2002年トランスエゾからの贈り物

 2000年4月8日(土)快晴、第3回小田原箱根チャレンジマラニック60kmが開催され、“ちっち”と金時山から足柄峠を抜け、坂を下っている時、隣をスタスタ追い抜いていく青年がいました。
 彼のTシャツにトランスエゾの文字が見えましたので、「トランスエゾに出られたのですか。」と声をかけますと、「出たというか、私がそのトランスエゾをやっているのです。」と声が返ってきました。
 これが御園生氏との出会いでした。

 NHKテレビのドキュメントや山崎勉が主演するドラマが放映され興味は持っていましたが、この時点では、いずれ機会があればやってみたいと言う願望程度のもに過ぎませんでした。
 

 またこの年の4月末日をもって30年間のサラリーマン生活に終止符を打ちました。子供3人のうち2人は既に社会人となり、3番目の子供も大学3年になり、ある程度将来の目処も立ったこともあり、今後経済的に豊かでなくても会社・組織と言う制約のない中で妻とともに趣味のランニングの幅を広げ、山や野原を駆け巡り季節の風や匂いを嗅ぎながら、楽しく心豊かな生活が送れるのではないかと夢を抱きながらの53歳の決断でした。

 2001年秋トランスエゾのトライアルである2泊3日東京湾1周マラニックがあり、“ちっち”と参加する予定でしたが、彼女がボランティアで活動中足首靭帯を損傷し、1ヵ月半のギブス生活を余儀なくされたため単独で参加しましたが、今までのウルトラマラソンとは一味違うジャーニーランの世界を体験し、まさに虜になりました。

 2002年春の東京湾1周(房総編)の3泊4日270kmでは視覚障害者のk氏の伴走を全行程する機会に恵まれ、食事から風呂、コンビニからトイレまで全てを共にするという貴重な経験もさせて頂きました。

 5月下旬の奥久慈マラニックにも参加しトランスエゾに対する期待は徐々に高まっていきます。他の参加者と比べて時間が自由になりますので、やるからにはtoえりも、toそうやの両方であるアルティメイトと決めていました。
 また、過去に参加経験のあるT石、N田、N野、N江氏等に貴重なお話を伺い、その意見は大変参考になりました。

服装とバッグの中身

 14日間バッグを背負い、着替えから薬など必要なもの全て携帯ということで、直前まで入れたり出したり悩みましたが結局下記の物を用意しました。

服装

上着2(襟なし長袖ポリエステル50%綿50%・・・今回の参加賞ミズノ提供)
   (襟付き長袖ポリエステル100%・・・2002年鯖街道参加賞)
下着3(ロングスパッツ1・・・お台場24時間チャリティランバザーで海宝さん着用のものを200円で購入)
  (パンツ2・・・ナイロン80%ポリウレタン20% ショートスパッツをもう少し短くしたようなもので
   股ずれ防止に抜群。千趣会の通販で購入)
靴下3(5本指ソックスでランナーズのを2足と1足200円程度の軍足を用意しましたが、軍足の方が丈夫で
   履きやすい。2足で足りました。)
手袋(用意しましたが必要ありませんでした、)
帽子(後ろに日除け布をピンでとめたもの。風による着脱帽子のクリップをつけました。)
靴(1足のみ。アシックスGT2050.1CMほど大きめなものを用意しました。)
サンダル(1足・・・100円ショップで購入しましたが、必要ありませんでした。)
ズボン(1本・・・アシックス製ポリエステル100%軽量で重宝したが、ウインドブレーカーのズボンで十分
  代用できます。
ウインドブレーカー上下(KappaEPIC ポリエステル100%さくら道完走懇親会場でビンゴで当てたもの。
   軽量で水を余り通さなかったので、雨の多かった今回は重宝しました。)
タオル(風呂だけでなく、汗拭き、キャップといろいろ役に立ちました。)
バッグ(2001年度鯖街道参加賞のバッグ。2002年度さくら道完走賞のバッグと同じです。)
ウェストポーチ(2000年夜叉が池参加賞のもの)

その他

A4版チャック付ビニール袋(地図、チェック表等書類入れ)、赤ボールペン、携帯電話(充電器を含む)、
携帯用老眼鏡、ヘッドランプ、ペンシルライト、予備電池、危険防止用点滅ライト、危険防止用蛍光版、ポケットティッシュ、胃薬(大田胃散、正露丸)塗り薬、ビタミン剤、バンドエイド、サロンパス、葛根湯、持病薬、チタンテープ、チタン入りネックレス、インスタントカメラ、歯ブラシ、歯間ブラシ、食料少々、水(350ML2本、500ML1本用意しました。場所によっては1本で十分でした。)、クレジットカード、免許証、現金(10万円を用意)、封筒10枚ほど(ステージごとに地図を渡されますが、使用済みの地図を自宅に郵送)、これらで水を入れて重さは4〜4.5s程だと思います。
*これに付け加えるなら健康保険証でしょう。

費用(アルティメイト)

 費用については、参加分担金54,500円、宿泊関係費15泊9食付85,200円、交通費(航空運賃羽田〜稚内往復78,000円、チャリティ参加費(1km5円1090km)5,500円、その他食事代等50,000円で合計273,200円
でした。
 toえりも、toそうやの片道のみの場合でも20万円前後になると思います。

 全ステージ事故も故障もなく、全て制限時間に入れましたが、故障等の場合、目的地まで電車、バス等で移動する必要がありますので、現金は多めに用意しておいた方が無難だと思います。しかし、郵便局は大体どこにでもありますのでキャッシュカードを併せて持っておけば大丈夫でしょう。

宗谷岬へ

 8月3日(土)羽田発稚内行きANA便にはtoえりものM岡さん、S木氏、仕事の都合でアルティメイトからtoえりもに変更を余儀なくされたT田氏と同乗しました。稚内空港には呼掛け人の御園生氏とクルーのF田氏が出迎えに来てくれており、コースの一部を通りながら宗谷岬の宿へ。

 宿舎の【民宿・清水】は宗谷岬とは目と鼻の先、宗谷岬まで歩いても1〜2分の距離、残念ながら曇り空で40km先にあるサハリンは見えませんでしたが、暑さにうだる東京から最果ての地、宗谷は温度が16度、ウインドブレーカーなしでは寒いほどでした。

 夕方6時から隣の食堂【最北端】で懇親会が開かれました。アルティメイトは女性4名、男性3名の計7名。
 toえりもは男性6名、女性1名の計7名の合わせて14名で、平均年齢52歳のオジさん、オバさんたちの中に、toえりものT味氏のご子息、空也君14歳とかおす君12才が自転車で加わることで、この場が一層華やかなものになりました。
 民宿のご主人提供のバーベーキューをつまみにビールを飲み、海鮮丼を喰らい、明日からの快走に話も尽きない宗谷岬での前夜でした。尚、芦屋から参加のO氏が選手会長に指名され快諾されました。
 

8月4日(日) 第1ステージ(宗谷岬〜幌延 71.5kmスタート5:00制限時間18:00)

 昨夜と同じ16度、ランには快適な温度。全員で記念撮影をし、これからの行程に期待ばかりを膨らませ、皆にこにこ顔。そうこうするうちにスタート時間を5分オーバーし、5時5分、襟裳岬に向かって一歩を踏み出しました。宗谷岬からの急坂を登り、両側に広がる牧場の間の道を気持ちよく走っていると、1kmもしないうちにA木氏と2人だけになっていました。

 彼は昨年toそうやに挑戦し、快調に歩を運んでいたものの4日目あたりに肉離れを起し、どうにかこうにか完走したものの、本来の走りからはほど遠く今年はリベンジを図るべくtoえりもに照準を合わせ、南アルプスの山々を20kgの荷物を背負い練習を重ねてきたと言う。
 とんでもない人と一緒になったなあと思いながらも、雑談を交わしながら15km付近に来たとき、右足甲に痛みが走りました。今回は長期間走るものですから靴を1cmほど大きいめなものを選び奥久慈マラニックで試し履きをし、すっかり安心していたのですが少し合わなかったようです。A木氏に「治療をするから先に行ってください。」と言って、サロンパスとチタンテープを貼って前方を見ますと、ゆっくり走っており、どうやら私を待っている様子です。

 彼は昨年サロマのあの暑さの中でも9時間20分で走破した猛者、今年も9時間40分だったというし、こんな人と付き合っていたら初日からギブアップになりかねないと思いながらも、延々と続く緑の牧場のなか、53km地点のチェックポイントに到達しました。幸いなことに、ここに御園生氏、F田氏のエイドがあり、なんとビールまであるじゃないですか。これはチャンスとばかり、「A木さん、ここでゆっくりビールを飲んで行きますからお先にどうぞ。」と言って、どっかと椅子に腰を下ろしました。
 いやあ美味いビールだった。それにこれからのんびり走れるし、景色はいいし最高だなあ。と一人旅を満喫しながら次のチェックポイント田中牧場に来ました。丁度、A木氏と入れ違いになり、冷たい水で喉を潤しました。ここの主人は地平線会議の三輪主彦氏の教え子だということで、私も地平線会議には一度アジアホテルで開催された中山嘉太郎氏の【シルクロード走り旅】の話を聞く機会がありました。
 スイカ、フライドポテト等を頂き「今度、三輪さんにお会いしたらT中が宜しく言っていたとお伝え下さい。」との声を背にここを後にしました。

 幌延のゴール【旅館光栄荘】には15時26分に到着しました。

 

8月5日(月) 第2ステージ(幌延〜羽幌 82.8kmスタート4:30制限時間19:30

 昨夜の旅館のカレーライスは小学生向きの甘さだったなあとワイワイガヤガヤ騒いでいるうちに今日も5分オーバーのスタートとなりました。
 
今日は兵庫相生のT原氏が私をピッタリマーク。昨日は岡山のアルティメイト3度目のT原さんについて行き、ペースが合わず途中から分かれて先に行ったものの、そのまま道を間違えてしまったとのこと。要するに私をナビゲーター役にしょうという魂胆らしい。
 昨日のランでバッグによる擦り傷が鎖骨と腰にでき、汗が沁みると痛いので、鎖骨にはバンドエイド、腰にもT原氏が赤チン付のテープを貼ってくれ、その上からタオルをパンツと上着の間に入れ、ウエストポーチのベルトで挟んだら、これが効果抜群で非常に調子が良いので、この後も腰の擦り傷に悩む者に教えたら大変喜ばれました。

 

 この日は20km過ぎから内陸を離れ日本海に沿うコースに入るので、利尻富士を楽しみにしていましたが、曇天のため残念ながらその片鱗すら拝めませんでした。なだらかなアップダウンが多かったのですが、それは余り苦になりませんでした。 ただ、一日中吹く向い風に往生しましたが、この風はtoえりも最終日まで続きました。この時期はいつも向い風になるとのことでした。

 17時29分ゴールの道の駅【サンセットプラザはぼろ】にT原氏と着きました。また、この日は夕食がなく、風呂に入ったりグズグズしているうちに、レストランも閉店し、折から降り出した雨の中、T原氏と外の食堂でビビンバ丼を食べ、コンビニへ朝食の買出しに出かけました。このレースに過去に参加したベテラン諸氏はゴール前にコンビニで購入を済ませていました。

 T原氏とは2000年9月のアラスカでの第1回オーロラウルトラマラソンで初めてお会いし、その後翌年のさくら道、鯖街道とご一緒させて頂きました。さくら道ではゴール500m手前で転倒し前歯2本と顎を骨折しましたが、医者の制止を振り切って1週間後の野辺山100kmを完走した剛の者(怪人?)です。

8月6日(火) 第3ステージ(羽幌〜北竜 85.3kmスタート4:00制限時間20:00

 今朝も5分遅れのスタートになってしまいました。今日もT原氏が私から離れません。コースは日本化に沿って進み、50kmの留萌から内陸部に入ります。午後からは雨が断続的に降り、向い風も相変わらず強く、歩くと寒いほどですが、真夏の暑さに比べれば消耗が少なくて済むのではないかと良い方に解釈しました。
 
 内陸部に入ってから、70km過ぎまで横を留萌本線が走っており、運良くSLと出会いました。一緒に走っていたT原氏、T田氏、S木氏とともに大きく手を振ると、何百倍もの返礼が汽笛になって返ってきました。列車の窓からは大勢の観光客がこれまた手を振って応えてくれました。またこの日、toそうやに参加予定のS藤氏が士別から車で駆けつけ、エイドと応援をしてくれました。

 今夜も夕食は自前ですので、ゴール2km手前で、途中一緒になった横浜のN村さんとT原氏の3人でラーメン屋に入り、のんびり夕食を済ませました。隣にあるコンビニで朝食を買い、コンビニ袋を引っさげて18時52分道の駅【サンフラワーパーク】にT原氏とともに到着しました。

 この夜からA香氏がクルーとして参加しました。

8月7日(水) 第4ステージ(北竜〜栗山 86.8kmスタート4:00制限時間20:30
 朝から霧雨のようです。初めて定刻にスタート。toえりも最長のコース、今日を無事越せばtoえりもも先が見えてきます。全員で2kmほどを歩き、ひまわり公園に行き、記念写真を撮りましたが夜が明けていないこともありひまわりの花も残念そうでした。

 霧雨が雨になり、ウインドブレーカーを着ると、今度は止み、そうこうしているうちに最後尾になっていました。T田氏、S木氏を追い越し、20km地点の石狩川橋でT原氏に追いつきS木氏の出番を2人して橋の中央で待ちました。S木氏は初日の挨拶の時から、石狩川橋で川に向かい三橋美智也の【石狩川エレジー】を歌うのが目的の一つと言っていたからです。観客はT原氏、T田氏に私の3人に過ぎませんでしたが、大変満足した様子でした。

 この後、滝川市の直線道路日本一29.2kmを突っ走り、途中、追いついてきたN村さんを含めて雨が降りしきる中、ゴールまで残るは5km。ここで道を右折するところで間違えて300mほど直進し、振り返るとY木氏、Y田さんが正規のコースを走り去っていくところでした。

 T原氏が「俺は彼らを追い越すぞ!」と叫んでいます。私も「しょうがないなあ。一緒に行くか。」と合いの手を入れますと、N村さんも「私も!」ということで、ここからゴールまでアップダウンや雨をもろともせずひた走りました。2人を追い抜いても足は止まらずゴールの【ラーメン龍角】まで一気に行きました。18時35分でした。
 
 龍角のお母さんが作ってくれたキムチラーメンは絶品でした。外のテントではT田氏、O氏らがビール片手にバーベーキュウの肉をつまみながら大満足のようでした。また、第1、第2ステージでクルーをされたF田氏が苫小牧から活きの良いホッキ貝を持って駆けつけてくれました。この刺身の甘いことといったら、もう絶句!

 今日の昼間からクルーにS井氏が加わり、一段と賑やかになりました。
 
8月8日(木) 第5ステージ(栗山〜富川 71.1kmスタート5:00制限時間18:00
 20q過ぎのコンビにまでA木氏と一緒に走りましたが、どういうわけかいつもくっついてくるT原氏の姿が全く見えません。29qのコンビニでA木氏と入れ違いになりましたが、この後、前にも後ろにも見えずゴールまで一人旅になってしまいました。

 47q付近で母娘連れが私のほうを見ています。手をあげて通り過ぎようとしますと、片手で持ちきれないほどの大きい真っ赤なトマトを頂きました。ちょうど疲れたころに完熟したトマトを頂けるなんて、本当に感激しました。降ったり止んだりしていた雨もいつの間にか止み、門別競馬場を過ぎ、ゴールの【ペンション中村亭】には15時25分に着きました。

 夕食はペンションのオーナーの好意で生ビールの飲み放題、バーベーキュー食べ放題の豪華版。ああ〜今日が終わりならば!と生ビールも控えめにジョッキー4杯で終わりにしましたが、特上の肉を何皿平らげたことか。この日も大満足で1日を終えました。

 あのI原氏はどうしたかって? 夕食時にビールも飲まずに後姿がやけに寂しそうでしたよ。ビールの飲みすぎで持病の痛風が出て、プリン体をたっぷり含むビールは天敵なのです。自業自得とはいえ、あの後姿は可哀想でしたね。しかし、美味いビールだったなあ。ウイ〜ッ。
8月9日(金) 第6ステージ(富川〜三石 73.0kmスタート5:00制限時間18:00
 スタートして7qほど走ると太平洋にぶつかります。今回は日本海、太平洋、オホーツク海と3つの海に出会うことができました。

 さて、後にtoそうや組から怪物とかバンパイア(この名は実は私がつけました)とか言われた石原氏ですが、ここにきてその片鱗を見せ始めました。スタート時から雨の中、A木氏、痛風持ちのI原氏と3人で一気に後続を引き離したものの、30q過ぎで突っ走るA木氏を追って3人とも道を間違えてしまいました。2qほど後戻りをして、正規のコースには誰もいないだろうと思っていますと、前方にY木氏がのんびり走っており、何をバタバタ遊んでいるの?と言う顔をして我々を見ていました。

 50q過ぎからA木氏が引き離しにかかり、これはジャニーランなのだから、もっとゆっくりいけないものかと思いながらも、I原氏がその後をピッタリ追いかけるものですから、途中までくっついて行きましたが、2人の後姿はやがて視界から消えてしまいました。彼らはゴールまで競争し、同時ににゴールしたそうです。

 私は7q手前のコンビニで翌朝の朝食を購入し、チンタラ走りで15時49分【三石温泉】にゴールしました。夕食には珍しい食材が出てきて、これまた満足しました。
 今日も降ったり止んだりの空模様でしたが、明日のtoえりもの最終日はどうなるのかなあ。
8月10日(土) 第7ステージ(三石〜襟裳岬 66.5kmスタート5:00制限時間17:00
 T原氏とは相前後しながらも、途中で結局一緒になり、雨の中「これで半分終わったね。」と話しながら襟裳岬に向かいました。ゴールの13km手前のコンビニで明日の朝食を用意し、パンなどを食べていますと、冷たい牛乳を飲んでいたT原氏が突然ガタガタと震えだしました。ずぶ濡れで冷たいものを飲んだものですから一気に寒さが襲ってきたようです。
 コンビニ袋を持ち、再び走り始めました。残り4km上り坂が続き、逆風と雨の中を走っていくと、やがて遠く岬の上で手を振る御園生氏の姿が見えました。石畳を駆け上がり14時
26分、【襟裳岬】にゴールしました。
 通算83時間32分、537km、私のトランスエゾ前半が終わりました。
 18時から【襟裳岬・風の館】でレセプションが開かれtoえりもtoそうや組が勢揃いし、toそうや組のゼッケン授与と全員の自己紹介の後、19時30分からは【えりも岬観光センター】に会場を移し、toえりもの打ち上げ懇親会が開かれ、一方ではお別れを、一方では明日からの期待と不安を胸に抱きながら和気あいあいの雰囲気の中、楽しい時間が過ぎていきました。toそうやの選手会長にはS藤氏が指名されました。
8月11日(日) 第8ステージ(襟裳岬〜忠類 82.1kmスタート5:00制限時間20:00
 昨夜は廊下でストーブが焚かれていましたが、今朝の襟裳岬は何ということか、激しい雨と風に皆震え上がっています。
toそうや組の40名弱は今日が初日なので元気がいい。同じ町田市に住むk沢さんとあのT原氏も私と一緒に走って行きます。

 10km地点の百人浜展望台を中心にした辺りは、NHKのプロジェクト]でも紹介されましたが、伐採等で荒れ果て、襟裳砂漠から流れ出る土砂により昆布の質も悪く漁民は困窮に喘いでいましたが、たった一人で始めた植林が砂漠を緑に変貌させ、海が蘇ることにより、良質の昆布が採れるようになりました。その植林は今では子から孫に引き継がれ、多くの人々とともに現在も続けられているそうです。
 黄金道路(開削に多額の費用を要したためこの名がつけられました)では、雨交じりの横風を受け難渋しましたが、37.5km地点では近藤重蔵の石碑の最後に嫌な名前を見つけました。そうです。あの鈴木宗男の名前がしっかり刻み込まれていたのです。

 45.8km地点のフンベ(アイヌ語で鯨)の滝は岩の間から水が噴出しているので、鯨の潮吹きからフンベの滝と名づけたのではないかと想像しましたがどうでしょうか。
 48km地点の広尾町ではtoえりも参加のM岡さんがわざわざ途中下車してトマトをいっぱい買って待っていてくれました。

 54km辺りから直線道路になった途端、T原氏がスピードアップし、k沢さん達を置いていき、先行するランナーを次々追い越し、残り1.5km彼は大阪のk子氏と競い合いながらゴールまで行ってしまいました。ビールを飲めない怒りが彼の体内に渦巻いているようです。

 16時26分道の駅【ナウマン温泉アルコ236】に到着しました。
8月12日(月) 第9ステージ(忠類〜新得 87.3kmスタート4:00制限時間19:30
 曇り空ですが久しぶりに雨の心配はしなくても良いようです。先頭グループが15km地点のコンビニに入っている間に追いつき、ついていこうとしましたが、右足裏に突然痛みが走り、走れなくなってしまいました。これはやばいなあと思い、座り込んでクリームを塗り、入念にマッサージをし、ゆっくり走りますと痛みが和らいだようです。30分も走っているうちに痛みはすっかり消えてしまいました。無理しないで手当ては早いほうが良いですね。

 28km地点で地元の農家の方のトマトの差し入れがありました。どうしてこんなに美味しいのでしょうか。
 30km地点はあの有名な幸福駅です。T原氏、Y木氏と3人で記念写真を撮りました。駅部分を除いてレールの廃線跡も畑に変わっており、田畑の中にポツンとある廃駅ですが、土産物屋がありますので今でも観光客が結構訪れるのでしょう。
 33km地点では【焼肉らむ亭】が牛乳とラムの焼肉を提供してくれました。Y木氏と2人でたっぷり頂きました。これでビールがあればさいこうなのですが、贅沢、贅沢。
 78km地点の分岐点、注意しないと少し分かりにくい所です。右にそのまま少し行った所が、会田さんが事故に遭われた場所です。同じトランスエゾに参加する者として、心からご冥福を祈ります。

 

 通算で700kmを越えゴールまで約6km、
Y木氏が来ているかなと後ろを振り向くと、黄色のシャツを着た別のランナーの姿が見えました。
 今までチンタラ走っていたのに、その姿に怯えるかのようにゴールまで走っていってしまいました。バカなボク。そのランナーは大阪のk子氏でした。
 Y木氏はゴール手前の温泉に入りゆっくりしたそうです。ゴールタイム17時28分。

 新得駅そばの銭湯に入り、コンビニで夕食と朝食を購入。今夜は【新得公民館】で寝袋を使って
の宿泊ですが、よく眠れると良いのですが...。
 宗谷岬を出て以来毎日3〜4時間の睡眠でよく体が持つものだと思います。

8月13日(火) 第10ステージ(新得〜富良野 75.6kmスタート5:00制限時間19:30
 明治の時代、6年にわたり大発生したことを記念したバッタ塚を過ぎ、延々と坂を上り霧で覆われた狩勝峠へ。今度は10kmの下り坂。
 37.5kmの幌舞駅は高倉健主演の【鉄道員(ぽっぽや)】で有名になったところです。さて、記念写真というと、不思議なことにアルティメイト仲間のT原、Y木、私の3人が大体顔を合わせるようになっているのです。

 Y木氏は別大にも出た経験を持つ大ベテランで、私がウルトラデビューした富士五湖80kmで霙降る中、悪戦苦闘している時に2位でゴール。翌年1位選手の辞退により招待選手になっていました。たまたまその時“ちっち”が女子で1位になりましたので、翌年の名簿に2人が写真付で載っていました。私?その時は“ちっち”にも抜かれましたよ。

 熊が出るとい西瓜峠、今年も6月に出没したとの看板が出ていました。前方にT葉氏の姿が見えますとバンパイアT原は牙をむきその後姿を追っていきました。
 60km手前で追いついてきたY木氏とどの道を行くべえかと暫く逡巡していました。ここは以前巨人軍団のN野氏が道を間違え1時間半も走った後、地元の方の車で戻ってきた場所でした。どうやら我々は正しい選択をしたようでした。
 国道に出て、後方から足音がするので振り返ると意外にもザ・ベロンベロンというふざけた名前のチーム(と言ってもメンバーは彼1人ですが)に所属するS藤T南氏で、2人で16時54分ゴールの【吉田旅館】に着きました。
8月14日(水) 第11ステージ(富良野〜旭川大学 68.1kmスタート5:00制限時間17:30
 距離が短いと気が楽になります。今日はk沢さんと宇土呂の小学校の先生N内氏との3人旅。あのT原氏は直線道路を見るとスピードアップし、前方に人影を見ると牙を剥いて追い駆ける習性を持っているので三行半を突きつけました 
 10kmから15kmほど上富良野の丘陵を走り、そこからの北海道の大地は延々と緑の広がりを見せ心洗われる景色が眼前にありました。27kmの新田農場では甘いスイカをご馳走になりました。

 やがて、35km過ぎからのパッチワークの丘を越え、旭川空港の横を通り、歩を進めていきますと似瀬古(ニセコ)ことT内氏に追いつきました。どうも彼の足にキレがありません。どうやら、コンビニをはしごし、ビールをたっぷり腹に入れてきたらしい。ところで、彼のことを何故ニセコというのか?それは彼に会えば一目瞭然です。

 60km地点では待望の男山酒造ですが、その門から1人フラフラと出て行くランナーがいます。ベトナム人が着用する帽子を被っていることから、k沢さんがベトコンと名付けたS木氏です。彼もまた試飲の酒を結構頂いたようです。我々は試飲の場所が結構混雑していたため、断腸の思いでその場を後にしました。16時28分k沢さん、T内氏と3人で【旭川大学】にゴールしました。

 夕食はやはり旭川ラーメンでしょう。御園生氏ご推薦の【よしの】で美味しく頂きました。体育館での寝袋を使用しての宿泊でしたが、若干1名の鼾が体育館中に響いていましたよ。
8月15日(木) 第12ステージ(旭川大学〜美深 90.0kmスタート3:30制限時間20:30
 今日明日と距離と90kmで最後の山場。S藤氏が士別市にある勤務先の前を通るということで、スタートから先頭に立ち13人が一段となって夜明け前の薄暗い国道を走っていきました。誰もがもうそろそろ左折するころと思ったときは少し通り過ぎていたようです。
 もう少し先で曲がっても距離は違わずチェックポイントには行けるからということで7人はそのまま進みましたが。後の6人は正規のルートに戻ったようです。

 第1チェックポイントを過ぎ、後続のランナーを待つべく歩いていますと7〜8分でk沢さん、N内氏等が追いついてきました。22km地点では三浦綾子の小説で涙したことある長野政雄殉職の碑がある塩狩峠です。 ここでk沢さん、N内氏がトイレタイムを取りましたので先に行きました。

 士別橋のたもとでS藤氏のご家族がエイドをされており、ここでも美味しいトマト、スイカを頂きました。
 62km地点で名古屋のk沢氏に追いつき、その後T井氏、H口氏に出会いましたが、あのT原氏がいません。どうやらコンビニに入り腹ごしらえをしているようです。
 65km過ぎに昨日無念のリタイアをしたアルティメイトのN村さんが歩いているのに出会い、彼女の昼食のお稲荷さんをH口氏と2人で貪り食ってしまいました。アルティメイト7人全員で宗谷岬のゴールテープを切りたかったのですが、彼女の持病のためとはいえ誠に残念な結果でした。

 73km地点でT井氏の奥様がエイドをされており、コーラでまた元気付けられました。79km地点のひまわり園でアイスクリームを食べていたらY木氏が追いついてきて記念撮影です。ここからゴールまで11kmk沢氏が先頭に走り始めましたが、国道に出てから直線道路を見るとT原氏が前に出て結局ゴールの【ゲストハウスぴぷか】まで併走しました。
16時52分でした。どうも彼とは縁が切れないなあ。(ハ〜ッ ため息)

8月16日(金) 第13ステージ(美深〜浜頓別 90.0kmスタート3:30制限時間20:30

 10kmのトイレに入っているうちに置いていかれてしまいました。トイレに入ってきたT井氏といろいろ話す機会ができ、11度目のギリシアのスパルタロンH口氏と参加するそうです。7連続失敗し、その後3連続完走ということで、奥様も一緒だというので凄い夫婦だなと思っていましたが、その後奥様にお聞きしたら毎回サポートでご一緒しているとのことですが、これもやはり凄い。

 42km地点の上音威子府跨線橋はまさに人家も何もない山の中。見渡す限り緑の尾根がどこまでも続いています。良くぞこのようなところに鉄道を作ったものだと感心させられました。
 いつの間にか、k沢さんとベトコンS木氏と走っていましたが、53km辺りで彼女が足が痛いので先に行ってくれと言いいますので、それじゃあT原氏に追いつくからということでスピードを上げました。

 S木氏と故障して苦しんでいるO石氏を追い抜き、暫くすると500m前方にT井氏らしい人影が。丁度、中頓別の長田牧場を出るところでした。ここの牧場の歓待振りがまた尋常ではなく、1個数百キロもある干し草の巻物を4段に重ねた数十個にスプレーで文字書きをして歓迎のディスプレイをしていました。手作りのアイスクリームがまた絶品で、しかも、牛の形をした切手付葉書まで用意し、自宅の家族に出せばとプレゼントしてくれました。
 こんなに歓待してくれるのにその場をすぐ立つわけにも行きませんでしたが、結局30分ほどお邪魔し、追いついてきたS木氏とそこを後にしました。

 すると1kmも進まないうちに今度はT井氏の奥様が待っておられ、カップ麺と1杯のビールの美味しかったことは筆舌に尽くしがたいほどでした。S木氏はこのビールが呼び水となり、自動販売機の方へフラフラと吸い寄せられていきました。酔っ払いはほっといて74km地点に達しますと、M内氏が自転車で気持ちよさそうに走ってきました。自転車で2千円で購入したそうですが、ウ〜ムいろいろ考えるなあ。

 しばらくすると今度はH江氏とO田氏がレンタカーで応援に来てくれました。今日はなぜか走る気持ちが失せる日だなと思いながら、そこに座り込み雑談に興じていましたら、S木氏とK沢さんが現れました。H江氏は北海道に早めに到着し、練習をしていて足を挫き3日目からボランティアに回っています。(練習はホドホドに!)
 最後の5kmほどになり、足が痛いといいながらもK沢さんが飛ばし、酔っ払っているS木氏を置き去りにして
18時16分ゴールの【民宿雄飛】に到着しました。

 この夜のミーティングの最中、選手会長のS藤氏が突然倒れ、救急車で運ばれる騒ぎになりましたが、貧血で大事には至りませんでした。翌日の最終日には元気で走っていました。
 

8月17日(土) 第14ステージ(浜頓別〜宗谷岬 60.7kmスタート5:00制限時間16:30

 長いと思っていても今日が最終日。最後の日をゆっくり楽しみたいと思っていました。4〜5kmも続く砂利道の松林を抜けると、今度は10km以上も続く真っ直ぐな牧草の中の道。そして、オホーツクの海にぶつかるとその砂浜を2kmほど砂に足を取られながらも潮騒と波風を受けて走っていきます。
 自然と人間が一体になったような感覚を受けます。


 
35km辺りから1人になり、オホーツクからの潮風が心地よく体全体を慰撫してくれるようです。45Kmからは山の中に入り、すれ違うツーリングの連中と交歓し、うねうねと下る坂道に身を委ねていますと、いきなり右前方にオホーツクの海が現れました。

 その時、全く予想もしていなかった衝動が体の奥から突き上げてきました。そんな馬鹿なと思いながらも目がウルルン状態になり、思わず「戻ってきたぞ!」と叫んでいました。
 最後の坂を上り、カーブを右に曲がりゴールまで1km余り、両側に広がる緑の牧草地の間の道は私のウィニングロード。前方でA香氏がカメラを構えて待っています。
 
 感動を抑えながら、どうってことないですよという仕草で左手を軽く上げ、彼の横を静かに通り過ぎて行きます。
 岬への急坂を下り、信号が青になるのを待ち、ゆっくりと間宮林蔵の像の前を通り、日本最北端のモニュメントを半周し、自転車で日本縦断をしてきたという待ち構える数人の歓呼と彼らとタッチを交わしながらゴールへ。13時16分でした。

 御園生氏と抱き合い、何か声を発せば泣き出すのではないかと恐れ無言で椅子に座りました。
 一つため息をつき、そして、次の瞬間、腕で顔を覆ってしまいました。たかが遊びの世界で感動なんてと思っていましたが、私は間違いなく感動の中にいました。

 その後、ゴールしてくるランナーを迎えていますと、足を引きずりながら、そして、泣きながら、それぞれが感動の中をゴールしてきました。私も彼らのゴールが大変嬉しく彼らからも感動をもらい、この喜びと感動を分かち合える幸せを強く感じていました。 
 最後に
 2002年8月4日(日)午前5時に始まり、8月17日(土)午後13時16分、toえりも通算83時間32分537km、toそうや通算84時間40分553.8km、toえりもtoそうや通算168時間12分、1090.8km。
 私のトランスエゾは感動を持って終わりました。
 なお、帰宅直後に測ったところ、体重は63kgから60kgと3kg減、体脂肪は18%から9%に半減、ウェストは82cmから78cmと4cm減と、相当脂肪を燃焼しながら頑張ったのだと思います。
 その後の自宅での2週間、運動を控え散歩程度で休養と栄養補給に勤めた結果、疲労感はなくなり体重は61kg、体脂肪は15%、ウェストは変わらずと回復してきました。
 今回のトランスエゾに参加して、社会的門題についても考えさせられるものがありました。コンビニの乳製品を見るとSnow Brandが圧倒的シェアを占めており、他社製品を見つけ出すのに苦労するほどでした。これらの商品群を見ていると、その背景にある生産者のやりきれなさを感じ、消費者の嗜好を追及し、消費者の健康と安全を守るという基本的な社会的使命を忘れた企業経営者の傲慢と無能さに怒りを感じぜざるを得ませんでした。

 また、壊れたサイロや廃屋を見るにつけ、また、お世話になった中頓別の長田牧場のご主人が「来年は歓迎できるかどうか分からないよ。もういないかもしれないから。」の言葉にあるように、BSE問題に代表される国の農業政策、酪農政策の無策ぶりには怒りを通り越し、ただ情けなくなるばかりです。

 しかし、長丁場の中で嬉しいことが沢山ありました。トマトを差し入れてくれた母娘、応援をしてくれた農家の方々、らむ亭の皆様、龍角のお母さんと息子さん、ペンションのオーナー、牧場の方々、多くの地元の方々、そして2日間クルーをされビールを私に何缶も提供してくれたF田氏、エイドをされた札幌のM村氏、S藤氏とご家族、T井氏の奥様、故障のため殆ど走れずボランティアに回ったH江氏、toそうやに自転車参加され折々に励ましてくれたY野さん、、トランスエゾの感動は皆様のお陰ですし皆様のものでもあります。
 
そして、ミーティングの途中皆に話しかける途中2度も泣いてしまったS井氏、訥々と丁寧に語りかけ配慮を怠らないA香氏、自己の感情を抑えながら情熱を持って行動する呼掛け人の御園生氏。

 お陰さまで事故なく故障なく心底楽しませて頂き感動まで頂きました。

 ありがとうございました。

この完走記【2002トランスエゾからの贈り物】は【観覧舎】2002年12月
  20日発行の【観覧舎マガジン7号】に掲載されたものを一部手直しした
  ものです。

トランスエゾのコース地図は【のうみそジャーニーランサークル】の
  ホームページから借用したものです。