行過程で、琉球の場合は、征服される地域の祭儀を滅ぼすのではなく、“のろ”は“のろ“として中央に組織化され、王国の統治形態に活かされていった、ということである。これを言いかえると民俗的次元での人々の宗教意識を、吸いあげることによって、聞得大君の祭儀権を至上化し、それを支えた王の統治権を強化したということになる。そこには豊穰の概念のなかで融合していた「祭」と「政」を、巧みに統治の方法にくりこんでいった過程が読みとれる。王の統治権は、民衆のなかで潜在的に融合しているところの「祭」と「政」=豊穰への祈念を、全体として吸い上げるところに成立する。しかし、王自体は「政」の権力は持っても、女性に属する「祭」の権威は持てない。そこで、オナリ神につながる聞得大君を介して、民衆に対する王自身の「祭」の権威を幻想としてつくりあげることによって統治権の完全をはかることになる。(今日においても、国家が単に政治にかかわる共同幻想だけでとらえられず、宗教にかかわる共同幻想の問題を包含してくるのはそのためだといえよう)
 以上のような琉球王の統治権の歴史過程からみると、天皇のあり方がかなりはっきりと対照化されてくる。古事記やその他の神話伝説を通して、天皇位の確立に到る古代国家の形成過程で、女性の「祭」、男性の「政」が統治権のなかで合一化していたことは、すでに指摘されているところである。
 ということは、天皇の役割として、吉本氏や津田左右吉が指摘したことは、本来女性である「女王」や「神女(のろ)」の役割であって、男王の役割ではなかったということである。
 三島由紀夫氏は「文化防衛論」のなかで「文化概念としての天皇制は、文化の全体性の二要件を充たし、時間的連続性が祭祀につながると共に、空間的連続性は時には政治的無秩序を容認するにいたることは、あたかも最深のエロティシズムが、一方では古来の神権政治に、他方ではアナーキズムに接着するのと照応している。」とし、さらに「オーソドックスの美的円満性と倫理的起源が、美的激発と倫理的激発をたえずインスパイヤするところに天皇の意義」があると述べている。
 祭祀につながるとともに、政治的無秩序を容認する、ということは天皇が後代において男王としての統治権を放棄し(情況によっては回復するが)通常的には女性の役割としての祭儀権にその地位を確保していたことからきたものといえよう。また、そのイメージが最深のエロティシズムにつながっていくのは、その通常的な役割から、男性であるはずの仏像が女性の美を抽出していくように、一種の「性」のすりかえともいうべき擬態を天皇が演じてきたからではないだろうか。
 そのことは古代の中央集権化の過程で、天皇が男王としての統治権を確立していく際、民衆の宗教意識−女性の司祭する「祭」を吸いあげ、「政」との合一を一旦はかっておきながら、その後なんらかの歴史条件により、「祭」の方に比重を移すことによって女王や地方の“のろ”に相当する女性の祭儀権を奪いつくし、逆に政治的役割を放棄していったことを物語っているのではないか、と思える。
 長年にわたる封建時代において、政治的、武力的闘争を勝ち抜き、絶対君主としての権力を克ち得て、その地位を築いてこなかったにもかかわらず、絶えずそれらの封建勢力から「斜め」に担きあげられてきた、という皇室のあり方は、琉球王の統治に利用される聞得大君のあり方とよく似ている。
 こうして国王たる天皇(男性)は、その役割(祭祀)により、長い歴史の過程を通じて、特殊なイメージを形成する。つまり、三島由紀夫氏が「憂国」や「文化防衛論」で、あたかも憧憬する恋人のように対象化する天皇、ないしは日本人の多数の感性のなかでとらえられている天皇は、「女性化」されるか、または「中性化」されているのである。
 なぜ天皇が政治的過渡期において、たまたま男王として統治権の前面にかつぎ出されるとき、いわゆる倫理的、美的激発性を持ってしまうのか。そして明治維新から昭和維新にかけて、民衆の国家共同体の意識や幻想を、いかなる支配権力よりも最高度に吸引しつくした要因はなにか。それを歴史的要因において分析していけば、たしかに吉本隆明氏が「現代日本思想大系4」の「ナショナリズム」(筑摩書房)で解説したように、大衆におけるナショナリズムの変移過程としてとらえることができるだろう。吉本氏の見解を前提として、さらにもう一つの視点を加えるならば、大衆のナショナリズムの根幹を支えるものはなにか、ということであり、明治期においてそのナショナリズムが「実感性」や「主題」を持ち、大正、昭和期において、それらが喪失して概念的一般性として抽象化したところから、天皇制絶対主義のウルトラ化が形成されるのはなぜか、ということである。
 ここでもう一度、共同体の「祭」や「政」を成りたたせたところの、自然信仰における「豊穰」への祈念に立ち帰っていかねばならない。「豊穰」を祈念する人々の心意には、それをもたらす自然(神)への宗教意識と、それを受けるに相応する統治(共同体の長)への政治意識が未分化にないあわされていた、とすれば、その「豊穰」への祈念こそ大衆のナショナリズムの根幹であろう。それは古代から本質的に一貫して、人々の深部にあり、統治形態の過渡期をくりかえしつくり出してきた。国家の発展に伴って、男性に属する政治権力は強大化し、統治の権力者は、女性に属する祭祀の意味を形骸化し、政治権力のなかに奪取していったことはすでにみてきたとおりだが、そのような基盤に成り立つ政治権力が、人々の「豊穰」への祈念を踏みにじり、あるいはそれに応えられなくなったとき、当然人々は統治形態の過渡期をつくり出していく。その場合、政治的力の強いものよりも、宗教性の強いもの、「豊穰」の祭祀をつかさどるものが、人々のナショナルな心情を吸引するはずである。なぜなら政治の過渡期をつくり出すのは、政治と同位に宗教性を回復させるための、あるいは政治優位に対する反テーゼとしてのエネルギーでもあるからである。
 明治の政治的指導者たちが、維新時にかつぎ出した名目としての天皇を、「たてまえ」と「ほんね」に区別し、国家統治に利用するという考えであったことは、久野収氏、鶴見俊輔氏共著の「現代日本の思想」(岩波新書)や色川大吉氏の「明治の文化」(岩波)で述べられているところだし、明治憲法自体がそうした当時の指導者たちの考えを織り込んでいることも明らかだが、しかし民衆においてはそんな区別などなかった。
 いや、むしろ政権優位の統治形態に対する宗教性の回復を望む民衆が、「祭」と「政」の融和を天皇制に求め、政治指導者たちの「たてまえ」や「ほんね」の区別を埋め、乗り越していったものと考えられる。
 古代の祭祀が文芸と深くかかわっているように、「祭」と「政」の融和を求める心情は、美的、倫理的な要素をも包含しなければならない。したがって、三島由紀夫氏の云う美的、倫理的激発性は、統治形態の過渡期における民衆の融和した「祭」「政」を求める度合に応じたものであり、それはあくまで民衆の内部に属するもので、天皇の側にあるものではないといえる。それはともかく、明治期の民衆のナショナリズムが実感性を持ったのは、祭祀を代表する天皇が、国家の総帥としての地位を占めることによって、民衆の求めた「祭」と「政」の融和状態が現実化する可能性をもったからだといえよう。そのために、明治国家は、政治的国家というよりも、「豊穰」の祭祀にまつわるよろず神の象徴する総合的な、または超越的な価値すなわち国体として、無限に国民の内面世界へ通徹していったのである。国体が部落共同体の潜在的または顕在的な祭祀の感性に根ざしている以上、近代的な自我意識に基く個人の思想は、いずれ村八分にされていかなければならない。
 「祭」と「政」の融和が実現する過程で、人々は、あらゆるものに開放的になるが、そこではすでに共同体の新たな掟の設定が必要とされてくるのである。そこに西欧的な様々な思想が必要以上に苦悶しなければならなかった根拠がある。「祭」と「政」の融和に託された民衆の「豊穰」への期待は、新興資本主義と天皇(制)の癒着によっていよいよ強力化した中央集権国家の搾取により裏切られていった。国家権力が強まるほど、破壊された「祭」「政」復活への幻想は激発生を強め、こうした民衆のつくり出す情況から、北一輝らに代表される昭和期の知識人の超国家主義思想と、支配者たちの天皇絶対主義体制が確立されたのだ、と思える。

 ところで昭和期の天皇絶対主義体制において、天皇が「現人神」にまで押し上げられたわけだが、それには幾つかの疑問がひっかかってならない。はたして民衆は「現人神」としての天皇を額面どおり受けとめていたのだろうか。国家統治における天皇の「たてまえ」と「ほんね」を埋め合わせていくことと、天皇自身を「現人神」として信仰することとは、同じではない。とくに琉球、沖縄の場合は、女性に属する祭祀を、天皇のように収奪しつくすことによって、民衆の祭祀の観念を混乱させ、様々な錯誤を生じさせるということが比較的弱かった。
 ごく特殊の例を除いて、いまでも遺制として残る祭儀は女性(のろ)の司祭であり、そしてこれらの女性は、神域で神の託宣を受けたり、神霊と交合しているときだけ、一時的に神格化するだけで、通常はただの女性である。おそらく「新降(あらうり)」の儀式で、オナリ神の神霊を受けた聞得大君でさえ、なんらかの祭儀の場合以外は、王の姉妹や妻としての女性であって、通常的に神格化していたとは考えられない。
 人が宗教的啓示を受ける瞬間とか、啓示を感受する特別な能力を備えているとか、あるいは祭祀慣例のなかで神霊化することは、科学的にも納得がいく。
 ところが長年の皇室史における代々の天皇の極めて人間臭い閲歴にもかかわらず、天皇を常態的に「現人神」と信じることは困難なことに思える。支配者の作為によって、戦前の教育は神話と現代にはさまれた天皇を大方カットして、神話時代の天皇をいきなり現代の天皇へ直結させることで、その神格性のイメージをつくったわけだが、それでも通常的に「現人神」であるということは、シャーマニズムの低次元の宗教感性においてさえ、どこまで信じられていたか疑問である。
 ましてや特定の宗派をたてている哲学的な教義体系を備えた宗教観念の次元では、嘘を真実と偽る何らかの意識操作に頼るほかなかった筈である。
 沖縄の歴史条件との関連でみると、つぎのように整理することができる。
 つまり天皇は崇祖の司祭と同時に、祖霊の人格神として近代に再現し、同時に官僚的カリスマの頂点に位置を占めたわけだが、そのような怪物的な存在は祖霊についてはっきりした概念またはイメージを持ち、祖霊の崇め方を伝統的に固守してきたシャーマンの世界では、感覚的にも納得のし難いものを含んでいたに違いない。一族(血縁)の祖先の霊と、村の元神(発祥の霊)と、のろ(女神官)の司祭する神(霊ではなく太陽神のような)といった様々な霊や神達は人々の生活のなかでかなりはっきりした区別を持っていた、と思われる。それらの霊や神は位階序列を持ってイメージされるのではなく、それぞれの空間的位置と方位をもって区別されるのである。
 たとえ、のろ(女神官)において中央と地方の位階制はあっても、祭り崇める対象の神には位階序列はなかったはずである。そういう人々の宗教的感受性の場へ、いきなり神々の位階序列の明確な概念としての「現人神」を持ち込んできてもそれは映像を結ばなかった、とみてよい。
 本土の場合はいざ知らず、沖縄の民衆においては、祖先の霊は血縁の祖霊で、それを祭るのは血縁につながる家族自らであり、また部落共同体の発祥にかかわる「根神」は、部落単位で、その祭祀を司祭するのは「司女(つかさ)」や「祝女(のろ)」である。
 こうした血縁につながる祖霊や、部落共同体の祖霊である「根神」への信仰を天皇が奪取しつくさない限り、天皇が「現人神」として神霊化することはむつかしい。
 なるほど首里王の廃絶によって、女神官の中央集権的組織もくずれ、聞得大君もいなくなるわけだが、崇祖の降臨する場としての斎場御嶽をはじめとする各地域の御嶽への信仰は、祭儀のあるなしにかかわらず人々の中に定着していたのである。シャーマニズムでは神は身近かに親しいものであり、木や岩や石のなかに不可視に存在する。
 通常的に可視であるもの自体が神ではなく、神はどこからかやってきて、可視のものに宿り、またどこえか去っていく。もちろんカマド神のような守護神もあるが、祭祀によって招かれもしないのに居座り続ける神は荷厄介である。というわけで、はるか海の彼方に新しい人格神が存在しても、信仰を通してその人格神が人々に規範力を持つものとはならなかった、といっていい。海の彼方のニライカナイからおとずれる神と天皇を置きかえることは不可能である。ということは天皇自体が神であろうが、神であるまいがそんなことはどちらでもよかったが、官僚的強圧と教育を通じて君臨してきた天皇は、人々のナショナルな基盤と疎外し合うものではなく、むしろ本来的に民衆の内部にある国体感性と吸引し合う性質を持っていたということである。
 まえに述べたように民衆のナショナリズムを支える根幹にあるものが、「豊穰」祈念としての「祭」「政」融和であれば、かなりまえからあった「大和親国」の発想とないあわされて、日本国体へ引きつけられていく強い要件が成り立っても不思議はない。
 「祭」と「政」が聞得大君(女性)の組織系列と王(男性)の政治系列としてはっきりした形式を保ってきた歴史条件のなかで、天皇が現人神としてイメージを結べなくても、民衆のナショナリズムに重なる禅譲の思想は天皇制に統治の調和を見い出そうとするのである。
 たしかに天皇(制)イデオロギーは、強力な国家主義を背後に、皇民化教育として官僚から貢納義務のように強制されてきたが、民衆はそれを受容し、生活原理のなかに包摂していく素地をもっていた。
 ここに一つのエピソードがある。
 沖縄の各学校に、いわゆる「御真影」が「御下賜」されるのは明治22年だが、おくれて明治35年に中頭郡(沖縄本島中部)の八校に「御下賜」されたときのことである。例によって知事閣下以下の動員で、前衛、後衛を警官で固め、校長、郡長、児童が奉担行列を整え、警察署のあるところでは署員総出で警護に当たるというものものしさで、行列が美東校から離島へ向かう途中、行きあった通行人が行列を不審がって尋ねた。


“アレーヌーヤガヤー”(あれは何だろうか)と余程の不審顔にて問うを同伴の一人が“ウスガナシーヌ御写真ヤンデー”(王様のお写真だよ)と言うを聞き、たいした難題を解きし者のごとく全身に力を込め“ワッター子ン、ウガマシンソーレヤー”(うちの子にもおがましてくれ)と心の底よりの希望のごとくもらした。」(当時の新聞記事、大田昌秀著前掲書)


 これについて新聞は、陛下への赤心より出た、と結んでいるが、この問答では問う方も答える方も「王様の写真だ」と難なく了解し合っている。こうしてかつての支配者である王と連結させていったところに、沖縄における天皇制の定着の特質がある。
 おそらく、明治国家が、単に資本主義の利害概念を根拠とするイデオロギーで支配しようとしていたら、沖縄の統治はもっと困難を極めただろうと思える。
 王国という統治形態のもとで、部落共同体としての要素を強く持ち、王の統治のなかに禅譲的な「祭」と「政」の融和した「豊穰」を希求してきたからこそ、より宗教性をもった天皇(制)が受入れられたといえる。また「大和親国」という発想のなかには「豊穰」祈念を空間的に転移させていく必然性があり、むしろ天皇自体の持つ宗教性よりも「大和」という空間の持つ吸引力が強く作用したものと考えられるが、この問題はあとで復帰運動との関連でふれたい。
 いずれにしても、こうした民衆の下からの天皇(制)への求心性は、それ自体健全なナショナリズムであるが、例えば、もう一つの「御真影」事件にみられるような天皇(制)イデオロギーをカサに着た支配者の天皇(制)は、一般的な天皇(制)の特質とされる残忍性を十分に持っていた。
 その事件は、島尻の佐敷小学校の火事で「御真影」が焼失し、校長と当直教員が馘になったことだが、これについて、本土から来た商人たちの機関紙だった「沖縄新聞」は、責任をとって死ぬべきだ、と主張したという。(大田氏前掲書)ここには明らかに後向きの天皇(制)イデオロギーがむき出しに出ている。このような後向き(天皇へ向うのではなく、天皇を背後にして民衆に向う)の天皇(制)イデオロギーは、民衆の健全なナショナリズムが実感性をうしなうにつれて、最底辺へ向けて残忍な疎外の重層構造をつくりあげていったのである。
 幾重もの疎外を受けたものが、さらに下層へ疎外を転嫁するとき、それは耐え難い冷酷さをおびてくる。農村出の下級兵士たちが、捕虜や民間人に対して行なった残酷さは、そこからきている、といってよい。そのようにして天皇(制)の総体がつくり出した史上稀な残忍さは、民衆や国家についての正当な視点を混乱させることになった。
 第二次大戦の国家的挫折の結果、統治権の前面に位置していた、明治以降の天皇は、憲法のなかで国家の統帥者から象徴としての位置に後退した。つまり国王として「祭」と「政」を掌握した状態から、例によって天皇−皇室が本来的な役割として継承してきた「祭」の司祭に身を退いたわけである。
 国家的挫折としての敗戦の責任を国王として引き受けるとしたら、どうなったであろうか。いや、それよりも「王様のお写真です」といわれて、素直に王様として拝んでいた人々のなかで、いま一度女性(聞得大君やのろ)の役割に位置を占めている天皇は、どのような感性で受けとめられているのだろうか。天皇信仰の定着の度合いはともかく、全体として、沖縄の天皇信仰は急速に冷めてしまった、とみてよい。なぜだろうか。
 あるいは、それは国王としての概念のあり方に関係しているのかもしれない、と思う。


 西欧的な〈王〉の概念では、〈王〉は人民により担ぎ上げられる存在であるとともにひき降される存在でもある。
 もし社会的好事が続発すればそれは〈王〉の存在がもつ〈威力〉の結果であるとされ、〈王〉はますます高みに担ぎあげられる。しかし、逆に凶事が続発すれば、それは〈王〉に神をなだめるだけの〈威力〉がないためであり、〈王〉の存在が不吉であるとされて、殺害されてしまう。そしてこの殺害は〈王〉を犯罪者であるとか専制者であるとかいう理由からおこなわれるのではなく、〈王〉の殺害が万能神への宗教的な犠牲とみなされるからである。


 吉本隆明氏は西欧の〈王〉概念をこのように説明している。(前掲書)
 では沖縄では〈王〉概念はどのようなものだったか。球陽によると、1259年、英祖に王位をゆずった義本王は、不徳を愧じて退き身を隠したという。


 義本王が位についてから饑饉がたびたび起こり、流行病がまたいくたびもはやって、人民のほとんど半分が失われた。王は大いに驚いて群臣を呼び集めていうには、これまでの王の時には国中が豊かに、人民もやすらかであった。ところが今私が王になってから徳がないために、饑饉と流行病が二つともやってきた。天が私を棄てたのである。私は王の位を有徳の人にゆずって隠退すべきであるから、汝ら誰を王にすべきか、私のために推挙せよ。(……)英祖政を摂ること7年で民心が皆彼に帰した。そこで義本が英祖にいうには、私は天に棄てられて人民の半分を失ってしまった。今、汝が政をとってから農作もゆたかになり民心も落ちついて来た。即ち天が汝を祝福するのである。どうぞ王位を承けて民の父母になってくれと。英祖はかたくこれを辞退したが、群臣も皆すすめるのでついに王位に即した。(比嘉春潮「沖縄の歴史」)


 この義本の例にみられる王位の辞退あるいは群臣、国人皆による新王の推挙は、西威から察度王へ、武寧→尚巴志、尚徳→尚円、尚●[サンズイに景+頁]である。
 また、のろ(女神官)の神託によるものとしては、尚真王の例が代表的である。


 尚宣威が位に即いていよいよ神名を授けられる式の時になって、旧例によると君々、神々(いずれも女神官)が内原(後宮)から出て、君誇殿(正殿)の前に東面して立つのであったが、このたびは例にかわり、西面して立った。尚宣威は王冠王服を着けて、側に世子尚真を伴うて王座に立ったが、この君々神々の異例を見て大いに驚き、列席した者もみな片唾をのんでいると、彼女らは、神の宣託として、
 首里おはるてだこが、おもい子の遊びみもん、あそびなよればみもん。
 とおもろを歌った。首里にいます王の愛子が、遊び踊るはみごとであると、暗に世子尚真こそ神の意にかなうという神託である。尚宣威はこれを聞いて、自分は王たる徳なくして王座をけがした、それで神がとがめたのだと、在位六ヶ月で世子久米中城王子の尚真に位をゆずって……(隠退した)(比嘉春潮氏前掲書)


 これらの例でみる限り、琉球の〈王〉概念は、人民の側からは「物呉ゆすど我御主」(人民に豊かな生活を補償する徳のある国王こそ我が君主)という、禅譲思想に根ざしたものであり、また〈王〉の側においてもこれを了として、その地位に固執するよりもみずから愧じて隠退し、またかわりの新王もそれ相応の謙譲さをもった、ということである。もちろん、こうした見方は滅びた古いものへの美化意識が働らいているし、後世の史家が理想を仮託したことも考えられるが、まったく根拠がなかったというものでもないだろう。島津の支配力が強まるにつれて〈王〉自身が主体性を失なって無力化し、臣官たちのなかに私利を求める者が出て、重圧の下に人民もまた〈徳ある君主〉へのヴィヴィットな期待を失くしていった、とみたいのである。しかし、こうした古来からの伝統意識が根絶したわけではなく、宮古農民の国会請願を機に「世がわり」としての制度改革が実施されたとき、官僚的カリスマを介しつつ〈徳ある君主〉への期待がわずかながらも人々をとらえ、国家と未分化なままの天皇−国王がリアリティをもつに到ったと推察される。
 いずれにしても琉球の〈王〉は神的でも霊的でもなく、また美意識の収斂、絶対感情の対象でもなく、それは天皇にまつわる宗教性とは異なって、神の「豊穣」を受けるに足る統治者としての〈王〉であり、徳なければ自ら天の意によって退き、また人民は退位を求めることもできる、といった性格のものだったようだ。敗戦によって百万の国民を死滅させ、饑餓に追いこんだということは、〈国王〉たる天皇が「天に棄てられた不徳の王」として身を引かねばならない、ということにもなってくる。
 村上兵衛氏は「天皇の戦争責任」(「国家の思想」筑摩書房)で、@天皇の名によって行なわれた開戦、ならびに、それが敗戦へと導かれた国家最高指導者としての、日本国民に対する、政治責任。A政治責任と表裏の関係にあるべき、日本国民に対する、道義責任。Bアジア民衆の虐殺、捕虜虐待などに関する、日本国家の元首としての政治的道義的責任、という三つの観点から、戦後、天皇機関説によってずらされようとする天皇の責任をひっとらえて追求しているが、その中でとりあげられた二つの事実を対比するだけで〈天に棄てられた不徳の王〉としての責任所在は明らかになってくるだろう。
 すなわち「本庄繁の『本庄日記』によると、二・二六事件に対し、輔弼者たちの意見が、まだ定まらないうちに、天皇が『叛乱』ときめつけて〈朕みずから近衛師団を率いて討伐する〉と怒った。」という。また、「太平洋戦争についていえば、重大な国策決定は、つねに天皇の出席する御前会議によってなされた。」(村上兵衛氏・同書)というのである。
 1945年(昭和20年)4月1日、米軍は沖縄本島へ上陸し、6月22日には敗戦が決定しているが、4月2日、大本営の作戦会議で小磯首相から沖縄戦の展望を求められた陸軍作戦部長宮川周一中将は、〈結局米軍に占領され本土への来冦は必至〉と答え、そのころすでに上層部は戦争の遂行に自信を喪い、時局収捨のため和平工作に奔走していた、という。(「中国」(第78号)−沖縄の敗戦)
 〈朕みずから近衛師団を率いて討伐する〉と怒ることのできる強い我を持った天皇は、沖縄の戦局情報の分析を御前会議で報告を受けながら、百万人の玉砕を九重深きところから眺めることを決意していた、ということになるのか。
 和平工作に奔走するほど補弼たちが弱気になり、敗戦が予測されているなら、至上権を持つ天皇のしのび難き一言が全てを左右したはずではないのか。「平和愛好」の象徴といった戦後の学者たちの知的、思想的ディレッタンチズムで天皇(制)の両義的曖昧さを隠蔽するのではなく、〈王〉(男性)か〈のろ〉(女性)か、つまり国政の全権か、祖霊の祭司か、天皇の存在理由と性格をいずれかに明確に位置づけ、その位置において当然人民の前に引き受けるべき責任を正当にすることでしか、実際には天皇(制)を越えられないとおもえる。
 いいかえれば、「万世一系」という「無限の古にさかのぼる伝統の権威−縦軸の無限性」を想定して、「国家機能」と「非国家機能」あるいは「公」と「私」のあいまいなる抽出としての「国体」概念を成立させてきた日本の土着的様式の深みで、「政」と「祭」の機能を明確にとらえかえしていくことによってしか、新たな意想を凝らして呪縛してくるであろうウルトラな幻想の共同体としての「国体」およびそのイデオロギーを民衆の側へ撓わせていくことはできない。
 人民の生産総価を不均等分配する調整機能によって、国家独占資本の膨張と同時に階級支配の機能を自立的に拡大していくことをその本質とする近代資本主義国家が、日本的土着の感性として残存する「無限縦軸」への「私」の昇華志向を吸い上げ、民衆の健全なナショナリズムに所属する〈真・善・美〉の価値まで剽窃して、みずから「絶対価値体」を構成していくとすれば、日本がかつての天皇(制)から学びとったものは無に帰してしまう。様々な側面における上と下からの抑制機能の結合によって成り立っているかにみえる国家も、歴史的視野からすればもちろん支配階級のイデオロギーを国家的意志として遂行するシステムであり、国家の機能は、人民の生活原理のうちで自立的に増殖し転位する思想と、その物理力への転化に対応して、局面的な機能の強弱と、機能方法の移動または変化を不断に進行させるとかんがえられるから、思想に可能性を求めるとすれば、民衆の生活原理のうちに転位して自立的に増殖する思想の本質を踏まえたうえで、支配の思想の増殖を扼殺し、無化させていく被支配の思想に俟つほかない。
 人民の生活原理−あるいは民衆の存在様式の深みにおいて、そうした拮抗関係を持ち得た思想だけが絶えず「国体」的な機能を持とうとする国家の機能を根本的に止揚していくことを可能にする筈である。
 ところで、個々の人民の実存の位相は、生活原理から遊離した抽象的な観念を頑強に受けつけないか、あるいは〈天皇〉を〈琉球王〉に連結させていったのと同様の方法でしか新しい観念を了解しない。時代の支配的イデオロギー(体制、反体制を問わず)は、そうした人民の実存の位相において了解される限りにおいてしか物理力への転化を果たし得ない。そのため外来のすぐれた理論体系も、民衆と断絶したところで空転し、ひとたび民衆の土着的根幹から激発された思想の物理的表現に出逢うとなんら力を持たないものとなる。民衆の土着的根幹−それは存在の自己矛盾の闇である。そして民衆が支配の秩序感覚から反支配の自己叛乱へ自分をはじき出す可能性は、その闇の奥にもっとも用心深く秘められている。そのため、その可能性を表出する論理は存在の本質にかかわるものとして極度の抽象性に依拠する結果になる。
 人民の生活原理は、そのような論理(他者)を拒み、逆襲する加虐の位相でコンクリートされている。絶えざる被抑圧とアナーキーな放恣によって爆発の契機を孕みながら、祭やその他の形式で自己調節し、決定的に爆発させることをせず、むしろ不可解な笑いで集合する。そこにおいて、差別され、抑圧されているはずの民衆は、外へ向けて逆に差別の棘をめぐらした加害の砦を築くのである。
 即自的に民衆であるものにとっては、こうしたみずからの実存はほとんど絶対的なものでさえある。そのような民衆の実存の位相を自己の下半身としながら、その「人民性」を対象化し、思想として外化する営みをもったものは、民衆の砦を脅やかす加虐者としての位置をとってしまい、そしてまたそのために笑いの集合体−差別の棘によってつき刺される被虐者となる。
 人民の土着的根幹において支配の思想と拮抗する被支配の思想は、笑いの集合体への無媒介な合一ではないために、不利で困難な条件を負うほかないのである。
 民衆のアナーキーな放恣のエネルギーはお祭へ、また自分を乗り越えたものとして自己を存在させようとする根深い欲求は、選挙の偽意識や戦争のダイナミズムへと支配の機能によって誘導され、整序されていく。
 国家を前提とする思想は、この流れに抗して逆流の渦を民衆の生存様式のなかにつくり出すことはついにできないし、したがって人民の可能性としての思想をさぐりあてることもできない。民衆としての生活の必然性に追いうちをかけられ、その上昇極に自らを重圧する国家の権力構造をつくりあげてしまうのがさけられない社会的存在の仕方だとしても、日常のなかで非日常性を不連続に喚起し、思想の、精神の自由な領域への脱出を試み続けることで、国家機能を越え得る可能性を導き出していくことが変革への展望を開く鍵になるといえる。支配者においてかつての「国体」概念はそれが最高度に国民の超エネルギーを吸引する支配機能を持ったのだから、人々の生活の根っこに「国体」を支えた本質的なものが存続している以上絶えずそれを誘発していく機会をねらうであろう。
 「私」または「私の生活」を守るという発想と「国家」または「国益」を守るという発想は、かつての「国体」−天皇(制)思想の発想と本質的にはどう違うのだろうか。
 米軍基地−わけても「沖縄の米軍基地」には癇性をたかぶらせることはあっても、自衛隊の存在は「国を守る気概」のなかで暗黙に容認されている、というのが現実ではないのか。憎悪つきない米軍事支配下におかれながらも、沖縄ではあの鬼畜米英教育の中でおぞましい民族主義を象徴したところの「毛唐」(ケトウ)などという呼び方を聞かなかった。
 ところがこの頃、本土の左翼・右翼やそうそうたる知識人から「ケトウ」などという呼び方を聞いて、あれだけの敗戦の歴史体験を経ながらも類的普遍へ感性や思念を開くことはできなかったのだろうか、と奇異な感がしてならない。この「ケトウ」なる語感と「国を守る気概」は自衛隊を容認し、やがては積極的に支える感性ではなかろうか。
 衣装をかえた「国体」的感性の助長、これは明らかにわたしたちが直面している逆流なのである。土着の原点から出発するということはそういうことではなかったはずだ。また、土着のエネルギーの極、土着の想像の極としてわたしたちが夢見続けてきたものは、そのような萎小な体験への回帰でもなかったはずだ。それはいまだ個々の想像力においてしか視ることのかなわない類的共同体の世界へにじり寄っていくことではなかったか。
 一つの国の繁栄、一つの民族のいわれもない誇り、あるいは法に象徴される強者の正義といった観念や感性が完全に相対化されるところからしか類的共同体への視野は拓かれてこないし、その視野を拓いていかない限り、天皇(制)思想の残滓をふっ切ることは難かしい。


(五)

 置県当初から徹底した国家主義の官僚カリスマという厚い壁に遮られて、明治憲法の真意にふれるべくもなく、ましてや開化期の自由民権、啓蒙思想といったものを意図的な教育政策によって遮断されてしまった沖縄の人々は、先進地域としての他府県へ追いつき、同化するということと、忠勇の皇民になることによって「化外」の民のコンプレックスを克服することに百年近い歳月を費やしてしまった。「教育の壁」と似而非インテリたちの嘲笑の集合体は、自由民権思想に一人目を開いた謝花昇を板挟みにして狂死させ、徴兵忌避の農民たちを轢断しながら奈落の沖縄戦へと地獄の歯車を軋ませたのである。
 農民たちは集団でみずからの指を切り落として徴兵忌避をはかり、一方、国家権力は幼年期に落馬して骨折したという農民をクロロホルムで昏睡させ、骨折していないと徴兵に狩り出すという仕方で「植えて見よ花の開かぬ里は無し」と専断を極めていった。
 そのようにして「戦線では、斥候のごとき独立任務には不合格」、「その代り指揮者があって地点を指定し、ここを防守せよと命じたら大盤石で、いかに猛烈な攻撃を受けても微動だにしない。弾薬のあらん限り性根の続く限り頑強に防戦する」(大田昌秀著「沖縄の民衆意識」)というあつらえ向きの兵隊が誕生し、支配者たちをよろこばせることになる。民間においても軍隊においてもいわれなき蔑視があって、化外の民コンプレックスから抜け出るため人々はいよいよ醜の御楯と化すことになった。
 大正期のデモクラシーと無政府主義の若干の影響を除けば、昭和維新の思想的影響も共産主義の影響も表現としてはみるべきものがない。皇国主義のスローガン化した部分だけが、強引に押しつけられ、あるいは受けとられて、人々は比喩的にいえばギリシャ神話のなかのプロクロステースの寝台にいや応なく寝かされた状態となり、寝台からはみ出してしまう手や肢を非情に切断されながら、その苦痛の激しさに見合って、もっとも過熱した小粒のファシストとして誕生し、その背後を思考のパトスを失なった似而非インテリたちが囃したてるといった構図である。
 もちろん、こうした天皇(制)イデオロギーのもっともダメな形式の部分はいまさら批判するにも値しない。
 問題は、沖縄の歴史的条件から同化のために天皇(制)イデオロギーにとびつかざるを得なかったとしても、なぜ明治維新や昭和維新の内実にある天皇をたてまえにしての革新の思想を読みとるものがいなかったか、ということである。
 戦前はもちろん戦後においても、天皇(制)思想をまともに論じたものは沖縄にはない。戦前、戦中世代は「皇民化教育は間違いだった」「天皇(制)思想はあやまりだった」と反省してみせることによって、戦後の社会へのパスを得たつもりになっているにすぎない。
 たとえスローガン化した天皇(制)イデオロギーだったにせよ、それによって自己存在の基底までからめとられてきたのだから、戦後は当然、天皇(制)イデオロギーを徹底的に撓わせていって戦後への出生を自ら証しだてる弾機としなければならなかった。そうすることによって、戦後における沖縄の民衆の存在様式のなかに天皇(制)がどのような屈折を辿り、残影をとどめているか、あるいはどのように消滅させられてきたかも解明されるし、天皇(制)思想をねじふせ、新たに当面する国家主義と対決していく視点も明確にされたはずである。自らの内部の棘としての天皇(制)イデオロギーと格闘した思想的所産を持ち得なかった、ということが今日の沖縄の思想情況を貧しいものにしたといえよう。
 なぜ、沖縄で天皇(制)の問題が究明されえなかったのか。おそらくそれにはつぎの要因が考えられる。
 まず、皇民化教育によってもたらされた天皇(制)イデオロギーが、さきにも指摘したように論理的な実体をもたないスローガン化した形骸だったということが一つであり、もう一つには支配の方法としてあばきたてられた「後進性」から脱却し、日本国民へ同化しようとする強烈な本土志向に支えられたところの郷土愛の土着ナショナリズムが皇国へ短絡していったということである。本土のように天皇自体への狂信性は強いものではなく、信仰対象としての天皇が人々を吸引していたとは考えられないし、また超国家主義の思想に魅せられていた形跡もない。とすればそこからは「国体」または「国家」論を通して天皇(制)の偽意識が批判され、その責任が追求されてこなければならない。それがなされてないということは個々の思想的怠惰に帰されよう。
 さらにもう一つには、沖縄全体を戦争の総被害地域として自分をもそのなかに埋没させることで内側への目を閉ざし、国家や国民に償いを求めていったことである。それは明治以来の差別論と重なり、本土への激しい告発となるが、沖縄および自己の内部の矛盾を止揚する論理とはなり得ず、国家求心志向の新たな意識をよそおっていく。またこの総被害者の意識は際限ない寛容となって戦跡の塔供養から靖国神社へつながり、支配秩序へ収まっていくため、天皇(制)イデオロギーはむしろその人たちの中で濃厚に残存することになる。もちろんそこには天皇(制)への批判は成り立ちようがない。
 いま一つは米軍事支配に対する実感的な抵抗からはじまった「復帰」運動への横すべりである。まず戦後への屈折過程からみていくと、軍事教育によって鬼畜米英観は徹底され、上陸する米軍は単なる敵としてではなく超現実的な悪魔の様相となって人々の恐怖に輪をかけた。この魔像は日本軍がかつて中国や南方の捕虜や一般民を扱ってきた体験の自己投映でもあっただろう。実際捕虜になるまでは、そうした恐怖はどうにもならなかった。ところが想像以上の戦禍のなかで死線を彷徨し、極限的な虚脱状態からいきなりあの物量で象徴される米軍の捕虜となって、それまでの飢餓や恐怖が嘘のように解消されたとき、人々はすでに天皇(制)に呪縛された自己の崩壊をそこに発見した。人種の相違による異和感は別として、その恐怖の的だった米兵たちは個人としてはいかにも気さくで、底抜けで、親切だった。そこで、これは考えていたような鬼でも畜でもないらしい、と警戒心はほぐされていき、やがては米兵への好意にかわった。
 米兵への好意をはやめたもう一つの要因は日本軍への距離をおいた観方である。
 戦局が悪化するなかで日本軍はスパイ容疑で島民狩りをし、惨殺し、食糧を独占し、壕から追い出すなど民間との裂け目を広げていた。そうしたことから人々が学びとったことは、軍隊は国民を守るためにある、という考えを根本からあらためなければならないということだった。軍隊は軍隊を守る以外のことをしなかったし、住民は自らの力で生きのびるほか方法がなかったのである。
 軍隊が国民を守るためにある、というのは平和時における偽意識の呪縛にすぎなかった。壊滅した郷土で虚脱状態になった人々は、ともかくも米軍の物資に寄りすがって生きのびる方途をとったが、やがて朝鮮戦争からベトナム戦争へとアメリカの戦争は継続され、その過程で米軍が『軍隊』としての本来性に戻ったとき、土地の強制収容や布令布告の渙発となり、米軍事支配への抵抗は強固なものとなった。共産主義の脅威から沖縄を、自由陣営を守るのだという米軍の宣撫はなんらの効ももたなかった。軍隊の守ろうとするものがなんであるかを実感的に人々は知っていた。
 しかし無秩序で即自的な抵抗のエネルギーはそのままでは方向性を持たない。そこに「祖国復帰」のスローガンが出て正面攻勢から旋回攻勢へと転じつつ「島ぐるみ」運動は肥大し、抵抗のエトスは拡散されていくわけだが、その過程は論理的に究明されることはなかった。沖縄闘争の初期的段階では米軍と直面していく抵抗がすべてであり、「祖国復帰」の方向へ転じてからは、いわば敵の側面通過というかたちになる。「民族独立」のスローガンは本隊に集結して陣を立てなおすということであり、本隊集結までは整然と統一することが必要であって正面攻勢に力を尽し戦局を変えるという方法はとらない。それは「平和憲法」「世界上位の経済的繁栄」といった祖国の虚像へ吸引される大衆の生活欲求と癒着して、いよいよ体制志向の運動と化していった。
 「抗議」に支えられた運動が「陳情」にすがる運動へ移行し、リーダーの入れ変わりと変質をかたちづくっていった。大衆の生活欲求の肥大と、支配関係――軍隊へのリアルな認識の喪失は併行する。
 その過程で思想における戦争責任の問題があらためて問われなければならない情況になった。皇民化教育について“行きすぎだった”“とか“誤まりだった”といった反省意識でやりすごした戦前、戦中のインテリゲンチャたちは情況に足をすくいとられて、はからずも自らの本姿を曝け出す結果になったのである。
 闘争が抵抗そのものだった時点では保身のために口を閉ざし、目的喪失の状態にあった彼らは、復帰運動がなんらの革新性も意味しなくなってから復帰運動の前面に出て来た。
 かつての天皇(制)思想の内実となっていたものが相似形として大衆運動の動向に重なってきたため、それは彼らの馴化された意識や感性の陰画にオーバーラップしていき、大衆的情況にそぐわない異質な存在として自己を疎外する必要がなくなったためだといってよい。そうした階層の社会への参加はリベラルなポーズによってどのような情況にでも逃げこめるようになっているのである。
 明治の琉球処分以来、頑固に引き継がれてきたところの、近代化した中央(本土)と、後進的で貧しい沖縄という伝統的な思考様式は、復帰運動の過程であらゆる面に噴出し、一面、沖縄の総革新化の観をみせながら、大局的には国家への凄まじい求心力をかたちづくり、まるごと反革命へからめとられていくことになったのである。
 唯一の国内戦場として、集団自決や学徒動員されたものたちの玉砕をはじめ、ほとんど極限的なかたちで天皇(制)思想にうら切られた沖縄の民衆は、どうして性こりもなく、かつて天皇(制)イデオロギーに吸引されたのと同じ心的位相で本土を志向し続けるのだろうか。復帰協の運動のなかで、人々が「本土」というとき、それは「国家」や、あるいはかつての天皇(制)絶対主義に基づく「国体」といった概念乃至イメージと厳密には見分け難いものとなっている。
 それらは明らかに異なった概念やイメージをもたなければならないはずなのに、どうして沖縄では混沌として判明し難いものになっているのだろうか。
 沖縄で「本土」という場合、それは人によって「国家」であり、また「同一民族」であり、文化や経済の中央であり、あるいは漠然とした豊かな地理的空間といった様々なイメージとしてとらえられているが、いずれの場合においても個々の人間が営んでいる社会生活の具体性においてはとらえられていない。
 実際に東京や大阪、九州の各地域で生活を体験してきた人々の場合でさえ、沖縄に来て「本土」という場合、その対象となっているのは、かつて東京や九州で体験してきた生活の具体的な場につながるイメージであるよりも、もっと抽象化された不明確な概念と幻想なのである。
 こうした本土への幻想が成りたってくるのは、沖縄の歴史的位相と地理的空間の構成が原因しているのではないかとおもわれる。
 この二つの要件が、沖縄の本土志向を決定ずける強い要素になっている、としたらそれは同時に本土の各地方においてもなんらかの共通性を見い出せるのではないだろうか。つまり文化の集中化した中央都市空間への幻想とでもいったものが、人々をして権力中枢へ吸引していき、そうした幻想がなんらかのかたちで破綻し、権力中枢が吸引力を保てなくなってきたとき、それはさらに日本島弧の外へ向けられるよう操作されていくのではないか。かつての大陸空間への夢も、現在進行形の東南アジア海洋空間への夢も、人々のもつ地理空間への幻想を梃子にした資本の海外進出であるため、単に資本主義の原則としての海外市場争奪の意味を越えて「国民の幸福」とか「国の繁栄」といったナショナル・コンセンサスを容易につくりあげていくのではないだろうかとおもえてならない。
 要するに、沖縄にとって「本土」とは、いまもって憲法をはじめとする諸法制度を沖縄におよぼし、外交によって保護し、諸政策によって個人や地域の向上をもたらすところの、いわゆる「大和親国」なのである。いいかえると、国家自体がつくり出す幻想性と、国家を成り立たせる共同幻想によって「本土」という空間イメージが形成されている。沖縄自体の幻想が本土との対比で絶えず逆交錯のかたちをとってくるのは、そのためであろう。
 吉本隆明氏は、「共同幻想論」のなかで「人間はしばしばじぶんの存在を圧殺するために、圧殺されることをしりながら、どうすることもできない必然にうながされてさまざまな負担をつくりだすことができる存在である。」といっているが、この関係は、もちろん「人間」つまり「個」の幻想と「国家」すなわち「共同」の幻想との原理的関係として理解されなければならないが、この関係を「人間」は、と発想するよりも「沖縄」は、という地域性に拡大し、同時に「国家」よりも地理的空間のイメージを加味した「本土」として幻想関係を成りたたせた方が沖縄ではより理解しやすいことになる。ということは、個人と国家との関係の契機が直接的なものではなく、絶えず島的共同体に一旦ぶつかったうえで屈折したところに成り立ってくるためである。それが近代以降の沖縄の伝統的思考様式の根拠であり、地域的全体性、島ぐるみ、本土からの差別といった発想もそこから導びき出されてくる。
 ところで問題は、そのような幻想としての国家(本土)、あるいは国家(本土)自体が織りなす幻想とは別に、資本の有機的つながりがつくり出す幻想が考えられないと問題の説明がつかなくなっている。超国家的次元で結合していく資本の規模は、既定の幻想を大きく崩壊させ、一国資本主義のワクを跳び越えて自律的に拡大されている、とみられるからである。
 沖縄の場合だと、地域資本は地域経済の振興というたてまえをとりながら、地域共同体の幻想を崩壊させ米国資本や本土資本と結合し、階級分化を激化させていく。
 貧因や自滅を防ぐための部落、血縁共同体の意識は、より大きな外側からの困難に対処するため、沖縄という郷党意識に拡大し、島ぐるみというかたちの運動になるが、そうした地域的全体性を梃子にして、地域資本の蓄積は進み、そして地域性のワクを越えていく。
 蓄積されたドルが地域共同体としての幻想の基盤に杭を打ちこんでいくのである。
 いまのところ、この杭は本土からの差別という作為的な意識でカムフラージュされているが、本土へ引き寄せられることによってあらわになりつつあるのはいうまでもない。
 同時にそのことは「本土」という地理的空間性において、その本質をぼかされてきた「国家」が、個々との関係をより直接に強めることでもあり、島ぐるみ闘争の神話が完全に崩壊することを意味する。つまりこれまでのような国家の枠外からの国家権力への抵抗や抗議ではなく、地域内における階級間の闘いを通してしか国家権力への抵抗も抗議も成りたたない、ということである。
 現実に日、米資本の沖縄を舞台とする確執と癒着は、地域経済の振興とか、後進的沖縄経済の近代化といった目潰し策によっていよいよ露骨になり、その目潰し策に酔った地元の政治指導者たちは手の舞い足の踏むところを知らず、大アルミ工場建設誘致、大石油コンビナート建設、パイロット訓練場誘致、原子力発電所建設と矢つぎ早に打ちあげられるアドバルーンにぶら下ったまま幻の工業立県へと「ヴィジョン」の旅立ちを急いでいる。
 問題になっている米軍の毒ガスがもはや米本国にも持ち帰れないしたたかなものとして沖縄に保蔵されているのと同様、石油コンビナートも大アルミ工場も人間の生存条件を根本的に脅やかすなんらかの根拠があるからこそ、立地条件の良くない沖縄に白羽の矢をたててくるのだろうし、またパイロット訓練とか、原子力発電所もそれが「実験」の段階にある危険な失敗率の高いものであるために、一種の棄民地帯として支配者の脳裡に描かれている沖縄を選定してくるのではないだろうか。
 熊本県の水俣病、新潟県の阿賀野川の有機水銀中毒といった例、熟練パイロットであるはずの米軍のB52やジェット機の墜落、原研東海研究所の第二号炉の火災事故といった例を考えれば「民衆の幸福」のためとされる「地域経済振興」にかくされた地獄の様相が明らかにみえてくるはずである。
 すでに高度工業化した地域では、単なる経済効率を価値の上位におく考えから、これまでは自然の所与として価値の概念に入ってこなかった澄んだ空気や水、陽の光、緑の草木や生息する昆虫、小動物のたぐいが、人間が人間らしく生きていくうえでの新たな価値として見直されており、高度工業化のそのようなドンづまりをないがしろにした「沖縄の近代工業化」は、高度工業社会の極限化された矛盾の典型として墓穴を掘る結果になる。「地域住民の幸福」とか「国民の幸福」あるいは「沖縄の繁栄」「国の繁栄」といった唱い文句が、なぜ最近の支配層からしつこくくりかえされてきているのだろうか。
 このことは、戦後の日本経済の高度成長に仮託されてきた個々の生活向上の夢が袋小路に入ってしまい、現実にウラ切られてしまったことからかつてウルトラナショナリズムを成立させたように、「幸福」や「繁栄」を抽象概念のなかに求めるほかなくなってきた、ということではないのか。それに対し、沖縄の場合は、神武景気や岩戸景気の謳歌を羨望するだけでそれにあずかることができなかった、ということで、最初から本土に対する幻想を膨らませてきたため、おくればせながら本土に見ならった「沖縄の近代工業化」に夢を仮託している、ということである。
 こうした沖縄における民衆の本土幻想と、政治指導者たちの「豊かな県づくり」構想は、アジア戦略に立脚した日、米の軍事目的と歩調を合わせた戦略的企業の進出と吸引し合う関係をつくり出しており、政治面では国政参加による日本国家体制への総なだれこみとなって現われてきている。
 わたしはまえに、日、米支配者のアジア戦略のうえから、沖縄に居住する百万人の人間が生きながらにして死亡者台帳に登録されている、という事態を糾問したが、明らかにされた米軍の毒ガスや細菌兵器の貯蔵は、偶発的に百万人を死刑執行する機能として現存しており、人々の運命が人為的な偶発性にすっかりゆだねられているという危機の実態を明らさまにした。このようないわれなき死刑囚の立場に置かれていながら、あの沖縄戦のとき“死ぬことによってお国を守ろう”と申し合わせながら、無惨な集団自決をくり展げた慶良間島の人たちの発想と同様に、「安保の砦」になったり、「国を守る気概」をもつとはどういうことだろうか。
 「豊穰」への祈念に基づくナショナリズムは、それ自体決して不健全ではないし、かつて人々が天皇制に吸引されたときに抱いた「祭」と「政」の融和による古代共同体的幻想もそれ自体なんら悪ではない。ただそれが資本主義の悪と結びつけられ、民衆に対する搾取と抑圧へ矢印を逆に向けたとき、最大の悪となったのである。ということは民衆の純粋なナショナリズムや幻想の持つ巨大なエネルギーを、資本の論理に収斂させず、その矢印の逆向きをはねかえす民衆の自立の根の深化を押し進めることによって国家廃滅にまでいきつこうとするのが思想の闘いとなるだろう。
 戦後、日本の旧軍隊をつき離し、アメリカ軍の滞沖の目的を否認し続けた覚めた状態の民衆が持つアナーキーなエネルギーを、国家目的の鋳型に流しこんでいくような動向を執拗に糾弾し、また肥大する生活欲求の深みで眠りこもうとする民衆に、苛酷なまでの鞭をふり続けねばならない。民衆とはほかならぬ己れの下半身であり、日常性を水平に移動する生活者としての自分の像である。その像を殴ち据える鞭としての“ことば”に呻吟し、内部の叛乱を喚起していくとき、他人のなかの自己叛乱とシノニムの思想空間を構築していけるはずである。
 「国の繁栄」や「国を守る気概」といった文句が、あくまでブルジョアジーの“錦の御旗"であり、逆矢印であるにもかかわらず、そのようなブルジョア国家の背後を支えるものが、かつての天皇制のときと同じパターンの、日本土着の情念の死角であるならば、わたしたちはどこまでもその死角を撃ち続けていくほかない。そのためには「とどまるも地獄、進むも地獄」という沖縄の歴史的必然を踏まえ、わたしたちが追いこまれてきた暗澹たる宿命の洞窟を過去の方へ視るのではなく、それを未来に凝視することによって、思念の弾機を撓わせていかねばならない。
 天皇(制)イデオロギーの極限的な発現としての沖縄戦と、戦後における国家と沖縄の関係は、支配と被支配との歴史的関係として象徴的でさえあり、したがって天皇(制)と戦後の国家権力への対峙は、同時に歴史的未来から検証しても、なおわたしたちの現在の生き方なり考え方なりが、その時点における歴史の裁きにも耐え得るものであるかどうかという自らへの問いと不離一体になる。
 でなければ、沖縄の戦後25年という体験を単に政治的処理に解消させてしまい、なんのための苦悩であり、闘争であったのかわからなくなるということである。
 このことは、明治以降におけるすぐれた先達たちの“沖縄学”でさえ、その学問的成果はともかくとして、その当時の国家目的を遂行するのに大きな役割を果たしていた、という痛切な事実をふりかえるとき、いよいよ重たい課題として、のしかかってくる。




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