梅ヶ渕観音院/鹿児島市/合格祈願/商売繁盛祈願/厄除開運祈願/水子供養/永代供養付き納骨堂/ペットと入れる納骨堂


       

鹿児島市 梅ヶ渕観音院(梅ヶ淵観音院)のお知らせ


◎ カーナビの案内が間違っている事が有りますので、案内図をご確認下さい。地図はこちら


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お便り


7月のお便り


内緒(ないしょ)」・「内証(ないしょう)

秘密にしていること、内々にすることなどの意味で使われる

内緒」ですが、その語源は仏教の言葉である

内証」だとされています。

仏教の「内証」は「ないしょう」と読み、

仏教の内なる悟りあるいは悟った心理のことを指します。

外に表すのではなく、心の中で考える」という部分の意味が

転じて現代の「内緒」につながって言ったそうです。


信仰や学問を重ね「内証」を深めることは大事です。

でも日常の日々を重ねる中での様々な経験や

人との出会いで得た「気づき」も「内証」へつながる

大きな力となるのです。

内証」は「内緒」です。

自分の思いをまわりに完全に理解してもらうことは出来ません。

同様に他人の心を完全に理解することは不可能です。

違いを認めたうえで自分自身の「内証」を

目指していくことが大切なのだと思います。


七月に入りました。

当院は昔の鹿児島の七夕である旧暦の七月七日の

八月七日まで七夕飾りを設置します。

宜しければ短冊にお願い事を書きに来られませんか?

(書かれた短冊はまとめて八月七日にご祈願致します。






6月のお便り


堂々巡り(どうどうめぐり)

考えや議論などが進まず同じ所で巡っている様子、

一向に物事が進展しない様などを意味する「堂々巡り」。

これも仏教から言葉だと言われています。

本来の「堂々巡り」は祈願や仏堂の周りをぐるぐる回ることでした。

つまり敬虔な仏教徒の儀式を指していたのです。

ぐるぐる巡る」の意味だけが強くなり、

現在はマイナスの意味で使われています。


考えをめぐらすことも、物事を慎重に計画して進めることも大切です。

しかし考えすぎて出口が見えなくなったり、

疲れたりしたら一度立ち止まってみることも必要です。

無理をしたら、視野が狭まって

正しい道が見えなくなってしまいます。

堂々巡り」を一回休んでみる

休んだら違うお堂も巡ってみる

そうしたら新しい考え・見方が目の前に広がって来るかもしれません。


六月になりました。

梅雨の季節です。

うっとおしい日も多くなりますが

植物の成長の為には恵の雨の時期でもあります。

当院でも紫陽花が咲きだしました。

宜しければ何時でもお立ち寄り下さい。






5月のお便り


煩悩(ぼんのう)

現在でも使われる「煩悩」は仏教用語です。

心身を悩まし、煩わせ、汚す心の働きを意味します。

人には108の「煩悩」があるとされており、

その根源となる三つの「煩悩」、貪(執着)・瞋(憎悪)・痴(無知)

三毒と呼びます。

煩悩」は人間の心身を苦しめ、悟りの妨げになるとされています。


私たちは「こうしたい」、「こうありたい」という欲を持っています。

「食べたい」という食欲がなければ生きていけません。

欲自体を否定する必要はありません。

自分の欲望や執着に囚われ、心身を乱され、

その為に悩み苦しんだり、正しい道を選べなくなると

その欲望は「煩悩」だと言えます。


煩悩」はみんなが多かれ少なかれ持っている感情なので

完全に逃れることは出来ないでしょう。

でも、例えば周りと比べる事、何かに執着することから

少し距離を置いてみませんか。

今生きている「」は大切な唯一のかけがえのない「」なのです。

距離をとることで心が軽くなり、

呼吸が少し楽になることが出来るのだと思います。


五月になり、山の緑が濃くなり、初夏の訪れを感じます。

お時間がおありの際は是非お立ち寄り下さい。






4月のお便り


執着(しゅうじゃく)

ある物事に深く思いをかけてとらわれる事、

思いきれないことを「執着」すると言いますね。

仏教語としての意味も似ています。

事物に固執する心である「執着」は「しゅうじゃく」と読み、

修行の妨げとなる避けなければならない心の働きだとされます。


私たちは生きていく中で「〜したい」「〜ありたい」という希望を持ちます。

また好きな物事や好きな人ができ、近づきたい、所有したい

ずっと一緒にいたいと思います。

これらの望み自体は生きがいや支えになり

悪いことではありません。

しかし、この事にに束縛され苦しむならば

これは「執着」だと言えます。


望みは必ずかなうとは限りません。

それがその人にとって正解とも限りません。

また人も物も変わり続けます。

ずっと同じでいたり、永遠に一緒にいることは出来ないのです。

人間は多かれ少なかれ「執着」から逃れることは出来ません。

しかし見返りを求めず、比べず、

自分で決めて手放す勇気を持つことで

人の心は束縛から解かれて

自由になることが出来るのだと思います。


四月になりました。

桜が咲き、うぐいすが鳴き、花々も次々と咲きだします。

皆様にとって平和で良き春となりますように。







3月のお便り


境界(きょうがい)

土地や国の境という意味で使われる「境界」という言葉ですが、

仏教では「きょうがい」と読み、意味も違います。

仏教での意味はいくつか有りますが

主には五感と心の働きによって認識される対象。

六根の対象である色・声・香・味・触・法の六境を言います。

つまり視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚・知覚によて認識されたものを指します。


認識は自己と密接に関係しており

客観的に存在しているものではありません。

自分と他人とは感覚も違い、認識も違っているのです。

ともすると人は自分の認識こそ正しいと思い込み、

違っているものに境界線を引き、

否定し、排除しようとしがちです。

しかし立場が変われば正解は変わります。

そもそも正解は一つとは限らないのです。

少なくとも違いを知ることで相手のことを理解することが

できなくても認めることはできるはずです。

地球上の「境界」は分けるために存在し、

争いのもとになっていることも多いと思います。

しかし仏教の「境界」は違いを認め、

ともに生きていくための大きな力になるものだと思います。


三月になりました。

春本番です。

当院でも桜など花々が咲きだしました。

どうぞお越しください。

3月20日から27日は春のお彼岸です。

ご先祖様や亡き人を偲びましょう。





2月のお便り


地位(じい)

「あの人は高い地位にある」などのように人や物事の

相対的な立場の高さや身分の上下などのことをさす

地位(ちい)」という言葉ですが、これも仏教からきた言葉です。


仏教では「地位」は(じい)と読み仏さまになるために

どうしても通らなければならない道のことを指します。

又本来は仏教の精神そのものをあらわす言葉です。

私たちはともすると相手や自分自身の立場が

上か下かにとらわれてしまいがちです。

しかし本当に大切なのは人と比べることではなく

人としてどう考え、どうあるべきなのか考えていくことなのだと思います。


人や物事を社会的な立場や地位のみで

一面的に判断するのではなく、

広く知識を得て学び、こだわりのない心で見つめて

自分自身の考え方ひいてはあり方に繋げていくことが

地位」への道なのではないでしょうか。


2月4日は立春、暦の上では春です。

当院のまわりは梅が満開となり、

ふきのとうが次々と顔を出しています。

寒い日はもうしばらく続きますが、必ず暖かい春はやって来ます。






1月のお便り


一蓮托生(いちれんたくしょう)

一蓮托生」とは仏教からきた言葉です。

「極楽では年齢・性別・出自などに関係なく、同じ蓮の花の上に生まれることができる」

という仏教の大切な考えをあらわす言葉です。

これが転じて「君と僕は一蓮托生だよ」のように

善悪や結果にとらわれず、運命を共にする

という意味で現在は使われています。


考えてみると私たち人間は地球の上で共にある

一蓮托生」の存在だと言えるでしょう。

同じ時代に同じ地球の上で

共に生きていく仲間だと言えます。

「理解するより認めること」という言葉があります。

自分と違う存在を理解することは出来なくても

その存在を認め尊重することが大切だと思います。


多様な人々が共に平和に幸せに安全に生きていける

そのような世の中になることが大事ではないだろうか。

一蓮托生」という言葉はそのように読み替えることもできると思います。


明けましておめでとうございます。

本年の皆様のご健勝・ご多幸を心よりご祈念申し上げます。

今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。


☆各種ご祈願・ご供養に加えて令和6年の節分厄払いの受付も始まりました。

詳しくは当該ページをご覧くださり、ご不明の点はお気軽にお声かけ下さい。

予約制です。(099−228−8001)






12月のお便り


無事(ぶじ・むじ)

現在では事故や病気がなく体が健康な様子を指す「無事」も仏教語です。

仏教では「むじ」とも読み、精神的な患いがない様、

こだわりがなく障りのない心の状態を指します。

つまり仏教ではたとえ困難なことに直面し体の様子や

状況が万全ではなかったとしても心穏やかに

過ごすことが出来ていれば「無事」だといえるのです。


実際には困難に直面した時、

心穏やかに「無事」でいることはとても難しいです。

もちろん困難を克服するための努力をすることは大事です。

でも合わせてあるがままを認めること

そしてそこに在るそのままの自分を受け入れることも

同様に重要であるということを

無事」という仏教語は示しているのです。


様々なことがあった令和5年も今月までです。

皆様にとってどのような一年でしたか?

今年一年大変お世話になりました。

来るべき新年が幸い多い年になりますよう

心よりご祈念申し上げます。

どうぞ良いお年を!


二月の節分団体厄払いの受付が始まりました。

今年は2月1日(木)、2月3日(土)、2月4日(日)、2月11日(日)を予定しております。

詳しくはホームページ上の厄払いのページをご覧ください。






11月のお便り


脱落(だつらく)

なくてはならないものが脱け落ちたり、

行動を共にしてきた集団や仲間についていけなくなることを

脱落」と言いますね。

このように現在はマイナスの意味で使われることが多い言葉ですが、

もともとは仏教の言葉で意味は全く違います。


仏教では「脱落」とは我が捨て去られ囚われがなくなること、

束縛がなくなることを意味します。

煩悩を払い捨て、悟りの境地に入ることである

解脱」とほぼ同じ意味を持ちます。

道元禅師は心身を束縛している自我から

解放された無我の境地へ行きつくことを

心身解脱」と呼び、求める姿だと説きました。


私達は多かれ少なかれこうありたいという理想や

こうありたいという希望を持っています。

生きていくうえで励みになる大切なことなのですが、

とらわれすぎると逆に自分を苦しめます。

こだわりを捨て、そこから脱け、

違う道に行くことが良い場合もあるのです。

脱落」することはそこへの執着を捨てることであって、

失敗したり負けたりすることを表している訳ではないのです。

肩の力を抜いて、周囲を見回したとき

新たな道は他にもあることに気づくでしょう。


秋本番です。

皆様にとって平和な秋になりますように。






10月のお便り


融通(ゆうずう)

〜を融通してもらった」のように必要なお金やものを

やりくりしたり処理したりするという意味で現在は使われる

融通」という言葉も仏教からきた言葉です。


仏教では「融通」とは別々のものも混ざりあい

溶け合って一つになることを指します。

万物はそれぞれ孤立しているのではなく

お互いに影響しあって一つの調和を保っているという

仏教の大切な教えがあり、これを「融通無碍(ゆうずうむげ)」と言います。

融通」(滞りなく溶け合う)と「無碍」(とらわれない)の

二つの言葉が組み合わされた言葉で考えや行動に

しがらみがなく自由な様子も表します。


この世界は様々な個性を持つ人を含む

生き物やもので成り立っています。

人間はそれぞれの力と働きを出し合い社会を作っています。

融け合うことで大きな力になりますが、

一つ一つの個性は決して失われてはならないのです。


世界はグローバル化によって広がって来ました。

一方、国や人種・宗教・立場等の違いによる

分断も広がっているようにも思えます。

違いを認め、こだわりを軽くして、自由な立場で

万物と繋がることが出来たら

一人一人がもっと生きやすくなるのではないでしょうか。


実りの秋です。

皆様の心にも豊かな実りがありますようお祈り藻い仕上げます。






9月のお便り


実際(じっさい)

日常の中では「実際は・・・だよね」といように

現実にはなどという意味で使う「実際」ですが、

これも仏教から来た言葉です。

仏教の経典の梵語ブータ・コーティの訳で

ものごと」の「極み」つまり、存在の極地点を意味します。

このことから涅槃(ねはん)などと同義の悟りの世界や

状態を表す言葉としても使われます。


私達が「現実には」・「現実的に考えると」の意味で使っている

実際」という言葉は本来現実に左右されない

真実の究極的な境界を指すのです。


何かを決めたり、実行したりする時に

現実に即して妥協することが必要になる場合もあるでしょう。

しかし、自分のあるがままの「実際」を心にとめておくことが

何より大切だと思います。


9月20日〜26日は秋のお彼岸です。

ご先祖様、今は亡き大切な人を偲び

それらの人々に見守られながら

一日一日を重ねてまいりましょう。





8月のお便り


供養(くよう)

供養」とはインドを中心に使われた古代語である

サンスクリット語で敬うという意味である「プージ」から

作られた「プージャ」の訳語がもとになっている仏教からきた言葉です。

もともと「プージャ」とは尊敬や敬意を表しました。

それが転じて仏様に花や香を捧げ供えること

後には亡くなった人の霊を祀り、供えることも「プージャ」=「ご供養」となりました。

インドから中国大陸を経て仏教が渡って日本で広がる間に

仏様や故人に尊敬や敬意を示し、お供えをすることも、

お経をあげたりすることも、手を合わせたり、

お墓参りをしたりして故人を偲ぶことも「供養」と呼ぶようになりました。


今年も8月13日〜16日はお盆です。

仏様になったご先祖様など大切な人がこちらに戻って来られる日と言われています。

重要なのは形ではなく、思う気持ちです。

無理なく出来る「お供養」を致しましょう。

故人を偲ぶことはその人たちと繋がって今ある「わたし」を再確認すること

そしてこれからの自分たちの生き方を考えることにも繋がっているのです。


当院でもお盆のご供養の申し込みを受け付けております。

この時期は込み合いますので、早めのご予約をお勧めいたします。(099-228-8001)





7月のお便り


無頓着(むとんちゃく)

「あの人はオシャレに無頓着だね」のように

物事にこだわらない、気にしない様を表す「無頓着」ですが、

これも仏教からきた言葉です。

仏教では三毒という言葉があります。

これは悟りを妨げ、害となる三つの心の動きで、

その一つが「貪着(とんじゃく)」または「頓着」です。

頓着」とは物事に執着し、満足出来ず心がとらわれている状態を指します。


高い目標や理想を掲げて努力すること、

一生懸命取り組むこと、あきらめないことは確かに大切です。

しかし、そのことで体や心が苦しくなったり、

周囲にマイナスの影響が出たり、

賛同が得られなかったりしたら

一回立ち止まって、その理想や目標を見直してみましょう。

こだわりすぎるために大切な自分の心や体や大切な人を犠牲にしていませんか?


仏教では「無頓着」とは欲を持たず、こだわらない事で

悟りに近づく為に重要な考えです。

あきらめる」こと「手ばなす」ことは必ずしもマイナスのことでは有りません。

身軽になってそこからまた歩き出すこともできることを

私たちは心に留めておきたいと思います。


お寺に七夕の笹を設置しました。

お願い事を書きに来られませんか?
(8月7日まで)






6月のお便り


種子(しゅし・しゅじ)

仏教では物事の根源、全ての現象を生じさせる力を種子(しゅし)と言います。

つまり物事を引き起こす可能性や要因とも言い替えることが出来ます。

そして我々の生活では一つ一つが大切な種子の役割を担っており、

仏の道へ繋がるのだと説かれるのです。

密教では種子しゅじと読み、仏を象徴する真言を意味し、

本尊のシンボルとして梵字(ぼんじ)で表されます。

(梵字とは密教で神仏を表す神聖な文字の事)


また種子には二種類があると説かれます。

生まれながらに持っているものと、生まれてからの環境や行いなどに伴うもので。

この二つが相互に作用することで個人が形作られていると言えるのです。


私たちの人生には様々な物事が起こります。

その多くには要因が有ります。

要因の中には人間には変えることが出来ないものもありますが、

行いで変えることが出来るものも多いのです。


私たちはどんな花を咲かすか考え種をまくことが出来ます。

水や肥料を与え、大切に育てていくとやがて美しい花が咲きます。

思ったように咲かなくても植物の成長自体を楽しむことが出来ます。

もちろん台風が来たり、病気になったりして枯れてしまう事もあります。

そうしたら次の年にまた種子をまけば良いのです。

あるいは次の年は野菜を植えても良いかもしれません。

前回の経験は必ず力になります。


私たち一人一人がそれぞれのペースで心の種子をまき、育てていくことは

どんな環境でもいくつになっても可能だと思います。


梅雨になりました。

植物のためには大切な季節です。

当院は毎日開いています(9:00〜17:00)。

いつでもお越し下さい。

ご祈願、ご供養等は要予約です。






5月のお便り


根性(こんじょう)

根性が曲がっている」のようにその人の性根の意味で誓われたり、

あるいは「根性がある」のように強い精神力の意味で使われる

根性」ですが、これも仏教からきた言葉です。


仏教では仏様の教えを受ける素質や性質のことを「根性」と言います。

根性」の「」とは能力やそれを生み出す力、

」とは性格のことなので、人によって違います。

仏様は人によって千差万別、多種多様である「根性」に合わせて

説法の仕方や内容を変えて人々に接したのだそうです。

仏教での「根性」は今とは随分意味が違いますね。


現代「根性で乗り切る」とは能力を超えた精神力で乗り切るという意味です。

しかし本来の仏教用語としての「根性で乗り切る」とは

自分の持っている能力や個性を発揮して乗り切るという意味なのです。

無理をするのではなく一人一人が生まれ持って備わっている

性質や能力、個性に応じて学び、生きることが

根性のある」生き方だと言えます。


五月に入り山は日々緑濃くなってきました。

ウグイスも元気に鳴いています。

初夏の訪れを感じます。

是非お立ち寄り下さい。






4月のお便り


所詮(しょせん)

所詮他人ごとでしょう」というように

「結局は」、「つまるところは」などの多くは否定的な意味で

使われる「所詮」という言葉ですが、これも仏教語です。


仏教では悟りのための経典・経文、明らかにするための

言葉や文字を能詮といい、それによって表される内容・

内身を「所詮」といいます。

つまり「所詮」とは突き詰めていった先の「悟りへ至る教え」だと言え、

本来はマイナスの意味ではありません。


私たちもともすると「しょせん・・・・・だよね」というように

諦めやさげすみの気持ちを持って

所詮」という言葉を使いがちです。

しかしその事柄の内身は本当に否定されるべきことなのでしょうか?

それ自体に大切なことや尊い事、あたりまえでない事が

含まれていないかもう一度考えてみませんか。


見方を変えた時、「所詮」といわれる事柄の中に

私たちの心が自由になる学びが隠れているのかもしれません。


四月になりました。

当院のまわりも自然の美しい季節になりました。

よろしければ是非お立ち寄り下さい。





3月のお便り


達者(たっしゃ)

その道に熟達した人、物事が上手な人、

あるいは「お達者ですね」というように

健康な人などを指す時に使われる「達者」という

言葉ですが、これも仏教から来た言葉です。


仏教では真理に達した人、悟りを開いた人を意味します。

達人」や「達道人」と呼ぶ場合も有ります。

つまり本来の「達者」(達人)とは

必ずしも日常の物事を器用にこなしたり、

体が健康であったりすることが重要だとは言えないのです。

たとえ技術に秀でてなくても、

病や障害を抱えていても、

心にこだわりがなく、

様々な煩悩から自由であれば

達者」であり、「達人」であると言えます。


もし今、苦しい状況にいても、

こだわりを少しだけ手放してみると

違う風景が見えてきて

心が楽になることが可能です。

その事こそが「達人」に近づく道だとも言えるのです。


三月になりました。

山も梅から桜の花の季節へと移っています。

本格的な春です。

よろしければ何時でもお参りにお越し下さい。


三月十八日からは春のお彼岸です。

お墓参りでも、お家で手を合わせるでも、

出来る形でご先祖様を偲び、その人々のおかげで

今の自分があることに対する感謝の心を伝えましょう。






2月のお便り


世界(せかい)」

世界」という言葉は、もともと古代インド文字のローカダートゥが語源で、

「命あるものが生存する空間であり、仏が教えを広める場所」という意味でした。

インドから中国にわたり漢字に訳されたとき、

「世」には時間、「界」には空間の意味を込めたと考えられています。

これが「長い時間と広い空間にわたり仏様の教えを広める」という、

前述の意味からつながった意味を持つ言葉になったのです。


グローバル化が進み、世界は狭くなったともいわれます。

その一方、民族や思想、宗教などの違いによる人々の分断は広がっているように思えます。

この状況にコロナの流行が加わり、世界は外のものを排除する方向へ、より内向きへと向かいがちです。

世界とは、「命あるものが共存する空間」であり、

私たちは世界という同じ船に乗っているクルーだといえます。

身のまわりだけではなく、世界の状況に広く目を向けてみるのも大切なのではないでしょうか。


2月4日は立春、暦の上ではもう春です。

お寺のまわりでは、ふきのとうが次々と顔を出し、春が近いことを知らせてくれます。

厳しい寒さももう少しです。皆様の心にもあたたかい春が訪れますように。






1月のお便り


初心(しょしん)

「初心を忘れないように・・・」のように

現在「初めて取り組んだ時のまっすぐな気持ち」

の意味で使われる言葉ですが、

これも仏教の言葉から来ています。

仏教語としての意味は

初めて悟りを求める心を起こすこと」を指します。


私たちは生きていくと考え方や行動の

「癖(くせ)」のようなものを身に付けます。

個性としてその人を特徴づけるものになりますが、

それが「こだわり」になってしまうと

周りや自分自身を苦しめる原因ともなりかねません。

こんな時は一回立ち止まって「初心」にかえって

そこからまた始めてみましょう。

新年は「また始めてみる」には

とても良い時期だと思います。


明けましておめでとうございます。

今年もどうぞよろしくお願い致します。

令和五年が皆様にとって幸多い年と

なりますよう心よりお祈り申し上げます。


節分の厄払いの申し込みが始まりました。

今年も密を避け少人数制で回数を増やし

実施致します(完全予約制です。)

詳しくは当院の厄払いのページをご覧下さい。






12月のお便り


無念(むねん)

無念」とは仏教語で煩悩や雑念などの

とらわれのない無心な状態のことを意味します。

現在、「無念」は「〜が出来ずに無念だ」のように

無心ではなく、その念が残り、とらわれすぎて

悔しくてたまらない様を表すときに使われます。

仏教語とは全く逆の意味になりますね。


目標や希望を持ちめざすこと、

理想や夢を叶えようとする思いは大切です。

しかしその思いに執着しすぎたり、

まわりの人への妬みや自分の心の苦しみに

繋がっていったら何もなりません。


今年も残り一ヶ月をきりました。

皆様にとってどんな一年でしたか?

コロナの流行は完全には治まらず、

マスク生活は続いています。

計画どおりにいかなかったこと、

後悔することもあったかもしれません。

でも私たちはこの一年間様々な出来事を越えて、

一日一日を重ね、生きてきました。

その事こそが大事なのだと思います。

マイナスの思いは心を苦しくするだけです。

肩の力を抜いて背負った心の荷物を軽くして、

新しい年へと進んでいきましょう。


本年も大変お世話になりました。

皆様にとって穏やかな年の瀬となりますように。

来るべき一年が実り多い年となりますように。

どうぞ良いお年を。




11月のお便り


上品(じょうぼん)・下品(げぼん)

現代一般には「下品」は「げひん」と読み、

言葉使いや服装などが品のない様子を指しますが、

これも仏教からきた言葉です。


元々は仏教の経典に出てくる言葉で、

浄土に往生する人をその生き方について

上品・中品・下品」に分けて表したことから来ています。

外観や言葉使いではなく、仏の道に誠実な人を「上品(じょうぼん)」、

逆にそうではない人を「下品(げぼん)」と呼びます。


いくら美しい様子や振舞いであっても煩悩にとらわれ、

心が整っておらず、人を傷つける振舞いをしていれば「下品」であり、

身なりが貧しく、博識ではなかったとしても、

心が清らかであれば「上品」だと言えます。


もちろん「上品」を目指すことは大切です。

しかし、私たちは完璧ではなく、悟りの道に到達することは難しく、

間違いを犯したり、迷ったりすることもしばしばです。

大切なのは愚かしさを知り、自らの弱さや生きていく悲しみを知った時、

仏の道は見えてくるのだということです。

上品」や「下品」かにかかわらず、全ての人は成仏出来ると仏教は説きます。

自分が「上品」かどうかにこだわるより、

自分を知り、自分を見つめ、身の丈に合った

悟りの道を考えていくことが、実は「上品」へ向かう道に

つながっていくのだと思います。


朝夕寒くなってきました。

くれぐれもご自愛下さい。

皆様にとって実りの秋になりますように。






10月のお便り


未曾有(みぞう)

未曾有」は「みぞう」と読みます。

現在では「未曾有の水害が起こり・・・」のように

これまで起きたことのないような大きい出来事が起きた時などに

ニュース等でよく使われる言葉です。


もともとは「奇跡」を意味するサンスクリット語を漢訳した

仏教用語で、仏教の功徳の尊さや神秘的なことを賛嘆した

プラスの意味の言葉として使われていました。

しかし現在では災害や事件などのマイナスの出来事と

合わせて使われることがほとんどとなっています。


確かに生きていくと今までになかったような

未曾有」の試練に突きあたることがあります。

全く経験したことのない出来事に解決の糸口も

道も全く見えずに絶望してしまうかもしれません。

しかし克服できる「未曾有」の道は全ての人に開かれているのです。

多くの助けや時間が必要となるかもしれません。

それまでの生活や生き方を変える必要があるかもしれません。

また努力と合わせて自分の考え方を修正していく必要もあるでしょう。


ただそこから得た経験は必ず自分を強くし、

心を豊かにしてくれます。

試練の先には必ず「希望」があることを

私たちは心に留めておく必要があると思うのです。


10月に入り、気候も良く、秋本番ですね。

皆様にとっても実りの秋となりますように!!






9月のお便り


徹底(てってい)

「しっかり行き届くようにする」、「十分にする」などの意味で

使われる「徹底」ですが、仏教から来た言葉です。

仏教の経典に出てくるお話が由来だとされています。

「川を渡るとき、うさぎは水の上を泳ぎ、

馬は足が水中にあり掻いて泳ぎ、

象は足をしっかりとつけて泳ぐ」

これは渡る様子を物事の理解の深さに喩えた説話です。

うさぎは物事の答えだけが分かっている状態、

馬はなぜその答えになるのかの意味を知っている状態、

象はさらに深く物事の奥底まで考えをめぐらせ理解している状態

を喩えているのです。

表面だけではなく、底に達するぐらい理解することを「徹底」と呼ぶのです。

つまりがむしゃらに突き進む、追求することではなく、

地に足をつけて「象のように」あせらず、

一歩ずつ行動することだと言い替えられます。

コロナや異常気象などで先が見えなかったり、

思うようにいかないこともありますが、

各々のペースで一歩ずつ歩んで行きましょう。


9月20日から26日は秋のお彼岸です。

亡き人を偲び、無理なく、今出来る形で

お供養しましょう。






8月のお便り


一大事(いちだいじ)

普段は「一大事!」のように大事件や

だだならぬことという意味で使われる

一大事」という言葉ですが、

これも仏教から来ています。


仏教での意味はただ一つの重要な事柄・

仕事ということつまり仏教では仏が智慧を授け、

人々を悟りの道に導くことを意味します。

仏様がこの世界に現れたのは、

この「一大事」をなすためだとされています。


今は良くないことでも使われる「一大事」ですが、

本来はあらゆる真理であり、「大事」なことなのです。

江戸時代の禅僧正受老人の言葉で

一大事とは本日只今の心なり」という言葉があります。

大事なことは過去の事ではなく、未来の事でもなく、

ただ今の事である。

今を見つめて生きていこうという意味です。

ささやかなこの積み重ねが

一大事」へつながっていくのだと思います。


八月十三日から八月十六日はお盆です。

ご先祖様、亡くなられた懐かしい人々が

帰って来られる期間です。

コロナ等で移動が不自由になっています。

無理をせずに各々が出来る形で

お供養をなさることが大切な事だと思います。






7月のお便り


自由自在

人の体や物などが自由に動くこと、

思うままに出来ることを「自由自在」と言いますね。

これも仏教からきた言葉で意味は少し違います。

仏教ではあらゆる束縛から解放された

境地を「自由」と言います。

つまり他の人や物の影響や支配を

受けることなく安らかな境地を言います。

自由」であれば自分の思うままになれるので

これを「自在」と言います。

つまり「自由自在」とは何ものにもとらわれない

心を意味するのだと言えます。

私たちの日々の暮らしの中では様々なことが起こり、

それについて考えたり、対処しなければならない

ことがしばしばあります。

考えることはとても大切ですが、

起きたことや状況を周囲と比べすぎたり、

自分の考えにとらわれすぎて動けなくなったり、

過ぎたことにこだわり、後悔し続けたりして

進めなくなったりしたら

自由」から遠のいてしまいます。

仏教での「自由自在」とは心のあり方だと言えます。

どんな状況でも私たちの心は「自由」でいることが出来るのです。

今ここにいる自分」を認めて、肩の力を抜いて

日々を思うままにかさねて行きましょう。


七月に入り厳しい暑さが続きます。

水分・休養を十分にとってくれぐれもご自愛下さい。






6月のお便り


愚痴(ぐち)

話しても解決しない不平不満を

くどくどと相手に話すことを「愚痴」と言いますね。

これも仏教から来た言葉です。


苦しみや悩みや怒りなどでまったく周りが見えない

状態を仏教では「無明(むみょう)」と呼びますが、

愚痴」とは「無明」と同様に様々な苦しみを

生み出す根源的な煩悩の一つとされています。


仏の知恵から遠く、無明の闇におおわれて

誤った見方しか出来ないのが、「愚痴」である

状態だと考えられているのです。


周りを見回してみましょう。

身の回りにはささやかでも美しいものがあり、

私たちは生かされています。

闇夜が必ず明けるように

闇から脱け出す道は必ずあるのです。

苦しいときは「愚痴」をこぼしても

多少なら大丈夫です。

しかし、そこから学び、脱け出すことが

とても大切だと思います。


六月になりました。

紫陽花が咲き、梅雨が近いことを知らせてくれます。

植物の成長にとっては大切な時期です。

蒸し暑い日が続きますが一緒に進んで行きましょう。






5月のお便り


共同「(ぐどう)

現在は「きょうどう」と読み、「共同作業をする」など

二つ以上のものが力を合わせたり、

一つのものを共有したりすることを意味します。

これも仏教からきた言葉です。


仏教では「ぐどう」よ読み、「ともに」というという意味に加え、

同じ」という意味を持ちます。

私たちは一人だけでは生きていけません。

共に」影響しあって生きている。

その意味で私たちはこの瞬間同じ命を生きているのだと言えます。

仏教で「共同」という言葉を大切にするのは、

この真理から来ていると言えます。

すべての存在は、必要があって存在しています。

それぞれにとって良い状態で暮らしていけることを

めざすことが「共同」ということなのです。


自分さえ良ければ」ではなく、

自分が犠牲になればよい」でもなく、

共に生きていく。

考えや立場の違う人々とどう折り合いを付けながら

平和に一緒の時代を生きてゆけるのか、

とても難しいことだけれど考えていかなければ

ならない課題だと思います。


五月になりました。

お寺のバラの花は次々と咲きだし、

とんぼも飛び始めました。

ヤマハすっかり初夏です。

お時間がおありの際は何時でもお越しください。






4月のお便り


般若(はんにゃ)

現在は「般若のような形相で・・・」と言うように

恐ろしい鬼の面を指して使う「般若」ですが、

仏教から来た言葉で意味は全く違います。


般若」とは仏教が生まれた古代インドの言葉「パンニャー

に由来すると言われる仏教用語です。

本来、仏教では「般若」とは様々な修行をし得られた

悟りや智慧のことを指します。

これは仏教の根本となる重要な言葉の一つだと言えます。


知恵と智慧では意味が異なります。

知恵は誰かと比べて頭が良い、賢い、優れているなど

の意味で相対的なものであるのに対し、

智慧は世の中の真理を知る事を言葉で普遍的なものなのです。


般若心経」などのお経の中でも「般若」という言葉が

しばしば出てくるのは、知恵や知識のみに頼らず、

智慧を身に付けることの大切さを

仏教が説いているからだと思います。


私たち一人一人が誰かと比べるのではなく、

本当に大切なものが何かを考え、気づくことが出来たら、

今よりも世界は平和で生きやすくなるのではないかなと思います。


四月に入り、山の桜は満開を迎え、

春本番となりました。

是非、お参りにお越しください。

皆様の心にも春が訪れますように

ご祈念申し上げます。





3月のお便り


絶対(ぜったい)

「絶対守ってね」というように

「必ず」と同じような意味で使われたり、

「絶対的な」のように他の何者にも制限を

受けることのない事を意味する

絶対」も元々は仏教の言葉です。


仏教では「絶待」と書き、「ぜつだい」と読みます。

善と悪、正と誤などの判断を超越した立場のことを指します。

反対の意味を持つ言葉として「相待」があります。

これは何かと比較し判断することだと言えます。

また二つのものが互いに相対関連して存在することを意味します。


私たちは一人だけで生きていくことなど出来ません。

様々なものとかかわって生かされている意味では

相待」も大切な考え方です。

しかし何かと比べて判断することのみを

続けて行くことには落とし穴が有ります。

世の中には判断できないことが沢山あります。

考え方も環境も様々です。

違いを認めず、自分の価値観のみで正誤を判断したり、

絶えず誰かと比べて優劣をつけて一喜一憂したりでは

人は理解しあうことが出来ず、本人も疲れてしまいます。

違いを認めて、それを越えて共に生きていく道を

探して行くことが「絶待」の考え方の本質だと思います。


三月に入りました。

当院の周辺でも花々が咲きだし、日々春らしくなってまいりました。

どうぞお越しください。






2月のお便り


愛嬌(あいきょう)

愛嬌」とはニコニコしていて可愛らしい様子や

人に好かれるような動作や振舞いを指す言葉として

使われますが、これも仏教から来た言葉です。


仏教では「愛敬」と書き、「あいぎょう」と読み、

人を思いやり、慈しみ敬うことを意もします。

また仏や菩薩の優しく柔和な様子を愛敬相と言い、

人々の和合親睦を祈り、愛し敬う心を起こさせる

行動を愛敬法と言います。


つまり「愛敬」の本質は目に見える姿ではなく、

心にあると言えます。

しかし心と体は繋がっています。

余裕を失い周りや自分さえも思いやれなくなった時、

愛敬」を自分に向けてみませんか?

鏡に向かって「大丈夫だよ!」と微笑みかけてみる、

「おはよう!」と優しく声をかけてみる。

自分が自分を思いやれるようになった時、

周りも慈しむゆとりが出てくるのではないかと思います。


コロナはなかなか収束せず、不自由なことも多いですが、

私たちは一緒に乗り越えていけると信じています。


二月一日から六日にかけ、当院の一番大きな行事である

星祭り(節分団体厄払い)がございます。

お参りの皆様にはご不自由をおかけしますが、

二月一日、二日、三日、五日、六日の

一般のご祈願、ご供養は出来ません。

ご了承下さい。(お参りは自由です)


二月四日は立春、暦の上ではもう春です。

梅のつぼみも日々ふくらみ本格的な春までもう少しです。







1月のお便り


地位(じい)

高い地位を手に入れた」というように社会的な立場の

高低の意味で使う「地位」という言葉ですが、

これも本来は仏教用語です。


仏教語では「じい」と読み、仏になる為にどうしても

経なければならない道を指します。

華厳経(けごんきょう)」では悟りのために特に大切な

十の課題を「十地(じゅうじ)」といい、

これを「地位」と呼びます。

そいてこの悟りへの歩みを進める中で

最も重要なのは自らの課題と善を準備する

初地であると説くのです。


大切なのはいわゆる「高い地位」につくというような

結果ではなく、どう考えて歩みだし、道を進んで行くか

という意味だと思います。

年の初めは私たち一人一人がどう歩んで行くのか

考えるにはとても良い時期ではないでしぃうか。


令和四年、明けましておめでとうございます。

今年もどうぞよろしくお願い致します。

新しい年が皆さまにとって幸多い一年に

なりますよう心よりお祈り申し上げます。


〇 節分の厄払いの申込みが始まりました。

今年も密を避け、少人数制で回数を増やし

実施致します。(完全予約制です)

詳しくは厄払いのページをご覧下さい。






12月のお便り


機嫌(きげん)

機嫌が良い」など、気分の良し悪しを表現する時に

使う「機嫌」も仏教から来た言葉です。

本来は「譏嫌」と書き、譏(そし)り嫌うという意味で、

罪になるならないにかかわらず、人が不愉快になるような

言動は慎みなさい」という仏教の戒律の一つなのです。


当院は山奥の小さなお寺です。

お越し下さる皆さま、ご縁のある皆さまによって

ささえられています。

譏嫌」を心に留めて精進していかなけれ

ばならないと強く思います。


今年最後の月となりました。

本年も大変お世話になりました。

どのような一年でしたか?

来年が皆様にとってよりよい年となりますよう

御祈願申し上げます。

どうぞ良いお年を


来年度の団体の厄払いの日程が決まりました。

コロナ対策で来年度も少人数制をとります。

予約制で1月30日迄の受付です。

ご希望の日時がお決まりの方は早めに

お申込み下さい。

個人の方の厄払い、御祈願等は毎日受け付けています(要予約)。






11月のお便り


暗証(あんしょう)

暗証番号」のように「自分だけに通用する」という

肯定的な意味でも使われる「暗証」という言葉ですが、

もともと仏教用語で意味は全く違います。


仏教での「暗証」は「証しが暗いこと」つまり

経論(仏教の教理を説いた経とその注釈である論、仏典)

を理解せず、理論の裏付けがないまま

修行のみで悟りを開くことを指します。


仏教では実践のみの悟り(暗証)だけでも

経論のみの悟りだけでも不十分であり、

両方がそろって始めて真の悟りを

開くことが出来ると考えます。


私たちはついつい自分の思い込みや

価値観に支配されがちです。

「正しい考えで行動しているから大丈夫!」

「私は絶対に間違っていない!」

自分の意見を持ち、行動するのは大切ですが、

自己流を一回離れて

基本を学び直したり、

まわりの意見や考えを取り入れて、

軌道修正をすることで

見えてくるものは必ずあると思います。


今年もあと二ヶ月にとなりました。

朝夕寒い日が続きます。

ご自愛ください。






10月のお便り


無学(むがく)

一般的には学問を身に付けていない、

あるいは知識のない様を「無学」と言います。

しかし仏教では、全く反対の意味になります。

学問を極め、もはや修行するものが無くなった

聖者または仏を「無学」と言うのです。


修行に励み、仏道の真理は知っているが

煩悩をまだ断っておらず、学ばなければならないものが

あることやある人を「有学(うがく)」と言います。


私たちのほとんどは全てを学び終えた「無学」ではなく、

真理を知っている「有学」でさえもないと思います。

まだまだ学ばなければならないものは沢山あると言えます。

学びの場は必ずしも学校とは限らず、

書物やテキストから得る知識だけが学びだとは限りません。

日常の生活、日々生きていくことの中に学びはあると思います。

私たちは経験した様々なことから学び、

それを生かしていく能力を持っています。

その意味で全ての出来事は

学びという意味を持っているのだと言えるでしょう。


吹く風も涼しく、ススキがそよぎ、赤とんぼが飛び、

秋本番です。

いつでもお立ち寄り下さい。






9月のお便り


一味(いちみ)

同じ目的をもって集まった仲間のことを「一味」と言います。

現在では「盗賊の一味」というように悪事を企てる

集団のことを指すことが多い言葉です。

しかし、これも仏教の用語で全く違う意味をもつ言葉です。


仏教は現象は多様だが実は全てが同一で「一味」である、

平等・無差別であると説きます。

また仏の救いが平等で分け隔てのないことも「一味」と呼ぶのです。


全ての人は違っていてもそれぞれが等しくかけがえのない

存在であると仏様はおしゃっているのです。

役に立つかどうか、お金を稼げるかどうか、

高い地位にいるかどうか等で人の価値は決まりません。

命も等しく「一味」なのです。


世の中には様々な人がいます。

その違いを認め、理解すること、

何より自分自身の価値を認めて生きていくのが

大切なのだと思います。


9月20日から9月26日は秋のお彼岸です。

コロナ下ですが、出来る形でご先祖様を偲びましょう。

9月21日は中秋の名月です。

美しい月が見られますように!


暦の上では秋です。

暑い日が続きますが水分・休養を十分にとって

涼しい日々を待ちましょう。







8月のお便り


肉眼(にくげん)

日常生活では「にくがん」と読む「肉眼」ですが

仏教用語の時は「にくげん」と読みます。

仏教では認識のはたらきを眼になぞらえて

五種類に分けます。

肉眼(にくげん)、天眼(てんげん)慧眼(えげん)法眼(ほうげん)

の4つに、これらを全て備えた認識である仏眼(ぶつげん)を加えて

五眼(ごげん)と呼ぶのです。

そして仏眼が最上位に位置し、肉眼

最も低い認識であるとします。

なぜなら肉眼とは例えば外見などのように

目に見えるもののみから判断した認識だからです。


愛情などの人の心や真実など

大切なものの多くは目に見えません。

私たちは目に見える物を手掛かりに

判断するのですが、

それが正しいとは限らないのです。

実は私たちの肉眼での見え方には

個人差があり、千差万別です。

私が見えている世界と他の人が見えている世界は違う。

一人の人の中でも気分や状況によって

違って見えることはしばしばあるのです。

偏見や思い込みに惑わされず、

心の眼も使ってものごとを認識する努力をすることが

大切なのだと思います。


8月13日から8月16日までお盆です。

コロナ下の今、無理はせず今できる範囲で

ご先祖様をしのびましょう。





7月のお便り


会釈(えしゃく)

現在では浅く頭を下げるぐらいの軽い挨拶という

意味を持つ「会釈」という言葉ですが、

これももともと仏教の言葉です。


仏教ではお経の中の異なる意見を照合し、

すりあわせて、その教えの根本に立ち戻り、

内容を矛盾なく説明するという意味です。


つまり様々であるため、矛盾しているようにみえる

教義の根本にある真実の部分を明らかにし、

まとめる事とも言い替えられます。


ここから相手の心を推し測り、対応するの意味になり、

そのため挨拶の意へと変化したのだと考えられます。


私達にはそれぞれ個性があり、

年齢や見た目、環境や考え方も様々です。

でも違いを認め、知ることで、理解出来たり、

分かり合えたりすることも可能なのです。

そしてそのことは自分自身の心を

豊かにしてくれるのだと思います。


慣れないと少し勇気がいったり、

恥ずかしかったりする挨拶ですが、

会釈」から始めていくことも

相手を理解し、自分の世界を広げる一歩だと思います。


7月7日(鹿児島では8月7日)は七夕です。

今年も短冊を準備しました。(8月7日まで)

どうぞお立ち寄り下さい。






6月のお便り


分別(ふんべつ)

「ぶんべつ
」と読むときは物事を種類別に分けること

あるいは区別するという意味で、

ふんべつ」と読むときは「分別のある人」のように

物事の道理や常識をよくわきまえていることの意味で

現在使われている「分別」ですが、

これも本来仏教からきた言葉です。


しかし仏教での意味はずいぶん違います。

仏教では「分別」は「ふんべつ」と読み、

自分勝手に物事に区別をつけている」という状態をさします。

つまり悟りから遠く、まだこだわり迷っている状況だと言えます。

人は生きていく中で、「考え方のくせ」のようなものを身に付けます。

そしてともすると思い込みや色眼鏡で周囲を見て判断しがちです。

分別」の心から離れ、素直なまっすぐな心で物事を持たとき

違った景色が広がってくるのだとお釈迦様はお教えになっているのです。


もちろん人間は善悪の判断などの「分別」なしで生きていくことは出来ません。

しかし「分別」はあっても、それに固執しない智慧の世界を

広げていくことが大切なのだと仏教は考えます。

そしてその智慧を無分別智(分別を超えた智慧)と呼びます。


雨の多い日が続きます。

くれぐれもご自愛下さい。





5月のお便り


開発(かいほつ)

開発」は現在「かいはつ」と読み、「自然開発

能力開発」などのようによく使われる言葉です。

これも仏教用語から来ています。


仏教では全ての人が悟りをひらき

仏になることが出来る能力を有していると説き、

これを仏性と呼びます。

しかし、仏性は欲や嫉妬などの煩悩に埋もれています。

煩悩を解き放ち、仏の心を呼び起こし、

目覚めさせる事を「開発」と言います。

開発」は「かいほつ」と読みます。


それまで自覚していなかった悟りを

見出すという意味が転じて、

それまで知られなかったことを見出し、

実用化するという現在の「開発」に

なったのだと考えられます。


コロナの流行はなかなかおさまらず、

様々なものが制限され、

ともすれば不安やストレスがつのり、

マイナスの方向へ心が動きがちです。

しかし、私たちはまだ見出されていない

悟りの能力」をそれぞれ持っているのです。

自分の力を信じ様々な困難も共に

乗り越えて行きましょう。


五月に入り、この辺りは初夏のけしきです。

花々も美しく咲いています。

よろしければお参りにお越しください。






4月のお便り


無我(むが)

無我夢中」「無我の境地」というように

我を忘れて没頭する様子の意味で

現在使われる「無我」という言葉ですが、

仏教用語としての意味は全く違います。


仏教での「無我」とは

あらゆる事物は不変ではなく変わっていく、

それと同様に絶対的な「」は存在しない、

変わらずにいつも存在する永遠不滅の自我など

存在しないという教えをあらわす言葉です。


私たちはともすると絶対的な「自分」が存在すると

考えがちで、それをもとにまわりの事を判断師がちです。

しかし全てのものは影響しながら変化していくのです。

もちろんそれは「自分」というものはなくて良い、

あるいはただ周りに従い合わせていけば良い

ということではありません。


絶対に・・・だ」と決めつけたり、

我がもの」の執着にとらわれると

結局、自分自身が苦しむことになります。

周囲の変化や違いを認め、

自分の変化を受け入れ生きていく。

多様性が求められる現代、

大切な考え方のヒントになるのが

無我」の考え方だと思います。


四月に入り、当院のまわりでは

花々が咲き、うぐいすが鳴き、

春本番を伝えてくれます。

当院は毎日9時から17時まで開いています。

お参りは自由です。是非、お立ち寄り下さい。

(ご祈願等はご予約下さい。099-228-8001)





3月のお便り


智慧(ちえ)

智慧」とは仏教の言葉で「物事の真理を知ること

つまり「気づき」を指します。

一般的に使われる「知恵」は

いわゆる頭の良さ、能力、アイデアの事です。

生活していく上で役に立ちますが、

必ずしも真理であるとは限りません。

また知恵や知識は知ることによって得ることが出来ますが、

智慧は体験、経験によって気づき得られるものだと言えます。

経験、体験によって得た「気づき」によって

今まで気づかなかった角度や視点で

物事を捉えることが出来るようになることが

一つ智慧を身に付けたという事なのです。

生きていくと様々なことを経験します。

思うようにならないこと、苦しいことを

経験することもありますが、それらも含め、

すべての体験、経験は気づきへの道となるのです。

そこから新しいことに気づき、

違う見方を学んだ時、

それは私たちの「智慧」となり、

大切な心の財産となるのだと思います。


三月になりました。

当院の桜のつぼみも日々ふくらみ、

本格的な春の訪れを感じます。

当院は朝9時から17時までお参り自由です。

どうぞお気軽にお越しください。






2月のお便り


「実際(じっさい)


現実のあり様について述べるとき

よく使われる「実際」という言葉があります。

現実が理論や理想と違うときに

実際は・・・」、「実際のところ・・・」というように

使うことが多いように思います。

これも元々仏教からきた言葉で意味はかなり違います。


仏教での「実際」の意味は

「すべての事物のあるまがままの姿」

「ものごとの極み」だとされ、

これを理解することが悟りへ

つながるのだと考えられています。


現在、「実際的」とは理想を排除しても

現実に即して物事を処理することを意味しますが、

仏教では「ありのままを認め」真実を見極めつつ

理想を求め進むことだと考えられています。

今、私たちに見えている現実が

「ありのまま」の本質とは限りません。

様々なものにとらわれ、

実際には・・・だ」と決めつけてしまったり、

実際は・・・だから」とあきらめてしっまたりしたら

真実の姿は見えてこないのです。


あるべき事象のあるがままを受け入れて

そこから自分がいかに生きていくか考え、

真実を求めていくことこそが

仏教の「実際」の生き方と言えるのです。


今年は124年ぶりに節分は2月2日です。

そして翌2月3日は立春、暦の上では春です。

当院の白梅も咲きつつあります。

コロナの流行等で不自由な日が続きますが

必ず春はめぐって来るのです。






1月のお便り


日日是好日

これは仏教、特に禅宗の言葉で

にちにちこれこうにち」あるいは「にちにちこれこうじつ」と読みます。

文字通りであれば「毎日が良い日」という意味となりますが、

さまざまに解釈されます。


仏教では過ぎてしまったことにとらわれず、

目前の現実が喜びであっても悲しみであっても

ただ今この瞬間を精一杯生きる、

その日一日をありのままに生きることの大切さを

説く言葉だと考えられています。

今まで積み重ね「今ここにある日」すべてが

意味のある良い日であると言い替えることも出来るでしょう。


しかしすべての日が良い日だと思うことは

正直とても難しいですね。

いつか悲しみや苦しみをこえて

それらの日々が今の自分にとって

良い日だったと振り返ることが出来るように

一日一日を重ねて行くことが大切なのだと思います。


令和三年 明けましておめでとうございます

コロナ等を乗り越え幸多い一年となりますよう

お祈り申し上げます。


令和三年の厄払いの申し込みが始まっています。

今年は密を避け、少人数制で回数を増やして実施致します。

詳しくは厄払いのページをご覧ください。

ご不明の点はお気軽にお電話下さい。

(099−228−8001)






12月のお便り

主人公

中心人物や主役という意味でつかわれる

主人公」ですが、これも仏教用語です。

仏教では人には本来心の乱れや迷いに

惑わされず、理想の姿に近ずこうとする素質が

備わっていると考えられており、

それを「主人公」と呼びます。

すべての人は仏性を持っており、

あるべき本来の自己」となることが出来る

のだと仏教は説くのです。


私たちの生活のまわりはたくさんの

事物や情報であふれています。

その中で様々に考え、選択しながら

日々を進めているのです。

何が正解なのかは

人に流されるのではなく、

しかし同時に心を柔軟に

周囲の情報や意見に耳を傾けながら

考える必要がありますが、

いずれにせよ「本来の自己」は

自分自身で決めなければならないんもです。


道を選ぶことは難しく

迷ったり、悩んだり、後悔したり・・・

しかしそこから人と比べるのではない

本来の自己」に近ずいていけたら

その時私たちは自分の人生の「主人公」に

なれるのだと思うのです。


令和二年もあとひと月を切りました。

コロナ等で大変な一年でしたが皆様如何でしたか?

本年も大変お世話になりました。

来るべき年が幸多いものとなりますように

どうぞ良いお年を





11月のお便り

言語道断(ごんごどうだん)

言葉に表せないほどひどい事、もってのほかなどの意味で

否定的に使われる「言語道断」ですが、

もともと仏教用語です。

本来は「仏の真理の道は言葉では表現できないほど深く尊い

という意味です。

言い表せないほど・・・だ」の部分だけが残って

後世に全く違った意味になったと思われます。

つまり「悟りとは言葉を断った世界」とも言いかえられます。


言葉は確かに便利です。

そもそも仏教も言葉で伝えられた部分が大きいのです。

しかし、同時に言葉は時に迷いや苦しみをもたらします。

言葉で人は傷つくこともあります。

そもそも人は思っていることのすべてを完全に

言葉にして相手に伝えることはできません。

また聞き手も相手の思いを言葉だけで

理解することは不可能なのです。


特にSNSが発達した現在、

その状況や真意を離れ、言葉だけが

一人歩きしてしまうことも多いですね。

人には言葉以外に五感があります。

コロナ等で窮屈な時代ですが、

出来る範囲で聞く、見る、触れる等

言葉以外の経験をしてみましょう。


言葉は大切にするけれど

言葉に縛られすぎない。

世の中には言葉に出来ないものや思いが

たくさんあります。

言葉に出来ないほど美しいもの、尊いものが

確かに存在していることを知ることは

自分の世界を広げていく時、

大切なことだと思うのです。


今年もあと二ヶ月を切りました。

朝夕寒くなってきました。

くれぐれもご自愛ください。







10月のお便り

三密

現在はコロナ対策で避けるべき

「密閉」「密集」「密接」を指し

使われるようになった「三密」ですが、

仏教で使われてきた「三密」は全く違った意味です。


仏教では生命現象はすべて(身体)(言葉)(心・意志)

という三つの働きで成り立っていると考えます。

煩悩を生み出す良くないものとも考えられる

この三つを真言密教では身密口密意密と呼び

仏道の修行をするうえで大切な根本だとし、

合わせて「三密」と呼びます。

そして体の調子や言葉何より心を整えていくことが

悟りを目指す修行で重要であると考えるのです。


困難な状況の下では心が落ち込み、

ついついマイナスの考えばかりが浮かび、

後ろ向きな言葉を重ねて、さらに不安が募って

体や心もますますきつくなってしまう事が良くあります。

心を落ち着け、体をいたわり、整えていくことで

困難を乗り越える力が持て、

視界が広がり、解決への道も

見出しやすくなるのだと思います。


その意味で仏教の「三密」も今の時代を生きる

私たちのヒントになる大切な言葉だと思います。


当院は毎日9:00から17:00まで開いています。

いつでもお越しください。

(ご祈願・ご供養は予約制です。Tel 099−228−8001)






9月のお便り


悲願(ひがん)

是非とも実現したいという強い願いをいう「悲願」も

元々は仏教から来た言葉です。

仏教語としての意味は

人々を救いたいと願う菩薩の慈しみの心である

大悲願からおこされる誓願のことを指します。


現在、私たちが使う「悲願」は

勝ちたい、成功したいなど

自分の欲望にもとずくものがほとんどです。

その人や特定の人々の願いであり、

すべての人々の共通の願いにはなりません。

悲願」は悲壮な願いとも言い換えられます。


一方、本来の仏教での「悲願」は自他平等のものです。

仏様がすべての人々を救いたいという

慈悲の心」からの願いなのです。


優勝や成功などいわゆる「悲願」が

かなえられることはとてもうれしいことです。

ただしいつもそれが叶うとは限りません。

悲願」にとらわれ縛られすぎると

達成出来なかった時に苦しみます。

しかし実は達成出来なかった時こそ

自分自身を見つめなおすことが出来る

良い機会だともいえます。

本当の「悲願」はそれを超えた先に必ず存在しているのです。


今年の秋のお彼岸は9月19日から9月25日です。

暑い日が続いています。

無理をせず、出来るやり方で

ご先祖さまや亡くなった人を忍びましょう。







8月のお便り


有無(うむ)


有無」とは「ある」ことと「ない」こと

という意味で通常使われます。

しかし仏教では存在するものはすべて仮のもので

条件によっては生滅するものなので

絶対的な「」や「」は存在しないと説かれます。

すべての存在を認めるのが「」の見解で、

すべての存在を否定してしまうのが「」の見解だとし、

これらの両極端に陥ることを戒めるのです。


有無」の考え方は形あるものについてだけではなく、

私たちの心、判断など思考についても当てはまります。

私たちはある一つの価値観に縛られがちです。

このやり方、考えが絶対に正しい」=

この考え方は絶対に間違っている、正しくない」=

のように「0か100」で判断してしまうことは有りませんか?

そのせいで周囲の人を認めることが出来なかったり、

なにより自分が苦しい思いをしたり

満足出来なかったりすることは有りませんか?


仏教は「中道」を説きます。

あきらめて楽な道を行くのではなく、

苦行でもない中正な道というのが「中道」です。

それは様々な価値観を認め、

自分にとっての道を考えて進んで行く

ということにもつながるのだと思います。


暑中お見舞い申し上げます

厳しい暑さが続きます。

くれぐれもご自愛下さい。






7月のお便り

「柔軟(にゅうなん)」

柔軟な対応」などというように使われる

柔軟」は一般に「じゅうなん」と読みますが、

仏教では「にゅうなん」と読み、

まっすぐに素直な心、物事を正しく把握し、

あるがままを受け入れることが出来る広く

おおらかな心の状態を指します。

そして何事にもとらわれず、執着しない、

悟りへと向かうことのできる心を

柔軟心(にゅうなんしん)」と呼びます。


私たちは生きていくと知らず知らず

考え方の「くせ」のようなものを身に付けます。

そして自分の考え方を基準に

様々な物事を判断し、決めつけてしまったり、

思い込んでしまったりすることがよくあります。


先入観や思い込み、執着は一旦横に置いて、

もう一回広い目で、あるがままの物事を見てみましょう。

全く新しい世界、新しい考え方がに出会えるはずです。

そのことで、周りの人を理解することが出来たり、

許したりすることも出来るかもしれません。

何より自分自身に優しくなれるのだと思います。


七月になりました。暑さが厳しくなってきます。

水分・休養を十分とって、

皆さまくれぐれもご自愛下さいませ。


本堂には毎年恒例の七夕の笹を設置しました。

短冊を準備しましたので、お参りの際は

よろしければ「お願い事」をお書きください。

(期間 八月七日 旧暦の七夕ま
で)






6月のお便り


希望(けもう・きぼう)


中国の書籍には用例がありますが、

希望」という言葉が日本に取り入れられたのは

仏教用語としてだと言われています。

読み方は「きぼう」ではなく「けもう」。


インドやサンスクリット語の「アビラーシャ」が元の言葉で、

富や名誉を強く望む」という意味です。

それを求める心は仏道修行の妨げになるので、

希望戒」という戒めが制定されています。


やがて意味が望みや未来への明るい見通しを指す

希望」に代わっていったとされています。


皆様の希望は何ですか?

確かに「希望」を持つことは生きる力になります。

しかし、合わない「希望」は逆に苦しもの原因にもなります。

希望」に縛られすぎると

それだけが正解のように思え、

それを追求することに心を奪われ、

本当の幸福が見えなくなってしまいます。


希望」は絶対のものではありません。

例えば今回のコロナのような苦難・逆境の時、

本当の「希望」は「富や名誉」にはないことを人は実感します。

希望」がなくとも日々を重ねていくことで

幸福を得て、満ち足りることは十分可能で、

それが悟りへの道だと言えます。


しかし、「希望」を持つことで生きやすくなるのであれば

希望」も大切だと思います。

ただその「希望」が本当に自分に合ったものなのか、

その他の道はないのか、

見直していくことは必要だと思うのです。


コロナも少しずつ終息しつつあります。

乗り越えた人々の力、自分自身に感謝し、

一緒に進んで行きましょう。






5月のお便り


工夫(くふう)


現在は「手段や目的を考え、より良い方法を見出す」

という意味で使われる「工夫」ですが、

仏教では「仏道の修行に専念すること」や

「思慮をめぐらす」ことを指し、

公夫」とも「功夫」とも呼ばれています。


現在コロナウィルスが世界的に流行し、

大きな被害と影響が出ています。

学校の休校やマスクなどの物の不足、

不要の外出を控えなければならないことのストレス等・・・

またお仕事の方、現在通院中の方、その他の方の中にも

大変苦しい状況に立たされている方が

多くいらっしゃるとお聞きしています。

國や自治体などの対策を強く願いますが、

いずれにしても今は忍耐の時なのだと思います。


しかし人間は昔から様々な病気の流行を乗り越えてきました。

人にはそれが出来る力が備わっているのです。

今の私たちに出来ることは「工夫」すること思います。

与えられた環境の中でやれることを考え、実行してみる。

考えて絶望するのではなく、希望を探していく。

道はきっとあるはずです。

私たちの心はどんな状況でも「自由」です。

心の中ではどこへでも行けるし、いくらでも考えられる。

大丈夫です。

私たちは決して一人ではありません。

私たちはこの瞬間を一緒に生き抜いている仲間なのです。

そして仏様も見守り、寄り添って下さっています。


これからも共に乗り越えて行きましょう。






4月のお便り


加持(かじ)」と「加護(かご)


現在は病や災難の除去などの現世利益を願う

祈祷(きとう)のことも指すようになった「加持」ですが、

本来の意味は少し違います。

仏様が見守ってくださっているという慈悲の心を「」と言い、

私たちが仏様を信じ精進していこうという信心の心を「」と言います。


私たちが「神仏のご加護を・・・」などという時の

加護」もほぼ同じ意味です。


つまり「加持」も「加護」も神仏から一方的に

与えられるものではないのです。

私たちが与えられた状況の下で自己を戒め、

今出来ることをやっていく時初めて仏様に導かれて

生きていくことが出来るということなのです。


神仏からのご加持、ご加護は必ずしも

現世の利益とは限りません。

加持」の原語には寄り添って立つ、

住処などの意味があります。

たとえどのような状況にあっても仏様は

寄り添って見守っていらっしゃる

それを信じることで私たちは様々な苦難を

超えていく力を得ることが出来ると思うのです。


コロナの流行で不安なことも多いですが、

桜が咲き、鴬もなき、自然は強さを教えてくれます。

みんなで乗り越えて行きましょう。






3月のお便り


降伏(ごうぶく)


現在は一般的には「こうふく」と読み、

相手方に降参することを意味する「降伏」ですが、

仏教用語としての意味は全く違うものです。

降伏」は「ごうぶく」と読み、

悪や迷いを降(くだ)し、伏せしめること、

悪魔を制圧することを指します。


では悪魔とは何でしょう。

自分の心の中の苦しみ、悩み、挫折感、おごり、無力感、

ねたみ、そねみ、などの様々な煩悩が「悪魔」なのです。

降伏」とは自分の心の中の迷いを

断ち切ることだと言い換えることが出来るでしょう。


私たちは仏様ではありません。

これらの迷いを心の中からなくしてしまうことなど

不可能だと思います。

しかし、これらの煩悩に飲み込まれることなく

たとえ少しずつでも「降伏していく力」=「打ち勝っていく力」は

実はすべての人に備わっているのです。


三月は各種試験や環境の変化も多い月です。

またコロナウィルスも流行の兆しを見せ、

例年以上に心が不安定になったり、

体調をくずしたりしやすい月だといえます。

しかし、目を上げて外を眺めてみましょう。

冬は終わり、風は暖かくなり、新芽は顔を出し、

春の花も咲きだしました。


当院のまわりでは、

うぐいすもきれいな声でさえずり始めました。

本格的な春です。

降伏」の先に皆様の心にも

必ず春はやってくるのだと思います。


当院は毎日9時から17時まで開いています。

いつでも自由にお参りにお越しください。

(ご祈願、ご供養は予約制です 099-228-8001)






2月のお便り


出世(しゅっせ)」


現在は社会的に地位が高くなることを指す「出世」ですが、これも仏教から来た言葉です。

仏教での意味は大きく二つあります。

一つは仏様が生きている私たち(=衆生)を救うために、この世に出現されることです。

もう一つは人間が迷いの多い世俗を超えて仏道に入ることを表し、

「出世間(しゅっせけん)」とも言います。

こちらの世界に仏様が来られることと、

俗世から人が離れ悟りの世界へ入ること

行く先は逆ですが、いずれも現在の意味とは全く違います。

目指していることは有名になることや

いわゆる「立身出世」をすることとは、正反対のことだといえます。


私達は、ともすると周りと自身を比べ、その立場が人より上か下かと考えてしまいます。

また行動するときに、まわりにどのように思われるかに縛られたり、

保身のために、正しい判断を見失ってしまうことがあります。

本当に大切なのは社会的な立場、あるいは得たステータスなのでしょうか?

「立身出世」を目標に頑張ることも大事ですが、

そこにとらわれて大切なことを見失わないようにしましょう。

不必要なこだわりから自由になり、一日一日を重ねていくことが、

出世」へ近づくことだといえるでしょう。


2月4日は立春です。当院の紅梅、白梅も満開となりました。

ふきのとうも顔を出し、早春の訪れを知らせてくれます。

皆様、ぜひお立ち寄りください。




1月のお便り

慈悲(じひ)」


現在では、自分より立場の弱い人に情けをかけること、

思いやりを示す様をあらわす「慈悲」という言葉ですが、

これも仏教からきた言葉です。


仏教では、仏様が人々をあわれみ、いつくしむ心を「慈悲」といいます。

」は仏様が人々に楽を与えること、

」は人々から苦しみを抜くことを意味し、

これを「抜苦与楽(ばっくよらく)」といいます。


人は、いくら恵まれていても、苦しみから逃れることは難しいといえます。

より多くのものを求める欲や、人と比べるねたみ、そねみの心などがある限り、

苦しみは決してなくなりません。

「楽」とは物質的、表面的な楽ではなく、

「心が平安であること」「心が楽であること」なのです。

当院のご本尊の「悲母観世音菩薩」は、

悲しみや心の苦しみを抜き、心の平安を与えてくださる「慈悲」の観音様です。

いつでも会いにお越しください。


あけましておめでとうございます。

今年も皆様との御縁をより結んでいきたいと願っています。

どうぞ、よろしくお願いいたします。



本年の団体の厄払いの申し込みがはじまっています。

2月1日(土)、2月2日(日)、2月3日(月)、2月4日(火)、2月8日(土)を予定しています。

厄を払い、運を呼び込む行事です。ぜひ御参加ください。(要予約 1/30〆切)

個人の御祈願は、毎日9:00〜17:00まで受け付けています。(要予約)


良い一年になりますように!




12月のお便り

無我(むが)


日常生活の中では「無我夢中で・・・」など

我を忘れて熱中する様をあらわす「無我」ですが、

これも仏教用語です。

仏教での意味は違います。

この世に永遠不変の存在などなく、実体のあるものはこの世にはない

ということを「無我」と言うのです。

もちろん今ここにいる自分やまわりの存在が

ないと言っているわけではありません。

ずっと変わらずに変化せずにあるものなどないということなのです。

すべては移り変わります。

変わらない自分は存在しません。

すべての人々も物事も意識も流れも常に変わり続けているのです。

永遠などない。

だから出会いが有れば必ず別れが有るのです。

だからといって今まで私たちが出会ったこと、

思い出、今までいた今は亡き人、

その存在が消えてしまうわけでは有りません。

誰かの心にとどまり続ける限り

その人の中でそれらは生き続けるのです。

変わり続ける=「無我」だからこそ、

今日一日が大切で、同様に未来も、過去の思い出も

意味のある大事なものだと思うのです。

無我」とは変化し続けるありのままを受け入れ、

日々を重ねる心の大切さを支える言葉だともいえるでしょう。


令和最初の年も今月で終わります。

皆様大変お世話になり有難うございました。

来るべき新しい年が皆様にとって

幸多い一年となりますように。

どうぞよいお年を。






11月のお便り

達者(たっしゃ)


達者」という言葉は今も様々な意味で使われています。

「お達者で」と言うように、身体が丈夫で健康であるとの意、

「芸達者」のように物事に熟練し、上手であるの意、

「口だけは達者で・・・」のようにうまく立ち回って抜け目がないというマイナスの意味でも使われます。


この「達者」という言葉も仏教から来た言葉です。

仏教の本来の意味は、学ぶべきことを習得し、

真理に到達した修行者、悟りを開いた者を指します。


お釈迦様が若く、出家する前、王子だった頃、

お城から出る三つの門で病老死と出会います。

そして最後の四つ目の門で修行僧に逢います。

修行僧はぼろぼろの衣で無一文でしたが

生病老死の苦しみを超えて輝くばかりの顔姿だったそうです。

その出会いからお釈迦様は人間として解くべき、

本当の課題に気づき、修行し、やがて悟りを開いたそうです。

このことを「四門出遊」の教えと言います。


私達は皆「生老病死」から逃れることは出来ません。

本当に大切なことは丈夫でいる事でも何かに秀でている事でも有りません。

私達が真の「達者」になることは難しい、

しかし近づくことは出来ます。

あるがままを受け入れ、一日一日を重ねていくことこそが

大事なことだと思うのです。


台風や水害などで苦しい生活を余儀なくされている皆様の地域が

一日でも早く復興致しますよう心からお祈り申し上げます。






10月のお便り

退屈(たいくつ)


暇であきあきする事を意味する言葉ですが、

元々は仏教の言葉で、

仏教修行の厳しさに屈して退いてしまう事」を言います。

また「退屈の心は自ら起こすものだ」とも述べられています。

つまり、やりたい事や、やらなければならない事の厳しさに

できない」と自分で決め退いた状態であり、

自分のしなければならない事を見失っている様が

退屈」なのだと言いかえる事が出来ます。

そしてこれが現在の「退屈」の意味になったと考えられているのです。


現在の意味での「退屈」は決して楽しい状態ではありませんね。

しかし、本当に苦しい時、人は「退屈」を感じません。

その意味で「退屈」だと思うのはまだゆとりがある時であり、

見失っている志を見つける良いチャンスだとも言えるのです。


現代社会は隙間の時間を埋める様々な情報であふれています。

それを疑いなく追って行けば時間はうまっていきます。

しかし、その事は本来の意味での「退屈」から

抜け出す事だとは言えないのではないでしょうか。


あいた時間は自分を省みたり、

次に進むべき道を考える大切な時間です。

考えてばかりでは苦しいし、

もちろんゆとりや息抜きも必要です。

しかし、一見無駄で苦しい作業に思える

自分で考え、悩み迷いながら進んでいく事」は

とても大切な事だ、思うのです。


本格的な秋です。

作物も実りの季節です。

皆様も「実りの秋」になりますようお祈りいたします。





9月のお便り

有耶無耶(うやむや)


ぼんやりとしてはっきりしない、あいまいな様子を表す言葉です。

仏教語では「有耶無耶」と書き、「あるかないか

つまり物事の実態はっきりしない事を指します。

現在マイナスの意味が強いこの言葉ですが、

仏教では少し違います。


お釈迦様は、有に固執するのも、無に固執するのも

ともに偏見をを生むとしてどちらにも偏らない

中道を説かれました。

相対的な有無を超えた世界こそ

悟りの世界だと説かれたのです。


私達はとかく全ての物事に対し

はっきりしたい、明確にしたいと考えがちです。

分からない事は、不安でとにかく答えが欲しくなります。

しかし世の中は分からない事で満ちています。

例えば私達がどこから来て、亡くなって、どこへ行くのかも

本当の所は分かりません。

また有無にこだわり一つの考えや見方に

とらわれる事は偏見を生み出す原因になります。

他方を受け入れられなくなり争いの元となるのです。


有耶無耶」があることを受け入れましょう。

0か100ではなく、「うやむや」な事があることを認め、

それでも迷いながら選択し、一日一日を

重ねていく事が大切だと思います。

その選択が本当に正しいのかどうかは

誰にもわかりません。


その結果がどうであれ、選択し、

進む事が出来たという事実は決して無駄にはならず、

貴重な経験となります。

とても意味のあるものだと思います。


九月に入り、風や花や・・・

少しずつ秋の気配を感じます。

二十日からは秋のお彼岸(9/20〜9/26)です。

是非、当院へお立ち寄り下さい。






8月のお便り

六根清浄(ろっこんしょうじょう)


感覚と認識の基本となる眼(視覚)耳(聴覚)鼻(臭覚)

舌(味覚)身(触覚)意(意識)から生ずる迷いを絶って、

清らかな身になることを意味する言葉です。

邪念や迷いを捨て、心を穏やかにすることだと言えます。


もちろん私たちはこと六根が全てない状態で生きていく事は難しく、

どれも生きていく上でとても大切です。

しかし、同時に迷いを生じる原因ともなるのです。


悲しい体験は心を傷つけ、偏った見方は偏見を生み、

不快な体験は特にマイナスの感情を引き起こします。

六根は楽しみや嬉しさも生み出しますが、

こだわりや欲や迷いにもつながりやすいと言えます。


六根は本来より良く生きるために備わったものです。

六根で得た情報を無視したり、無かったことにするのではなく、

一旦、自分の中に入れて学び、

自分や周りを苦しめるこだわりは洗い流して

進んでいきましょう。


俗説では、「どっこいしょう」は

六根清浄」が変化した言葉だと言われています。

山岳仏教の行者が修行をする時、心身ともに清らかになるように

ろっこんしょうじょう、ろっこんしょうじょう

と唱えたことから来たということです。


生きていくとこだわりや迷いはつきものです。

どっこいしょう」と乗り越えて心身を安らかに保ちましょう。


八月十三〜十六日はお盆です。

仏様が帰って来られる期間だと言われています。

お経やお墓参りやお供え・・・

自分に出来るお供養を致しましょう。





7月のお便り

平常心(へいじょうしん)


普段通りの心がけ」や「緊張せずリラックスする」の

意味で使われる「平常心」ですが、元々は禅の言葉です。

仏教用語では「びょうじょうしん」と読み、

何物にもとらわれず、自然であることを表します。

そして、「平常心是道」=平常心こそが悟りへの近道であると説きます。


私達が生きていく時、生老病死を避けることは決してできません。

また悩みや迷いのない人生はなく、

人は喜怒哀楽を繰り返し、日々を送っています。

特別なことではなく、これらの日々を積み重ねて

生きていく事が自然であり、「平常心」だと仏教では言っているのです。

その単調と思える日々の中でも、

しばしば訪れる、思うようにならない時、

全てを自分のせいにして自分を責めたり、

何かのせいにして理由探しに明け暮れたり、

執着しすぎて苦しくなったりすることは有りませんか。

この事で生きていることが辛くなったり、

日々を重ねる事が苦しくなった時は

平常心」を失っていると言えます。


無理をせず、ゆっくり体の力を抜いて、深呼吸して、

胸に手を当てて、「大丈夫」と口に出してみて下さい。

ありのままま」の自分で「大丈夫」です。

弱っていても、迷っていても、

自分に出来ることがほとんどないように感じていても構いません。

今日一日生きている」事こそが

自然で、ありのままで、尊い大切な事なのです。


日々の積み重ねのその先に

私達より一足先に仏様になった大切な今は亡き人々に

再び会うことの出来る道が必ず続いているのだと

私は信じています。


七月になりました。当院では七夕の笹を

八月七日の旧暦の七夕の日まで飾ります。

よろしければ是非お立ち寄りくださいませ。






6月のお便り

投機(とうき)


現在は価格変動からの利益をねらって行う

経済活動のことを指す「投機」ですが、

これも仏教用語で全く意味は違います。


仏教用語としての意味は大きく二つ。

まず心機投合、師弟の心の在り方が投合するという意味です。

弟子の心に芽生えた悟りに向かう心の動きを

師僧が見逃さず悟りに導くこととも言えます。

もう一つは「修行者が真理の世界に入ろうとして道と合わさる、合一するという体験」の意味です。

」はもともと持っている心の働きや能力のことで、

きっかけを投げ入れることで自ら悟りをひらくこと

イコール「投機」とも言い替えられます。


いずれにしても他の人から、あるいは自分自身が

働きかけることで悟ることが出来たことが「投機」だと言えます。


うまく機会をとらえて働きかけるの意が転じて

現在の「投機」になったと考えられます。

仏教用語と経済用語は全く意味が違いますが、

うまく機会をとらえて動いてみる」という考え方は

私達が生きていく上で大切なことだと思います。


人はそれぞれ考え方の「こだわり」や「くせ」を

多かれ少なかれ持っています。

それが「個性」になり、大切な場合もありますが、

このこだわりが邪魔をして先に進めなくなったり、

心が苦しくなってしまうことも有ります。


仏様は「」=何かのきっかけで悟ることの出来る能力は

全ての人に備わっていると説きます。

行き詰った時、少しだけ自分に何かを投げ入れてみる

(見方を変えてみる、周りからの助言を取り入れてみる等

新しいことをやってみる)ことも大事ではないでしょうか。


雨が多く、うっとおしい季節ですが、植物にとっては恵の雨です。

皆様、くれぐれもご自愛下さい。






5月のお便り

無所得(むしょとく)


現在は収入がないことをさして「無所得」と言いますが、

仏教語としての意味は全く違います。

仏教では形あるものだけではなく、

知覚や認識も含め得られたものを「所得」と言います。


有所得」とは、それにこだわること、

逆に、「無所得」とは何ものにもとらわれない

執着から離れた自由な境地を指します。


確かに生活の為に私たちは収入を得なければなりません。

しかし、そのために心身をそこなうほど無理をしたり、

収入の額にとらわれすぎ、一喜一憂したりするのは

本末転倒です。

収入はあくまでも生きていく為の「道具」にすぎず、

その人の人としての「評価」とは一致しないのです。

本当に大切なものは成果や報酬に踊らされずに

自分らしく生きていく事だと思います。


無所得」とは見返りを求めない心だと言いかえることが出来ます。

結果が得られなくても、評価されなくても

やってきた事実は決して消えないのです。


大切なことは様々な「こだわり」から離れて

今生きている自分を慈しみ、丁寧に生きて生き事だと思います。


当院のまわりは緑が濃くなり、すっかり初夏の風景です。

皆様、お時間がおありの際は是非お越し下さい。


平成」から「令和」へと元号が替わりました。

平和な時代でありますように心からご祈念申し上げます。






4月のお便り

葛藤(かっとう)


心の中にそれぞれ違った方向の力が有り、

その選択に迷うことを「葛藤」と言いますが、

これも仏教用語です。


仏教では悟りを得る妨げとなるものを

葛や藤のつるにたとえて「葛藤」と言います。

つる植物は木にからまって成長することが多いですが、

その勢いが強すぎると木全体にからまり、

やがて本体の木は弱ったり、枯れてしまったりします。

執着する心を植物にたとえて

葛藤」の危険を仏教は説きます。


生きていくと二つの道のどちらを選ぶか

選択をせまられることがあります。

何が正解なのか考えてもわからないことも多く、

悩み、迷います。

つたにからまれて身動きがとれなくなってしまう前に

自分でどちらかを選んで、

進んでいく事は大事だと思います

もし進んだ道が間違ったら軌道修正すれば良いのです。


私達には全ての執着を完全に捨てることなど不可能です。

しかし、自分にとっての優先順位をつけて、

余分なものを捨て、執着を減らして

身軽になることは出来ると思います。


春が来て、コートを脱ぎ、薄着になりましたね。

心の断捨離をして、心も軽くするには良い季節だと思います。


桜も咲き、鶯の声も響き、春本番です。

皆様も是非お参りにおいで下さい。






3月のお便り

面目


面目ない」「面目が立つ」など、

世間に合わせる顔、体面の意味で、

めんぼく」と読まれることが多い「面目」も

元々仏教から来た言葉です。


仏教では「めんもく」と読み、

人間の生活や意識以前の生かされている命(存在)の有りよう、

真の姿の事を指します。


では、人の真の姿とは何でしょう。

仏教ではどんな人の心にも生まれながらにして

仏性(清らかな性質)が宿っていると考えます。

そこに立ち戻ることが出来れば、

ありのままの自分、自己のとらわれから脱した本来の自分を

知ることが出来るのでしょうが

私達にはとても難しいことですね。


ただ少なくとも言えるのは、

体面や世間にとらわれることは

真の面目ではないということです。


「柳は緑、花は紅、真面目(しんめんもく)」という禅語が有ります。

木も花も誰かに見られる為ではなく、

あるがまま、その存在自体が

真の面目であるという意味です。


つまり私たちは生きている事、生かされている事で

すでに「面目がある」存在だと言えるのです。

様々な状況の下で私たちは生きています。

何が正解で、何か本質か悟ることは

とても困難で悩みは尽きません。

しかし、どんな状況でも心は自由です。

自分自身を慈しみ、様々なこだわりから離れ、

一日一日を大切に丁寧に生きていく事が、

真の面目」=「真面目」な生き方に

つながって行くのではないかと思います。


十日ほど前から鶯が鳴き始めました。

桜の蕾も少しずつ膨らみ始め、山はもう春です。

皆様も是非、当院へお立ち寄り下さいませ。





2月のお便り

寿命


仏教では「いのち」を「寿」とも「」とも言い、

ほぼ同義ですが、「寿」は「いのち」の時間を表し、

」は身体を維持する働きを指すそうです。


人は「寿命」まで生きますが、それが何時までなのかは

本人にもはっきりとはわかりません。

その違いの理由を明確に説明することは出来ず、

時として人はその理不尽さに苦しみます。


自我の思想が生まれ、

私の「いのち」は私が生まれた時に始まり、

私が死ぬ時に終わるという考え方が

主流となっています。


しかし、本当にそうなのでしょうか。

全ての「いのち」は元素に戻って、

姿を変えて次の「いのち」へと

変化していくという考え方もあります。

また、その人がこの世から去っても

その人の思い出も、

その人が確かに存在したという事実も

決して消えません。

形を変えてまわりの人々の心の中に存在し、

今生きている私たちの心に

影響を与え続けているのです。


長くとも、短くとも、

越えなければいけない試練があっても、

各々の「寿命」まで生きていく事が、

今「生かされている」私たちに

与えられた課題だと思います。


2月4日は立春。

暦の上でももう春です。

当院のまわりの梅の花も次々と開いてきています。

寒さももうしばらくです。

皆様の心に暖かな春がやって来ますように。






1月のお便り


平成三十一年 明けましておめでとうございます

今年もよろしくお願いいたします



冥利(みょうり)

役者冥利につきる」などと使われる

冥利」も仏教からきた言葉です。

元々は「冥加利益(みょうがりやく)」といい、

仏様や菩薩様のご加護のもと、

知らず知らずに受けるご利益の事です。

転じて、ある立場として行ったことで、

返ってきた喜びや幸せをあらわす言葉となりました。


冥利」とは自分の利益のためでなく行ったことが

知らず知らずに自分に返ってくることと

言い換える事が出来ます。

新しい年、少しだけ誰かのために行動してみる、

少しだけ誰かを許す、などやってみませんか。


人には人を癒す力が有ります。

もし、自分は何も役に立たないと思っていたとしても、

あなたのちょっとした行動や言葉で

人に喜びを与えることは必ず出来るのです。

そして、そのことは必ず自分に返ってきます。

何より、それが、今「生かされている」という

冥利」を頂いている私たちのできる

仏様へのお返しのように思えるのです。


平成三十一年が始まりました。

皆様にとって幸多い一年となりますよう御祈念いたします。


初詣や厄払いや合格祈願などで当院が一番にぎわう季節となりました。

是非、お越し下さい。






12月のお便り

不思議

不思議」とは仏教用語です。

思議すべからず」の意の「不可思議」を略した言葉で、

仏様の悟りや智慧のように

人間の能力では思い測ったりすることが出来ない事を意味します。

転じて、人間の力では及ばない境地の事、

さらに転じて、常識では理解出来ない事を

指すようになったと言われています。

人はともすると全ての事に合理的理解を求めてしまいがちです。

もちろん努力や法則や技術等で越えられる「、

説明できることもたくさんあります。

しかし、人智を超えた「不思議」であることは

実はそれ以上に多いと言えるのです。

例えば、美しい自然、あるいは襲いかかる天災、

様々な出会いと別れ、生まれた時代・場所等...

生きていくと思い通りにならないkもとも多いでしょう。

でも、同様に思いがけない良い出会いが待っているかもしれないのです。

一人の一生は短く、また一回だけのものです。

だからこそここに今生きていることは

不思議」で有難いことだと思います。

そしてこれから生まれてくる人々も、

それから生まれ、生き、この世を去って行った人々も

同じように一人一人が大切でかけがえのない

不思議」なのだと強く思います。


平成30年ー平成最後の師走です。

今年も拙い文章にお付き合いいただき有難うございました。

来るべき年が皆様にとって実り多いものとなりますように

心より御祈念申し上げます。

あわただしい年の瀬、くれぐれもご自愛下さい。







11月のお便り

「億劫」

「外に出るのはおっくうだな」というように使われる

「億劫」も仏教用語です。

とそれよりさらに大きい数である劫(こう)を組み合わせた言葉で

本来は「おくこう(ごう)」と読み、想像も出来ないほど

とても長い時間のことをさす言葉でした。

長い時間がかかることを面倒に感じたり、

躊躇(ちゅうちょ)する気持ちが転じて、

現在の意味になったのだと言われています。


確かに楽しいことはあっという間の短い時間に感じ、

いやなこと、大変なこと、慣れないことなどの時間は

とても長く感じて、取り掛かることさえ億劫になりがちです。


本当にしんどい時は無理をせず、

体や心の声に従って、

お休みするのが一番です。

でも踏み出すかどうか迷っていたら

億劫がらずにほんの少し進んでみる、

あるいは外に出てみるのも大事な事です。


人間の一生は「億劫」の長さに比べたら

はるかに短く、無限ではありません。

しかしどの人も必ず様々な可能性を持っているのです。


あと2ヶ月ほどで新しい年がやって来ます。

来年に向けて今できることを少しずつ実行していくには

11月は良い季節だと思います。


当院は毎日9時から17時まで開いています。

お気軽にお越し下さい。







10月のお便り

「相続(そうぞく)」

現在は財産等を受け継ぐという意味で使われる「相続」ですが

本来は仏教用語です。

仏教では「この世のすべては姿や形を変えていくが(諸行無常)

絶えることはなく永遠に連続していく」と説きます。

そして、この連続を「相続」と言います。


私達の命が今ここにあるのは「私」につながる

何代にもわたる先祖からの命を相続しているからです。

同時にこの命の流れは、

単に血縁だけではない多くの人や環境や状況からも

影響を受けています。

例えば、ご先祖様一人一人も必ずその時代の

社会の中の様々な縁の中で

生かされてきたはずはずです。

人は一人だけで生きていく事は決して出来ないからです。

ですので、正確に言いかえるならば

「私」が存在しているのは、

今まで生きてきた全ての人を含む歴史や時代等

万物の流れを「相続」しているということです。


前述のとおり、「相続」は血縁の中でのことだけに限りません。

もちろん後に続く血縁(子供、孫など)のいらっしゃる方が

次に命をつなげていく事はとても大切です。

しかし、「相続」の方法はそれだけではありません。

血縁に限らず人は生きていく中で

周囲と様々にかかわり、他に影響を与え、

また逆に他からの影響を受けて変わっていきます。

その意味で私たちは全員色々な人や物から

相互に「相続され」また「相続していく」(次につないでいく)

存在だと言えるのです。


どのような立場の人であれ、一番大事なことは

自分の命をいつくしむことだと思います。

何故なら、自分を好きでいることは

ここまでバトンをつないでくれた人々や

それを支えてくれた人々をいつくしみ

大切にすることでも有るからです。

そして、それが出来る人は同様に

周りの命の大切さを理解することが

出来ると思うからです。


当院は毎日(9:00〜17:00)開いています。

ご自由にお越し下さい。

御祈願・御供養は要予約です。







9月のお便り

「脱落(だつらく)」

現在は落伍する、ぬけ落ちる、取り残されることなど

マイナスの意味で使われている言葉である「脱落」

「脱落」は元々仏教(特に禅宗)で使われる

「心身脱落(しんしんだつらく)」から来ている仏教用語です。

こだわりや、我、執着を捨てて

様々な束縛からも離れ、身も心もぬき落とすこと、

つまり、「解脱(げだつ)」(すべての束縛から解放され、悟りを開くこと)

ほぼ同じ意味の言葉だと言えます。


目標や意欲は私たちが進んで行く時とても役に立ちます。

しかし、そこにこだわりすぎると無理をしすぎて

限度を超える体や心の負担をかかえこむ原因ともなりかねません。

本当に大切なことは自分や相手が

自然でその人らしく生き生きと存在している事だと思います。


「脱落した=失敗した」と思った時は

こだわりから抜け出すチャンスだと考えてみましょう。

こだわりを捨てて、真っ白な心で周りを見渡した時、

その人にとって必要なもの、進むべき道が

見えてくるのだと思います。


今年の十五夜は9月24日(月)です。

時間に追われる毎日を少し離れて

ゆっくりとお月見をしてみませんか。


当院は毎日9:00から17:00まで開いています。

山も少しずつ秋めいてきました。

お時間がおありの際は自由にお立ち寄りくださいませ。


御祈願、御供養等の折りはお手数ですが

御予約をお願いいたします。

(099−228−8001)






8月のお便り

「唯我独尊(ゆいがどくそん)」

お釈迦様がお生まれになった時

右手で天を左手で地を指さされ

天上天下、唯我独尊」と

おっしゃったという言い伝えからきた

唯我独尊」も仏教の言葉です。


現在では「この世の中で自分ほど優れたものはいないとうぬぼれること」

の意で使われることも多い言葉ですが

本来はそのようなマイナスの意味ではなく

有難い言葉です。


唯我独尊」とは

「唯(た)だ我(われ)独(ひとり)として尊し」

ということで、それは我(人)一人一人が

何一つ加えることなく、ありのままで

尊いのだという意味です。


私達はともすると地位や財産や生まれなど

人間の価値を比べることで判断し、

卑下したり、慢心したりしがちです。

しかし、お釈迦様は私たちがそれぞれ

生きている事、その事こそが尊いのだ

とおっしゃっているのです。


つまり「唯我独尊」とは

「わたし」の命はこの世でただ一人の

かけがえのない存在である。

だからこそ何より自分自身の命をいつくしみ、

同様に一人一人の命の尊厳を大切に

しなければならないということを

説く教えだと言えます。


八月十三日(一部地域は七月十三日)からお盆です。

今生きている私たちの命は先に仏様になられた

「生きていた」人々から引きつがれた大切なものです。

お墓参りやお経や・・・

この期間は今は亡き人々を偲び、

感謝を伝えてみませんか。


当院は毎日9〜17時まで開いています。

お気軽にお立ち寄りください。

御法要、御祈願も毎日受け付けております。

(要、電話予約 099−228−8001)

その際はご遠慮なくお電話下さいませ。






7月のお便り

多生(他生)の縁

人と人との縁や全ての世の理(ことわり)は

偶然ではなく、全て深い因縁(縁)によって

結ばれた必然であるよいう意味です。


多少とは仏教用語で輪廻(りんね)し、

何度も生まれ変わるという意味です。

他生と書くこともあり、この場合、

前世から現世・後世につながる生の流れをさし、

似た意味だと言えます。


いずれにしても長い生命の流れの中で

全ては出会うべくして出会う縁、

起こるべくして起こることが

多生の縁の意味だと言い換える事が

出来るでしょう。


一人の人が一生で結ぶ縁は

それぞれ皆違います。

良い縁もそうでない縁も有ります。

出会いや出来事が必然だとすると

その全てをコントロールすることは

不可能だと言えます。


しかしどの縁にも意味を見出し、

それを生かしてゆく道は

全ての人に開かれていると思います。


「袖触れ合うも多生の縁」という言葉が有ります。

道端で人と人がすれ違う時、

袖と袖がちょっと触れ合うほどのささやかな事も

深い縁だという意味です。


これを読んで下さっている皆様とも

「多生の縁」でつながっているのだと思うと

不思議な、そして有難い気持ちになります。


これからも皆様と結ばれたご縁を

大切にして行きたいと願っています。

改めて今後ともよろしく

お願いいたします。


当院もセミの声がにぎやかな季節になりました。

本格的な夏ももう目の前です。

皆様、暑い日が続きますが、

水分、休養を十分にとって

くれぐれもご自愛ください。






6月のお便り

世間(せけん)」

「世間」とは仏教用語で、

移り変わり破壊を免れない迷いの世界という意味です。

世間を超えた悟りの世界「出世間」に

対応する言葉として使われます。

現在は人間の生きる「世の中」の意味で使われますが、

仏教ではもっと広いものを指します。

生きるもの全て(衆生世間)、

生き物を住まわせる山・海などの自然環境(国土世間)、

精神や肉体の世界(五陰世間)、

この三つ合わせたものを「世間」と呼ぶのです。


出世間を目指すのが仏教の目標ですが、

今の私たちにとっては難しいと思います。

悩みや苦しみを免れることは出来なくても、

楽しいことや美しいもののある「世間」で、

我々は生かされています。

苦しいことはずっとは続きません。

なんとか乗り越えて生きていく事も

悟りへの道だと思います。


「世間」は人にとって不可欠ですが、

ともすれば人間の「世間」の評価=「世間体」に

踊らされ大切なことを見失いそうになります。

大事なことは精神や自然も含めた広い「世間」の中で

自分にとって何があるいは誰が大切かを

見極めていく事、自分の命もまわりの命も

いつくしみながら生きていく事だと思います。

「世間」に認められる事でなく、

自分が自分自身を認めていけることを

目標に日々精進していきたいと思います。


雨の多い季節になりました。

「あじさい」が美しく咲いています。

宜しければ当院へお越し下さい。






5月のお便り

生老病死(しょうろうびょうし)」

仏教ではこの世で人間が避けることの出来ない

4つの苦悩を四苦と言います。

「生まれること」「老いること」

「病むこと」「死ぬこと」の4つで、

これを「生老病死」ともよびます。


普段何事もなく生活している時、

人はこの4つのことをほとんど意識しません。

ところがどれか一つにでもに関わる苦しみに

直面すると、驚き、嘆き、

自分だけが経験する特別なこと

のように思いがちです。

そして原因を探します。

もちろん理由のはっきりしているものもあり、

解決できるものも多いです。

しかしそうでないものも多いのです。


何故ならこれらの「生老病死」は

その時期や大きさこそ違え、

すべての人に訪れる必然のことだからです。


その人にとって出来ること、手立てをとったら

その後は「受け入れる」ことも大切なのだと思います。

現実には受け入れるにはあまりにも苦しく、

つらいことが有るのも事実です。

しかしこれらの痛みはこのよに生まれ、

今生きているからこその痛みで、

またその痛みはずっと同じように続くことは有りません。


そもそも「生まれ、生きる」ことは

辛いことばかりでは有りません。

「病」や「老い」も悪いことばかりではなく、

ここから得られた知恵や学びは

その人の内面を豊かにもしてくれます。

そしてその先の「死」もすべての人に

訪れる自然なことで、

決して恐ろしいものではないと

仏教は説きます。


生まれ、生きていく中で

悩み、病を得て、年を取り、死ぬ。

その避けられないことを

どう受け止めて、自分らしく生を全うするかは

全ての人に与えられた課題なのだと思います。


美しい季節となりましたが、

疲れも出やすい時期です。

無理をなさらず、くれぐれもご自愛下さい。


毎日9:00〜17:00もで

いつでもお参りにお越し下さい。






4月のお便り

無頓着(むとんちゃく、むとんじゃく)」


今は失敗しても、叱責されても気にしない鈍感な人、

無神経な人というようなマイナスの意で使われることが多い「無頓着」という言葉ですが、

これも仏教からきた言葉で、本来はとてもいい意味を持っています。


仏教では、「無貧着」と書き、おおらかで、物事に執着しない、無欲な美しい心を指します。

仏教では、悟りをさまたげる大きな原因の三つを、三毒といいます。

貧(とん・むさぼり、執着する心)

瞋(じん・いかりの心)

痴(ち・おろかな心)で、

貧はこのうちの一つです。

貧着とは、欲を捨てることが出来ず、ものにこだわり執着する心のことで、

この気持ちに打ち勝った、こだわりのない心もちを「無頓着」というのです。


わたしたちは、ついつい自分の「こうありたい」「こうあるべきだ」

という思いに、縛り付けられてしまいがちです。

また他人に比べ一喜一憂し、心を乱されることもしばしばあります。

現状に満足できず、不満や執着に苦しむこともあるでしょう。

理想に向かう努力、向上心はとても大事ですが、

それにとらわれすぎて、苦しむのは本末転倒だと思います。

人間のできることには限界があります。

自分がその時に出来ることをやったら、

あとはこだわらず、ありのままを受け入れることが大切です。

まわりの目や、自分の常識にとらわれすぎず、肩の力を少し抜いて、「無頓着」になってみませんか?



四月になりました。うぐいすも鳴きだし木々の新芽も吹き出し、春本番です。

当院は皆様が、気軽にお越しいただけるお寺でありたいと思っております。

是非、お立ち寄りください。






3月のお便り

内証(ないしょう)、内緒(ないしょ)」


「内証」とは、仏教語で「自分の心のうちで真理を悟ること」を意味する

サンスクリット語からの漢訳で「自内証(じないしょう)」とも言います。

他人には説明できない心の中の悟りの意が転じて、

外から、うかがいしることができない秘密等の意を指す「内緒(ないしょ)」になったといわれています。


人は生きていく中で、様々な事に出会います。

そのたびに考えながら、進んでいきますが、時として受け入れがたいこと、

どうしたらよいのか分からないことに、遭遇することがあります。

その時は、まわりの人の力や知恵を借りて、ゆっくり考えて進んでいけば大丈夫です。

ただし、自分で考えることを放棄してはいけません。


真実は、みずから悟るしかないのです。

たとえ、その状況をかえることが難しい時でも、

自分自身の心の持ちようをかえる事は、自由にできるのです。


強いものに、ただ従うのではなく、

自分の考え方、常識に、かたくなに固執するのでもなく、

与えられた環境状況のもとで、自分はどのように生きていけばよいのか。という、

「内証」を求め考えていく事が、大事なのだと思います。

計算式のように、決まった答えがある訳ではなく、悩んだり後悔したりすることもあって、あたりまえです。

それでも、少しずつ進んでいきましょう。


本格的な春がやってきました。

桜のつぼみもふくらみ、枯れているようにみえた木の枝から、

緑の新芽が次々とふきだして、季節を知らせてくれます。


是非、当院へお立ち寄りください。






2月のお便り


退治(たいじ)」

2月3日は節分です。

当院でも2月3日・4日の2日間、団体の厄除開運祈願祭が行われ、

数百人の皆様がご参加下さいます。

ご自宅でも「鬼は外、福は内」と鬼を退治し、

福を呼び込む行事ともいえますね。


「退治」も実は仏教から来た言葉で、仏教語では「対治」と書きます。

現在の「退治」の意味は、

悪いものや敵を攻め滅ぼす事、打ち負かす事ですが、

仏教での意味は少し違います。

人々を仏道に専心させる為に、それを邪魔する煩悩の悪魔を降伏させる事を、

「対治」と言います。


つまり、向き合うべきなのは外の敵ではなくて、

心を乱し、迷わせる自分の心の中の敵なのだと言いかえる事が出来ます。


苦しい状況に置かれた時、

人は自分に対する自信や誇り、希望を打ち砕こうとする

「心の中の鬼」に飲み込まれそうになります。

しかし、恐れる必要は有りません。

人には回復する力が備わっています。

「退治」には治療するという意味もあります。

傷ついた自分の心は、いたわり、ゆっくり治療してあげる。

そして心の中の鬼と向き合い、少しずつ少しずつ対治していきましょう。


皆さんは今「生きていて」様々な可能性を持っています。

必ず、心の中の鬼を自分で打ち負かすことが出来るのです。



2月は、1年で1番寒い季節です。

でも2月4日は立春、暦の上ではもう春です。

当院のまわりでも、ふきのとうが顔をだし、梅の蕾も日々膨らんで来ています。

あたたかい春はもうすぐそこです。






1月のお便り

灯明(とうみょう)」

神仏に供える灯火のことを灯明といいます。

仏教では、サンスクリット語の「ディーパ」の訳で、

闇[無明(むみょう)]を照らす、智慧の光のことを「灯明」といいます。

無明とは、思い悩み、苦しみ、何も見えない闇の中に心がさまよっている様を指します。


生きていく中で、人は悩み、迷い、真っ暗な闇の中に、

一人取り残されているように思う時が有るかもしれません。

しかし、夜が必ず、夜明けに移り変わるように、「灯明」は必ずさしてくるのです。

一人だけで抱え込まず、周りの人に助けを借りながら、

少しずつ光の方へ進んでいきましょう。

貴方がどんな人でも、あなたを大切に思う人はいます。

一人きりだと思っていても、あなたの気づかない誰かが、

あなたにつながる、今は亡き大切な人々は、そしてなにより、仏様は、

あなたを大切に思い見守っているのです。


このお寺も、闇を照らす小さなあかり(灯明)になれるように、精進していきたいと思っています。


あけましておめでとうございます。

今年もどうぞ、よろしくお願いいたします。


一月は合格祈願、厄払いなど一年で一番にぎわう季節です。

皆様もどうぞお越し下さい。


2/4(土)・2/4(日)は恒例の節分の団体厄払い(星祭り)です。

お申込みは1/31日までです。

完全予約制ですので、お早めにお申込み下さい。

個人の厄払い・ご祈願・ご供養は毎日受け付けています。

こちらもご予約をお願いします。(099-228-8001)




12月のお便り

「知識(ちしき)」

現在では、知っている事、理解する・認識する事などの

意味で使われる「知識」ですが、

これも仏教から来た言葉です。

しかし、意味はずいぶん違います。

仏教での「知識」とは

知っている人、面識のある人、親しい人のことです。

さらに仏縁や、悟りへと導いてくれる指導者を「善知識」と呼び、

これを略して「知識」と呼ぶ場合もあります。

すべての人は自分を取りまく

「知識」=「人」によって様々なものを得て、

今生かされているのだと言えます。

確かに人との関わりによって

傷つけられる事もあります。

しかし、そこから自分がどうあるべきか学ぶことが出来ます。

また傷ついた時、救ってくれるのもまた「人」です。

何より、人は一人だけで生きていく事は決して出来ないのです。


「知識」は今生きている人だけではありません。

「先立つ子は知識なり」という言葉があります。

早くに亡くなった子こそ、「命の有難さ」や「無常さ」など、

様々な事を身をもって教えてくれた尊い仏様(善知識)

であるという意味です。

もちろん今は亡きご先祖様やご家族、知己の人々も

すべてその人にとっての「知識」だと言えます。

人生は一人一人皆違います。

自分の人生を背負って生きていく事が

きつい時も有ります。

一人だけで抱え込む必要は有りません。

まわりの力を借りて下さい。

様々な「知識」を得ながら、

与えられた今日一日の有難さを思い、

自分なりに生きていく事が

大事なのだと思います。


平成二十九年も今月で終わりです。

今年もつたない文章をお読みいただき

本当に有難うございました。

新しい年が皆様にとって幸い多い一年となりますよう

心よりお祈り申し上げます。




11月のお便り

「看病(かんびょう)」


「看病」ももともと仏教語で、

僧侶が説法や加持祈祷(かじきとう)によって

病人の苦痛をやわらげることを意味していたそうです。

時代とともに宗教的な意味合いが薄れ、

現在では一般に病人のお世話をする意味で使われています。

奈良時代には病人に寄り添い、

看病から祈祷まで行う僧侶が数多くいて、

「看病禅師」とか「看病僧」と呼ばれていました。

「看病」という言葉は、そこから来ていると言われています。

本来の意味を考えると

看病とは病んでいる人への身体だけではなく、

精神面や生活面などすべてについての手当だと言えます。

もちろん近くでずっと看ることが出来るのが最善でしょう。

しかし各々にはそれぞれの生活が有ります。

その人の置かれた立場で出来ることをする、

心や生活面など無理なく可能な援助をして支えていく、

ことも立派な看病だと言えるのです。


病は誰の身に何時降りかかるか分かりません。

「看病される側」の方は申し訳なさを感じる必要は有りません。

専門機関を活用し、周りの助けも借りて、

ゆっくり、あせらず治療なさって下さい。

また「看病する側」の方たちは無理をしたり、

ストレスをため込んだりしがちです。

こちらも遠慮せずに、周りの力を借りて、

上手に休養を取って、

何より自分の心と体をいたわりましょう。


お寺は直接、体を良くすることは出来ません。

しかし、病を抱えた人、かかわる皆様の心に寄り添い、

少しでも力になり、

支えていけるよう=「看病」の場となれますよう、

精進していきたいと思っています。


平成二十九年もあと二か月となりました。

来年の厄払いの一覧表(平成三十年度用)が出来ました。

厄除祈願のページをご覧下さい。




10月のお便り

「中道(ちゅうどう)」

中道も仏教用語です。

享楽と苦行、

どちらにも偏らない生き方を指します。

極端に近づかず進むことが悟りへの道だと

お釈迦様は説かれました。

中道とは足して二で割った「まんなか」ではありません。

各人の苦楽のバランス、立ち位置の事だと言えます。

そしてそれは人や時期等によって違います。

その都度、公正な見方ができて、

心の調和や穏やかさが得られる一点を

自分自身で見出していくことが大切だと言えます。

もう一つ大切なことは

自分の立ち位置と

他の人の立ち位置は違うのだということを

理解することだと思います。

人は自分の価値の尺度で

0か100あるいは白か黒かを

判断しがちです。

しかし世の中には

それだけでは決められない30や70、

あるいは灰色のグラデーションに満ちています。

自分の尺度だけで見てしまうと

相手を理解することができず、

敵対し、その結果

自分も傷つくことになりがちです。

苦楽の極端にとらわれず、

無理をせず、

自分の「中道」を見極める。

また自分と違う他人を認め、

同じ時代を共に生きていくことが

大切なのだと思います。


10月4日(水)は十五夜です。

美しいお月様を見ることが出来ますように…


当院は毎日9時〜17時

いつでもお参りが出来ます。

お気軽に二階本堂へ

お越し下さい。




9月のお便り

「堪忍(かんにん)」

仏教では、この世は堪忍をするところ

「堪忍土」だと教えています。

堪忍とは困難や苦しみに耐え忍ぶ(たえしのぶ)

ことをあらわす仏教語です。

確かに生きていくと様々な苦しみに出会います。

そしてそれを耐え忍ぶことはとても難しいことです。

そこからぬけだせずに苦しみに閉じ込められたままでいたり、

克服したと思っていても深い傷をかかえていて

時に再び人の心に痛みをもたらします。

もちろん苦難を乗り越える努力は必要です。

不当なあつかいや言葉に傷つけられた時には

声をあげることはとても大切です。

ただそれでもすべての問題が解決するとは限らず、

心や体の傷は完全にいえることはないかもしれません。

どうしても解決できないそれらの困難は

「堪忍」しましょう。

堪忍とはその状況や相手を許し、

受け入れることと言い換えることが出来ます。

状況や周囲は容易に変わらなくても

自分の心、ものの見方を変える事が出来ます。

困難な状況で生きている自分自身の尊さを

認めてあげて下さい。

この世は苦しみや悩みに満ちていますが、

同時に美しいもの、善意、優しさも

たくさん存在しているのです。

堪忍をして、こだわりを捨て、

世の中を静かな心で見たとき、

人は初めて自由になります。

きっと大切なことを悟り、

新しく見えてくる世界があると信じています。


今年の秋のお彼岸は9月20日〜9月26日です。

お墓参り、お供えなど、ご先祖様を偲び、

お供養なさってはいかがでしょうか。




8月のお便り

「諸行無常」

世の中の一切のものは常に変化し、消滅し

永久に変わらないものはないという意味で、

仏教の根本となる考えをあらわす仏教用語です。

人は生まれ、その人の寿命を生きて、

必ず死が訪れます。

楽しいことも、良いことも

いつまでも続くわけではありません。

そう考えるとむなしい気持ちになってしまうかもしれません。

でも逆に考えてみて下さい。

どんなに苦しいことも

ずっとそのままではなく

やがて必ず立ち直ることができる。

これも無常の考え方なのです。

またこの世での「死」は「無」なのではありません。

その人の思い出は形を変えながら

ずっとゆかりの人たちの心の中に

生き続けていくのです。

そしてこの世での終わりは

あちらの世での新しい始まりと

とらえる事も出来ると思います。


8月13日から8月16日はお盆です。

ご先祖やゆかりの人たちが

この期間はあちらの世界から

こちらの世界にもどってくるといわれています。

お墓参りや、お経や、お供えなど

その人なりのやり方でお盆の供養をすることは

いまは亡き方の御霊にとってとても大切なことだと思います。

今、生きている私たちにとっても

自分は決して一人ではなく、

たくさんのいまは亡きご先祖様やご家族とも

つながっている、そして守ってもらっている

ということを強く実感することが出来る

大切な機会だと思うのです。


お参り、御供養、御祈願等、毎日受け付けております。

お気軽に二階本堂へお越し下さい。




7月のお便り

「無事(ぶじ)」

「無事に帰ってきてね」など、過失や災いがないことの意味で

日常よく使われる「無事」という言葉も仏教語です。

本来の意味は少し違い、

精神的にこだわりやわずらうことのない

心穏やかな状態のことをさします。

どんな人でも生きていくと

様々なことに遭遇します。

もちろん楽しいこと、良いこともありますが、

残念ながらそればかりではありません。

苦しいこと、良くないことも起こってきます。

仏教語としての「無事」とは

それらの出来事が起こらないことではありません。

出会ったことに対する受け止め方、

心の有り方を表しているといえます。

苦しいこと、災いの中には

努力や注意で減らせる部分もあります。

しかし人の力ではどうすることも出来ない

部分も確かにあるのです。

思うようにならない事が有った時、

自分の今、出来ることをやり、

それでもむずかしい時は

己の限界を認め、受け入れる、

その心を「無事」と言い換えることが出来ます。

特に深い悲しみの中にいる時、

「無事に」=「心おだやかに」受け入れることなど

とても出来ないと思います。

ただ時とともに悲しみや痛みは

少しずつ弱まってきます。

それは人の心や体を守るために

大切な自然なことです。

そのことに罪悪感持たないで下さい。

哀しみは完全になくなることはありません。

時に揺り戻しで時間が経ってから

深い悲しみが訪れたり、

強い怒りになって襲ってきたりします。

それも当然のことです。

自分のあるがままを受け入れ、

心の傷を少しずつ癒しながら、

少しずつ前に進んでいきましょう。

きっと以前には気付かなかった

風景、生き方が見えてくるでしょう。

それが「無事」に近づく有り方だと思います。


今年も小さな七夕の笹と短冊を準備いたしました。

鹿児島の旧暦の七夕(8/7)まで設置いたします。

是非ともお願い事を書きにお出で下さい。




6月のお便り

定命(じょうみょう)

仏教では人は生れ落ちる前に

定められた寿命、命の長さがあるとされています。

これが「定命」です。

実際には寿命は環境や時代等によって変わることもあります。

その意味で「定命」とは

その人が生きられる限界の年齢とも言いかえることが出来ます。

「定命」は一人一人違います。

若くして亡くなる方も、長生きをされる方もいらっしゃいます。

医療や努力等、人智でかえられる部分もありますが、

人に全ての定めを変える力はありません。

決められた「定命」を超えては生きることは不可能なのです。

力を尽くしても報われない事態に直面した時、

「結局、定命が決まっているのなら無駄なのではないか」

という無力感や悲しみに打ちひしがれるかもしれません。

でも決して絶望しないで下さい。

「定命」とは一人一人に与えられた

たった1回のその人自身の時間と言えます。

その長い短いに関係なく、

等しく大切でかけがえのないものなのです。

与えられた状況でどう生きていくか、

迷ったら立ち止まり考えてみましょう。

そしてその後、迷いながら悩みながらでも

自分のペースで進んでみましょう。

苦しみを越えた先に得られるものはきっと有ります。

どんな状況でも希望や可能性がなくなってしまうことは決してありません。

その積み重ねで、他の誰でもなく、

「自分らしく」生きる事、

「定命」を全うする事が、

「今生きている、生かされている者」としての務めだと思うのです。


梅雨の時期になりました。うっとおしい季節ですが、

植物にとっては「恵の雨」の大切な季節です。

くれぐれもご自愛下さい。




5月のお便り

覚悟(かくご)」

一般的には、重大な決意や、決心を意味する「覚悟」ですが、

仏教用語としての意味は違います。

迷いを脱し、真理を悟ること、真理に目覚めることを指します。


人がすべての真理を悟ることはとても難しく、ほとんど不可能のように思えます。

しかし考えてみると、生きていく中で、数々の経験、体験から、

「小さな悟り」=「小さな覚悟」をすることは、しばしばあるように思えます。


例えば試練に直面した時、人は与えられた環境のもとで、

自分が何をすべきか考え、たとえそれが厳しい道だとしても「覚悟を決めて」力をつくします。

それが十分達成したとき得られるものは、勿論たくさんあります。

しかし、人は万能ではありません。

100パーセント満足する結果は得られないことも多いでしょう。

まったく、うまくいかない時もあるでしょう。

しかし、それは決して、無駄ではなく敗北でもないのです。

その経験の中で、自分には「できないこと」があること、

一人の力には限界があることを悟るでしょう。

それも、とても大切な「覚悟」だと思います。


なにより重要なことは、いかなる結果であろうと、

その経験から学んだことは必ずある、ということを知ること、

そして、自分が進んできた道のりを自分自身が認めてあげることだと思います。

これら、様々な経験を通して身につけた「小さな覚悟」が、

やがて「大きな覚悟」へ近づいていく力になることを確信するからです。



5月に入り、緑の美しい季節となりました。

是非当院へお立ち寄りください。

新しい環境等で、疲れのでやすい時期でもあります。

自分のペースで大丈夫です。

くれぐれも、御無理なさいませんように・・・

皆様の御多幸を心よりお祈り申しあげます。




4月のお便り

迷惑(めいわく)」

「他人の迷惑にならないよう…」、「迷惑をかけられた」など

今は不都合や不利益の意味で使われる「迷惑」ですが、

本来は本当の道に迷い途方にくれることを意味する仏教語です。

人は生きていく中で色々な事に

ぶつかり、迷い、とまどいます。

そして実は一人きりでは生きていけず、

生れた時から人に育てられ、

食べ物の命をいただき、

まわりの力を借りながら生きているはずです。

その意味でも

迷惑をかけずに生きていくことは

人には不可能だと言えます。

日本では

「人に迷惑をかけないようにしなさい。」

と教えられることが多いのですが、

インドでは

「自分も人に迷惑をかけて生きていくのだから人の事も許してあげなさい。」

と親が子供に教えるそうです。

もちろん自分の力だけで頑張るのは立派な事ですし、

またどんな相手も許しなさいなんて無理だと思います。

でも「迷惑をかけない生き方なんて人にはできない。

一人だけでかかえこまず、必要な時は人に頼ってもいいんだ。

迷惑をかけてもいいんだ。

と思うと少し心が楽になりませんか。

またそこから迷惑をかけられた相手を理解し、

許す気持ちも生まれてくろように思います。

迷い、惑い、迷惑をかけたり、かけられたりしながら、

後戻りしたり、立ち止まったりしながらでも

自分のペースで少しずつ前に進んでいくことが

生きていくことだと思います。


このあたりではつくしが顔をだし、れんげの花も咲きだしました。

すっかり春です。

当院は皆様が気軽に立ち寄れる場所でありたいと思っています。

どうぞご遠慮なく二階本堂へお越し下さい。





3月のお便り

道楽(どうぎょう)」


今は「道楽息子」「道楽者」と、良くない意味で使う「道楽」ですが、

これも元々仏教用語で、「どうぎょう」とよみます。

道楽の「楽」は「願」と同じ意味で、仏の道を願うというのが、本来の意味だそうです。

それが転じて、悟り、道をおさめて得られる喜び、楽しさを指して「道楽」というそうです。


人生を道にたとえると、悟りの道は平坦ではないことが分かります。

急な登り坂があったり、道に迷ったり、まわり道をしたり、行こうとする道がとざされて、通れなかったり・・。

それでも道を見つけ、目的地に向かって進み続けることが、生きていくことなのだと思います。


その道のり全てを楽しむことは、私達にはむずかしく、ましてや、完全に悟ることなど正直とてもできそうにありません。

だから人は苦しみます。

でも想像してください。

何の変化もない平坦な道は確かに近くて快適ですが、

変化のあるまわり道、より道を楽しく感じることはありませんか?


まわり道の途中で、綺麗な花をみつけたり、登り坂をのぼり切った先に美しい風景がひろがってたり、

道に迷った時に助けてくれる優しい人に会ったり・・・。

なにより、苦労して目的地にたどり着いた時の一杯の水のおいしさ、

達成感は簡単に到着した時より、ずっと大きいものだと思います。


もちろん、すべてがうまくいく訳ではありません。

道は険しく、傷つける人に出会うかもしれません。

登り切ったと思った先に、さらに次の坂が続いているかもしれません。

でも、少なくとも直線距離で目的地についた人より、

多くのものを見て、多くの人と出会い、多くの体験をしています。

身につけたものも、ずっと多いはずです。



道は一人ずつ違います。

あせらず、比べず、自分なりのペースで道を歩くことを楽しむことが、少しずつでも、出来るようになったとき、

道楽」に近づくことが出来るのではないでしょうか。





日々暖かくなり、当院のまわりの花の蕾もふくらみ、

本格的な春の訪れを知らせてくれます。是非お立ち寄りください。





2月のお便り

観光


今は、旅行をして景色などを見物することをいう「観光」ですが、これも元々仏教用語です。

本来の意味は、光=真理のことで、

本当に正しいこと「真理」をはっきり観ることをさします。


正しく物事をみない様を「無明(むみょう)」といいますが、

光はその対極に位置する「悟り」とも言い換える事が出来ます。

つまり、「観光」とは「悟りをみいだす」ということなのです。


そう考えると「観光」の意味は、ずいぶん広がってきます。

もちろん、知らない土地に行き、新しい知識を得たり、見聞を広げるのも「観光」ですが、

遠くに行かなくても身近なところでも観光は出来るのです。

今いる環境の中で、少しだけ見方を変えてみる。

考え方、とらえ方を変えてみる等々。。


私たちが真に「悟りをひらく」ことは難しいかもしれませんが、

苦しいだけと思っていたことに少しは救いが見えたり、

どうしようもないと思っていたことに解決の糸口がみえたりすることは、

きっとあると思うのです。



当院では、今月1日、3日、5日の団体厄払い(星祭)を中心に、

厄払いや、合格祈願等、一年で一番賑わう時期となっています。

皆様もぜひお越し下さい。


二月四日の立春を過ぎると暦の上では春です。

厳しい寒さを乗り越えた先に、暖かい春はきっとやってきます。

皆様、くれぐれも御自愛ください。







1月のお便り




あけましておめでとうございます。

年頭にあたり、平和と被災された地域の復興と、皆様の御多幸を心より御祈念いたします。



旧年もたくさんの皆様が当院にお越し下さいました。

本来であれば、お会いする機会などないかもしれない様々な人々との新たな出会い・再会には

折々、不思議なご縁を感じます。

仏教では、あらゆる存在は、それだけでは実体がなく、

色々な条件が重なりあった結果として、はじめて「ある」ものだと考えられています。


例えば、今の「自分」も無限の過去から、様々な事柄が関連し合いながら現在に至り、今の「自分」である。

どれかの要素が欠けていたら、全く同じ「自分」ではないということです。

もし、おじいちゃんとおばあちゃんが出会わなければ・・・

あの時違う道を選んでいれば・・・

そう考えていくと、自分が今「ある」ことは、とても有難いことだと分かります。


人は生きていく中で様々な選択をし、今があります。

その選択を導く力が「」なのです。

もしかしたら、選ばなかった道を思い、悩み苦しむこともあるかもしれません。

しかし、「縁」には人間の力ではどうする事も出来ない部分も大きいのです。

いずれにしても、様々な縁があり、この世に生かされ、今、ここに存在していることは事実です。


「生かされている意味」は必ずあるのだと思います。



当院の住職以下、今年もたくさんの皆様との御縁を結んでいきたいと願っています。

どうぞよろしくお願い申し上げます。



二月一日(水)三日(金)五日(日)

@10;00〜 A14;00〜 計六回

節分の団体厄払いがあります。

厄年のかた、運気を変えたいかた、是非おいでください。(要予約

個人の厄払いは毎日受け付けております。

ご不明の点はお気軽にお声かけください。




12月のお便り


意地(いじ)」

「意地」という言葉も仏教用語です。

「意地を張る」「意地が悪い」等、マイナスの意味で使われることが多いですが、

本来は、悪い意味ではなく「こころ」や「意志」に近い意味をもつ仏教用語です。

仏教では、

視る、聴く、味わう、嗅ぐ、触れる。の五感のことを、

眼識、耳識、舌識、鼻識、身識。の「五識」といい、

その五識を通じて認識することを第六識(意識)といいます。

その「意識」は、その人の考え方や発想のもと(素地)となるため、

これを「意地」ともいうのです。


五感を通して得た様々の出来事を、どう感じ受け止めていくかは、

実は、その人の「意地」によって変わるのです。

言い換えると、様々な出来事も、その人の受け取り方考え方で、

どのように変える事も出来るということなのです。

そうして考えると「意地が悪い」ことで損をするのは、実は本人だと分かります。

「意地を張りすぎる」と他人の言葉を受け入れることが出来ず、しんどい思いをすることでしょう。

生きていく限り、人は様々な出来事に遭遇します。

それが、とても苦しい時、悲しい時、とらえ方、見方を少し変えてみましょう。


例えば、

「起こったピンチを自分の成長のためのチャンスだととらえてみる。」

「足りない自分(相手)を責めるのではなく、頑張っている自分(相手)を認めてあげる。」等々・・・。

少し視点を変えて「意地良く」生きることで、

心がずいぶん楽になり、生きやすくなるように思えます。


平成28年も今月で終わりです。

様々な出来事があった一年でしたが、皆様いかがでしたでしょうか。

来年がすべての皆様にとって、幸多い一年となりますよう心より御祈念申し上げます。








11月のお便り


因縁(いんねん)」

「因縁をつけられた」等、マイナスの意味で使われることが多い

「因縁」も仏教用語です。

本来は「すべての物事は、直接の原因である「」と、

間接的な原因である「」が組み合わされ起きる」のだという

仏教の考えを表す言葉です。


つまり、一つの出来事は一つの要素だけでは起こらない。

色々な要素が複雑に組み合わさって初めて成り立つ、と言うことです。


人は不幸な出来事があった時、その理由を探します。

特に近しい人の不幸や死に直面した時には、

「自分がこうしていれば 良かったのではないか?」

「もっと何かできたのではないか・・・」と、

自分を責めてしまいがちです。

人は往々にして選ばなかった道を思い、自分を強く責め、苦しむことが多いのです。

しかし、物事は「因縁」です。

一つの要素だけでは決まらないのです。

もし、その他の道を選んでも、より良い結果が得られたとは限らないのです。

何かが起きた時、反省し改善する努力をすることは、もちろん大切ですが、

自分を責めすぎることは、自分の体や心にとって、

また周囲の人にとっても、良い結果を生まないことが多いのです。


世の中には、天災など人間の力ではどうしようもないこともあります。

また、その時に良いと思ったことを選んでも、

生きている限り人は様々な「苦しみ」と出会います。

失ってしまった大切な人、ものへの思い、心の傷、

痛みが完全に消えることはないでしょう。

それでも、前に進みましょう。

それが生きている者のつとめだと思います。


今、「生かされている」ということは、

「生きている意味が ある」ということなのです。




☆コスモスも咲き、当院の周りも秋本番です。

いつでもお越し下さい。




10月のお便り

「迷惑」

「他人に迷惑をかけた」、「迷惑駐車」等、

他人からの不都合、不利益という意味で使われる

「迷惑」ですが、これも仏教用語です。

本来は悟りの道に迷い、悩み、途方にくれることを意味します。

つまり自分の心が迷っているということです。

ほとんどの方は「人に迷惑をかけないように」と教えられ、

またそのようにありたいと思って心を砕いています。

「一人でなんとかしよう」、「他人の負担にならないようにしよう」

という立派な心がけだと思います。

しかし、実際のところ私たちは生まれたその時から

他人の力をかりて生きています。

また迷ったり、悩んだりしながら日々を送っています。

そういう意味でも人は迷惑をかけずに生きていくことは出来ないのです。

必要な時はどうか周りに「迷惑」をかけて下さい。

一人で抱え込まず、周りの人に助けを求めて下さい。

「人に迷惑をかける」ことは

実は相手だけでなく、プライドや申し訳なさなど

自分も痛みを伴うことです。

そこから他人の痛みを推し量ることで

自分が「迷惑」をかけられた時、

人を許す気持ちが生まれるはずです。

また人の助けを借り、「迷惑」をかけたと思っていても

相手は「人の力になれた」、「役に立てた」と

嬉しく思っていることも多いのです。

その意味でも自分の力ではどうしようもない時

「迷惑」をかけることはたても大切なことだと思うのです。


本格的な秋です。

一日でも早い、台風等からの復興と

皆様のご健勝をお祈り申し上げます。






9月のお便り

「人間」

「人間」は元々仏教用語で「じんかん」と読みます。

サンスクリット語の「マヌシャ」=「人」、「ローヤ」=「世界」の漢訳です。

本来の仏教語としての意味は「世の中」、「世間」、「人の世界」だったのですが、

現在では、「人間」には「人そのもの」の意味が加わり、

「人」と「人間」は同じような意味で使われます。

好むと好まざるにかかわらず、

人は一人だけで生きていくことは出来ません。

ほとんどの人が人の手が加わったものを使い、

人の中で生きています。

少なくとも人から生まれていない人は一人もいません。

その意味でも「人間」という言葉は

他の人、社会に生かされつつ生きるのが「人」であるということを

人々が自ずと感じてきたことを示しているといえます。

とはいえ、「人間」=「人の世界」は楽な事ばかりではありません。

時に人に悩み、傷つけられ、悲しい思いをしたり

苦しんだりすることもあります。

ただ逆にそこから抜け出す手助けをしてくれるのもまた人だったりするのです。

「迷惑をかけないようにしよう」と思っていても、

病気やトラブルや生きづらさでどうにもならないことが

起こることがあるかもしれません。

その時は一人だけで抱え込まないで下さい。

まわりに頼って下さい。

必ず助けになる人はいて、解決の道もあるはずです。

当院にもいつでもお話に来て下さい。

私たちは正しいお答えを出すにはまだ力不足ですが、

お話することで、、心が少し軽くなる、

ご自分の考えがまとまることはあると思います。


今年の十五夜(中秋の名月)は9月16日(木)です。

晴れて綺麗なお月様が見えると良いですね。






8月のお便り

「往生」(おうじょう)

「このあいだは往生したよ」とか「立ち往生」など

往生という言葉はどうしようもなく困っている時など

あまり良くない意味で使われることが多いようです。

「往生」も仏教用語で本来は

現世を去って仏の浄土に生まれ変わるという意味です。

極楽浄土に往って生まれ変わるので、

「往生」と言い、良いことなのです。

現在と本来ではまったく違う使われ方をしているように思いますが、

実は共通している部分が有ります。

どちらも苦難は続かない、

必ず抜け出すことができるという

意味が入っているのです。

「立ち往生したよ」はそこを抜けきった時に言う言葉です。

つまり苦難が有ったけど今は大丈夫と言うことなのです。

人の一生も楽しいことばかりではなく、

苦しいこともあります。

それをなんとか切り抜けてこの世の生を全うした時

「往生」できると仏教では説かれています。

この世(此岸)の生を終えても「終わり」ではなく、

あの世(彼岸)に往って生きるということなのです。

そして彼岸の御先祖様がこの世に帰って来られ、

家族と共に過ごされて、再びあちら(彼岸)へ

帰っていかれると言われているのがお盆です。

8月13日〜16日(7月13日〜16日のところもあります)

の期間とされています。

お墓参りやお経やお供えなどお盆のならわしは

地域や宗派や家々で違います。

大切なことはご先祖様や故人を偲び、

今日ある自分をかえりみて、感謝し、

各々のやり方で御供養する「心」だと思います。


※各種、ご祈願、ご供養、お参り、ご相談など

納骨堂のご見学など

お気軽にお声かけ下さい。

※お守り、おふだもございます。





7月のお便り



差別」と「平等


「差別」という言葉も、もともと仏教用語です。

現在は「人種差別」や「男女差別」のように悪い意味で使われていますが、

仏教用語では「しゃべつ」と読み、全く違った意味です。

「この世のすべて何一つ同じものはない、千差万別でそれぞれ多様な在り方をしている」

という意味で、「偏見に基づく区別」というニュアンスはありません。

そして、そのように

「さまざまな状態にある、あらゆるものも仏教のもとでは、差異を超えてあるがままに等しく存在する」

というのが、仏教でいう「平等」の意味です。


人は一人一人みな違います。

よりよく生きるための努力は、もちろん大切ですが、

無理をしてまで、自分を変えたり、他人を変えようとすることは

必ずしもいい結果を生むとは限りません。

そのことが自分自身や周りの苦しみを多くすることもあるのです。


今、世界では、考え方や宗教や人種などの「違い」をめぐる争いが数多く起こっています。

「違い」を認め、尊重し、有るがままを受け入れて生きていくことが真の「平等」だと思います。

とても難しいことです。

しかし、それが出来たとき、世の中は今よりずっと

平和になるのではないのでしょうか。


当院は宗旨宗派を問わず、

皆様に気軽にお立ち寄りいただける開かれたお寺をめざしています。

各種御祈願、御供養はもちろんのこと、仏教仏事に関するご質問、御相談等毎日受け付けております。

二階本堂にご遠慮なくお越し下さい。


今月は七夕があります。(旧暦では8月)

二階本堂に8月7日まで短冊(たんざく)を準備してございます。

ご自由にお書きください。


皆様の願いが、天に届きますように





6月のお便り

家や建物の入り口を「玄関」といいますね。

これも、もともと仏教用語です。

本来の意味は、仏の奥深い道に入る「関門」、深い悟りを得る入口という意味です。

この仏教用語が、建物の名前となり、やがて入口を指す言葉へと変わりました。


室町時代から書院造として、

身分の高い人の住居のみに、取り入れられた玄関ですが、

江戸時代には、庶民の建物にも作ることが許され、広がっていきました。

今では、玄関のない家はほとんどないと思います。


みなさんにとって、玄関はどんな場所ですか?


初めて訪れる場所の玄関は、期待や不安で緊張する場所かもしれません。


自宅の玄関は

「家に帰った!」とほっとできる場所、

或いは、外出する時に、気持ちの切り替えをする場所かもしれません。

整然とした美しい玄関、雑多でにぎやかな玄関

どんな玄関がいいのかは、人によって、或いは状況によって違ってくることでしょう。


当院は、仏教と皆様をおつなぎする「玄関」でありたいと思っています。

仏様や御先祖様とゆっくり向き合える場、

心を癒し、軽くして帰っていただける、そんな場になりたいと思っています。


皆様が入りやすい、

また、心軽やかに帰る事が出来る「玄関」となれるよう、

日々精進していきたいと思っています。


梅雨の時期となりました。

人々には、うっとおしい雨も、植物には恵みの雨で、

紫陽花(あじさい)も美しく咲き出しました。

緑も深くなっています。



各種、ご祈願・お供養・お参り・ご相談等、お気軽にお立ち寄りください。



5月のお便り

はじめに「熊本地震」によって被害にあわれた皆様へ心よりお見舞い申し上げます。

一日も早く地震がおさまりますよう、日常の生活が取り戻せますよう、お祈り申し上げます。



「無常」

天災や避けることが出来ない事故などに遭遇した時、

私たちはやり切れない思いや、怒りや無力感に打ちのめされます。

お寺でそのような方のお話をお聞きする時、

私も「なぜ、こんな良い人が…?」

「この方のせいではないのに…なぜ?」

と割り切れない思いを持ち、

正直、その答えを見つけられずにいます。


「無常」という仏教用語があります。

この世の中の全てのものは

常に移り変わっていく、

永遠不変のものはない。という意味で、

人生のはかなさを意味するために

使われることが多い言葉です。


でも見方を変えてみましょう。

人が苦境や絶望のふちに立っていても

ずっと続くわけではないという意味でもあります。

必ず状況は変わっていく、

そこから立ち上がっていくことが出来るのです。

絶望の次には必ず希望の光が見えてくるものだとも、言い換えられます。

苦境のさなかにいる方々の

苦しみや悲しみを

完全に理解することは出来ません。

でも、その辛さに寄り添っていけるようになりたいと強く思います。

当院はそんな場所でありたいと思います。

どうぞ、お気軽にお立ち寄り下さい。






4月のお便り


「勝利」

勝負に勝つことを指して使うことが多い「勝利」という言葉ですが、

これも仏教からきた言葉で、意味はかなり違います。

仏教用語の「勝利」とは「勝(すぐ)れた利益(りやく)」という意です。

勝れた利益とは、仏様から与えられる心の安穏や、慈悲のことで、

決して勝ち負けの事ではありません。


努力しても、必ずしも結果が出るとは限りません。

結果には努力以外の、運や環境等の様々な要素が加わってくるからです。

思うような結果が出なかったことは敗北ではありません。

マイナスと思われるような挫折も、失敗も、敗北とは限りません。

同様に、病気になったり、としをとって今まで出来ていたことが出来なくなることも負けではないのです。


大切なことは、自分が望みに向かい、集中したプロセス(過程)や経験に、

自らが納得し満足できるというところにあります。


まず、与えられた環境の中で、生きている自分を認めてあげてください。

そして、様々な苦難を試練だととらえ、

仏様や周りの力をかりながら自分のペースで乗り越えて生きることで、

「勝利」は見えてくるものだと思います。



桜が咲き、うぐいすが鳴き、当院のまわりは春本番です。皆様、是非お越し下さい。


各種御祈願、御供養等毎日受け付けています。

また、住職を中心に仏事等のご質問、その他のご相談もお受けしています。

どうぞお気軽にお声かけください。






3月のお便り

「大丈夫」

しっかりしているさま、あぶなげない、

確かな事をさす言葉「大丈夫」

今はあまり使いませんが、

立派な男の人のことを「大丈夫」と言います。

これは中国で徳の高いすぐれた男の人のことを指して

そう呼んだことに由来しています。

この「大丈夫」ももともと仏教語です。

仏教では「この世のすべての人間を良く調えて

悟りに導く者のこととして「菩薩」を意味します。

「菩薩」とは人々を救うために悟りを得ようと

修行をなさっている観音菩薩や地蔵菩薩などの仏様の事です。

「大丈夫!」は励ましの時にかけられる言葉でもあります。

人生にはいろいろなことがあります。

楽しい時もあれば苦しい時もあります。

一人で乗り越えることが難しい時は、

まわりの力もどんどん借りて乗り切りましょう。

今ここに生きている自分がいる限り

「大丈夫、きっと道はあります。」

仏様はその人が乗り越えられない試練は

決してお与えになりません。

「大丈夫、大丈夫」と心の中でとなえて、

ゆっくり深呼吸をしてみて下さい。

仏様が一緒にいらっしゃって力を貸して下さいます。

ゆっくり道を探しましょう。


当院のまわりでは、梅が咲き、

桜の花芽も日々ふくらみ

春の訪れを知らせてくれます。

皆様ぜひお越し下さい。

当院は宗旨・宗派を問わず、自由に皆様が立ち寄れる

開かれたお寺をめざしています。

二階本堂の悲母観音様に会いに来られませんか?

悲母観音様は色々な苦しみから人々を救ってくださる観音様です。


各種御祈願、御供養なども毎日受け付けています。

また住職を中心に仏事のご相談、

その他のご相談などもお受けしています。

お気軽に二階本堂へお越し下さい。






2月のお便り

「成就」

現在は「学業成就」、「大願成就」のように

物事が成功したり、達成したり、願い事がかなうという意味で

使われることが多い「成就」という言葉ですが、

これも仏教用語です。

本来の意味は大きく二つ有ります。

一つは仏教の教え、知徳を完璧に備えた状態であるという意味です。

もう一つの意味は本願を達成し、身につけているという意味です。

いずれにしても物事が成し遂げられても、それのみでは良しとはされないのです。

成し遂げられた状態を「どう永続・維持していくか、次につなげていくか」

ということが、大切だとされているのです。

受験生の皆様、ここに至るまで厳しい道のりだったことでしょう。

苦しいこともあったでしょう。

それを乗り越えられ、受験までもう少しというところまで来ました。

頑張った自分をほめてあげましょう。

その意味では、ここまでの学業はもう成し遂げられている

(達成している)と言えます。

受験はそのことを確認し、次のステップに進み、

学業を続けていく通過点です。

この経験をこれからの人生に生かし続けていくこと

それが本当の「学業成就」だといえます。

この経験は必ず糧(かて)になります。

自分を信じ、諦めずに乗り越えていきましょう。

おのずと道は開けていきます。


2月1日(月)、3日(水)、7日(日)の@10時からA14時からの計6回

節分の厄払いがあります。

当日申し込みも可能です。

また個人の厄払いは毎日受け付けています。

詳しくは099-228-8001にお電話下さい。


暦の上では2月4日は立春ですが、

厳しい寒さがもう少し続きます。

皆様、くれぐれもご自愛下さい。

春はすぐそこです。






1月のお便り

「挨拶(あいさつ)」

もともとは禅宗で僧が弟子の悟り具合をみたり、

修行僧同士がお互いの悟りの深さを推し量るために

声をかけ合ったりすることを指しました。

「挨」は「押す」、「拶」は「せまる」という意味です。

意味は違ってきましたが、今でもよく使われる言葉です。

お寺にいると「こんにちは」など「ご挨拶」する機会は多くあります。

いつも感じているのは、「挨拶は難しい」ということです。

自分からお声をかけるのは実は勇気がいります。

また「今、お声かけしたら迷惑ではないかしら」

「無視されたらいやだな」

逆に、「お返事を強要するようで相手の負担にならないかしら」

など等、様々な思いが心を巡ります。

それでも出来るだけ皆様に「ご挨拶」したいと思います。

それは時間をさいて、わざわざ当院へ来て下さる皆様への

「ありがたい」という思いを伝えられる大切な方法だと思うからです。

また皆様からの「ご挨拶」からはたくさんの元気を頂けます。

でも「絶対に挨拶しなければ…」とは思わないで下さい。

「挨拶」出来ない状況の時も有ります。

とてもそんな気分にならない時も有ります。

「挨拶」するのが本当に苦手な人もいます。

もしかしたら「型どうり」の「挨拶」は心がこもっていなくて、

意味がないと思う人もいらっしゃるかもしれません。

無理やり、いやいや「挨拶」をする必要はないと思います。

でも、もし自分の思いを伝えたかったり、

相手の様子を知りたいと思ったら

まず、「挨拶」してみるのも良いと思います。

「挨拶」で大切なのは「ありがとう」などの定型の言葉そのものではなく、

それに含まれる相手を思いやる気持ち、

伝えたい自分の心だと思うからです。


明けましておめでとうございます。

平成28年もどうぞ宜しくお願い致します。

今年が皆様にとって実り多い年となりますよう

御祈念申し上げます。

2月1日、3日、7日は節分の団体の厄払いがございます。

現在、申込み受付中です。

毎年700名以上がご参加下さいます。

皆様もどうぞお越し下さい。







12月のお便り

「ごちそうさま」「いただきます」


ごちそうとは「御馳走」と書き、

食材を探して走り回る様や、年月が過ぎるなどという意味をあらわします。

食事ができあがるまでには、たくさんの食材や多くの人の手間や時間が必要です。

その意味では本来、全ての食べ物が「御馳走」だといえます。


多くのおかげさまをもって、この食事が目の前にあることを考えてみましょう。

食材が育ち、それをあつめ、運び、調理し・・・

食事が出来上がるまでの様々なことを想像してみましょう。


たくさんの食材の命をいただくことへの感謝の気持ちが

「いただきます」。

たくさんの手間に対する感謝が

「御馳走様」

という言葉なのです。


今年ももうすぐ終わりです。皆様にとってどんな1年だったでしょうか?

良い年だったかたも、そうでなかったかたも、

今生きていらっしゃることは本当に「ありがたい」ことです。

御自分を、たくさんいたわってあげて下さい。

今年がんばった自分へのご褒美に、「御馳走」を召し上がるのもいいかもしれませんね。



当院は、2月1日(月)・2月3日(水)・2月7日(日)

節分厄払いの受付が12月1日からはじまります。

合格祈願や個人の厄払いのかたも多くなり1年で一番賑やかな時期を迎えます。

皆様もお気軽に2階本堂へお越し下さい。



今年一年、大変お世話になりました。

寒さも厳しくなってまいりました。


皆様、体調に気をつけていいお年をお過ごし下さい。







11月のお便り

「自由」

「自由」という言葉は本来、仏教用語で、自ら(おのずから)由る(よる)と読めます。

外の環境にとらわれず、自ずとそのものが、そのものとして成るという意味で、

すべての事から解放された悟りの状態をあらわす言葉です。

現実には私たちの行動や判断は、自らに由るよりも

他の意見や権力、生活環境などに左右されることが多いでしょう。

社会の中で生きていく時、周囲のすべてを無視する事は確かに不可能です。

しかし、周りの事にとらわれて無理をしすぎたり、

周りに比べて心を痛めることは「自由」ではありません。

本来、人間は一人一人皆違います。

花にたとえてみましょう。

「自由」とは「ひまわりはひまわりとして咲き、あじさいはあじさいとして咲く」

と言い換える事が出来ます。

花はそれぞれ色も性質も咲く季節も違います。

また育つのに適した環境も様々です。

ある環境がその人に合わないとしても

その人の能力や努力が不足しているとは限らないのです。

ひまわりの育つ環境ではあじさいはうまく育ちません。

逆もまたしかりです。

もし、合わない環境で苦しい思いをしていたら、

自分を決して、責めないで下さい。

必然の事なのです。

貴方はあじさいなのにひまわりの畑の中で懸命に生きているのです。

育っている自分をほめてあげて下さい。

でも、枯れてしまったり、折れてしまいそうになったら、

環境を変えて下さい。

自分が自分らしくいられる場所をさがして下さい。

きれいな花を咲かせることの出来る場所はきっと有ります。

実を結ぶ季節もきっと来るはずです。


当院は皆様が気軽に立ち寄れる開かれたお寺を目指しています。

各種ご祈願、ご供養はもちろんの事、

仏教、仏事に関するご質問、ご相談など

毎日受け付けております。

二階本堂へご遠慮なくお越し下さい。






10月のお便り

「我慢」と「辛抱」

普段「自分をおさえる、耐える」という意味で使っている「我慢」という言葉ですが、

元々は仏教用語で意味は全く違います。

「我」とは自分、「慢」とはおごり高ぶる心を意味します。

つまり、自分に執着し、自分中心であると思いあがり、他をあなどることをさし、

仏教の修行の大きな障害になるものとされています。

我の強い人が人に弱みを見せまいとする姿が耐え忍んでいるように見えるために

現在使われている意味になったと言われています。

たとえば「我慢ができない」というのは、まず、自分の強い欲求があり、

それが満たされない不満やストレスをかかえていて、

それが押さえきれなくなっている状況だと言えます。

何時か爆発したり、人や物にあたったり、

それは結局は自分をも傷つけることになります。


同じく「耐える」という意味で現在使われている仏教用語に「辛抱」があります。

これは仏教の「心法」からきた言葉で、

辛い状況や苦しいことをこらえる心のありかたを意味します。

「辛抱」とはあるがままを受け入れ、

それでもなお生き続けていく心の強さと言えます。

自分にできる努力をしてもなお襲ってくる「辛いこと」は運命として受け入れ、

それが乗り越えられる試練であると信じて

「我慢」ではなく、「辛抱」していくことが大切ではないかと思います。


秋本番です。

葛や尾花(ススキ)、萩など、お寺の周りにも咲いています。

秋の七草=萩・尾花・葛花・撫子・女郎花・朝顔(今の桔梗)・藤袴

当院は皆様が気軽に立ち寄れる開かれたお寺を目指しています。

各種御祈願、御供養、お墓参りはもちろん、

仏教・仏事のご質問、ご相談その他色々なお話がございましたら

二階本堂へご遠慮なく、お越し下さい。





9月のお便り

「四苦八苦」

現在は、非常に苦労するという意味で使われることが多い「四苦八苦」ですが、

本来は、人間のあらゆる苦しみのことをさす、

仏教の中でも基本となる大切な仏教用語です。


四苦とは「生老病死(しょうろうびょうし)」のことで、「生まれる」「老いる」「病にかかる」「死ぬ」という

人間として決して逃れることのできない四つの苦しみをさします。

八苦とは、これに「愛別離苦(あいべつりく)」、愛する人と別れる苦しみ。

「怨憎会苦(おんぞうえく)」、怨み憎む人と出会う苦しみ。

「求不得苦(ぐふとくく)」、求めるものが得られない苦しみ。

「五蘊盛苦(ごおんじょうく)」、人間の肉体と精神が思うままにならない苦しみ。

の、四つを合わせた八つの苦しみをさします。


老若男女、立場、身分にかかわらず、四苦八苦の全くない人間はいません。

愛する人、大切な失いたくないものがなければ失う苦しみはありません。

そもそも、生まれてこなければ四苦八苦はないのです。

四苦八苦を感じるのは、今ここに生きていて、感じることのできる心を持っているという証なのです。


お釈迦様は「人生は苦である」とおっしゃっています。

その苦を引き受けて、それでも生きていくことが本当の人の強さといえます。

ただ、一人で背負いきれない苦しみがおこることがあります。

その時は、周りの人に助けを求め、仏様におすがり下さい。

頼ること、助けを求めることは、少しも恥ずかしいことではありません。

一人で抱え込む必要はどこにもありません。

いつでも、お話にこられて下さい。

当院は少しでもお役にたつ場でありたいと願っています。



9月20日〜9月26日は、秋のお彼岸です。

御先祖様をしのぶ時間をつくってみてください。心が落ち着くと思います。


9月27日十五夜です。

いい天気になり、お月様がおがめると良いですね。



8月のお便り

仏教からきた言葉「他力本願」

現在は自分が努力せず、他人をあてにして望みをかなえようとする意味で

使われることの多い「他力本願」という言葉ですが、

これも仏教用語で、本来の意味は全く違います。

仏教では悟りを得る為の方法が大きくは二つ有ります。

修行等の努力で自力で悟りを開くこと(自力本願)と

仏様の本願(あらゆる人を仏にならしめようとする願い)によって、

悟りを開く他力本願です。

宗派によって違いますが、真言宗では自力も他力もどちらも大切だとされています。

自らの力のみで悟りを開くことは人間には難しいからです。

もちろんより良く生きていく為の努力はとても大事です。

でも、努力しても思い通りにならない時、

「自分が・・・、自分のせいで・・・」と思い詰めず、

仏様の働きにゆだねてみましょう。

人間は万能ではなく、それぞれ、出来る事、出来ない事が有ります。

出来ない事は出来ない事と認め、仏様に頼ることは

弱いことでも、間違ったことでも有りません。

「他力本願」をすることで、

「仏様が味方に付いて下さる」と思えて、生きやすくなると思います。


『暑中見舞い申し上げます』

暑い日が続きますが、睡眠・水分等を十分にとり

くれぐれもお体ご自愛下さい。


8月13日〜16日はお盆で、仏様となられた故人を偲ぶ大事な時期です。

お墓や納骨堂にお参りされたり、

それが難しい時には、お仏壇やお家で手を合わされたり、

自分に出来るお供養をなさって頂くと良いかと思います。


お参り、御祈願、御供養、仏事などのご質問等毎日行っております。

お気軽にご連絡下さい。





7月のお便り

仏教からきた言葉「根性(こんじょう)」は、

今と、意味が少し違います。

根性の「根」は植物の根をあらわし、植物の根がその体を成長させる大きな力を持っているように、

そのもの自身が生まれながらにもっている心や、体の能力を意味しています。

それに、生まれ持った性質のことを示す「性」が合わさり、出来た言葉です。


本来の意味は、それぞれ「悟りをひらく能力や、素質そのもの」ということで、

これは各々違っています。

また、仏様は「山川草木悉有仏性(山や川、草木などにも全て仏性がある。)」と、おっしゃっています。

全てのものには、悟りを開く能力があるという意味です。

つまり、個人差はあっても「根性がない人」など存在しないのです。

仏様は全ての人の根性に合わせてお説経し、悟りに導かれたそうです。


一人一人持っている能力や、持ち味、性格は違います。

他の人と比べたり、やみくもに同じことをしようと焦る必要はありません。

自分らしく自分のペースで、それぞれが持っている能力を発揮する努力をすること、

それが「悟り」への道だといえるでしょう。


当院は、皆様が気軽に立ち寄れる開かれたお寺を目指しています。

各種御祈願、御供養等はもちろんのこと、

仏教・仏事に関する御質問、御相談等、毎日受け付けております。

二階本堂へ、ご遠慮なくおこしください。


☆今月は七夕があります。

二階本堂に、短冊(たんざく)がご準備してございます。

ご自由にお書きください。(皆様の願いが天に届きますように・・・)





6月のお便り


仏教から生まれた言葉「安心(あんじん)」

安心は、仏教では「あんじん」と読み、恐怖や不安から解放され、

心安んじて生きていく境地のことをあらわした言葉です。

人間の世界には多くの苦しみや怖れが有ります。

それをもたらすものには、たとえば病気や戦争や災害や貧困が有ります。

身近にはその人のおかれている環境や人間関係もあるでしょう。

もちろん戦争や病気などを根絶する努力をする必要はあります。

貧困や環境も改善する手立てを考えるべきです。

しかし、全てを人間の力で変える事は不可能なのです。

「安心」とはたとえ病気や戦争などの中に身をおいても、

その運命・宿命を受け入れ、それでも前を向いて生きていく心の持ちようのことです。

そもそも貧困だから、病気や障害を持っているから

必ずしも不幸だとは限りません。

どのような環境のもとでも人間の尊厳や希望や可能性が

消えてしまうことは決してありません。

苦しい状況の時こそ、

その人の心の持ちようが試される大切な機会だと言えます。

与えられた苦しい環境を自分への課題ととらえ、

自分の天命(天から与えられた役割)だと考え、

それを乗り越えて生きていくことこそ「安心」への道だと思います。


当院は皆様が気軽に立ち寄れる開かれたお寺を目指しています。

各種御祈願・御供養・お参りはもちろん、

仏教への御質問、御相談その他色々なお話がございましたら

二階本堂へご遠慮なくお越し下さい。





5月のお便り

仏教から生まれた言葉「縁起」

私たちが普段「縁起が良い」、「縁起が悪い」などというように

「吉凶のきざし」というような意味合いで使っている「縁起」ですが

もともとは仏教の根本的な教えの一つとされている大切な用語です。

たとえば、「花が咲く」という結果には種があることが不可欠です。

でも、それだけでは花は咲きません。

土や光や水分、温度など色々な条件(縁)が必要となります。

このように全てのものごとには、原因と縁があり、

それ一つだけで成り立つものではありません。

人が今生きているということは、多くのものの力や恵みを受けて

「生かされている」ということなのです。

そのことを仏教では因縁生起(縁起)といいます。

私たちに「良いこと」が起こったら、それは自分の力でだけはなく、周りのおかげでもあります。

同様に「悪いこと」が起きても、それは様々なことが合わさって起きたことです。

特定の何かや誰かのせいだけではありません。

まして、すべてを自分のせいにして自分を責めることもありません。

その経験から学び、乗り越えて、人として成長していけたら

「縁起の悪い」ことが「縁起の良い」ことになっていく、

それが「生かされている」ことの意味の一つではないかと思います。


過ごしやすい季節になりました。

当院は宗旨・宗派を問わず、自由に皆様が立ち寄れるお寺をめざしています。

是非、お越しください。


各種ご祈願、ご供養、ご相談も受け付けております。

お気軽に二階事務所にお声かけください。






4月のお便り

4月の仏教からきた言葉「諦める(あきらめる)」

「諦める」という言葉。

現在は、自分の願いごとがかなわず、何かを断念するという消極的な意味で使うことが一般的です。

でも本来の「諦め」とは、仏教用語で明らかに見極めるという意味があり、

とても積極的で大切な言葉です。


たとえば、大事なお茶碗がわれたことを嘆く時も

「形あるものは必ず滅する(なくなる)」という道理をわきまえ

「今 ある」ということの尊さを改めて感じることが「あきらめる」ことであり、

夢を断念する時も、自分の適性と、努力の限界を見極め、

もっと自分に合った道を見つけることが出来たとき、

はじめて「あきらめる」ことが出来たということです。


進んで来た道の途中に大きな壁がたちはだかり、

努力しても、前に進めなくなったら、一休みして考えてみましょう。

再び挑戦してみることももちろん大切なことです。

でも、「諦めてみる」のもまた大切。

まわり道しても良し、引き返しても良し。

道は一つではありません。

「諦める」のは、実つはとても勇気がいる、大事な心の持ちようだと思います。


お寺の周りは、桜が今まさに満開です。

うぐいすの鳴く声もあちこちで聞こえて、春本番を感じさせます。皆様、ぜひお越しください。

当院は宗旨・宗派を問わず、自由に皆様が立ち寄れるお寺を目指しています。

お時間がおありの際はご本尊の悲母観音様に会いに来られて下さい。

この観音さまは色々な苦しみから人々を救う厄除観音様です。

手を合わせられるだけでもご利益があると思います。


各種御祈願、御供養など毎日受け付けています。

また住職を中心に仏事の御相談、その他各種の御相談も受け付けています。

お気軽に二階の寺務所にお声をかけて下さい。







3月のお便り

仏教から生まれた言葉(一)

「ありがとう」

普段はなにげなく使っているお礼の言葉「ありがとう」

この語源は「有難し」という仏教語です。

出典は「法句経」の

「人の生をうくるはかたし。死すべきものの生命あるもありがたし」

だと言われています。

人が人として生まれ、今生きているということは当然のように感じているかもしれないが、

実は沢山の偶然が繋がってのことなのだ。

一つでも違っていたら、今ここに存在しないかもしれない。

ある(存在する)ことは実はとても難しい=ありがたい(有難い)ことなのだという意味だそうです。

それが転じて現在の感謝をあらわす「ありがとう」になったそうです。

たしかに、ご先祖様が一人でも存在しなかったら

今の自分はいないのかもしれません。

3月の18日(水)から24日(火)は春のお彼岸です。

今、自分たちが生かされているのは、ご先祖様や

お世話になった今は亡き人たちのおかげでもあるのです。

ご先祖様や亡くなった方々に感謝もこめて、

ご供養やお墓参りなどをなさってみては如何でしょうか。

お寺のまわりも梅の花が満開となり、桜も小さな蕾をつけました。

風も日々暖かくなり春が来たことを教えてくれます。

当院は宗旨・宗派に関係なく

皆様が自由に立ち寄れる開かれたお寺目指しています。

どうぞ、お気軽にお越しください。





2月のお便り

2月1・2・3日 10時 14時 節分厄払い

厄払いの後、豆をまきます。



2月[如月(きさらぎ)]の仏教行事

☆2月3日 節分(せつぶん)

節分とは本来「季節を分ける」、つまり季節が移り替わる節目を指し、

立春・立夏・立秋・立冬、それぞれの前日に1年に4回あったものでした。

しかし日本では、立春が1年のはじまりとして特に尊ばれた為、

次第に節分といえば春の節分のみをさすようになったそうです。

旧暦では、節分は大晦日(おおみそか)にあたり、翌日の立春を春のはじまりとしていました。

節分に祈願し豆等をまき厄を払い、すがすがしい気持ちで、

新たにはじまる1年を迎えると良いとされ、行われてきた行事が節分の厄払いです。

当院でも、毎年数百人の方々が2月1日、2日、3日の団体の厄払いに御参加下さいます。

当院では節分以外にも毎日、厄除開運特別祈願として、

個人の厄払いを9時〜17時まで毎日受け付けております。

詳しくは2階事務所にお気軽にお問い合わせください。(Tel 099−228−8001)


2月は昔、如月(きさらぎ)といっていました。

寒さで、着物をさらに重ねて着ることから着更着(きさらぎ)となった説が有力です。

しかし寒いとはいえ、暦の上では立春を過ぎるともう春です。

野や山やあちこちに、春の気配が感じられるようになってきます。

このあたりの梅の蕾もふくらみ、ふきのとうも顔を出してきました。

受験生や、そのご家族をはじめ、皆様に、

暖かい春がおとずれますよう、心から御祈念申し上げます。


当院では、宗旨・宗派に関係なく、皆様が自由に立ち寄れる開かれたお寺を目指しています。

どうぞ、お気軽にお越しください。





1月のお便り

1月[睦月(むつき)]の仏教行事

☆修正江(しゅうしょうえ)

1月1日〜7日ごろに行われるお正月の法要のことです。

前年の罪禍(ざいか)を悔い改め、新しい門出を祝う行事です。


あけましておめでとうございます。

皆様平年27年の年のはじめ、いかがお過ごしでしょうか?

今年が皆様にとって、幸い多い年でありますよう御祈念申しあげます。


1月は昔、睦月と呼ばれていました。

語源は、親類知人がお互いに往来し、仲むつまじくする月という説が有力です。


昔の年齢の数え方は「数え年」といって、今の満年齢の数え方とは少し違います。

各々のお誕生日ではなく、1月1日にみんなで一緒に年をとっていました。

つまり、お正月は、みんなが1つ年を重ねることができたという、おめでたい日でもあったわけです。


当院では年明けから、本格的な厄払いや合格祈願等の時期を迎えます。


団体での厄払いは、2月1日(日)・2月2日(月)・2月3日(火)

10:00〜 と 14:00〜 計6回おこないます。


また、個人の方の厄払いは、毎日9:00〜17:00まで行っています。


厄年の方、運気を変えたい方はもちろん、新しい年をすがすがしい気持ちでスタートさせるためにも、

厄払いをなさってはいかがでしょうか?


当院は、皆様がお気軽に立ち寄れる開かれたお寺を目指しています。

御本尊の悲母観世音菩薩(悲しみや苦しみから人々を救う厄除観音)に会いにこられませんか?

また、仏教行事についての御質問、楽しいお話、苦しいお話、お悩み等の御相談等、

色々なお話をお聞かせいただきたいと思います。

御遠慮なく、2階事務所にお声かけください。

☆各種御祈願、御供養、納骨堂の御案内も随時受け付けております。



最後になりましたが

今年もよろしくお願いいたします。





12月のお知らせ

12月[師走(しわす)]の仏教行事


☆12月8日 成道会(じょうどうえ)

成道とは、お釈迦様の悟りのことを指します。12月8日は、お釈迦様が悟りを開かれた日です。

インドの皇子として生まれたお釈迦様は、29歳の時、なに不自由ない生活を捨てて出家しました。

そして6年間の厳しい苦行と求道の修行を経て、菩提樹(ぼだいじゅ)のもとで悟りをひらかれました。


☆12月31日 除夜(じょや)

除夜とは「旧年を除く夜」という意味で、12月31日(大晦日)の夜をさします。

除夜の鐘をつくお寺も多いようです。

百八の煩悩(ぼんのう)を除く目的で、108回つくといわれています。


今年一年の最後の月となりました。皆様にとってはどんな一年だったでしょうか?

師走(しわす)の語源には色々な説がありますが、

師匠の僧がお経をあげるために東西に駆せた月というのが有力だそうです。

たしかにあわただしい月ですが、

今年やり残したことをしたり、一年を反省し来年の計画を立てたり、実りの多い月になるといいですね。


当院では、12月1日から 2月1日・2日・3日の節分の厄払いの受付がはじまります。

(毎年700名以上の方に参加いただいております。)

また、合格祈願の方も多く来られる時期となりました。

当院が一年で一番忙しい時期をむかえます。


このあたりの山の木々も赤や黄色や様々に色づき、空気も澄んできました。

皆様、是非気軽にお立ち寄りください。


今年一年沢山の方々が当院にお参りくださいました。

有難いことだと思います。

皆様に福が訪れ、あるいは願い事が叶い、あるいは苦しみや悲しみが軽くなりますよう、

住職を中心にこれからも、おつとめして参りたいと思っています。


皆様、良いお年をお過ごしください。

心から御祈念申し上げます。




11月のお知らせ

11月(霜月)の行事

11月は霜が降り始める季節であることから、霜月(しもつき)と呼ばれるようになったそうです。

南国の鹿児島では、霜の季節はもう少し先ですが、本格的に寒さを感じはじめる月ですね。


11月も大きな仏教行事はありません。

今年もあと2ヶ月を切り、私どものお寺では、

節分の厄払いや、初詣などの新年の行事に向けた準備がはじまっています。

今年やり残したことがないか思いをめぐらせたり、

早めに、来年の計画を立てたりしてみるのも良いかもしれません。


☆11月15日、七五三

子供の成長を感謝し、これから将来の幸福と、長寿を願う行事です。

当院でも、成長祈願として、御祈願を受け付けています。


また来年の 2月1日(日)、2月2日(月)、2月3日(火)

10:00〜 と 14:00〜 計6回

節分の星祭り(団体の厄払い)をいたします。



毎年700名以上の人々に参加していただいています。

厄除開運を御祈願し、豆や餅などをまき、厄を払います。


大きな厄年の方、運気を変えたい方はもちろん、

新しい年を明るく、すがすがしい気持ちでスタートさせるためにも、御参加なさいませんか。

受付は12月1日からです。





10月のお知らせ

10月(神無月)の行事

10月は神無月(かんなづき)といいます。

語源は神を祭る月であることから、「無」を「〜の」の意味として、「神の月」とする説が有力です。

また、中世の俗説では、10月に全国の神々が、(島根県の)出雲大社に集まり、

諸国に神がいなくなることから、神無月となったという説もあります。

現に、出雲国(島根県)では10月は、神有月・神在月(かみありづき)とよばれてきたそうです。


今月は大きな仏教行事はありません。

10月は本格的な秋をむかえて、とても過ごしやすい時期です。

お寺の周りでも涼しい風が吹き、すすきや、くずの花などが咲いています。

あかとんぼや、カラスアゲハもとんでいます。

お時間が許せば、是非お参りにお越しください。


当院は、皆様がお気軽に立ち寄れる、開かれたお寺を目指しています。

御本尊の悲母観世音菩薩(人々を悲しみや苦しみから救う厄除観音)に会いにこられませんか?

また、仏教・仏事についての御質問、楽しいお話、苦しいお話、御相談・お悩みなど

色々なお話を、お聞かせいただきたいと思っています。

御遠慮なく、二階事務所にお声かけください。

☆各種 御祈願、御供養、納骨堂の御案内等も、随時、受け付けております。



9月のお知らせ

 9月(長月)の行事 

秋のお彼岸   9月20日〜9月26日
            彼岸入り   明け 

秋分の日をはさんで、前後7日間が秋のお彼岸です。

「彼岸」とは仏教用語で「向こう岸」をさします。

秋分の時期は、昼夜の長さが同じで阿弥陀様の西方の極楽浄土を想起させます。

そのため、彼岸会(ひがんえ)という先祖の霊を祭る法要が営まれます。

お寺では読経などが営まれ、先祖のお墓参りをします。

お彼岸の入りには、

仏壇をきれいにして、個人が好んだお菓子などをお供えすると良いとされています。

また「おはぎ」をお供えすることも多いです。


また、8日は十五夜です。

秋の収穫を感謝するお祭りと言われています。

お月見台には、すすきや萩(はぎ)を飾り、お団子や果物、田畑の初物を置いたりします。


十五夜に限らず、お天気の良い夜

お月見をゆっくり楽しんでみてはいかがでしょうか?


当院は宗旨・宗派を問わず、皆様が自由に立ち寄れる開かれた寺院を目指しています。

お時間がおありの際は、是非お立ち寄り下さり、

御本尊の悲母観世音菩薩(ひぼかんぜおんぼさつ)に御参拝下さい。

この観音さまは、色々な苦しみから人々を救う厄除観音です。

手を合わせられるだけでも、御利益があると思います。


また、住職を中心として、皆様の楽しいお話、苦しいお話各種ご相談など

いろいろなお話しをお聞きできる場でありたいと思っています。

相談料などは一切いただきません。


どうぞ、お気軽にお声かけください。



8月のお知らせ

8月(葉月)の仏教行事  お盆 8月13日〜16日

お盆とは祖先の霊を、供養する行事です。

この間、ご先祖様はこちらの世界にもどってこられるといわれています。

鹿児島のお盆は、8月13日〜16日に行われることが多いようです。

主なお盆の行事は以下のとおりです。


8月13日には家庭で盆棚をつくり、果物や、馬や牛を模した野菜などを供え、

夕方には迎え火をしたり、家や墓を清めご先祖様をお迎えします。

16日の夕方には送り火をしてお送りします。

お経等のお供養は、この期間に行うのが良いとされています。

ただし、行事や日程は地域によって違います。

あまり堅苦しく考えるより、各家々のやり方で、

帰ってこられたご先祖様をお供養してさしあげることが

一番良いことだと思います。


当院では、毎日ご先祖供養、御年忌等 各種、御供養を受け付けています。

御参加人数にかかわらず1件5千円です。

9:00〜17:00までです。

他の方と重なったりしないよう ご予約なさることをおすすめします。

また、当院は皆様に親しまれる開かれたお寺、

 来られた皆様に少しでも心が軽くなっていただける場所になりたいと思っています。

お参りはもちろんのこと、仏事等のご質問、御相談、お悩み事、楽しいお話等々も、

気軽にお話にお越しください。



7月のお知らせ

7月(文月)の行事 お盆  7月13日〜7月16日
                  8月13日〜8月16日

お盆とは、御先祖の霊が あの世から帰ってきて、

家族と一緒に楽しいひと時を過ごし、

また帰っていくという日本古来の信仰にもとずく行事です。

本来は、7月13日〜7月16日頃までだったそうですが

現在は1ヶ月後の8月13日〜8月16日に行うところが多くなってきています。

いずれにしても、この期間に、御先祖様等の大事な方を

お経や、お墓参り等で お供養することは大切なことだと思います。

お盆は釈尊の高弟である目蓮が母親を供養した

盂蘭盆(うらぼん)から始まったといわれています。

日本では657年7月15日に飛鳥寺の西で初めて行われたそうです。


当院は皆様に開かれたお寺でありたいと思っています。

お盆のこと、仏教のこと等で、おききになりたいこと、その他、御相談等

お気軽に2階 寺務所に、お声かけください。


また、御年忌 各種御供養等、随時受け付けています。

(御年忌は参加者の人数にかかわりなく 1件5千円です)

毎日9:00〜17:00で いつでも構いませんが、他の方と重ならないよう御予約をおすすめします。

(電話 228−8001)

おまいりは毎日 朝6:00〜17:00まで自由にできます。

本堂の厄除観音様(悲母観音様)に会いにこられて下さい。

各種おまもり、おふだ おみくじ等もございます。



6月のお知らせ

6月は大きな仏教行事はありません。

ところで梅雨入りし、雨の多い、季節の6月を、なぜ「水無月」と言っていたのでしょうか?

水無月の無≠ヘ、「〜の」のの≠ノあたる使い方をしていたそうです。

つまり、「水無月」とは、「水の月」という、意味なのだそうです。

6月は、芒種(ぼうしゅ)という大切な期間のある月です。

芒種とは、6月6日ごろから夏至(6/21)までの期間をさします。

芒(のぎ)のある穀物、つまり稲や麦など穂のある穀物を、まく期間といわれてきました。

(実際の種まきは、それより少し前におこないます。)

沢山の水を必要とする稲などにとって、梅雨の雨は必要不可欠です。

雨が多く、じめじめしてうっとうしく思える6月も、

植物にとっては、大切な時期で、

このころ得た水が夏の成長や、秋の実りにつながり

人間にも恵みをもたらすのだと思うと感慨深いものがあります。


当院は皆様に親しまれる開かれた

お寺でありたいと思っています。

お気軽に お立ち寄りください。



5月のお知らせ

5月の仏事 結縁灌頂(けちえんかんじょう)

結縁灌頂とは真言宗の入門儀式で、花を様々な仏様に投じ、

花が当った仏様をその人の有縁の仏様として結ばせる儀式です。

高野山などで広く行われています。

5月は気候も良く、祝祭日も多く、過ごしやすい付きです。

日々を色鮮やかにする木々も、心地よい風も心を明るくしてくれます。

新しい環境での生活が始まった方も慣れてきて生活のペースを

つかんでくる時期でもあります。

一方、疲れが出たり、思うようにならず、悩みが出てきやすい時期でもあります。

私たちは日々迷ったり、不安になったり、悩んだりしています。

そんな時は、ここに来て、観音さまに手を合わせたり、

滝の所で深呼吸をしたり、目をつむって水音や鶯の声に耳を傾けたりしてみて下さい。

心が落ち着いてくると思います。

そして本堂の悲母観音(厄除観音)さまに会いに来て下さい。

悲母観音さまは人々の苦しみを取り除く観音さmです。

手を合わせて、ゆっくりと仏様の声や自分自身の心の声に耳を傾けてみて下さい。

心が少し楽になるのを感じることができるでしょう。

また当院では住職を中心に皆様のご相談、仏教に関するご質問などに

お答えしていきたいと思っています。

相談料などは一切頂きません。

お気軽にお声をかけて下さい。



4月のお知らせ

4月の仏事 花祭り(灌仏会)

4月8日は花祭りの日です。花祭りとはお釈迦様の生誕をお祝いする日です。

仏教の生まれたインドから伝わってきた行事で、日本では推古天皇の代に聖徳太子の提唱で、

元興寺で行われた行事が最初と言れています(606年)。

現在では、幼仏像に甘茶(甘茶づるのお茶)をかける行事を行うことが多いようです。

日本では、花祭りの頃は正に花の季節を迎えています。

このあたりも桜が咲き、れんげ草やあけびの花やその他の色々な山野草が咲き、花でいっぱいになっています。

うぐいすの声が聞かれ、おたまじゃくしも生まれ、春が来たことを知らせてくれています。

春の空気をたっぷりと吸い込んでお帰り下さい。

当院は宗旨・宗派を問わず、自由に皆さまが立ち寄れるお寺を目指しています。

お時間がおありの際は是非お立ち寄り頂き、ご本尊の悲母観音にご参拝下さい。

この観音様は色々な苦しみから人々を救う厄除け観音です。

手を合わせられるだけでもご利益があると思います。

また住職を中心として皆様の楽しいお話、苦しいお話、各種ご相談など

色々なお話をお聞きできる場でありたいと思っています。

相談料などは一切頂きませんので、どうぞお気軽にお声をかけて下さい。



3月のお知らせ

春のお彼岸(3月18日〜3月24日)

お彼岸とは春分の日・秋分の日を中日として7日間の期間をさし、

古来より、この時期にはご先祖様の供養をするようにと言われています。

仏教では仏様のいらっしゃる世界を彼岸、私たちのいる世界を此岸と言います。

そして彼岸は西に此岸は東にあるとされ、太陽が真東から昇って、真西に沈む

春分の日と秋分の日は彼岸と此岸が最も通じ易くなると考え、

先祖供養をするようになったと言われています。

今、私たちが生きているのは、ご先祖様のおかげと言えます。

この機会に亡くなった方を偲び、感謝するためににも、

お墓参りや先祖供養をされたら良いのではないでしょうか。

当院ではいつでも先祖供養が出来ます。









厄の大きさの一覧表は、当院のHPの厄除け祈願のページにはってあります。

また必要な方は、当院2階事務所に準備してありますので、遠慮なくお持ち帰りください。


当院は、皆様に広く開かれたお寺をめざしています。

毎日9:00〜17:00まで、ご自由におまいり下さい。







詳しい事は当寺院にお尋ね下さい。

なお、電話での受け付けは毎日午前9:00から午後5:00までです。


梅ヶ渕観音院

〒890-0003 鹿児島市伊敷町6550−5

099−228−8001

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