縄文文化を巡る!  
 2018年「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅

北代縄文遺跡(北代縄文館) ≪2018年10月10日≫
 昨日から“北陸廻り縄文ツアー”で金沢に着きました。その書き出しには、

≪恒例となった秋の“縄文ツァー”は、北海道の訪問の計画を練り上げ、いつもの旅行会社へ申し込みを済ませたのが9月5日のことでした。翌日、北海道胆振東部地震が起こりました。直ぐに頭を過ぎったのは、6月から7月にかけての『平成30年7月豪雨』で、JR四国の特急が運休し、8月の東京行きが飛行機便への変更を余儀なくされた事件でした。その日程は10月9日からでしたので、その時点ではJRの切符の手配は未だでした。そんなこともあって、直ぐのキャンセルが可能だったのでした。≫

 と、北海道から北陸廻り甲信地方を経由で首都・東京への縄文巡りへと変更への事情でした。前項でも触れた通り、今一つ練られた行程で無い事が露見してしまったのが、本日の行程でも起きてしまったのでした。

 
それは“レンタカーで金沢から富山県の縄文資料館などを巡った後、富山から長野県へ列車移動し、岡谷考古館に立ち寄って、上諏訪で宿泊”という予定でした。岡谷考古館は、事前に閉館時間がpm19:00との情報なので、宿泊所へ着く前に見学を予定していました。それが、岡谷考古館は水曜日が休館日と発覚したのでした。小生、この事実を知った際、頭が真っ白になりました。


 そのあたりの詳細については後述しますが、当初の予定を組み直さざるを得ません。


 なお、レンタカーについては当初、9時から13時での利用で申し込んでいましたが、金沢から富山へ移動して数か所の縄文館巡りを予定しているので、8時から14時へと変更していました。

 
 ・10月9日(火) 
 松山  岡山新大阪  金沢市(石川県埋蔵文化財センター) 金沢市
 
 ・10月10日(水)  
 金沢市  富山市(北代縄文館・富山県埋蔵文化財センター・富山市民俗民芸村考古資料館)
 富山  長野  松本  上諏訪 
 ・10月11日(木)  
 上諏訪   〜岡谷(岡谷考古館)〜富士見町(井戸尻考古館)〜北杜市考古資料館
〜釈迦堂遺跡博物館〜甲府市 
 ・10月12日(金)  
 甲府市  松本  長野  軽井沢  〜御代田町(浅間縄文ミュージアム)〜高峰高原ホテル 
 ・10月13日(土)
 車坂峠〜槍ヶ鞘(ピストン) 高峰高原ホテル  〜軽井沢  高崎市 
 ・10月14日(日) 
 高崎市  群馬県立歴史博物館 高崎市  上野(国立科学博物館) 上野   東京  
 ・10月15日(月)  
 東京  新宿〜京王多摩センター(東京都埋蔵文化財センター)  東京  岡山  松山  
 
 今日は金沢駅前でレンタカーを借り富山駅で返却し、以下の行程で上諏訪で宿泊の予定です。

【金沢駅前(レンタカー)→富山駅前】
【富山(14:19)→はくたか566号 長野(15:18)】
【長野(16:05)→ 岡谷(17:47)】
【岡谷から上諏訪まで10分余り】

 ホテルでの朝食を早めに終え、タクシーにてJR金沢駅へ向かいました。レンタカーの営業所を見付けるのにウロチョロしたのですが事なきを得て、出発です。ナビの案内どうりに北陸自動車道の金沢東ICで乗って走るのみです。
 9時半頃には北代縄文広場へ着きました。朝一に、今日は最後に寄る岡谷考古館には18時頃に着くので、上諏訪のホテルに着くのが遅くなる旨の連絡を入れました。


 
一番目の訪問は、北代縄文広場


 ナビの指示に従って、富山西ICで自動車道を降りて地道をぐるぐると辿って行きます。やがて、道路表示板に県の埋蔵文化財センターを認めますが、ここは次の訪問とし、まずは“北代縄文広場”へ着きました。


 縄文館はこじんまりとした佇まいでした。受け付けの人もボランティア風のオジサンです。


【はじめに】

 北代遺跡は、縄文時代中期後葉(約4000年前)を中心に営まれた大集落跡です。遺跡は明治時代から地元でも知られており、多くの研究者が訪れて土器や石器を採集しています。
 これまでの調査により、東西280m、南北200mの範囲に縄文時代の竪穴住居跡が70棟以上、中央部分で高床建物跡が4棟以上確認されていますが、さらに多くの住居が重なっていると思われます。
 また、旧石器時代、弥生時代、奈良時代、平安時代の出土品や、奈良〜平安時代の竪穴住居跡、高床縦も二跡、鍛冶遺構が見つかっており、この地に何度も集落が作られていたことも分かりました。
 北陸地方を代表する貴重な縄文時代の集落跡として、昭和59年1月4日に国の史跡に指定されました。その後、地元の方々のご協力をえながら公有化を進め、文化庁のふるさと歴史の広場補助事業として平成8年から10年度にかけて整備を行いました。


 縄文館へ入ると中央に竪穴住居が設けられていて、その中には、二人の子供と夫婦らしき人が・・。お母さんと思われる女性は現代日本でもあまり見かけないタイプの美人で、どちらかと云えば沖縄の方の風貌に近いように見えます。

 縄文館には、北代遺跡を始め近隣の遺跡などの紹介パネルが掲げられており、それらは≪立地と周辺の遺跡≫≪食べ物≫≪調理の様子≫など整理されています。


 尚、小生が使用している時代区分を以下に記します。

【AMS法による区分】

  草創期   15,000〜12,000年前
  早期     12,000〜7,000年前
  前期     7,000〜5,500年前
  中期     5,500〜4,500年前
  後期     4,500〜3,300年前
  晩期     3,300〜2,800年前


≪左、食べ物 右、調理の様子≫
 

 



≪左、串田新式土器・磨製石斧 右、住む≫
 

 

渦巻や、円形のボタンのような突起を貼りつけて文様をつくっています。
この土器は早川荘作氏によるコレクションの一つで、実物は現在富山県埋蔵文化財センターに保管されています。北代縄文広場では複製品を展示しています。


 上掲写真の左の深鉢は、≪中期中葉の深鉢≫の複製と紹介されています。前掲のサイトには上記の紹介が載せられていますが、この縄文館を見学後に該当の埋蔵文化財センターへ立ち寄っても、見付けれませんでした。


≪左、串田新式土器 右、有孔鍔付土器≫

 


≪左、いのる 右、かざる≫
 



    

   

 

 

 

 縄文館は、ぐるっと廻れば見終えることとなります。その館内から見えていたのは竪穴住居や高床倉庫が建てられています。その住居からは、煙が立ち上っている様が窺えます。

 その遺跡を見学すべく、ぐるっと廻ってみます。住居などが復元された模様はどこの地域の遺跡も同じように復元されています。また、クリ類やドングリやトチなども植えられています。


 しかし、この立地場所はどうなんだろう。富山湾からは6〜7kmほどで、神通川から2kmほどの富山平野の小高い丘状の呉羽山に位置しています。この位置関係の縄文遺跡は何なんでしょう。同時に、旧石器時代から縄文時代〜弥生時代〜平安から現代と同じ地域に住み続けることの不思議は、四国に住む小生には理解不可能です。

 多分、それぞれの地方の気候風土、縄文一万数千年のどの時期の遺跡なのか?によって、住居地が決められたものと考えます。地域性の特徴で云えば、北海道・東北地方や中部日本のような火山の影響がある地域。太平洋側などの台風に襲われる地域。山深い地域。大河川の河岸段丘。盆地状の地域。

 しかし、それらの自然条件の違いを巧みに利用しながら、気候の変化に適応しながら文化を発展させて来た縄文人。恐るべし。


 さて、続いての目的地は先ほど通り過ぎた≪富山県埋蔵文化財センター≫、向かったのは10時半でした。


【反省2 レンタカーは代理店を介さない方が好ましい】

≪富山市考古資料館パンフレット≫