2018年「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅 北杜市考古資料館 ≪2018年10月11日≫ |
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さて、本日3ヶ所目となる縄文館は田圃のど真ん中にありました。先程の井戸尻考古館がある富士見町は広い長野県の端っこにあり、そこから少し走り山梨県に入ると間もなく北杜市です。 ここまでの道は、ナビに従ってハンドルを握るのみですが、街中を走るわけじゃ〜ないので安心です。また、井戸尻考古館と同様、釜無川沿いで、八ヶ岳の裾野に広がる盆地状の地域にあたります。 田圃の中に公園風のエリアの一角にその建物がありました。駐車場の手前には、道路脇に軽トラが置かれて、田圃では農作業中の方も見られます。 13時45分に到着。玄関ホールで受け付けを済ますと、『向こうに飾っている土偶に名前を付けると、お土産があります』というでは、ありませんか。私たちはそのアンケートに記入しストラップを手に入れました。 丁度、私たちとは入れ替わるように、年配のグループ(4〜5名)が2階から降りて来ていました。 【関連リンク先】 北杜市考古資料館 尚、小生が使用している時代区分を以下に記します。 【AMS法による区分】 草創期 15,000〜12,000年前 早期 12,000〜7,000年前 前期 7,000〜5,500年前 中期 5,500〜4,500年前 後期 4,500〜3,300年前 晩期 3,300〜2,800年前 |
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・10月9日(火) 松山 岡山新大阪 金沢市(石川県埋蔵文化財センター) 金沢市 |
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・10月10日(水) 金沢市 富山市(北代縄文館・富山県埋蔵文化財センター・富山市民俗民芸村考古資料館) 富山 長野 松本 上諏訪 |
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・10月11日(木) 上諏訪 〜岡谷(岡谷考古館)〜富士見町(井戸尻考古館)〜北杜市考古資料館〜釈迦堂遺跡博物館〜甲府市 |
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・10月12日(金) 甲府市 松本 長野 軽井沢 〜御代田町(浅間縄文ミュージアム)〜高峰高原ホテル |
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・10月13日(土) 車坂峠〜槍ヶ鞘(ピストン) 高峰高原ホテル 〜軽井沢 高崎市 |
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・10月14日(日) 高崎市 群馬県立歴史博物館 高崎市 上野(国立科学博物館) 上野 東京 |
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・10月15日(月) 東京 新宿〜京王多摩センター(東京都埋蔵文化財センター) 東京 岡山 松山 |
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≪玄関ホール正面≫ | ||
2018年認定日本遺産【星降る中部高地の縄文世界】
―数千年を遡る黒曜石鉱山と縄文人に出会う旅― ■ストーリー概要 ■構成市町村 岡谷考古館から、岡谷市→富士見町→北杜市と、3ヶ所目の≪日本遺産≫のパネルです。 |
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下の土偶に名前を=「縄文ニックネーム会議」 |
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≪1階、受付の奥≫ | ||
受付の女性から『展示室は2階です』と、階段を指されましたが、目に留まっていた1階奥の展示ケースへと足を向けたのです。そこには、次のパネルが掲げられていました。 【数を意識し始めた縄文人】 土器は形を自由に作れるので、縄文人の観念が形となって表れやすいと考えられます。土器を作り始めた草創期〜早期の前半頃までは、口縁部は直線で器面前面に縄文や撚糸文などを施すものが多く、割付など数の意識は薄かったようです。早期後半頃から波状口縁や器面を割り付けるような文様を持つ土器が現れ、数への意識が高まっていきました。 前期後半の諸磯式では、4単位の波状口縁を持つ土器が多数を占めるようになります。諸磯式以降、概ねその後の時期を通じて2単位や4単位の波状口縁や突起をつける土器が作られていきます。割付のしやすい数であったことはもちろんのこと、2や4という数字を縄文人たちが好んだのかもしれません。 |
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【奇数の割付にも挑んだ縄文人】 波状口縁や突起には2単位や4単位のものもあります。 中期中葉の新道式、藤内子規、井戸尻式土器では、1つの大きな突起をつけたり、いくつかの突起のうち1つだけ大きくしりするものが数多く見受けられます。この突起が顔面を表しているものもあります。 中期後葉の曽利U〜W式では5単位や7単位の突起をつけることがあります。 時期的な違いがあるものの、全体的には4単位が多数を占める中で、後期の堀之内式と加曽利B式では3単位や5単位の波状口縁も持つものが増えます。特に加曽利B式では3単位のものがほとんどです。配置がかなり難しい3単位をあえてつけていることから、そこに特別な意味があったのかも知れません。 |
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≪2階 展示室≫ | ||
さて、階段を上がって2階の通路には、壁面の陳列棚に飾られた土器類は、綺麗に分類されていました。 下の写真のように、整然と並べられ整理された土器類は、非常に美しくいちいちパネルの解説を読んでいると時間がいくらあっても足りないのでは、と思わざるを得ません。 先刻の考古館もこのように整理されていれば随分と印象も変わったのかも知れません。 |
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≪出発(縄文土器とは)≫≪編年(土器の移り変わり)≫≪尖底(不安定な土器)≫≪発掘(模様の複雑化)≫ ≪華飾(過剰な装飾)≫≪多種(用途に応じた形)≫≪極致(土器造形の到達点)≫≪曽利(北斗に多い土器)≫ ≪精錬(模様の簡素化)≫≪終焉(最後の縄文土器)≫≪トウヒ属樹根化石≫ |
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≪1.北杜の旧石器時代≫ | ||
≪旧石器時代の環境≫ 湖や沼地へと続く湿地帯は旧石器時代の動物たちの格好の水場でした。同時にこれらの動物を追い求める旧石器時代のハンターたちにとっても絶好の狩り場でした。 湿地に足を取られた大型獣は動きが鈍く、普段なら危険で近づけない距離から、槍や石を投げて狩りをしました。 野尻湖(長野県信濃町)からはナウマンゾウやオオツノジカなどの大型獣のほか、ニホンジカ、イノシシ、アナグマ、イウサギなどの中・小型動物の遺体も見つかっています。 また、チョウセンゴヨウなどの花粉化石のほか、ハシバミ、オニグルミなどが見つかり、当時の環境を知る上で貴重な資料となっています。 |
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≪2.北杜の縄文時代≫ | ||
≪2.北斗の縄文時代≫ −森と川の恵み 芳醇の世界ー として、≪縄文人と自然のかかわり≫→≪縄文時代の狩猟と犬≫→≪縄文時代の道具≫→≪漆の利用≫→≪植物質食料の利用≫→≪八ヶ岳周辺の縄文カレンダー≫→≪土偶≫→≪土偶の製作≫→≪土偶のついた土器≫→≪顔がついた土器≫→≪黒曜石の流通≫→≪交易品としての石材≫→≪縄文人のピアス≫→≪いろいろな装身具≫ パネルには、上記のように解説文が順に載せられています。この地域は八ヶ岳を背景にし、豊かな森の恵みを授かっていたものと考えられます。 瀬戸内と同様、かつて大型獣を追って野尻湖や諏訪湖まで辿り着いてきた旧石器人は、どのようにして縄文文化を手に入れたのか、との興味は尽きません。 |
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山梨県指定有形文化財 ≪顔面把手付深鉢≫ 口縁部の上に土器の内側を向いた顔があり、胴部の表側 と裏側にも顔がつけられ、合わせて3つの顔をもつ土器。 胴部にある2つの顔の周りは、人の下半身のような模様 であり、その中央から顔が出てきているので、出産を表現 していると考えられる。土器全体を人の体とみることもで き、「出産土器」「出産文土器」などと呼ばれている。 子宝に恵まれるよう、あるいは子孫繁栄などを願う祭祀 に使われたと考えられる。津金御所前遺跡から出土。 |
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≪深鉢(加曽利E4式)≫≪金生遺跡の中空土偶≫ |
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≪遺跡から見える景観≫ 八ヶ岳の火山活動が休止したのは約10.000年前といわれています。すなわち今、私たちが見る八ヶ岳の姿とほぼ同じ姿を縄文時代の人々も見つめていたことになります。 もちろん、縄文時代に水田はなく、畑も開かれていません。スギ、ヒノキの植林された山林もなく、落葉広葉樹の森などが広がっていたことでしょう。 また、遺跡から眺める周囲の山々に注目すると、それぞれランドマーク・目印になる景観があることに気がつきます。景観を共有する集団があったことが考えられるのです。 北杜市や長野県富士見町の遺跡では富士山が見える遺跡、北岳が見える遺跡、あるいは北アルプスまで望める遺跡など、それぞれの遺跡から見える景観には個性がありますが。この地域では、険しく、それぞれの頂が屹立した八ヶ岳の景観を共有しているという大きな特徴があります。すなわち、この八ヶ岳の景観こそがこの地域の大きなランドマークであり、集団の共有する郷土のイメージだったと思われます。 八ヶ岳山麓に広がる遺跡に住む縄文の人々にとっては、火山の噴火や地震などの自然の脅威は計り知れない怖さがあったことでしょう。それらは「お山が怒った」とか「大地が怒った」とか云いながら、家族や村人が肩を寄せ合って耐え忍んでいたのでしょう。 そして、彼らが造った土器や土偶を眺める際、周りの自然に対する自然観や自分たちが食する動物や植物との関わり、生まれ来る生への愛や死せる者への畏敬の念などなど。窺い知る事の“新たなる発見”に胸を躍らせるものです。 |
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≪金生遺跡にもたらされた土器≫≪金生遺跡の祈りの道具≫≪金生遺跡の2号配石≫ |
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≪3.北杜の弥生時代≫≪4.北杜の古墳時代≫ | ||
≪5.北杜の奈良・平安時代≫ | ||
縄文時代以降の展示は、ざ〜っと見終えます。を載せます。 |
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≪北杜市考古資料館のパンフレット≫ | ||
今日の3ヶ所目の考古館でしたが、見終わった印象は“とっても満足”でした。先ほどの考古館との印象の違いは『受付の方が女性と男性の違い』とかいうんじゃ〜無く。そこでは展示方法も少しは関係するのか? 否、“写真撮影が可か?否か?”が大きく左右しているようです。しかしそんな事は、それぞれに事情があるもので、我々門外漢としては納得せざるを得ないものと考えます。 14時25分に資料館を出て、行先は≪釈迦堂遺跡博物館≫のみで、中央自動車道の釈迦堂PAを目指します。 |
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