全国各地で国立・私立銀行が誕生する
金融ベンチャー時代の始まり
 明治時代は銀行の設立ラッシュであった。「ベンチャービジネス」という言葉は最近使われるようになったので、 新しい企業ができて産業構造が大きく変わったり、あるいは新しい企業のリーダーが生まれたり、新規企業立ち上げにチャレンジするのは現代の特徴であつかのように錯覚してしまう。 ところが、明治時代の銀行制度を調べてみると、明治時代こそベンチャービジネスの時代であったと思うようになる。全国各地で銀行・銀行類似会社が設立された。今週はこうした銀行設立ラッシュを扱う。
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<私立銀行の認可> 前述の為替会社の失敗は、銀行についての一般の関心と認識を深め、その後、銀行設立の出願が相次ぐようになった。 政府はこれに対し、法律と公益に反しない限りその営業を認めてきたが、「国立銀行条例」によって「銀行」の呼称が許されなかったので、それぞれ独自の名称を用い、一般に銀行類似会社と呼ばれた。 そのなかには、後に都市銀行に発展した三井組や安田焦点などのように、経営規模の大きいものもあったが、大部分が中小規模であった。 秋田県では秋田改良社と五業会社がこれに該当する。
 明治9年の「国立銀行条例」改正により、銀行類似会社も銀行の呼称を用いることができるようになり、同年7月三井組が三井銀行と改称した。これが「銀行」を称する私立銀行の始まりであった。その後、インフレの影響や国立銀行の設立禁止などにより、明治12年以降、私立銀行は急激にその数を増やし、15年にはには170行を超えるほどになった。 (『秋田銀行百年史』から)
<庶民の間に広がる貨幣経済> 政府は、明治16年に国立銀行条例を改正し、国立銀行の紙幣発行を停止するとともに、銀行券の消却を指示した。そして、紙幣の回収消却、正貨の蓄積が功を奏するのを見定めたうえで、17年5月に兌換銀行券条例を公布し、翌年5月日本銀行による銀本位制の兌換銀行券発行に踏み切った。なお、金本位制の移行は30年であった。
 こうして、貨幣制度、銀行制度が確立されていったが、庶民の貯蓄や金融はただちにこれに呼応するという状況ではなかった。
 しかし、封建制度を支えていた諸制度が改廃され、とくに@租税物納が廃止され金納になったこと、A生糸等輸出花形商品の盛況により換金農産物が増えたこと、B科学肥料など販売肥料を使用するようになったこと、などから農村にも貨幣経済が急速に浸透するようになった。 一方、都市住民の日常生活に貨幣は欠かせないものであったが、産業の近代化が進み賃金労働者が生まれるに及んで、庶民生活における貨幣経済は一段と活発になった。 (『信用金庫50年の歴史』から)
<銀行条例の精神> わが国の普通銀行は資本主義の急速な発展を促進する手段として、政府によって輸入・移植された。すなわち、明治2年政府は「各国バンク法に倣ひて金銀融通自在ならしむる」ために、為替会社(バンクの訳語)を設立した。 為替会社は「銀行の性質を具え紙幣発行の特権を有する金融機関」であったが、明治2年5月からわずか3年近く存在したのみで解散のやむなきにいたった。そこで、アメリカの国法銀行制度にならって、「一は不兌換紙幣の銷却、 他は一般金融の疎通という極めて都合のよい一石二鳥の高価を期待」して、政府は明治5年11月「国立銀行条例」(明治5年11月15日太政官布告第349号)を制定して、銀行紙幣発行の特権を有するほか普通銀行業務をも営む国立銀行を設立することとした。 本条例によって国立銀行設立の途が開かれたにもかかわらず、私立銀行の「設立を請願するもの年を遂ふて増加し其数殆ど一百」にのぼった。当時これを取り締まり監督する法規がなかったので、政府は社則を調査のうえ、公益を害しないかぎり「願意聞届」けて許可することとした。 こうした許可が公衆に会社を盲信せしめることをおそれた政府は、明治7年4月以降「追て一般の会社条例制定相成候迄人民相対に任せ」ることとした。 (『日本の銀行制度確立史』から)
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<明治初期における長野県の産業・金融情勢> 長野県(信濃国=信州)は、日本の屋根と言われる山岳県で、平野部は狭小、総面積は岩手、福島についで広大であるが、農家1戸当たりの耕地面積は善行平均を大きく下回る。しかも、気候は内陸型で寒暑の差が大きく、年間の3分の1は農耕が不能である。 このような自然条件の制約により、稲作だけに頼る農業経営は困難であった。そこで、江戸時代から副業として、傾斜地あるいは河川敷を利用して畑作物が工夫された。ことに養蚕は、最も風土に適した換金作物として信州全体に普及し、江戸末期には稲作に次ぐ重要産業となった。
 養蚕関連産業としての蚕種業も歴史が古く、上田周辺の蚕種生産は、天保期(1830〜44)までに独自の地位を築くまでに成長した。
 また、このような自然環境は、早くから加工生産への関心を高め、酒、味噌、綿織物などのほか、生糸の生産も多かった。
このような素地があったので、安政6年(1859)の横浜開港によって信州の蚕糸業は大きな刺激を受け、これから急速な発展を促されることになった。開国後、生糸が日本の輸出産業として登場し、明治政府も外貨獲得のため大いに奨励したそで、製糸業はにわかに拡大発展を遂げ、生糸は、明治から昭和初期に至るまで、わが国の最も重要な輸出商品となった。 そのなかにあって信州生糸は輸出向けに生産が急増し、明治22年には長野県は諏訪地方を中心にして全国一の生産県の座を占め、製糸王国と称されるほどの発展を示したのである。
 産業の発達と金融業の発達とは形影相伴うが、明治期に長野県内に設立された銀行は、多かれ少なかれ蚕糸業と関連があったとみられるのである。 (『八十二銀行50年史』から)
維新後の県内金融事情 明治初期、長野県の産業金融のうえに、まず、大きな足跡を残したのは小野組である。小野組は京都を本拠とし、幕府の御用為替方十人組の1つであったが、維新後、新政府の為替方(当時官庁の出納機関を「為替方」と称した)となり、国庫金を無担保、無利子で預かり、それを運用して、三井組、島田組と共に巨大な金融商となった。 さらに小野組は、1府28県の為替方も務め、巨額の資金を擁して、生糸・米穀の取引に手を広げ、また、鉱山業や製糸業にも進出した。 長野県内には明治5年ごろから進出し、長野、松本、上田に支店を設け、長野・筑摩両県の為替方(のちの県金庫にあたる)を務めた。そして明治5年8月、諏訪郡に管内最初の器械製糸場となった深山田(みやまだ)製糸所を建設したのをはじめ、高井、筑摩、伊那、小県の各郡に器械製糸所を次々と建設し、あるいは、地元製糸業者に資金を貸し付け、経営の指導を行い、 また、製糸商に荷為替取組を扱うなど、金融、技術導入の両面において長野県製糸業の発達に大きく貢献した。
 ところが、明治7年10月、政府は為替方規則を改正し、公金預かり高に対する担保差入れ額を、それまでの3分の1から全額とするよう命じたが、規則の改正が急だったため小野組は増担保を間に合わせることができず、翌11月、閉店に追い込まれた。 そのため、同組の資金に頼っていた県内製糸業者は窮地に陥り、「小児ノ母ニ離レシ如ク資金方法相立難ク」休業するものが続出した。 当時は輸出生糸の生産意欲が高まってきた情勢下で、資金蓄積の乏しい地方製糸家では、同組の資金に専ら依存するものが多かったのである。 (『八十二銀行50年史』から)
<新潟県の銀行設立ブーム> 明治25年末に34社を数えた県内の銀行類似会社は、銀行条例施行後、25社が普通銀行に転換し、他業種へ転換したもの3社、解散その他6社となり、26年以降、統計面から姿を消した。 一方、26年7月以降28年までに5行(上能生金融会社、秋成合資会社、小出荷為替合資会社、雷土銀行、三島農商銀行)の普通銀行が新設され、 28年6月には県内貯蓄銀行の嚆矢となった直江津積塵銀行、同年9月には新潟貯蓄銀行が新設されて、28年末の県内銀行数は、国立銀行5行、普通銀行32行、貯蓄銀行2行、敬9行に達した。
 日清戦争ご、景気が回復し企業熱が勃興したため、銀行の業績は好転し、再び銀行の設立が増加して34年末には1,867行を数えた。この間、国立銀行のうち122行が普通銀行に転換した。 また、特殊銀行も相次いで設立され(明治30年日本勧業銀行、31年農工銀行、33年北海道拓殖銀行、35年日本興業銀行)、30年の金本位制採用と相まって、わが国の貨幣金融制度はいちだんと整備された。
 県内においても、日清戦争後の好況と企業熱の勃興、油田開発、北越鉄道の開通を背景として、29年以降、銀行の設立ブームが続いた。すなわち、29年に11行(普通銀行9行<うち国立銀行からの転換1行>、 貯蓄2行)、30年に18行(普通13行、貯蓄5行)、31年に12行(普通9行<うち国立銀行かえあの転換4行>、貯蓄3行)、32年に7行(普通5行、特殊1行、貯蓄1行)、33年には13行(普通10行<うち貯蓄銀行からの転換1行>、貯蓄3行)が新設され、 33年末の銀行数は91行(普通75行、特殊1行、貯蓄15行)に激増した。 (北越銀行『創業百年史』から)
<県内国立銀行設立状況>
銀行名 本店所在地 開業免状下付日 明治 開業日   明治 資本金 万円
第四国立銀行 新潟  6.12.24  7. 3. 1 20
第六十九国立銀行 長岡 11.11. 2 11.12.20 10
第七十一国立銀行 村上 11.10. 7 11.11.15
第百六国立銀行 新発田 11.12.10 12. 2. 5
第百三十九国立銀行 高田 12. 2.26 12. 7. 3 10
(北越銀行『創業百年史』から)
<愛媛県の国立銀行> 愛媛県での最初の国立銀行は、明治11年1月、旧宇和島藩内の西宇和郡川之石浦(現・保内町)に設立された第29国立銀行である。 設立の動きは、第2代大蔵卿となった旧宇和島藩主伊達宗城(むねなり)が、10年7月、第20国立銀行(資本金25万円)を東京に設立したことにより、旧宇和島藩と第20国立銀行が密接な関係にあったところから、第20国立銀行の今岡好謙、宇都宮綱條が、宗城の命を受けて川之石の矢野小十郎を訪れ軍功設立を勧めたことに始まったものである。(中略)
 第29国立銀行の設立が計画されていた頃、松山でも同じ動きがみられた。旧松山藩の旧士族加藤彰(あきら)は、国立銀行設立の志をもって東京から松山に来たが、たまたま同郷の旧士族伊藤奚疑(けいぎ)も同様の計画を持っていることを知った。 両名は、相携えて士族仲間に同志を募ると共に、資金の獲得のため旧松山藩主久松家に株主となることを懇願するなど奔走したが、なかなか思惑通りには進まなかった。 こうしたなかで、当時の岩村高俊愛媛県権令は、加藤らに対し「士族は理屈は言っても資力乏しく商売も下手ならん。商人は熟練はあれども規則の事などは不得手なり。依ってこれを合併せば宜しからん」として、当時県下で最大規模を誇っていた興産会社(銀行類似会社)と共同出資して国立銀行を設立するよう話を持ちかけた。 しかし、商人との協調を潔しとしない士族間の反対が強く、この計画は挫折し、結局士族だけで計画を進めることになった。
 明治10年12月8日、東京在住の池内久親と小林信近、加藤彰、伊藤奚疑、奥平貞幹(さだとも)の旧松山藩士族5人および永木甚五平は、金禄公債の出資により資本金を7万円とする国立銀行の設立を大蔵省に請願した。 大蔵省は11年2月7日に第五十二国立言行として設立を認可、同年9月14日に開業免許を下付、9月25日に開業の運びとなった。四国では4番目に国立銀行である。(中略)
 愛媛県南予に第29国立銀行、中予に第52国立銀行が設立されたのに続いて、明治12年には東予にも四国における9番目の国立銀行として第141国立銀行が誕生した。
<四国地方の国立銀行>
銀 行 名 所 在 地 免許下付年月日 資本金・円 発行紙幣・円 頭 取 名
第七国立銀行 高知県土佐郡種崎町184番地 10. 2.20 100,000 80,000 由比直枝
第二十九国立銀行 愛媛県西宇和郡川之石浦 11. 1.29 100,000 80,000 清水一朗
第三十七国立銀行 高知県土佐郡本丁56番地 11.10.17 150,000 120,000 三浦萬衛
第五十二国立銀行 愛媛県温泉郡紙屋町 11. 9.14 70,000 56,000 小林信近
第八十国立銀行 高知県土佐郡下知村農民町11番邸 11.10. 8 100,000 80,000 西野友保
第百十四国立銀行 高知県下讃岐国香川郡高松丸亀町22番邸 11.10. 7 50,000 40,000 松本貫四郎
第百二十七国立銀行 愛媛県下讃岐国那珂郡丸亀通町18番邸 11.12.17 150,000 120,000 岩崎長武
第百四十一国立銀行 愛媛県新居東町 12. 4.12 50,000 40,000 木村幾久太郎
(『伊予銀行五十年史』から)
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<前身銀行の概要=北越銀行> 当行の前身である六十九銀行と長岡銀行は、大正11年から昭和9年にかけて、13行に及ぶ諸銀行を合併あるいは買収した。 そして、両銀行合併後も昭和18年12月には長岡貯蓄銀行を合併し、軽視規模の拡大を実現していった。
 これら被合併銀行における設立の事情は、それぞれ別々であったが、20〜30年の歴史を有し、その所在する地域の金融を担当しつつ地場産業・地域産業の開発・発展に貢献していた。 そして、これら被合併銀行が築き上げてきた業績を当行は受け継ぎ、地域社会とより密接な結び付きを保ちつつ、地元の一員として深く根をおろし、今日に至っている。
<合併銀行一覧> (金額単位:千円)
銀行名 本店所在地 設立年月日 資本金 払込資本金 合併年月日 備 考
東京栄銀行 東京市京橋区 M.42. 9.12 1,000 750 T.11. 1. 1 長岡銀行と合併
見附銀行 南蒲原郡見附町 14. 2. 6 1,000 550 11.11. 1 長岡銀行と合併
越見銀行 南蒲原郡見附町 31. 5. 7 500 450 12.12. 1 六十九銀行と合併
脇野町銀行 三島郡脇野町村 28.12. 9 300 200 S. 2. 4. 1 六十九銀行と合併
六日町銀行 南魚沼郡六日町 31. 2. 1 500 500 2.10. 1 六十九銀行と合併
寺泊銀行 三島郡寺泊町 29. 8.31 1,100 875 4. 4. 1 六十九銀行と合併
(地蔵堂銀行) 西蒲原郡地蔵堂町 14.10. 6 500 425 (T.15. 1.24) 寺泊銀行と新立合併
長岡商業銀行 長岡市表町 T. 7. 2.26 1,200 825 S. 4. 4. 1 六十九銀行と合併
関原銀行 三島郡関原村 M.31. 9.27 100 100 6.12. 1 六十九銀行と合併
今井銀行 西蒲原郡吉田町 33. 2.24 500 125 7. 1.26 六十九銀行と合併
小出銀行 北魚沼郡小出町 16. 8.24 560 490 8.12. 9 六十九銀行と合併
(雷土銀行) 南魚沼郡東村 28. 1.25 150 131 (S. 3. 6. 1) 小出銀行と合併
十日町銀行 中魚沼郡十日町 33. 1.22 1,800 1,200 9. 4. 1 六十九銀行と合併
(水沢銀行) 中魚沼郡水沢村 14. 7.25 200 200 (S. 2. 4. 1) 十日町銀行と合併
神谷銀行 三島郡来迎寺村 T. 5.10.25 500 250 9. 4. 1 六十九銀行と合併
栃尾銀行 古志郡栃尾町 M.16. 5. 1 1,000 1,000 9.11. 1 六十九銀行と合併
長岡貯蓄銀行 長岡市坂ノ上町 T.10.11.10 1,000 250 18.12.31 長岡六十九銀行と合併
( 北越銀行『120年のあゆみ』から)
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<午後8時まで営業の「昼夜銀行」> 浅野昼夜銀行の沿革は、明治31年9月、神奈川県足柄下郡吉浜村に資本金10万円をもって設立された吉浜銀行に始まる。同行は、小田原支店と湯ヶ原出張所を有する地方小銀行として推移してきたが、大正2年3月、債券債務の一切と2店舗を駿河銀行に譲渡し、東京市京橋区に移転して日東銀行と改称のうえ再発足することとなった。 この間の事情は明らかでないが、同年5月には経営者が交替し第五銀行と改称し、6月から普通、貯蓄両業務兼営のもとに営業を開始した。 その後、同行の専務取締役橋本梅太郎は知己の浅野総一郎に経営援助を求め、4年4月浅野総一郎が役員に就任したが、翌5年4月に資本金100万円に増加する際に、浅野総一郎が経営の実験を握り、行名を日本昼夜銀行と改称、翌5月、浅野総一郎の女婿白石元治郎が頭取に就任、以後は浅野系銀行として経営されることになった。
 当時、浅野総一郎は別に貯蓄、普通両業務兼営の日本昼夜貯蓄銀行(明治16年神奈川に設立の相陽銀行が大正元年11月東京に移転し商号変更、大正2年白石元次郎が社長就任)を経営していたが、5年10月両行の普通、貯蓄両業務をそれぞれ相互に移譲し、日本昼夜銀行は行名が示す昼夜営業制(営業時間午前9時〜午後8時)の普通銀行として発足した。 この昼夜営業の構想は、米国フィラデルフィア市におけるハリマン夫人が創始した "Through Night's Bank" を範としたもので、前記の日本昼夜貯蓄銀行がまず採用し、普通銀行としては日本昼夜銀行が本邦最初の試みとして採用した。6年9月に資本金を500万円に増加、翌7年3月には浅野昼夜銀行と改称(同時に傍系の日本昼夜貯蓄銀行も浅野昼夜銀行と改称、大正11年8月安田貯蓄銀行に合併)し、 本店を京橋区尾張町から日本橋区通1丁目に移転、越えて9年1月には1,000万円に増資して浅野総一郎自ら頭取に就任した。 (『富士銀行百年史』から)
 その後経営不振に陥り、大正11年8月に安田善四郎が頭取になり、安田系の銀行として、行名を日本昼夜銀行と改め再出発した。大正15年12月に本店を京橋区西紺屋町(現数寄屋橋支店の所在地)に移した。
 安田系となった日本昼夜銀行の特色は、その名称が示すように夜間営業にあり、都市の中小商工業を主たる取引基盤に発展してきた。昭和17年6月に第三十六銀行と武陽銀行(昭和2年に東京府下の青梅、青梅商業、多摩農業、多摩、氷川、羽村、成木の7銀行が合同した銀行で、その後、東京殖産銀行、調布銀行、田無銀行等の東京府下の小銀行を買収した)の営業を譲り受けた。 こうして東京府下などに営業地盤を拡大し昭和18年3月末の預金は6億5,200万円に達した。これは同時点の安田銀行の預金34億1,000万円の2割に相当する。
 昭和17年12月28日、第一銀行と三井銀行、三菱銀行と第百銀行の合併が発表された。合併にあたっての声明書では、「従来の伝統に泥(なず)まず金融機関整備の国策に順応し普通銀行の使命を達成するため新発足」(第一、三井両行)および「金融の円滑なる運営に資するため、こゝに両行は合併し純然たる国家公共の機関として新たなる発足」(三菱、第百両行)と述べられている。
 当行でもこれら4行の動きに対応して、まず同系の日本昼夜銀行との合併を行うことにし、12月31日の重役会で決定した。合併は、当行が日本昼夜銀行を吸収合併する形式をとり、条件としては、当行が1,000万円増資(増資後資本金1億6,000万円)として日本貯蓄銀行の株主に1対1の割合で同額払込の当行株式を交付することとした。 また、日本昼夜銀行の店舗はそのまま当行が継承し、行員も原則として全員新規採用の形式で当行が引き継ぐこととした。 合併契約は18年1月14日調印され、同月30日開催の定時株主総会で合併ならびに資本増加を可決、当局の認可を得て、4月1日合併を実行した。
 日本昼夜銀行系営業店の夜間営業については、合併後暫定的に従来どおり継続されたが、その間存廃の検討が行われた。当行との合併前から同行内には夜間営業の存続について議論があった。 毎日、午前9時から午後8時まで営業するためには、2部交代制が必要であったが、戦時下、人手不足から2部制の維持が困難になったのである。しかし、18年2月の実態調査では、午後4時以降の取扱量はかんりあり、一挙に夜間営業を廃止することは顧客サービス上問題があった。 そこで、1部制の前提で6時まで営業する方針を立て、大蔵省の承認を得て、18年8月23日から変更した。しかし、その後、空襲に備えた灯火管制下で6時までの営業も困難になり、一方、顧客の夜間営業に対する需要も減少したので、同年12月1日から一般店なみの午後4時(18年1月から銀行の平日営業時限は午後4時)までに短縮した。 (『富士銀行百年史』から)
 東京都文京区千駄木にある、「みずほ銀行動坂支店」も以前は日本昼夜銀行の支店であった。昭和18年4月から安田銀行になり戦後の昭和21年3月から24年5月までは田中勝が支店長を務めた。
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<横浜正金銀行創立の事情> 横濱正金銀行の創業は明治13年(1880)2月28日のことであった。設立の当初は特別の条例によらず、アメリカの制度にならって公布されていた国立銀行条例(明治9年改正)に準拠し、資本金300万円をもって横浜に発足した(横濱正金銀行条例が発布されたのは明治20年7月)。
 当時の貿易は、輸出は生糸、茶、そして輸入は諸官庁のいわゆる「御用品」たる機械その他の設備品を主とし、合計わずか5,000〜6,000万円程度で、累年入超(明治1〜14年、第1次入超時代)であった。 取引は邦商と外国商館の間に銀貨で行われ、外国銀行の介在を待つもかなく、邦商の不便は少なくなかった。その上、銀紙の差価に悩まされたこれら邦商に対して正金による堅実な金融の途を開き、取引の円滑と貿易の増進を促すことが本行設立の目的であり、その名も「正金銀行」とした。
 その設立の背後には福沢諭吉と大隈重信卿の援助があった。また、当時の状況下では、政府の援助と監督なくしては到底経営し得るものではなかった。 まず、資本金の3分の1に当たる100万円は「御差加金」すなわち、政府出資を受け、監督のため管理官が任命された。さらに政府預金を資金として「御用外国荷為替」に対する融通を委託されるなど、輸出奨励・現貨吸収の線に沿って発足した。 (『横浜正金銀行全史』第1巻から)
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<十二銀行史> 當銀行の起源は、前身たる第百二十三國立銀行に初まるものにして、同行は明治九年八月発布の改正国立銀行條例に基き、同十二年二月資本金僅に八萬円を以て、當富山に於て設立さらる。 偶々金澤の第十二國立銀行と合同増資の議起り、同十七年一月合同成立して、名称は第十二國立銀行を存続し、本店を富山と致し支店を金澤に置くことゝなれり。 而して其営業満期即ち明治三十年に至り、営業満期國立銀行処分法により、株式会社十に銀行として之を継承し、同年十月其目的を以て設立さられたる株式会社北陸商業銀行を合併して、二百萬圓に増資し、爾来数次の増資により一千萬圓となりしが、 昭和二年七月は恰も第十二國立銀行創立満五十周年に相當し、其機會に於て更に資本金を倍額の二千萬圓に増資せり。
 次で昭和三年三月富山商業銀行を合併して、現在の資本金二千萬圓となり、同年八月には福井の第九十一銀行を合併して、同縣内に支店を増設し、進んで昭和十二年二月以降満四ヶ月間に、本縣に於ける滑川、井波、神澤、荻生、坂海、魚津、第四十七、水橋の八銀行を合併して、 業績は時勢の進展と共に長足の進歩をなし、営業地域は東京、大阪、北陸三縣及北海道に亘り、営業所実に九十六箇所、預金総額二億八千萬圓を算するの盛況を呈し、地方銀行の雄として、一途金融報國に精進するに至れり。 往時を回想し真に隔世の感なき能はず。
 今や皇國振古未曾有の國難に際會し、國家の要請に応へ、本縣下高岡、中越、富山の三銀行と共に、北陸銀行を新設して、渾然一体益々報國に邁進する気運に到達し、當行は昭和十八年七月三十日を以て、其使命を全ふし発展的解散をなすことゝなれり。
 抑も當行今日の隆昌を見るに至れるは、其間固より行路坦々たる能はず、財界の変遷に伴ひ、幾多の屈曲を凌ぎ、風雪に堪へ、凡ゆる経験を積み来たりし結果にして、履み来れる既往六十有七年の跡は、是れ皆先人努力の歴史なり。 (『十二銀行史』から)(T注 初代顧問には安田善次郎が就任している)
<十七銀行六十年史> 第十七國立銀行は、明治維新後廃藩置縣に際し、政府より舊藩士に交付された秩禄、金禄公債の保護管理のため、政府の慫慂に依り、舊藩主黒田家を中心とし、黒田一雄外十四名の発起に依り、當時藩士の受けた秩禄、金禄公債の大部分を資本化し、併せて地方商工業者の金融機関たる使命を達成すべく創立されたものである。 その當初の資本金は十一萬五千圓で、明治十年九月二十二日を以て開業免状を下附さられ、同年十一月十一日、福岡縣下第一第区一小区福岡橋口町八十六番地に於いて業務を開始した。 即ち國立銀行として九州に於いて第一番目、全国を通じて第十五番目の免許で、熊本第九國立銀行に先だつこと一ヶ月、東京第十五國立銀行に先だつぃこと五日である。 (『十七銀行六十年史』から)
<第八十五銀行史> 當行創立は、前編に記した通り明治新政府の諸政その緒についてばかりの時であり、國内にても西南戦争などのあったあとでもあった。従って経済界も全く揺籃期といふべき折柄であったが、着々内外の諸準備を整え、川越町百七十七番地に小さな営業所を作り明治十一年十二月十七日に開業の運びとなった。 何分第一期は開店匆々のことであり、期末まで僅か十数日に過ぎないので決算を省略して翌十二年に入ったが遂日業務は増加する一方三月には政府から國立銀行紙幣の下附があった。 この額は拾六萬圓で内訳壱圓券四萬八千圓五圓券拾壱萬弐千圓で三月十四日から一般民間に発行流通させ、四月七日迄には全部の発行を終わり期末迄一枚も引替交換を申出るものがなかった。
 而して開業以来六月三十日に至る営業日数は百六拾壱日であって、この間の入金総額は七十八萬六千二百余圓、出金額七十三萬六千余圓一日受払額は九千四百余圓に過ぎなかったが、 貸付金は二十五萬六千圓に達し内返金高十三萬千八百圓、差引十二萬四千余圓の期末残高があり、決算純益一萬三千三百六十六圓を計上約壱割弐分の初配當をすることが出来た。 (『第八十五銀行史』から)
<南都銀ができるまで> 昭和9年6月1日、奈良県下にあった六十八、吉野、八木、御所の4銀行が合併して南都銀行が設立された。 この4銀行のうち御所銀行以外の3行は、多くの銀行を合同しながら企業規模を拡大し、合併に参加した。
 六十八銀行は、奈良、高田、玉水、松田の各銀行を手中にした産業銀行(郡山銀行改称)をはじめ、丹波市、西和、四十三の各銀行を、吸収合併、営業権譲受、店舗買収など何らかの形で合同してきた。 吉野銀行も、大和(やまと=松山共立、松山銀行改称)、吉野材木、吉野小川、畝傍、榛原、山中、島本の7銀行を、その系譜に数えることができる。 八木銀行は、田原本、桜井、樫根、中和の4銀行を次々と買収してきた。
 このように、南都銀行が設立されるまでには23に及ぶ銀行の合同劇が繰返されてきたわけである。
 これらの南都銀行の前身銀行23行の中には、県外に本店を置く銀行や個人銀行もあった。玉水銀行、島本銀行は京都府の銀行であり、四十三銀行は和歌山市に本店があった。 初期の島本銀行や山中銀行、樫根銀行、松田銀行はいわゆる個人銀行で、中には合名会社や合資会社組織のところもあった。これらの前身のほとんどは、明治26年から33、4年にかけて設立されたが、ただ、六十八銀行と四十三銀行は、いずれも、明治11,2年に誕生した第六十八国立銀行、第四十三国立銀行を、それぞれの前身としている。 しかし、このうち四十三銀行は、昭和5年に6つの銀行に分割買収されたため、正統派の歴史をもつ前身銀行としては、六十八銀行が最も古いことになる。
 明治12年1月11日、大和郡山で第六十八国立銀行が開業した。南都銀行の前史は、まさにここから始まるわけである。昭和9年6月までの約半世紀の間に、前身銀行23銀行が、日本経済の流れの中で、浮き沈みしながら、徐々に減少し、最後まで残った4銀行が南都銀行1行となってしまった。 放漫経営により自ら窮地に陥った銀行、小資本のため資金需要の増加に追いつけず合併の道を選んだ銀行、金融恐慌の波をかぶって破綻した銀行。堅実経営を守って苦境を乗り切ってきた銀行など様々なドラマが展開された。 (『南都銀行小史』から)
<817行もあった銀行が、今では83行しかない> 一口に80年と言うが、悠久の歴史の中では一瞬の「時」にすぎないかも知れない。しかし、明治、大正、昭和、3代に亙るこの80年は我々にとっては永い大変な「時」の連続であった。
 日清、日露、第1次、第2次世界大戦と4つの大きな戦争を体験し、幾多の経済恐慌も起こった。
 本行が発足した明治28年には817行あった銀行も、今は83行しかない。しかも出発の時点に於いて国立銀行や財閥銀行であった現存の多くの銀行と違い、村民の飢餓と困窮を救うのが目的で出発した本行は、この変動の嵐の中を我々の先輩によって立派に切りぬけて引き継がれ、今日記念すべき80周年を迎えることができる。 (『駿河銀行80年史』から)
<日本最小の銀行誕生> 明治20年1月4日、満22歳の岡野喜太郎は、自身が責任者(取締)となり、静岡県駿東郡鷹根村青野(現沼津市青野)に、当初、組合員12名によって貯蓄組合「共同社」を設立した。(中略)
 共同社は組合員の努力によって満3年の積立期間を終え、据置き期間に入ったところ、順調な業績をみて参加希望者が増加した。そこで喜太郎は、発展的に共同社を解散し、明治24年2月12日、新に37人の参加による「資蓄会」(貯蓄会)を設立した。
 資蓄会の業績も順調で、翌25年3月に規約を作成した時点で会員は141人となり、明治28年を迎えたころには積立金総額が1万円ほどになった。そのころ当局から、資蓄会の営業行為が銀行類似事業であること、したがって組織を改め銀行に昇格すべきであること、したがって組織を改め銀行に昇格すべきである、との通告を受けた。 岡野喜太郎は会員総会を開き、新事業として銀行創設を説得決定し、さらに貯蓄専門の「根方貯蓄組合」の結成を決議した。
 喜太郎を中心とする銀行設立委員会では、銀行名を「根方銀行」とすること、資本金は1万円で総計400株の株式会社にすること、株主は資蓄会員に限ることなどを決定した。 こうして明治28年(1895)10月19日、創立総会が開かれて喜太郎が頭取に選ばれ、駿河銀行の前身・根方銀行が誕生した。
 事務所は岡野家の茶部屋を改造して使用し、事務員1人、喜太郎頭取自ら事務、雑用も兼ねた。当時日本で最小の銀行であった。
 ちなみに、このころ日本全国の銀行数は817行、払込資本金総額が5,216万円ぢ、1行の平均資本金は6万円弱であった。 (『するが90年の歩み』から)
風雪百年 スルガ銀行にとって1995年(平成7)10月19日は創立100年にあたる。母胎であった貯蓄組合「共同社」から数えると108年目である。
 1895年(明治28)、資本金1万円で出発した日本最小の銀行であった。同じ年に大阪で資本金100万円以上で発足した銀行がある。100年たった今日、その銀行の預金残高は発足当時の本行の資本金の倍数である100倍はない。 現在の本行の預金のせいぜい12倍ほどである。経済原論にいう「逓減の法則」が強く働いているのは面白い現象である。
 第2次大戦前、静岡県には約20行の銀行があった。殆どの府県では、戦時中の1県1行主義という強い官僚統制で1行に合併させられたが、静岡県だけは3行が残った。
 これは初代頭取岡野喜太郎が、1県1行では適正な競争が失われ利用者にとって不利益であるという確固たる信念を譲らなかったためである。 金融自由化の進展に伴い、相互銀行が普通銀行に転換した結果、1県複数行があたり前となったことを考えると、まことに今昔の感に堪えない。 本行経営の憲法である「行規」の第1頁、「経営方針」の「創業の精神」の中に、次のような一節がある。「営業資金は資本金および預金とし、非常やむを得ない時義を除き、原則として借入をしない」、借入金をもって経営してはならないという鉄則はここに明記されている。
 自分が苦心して集めた預金で営業するのが民間銀行の経営の鉄則である。常時、借入金で経営するようになると、行員も弛緩し、役員・支店長も易きに馴れ、経営に鋭さが失われる。さらに銀行経営の鉄則である流動性が阻害される。
 本行の歴代頭取は最高の流動性保持を経営の鉄則としている。悪性インフレ等で如何に経済界が動揺しても、この鉄則を保持してきた。独立自尊の経営であることを誇りとしている。
 後継者が心掛けねばならぬことは「温故知新」あるいは「初心忘るべからず」である。銀行の経営といっても別に難しい理論は必要ではない。要は「入るを計って出ずるを制す」ることである。それは平凡に徹することでもある。
 守成の秘訣は、時世の動向を知り、旧套(きゅうとう)を固守せず、衆智を集め衆和を計り、駘蕩(たいとう)たるを極致と考える。 (『百年航路』スルガ銀行創立100周年記念誌 から)
<野村證券の兄弟会社=大和銀行の設立> 大和銀行の前身である「大阪野村銀行」(昭和2年に「野村銀行」に改称)は、野村徳七(「野村證券」の創業者)によって大正7年5月15日に設立され、同年8月1日に商都大阪の一角で営業を開始した。
 当時、野村徳七は大阪で証券業(野村證券)を営んでいたが、多くの銀行が基幹産業中心の貸出しを行っているのを見て、「手が届いていない中小の事業経営者に産業資金を提供する銀行が必要である」と考え、銀行の設立を決意した。
 しかし、全国には2,000以上の銀行が乱立し、大阪に本店のある銀行だけでも当時11行を数え、設立認可申請に対して大蔵省は強い難色を示したが、野村徳七の熱意と粘りで開業に至った。
 銀行設立当初は、商号を「株式会社野村銀行」とする意向であったが、たまたま青森県下に「合資会社野村銀行」というのがあったため、大蔵省の認可が得られず、やむなく「大阪」の2字を冠することにした。 その後、青森県の野村銀行が「合資会社立五一銀行」と改称することになり、当行(大阪野村銀行)は昭和2年1月から「野村銀行」に改称した。
 創業時の経営方針として、中小工業者への資金供給と証券業務の推進に力を注いだ。証券部門は順調に拡大したが、他業兼営の問題などから大正15年に証券部門を分離し、独立の会社(現在の野村證券株式会社)とした。 (『大和銀行80年史』から)
<山形県酒田市の米商会所> 明治19年に創立の酒田米商会所は、不振を続けていたが、25年に取引所法案が国会に上程されると、同法の公布に備えて会所を酒田町秋田町40番地に新築した。 翌26年3月、同法が公布され、10月に施行と同時に株式会社酒田米穀取引所として発足した。資本金4万円、理事長は加藤景重、理事は地主政次、成沢高景、岡田宣寿の3人、監事は細井旧服、大淵吉政の2人で、仲買人は鐙谷惣太郎、荒木彦助、阿部久作ら13人であった。 役員は米商会所と同じく旧藩の士族であり、職員も旧藩士の子弟を多く採用した。
 新取引法によって、受け渡し物件の保管倉庫が設置できるようになったので、酒田に隣接して舟運の便利な鵜渡川原村山居に、倉庫7棟を新設し、11月から倉庫業を始めた。 これが山居倉庫の起こりであり、酒井家が当初から宿願であった産米の改良と、農村の振興をはかることが目的であった。山居倉庫も米券を発行し、新井田、山居の両倉庫の米券は、受け渡しにも同格で通用した。
 27年には鶴岡町室町の倉庫を購入し、鶴岡支店としたが、翌年、鶴岡米穀取引所の発足にともない、同倉庫を鶴岡側に譲渡した。ところが同じ27年の大地震で、新井田倉庫も焼け落ちたので、米券発行は山居倉庫だけとなった。
 山居倉庫はその後増築して15棟になり、20万俵の収容力を持つに至った。そして米の品質を維持するための保管技術の改善にたいへんな努力を重ね、倉温、湿度の調節のために、職人は昼夜の別なく働いたといわれる。 このような苦労が実って、山居米の名声は高まり、やがて東京・深川や大阪・堂島にまで知られるようになった。 (荘内銀行『創業百年史』から)
(T注) 荘内銀行『創業百年史』には、鶴岡にも明治28年12月に米穀取引所ができたこと、この2か所の米穀取引所の他にも、山形米穀生糸取引所、米沢蚕糸絹織物米穀取引所、酒田三品取引所、山形二品取引所が開設されたことが書かれている。 『○○銀行○○年史』は地元産業の歴史を知る上で貴重な資料なので、地方産業史に興味を持つ人にはお勧めの資料です。
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<創業時の郵便貯金> 国立銀行の創設と並行して政府は、自らの手で資金の集中・供給を図ろうとする制度の研究を行なっていた。郵便貯金制度がこれである。 この制度は、一般国民に貯蓄思想を普及し、貯蓄を実行することで生活の安定をはからしめようとする社会政策的意義を第一義としつつも、同時に小資金を集めて産業資金化しようとするもので、いわば一石二鳥を狙う趣旨から始められたのであった。
 明治6年から政府は、イギリスを参考に郵便貯金制度の研究を行なってきたが、明治7年3月、「貯金預リ規則」について意見の一致をみたので実施に踏み切ることにし、諸般の準備をすすめた上明治8年4月、内務省通達をもって「貯金預リ規則」を公布し、同年5月2日、東京府下の郵便局において郵便貯金の取扱を開始した。
 当時、貯蓄に対する国民一般の考え方は、全然なかったに等しいのみか、貯蓄することを恥とさえするような風潮もあったので、開業早々の政府の苦労は、並大抵のものではなかった。 そこで政府は、地域社会の指導的存在であった僧侶や神社の応援を求め貯金の預入を呼びかけたが、余り効果が上がらず、当初は預かり金皆無という状態であった。
 しかし其の衝にあたる政府職員は、各自自発的に幾ばくかの資金をだしあい10銭乃至30銭を一般庶民1千名に与え、これを発端金として直ちに預入させるという苦肉の策を講じてみたり、一方庶民のなかで貯金の預入を勧誘したものには発端金として金を与えるなど、文字どおり開拓者精神を発揮した。
 この必死の努力が実を結び、明治8年末取扱局22局で預入人員1千8百人余り、預入残金1万5千円、1人平均8円あまりという成果を上げた。 (『本邦貯蓄銀行史』から)
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<原六郎と東京貯蔵銀行の設立> 東京貯蓄銀行創設の中心人物であった原六郎は、若くして倒幕運動に従事し、その後明治4年から10年にかけてアメリカおよびイギリスに留学して経済学や銀行経営論について研究した。 帰国後は、第百国立銀行(明治11年開業)の創立に参加し、明治13年当時同行頭取であった。そして、彼の銀行営々者としての手腕・能力は高く評価されていた。 それ故新しい分野である専業貯蓄銀行を創設するには、当時最もふさわしい人物であったと考えられる。しかし原は、東京貯蓄銀行を設立するに際して専業貯蓄銀行というものが未だかつてわが国に試みられなかった事業であるだけに、果たして再三がとれるものであるか否か、非常に危惧し再三ためらった。 しかし彼は、当時のわが経済社会の実情は一刻の躊躇も許さないとして、断固貯蓄銀行を設立すべく決意したのであった。
 政府は、貯蓄銀行条例制定前にはその設立申請に対して「人民相対ノ営業ニ任セ……」る、との方針をとっていたので、原らの出願を認可した。このような経過をたどって設立された銀行が東京貯蔵銀行であり、わが国における最初の専業貯蓄銀行であった。 同行は設立認可されて2カ月後、明治13年6月東京市日本橋区万町1番地第百国立銀行本店の一部を借り受け営業を開始した(後本店移転)。
 かくて、わが国の専業貯蔵銀行はここにその歴史の第1頁を開くことになったのである。
 同行の経営方針は「預り金規則」に明瞭に述べられている。すなわち、@通常の銀行と異なり、零細の貯蓄預金業務を専業とする。 A営業は、株主が自己の利益を追求することは第2義とし多数の人々の便利をはかることを第1義とする非営利精神で行うものとする。B預金支払い保証担保のため公債を供託する。 C貯蓄預金の取扱細目は、預金限度5銭以上、複利、利息計算方法は半月計算とする、などと規定しており、のちの専業貯蓄銀行の原型を示すものであった。 (『本邦貯蓄銀行史』から)
東京貯蔵銀行の内容
貯蓄銀行の内容はどのようなものであったのか、『本邦貯蓄銀行史』から主要な項目を抜き出してみよう。これは明治16年6月30日現在のもの。
資本金2万円 預金利率7分2厘 貸出金利9分〜1割5分 支払準備預金の3割  預金高15万8,300円 支払準備の形態金禄公債 26,500円 
 支払準備に関しては、各銀行まちまち。預金の10分の1から4分の1程度。預金利率1割の貸出金利1割2分〜1割8分が平均といったところか。
<欧州中央銀行法による最低準備制度> 欧州中央銀行法(押収中央銀行制度定款)第19条によると、ECBはユーロ圏の金融機関に対して、参加国中央銀行への最低準備の積み立てを求める権利を有している。 なお、最低準備規制の期間と条件は、ユーロ圏内では一律である。
 個別の金融機関の最低準備額は、バランスシートの債務ポジション項目によって決定されている。その際、ECBは、準備ベース全体に対して統一的準備率を適用するか、もしくは適格資産のカテゴリーや満期に応じて異なった準備率を適用する。 準備率は短期市場金利の安定化を実現するために、1ヶ月間の平均で保有される。 (羽森直子『欧州中央銀行の金融政策』から)
<最低準備預金> 欧州中央銀行は銀行に対して各国中央銀行の口座に強制預金を置くことを要求している。この預金が「最低」ないし「所要」準備と呼ばれるものである。 各機関が保有すべき所要準備の額は、準備ベース(準備対象債務)によって決まる。各金融機関の準備ベースは、バランスシート項目と関連づけて定義されている。 ここに準備ベースに含まれる主な負債項目を示しておく。
準備ベースに含まれる銀行債務 (A)プラスの準備率が適用される負債 (2000年12月末残高:10億ユーロ)
 預金(オーバーナイト預金、満期2年以内の預金、通知期間3ヶ月以内の通知預金を含む)==5.711
 満期2年以内の債券==137
 マネーマーケット・ペーパー==187
 合計(A)==6,035
(B)準備率ゼロの負債
 預金(満期2年超および通知期間3ヶ月超の通知預金)==1,274
 満期2年超の債券==2,234
 リバーチェス・アグリーメント==528
 合計(B)==4,036
 総準備ベース=(A)+(B)==10,071
 ここで強調しておくべきことは、ユーロシステムの最低準備預金制度下にある金融機関リストに含まれる他の銀行に対する債務と欧州中央銀行および各国中央銀行に対する債務は準備ベースに含まれない点である。
 所要準備は準備ベースに準備率を乗じて求められる。欧州中央銀行は、準備ベースに含まれる大部分の項目にプラスの同一準備率を適用している。 経済通貨統合の第3段階開始時点では準備率は2%に設定された。銀行のバランスシートの短期債務の大部分はプラスの準備率の対象である。 上の例からわかるように、長期債務とリバーチェス・アグリーメントはプラスの準備率の対象外である。 (欧州中央銀行著『欧州中央銀行の金融政策』から)
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<営業無尽の発展> 明治時代に入ると、欧米から新しい金融制度が導入された結果、各地に新しい形態を持つ金融機関が設立された。 しかし、一般庶民には馴染みにくい面もあり、庶民の間では依然として質屋、無尽、頼母子講など在来の金融機関が強く支持されていた。 これらの金融機関は、わが国が近代国家へと急速な脱皮を図るなか、消滅するどころか、ますます発展を遂げたのである。
 政府は殖産興業を進め、企業を起こすことを奨励したため、官営、民間を問わず企業の資本投資が盛んになり、金融界も大きな影響を受けた。 こうしたなかで、無尽も在来の組合的なものから、これを世話し管理する者が現れるようになり、やがてそれを専業とする者が登場することになった。 無尽、頼母子講は永続的、営利的なものへと脱皮し、新しい金融機関として会社組織の貯金会社、信託会社などに発展したのである。 そして、このように無尽、頼母子講を営業的に行うものを営業無尽と言うようになった。
 営業無尽発生の時期については様々な説があるが、江戸時代には津山藩主が始めた津山無尽が登場しており、藩営無尽を商業資本化したものの典型として注目される。 しかし、当時はまだ無尽、頼母子講が地縁・血縁関係者で組織されることが多く、相互扶助的な性格が強かったため、営利追求の企業として成立するのは難しかったと思われる。
 明治期に入ると、山口県に「頼若会社」と称するものが設立されたり、西南戦役後に横行したいわゆる「4人講式」が登場するなど、営業無尽の原型とみられるものが形成されるようになった。 その後、営業化は徐々に進み、明治12年には岡山の恵忠金融通講が開設されたほか、20年には東京の中山道遠が無尽の管理業を開設した。 営業無尽の始まりと言われているのは、34年3月に東京で小林寅吉が「大和界」の名称で開始した組織である。この大和会は39年に大和合資会社となり、無尽業法の免許を得て本格的な営業を開始したが、それが東京式無尽の始まりとされている。 なお、大和合資会社は後に解散している。
 一方、大阪では明治34年7月に山口伸蔵らが「共栄合資会社」を設立し、大阪式無尽が誕生した。この共栄合資会社は、39年に「共栄貯金株式会社」となり、大正3年には貯蓄銀行の免許を受けて無尽会社でなくなっている。 (『第三銀行80年史』から)
<東京式無尽、大阪式無尽、折衷式無尽> 無尽掛金表(無尽予定収支計算表)は大別して東京式、大阪式、折衷式の3種類に分類される。 これは最終回に給付を受ける口の掛込金額を基準とした分類であり、次のような内容になっていた。
●東京式 掛込金額が最終回に給付を受ける給付金額を超過するものを言う。 契約者は早く給付を受けて利用する方が掛込金額と給付金額との関係から有利で、やや射倖的要素を持つ。会社側は主として一定割合の手数料的な利益を得、管理無尽的色彩が濃い方式である。
●大阪式 掛込金額が最終回に給付を受ける給付金額に満たないものを言う。契約者は貯蓄目的の方に妙味があり、金利の観念を貸付、預金の両面に取り入れている。 会社側は給付資金の余剰金を貸付金として運用するなど、より近代的な金融方式となっている。
●折衷式 掛込金額と最終回に給付を受ける給付金額が同一のものを言う。東京式および大阪式のそれぞれの特色をとって、当時の経済事情、または会社自体の収益に応じて採用されるようになったものである。 (『第三銀行80年史』から)
<愛媛無尽の創立> わが国古来の庶民金融として親しまれてきた無尽という文字の古文書によるルーツは、建長7年(1255)の御教書である。
 無尽は仏教を背景とし、インドから中国、朝鮮を経てわが国に渡来したもので、世間で言う頼母子講とは源流が異なる。 しかし後に頼母子と混同され、同一のものと解釈されるようになった。また鎌倉時代の土倉と称した質屋の出現にも関連して用いられた。
 土倉は営業者が質物を火災などの災害から守るため、土の塗り込めの倉庫を設けたことが名の由来ろされている。土倉の典物を受けて貸与する利息つき金銭が無尽蔵と言われ、こうした担保つき、利息つき金銭の融通を無尽と言い、また質屋営業を無尽銭土倉と言った。
 いずれにせよ無尽、頼母子はわが国独特のもので、庶民金融制度として自然発生的に定着したものと思われる。
 愛媛県の場合、その草創期は文政13年(1803)の頃、宇和島藩で財政逼迫により財政立て直しに禄高の減俸が行われた際に、下級武士は生活苦から逃れる手段として農民に頼母子講を依頼して糊口をしのいだと、伊達家文書に記録されている。
 さて営業無尽の草分けは、明治34年に東京に設立された共栄合資会社と言われる。その後、同趣旨の会社が続出したが、会社の基礎が不確実なものや放漫経営業者もかなり多く、無尽業法が大正4年11月1日に施行された後の翌5年12月には、営業免許申請をしたものは200余りで、このうち営業免許を受けたものはわずか136業者であった。 (株式会社86、株式合資会社1、合資会社23、合名会社5、個人営業21)
 愛媛県の無尽業法施行当時の無尽業者数は16で、6年5月15日発行の大蔵省銀行局編「庶民銀行概観」によると、営業免許申請数8、このうち既設免許3、新設1、不備調査中1、不免許および取り下げ3となっている。 (『ふるさととともに』愛媛銀行の50年 から)
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<資本金10万円でスタート==高知無尽の設立> 高知無尽株式会社の設立総会は、昭和5年1月20日、高知市種崎町14番地の2の本社において開催され、資本金10万円で誕生しました。 本社の位置は、はりまや橋のたもとから高知駅寄りに約40メートルの西側(名産センターの付近と推定される)で、「やぶ(藪)」というそば屋の南隣に位置し、間口はわずか3間半(6.36メートル)、奥行き6間(10.9メートル)ばかりの借家でした。
 昭和5年3月25日には、大蔵大臣井上準之助より3月19日付の無尽営業の免許書を受け、翌26日には高知区裁判所に会社設立の登記を完了。 そして営業開始の届け出を行ったのは昭和5年3月27日。
 役員のうち、常勤役員は大石社長と下村専務の2人で、従業員は内勤者3人、外勤者7人という、まことにささやかな出発でした。 (『高知銀行60年の歩み』から)
<豊国(とよのくに)==当行発祥の地> 豊和銀行。当行は平成元年(1989)2月1日、普通銀行としてスタートした。大分市王子中町4番10号に本店がある。 さかのぼること、ここに至るまでに昭和28年(1953)1月以来の相互銀行としての道がある。さらに前身会社の大豊殖産無尽株式会社が設立されたのは「戦後」間もなくの昭和24年であった。 (『豊和銀行史』から)(T注) 豊和銀行は2006年3月期決算において自己資本比率が健全行の基準である4%を下回る見通しとなり、金融庁から早期是正措置命令を受けた。 このため、福岡県に本店のある西日本シティ銀行へ増資を要請したほか、公的資金の導入も検討している。
<豊岡無尽合資会社誕生⇒徳島無尽株式会社⇒徳島相互銀行⇒徳島銀行> 徳島銀行80年の長い歴史は幾多の変遷を経て今日に至っている。呼称も業容も変わってきた。それをたどると、徳島銀行の前身は徳島相互銀行であり、さらに昭和26年6月の相互銀行法によって徳島相互銀行が誕生するまでは、徳島無尽株式会社であった。 なおも遡ると徳島銀行のルーツである大正7年3月3日、発起人13人によって設立された豊岡無尽合資会社に行き着く。
 合資会社はさらに源流へ向かうと、小さな力を出し合い、庶民が助け合ってきた「無尽」や「頼母子」を起源とすることになる。全国的にも多くの相互銀行がそのルーツを無尽とするように、当行もまたその起源を無尽とするものである。
 庶民の相互扶助的な仕組みである無尽や頼母子は、元来それぞれが別の意味を持つものであったが、目的、方法が同じであることから後世「頼母子講」と呼ばれて同一の意味に使われるようになったといわれる。
 江戸時代に入って貨幣経済の発達とともに頼母子講はますます大衆化し全盛時代に入っていった。この時代の金融の主な担い手は一般に江戸の札差と呼ばれるものや、堺の豪商たちであったが、それらは上流武士階層や問屋、商人などを対象とするこので、下級武士や農民、職人などいわゆる庶民はこれらの対象とはならなかった。 従って庶民にとって頼母子講は、質屋とともに当時の重要な金融の機能を果たしたのである。
 一方、こうした純粋な意味の相互扶助の頼母子講のほかに射倖的なものが現れ、幕府から禁令が出されたこともあった。江戸末期には、はっきりと金融の目的にも利用されるようになり講元(請の世話人)に対する謝礼の手数料も徴せられるようになった。 この講元が後に職業化することとなり「営業無尽」の発生をみることになった。
 明治時代になって、政府は強力に産業振興政策を推進したが、このころも庶民金融は依然、頼母子講が中心になっていた。しかし従来の個人的講元から次第に総合的、企業的な形式を持つ講元が多くなってきた。 そして会社組織による営業無尽へと発展していったのである。 (『徳島銀行80年史』から)
<呉無尽株式会社⇒せとうち銀行> 当行は、昭和16年(1941)11月11日、呉無尽株式会社と呉洋無尽株式会社の両社がそれぞれ解散し、新に呉無尽株式会社を設立し、この日を創立とした。
 広島県下の無尽会社6社の中で、広島、芸備、双益、山陽の4者は、昭和16年4月22日解散合併して、広島無尽株式会社(現広島総合銀行)を設立、第1次の企業合同をなした。
 この合同に参加しなかった呉市内の2社は、それぞれ経営内容もすぐれ、ともに県下最高の年8%の株主配当を続けてきた。 呉洋、呉無尽両社に対する合併勧告は、大蔵省の指導の下、とくに広島県知事からの合併促進の強い要請によるものであった。
 その主旨は、合同による企業内容の充実と、国策遂行のための貯蓄増強、国債消化にあわせて、庶民金融の円滑化をはかることが目的であった。
 地方銀行における「1県1行という理想的形態」に近づくための整理合同と同じように、無尽会社も時代の流れに沿って合同がすすめられた。 (『「せとぎん」創立五十周年記念特集号』から)
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<貴金属貨幣制度・金本位制度・管理通貨制度> 幕末から明治時代、現代へと金融制度を見ていくとき、貨幣制度が変わったことに注意しなければならない。江戸時代は貴金属貨幣制度。金・銀に銭を加えての三貨制度。 もっと詳しく見れば「米」も加えて「四貨制度」というのが実態だった。維新政府が太政官札を発行したときは正貨の裏付けのない、いわば管理通貨制度であった。しかし、管理通貨制度は荻原重秀の言葉にもあるように、 「たとえ瓦礫のごときものなりとも、これに官府の捺印を施し民間に通用せしめなば、すなわち貨幣となるは当然なり。紙なおしかり。」 なのであって、官府の信用があってこそ制度が運用できるのであって、まだ維新政府が信用されていない段階では、太政官札は通用しなかった。それは「西郷札」も同じ。
 明治政府は一時、銀本位制を採用するが、すぐに金本位制に変える。当時の「グローバル・スタンダード」に従ったわけだ。大東亜戦争が激しくなってきて、金本位制が維持できなくなり、管理通貨に変える。 しかし、本位制の考え方は捨てきれない。戦後も本位制の考え方に縛られる。それは日本だけではなくて世界全体がそうだった。「金本位制が維持できない。しょうがないから通貨管理制度にしよう。だけども、できれば本位制に戻したい。戻れるような制度にしておこう」こうして「ブレトンウッズ体制」ができた。 だから「ニクソン・ショック」をどう受けとめたらいいのか、について「為替変動制が良い」と言っていたミルトン・フリードマンでさえ、ニクソン・ショックにハッキリした主張ができないでいた。これに関しては <ニクソン・ショックの意味>▲ を参照のこと。
 金融制度・銀行制度を理解するには、この「金属貨幣・金本位・管理通貨」の意味と実際を知っていないとピント外れの主張をすることになる。バーナンキもサムエルソンもその他の教科書も、この違いを指摘していない。 こうした貨幣制度の違いを解説した本に、このホーム・ページ「創刊号」▲で紹介した、M.スコーセン著『経済学改造講座 正当派への有罪宣言』がある。 「貯蓄のパラドックス」をはじめ、金融経済学では「常識」と思われているけれど、疑ってみる必要のある事柄が多いようだ。「神話」が紛れ込んでいるかも知れない。「常識」のように思われている「神話」が、そして「市場経済派」の顔をした「隠れコミュニスト」が。
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<明治時代の銀行制度をどのように見るか?> 日本の近代的な銀行制度は明治時代に確立した。そのことに関して異論はないはずだ。 ではその明治時代、銀行制度が確立した頃を短い文章でどのように表現するか?どのような特徴を指摘するか? サムエルソンの「銀行はどのようにして金細工業から発展したか」▲やバーナンキの「アグリコーラ」▲の例は余りにも単純すぎる。少なくとも日本の銀行制度確立史としては不適切だ。
 江戸時代の金融制度を廃止し、全く新しい金融制度を確立したかのように見える。しかし、江戸時代からの金融に対する考え方は引きずっていた。そして、試行錯誤の連続だった。 それだけに、この時代の特徴を短い言葉で表現するのは難しい。むしろ「あんな制度、こんな制度」「あんな見方、こんな見方」「百花繚乱百家争鳴」として、まとまりのない全体像として捉えるのが良いのだろう。 そのような考えで、いろんな「○○銀行史」からの引用を中心に、明治時代を振り返ってみた。
 いろんな銀行や銀行類似会社が混在し、時代の変化に順応しようと進化していた時代だった。ハッキリした目標が有るわけではなく、時代の変化に適応しようと自己変革を進める様は、動植物の進化とよく似たところがあった。 このように考えていくと、サムエルソンの「銀行はどのようにして金細工業から発展したか」やバーナンキの「アグリコーラ」の例はまるで「西洋のおとぎ話」のように思えてくる。 けれども日本ではこの程度のレベルの、優しいお話がない。外国のそれを、言葉だけ日本語に訳して、それを教科書に使っている。寂しいことだ。
 もう一つ、多くの「○○銀行史」を読んで気づいたのは、「貨幣乗数」「ハイパワード・マネー」「トランスミッションメカニズム」などの言葉が使われていないことだ。扱っている時代が明治時代でも、著者・編者は現代人だ。 多くの編者は大学で金融論を学んだはずだ。その人たちが教科書で使われている言葉を使っていない。このシリーズの……… は じ め に ………で『「貨幣乗数」「ハイパワード・マネー」「トランスミッションメカニズム」などの言葉は意味がないので使われなくなるだろう』と書いた、その言葉は現実に金融機関の現場では使われていない。 金融市場の現場では、「神話」は信じられていない。そして大学では「実社会では役に立たない事を教えている」のかも知れない。
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<主な参考文献・引用文献>
『秋田銀行百年史』         秋田銀行100年史編纂室 秋田銀行        1979.12. 1
『信用金庫50年の歴史』   全国信用金庫協会50年史編纂室 全国信用金庫協会    2002.12.20
『日本の銀行制度確立史』日本金融市場発達史U 金融経済研究所 東洋経済新報社     1966. 7.15
『八十二銀行50年史』              編纂・発行 八十二銀行       1983. 6.20
『創業百年史』              北越銀行行史編纂室 北越銀行        1980. 9.10
『伊予銀行五十年史』       伊予銀行五十年史編纂委員会 伊予銀行        1992. 6.25
『120年のあゆみ』北越銀行史      ホクギン経済研究所 北越銀行        1998. 6.30
『富士銀行百年史』       富士銀行調査部百年史編さん室 富士銀行        1982. 3. 1
『横浜正金銀行全史』第1巻            編集・発行 東京銀行        1980. 9.30
『十二銀行史』           編集・発行 元十二銀行内=奥野要吉郎・田中作太郎 1944. 7.10
『十七銀行六十年史』               編集・発行 十七銀行        1940.12.20
『第八十五銀行史』                編集・発行 第八十五銀行      1944. 6.20
『南都銀行小史』             南都銀行行史編纂室 南都銀行        1984. 6. 1
『本邦貯蓄銀行史』            協和銀行行史編集室 協和銀行        1969. 9.30
『駿河銀行80年史』               編集・発行 駿河銀行        1975.10
『するが90年の歩み』     駿河銀行90周年委員会事務局 駿河銀行        1985.10.19
『百年航路』スルガ銀行創立100周年記念誌 スルガ銀行総合企画部 スルガ銀行     1995.10.19
『大和銀行80年史』       大和銀行80年史編纂委員会 大和銀行        1999. 2. 1
『創業百年史』             荘内銀行百年史編集室 荘内銀行        1981.12. 1
『欧州中央銀行の金融政策』             羽森直子 中央経済社       2002. 4.20
『欧州中央銀行の金融政策』欧州中央銀行著 小谷野俊夫・立脇和夫訳 東洋経済新報社   2002. 7.11
『第三銀行80年史』       第三銀行80年史編纂委員会 第三銀行        2003. 6
『ふるさととともに』愛媛銀行の50年 愛媛銀行50年史編纂委員室 愛媛銀行      1993. 7.30
『高知銀行60年の歩み』         高知銀行調査情報部 高知銀行        1990.11.30
『豊和銀行史』             豊和銀行史編纂委員会 豊和銀行        1992.12.25
『徳島銀行80年史』           80年史編纂委員会 徳島銀行        1998.12.25
『「せとぎん」創立五十周年記念特集号』      編集・発行 せとうち銀行      1992. 5. 1
『創業百年史』            山梨中央銀行行史編纂室 山梨中央銀行      1981. 3
『静岡銀行史』            静岡銀行50年史編纂室 静岡銀行        1993. 3.31
( 2006年6月5日 TANAKA1942b )
明治時代の銀行制度を総括する
信用創造プロセスは働いていたか?
 「ベースマネーの増加により(原因)、マネーサプライが増加する(結果)、は神話である」とTANAKAは主張する。そして「神話ではなく、その通りの時代もあったかも知れない」がTANAKAの考えだ。ではその時代とは?
 それは、明治時代、貨幣を発行することができる「国立銀行」という名前の「民間銀行」が153もあった頃、日本で銀行制度ができ始めた頃だと思った。どの銀行も十分な資金がなく、預金が増えれば融資も増やせる時代だったに違いない。そうした考えで銀行制度が生まれた明治時代を少し振り返って見てきた。
 今週は、「明治時代の銀行制度を総括する」と題して明治時代とトランスミッションメカニズムとの関係を考えてみることにした。まずは「○○銀行史」から。
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<貸金会社のような銀行> 銀行条例の制定により、銀行の認可を受けなければ銀行類似の業務を行うことができなくなり、それとともに、同条例は最低資本金額の制限がなかったので、小資本でも銀行設立が可能となったため、明治20年代後半から30年代前半にかけて、銀行設立ブームとなった。 とくに、日清戦争勃発後は、広範な産業領域にわたる起業ブームの時期でもあり、銀行の設立は全国的に促進され、34年のピーク時には、銀行数は1890行にも達している。
 このように明治30年代前半までに、全国的に非常に多くの銀行が設立されたのであるが、当時の銀行の中には、銀行類似会社から転じた、いわば貸金会社とあまり違わないような銀行も多かった。当時の地方銀行の多くは、預金はきわめて少なく、おもに資本金を資金源として、狭い地域内の人たちに、主として不動産抵当あるいは信用貸などのよって貸付けるこということを主要業務としていた。 地方銀行で、預金が資本金を上回って増加してゆくのは明治30年以降であるが、しかし、それは地方銀行の中でも比較的大きな銀行であり、ずっと後まで貸金会社的銀行が残ってゆく。 これらの中小銀行は、不動産抵当貸付を主業務とすることによって土地兼併を促進するとともに、地方では、恐慌期に地価が暴落すると、銀行の経営危機にもつながってゆく。 (『東邦銀行小史』から)
<両替商の預金受け入れ> 両替商は三貨の鋳造・交換にとどまらず、預金・貸付・手形発行・為替取組なども営んでいる。銀行と同じような業務であるが、例えば預金に対する態度などは、銀行と大きく異なっていた。 両替商では、積極的に預金吸収をすることもなく、また一般的に無利子であったと言われているからである。
 すなわち、当時の江戸・大坂などの商人は、危険を避けるためでもあったであろうが、現金を余り手許に置かず、両替商に預け入れている。それは一種の当座預金として預け入れたものであり、したがって原則として利子は付かなかった。 それにもかかわらず、とくに大坂商人たちはできる限り多く預金をしている。その理由は、両替商の信用を高め、当座貸借の契約を結び、金融を受け入れるためであった。
 したがって、両替商は商人の預金に対して利子を付けるどころか、商人によっては預金を断ったりしている。また、盆暮れには預金者である商人の方から、両替商に付け届けをする場合もあった。 両替商で預金口座を開設する場合には、預金者である商人はまず証人(両替受け)を立て、証文を提出し、ようやく通帳を交付されたという。
 ただし、『町人考見禄』(三井高房)によれば、京都の両替商は、商人の資金ばかりでなく、「寺方の祠堂、後家の寺詣金、婆々の針箱の貯金、年々蟻の塔を積様に留置しへそくり銀」などまで利子を付けて受け入れ、これを主として大名に貸し付けていた、 とある。京都の両替商にとっては、その貸付額が大口であったため、営業資金として広く庶民層に零細資金まで利子を付けて受け入れ、利用する必要があったであろう。
 しかし、京都の両替商による「大名借の商売は、博奕のごとくにて始(はじめ)少(すこし)の間に損を見切らずば、それが種と成」る、といわれていた。貸付は信用貸であったため、大名の財政難にともなってつぎつぎと踏み倒され、江戸中期までにその営業を大坂の両替商に譲ったことは、さきに述べたところでもある。
商人貸 両替商は、自己資金と預金を資金として、商人や大名に貸し付けている。商人貸しには、無担保の信用貸(素銀=すがね)と、商品担保付き貸付(並合=なみあい)の2種類あったが、前者による場合が多かった。それは、両替商による商人貸が、日頃から取引があり、信用ある商家に限られていたからである。
 貸付利子については「両替商などにより日息を以て貸すには大概元銀1貫目に息5分、即ち月息の1分半に当たる也、日息俗に日分を云ひ、びぶと訓ず、或は日廻しと云う」(『守貞漫稿』)とある。つまり、両替商の貸付利子は月1.5%、年18%であった。
 貸付の形態はさまざまあり、
 @借り手の商人から、信用証書をとって貸し付ける証書貸し
 A預金口座を開設している商人が、両替商宛に振り出した振出手形(今日の小切手にあたる)による当座貸越
 Bとくに江戸──大坂の商人間で利用された為替手形などのよっても貸付が行われた。 (日本史小百科『金融』から)
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<西南戦争による多額の不換紙幣> 明治10年2月に勃発した西南戦争は、財政上に巨額の負担をもたらし、多額の不換紙幣が増発されることになった。通貨の流通量は、国立銀行条例改正による相次ぐ国立銀行設立とともに急激に膨張し、本格的なインフレーションを招来した。 そこで紙幣整理と兌換制度の確立を図り健全な通貨制度を育成するため、15年6月「日本銀行条例」が公布され、同10月、日本銀行が開業した。 さらに23年8月には「銀行条例」と「貯蓄銀行条例」が同時に公布され、26年7月から施行された。 (『山陰合同銀行五十年史』から)
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<松本清張『西郷札』> 明治10年2月15日、西郷隆盛は政府詰問の理由で寒風吹く鹿児島を精兵を率いて出発したが、これから先のことは普通の歴史にあるとおりで詳しく書くことはない。 『覚書』の筆者もその克明な筆で鹿児島城包囲から植木方面の戦闘を叙しているが、別段関係もないから略する。ただこの筆者のために彼が勇敢に闘ったことを記しておくことにする。
 3月19日、さしもの薩軍も田原坂(たばるざか)の険を背面攻撃で官軍に奪われことが大勢の決する岐(わか)れ日となった。 これより人吉に退きついに日向路に奔り、主力が宮崎一帯に結集したときは、もはや鹿児島との連絡は絶えていたのであった。
 薩軍が紙幣発行をやったのはそのころである。その製造所を宮崎郡広瀬に置き、造幣局総裁という格には桐野利秋がなったが、工事は昼夜兼行で行われ、監督は池上四郎が当たり、実際の仕事は左土原藩士の森半夢(通称喜助)が運んだ。 職人は30人ばかり使ったようである。兵站方に金が少しもないので、この造幣のことは大急ぎですすめられた。
 樋村雄吉はこの新設造幣局に所属となったが、それがどんな役目か、彼自身の語る『覚書』にははっきりしない。しかし森が佐土原藩士だから同藩の雄吉をひき抜いてきたであろうことは想像に難くない。おそらく森の助手のようなことをしたのであろう。
 この紙幣の体裁は前に記したから繰り返さないが、薩軍はこれを以て近在の商人や農家から必要な物資を得ようというのであった。十銭、二十銭札はともかく、五円、十円という高額札は発行のその日から頭から信用がなく、皆それを受け取ることを渋った。 だが薩軍が実際に使用を望んでいるのはこの高額薩のほうだから、半分は威嚇でこれがどんどん商人たちに押しつけられて食糧や弾薬と変わった。 ついには兵士たちは隊を組んで富裕な商家を訪れ、僅かな買物に十円薩を出し、太政官札の釣り銭を受け取るという手段をとった。
 この紙幣の性格を語るによい材料が明治10年10月の東京曙新聞に出ている。当時の賊軍に対する記事だから少し悪意のあるフザけた報道だが、薩軍紙幣の一端を説明している。
「桐野利秋が日向宮崎にて賊徒が濫製したる金札四百円を投出して歯を染めたる城ヶ崎の芸妓は兼て去る方より四百円の負債ありしかば右の金札を受け取るや(略)これでよろしく御勘定をと彼(か)の金札を差出したるにイヤ此札ではと貸主が額にしわを寄せしが、あなたそんなことが桐野さんに知れましたら人切り包丁の御馳走がまいりなせうぞと、おどしつけられ、不用の札と承知しながら、命惜しさに勘定をすましたりといふ(略)」
 この紙幣はどのくらい刷られたか、ちょっとはっきりしたことはわからないが20数万円ぐらいではなかろうか。確かな文献を知らないからわからないが『覚書』ではそのくらいの数数字になっているし、明治10年8月24日の大阪日報は「賊は贋札紙幣を凡そ24万余円製造したる由なるが、その中、14万円を流通し、残り10万円はも早使ふ能はず、そのまま積重ねてあるといふ」 とのせているから、まず大差ないであろう。その「残り10万円はも早使ふ能はず」とあるのは、おそらく軍務所のある宮崎が危険となって立ち退かねばならなくなったからであろう。7月10日日向小林が敵の手に落ち、次いで20日、都城が陥落すると、宮崎は直接脅威を受けることになったので本営を延岡に移し造幣所も閉鎖となった。
 しかし官軍の追撃は急速で28日早くも大淀川南岸に到達し、翌日はこれを渡河して宮崎に入り旧県庁を占領した。薩軍は戦闘しつつ佐土原、高鍋、美々津と退却をつづけついに延岡の北郊長井村に本営をおいた。これが8月14日のことで、官軍も各道より集まった諸軍と合して延岡にことごとく入ったのであった。 (松本清張『西郷札』から)
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<西南戦役と西郷札> 西南戦役は明治10年2月から9月までわずか半年余の内戦であったが、人的・物的に多大な被害をもたらした。
 まず人的被害をみると、西郷軍の戦死、行方不明は士族平民合わせて5,217名で、うち士族4,919名、平民298名となっている。平民が含まれているのは、人夫雑役に志願もしくは徴用されたためと思われる。 一方、官軍側の死傷者は、官吏一般人民も含めて約1万6,000余名に達した。
 次に物的被害は、戦火が鹿児島、宮崎の全域に拡がったので、地方にも被害が出たことは容易に想像されるが、県下全域にわたる被害調査資料としては、わずかに戦災家屋のそれと西郷軍が人民から徴発した金穀類の被害調査の2種を利用しうるに過ぎない。(中略)
経済活動への影響 西南戦役がわが国経済に与えた影響の最たるものは、政府の戦費調達に起因する財政膨張であった。
 戦役勃発時、財政基盤脆弱な政府にとって、そうでなくとも殖産興業の資金捻出に腐心していた折柄、莫大な戦費調達は至難の業であった。
 戦費総額は、最終的には4,200万円の巨額に達したが、戦役勃発時大蔵省はわずかに20万円の予備費流用を決めたに過ぎなかった。 戦線拡大につれ、事の重大性の認識から物量にものいわせての短期決戦、賊徒平定を狙って兵力動員を急速に進めたので、戦費は急増した。 その調達のため第十五国立銀行の設立を急がせて、同行から1,500万円借入れし、損札交換予備として保留の政府紙幣2,700万円を急遽発行するなど彌縫策を採り、辛うじて難局を切り抜けた。
 しかし、戦費の常として大半が労賃、軍人給料、諸調達費など非生産部門に支出され、戦役後の物価騰貴は、わが国経済に大きな後遺症を残した。
 本県に限っていえば、戦火が県下各地に拡がったので、主産業の農業は農地の荒廃、農産物の減収に見舞われ、地方経済にも影響が出た。最も大きな影響を受けたのは、やはり城下町の鹿児島であった。
 当時の鹿児島の商工業等経済事情を知る手掛かりが皆無であるので、その面における戦役の影響を知る術はないが、5月の市街戦勃発と同時に大多数の住民は近在に避難し、商人もまた競って疎開したため、経済活動はまったく停滞したであろうことはほぼ推察できる。
軍票発行とその整理 戦役が地元に及ぼした影響として無視できないものに軍票発行がある。挙兵当時、西郷軍は大山県令提供の県公金15万円を始め、およそ25万円程度の軍資金を準備したが、1万人を超える将兵を擁しての戦費として、25万円は1ヶ月維持することすら覚束ない金額であった。
 そのために、公金(県内各郷、宮崎支庁分)の追加徴発、民間からの徴発等も重ねたが、なお軍資金の窮迫は覆うべくもなく、ついに軍票発行に踏み切らざるを得なくなった。これが西郷札と承恵社札である。 ただし、前者と後者では次のとおりその性格を異にしている。
 (1) 前者は西郷軍みずからの製造発行にかかるものであったが、後者は承恵社札という歴とした銀行類似会社の発行にかかるものであった。
 (2) 前者は「偽札」として通用を禁止され、戦役後、その所有者は丸損になったのに対し、後者は「紙幣類似品」として通用禁止になったあと償還された。
西郷札 西郷札発行の謀議は、西郷軍が熊本から日薩の地に退き、鹿児島県宮崎支庁を占拠して支庁に軍務所を開設した10年5月に端を発する。
 当初、支庁において発行させようと試みたが、支庁長から反対され結局西郷軍みずから発行せざるを得なくなり、総責任者に桐野利秋、現場監督に池上四郎を命じ、宮崎県広瀬(現在の佐土原町)に工場を設置し、職人25名程度で翌6月から製造を開始した。
 製造計画は100万円であったが、原料の入手難と製造期間が短かったため、実際の製造高は14万円余に過ぎなかった。 種類は10円、5円、1円、50銭、20銭、10銭の6種であった。
 西郷札の特徴の第1は、短期間に大量に製造しなければならなかったため、紙幣では乾きが悪く製造に手間取るとの理由で、布幣(寒冷紗の2枚張り合わせ)にしたことである。 そのため「フヘイ(不平)党がフヘイ(布幣)をつくった」という語呂合わせが当時流行った。
 第2は、西郷札は「管内通用」「此札ヲ偽造スル者ハ急度軍律ニ処スル者也」との条件を付し強制通用を図ったが、引換保証はなく、しかも西郷軍の敗退が明らかであったので信用皆無であり、薩軍の権力と西郷の信望で辛うじて20銭、10銭の少額幣が通用するに過ぎなかったという点である。 反面、なかには10円、5円の高額幣で数十銭の買い物をされ、釣り銭を正規通貨で支払わされた商人もあったという。
 岩村県令は、10年8月3日、下記のとおり通用禁止の布達を発したので、西郷軍の鹿児島撤退後は、西郷札は反古紙同然となった。
 「管下賊徒共宮崎ニ於テ偽札ヲ発行致趣右ハ通用厳禁申付候依テ所持之者ハ区戸長ヘ差出区戸長取纏メ本支庁并最寄出張所ヘ可差出此旨布達候事」
 したがって、西郷札の所有者、特に商人は大きな損害を蒙ったので、戦後県令は正規通貨との引換方を政府に申請したが認められず、結局は引き揚げのうえ裁断処理された。
承恵社札 明治10年4月、田畑常秋大書記官は淵辺群平、辺見十郎太、別所普介等西郷軍幹部からの督促で蓑田長僖、鎌田政直両県官に命じ、承恵社、撫育会社に対し社金の貸上を相談させたが、両社は現金に乏しかった。 そこで両社は協議のうえ、総額4万円、券面金額5万円乃至50円の証券を当局(県)の商人を得て発行し、これと引換に市内の富豪から現金を借入れて県庁に差し出した。この証券が承恵社札である。
 その後、額面額が1円と50銭の少額商じぇんも発行されたが、これらの証券はいずれも西郷軍の軍資にあてるということは表面に出さず、県下金融便宜のためという目的で発行された点が注目される。 発行総額は3万9,968円と記録されている。
 この措置は、西郷に共鳴していた大山県令と、県令の忠実な補佐役であった田畑大書記官を主軸に実効されたが、大山罷免、田畑自害のあとを受けて赴任した岩村県令は、5月10日次の布達を発し承恵社札の通用禁止措置をとった。
 「本年四月中當県下撫育承恵両社之名ヲ以発行致候金券之儀往々管内一般流通致居候趣ニ相聞候処右ハ其実紙幣類似之品ニテ甚不都合之至候條追テ何分之儀可相達候得共先以通用之儀ハ厳重ニ令禁止候條管内人民愆テ右之金券ヲ受授シ他日後悔無之様可致此旨布達候事」
 このため、承恵社札の所持者にとっては、同札裏面に約定の「此表借金返弁ニ付テハ撫育承恵両者合金三千七百五十円ヲ以テ月々返弁可申且亦大阪エ通商金融調ヒ候上ハ多少ヲ不問引換可申者也」 も空文に帰し、一片の反古と化したかに見えた。
 しかし、承恵社札は西郷札と異なり強迫されて発行された事情があったほか、岩村県令の戦後の施政方針でもあったのか、西郷札と同断扱いは余りに酷ということになって、翌11年2月13日、次の布達が発せられた。
 「県下撫育承恵両者ヨリ発行致候証券交換之儀ハ其持主該両社ト相対ヲ以処分可致尤該社ヘモ兼テ其の旨相達置候條此布達候事
 但通用禁止ノ儀ハ昨明治十年五月十日第二十一号布達ノ通可相心得候事」
 こうして両社と貸主の示談により円満に解決し、11年6月全額償還となった。したがって鹿児島の商人には宮崎のような実害はなかった。 (『鹿児島銀行百年史』から)
<藩札・西郷札・承恵社札・国立銀行券は借金の証文=発行機関の負債> 西郷札は結局紙くずになってしまった。承恵社札は日本銀行券に変えることができて、最終的には兌換された。 このような藩札・西郷札・承恵社札を見ていると、これらが「借金の証文」であることに気づく。そして国立銀行券も日本銀行券も結局は発行機関の「借金の証文」であることが理解できる。 「借金の証文」ということは発行機関の負債であるから、藩札・西郷札・承恵社札・国立銀行券・日本銀行券、すべてが発行機関の負債であり、つまりベースマネーとは日本銀行の負債であることが理解できる。 同じように、マネーサプライも金融機関の負債であることが分かれば、ベースマネーとマネーサプライとの関係が分かってくる。このようにベースマネーとマネーサプライとの関係が理解できることによって、 「ベースマネーの増減により(原因)、マネーサプライが増減する(結果)」が神話であるとの主張が理解しやすくなる。こうしたことがうまくイメージできないと「神話」を払拭することができにくくなる。
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<鹿児島銀行のあゆみ> 当行は、明治12年(1879)8月30日、第百四十七国立銀行として設立を認可され、同年10月6日営業を開始した。国立銀行といっても、国営ではなく、民間資本による株式会社であったが、銀行紙幣(国立銀行券)の発行が認められていた。
 鹿児島は、わが国近代化の幕開けとなった明治維新に大きな役割を果たした土地柄であったが、明治10年の西南戦争で人的・物的に多大な痛手を被った。 こうした状況下、茲立銀行の設立には戦災復興、産業振興などの一翼を担う目的があった。
 その後、銀行制度の改革により、国立銀行の存続期間が開業許可より20年と決められたため、明治30年1月、株式会社第百四十七銀行を設立して第百四十七国立銀行の利業を継承した。
 昭和に入り、全国的に地方の中小銀行の淘汰が進み、本県でも当行を中心とする銀行再編が加速した。この歴史を辿ると、口火をきったのは、昭和3年9月の鹿児島商業銀行との合併で、その後、5年2月薩摩銀行から営業譲受、7年2月海江田銀行から営業譲受、 8年1月西薩殖産銀行から営業基盤を継承、11年4月には鹿児島商弘銀行から営業譲受した。太平洋戦争下の昭和19年2月には、当時の1県1行の国策に沿って(旧)鹿児島銀行、鹿児島貯蓄銀行の地元2行と合併して、鹿児島工業銀行を設立した。
 太平洋戦争では、大阪支店、沖縄支店を焼失するなど、当行は大きな被害を受けた。昭和27年12月には、商号を現在の鹿児島銀行に変更した。 その後も幾多の経済変動を経ながら、当行は、本県におけるリーディングバンクとしての地位を固め、42年11月に預金1千億円の大台突破、52年3月には預金5千億円を突破し、54年10月6日に創業100周年を迎えた。 ( 鹿児島銀行『120年のあゆみ』から)
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<第十八国立銀行の創立> 明治10年2月、西南の役が勃発、官軍の兵站基地となった長崎は、騒然とした空気に包まれていたが、この年5月、「立誠会社」の社中5名による国立銀行発起人集会が開かれた。 集まったのは永見伝三郎、松田勝五郎、永見得十郎、永見寛三及び松田源五郎である。この会合で資本金を15万円とし、うち5万円は発起人で引受けることが決議されるとともに、大蔵卿あて創立願書が提出された。 この請願は、同年6月16日付で聞き届けられ、「名号之儀ハ第十八国立銀行ト可相唱事」とされた。この内認可を受けて、株主の募集がはじまり多少の曲折を経ながらも、同年8月満額を超え、16万円の入株報告が出状されるにいたった。 つづいて9月2日、株主首会と称する創立総会が開かれ、国立銀行条例にもとづく創立証書及び定款が審議決定され、大蔵省に提出された。 初代頭取には永見伝三郎、支配人には松田源五郎がそれぞれ互選され、開業に向けての準備が開始された。
 当時の長崎県の産業構成は、もとより農業の比重が重く、工業的諸産物は全国平均に比べなお低調であったが、長崎港の貿易・官営の造船所・全国出炭量の3割を占める高島炭鉱など、特色のある経済活動が行われており、将来に向けての繁栄の芽は。随処にこれを見ることができた。
 創立総会のあと、開業免状の下付、銀行紙幣の受領その他の諸手続きも終え、いよいよ同年12月20日、頭取以下全役職員21名の陣容を以て開業の運びとなった。 これより先、開業の諸手続のために上京していた支配人松田源五郎は、当行頭取・取締役に宛てた渋沢栄一(当時東京第一国立銀行頭取で、当行設立にあたっても尽力を惜しまなかった)の書簡を託された。 この中で渋沢栄一は、立誠会社以来の「御実歴之レ有ル処ニテ、即今流行ノ士族銀行者流トハ存ジ奉ラズ候」とはしながらも、「貴地ノ如キハ聊カ人情偸安ニシテ発達ノ気象ニ乏シキノ弊之レ無シトモ申シ難キヤニ存ジ奉リ候間」 と直言し、「新案創意ノ類ハ之ヲ擯斥」すべきでないことを忠告している。創立当時の世情の一端を映じたものとして興味深い。 (十八銀行『110年の歩み』 から)
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<維新革命のころの産業と金融> 維新革命のころの生産過程の状況についてみる。それは、僅かに商品生産が芽生えたという程度のものにすぎなかった。 維新の革命が行われたとき、西欧諸国はすでに独占段階に突入していた。英国では17世紀後半ブルジョワ革命を経て、産業革命を終わって植民地獲得に狂奔していたのであり、フランスは約1世紀前にブルジョワ革命を体験していた。 ひたひたと押し寄せてくる西欧勢力の富と力に直面して、日本は急いでこの遅れを取り戻さなければならなかった。富国強兵が維新政府のスローガンになる。西欧より近代的産業を移し植え、育て上げることが必要であった。 もちろんこれまでに資本主義の萌芽がなかったというのではない。徳川の中頃から商品流通は次第に盛んになり、それに伴い、ある程度の貨幣財産、商人資本ならびに高利貸し資本が発展してきているのは事実であるが、維新の革命を遂行するだけの力にまでは育っていなかったようである。 支配的勢力となって革命を準備する力に欠けていた。それが今や西欧資本主義勢力に接触するにおよび、自己に目覚め、一路資本主義に向かって力強い前進を開始するようになった、とみるべきであろう。
 この遅れを取り戻すために、まず政府は、幕府および各藩がそれぞれ直営していた造船所・紡績工場・兵器製作所などを吸収して、新に模範的な官営の工場を経営した。模範的な経営を試みて資本主義を育成しようとしたのである。 横須賀造船所・長崎造船所・富岡製糸所・札幌ビール醸造所などは、全部官営の模範的であって、政府のもとで直営された。 そして一応の自立的基礎ができあがると、そうした模範工場は、明・13年(1880)から後、続々と民間に払い下げられていった。経営を委ねられたものは、三井・三菱・住友・古河などの特殊な民間企業であった。 先進的な工業を民間に払い下げて産業を興したと言えようが、このことが反面、なぜにわが国では早々財閥が生じ、しかも国家権力と密接な結びつきを持つようになったか、ということの理由でもある。近代的産業の移植は政府の手によって行われ、財閥に委譲され、政府の保護のもとに、財閥産業として育っていった。(中略)
 そこで金融機関の発展が問題になる。生産過程で近代化が行動を起こせば、流通過程でもまた近代化は始まらなければならない。 商品生産が本格化して、商品流通も本格化する。これにつれて貨幣の流通も盛んになる。貨幣それ自身に対する需要が生じる。貨幣の流通を管理し媒介する行為が要望される。貸付取引を行い、貨幣取引を営む業者の出現が必然となる。
 銀行業の始まりは、明・2年(1869)、維新前まで幕府の御為替組をつとめた三井・小野・島田の各組が設立した為替会社である。預金を引き受けて貸し付けたが、民間の資金はまだ取るに足らなかったから、通商司の保護を受け、政府から貸下金をもらい、また金券・銀券・洋銀券・銭券などを発行して貸付金にあてていた。 しかしついに自立できないまま、通商司の廃止とともに自滅してしまった。これに代わって、明・5年(1872)に設立されたのが国立銀行である。国立銀行は、もちろん商工金融を主に営むことを建前とはしたが、政府はこれを通じて不換紙幣を消却させようとする考えを持っていた。 維新の革命に必要な莫大な資金は国債を発行し、紙幣を濫発して調達されてきたのである。かくしてインフレーションが起こり、その収束に政府は苦労していた。太政官札・銭券・銀券(この二者は民部省札に交換されたが)・大蔵省兌換証券・開拓使兌換証券などと、兌換とは名ばかりの不換紙幣が溢れていた。 インフレーションの悪化がもたらす破局を是が非でも食い止めねばならぬというので、国立銀行の設立を機会に、それを通じて解決しようとしたのである。 国立銀行設立の条件として、次の条項が持ち出された。国立銀行は資本金の6割に相当する政府紙幣を上納し、それと引換えに6分利付引換公債証書を下付する。 下付を受けた国立銀行は、この公債を再び抵当として政府に預け、同額の兌換銀行券をもらうという仕方である。要するに、不換銀行券を兌換銀行券という名の銀行紙幣に取り換えるだけのことである。 とうじ、正貨兌換に応じるだけに充分な準備金があったかどうかは疑わしい。だからこの方法によっては、インフレーションを収束せしめることはできなかった。 (『西日本相互銀行10年史』から)
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<明治時代後期の金融情勢> 明治時代後期における金融界の特徴的な動きを要約すると、次のようになろう。
@ 明治13年から、国立銀行の新設が許されなくなった結果、20年以降、私立銀行が急激に増加した。しかし、当時、これら私立銀行に対する規制がなされておらず、また、国立銀行も間もなく私立銀行へ転換することになっていたため、 銀行に対する総括的な規制の必要性が叫ばれ、23年に至って「銀行条令」が公布され、26年に施行された。ここに、わが国の近代的な銀行制度が一応その形を整えた。
A 日清戦争後から日露戦争の勃発までの数年間における金融界の特徴は、各種特殊銀行の設立であろう。農・工業の発達促進、植民地の開発などに資すべきこれらの特殊銀行な活動が1つの刺激剤となって、私立銀行は自主性を強化し、金財界の主導的立場を固めるとともに、経済界の一大勢力となってきたのである。
B 日露戦争から明治末期までの数年間における金融界の最も著しい特徴は、銀行預金量の増大であろう。また、預金量の増大に伴って、多くの銀行が抱えていたオーバーローン体質が漸次、改善されてきた。
C 日清戦争後にはまた、銀行の乱設と銀行集中傾向の胎動が見られた。この戦後好況時に設立された銀行の多くは、きわめて小規模なもの、不健全なものが多かった。こうした傾向はその後の不況時にも継続し、明治34年のピーク時には総銀行数は2,358行に達した。
 このような銀行の乱設は、不況の深刻化につれて、脆弱体質の銀行を破綻に追いやった。そこで、政府は明治34年8月、地方長官に通牒し、銀行設立の制限、特に小銀行の乱設防止を図るとともに、銀行合同を奨励する政策をさらに推進した。 このため同年をピークとして、銀行数は漸次減少傾向をたどるに至った。 
 こうして、明治6年の東京第1国立銀行の設立から明治の末期に至る40年の間に、およそ銀行と称する金融機関は全国を通じて2,100余行の達し、その預金額は総計19億円以上に及び、6大都市だけでも、年間の手形交換高が88億円近くにのぼった。これらの点からみても、我が国の金融界が明治維新以来、比較的短い期間にいかに著しい発展を遂げたかが分かるであろう。 (北陸銀行『創業百年史』から)
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<明治11年の予算と決算> 歳入出豫算決算ノ大計
明治11年度歳入出豫算決算ハ左ノ如シ
 経常    50,642,563.995 圓
 臨時     2,633,362.103 圓
  歳入總計 53,275,926.098 圓
 経常    49,584,498.191 圓
 臨時     3,691,427.907 圓
  歳出總計 53,275,926.098 圓
右歳入ノ總計ヲ以テ歳出ノ總計ニ比スレハ過不足無シ
明治11年度歳入出ノ決算ハ左ノ如シ
 経常    53,558,117.362 圓
 臨時     8,885,632.040 圓  
  歳入總計 62,443,749.402 圓
 経常    55,986,709.691 圓
 臨時     4,954,626.048 圓
  歳出總計 60,941,335.739 圓
右歳入ノ總計ヲ以テ歳出ノ總計ニ比スレハ則チ百五拾萬弐千四拾三圓六拾六銭三厘ノ余剰ヲ生ス此余剰金ハ明治七年十月十三日ニ於イテ裁定アリシ會計規程ニ遵ヒ之ヲ準備金ヘ挿入シ以テ該年度間會計ノ全局ヲ結了スルモノナリ (『明治後期産業発達史資料』第3巻から)
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<銀行体質の改善──オーバーローンの解消> わが国の経済界は日清戦争の勃発時から旺盛な企業勃興期に入り、銀行数も逐年増加の一途をたどった。この間、国立・私立銀行とも、業容は拡大し、資本金、積立金、預金、貸出金などの面において資力の充実したが、自己資本に対する預金の比率が低く、預金残高が自己資本の2倍以上に達したのは36年以降のことであった。 また、この時期においては、貸出金のうち商業金融とみられる商手割引は少なかったこと。不動産や株式が貸出担保の主要物件となっていたころ、これに関連してオーバーローンの傾向が顕著であったこと──などが大きな特徴であった。
 オーバーローンの原因としては、@国民所得水準が低位にあって急激な経済発展に対応する任意貯蓄が不足していたこと、したがって、A企業の資金調達は主として銀行に求められ、資金調達のために銀行を設立するという風潮すら生じたこと、 B手形交換制度などの近代的金融制度が十分整備されていなかったため、銀行貸出は勢い中央銀行の追加信用に依存せざるを得なかったこと、C長期設備資金専門の銀行が未整備であったこと──などが挙げられる。
 ところが、日清戦争後の金本位制採用を1つの契機として、経済・金融面における事情の変化、金融当局の各種措置によって、明治30年代以降、オーバーローンは次第に解消されてきた。 その背景は、@巨額な外資が流入してきたこと、A国民所得水準の上昇に伴って貯蓄が増大したこと、B30年以降各種長期資金専門の銀行が整備されたこと、C30年代に全国主要都市に手形交換所が設置され、市中銀行の預金創造能力が向上したこと── などが考えられる。また、金本位制の採用と供に、日本銀行が金融政策を転換したことも、オーバーローン解消に大きく寄与した。すなわち、30年、日本銀行はそれまでの各銀行との取引に加えて、個人との取引を開始し、従来のいわゆる鞘取銀行の弊害を除去するとともに、35年下期以降、公定歩合を市中貸出金利の最低を上回る水準に置き、市中銀行の過度な借入依存の姿勢是正を図ったのである。 (北陸銀行『創業百年史』から)
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<高利貸し的な貸付銀行> 国立銀行の有力な資金源は銀行紙幣の発行で、その流通高は預金高の2倍以上に達し、しかも、その少ない預金のなかで官公預金が大きな割合を占めていた。 一方貸出は主として長期の貸付で、割引手形や荷為替、当座繰越といった本来の商業金融は少なかった。したがって、資金の調達運用の両面からみて、政府の意図した近代的な商業銀行とはおよそほど遠いものとなり、どちらかと言えば、株式会社の形態をとった高利貸資本の観さえあった。
 国立銀行は「西欧先進国に見られるように国民経済の発達に伴って自然発生的に発生したのではなく、近代的生産様式育成という基本的政策に奉仕するよう政府により人工的に整備された」のである。 すなわち、商業信用は「信用の本来の基礎、信用体系の根底であり、信用体系の自然発生的基礎」であるが、わが国においては商業信用が未発達のまま資本信用が創出、発展せしめられた。この「信用体系の根底の転倒特質」こそ「日本信用制度を貫く特質」である。 商業信用の未発達のもとにおいて、国立銀行の貸出が割引手形、荷為替、当座繰越等本来の商業金融がふるわず、株式担保貸出等を通じて会社の設立を扶助し、産業金融に進出せざるを得なかったのは当然である」。 (『日本の銀行制度確立史』から)
貸付資金の源泉は預金よりも払込資本にあった
 「銀行条例」(明治23年8月25日法律第52号)は明治26年7月から施行されたが、明治27年末の銀行数は628行で、そのうち株式会社が510行で圧倒的に多い。 この628行の普通銀行のうち未開業の銀行もあって大蔵省に営業報告書を提出した銀行数は545行である。このなかから三井・安田の両行を除いた543行の預金総額は、三井・安田の合計額を下回り、1行当たりの経営規模は払込資本金5万1,000円、預金3万5,000円、貸出6万6,000円で、三井・安田とは比べものにならないほど小規模であった。 しかも、預金は払込金に及ばず、預貸率は188.1%(三井85.2%、安田86.2%)と異常に高く、払込資本金と預金で貸出をまかなっていた。 したがって、「この時期の銀行の貸付資金の源泉は預金よりも払込資本にあったと言って良いであろう。また貸付も手形割引はほとんどないと考えられるから、これらの銀行は、本来他人資本である預金を基礎とする商業銀行とはおよそかけ離れた、いわば一部の地主、旧富商たちが資金をもちよった、高利貸的な貸付会社と見て良いであろう」 (『日本の銀行制度確立史』から)
五大銀行・地方銀行ともにオーバー・ローンであった
 預金高と貸出高の関係についていえば、預金は少なく、資金需要は優勢であったため、明治29年末の預貸率は五大銀行99.2%、地方銀行116.9%にのぼり、預借率は五大銀行26.0%、地方銀行30.5%で、五大銀行・地方銀行ともにオーバー・ローンであったが、とくに地方銀行がひどかった。 このため、明治30年ごろの「銀行の仕事というものはすべて日本銀行から金を借りてやる。手形はそれを取る時に手形のもののいい悪いよりは、この手形は日本銀行で再割引するしかないかということを標準に手形の選択をしたものです。取った手形は日銀へ以て行く。再割引ですね。その鞘を稼ぐ」さや取りあったし、「諸銀行ノ中ニハ日銀ヨリ引出シタル資金ヲ一個人ニ向ヒテ比較的高利ニ貸付ケ其差金ノ収益ノミヲ以テ目的トスルモノ」もあった。 (『日本の銀行制度確立史』から)
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<国立銀行のコルレスポンデンス契約状況> 『銀行通信録』第18号(1887年5月)に付けられた「付録」から、全国的な規模で、各地とコルレス契約を結ぶ国立銀行は、東京第1、東京第3、東京第100、新潟第4、富山第12、大阪第34、大阪第121の7国立銀行とみることができる。 この7国立銀行に対比される私立銀行は、三井、安田の両行であった。
 これら諸行のコルレス契約の状況は、第1、第3の両国立銀行が際立って多数のコルレス契約をしていた。第1国立銀行は1872年創立以来、わが国銀行制度の中心にあり、官公金取扱い等に大きな役割を果たしてきた。その創立期から、官公金取扱いとの関連で全国的な為替取組に従事していた。 『第一銀行史』上巻(1957年12月 第一銀行)によれば、同行が各地国立銀行と契約したコルレスは、1876年国立銀行条例改正以後、急速に増加した。すなわち1877年末、本支店合計16であったコルレス契約は、1879年末、本支店合計98と発展した。 そして1880年末には、本店および内外支店を合わせて、」125か所となったという。為替取組は、個人間の信用取引を介在させることによって社会的関係たらしめるものである。 そこで金融業者間の信用は、強い社会的責任となる。そこでその取引関係は、固い信頼関係をもとに結ばれるコルレス契約となる。したがってコルレス契約の増大は、為替業務の発展を示すのだが、それは経済発展と共に拡大し、金融業者の発展をこたらすものであった。 わが国においても、銀行制度の草創期以来、まず信用取引の奨励、為替取組の拡大を図ってきた。かかる市中銀行の信用取引の中心にあったのが、第一国立銀行であった。かくて条約改正後における国立銀行の発展は、同行の為替取組を飛躍させることとなった。その結果、コルレス契約は、全国的規模に広がったのである。 (『地方銀行史論』から)
 (T注)21世紀の現代、銀行のATMで振り込むと瞬時に相手銀行の取引先企業口座に入金される。このため普段からなるべく現金を持ち歩かず、必要な場合はATMから相手の口座に振り込む。 現代ではこうした事ができるが、明治時代はそうではなかった。従って普段から自分の預金口座に現金を入れておく、という習慣は少なかったと思う。銀行に預金せず手許に現金を置いておく。ということは信用創造プロセスが働いていなかったと考えられる。 銀行から融資を受けた企業が取引先に支払うと、支払を受けた企業はその資金を預金せずに手許に置いていた、と考えられる。ここで取り上げているのは外国とのコルレス契約ではなくて、国内銀行同士のコルレス契約だ。コンピュータ・システムはもちろんのこと、銀行同士のコルレス契約も十分でなかったのが、明治時代、日本の銀行の草創期であった。 「信用創造プロセス」は現代の預金感覚で銀行制度の草創期を判断している。時代錯誤があると思う。
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<西洋のおとぎ話> サムエルソンの 「銀行はどのようにして金細工業から発展したか」▲ やバーナンキの 「アグリコーラ」▲ の例は抽象的なモデルとしては否定するものではないが、日本の銀行制度確立期の例としてはまったくピント外れだ。 まるで「西洋のおとぎ話」のように思えてくる。けれども日本ではこの程度のレベルの分かりやすい話はない。外国のそれを、内容を日本の例に改めずただ単に言葉を日本語にしただけのものを、教科書に使用している。
 日本で銀行制度が確立する明治時代、江戸時代からの「金利を払って金を借りるが、利息を期待して預金する習慣はなかった」ため、銀行貸出は増えても、預金はなかなか増えなかった。日銀ネットワークもなかったし、日本国内のコルレス契約でさえ十分整ってはいなかった。 このため銀行間の資金のやり取りも、現代にくらべ非常に不便であったことも一因だろう。教科書で使われる例、「融資を受けた企業が取引先に支払い、それを銀行に預金し、それを原資に銀行が融資する」は現代のようにコンピュータ・ネットワークが整った時代のシステムだ。
 サムエルソンの「銀行はどのようにして金細工業から発展したか」は貴金属貨幣の時代の例として考えると良い。日本では江戸時代が貴金属貨幣の時代で、金・銀・銅がそれぞれ貨幣として使われていた。バーナンキの「アグリコーラ」の例は現代のような通貨管理制度の例。そして、日本で銀行制度が確立する明治時代は「金本位制」の時代。 そうしたこともあって、サムエルソンやバーナンキの教科書の例は日本の例として適切ではないと考えられる。
 貴金属貨幣の時代⇒金本位制⇒通貨管理制度、貨幣制度はこのように変わってきている。通貨流通量はどのようにして変わるのか?あるいは変えることができるのか?は制度の違いによって変わってくる。 江戸時代のような貴金属貨幣の時代には政府・幕府が金の含有量を変えることによって通貨流通量を変えた。しかしこれには「邪(よこしま)なるわざ」と反対する意見もある。従って通常では貿易黒字によって外国から、貨幣としての金が多く入ることによって通貨流通量が増える。
 管理通貨制度では民間銀行の貸し出しによって通貨流通量が増える。
 金本位制では、政府・中央銀行が正貨としての金をどれだけ保有するかによって変わってくる。原則は発行限度○○万円とする保証準備発行を定めるのだが、実際は政府の許可で制限外発行とする保証準備屈伸制度が布かれる。
 このように貨幣制度の違いによって通貨流通量の変化の仕組みは違ってくる。サムエルソンやバーナンキの例が日本の例として適切でないのは、このように金本位制度の例として適切でないこともある、と考えると貨幣制度を理解しやすい。 日本の教科書で、このような貨幣制度の違いを易しく説明したものは見当たらない。残念。
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<明治時代の銀行制度を「信用創造プロセス」で説明するには無理がある> このシリーズは、「ベースマネーの増減により、マネーサプライが増減する」というのは「神話」である、と主張するのが目的であった。21世紀の現代では、「銀行は十分な資金を持っていて、ベース・マネーが増えなくても、十分な信用創造はできる」がTANAKAが主張の趣旨だ。 けれども、もしかしたら「銀行に十分な資金がなくて、ベースマネーが増えることによって銀行貸出を増やすことができた時代があった」かも知れない。そのように考えて、日本で銀行制度ができ始めた明治時代を振り返って見た。
 「信用創造プロセスの反対のことが起きていた」とは言えない。けれども実際は、そんなことには関係なく進化していた。民間銀行では「ベースマネーの数字には関係なく」、預金量を超えないように貸出額をコントロールし、オーバーローンにならないように注意する。 日本銀行は正貨とのバランスに注意する。最高発行額屈伸制度が採用されていて、民間銀行の信用創造だけで勝手にマネーサプライが増えていってはいけない制度であった。
 貴金属貨幣制度では現金通貨の量は正貨の量に制限され、預金通貨の量は民間銀行の信用創造の額に影響される。サムエルソンの「銀行はどのようにして金細工業から発展したか」はこの時代の金融制度を解説したものてして理解できる。
 管理通貨制度では正貨の量は関係ない。「たとえ瓦礫のごときものなりとも、これに官府の捺印を施し民間に通用せしめなば、すなわち貨幣となるは当然なり。紙なおしかり。」 なのであって、バーナンキの「アグリコーラ」の例は管理通貨制度を説明したものとして理解できる。けれども日本の明治時代は、最高発行額屈伸制度が採用されていた「金本位制」であった。 この時代を分かりやすく説明した教科書は見当たらない。
 管理通貨制度では正貨の量は関係ないけれども、日本では昭和27年(1952)8月までは「通貨発行審議会」があって、ここが通貨流通量を監視していた。そして、審議会が廃止された後も、大蔵大臣が発行限度や補償充当限度などについて単独で決定できるようになってはいた。 それだけ「管理通貨制度」が理解されていなかった、ということであり、本位制度の考えを引きずっていたわけだ。
 日本で銀行制度が確立した明治時代、「信用創造プロセスが働いていた、とは言えない」がTANAKAの結論だ。幕末から明治初期の金融制度・銀行の動きを調べてみると、このような結論になってしまう。
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<銀行制度略年表>
西暦 明治 月日 出来事
1868 5.15 太政官札(金札)5種発行
1869 6. 1 東京為替会社開業
1870 7.10 大蔵省、民部省から分離
1871 5.10 新貨条例公布(金本位制を採用、1両を1円と改称)
    12.27 新紙幣を発行、旧紙幣(太政官札・民部省札・藩札)引替を公布(明治5年2月15日実施)
1872 11.15 国立銀行条例公布
1873 6.11 第一国立銀行設立(わが国最初の銀行)
1874 10.13 株式取引条例公布
1875 5. 2 駅逓寮および東京府下の郵便局で貯金の取扱開始
1876 3.31 三井銀行設立認可(わが国最初の私立銀行、7月1日営業開始)
    8. 1 国立条例改定(紙幣発行高と兌換準備の条件などを緩和、資本金を最低10万円以上に引上げ)
1877 10 12.12 国立銀行条例補正追加(国立銀行の乱立を抑制)
1878 11 3. 2 国立銀行条例改正(設立資本金・紙幣発行に関する大蔵卿の権限を強化)
    6. 1 東京株式取引所開業
1879 12 11.11 京都第153国立銀行開業免許(以降国立銀行の設立停止)
1880 13 1. 1 合本安田銀行開業
    2.28 横浜正金銀行開業
    4. 1 三菱為換店開業
    6.21 東京貯蔵銀行開業(日本最初の貯蓄専業銀行)
1881 14 10.21 松方正義、大蔵卿に就任(兌換紙幣整理に着手)
1882 15 5. 6 私立銀行・銀行類似会社創立出願方法制定
    6.27 日本銀行条例公布(10月10日開業)
1883 16 5. 5 国立銀行条例改正(営業期間を免許後20年とし、紙幣発行の特権を停止、既発行紙幣は営業満期前に消却)
1884 17 5.26 兌換銀行券条例公布
1885 18 5. 9 日本銀行、最初の兌換銀行券(10円券)発行
1886 19 1. 4 政府紙幣の銀貨兌換開始
1887 20 12. 1 東京手形交換所開設 
1888 21 4.25 市政・町村制公布
1889 22 2.11 大日本帝国憲法発布(明治23年11月29日施行)
1890 23 1.-- わが国最初の資本主義的恐慌発生
    8.13 郵便貯金条例公布(明治26年1月1日施行)
    8.25 銀行条例・貯蓄銀行条例公布(明治26年7月1日施行)
1891 24 1.12 東京・大阪に商業会議所設立
1892 25 9.25 全国商業会議所連合会結成
1893 26 7. 1 銀行条例・貯蓄銀行条例施行
     6.22 三井銀行、合名会社に改組
    7. 1 安田銀行、合資会社に改組
1894 27 8. 1 日清戦争勃発
1895 28 10.16 三菱合資会社銀行部開業
    11. 1 住友銀行開業
1896 29 3. 9 営業満期国立銀行処分法公布
    3.23 国立銀行営業満期前特別処分法公布
    4.20 銀行合併法・日本勧業銀行法・農工銀行法公布
1897 30 3.29 貨幣法公布(10月1日施行、金本位制採用)
    6. 7 日本勧業銀行設立(8月2日開業)
    11.27 静岡農工銀行設立免許(以後明治33年9月までに北海道を除く全国46府県に農工銀行が1行ずつ設立) 
1898 31 6.11 政府発行紙幣通用廃止法公布(通用を明治32年12月31日限りとする)
1899 32 2.-- 国立銀行は営業満期により2月までに消滅
    12. 9 国立銀行紙幣通用禁止
    12.31 政府紙幣通用禁止
1900 33 1.16 銀行条例改正、銀行合併法廃止
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<主な参考文献・引用文献> 明治時代の銀行制度に関する文献をまとめてみました
『富士銀行百年史』       富士銀行調査部百年史編さん室 富士銀行        1982. 3. 1
『山口銀行史』                  編纂・発行 山口銀行        1968. 9.25
『創業百年史』             創業百年史編纂事務局 広島銀行        1979. 8. 6
『四国銀行百年史』           四国銀行百年史編纂室 四国銀行        1980. 7. 1
『京都銀行五十年史』               編集・発行 京都銀行        1992. 3.31
『第一銀行史』                  編纂・発行 第一銀行80年史編纂室 1957.12. 1
『第三銀行80年史』       第三銀行80年史編纂委員会 第三銀行        2003. 6
『山陰合同銀行五十年史』     山陰合同銀行五十年史編纂室 山陰合同銀行      1992. 6. 1
『山形銀行百年史』          山形銀行百年史編纂部会 山形銀行        1997. 9.30
『日本銀行百年史』         日本銀行百年史編纂委員会 日本銀行        1982.10.10
『物語三井両替店』三井銀行300年の原点   三井銀行調査部 東洋経済新報社     1984. 6.14
『埼玉銀行史』             埼玉銀行史編集委員室 埼玉銀行        1968.10. 1
『秋田銀行百年史』         秋田銀行100年史編纂室 秋田銀行        1979.12. 1
『百十四銀行百二十五年誌』            編纂・発行 百十四銀行       2005. 8.31
『創業百年史』          北陸銀行調査部百年史編纂室 北陸銀行        1978. 3.15
『福井銀行80年史』       福井銀行80年史編纂委員会 福井銀行        1981. 3. 5
『第一銀行小史』                 編纂・発行 第一勧業銀行資料展示室 1973. 6.11
『創業百年史』            山梨中央銀行行史編纂室 山梨中央銀行      1981. 3
『東邦銀行小史』                 宮島宏志郎 日本経済評論社     1979. 8.20
『八十二銀行50年史』              編纂・発行 八十二銀行       1983. 6.20
『七十七銀行120年史』             編纂・発行 七十七銀行       1999. 3
『創業百年史』              北越銀行行史編纂室 北越銀行        1980. 9.10
『第四銀行百年史』         第四銀行企画部行史編集室 第四銀行        1974. 5.20
『百五銀行百年のあゆみ』             編集・発行 百五銀行企画調査部   1978. 7.10
『佐賀銀行百年史』                総合企画部 佐賀銀行        1982.12.25
『百十四銀行百二十五年誌』            編纂・発行 百十四銀行       2005. 8.31
『埼玉銀行史』             埼玉銀行史編集委員室 埼玉銀行        1968.10. 1
『千葉銀行史』                  編集・発行 千葉銀行        1975. 3.31
『アメリカの金融制度』                高木仁 東洋経済新報社     1986. 5. 8
『明治前期の銀行制度』日本金融市場発達史T  金融経済研究所 東洋経済新報社     1960.12.25
『近代日本金融史序説』               石井寛治 東京大学出版会     1999. 6.24
『三井銀行八十年史』       三井銀行八十年史編纂委員会 三井銀行        1957.11.25
『三井銀行100年のあゆみ』        日本経営史研究所 三井銀行        1976. 7. 1
『安田保善社とその関係事業史』編修・発行 「安田保善社とその関係事業史」編修委員会  1974. 6.28
『住友銀行百年史』                編纂・発行 三菱銀行史編纂委員会  1954. 8.15
『三和銀行史』                  編集・発行 三和銀行史刊行委員会  1954. 3.20
『東海銀行史』                  編集・発行 東海銀行史編纂委員会  1962.10. 1
『滋賀銀行小史』                   傳田功 日本経済評論社文庫   1979. 4.25
『秋田銀行百年史』         秋田銀行100年史編纂室 秋田銀行        1979.12. 1
『信用金庫50年の歴史』   全国信用金庫協会50年史編纂室 全国信用金庫協会    2002.12.20
『日本の銀行制度確立史』日本金融市場発達史U 金融経済研究所 東洋経済新報社     1966. 7.15
『八十二銀行50年史』              編纂・発行 八十二銀行       1983. 6.20
『伊予銀行五十年史』       伊予銀行五十年史編纂委員会 伊予銀行        1992. 6.25
『横浜正金銀行全史』第1巻            編集・発行 東京銀行        1980. 9.30
『十二銀行史』           編集・発行 元十二銀行内=奥野要吉郎・田中作太郎 1944. 7.10
『十七銀行六十年史』               編集・発行 十七銀行        1940.12.20
『第八十五銀行史』                編集・発行 第八十五銀行      1944. 6.20
『南都銀行小史』             南都銀行行史編纂室 南都銀行        1984. 6. 1
『本邦貯蓄銀行史』            協和銀行行史編集室 協和銀行        1969. 9.30
『駿河銀行80年史』               編集・発行 駿河銀行        1975.10
『するが90年の歩み』     駿河銀行90周年委員会事務局 駿河銀行        1985.10.19
『百年航路』スルガ銀行創立100周年記念誌 スルガ銀行総合企画部 スルガ銀行     1995.10.19
『大和銀行80年史』       大和銀行80年史編纂委員会 大和銀行        1999. 2. 1
『創業百年史』             荘内銀行百年史編集室 荘内銀行        1981.12. 1
『本邦貯蓄銀行史』            協和銀行行史編集室 協和銀行        1969. 9.30
『駿河銀行80年史』               編集・発行 駿河銀行        1975.10
『欧州中央銀行の金融政策』             羽森直子 中央経済社       2002. 4.20
『欧州中央銀行の金融政策』欧州中央銀行著 小谷野俊夫・立脇和夫訳 東洋経済新報社   2002. 7.11
『第三銀行80年史』       第三銀行80年史編纂委員会 第三銀行        2003. 6
『ふるさととともに』愛媛銀行の50年 愛媛銀行50年史編纂委員室 愛媛銀行      1993. 7.30
『高知銀行60年の歩み』         高知銀行調査情報部 高知銀行        1990.11.30
『豊和銀行史』             豊和銀行史編纂委員会 豊和銀行        1992.12.25
『徳島銀行80年史』           80年史編纂委員会 徳島銀行        1998.12.25
『「せとぎん」創立五十周年記念特集号』      編集・発行 せとうち銀行      1992. 5. 1
『創業百年史』            山梨中央銀行行史編纂室 山梨中央銀行      1981. 3
『静岡銀行史』            静岡銀行50年史編纂室 静岡銀行        1993. 3.31
『金融』日本史小百科            加藤隆・秋谷紀夫 東京堂出版       2000. 7.31
『山陰合同銀行五十年史』     山陰合同銀行五十年史編纂室 山陰合同銀行      1992. 6. 1 
『西日本相互銀行10年史』       西日本相互銀行企画課 西日本相互銀行     1954.12. 1
『明治後期産業発達史資料』第3巻  明治11年度歳入出報告書 龍渓書舎        1988. 2
『日本の銀行制度確立史』日本金融市場発達史U 金融経済研究所 東洋経済新報社     1966. 7.15
『西郷札』                     松本清張 光文社         1963.12. 5
『鹿児島銀行百年史』          鹿児島銀行行史編纂室 鹿児島銀行       1980. 2.29
『120年のあゆみ』          鹿児島地域経済研究所 鹿児島銀行       2000. 1.
『110年の歩み』       十八銀行110年史編集委員会 十八銀行        1988. 6
『地方銀行史論』為替取組と支店銀行制度の展開    岡田和喜 日本経済評論社     2001. 3.10
( 2006年6月12日 TANAKA1942b )