四国のみちと遍路
                                                              
≪四国のみち≫ 【愛媛支2・四国カルストルート】

2015年11月4日
≪惣津山〜光明寺〜大谷〜美川スキー場休憩地≫

          

≪Part2≫
 このルートはPart1として、先週、惣津山〜光明寺の間を歩いたのだった。今日は光明寺から美川スキー場までの7.3kmを歩く事になる。しかし何事も無い(淡々と終わった)道歩きが稀な『我々の“四国のみち”歩き』は、結論から云うと今回も例外では無かった。

  
 11時34分、農免日野浦農道の広くなった場所へ愛車をデポした。大谷川を挟んだ山の向こう側に頭だけを覗かせているのが、“山座同定”が容易な中津明神山である。さて、先週は光明寺から下の道を辿ったのであるが、今日は光明寺の上の道を辿ることとなる。

 
 光明寺の横の細いコンクリの道を辿り、先刻駐車した新しい道に出合う。アスファルトの道路を暫く行き、まずは木陰で腹ごしらえとする。もうすぐ昼のチャイムが鳴る頃で、5分余りの休憩だった。再出発後、11時58分、アスファルトの道とは分かれて民家の横、用水路に沿って道は続いていた。

   
 12時のチャイムは代わり映えのしない音楽だった。道は綺麗に整備されていて、道端に咲くリンドウも小春日和の日差しを受けて、誇らしげに咲き競っている。用水路の上、道が分かれた所に“四国のみち”の標石があり、傍らにお地蔵さんが祀られていた。

  
 指導標は唐突に現れるが、一本道でなくて、どこが指定の道なのかはっきりしない道では安心である。12時11分、道が草に覆われた箇所になったが、雑草の下には確かな道が続いていた。

 
 進むこと暫し、指導標も雑草に覆われひっそりと建っている。12時14分、上の方に農免道路らしき道が見えた。こちらが歩むべき方向の道なのか疑心暗鬼のまま、取り敢えず、舗装道路に出た。こういう道と出合った場合、指導標に出合う筈なのだが、見当たらない。

  
 また先日来、県道との別れに建っていた指導標の場所(後述する)は県道328号線と合流した先なので、現在位置が不明となってしまった。道路のすぐ下に用水路が見えたが、ふと、先ほどまで辿っていた用水路の道との関りが気になった。

 

 暫くで、道路の下に神社らしき建物が見えた。地図(国土地理院・1/25,000図)に載っている神社だとしたら、“四国のみち”は神社の下を通るようになっている筈だが、そのことは兎に角、木の札には手書きで『電柵注意』と書かれている。いつぞやの電気柵事件の影響である。12時26分、県道328号線と合流した。以前、ここに≪高知へ近道≫というような案内があったと記憶していたのだが、どこにも無かった。小生の記憶違いだったのだろうか。

 
 さて、すぐ先に先日確認していた“四国のみち”の案内標が建つ場所に着いた。案内標識が示す道は県道から南西の方角へと降りていた。先ほど農道へと上がってから県道と合流し歩く事10分余り、この分岐へ着いた。この分岐の道はどこへ続いているのかは、帰路に辿ることとして先を目指す。帰路の宿題を抱えてしまった。すぐ先の大谷集落では、県道の上下に民家が垣間見える。

  
 12時55分、県道328号線と“林道西谷日野浦線”との分岐に着いた。西谷とは旧柳谷村の西谷の事である。林道とは恐ろしい道路だ。関係者以外は一般の人は利用しない道で、年間何名が利用するかも分からない。さて、この場所は集落から外れた大きなヘアピンの場所で、林道は直ぐに大谷川を渡ることとなる。

 
  そしてまた一つ、ヘアピンカーブを曲がった先には、数軒の別荘らしき家のログハウスが見える。13時9分、一軒のログハウスで、庭の掃除をしている方が望見出来る。そして民家が無くなれば、道路歩きも退屈この上ない。まして、この県道は交通量がすこぶる少ないのである。

  
 地図を見ると、スキー場のへりを辿り、大川嶺へと点線の道がある。大川嶺へと歩く場合、今通っているアスファルトの県道を辿るよりも楽に歩ける事は承知している。しかし、我々が今歩いているのは“行政が指定したみち”なのである。13時50分、美川スキー場の下にある≪林道大谷線≫の入口にある東屋に着いた。ここで小休止、コーヒーブレイクなのだ。

 
 次回辿る道“林道大谷線”の案内が東屋の傍らにある。15分ほどの休憩の後、元来た道を引き返す。行きは500m程の登り(もちろん、降りも500mなのだ)だったが、ず〜っと車道を歩いて来たのでさほど登った感覚では無い。そして、この道は車がビュンビュンとは通り過ぎないのだ。この間、行き違った車は片手で十分な交通量なのだ。

 
 木が疎らになった場所から垣間見える山々は、どこまでも緑の海だ。相棒が「山頭火の『分け入っても分け入っても青い山』と詠んだ風景よね」と話し掛けてきた。大谷の集落では家から出て野良作業をしている人を見掛けた。そして、15時4分、懸案の道の分岐まで戻って来た。さて、どんな道が繋がっているのか楽しみと、一抹の不安も混じっている。

  
 コンクリの道は民家へと続いていた。やはり、すぐ先は雑草に覆われている道になった。指導標があるが、どの踏み跡かが分からないぐらい古の道が縦横にある。その中、一番踏み跡の確かな道を辿ることとした。道の上下、薄暗い中、石垣に囲われた田圃が棚田となっている。しかし、今は30年生前後の植林が見渡せた。

 
 所々で見かける赤テープも私たちに安心感を与えるのに十分であるし、道はしっかりしていた。そんな道も、当初の横掛けの道から降り始めた。すると、15時16分、下方に用水路と道が現れた。そこには、赤や黄のテープが暗い林に映えていた。

  
 植林の中に続く用水路と道は綺麗に整備されているのは、現在も現役である証拠である。用水路を流れる水はあくまでも澄み切っている。そんな中、用水路の上で湧き出ている水を溜めて、上水としてパイプが引かれている。山間の道では、時々、このような場面に出くわすのである。

  
 15時半、往きに用水路の道と分かれた指導標の場所に着いた。植林地帯から一転、日当たりの良い空が見渡せる場所へと出ると、文明に近づいて来た気がする。結局、大谷集落の外れの県道から入って直ぐに“四国のみち”を見失った格好になってしまった。古の棚田を辿っている道に惑わされたようである。

≪迷い道≫
 
 一枚目、左の写真は往きに農免日野浦農道へ出る直前の案内標識である。12時14分、直後に県道へと出てしまったのである。そして復路右の写真、15時7分、帰路の県道から入った直後の案内標識であり、これ以降、用水路脇のお地蔵さんが見守る場所まで道を見失ってしまったのである。ちなみに、往きの用水路分岐〜農道〜県道間の所要時間は21分で、帰路の県道下から用水路分岐までは27分だった。

 相棒が言う「これは宿題じゃねぇ〜」
   迷い道を行くは、コチラ  


ちょっと 一息
 美川スキー場へ通っていたのは、1980年代初めの頃だったので、もう、35年ほど前になる。職場の同僚と一緒に行ったり、小生の弟を初めてスキーに連れて行った場所だった。そして、スキーの次に訪れたマイブームは、“山釣り”だったのだが、その“山釣りの師匠”に初めて連れて来て貰った川が、大谷川だった。1990年代初めの時期、例の農免日野浦農道が完成していない時期で、日野浦から馬門へとつなぐ大谷川に架かる“舞谷橋”の完成が平成8年(1998年)なので、今昔の感だ。

 丁度、小生がスキーを楽しんでいた当時に制定され、道の整備が終わったであろう昭和60年(1985年)当時からは30年の月日を経ている。前回辿った道が通学路だったり、今回、帰路に見た棚田の跡が続く植林を縫う用水路は今も整備され、流れ下る水は数qの旅の末辿り着いていたのだった。棚田に植林を施し、陽の射さない森にしてしまったのは、かつてここに住んでいた人なのか、それは行政の指導によるものなのか。

 いまや山里は荒れ、高齢化の大波に飲み込まれた末に山里から人が去り、荒れ果ててしまっている。山里での産業が成り立たなくなった現在、日々の暮らしが維持できなくなっている。有り余る程、山を覆い尽くしている材木も、山で採れる食材も輸入品で占められている。もう、10数戸が残るだけの集落までのバスの便は何年か前から無い。このような日常が全国津々浦々で行われている。悲しい現実だ。


【四国のみち案内標識など】