≪四国のみち≫ 【愛媛支2・四国カルストルート】
2015年10月30日
≪惣津山〜光明寺〜大谷〜美川スキー場休憩地≫
≪Part1≫
上の写真は小田深山の“まゆみの木”で、今日の目的は、相棒の『ロケハン』で行先は小田深山界隈だった。帰路、大川嶺経由の道を取った為、先日の“四国のみち”の続きのルートの確認に立ち寄ったのだが、このことが、結果としてPart1でこのページに載せることとなった。
大川嶺辺りは淡々と通り過ぎて、美川スキー場でコーヒーブレイクとした。そして大谷の集落まで降りて来ると、道端に光明寺からの案内標識を見付けた。すぐ先には、新しく道路が付けられていた。そこから県道を暫く降り、14時26分、惣津山集落の県道328号線の入口付近にある“四国のみち案内標識”に着いた。ここは、先日の最終地点から直ぐの場所だった。道路脇の広くなった場所へ愛車をデポした。
“四国のみち”は、県道脇から見えるお墓の脇へと続いていた。すぐ先には耕作を放棄して荒れ放題の畑地が現れた。荒れた畑の先に植林が見えるが何処を辿れば良いのかが分からない。結局、反対方向へと続く植林の中に続く道などを暫く探したものの、小生の持参している地図の道とは合致しない。相棒が草に覆われた下にあるだろう道を探しに行くが、『ここが道だ』との確証を得られないようだ。相棒のズボンには、我々が“ヒッツキ虫”と呼ぶ草の種が沢山付いていた。(小生はこのような草むらに入るのは敬遠している。例のマダニ騒動が影響しているのだった。)
『仕方ないから、取り敢えず光明寺を目指した後、そこから逆に辿れんじゃろか?』と、県道を10分余り歩いて、15時、本来の道とは違ってコンクリの車道を辿る。15時10分、大谷集落の手前で県道と合流するバイパス(県道には“高知”への案内があり、大谷川を渡り馬門で国道33号線へと結んでいる)へ出た。すぐ下に“大銀杏”を望むことが出来る。その場所が、目的の光明寺だろうことは容易に解る。
民家と田圃の中に細いコンクリの道があり、それとは別に集落を貫く道路が真っ直ぐに抜けている。この関係はどこの田舎でも共通の事だ。集落に住む人は、軽トラで行き来する場合と、仕事や私用で隣近所へ行く道を使い分けている。四国のみちは後者であり、街中とは違って大切に扱われている様が窺える。そして、案内標識を見付けた後、15時14分、光明寺の門前に辿り着いた。門前までの道は綺麗に掃かれているが、相棒の「銀杏を踏まないように気を付けて」との声が後ろからした。
やはり片田舎の寺、四国霊場88ヶ寺の寺とは違って、訪れる人は見えない。寺には人の気配も無い。光明禅寺の表札の裏に回り込むと鐘楼があった。境内には、≪美川村自然環境保全指定地区(指定物件) 銀杏 直径200cm≫の看板が建っていた。さて今日は、ここからは逆回りで先ほどの出発点である県道にある案内標識まで辿ることとした。
環境省の指定の≪光明寺前の指導標≫が見当たらないが『とりあえず、これにしよう』と、記念撮影。15時20分だった。すぐ下で下草の整理をしていたオッサンに“四国のみち”の事を尋ねるも一向に埒が明かない。どうも高齢の為、耳が不自由なのだろう。仕方が無い、我々は案内標識を辿る事とした。直ぐに、先ほど横切ったバイパスに出合い、簡易指導標が指す道は道路を横切って下へと続いていた。
親切な私設案内標が建つ場所と、従来の標識とはおのずと違う。集落をバイパスが抜けた後、わざわざ建てたのであろう標識は、県に云えば立派な標識を用意するだろう事は察しが付く。しかし、この手作りの標識の方が我々には嬉しい。
民家の横や田圃の脇を抜けると、前方に植林が現れた。案内標識に導かれ薄暗い林の中へ入ると直ぐに道が左右に別れているが、左手にはお墓が建っているので当然見送り、右手へと道をとる。すぐ先で、伐採作業の車が道を塞ぎ、傍らでオジサンが作業をしていた。「四国のみちを歩いているのですが、この先、道は大丈夫でしょうかねぇ〜」「県道から降りた場所で道が分からんようになって、逆に光明寺から行ったら分かるんじゃないかと歩いとる」との問い掛けに、先ほどのオジサンとは違って、的確な応えが帰ってきた。それは『この道は昔、子供らが学校へ行くのに使っていたんだが、もう、使わんようになったので荒れとる。じゃが、大丈夫』と云い。このままの勾配で歩いて行ったら良いが、くれぐれも下へは降りんように、国道に出てしまうから・・と、親切な対応だった。
15時40分、前方が明るくなった先には棚田が広がっていた。しかし、案内標識に導かれて植林の中の道になった。薄暗い中、古い木橋の下には水は流れていない。
道の上下には、立派な石垣が積まれているが、田圃や畑じゃなくて植林されている。そして全く前方が見えなくなっている場所にも出合う。しかし、直ぐに道端に建つ案内標識に出合うので安心だ。
そして、道端に電柱が現れた。という事は、古くからこの道が集落を結ぶ道だという事を物語っていた。すると、道の上方に電力鉄塔まで現れたのだった。少々薄暗くなり始めたのだが、植林の林越に見える景色は明るくなってきた。16時9分、先刻、ウロチョロした辺りが前方に現れたのだった。
我々が採った戦略は成功だった。逆から辿るのが良かったのだ。さて、先刻相棒がウロチョロした草むらの中、道は雑草に覆われてしまっていた。
16時17分、本来の出発点の県道の標識があり、先刻、道の状況を詳しく教えてくれたオジサンも“出発点の目印”として呼んでいた『お墓の楠』に戻り着いた。
四国のみちは、制定(1981年)から35年を経て、今回辿ったルートのように新しい道に寸断されたり、みち自体が使われなくなって雑木や雑草に覆われてしまった箇所に出合うのは仕方無い。またこの間、土砂崩れなどで道が失われている区間もあって当然の事なのだ。
今回も前回と同様、地元の人達が道を大切に残している様が窺えた。しかし、山間部の集落に子供が居なくなって、学校も廃校になり使われなくなった通学路や、集落を結ぶ道が車で移動出来る新道へと変更されると、もう古の道が使われなくなって久しい。
さてここで難問がある。このところの山間ルートを辿る際、山間部に公共交通機関が無くなっている点である。この後、我々がどのような形で実現出来るのか、否か、御覧じろ。
【四国のみち案内標識など】
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