1章

 一行は宿屋で、今後の行動について協議していた。
 既に医者であるグレム氏は自宅へ帰った後である。
 例の猫は、いまだ目覚めぬ少女の上で丸くなっている。
 最初に口を開いたのはフェスターであった。
「あ〜、例の地図に描いてあった場所も見当がついたことですし、近いうちに旅に出ることになりますよね?とりあえずその準備をしておきたいと思います…保存食の買い物とか。どうやら賞金首になったらしいですし、グレムさんとか巻き込まないようにできるだけ早目に街を出ましょう」
 セラもフェスターの考えに賛意を示した。
「そうですねぇ…わたしも出発の準備を整えることには賛成ですねぇ。というわけでお買い物に出かけましょうよ〜」
「ちょっと待て」
 そう言って立ち上がりかけるセラをフェイルが押しとどめる。
「確かにはやく街を出たほうがいいのは確かだ…だが敵の様子もわからんのに不用意に動くのは危険だから…おい」
「え?」
 フェイルが言っていることに気づいているのかいないのか、セラは既に出かける準備を整えていた。
 いつもの僧服を脱ぎ捨てるとその下から一般の人が着ているような服が出てきた。
さらにいつもは後ろに流しているだけの髪を上げてまとめている。
 ただそれだけでも、ぱっと見の印象はずいぶんと変わっている。
「あらあら〜、何か問題でしょうか?」
「問題ですか、じゃない…もしかして変装のつもりか?」
「はい〜」
 フェイルは頭を抱えた。
 確かに印象は全くと言っていいほど変わったが、セラは変装の玄人では無いのだ。
 見るべきものが見れば、容易にその正体を判別できるであろう。
「あ、いいですねえ。では僕も買い物についていきます。欲しいものもありますし」
 そういっていそいそと用意をはじめたのはレストである。
 見るとフェスターも出来る限りの変装を試みている。
 フェイルは止めても無駄だとあきらめた。
 彼らにレリックが声をかける。
「愚僧は宿で待っておることにする。気をつけていってくるのだぞ」
「俺もここで待っている。必要なものを購入したらさっさと帰って来るんだ」
 フェイルはそう言うと、もう一人の男…少年に視線を向けた。
 その少年…バロックは、ぼぉっとした風情で窓の外に目を向けてたたずんでいた。
 バロックはレリックに手当てをしてもらったことを恩義に感じたのか、あの後彼につきまとっている。
 レリックはレリックでバロックからいろいろ聞き出そうとしてみたが、わかったのは彼が記憶喪失で以前のことをまったく覚えていないということだけだった。
「奴が本当のことを言っているとは限らんし、ここの守りも必要だろう…」
 フェイルは口の中だけでそうつぶやいた。
 そして周囲を見回すと、さらに言葉を続ける。
「なんにせよ、今から用意してどうする。もう夕暮れだぞ。買い物は明日にしろ明日に」

 次の日の朝から、セラ、フェスター、レストの三名は街へと買い物に出かけた。
 セラとレストは、今付けているものでは心もとないと、新品の皮鎧他の防具まで新調した。
 この街にあった武具の店に、二人の身体にあった品が置いてあったため、新品を仕立てなくてすんだのは幸運だったと言えよう。
 もしそうでなければ、良くて直しに数日、悪ければ完全に最初から作るために一週間以上必要なところであった。
 無論彼ら二人が比較的標準的な体型であったせいもあるだろう。
 その後彼らは市場で雑貨などを買うことにした。
「しかし、宿に残ってた人たち…レリックさんやフェイルさん、食料とか大丈夫なんでしょうか?買ってきてくれともなんとも言いませんでしたが」
「どうなんでしょうかねえ…聞いてみればよかったかもしれませんね」
 フェスターとレストは食料品を手にとって眺めながら、そんな会話を交わしていた。
 セラも、斜向かいにある露店の店頭に並べてある短剣を熱心に選んでいる。
 前回、操手槽に鼠が乗り込んできたのに相当懲りたようだ。
 そのうちから一本を選び、店主に金を払う。
そのときセラの目に、露店の片隅に置いてあった一本の杖が飛び込んできた。
 美しい彫刻が表面に施された他は、一見どこにでもありそうな真新しい木棍である。
「…これは?」
 思わずセラはその棍を手にとり、店主に尋ねた。
「ああ、その杖は一応売りもんだよ?ちょっと値は張るがね。なんつってもいわくつきの品だし」
 たしかにいわくつきというのは嘘ではなさそうである。
 近くでよく見ると、彫刻の精密さはいかにもただものではなさそうで、威厳の様なものさえ感じられる。
 さらに持ってみた感じは、手に吸い付くようである。
 店主は説明を続ける。
「なんつっても五十余年前、とある高徳な聖拝ペガーナの坊様が戦神バズディさまの神託を授かり、霊峰ラムクトのバズディ山麓に分け入って艱難辛苦の末に見つけ出した御神木!それから削りだして作られたという神器がそれだよお客さんペペンペン!…まあ眉唾だけどな」
 そう言って店主は大声で笑った。
「なんつったって五十年以上昔の品にしては、今作られたばっかりみたいに真新しいしな…って最近作られた物だろ間違いなく。俺が仕入れた先でも同じ事言って笑ってやがったよ。でもまあ、その彫刻の見事さはたいしたもんだ」
「おやおや…あらあら」
 だがセラは、店主の説明を聞き流しているかのようだった。
 その目は木棍に吸いつけられている。
 店主も、そのセラの様子に思わず黙り込んでしまった。
 しばらくしてからセラが口を開く。
「あ、あのぅ…これおいくらでしょうか?」
「あ、ご、五百ゴルダだがね…」
 その値段は、おそらくその棍の芸術的価値に対してつけられたものであろう。
 その彫刻は素人目で見ても、たしかに素晴らしいと認めざるを得ない物だった。
「はぁ…あのぅ…いくらか値引きしていただけないでしょうか…」
 いかにもすまなそうにセラが店主に頼んだ。
 だが店主は首を縦には振らなかった。
「う〜ん、申し訳ないけど、こっちも商売だからねえ…五百でもこっちの儲けがやっと出るかどうかなんだ」
 セラは諦め切れない様子でしばらく粘ったが、店主は折れなかった。
 そこに買い物を終えたフェスターとレストがやってくる。
「どうしたんですか?次いきましょう」
「僕は馬も欲しいんですよ。街外れまでいかないと駄目ですから、いそぎましょう」
 促す二人にセラは気落ちした様子で頷くと、二人の後について歩き始めた。
「…どうしたんですか?怪しい奴の用心に、と耳をすませてたら、聞くともなしに聞いてしまったんですが。あの棍にご執心だったみたいですが…ああいった飾り物より実用品の方が好きだとかって言ってませんでした?」
 セラは、レストの言葉に頷く。
「ええ、そうなんですけれどねぇ…ただ、あの棍にはなにか…なにか感じるんですよ」
 そんなセラの背中に、店主が声をかけた。
「おーい姉ちゃん。もし金の都合がついたらまた来なよ。しばらく同じ場所で店あけてるからよ」

「いやあ、あそこの馬の仲買人はなかなかですねえ。レリックさんの言ったとおりでした」
 レストは嬉しそうに言った。
 レリックが馬を買った同じ商人から、彼も馬を買ったのだ。
「頑丈そうで足も速そうです。いやあいい買い物をしたなあ」
「そういえばレリックさんの馬もまだあの牧場に置いてあるんですよね?昨日は結局取りにいけなかったですし」
 フェスターの問いかけに、レストは頷いた。
「ええ、僕の馬も馬具の合わせとか時間かかりますし、次回にでも一緒に取りにいけばいいでしょう」
「私は従兵機がありますし〜馬はいりませんねぇ」
 セラがのんびりと答えをかえす。
 そういいつつ、皆の手は武器の柄に伸びていた。
 突然、物陰からばらばらと五人の男が飛び出して彼らの前後を塞いだ。
「…やっぱり出ましたね」
 フェスターがため息混じりに愚痴をこぼす。
「昨日と場所まで同じじゃないですか…芸が無いですねえ」
「あらあら…フェスターさん、ずいぶん場慣れしましたねぇ」
 セラとフェスターの相手をなめ切った様子に、ゴロツキどもは激怒した。
「て、てめぇらっ!」
「昨日だと!?何の話でぇ!?」
「なめやがると承知しねえぞ!」
「へっ…い、言わしとけよ、お、俺たちゃこいつらをブチ殺して賞金貰えばそれでいいじゃねえ、か、かよ」
 ゴロツキ達の様子にフェスターは再びため息をついた。
「はぁ…彼らのいう事が本当なら、昨日とは別口みたいですね…賞金目当てには違いないでしょうけど」
 本当の所、彼ら三人にそれほど余裕があるわけではない。
 彼らとて戦いにそれほど熟練しているわけではないのだ。
 しかしこのゴロツキどもは、昨日レリックとフェスターを襲った連中よりも更に腕は悪そうに見える。
 その印象は、すぐに実証されることになった。

「ち、ちくしょう…」
 ゴロツキの一人がボロボロになって倒れ伏していた。
 残りの四人は彼を見捨てて逃げ去ってしまった。
「いたた…皮鎧新調してて良かったなあ…ブッスリ刺されたしなあ」
 レストがぼやいた。
「さて〜、もしよろしければ何故私たちを見分けられたのか教えていただけませんか?」
 セラがゴロツキを問い詰める。
「ち、ちくしょ…わ、わかった、話す!話すから傷口から手を放してくれっ!」
「わかればいいんだ」
 そう言ってにっこり笑ったのはレストである。
 彼が今回一番痛い目にあったせいか、容赦が無い。
 レストが手を放すと、ゴロツキは語り始めた。
「ち、ちくしょう…こないだウチの親分のところに、お前らに賞金をかけるって話を持ち込んだやつがいてよ、持ち込んだのはウチだけじゃねぇみてぇだったがよぉ…で、今日ついさっきそいつの使いが、お前らが変装して歩き回ってるてぇ話と、その人着…人相着衣と今どこらへんにいるかてのを伝えてきたんだ…で、今兄貴たちはいなくて俺達だけだったから親分が俺たちに…」
 フェスターは考え込んだ。
「…どうも我々の動きは見張られてるようですねぇ…」
「で?あなたの話だとその話を持ち込んだやつや、その使いって人の顔とか知ってそうですねぇ。僕たちに教え…!」
 レストは異様な殺気を感じて飛びのいた。
 次の瞬間、ゴロツキの首に何本もの針のようなものが突き立った。
「ぎゃあああぁぁぁっ!?」
 断末魔の悲鳴とともにゴロツキは絶命した。
 その針のようなものは、一瞬の後ぐにゃりと力を失うと、死体の上に垂れ下がった。
「か、髪の毛?」
「た、『端気弾』!?練ぽ、いや妖術ですっ!避けてっ!」
 フェスターにはその術の正体が理解できた。
 彼は錬金術を本来の生業としているが、そのためある程度の妖術…練法を使うことが出来るのだ。
 もっとも彼は今その練法に必要な聖刻石を持っていないため、術を行使することはかなわない。
 しかしそれでも相手の術が何なのかを理解するぐらいは出来る。
 しかもそれが同じ門派である木門の術であれば、なおさらである。
 彼らはその髪の針が飛んできた方向を見た。
 四、五リート(十五から二十メートル程度)も離れた場所に、一人の男…おそらくは男であろう人物が立っていた。
 顔は目のところだけが開いた覆面で隠し、緑色の外套を着込んでいる。
 その肩の上には、鼠色の猫ほどもありそうな何かの生き物…この距離では判然としないが、おそらくはあの巨大鼠であろう…が乗っている。
「…若干頭が大きい…たぶん指揮官役やってた鼠と同じ種類だ…」
 レストが呟く。
 彼は悩んでいた。
 術を使って応戦すれば練法師としての正体がセラやフェスターにばれてしまう。
 だが術無しでこの場を切り抜けられるかどうかわからない。
 仮面を持っていないということは高位の術は使用できないという事だが、低位の術でも致命的な効果を持つものは少なくないのである。
 敵練法師の肩の上にいる鼠らしき生き物が鳴いた。
 それに対し、練法師は頷いて見せ、両手で細かい印を組み始めた。
「あぶないっ!」
「!」
 フェスターが叫ぶと同時に、レストは懐の短剣を投げ打った。
 短剣は相手の胸を直撃したが、相手に動じた様子は無かった。
 フェスターは全力で敵の方に向かって走りだした。
 セラも一拍遅れて走り出す。
 練法師が着ている外套のフードの内側が異様にうごめき、その中から数本の針が飛び出してくる。
 レストは必死でそれを避けようとしたが避けきれずわき腹に食らってしまった。
「ぐわあぁっ!」
 レストはそのまま倒れ伏した。
 フェスターはその様子を見、一瞬動きを止めてしまった。
「レストさんっ!?うわっ!」
 フェスターは間一髪で練法師が放った針を回避した。
 そのフェスターをセラが追い抜いていく。
「やめなさい、あなたもここまでよ」
 セラは棍を振りかざし、相手に叩きつけようとする。
 そのセラに向かい、相手は再度術を放った。
 相手の指先から爪が千切れとび、セラの喉もとに向かって飛んだ。
「!?」
 練法師の口元から、驚愕の叫びが漏れた。
 弾と化した爪は、セラの喉の皮膚に触れる直前で止まっていたのである。
「気闘法にはこういう使い方もあるんですよ〜」
 セラが振るった棍は練法師を強く打ち据えた。
 そのまま第二撃を打ち込もうとするセラに、相手の肩にいた鼠が襲い掛かる。
 セラがひるんだ隙に、相手は身を翻した。
「あっ、ま、待てっ!」
 追おうとするフェスターをも鼠が牽制する。
 結局、フェスターの小剣がその鼠を仕留めるころには練法師の姿は見えなくなっていた。
 二人はレストのもとにもどった。
 レストの傷は重かったが、深刻な程ではなさそうであった。
「あらあら…私はちょっと術を使いすぎちゃいました…術による治療を施せません〜、軽い傷なら直せるんですが、ここまで重いと〜」
「いそいでレリックさんの所へ運びましょう」

 フェイル、レリック、バロックの三人は宿でくつろいでいた。
 ただし、あくまでそれは表面的なものである。
 バロックは、一見ぼーっとして何も考えていないかのようで、時折窓の外などをうつろな視線で眺めている。
 フェイルはそのバロックに時折厳しい視線を配っており、身体を休めていても油断はしていない。
 その間にはさまれたレリックは気が休まるどころでは無かった。
 どうにも空気がとげとげしい。
 猫は頭を胴体の下に押し込んで丸くなっている。
(…こんなことなら、買い物組についていった方がよかったかのう…それはそれで恐い事態になりそうだしのう…この近隣にはカルバラ寺院も無いそうだし、どうにかして情報を集めようにも…街の役場やなにやらにでも行けばよかったかの)
 レリックはため息をついた。
 一応宿の主人には話を聞いてみたが、ミルジアの北には小規模な遺跡が時折発見されるという話が聞けたぐらいだった。
 遺跡といっても、宝物が見つかったとかいう話ではなく、単なる住居跡とかであるらしい。
 もっとも、宝物が存在しないとも限らないが。
(…宿の主人は、『なんなら周旋屋にでも話を聞いてみればよかろうに…あ?連絡を取る方法なんざ、あんたら山師の方が本職だろうによ』と言っておったが…)
 周旋屋とは、いわゆる情報屋と仕事の斡旋とを混ぜたような、山師ややくざ者相手の商売である。
 山師たちが発掘する古代遺跡の情報などを、山師たちに斡旋するのが主だが、他にも裏の情報にも通じている場合が多い。
 盗賊匠合や、場合によっては暗殺者匠合などに通じているとも言われている。
(…あの三人が帰ってきたら、そういった所への接触方法に心当たりがないかどうか聞いてみるかのう)
 レリックがそう思ったときだった。
 彼の鼻に焦げ臭い匂いが漂ってきたのだ。
「…なんだ?」
 フェイルもその匂いに気づいた。
 バロックはすっと立ち上がると窓の外を見回した。
「………あ。火事……」
 バロックの台詞にレリックはあわてて窓から外を見た。
 彼らの宿の一階部分から煙が出ていた。
 しかも一箇所ではなかった。
 一階のあちこちから同時に火の手が上がっていたのだ。
「も、もしや付け火かっ!?」
「荷物を外に放り出せっ」
 フェイルは全員分の荷物を窓から放り出した。
 彼らの部屋は二階にあるため、いくつか壊れる荷物もあるかもしれないがやむを得ないだろう。
 セラの荷物を放り出していたとき、フェイルは狩猟機の仮面に気づいた。
「ちっ…これはさすがに投げるわけにはいかんか…」
 そう呟くと、彼は手近な紐でそれを背負い、引き続き残りの荷物を窓から放り出した。
 おそらくフェイルは、仮面が自分の持ち物であれば、遠慮なく窓から放り出していたことだろう。
 レリックは少女を寝かせてある別室に飛び込み、彼女を抱き上げて出てきた。
 その少女をバロックが強引に抱き取る。
「…あなたより僕の方が力ある……」
 バロックはそう言うと、レリックを扉のほうへ押しやった。
「いそいで外へ!」
 フェイルが叫ぶ。
 彼らは扉に向かって走った。
 だが、彼らの前に天井から何かが降ってきた。
「!」
「こやつらは!」
「…?」
 それは三匹の鼠であった。
 猫ほどの大きさがある。
 しかも中央にいる一匹は頭部が若干大きめであった。
「キィッ!」
 その頭部が大きい鼠が叫び声を上げると、残り二匹が彼らに飛び掛ってきた。
「………」
「いかん!」
 バロックが無言で前に出ようとしたが、レリックがそれを押しとどめる。
「お手前はその少女を守って逃げっ!ぬおっ!」
 レリックは鼠の攻撃を間一髪かわす。
 バロックは頷くと、きょろきょろと左右を見回した。
 彼はそのまま窓に突進し、窓枠を破壊して外へと飛び出した。
 おそらく鼠を排除するのを待っていては、階段から逃げるのには間に合わないと判断したのだろう。
「ちっ、無茶をする…だが正解かもな」
「フェイル殿、こやつらにあの少女を追わせてはならぬ…ぬ?」
 鼠たちは、窓から脱出したバロックと少女にはかまわず、残ったフェイルとレリック二人を逃がさぬように三方から取り囲んだ。
 しかも時々攻撃をしかけるそぶりは見せるものの積極的に攻撃はせず、こちらが殴りかかるのをかわすことに専念しているようだ。
「こ、こいつら時間を稼いでいやがる…?」
「愚僧達を火事で始末するつもりなのであろうの…こやつら自分が火に焼かれることも恐れておらんようじゃ…いや、こやつらが火をつけたのやもしれぬ」
 既に扉の外や床下から猛烈な熱気が伝わってくる。
 パチパチとなにかが爆ぜる音も聞こえてくる。
「くっ!相手をしている暇は…」
 フェイルは鼠にかまわず、バロックが飛び出した窓に突進しようとした。
 しかしその瞬間、鼠の一匹が彼の足に噛み付いた
 フェイルは不覚にも転倒する。
 レリックはそのフェイルを庇おうとした。
 しかし鼠はフェイルを襲おうとはせず、周囲をとりかこんで、ときどき思い出したように威嚇するだけである。
「く、こいつら…」
「愚僧達を逃がさぬことのみ考えておるようであるの…」
 熱気はどんどん増し、もはや僅かしか猶予は無いだろう。
 フェイルとレリックの心に焦りが走る。
 その瞬間、黒い物が二人の視界の片隅を走った。
 リーダー格の鼠の首が宙に舞う。
 そして残りの二匹の鼠は、急に我に帰ったかのようにあたふたしはじめると、我先にとばかり窓から飛び出していった。
「フギャーッ!」
 二人が見ると、あの黒猫が壊れかけた窓枠に乗り、二人を呼ぶかのように鳴いていた。
 まず我に帰ったレリックが、次にフェイルが慌てて窓枠から飛び出した。
 それほどの高さではなかったため、二人とも傷を負うことはなかった。
 彼らの後を追うように、黒猫も路上に飛び降りる。
 二人が見上げると、今まさに彼らが脱出してきた窓から、炎と煙とが噴き出していた。
 見ると、宿の主人が呆然と燃える宿屋を見上げている。
「気の毒に…」
「ああ」
 彼らの周囲では、類焼を防ぐため周囲の建物を取り壊す作業が行われていた。
 レリックとフェイルが、放り出した荷物を集め終わったころ、最初に飛び降りたバロックが姿をあらわした。
「おおバロック、お手前のおかげでうわっ!」
 バロックの左肩は変な形に歪み、だらんと垂れ下がっていた。
「そ、それは!?」
「……飛び降りたとき、この娘をかかえていたから……」
 かかえていたために、受身をしくじったのだろう。
 だが少女には傷ひとつなかった。
 おそらくバロックが身を呈して少女を守ったのだろう。
「そ、そうか…バロックのおかげで助かった。礼を言わねばな」
「…頼まれたから………」
 フェイルの台詞にも、バロックはポツリと答えただけだった。
 レリックはバロックの肩をはめると、気功で治療をはじめた。
 みるみるうちに腫れが引いていく。
「にゃー」
 黒猫が鳴いた。
 そちらを見ると、買い物に出かけていたはずの三人が呆然としていた。
 いや、正確には呆然としていたのは二人である。
 最後の一人であるレストは未だ気を失い、セラとフェスターに担がれたままであったのだ。

 その後彼らは、街外れにある木賃宿に移った。
 木賃宿とは、文字通り木、つまり薪の代金だけ払って泊まる安宿の事である。
 寝るための天井…それも雨漏り付き…と、小さなかまどがあるだけのキャンプ小屋とでも言えばいいだろうか。
 街中にある他の宿は、もともと数が少なかったこともあり全員で宿泊できる余裕のあるものは無かった。
 もっとも、もともと料理はレリックが作っていたし、街中の宿と比べ貧乏臭くなった他はそう変わりがあるわけでもない。
 例の医者、グレム氏は宿が全焼した話を聞いてすぐに駆けつけてきた。
 彼は『病人もいることですし、怪我人もいるみたいだ。もしよければうちにいらっしゃいませんか?』とまで言ってくれたが、この気のいい医者を巻き込むことを恐れた一行は丁重に断った。
 無論彼は、レスト達の怪我は火事で負ったものだと思い込んでいる。
「…さて、これからどう動くか、だが」
 フェイルが一同に問い掛ける。
「この街を早目に出たほうがいいとは思う…が、敵の規模も何も情報が無い状態では危険か、とも思う。お前たちはどう思っているか聞きたい」
 一同の誰もが厳しい顔をしていた。
 その様子をバロックが興味のなさそうな顔つきで、焦点の合わない瞳で見つめている。
 黒猫が、未だ目覚める様子の無い少女の枕もとで眠そうに目を閉じた。


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