年 月 末 |
預金 |
貸出金 |
借用金 |
20・7 |
9,861 |
7,215 |
2,180 |
8 |
10,469 |
7,668 |
2,587 |
9 |
10,979 |
8,254 |
2,077 |
10 |
10,891 |
9,081 |
2,932 |
11 |
10,862 |
9,312 |
3,361 |
12 |
10,339 |
10,192 |
4,208 |
21・1 |
9,832 |
10,919 |
4,782 |
(『三菱銀行史』から)
<戦後経済のスタートと金融情勢>
昭和21年3月末の日本興業銀行および5大銀行の軍需融資404億円に、戦争保険融資242億円を加えた金額は総貸出の83.8%に達し、銀行はこれを供給するために一方では日本銀行借入金に依存すると共に、他方では政府保証を得ていたのであるから、保証が取り消しとなれば、軍需会社と銀行の資産は甚大な影響を受け徹底的な再建整備を行わなければならなくなった。
そこで政府は8月金融緊急措置令試行規則を改正し、封鎖預金を第1封鎖と第2封鎖に分け、第2封鎖は原則として凍結した。
また会社経理応急措置法により軍需会社や在外資産保有会社を特別経理会社として新旧勘定を分離させたほか、金融機関経理応急措置法により8月11日現在で金融機関の決算を行い、資産負債を新旧勘定に分離させた。
10月公布の金融機関債権整備法により、金融機関も企業と同様の再建整備を行うこととなったのである。
なお、戦後の生産再開に必要な総合経済計画の立案と実施のため、経済安定本部が発足したのもこの年8月であり、また22年1月には復興金融金庫が開業し、日本興業銀行の復興金融業務を引き継いだ。
同金庫は復興金融債権の発行、貸付、債務の引受・保証、社債の応募・引受などを行う国家信用機関として全額政府出資で資本金百億円で発足したが、その後数次の増資で、23年12月には1,450億円となった。
復興金融債権の発行高も23年までに合計1,680億円に達したが、肝心の市中消化が悪く、発行額の70%前後が日本銀行引受となり、いわゆる「復金インフレーション」の主因となった。
また融資残高は23年度末1,319億円で、その84%が石炭・電力・鉄鋼・肥料・海運の5重点産業ならびにこれらの原材料を配給統制する公団への融資であり、その使途は運転資金が半分以上を占め、そのうち赤字融資と見るべきものが少なくなかった。
(『第一銀行小史』から)
(^_^) (^_^) (^_^)
<預金封鎖の実施>
昭和21年2月16日、土曜日の夕方、渋沢蔵相はラジオ放送で重大な声明を発表した。預金の自由な払い出しを当分の間禁止し、流通中の日銀券を無効にすると国民に告げたのだ。
前年暮れに国会や記者会見でその実施を匂わせる発言をしていたとはいえ、その日暮らしの生活に追われていた多くの一般国民にとって寝耳に水だった。
経済危機緊急対策の一環として翌17日に公布施行された「金融緊急措置法令」によって、すべての金融機関の預貯金、金銭信託、年金などは即日封鎖され支払を停止された。
同時に「日本銀行券預入令」によって、3月3日以降、10円札以上の日銀券は強制適用力を失った。22日以降は5円札もその対象にされた。適用力を失った紙幣は2月25日から3月7日までの間に一定金額、個人はひとり100円を限度に新円の紙幣と等価交換され、のこりの旧円紙幣は金融機関に預入され、封鎖預金の取り扱いを受けた。
封鎖預金からの新円での払い出しは、たとえば、生活費の引き出しは世帯主月額300円、のちに100円、世帯員ひとり月額100円以内と厳重な制限が設けられた。給与はひとり月額500円までは新円で支払われるが、それ以上は封鎖預金に入れられた。新円で開設された預金は出し入れ自由で、自由預金と言われた。
封鎖預金の事務手続きは金融機関に委任され、銀行員が新円払いの適否の認証事務を行った。支店業務は繁忙を極めたばかりでなく、封鎖ため預金を引き出せなくなった預金者の苦情が窓口に殺到した。
窮迫した生活事情のもとで強引な要求や切実な訴えが少なくなく、封鎖預金への説得は当行職員をずいぶん悩ませた。なかには支店に押しかけ、暴力をふるって封鎖預金の解除を強制しようとする客もあった。
当時の社長野田哲造は後年、夜になって私宅まで押しかけてきた人に一人ひとり会って銀行が払い出しできない事情を説明し、何とか謝って帰ってもらったと、対応に苦慮したことを述懐している。
(『住友銀行百年史』から)
<インフレと預金封鎖と日銀券発行高>
終戦後におけるわが国の緊急課題は、インフレによって引き起こされた物価と通貨の悪循環を断ち、経済活動を正常に戻すことであった。
このため政府は、昭和21年2月16日土曜日の午後、銀行の営業が終了する1時30分を帰して一連のインフレ総合緊急対策を発表した。その狙いは、既存の預貯金の潜在購買力を封鎖し、さらに600億円を超える通貨の流通を一時停止して、物価の安定をはかることにあった。
そして明くる17日に「金融緊急措置令」「日本銀行券預入令」を公布し、即日実施することとなった。その骨子は、
(1) あらゆる金融機関の預貯金を2月17日(日曜日)をもって封鎖し、その支払を原則として停止する(金融緊急措置令)
(2) 10円券以上の既発行券(旧円)の強制通用力を3月3日以降失効させて新に新券を発行する(日本銀行券預入令)
(3) 旧円は3月7日限りこれを金融機関に預入すれば封鎖預金と同様の取扱いとする(日本銀行券預入令)
(4) 毎月の生活資金(1世帯当たり世帯主300円、家族は1人につき100円、定期的給与500円)o
事業資金に対してのみ新円による封鎖支払いまたは現金支払いを認める(金融緊急措置令施行規則)
という思い切った措置であった。
これによると、例えば3人家族のサラリーマンであれば、封鎖預金があっても月1,000円、なければ月500円の生活を強いられることになる。これら一連の非常措置に類似したものに、大正12年の関東大震災時と昭和2年の金融恐慌時に実施された”モラトリアム”があるが、いずれも震災と恐慌に直面して機能が果たせなくなった金融機関を救済しようとしたものであった。
このたびの金融措置は、これまでに例のないインフレ進行の阻止を目的としたもので、むしろ前述のモラトリアムよりも強力であり、悪性インフレ征圧のただならぬ決意がうかがえる画期的なものであった。
このように現金の強制預入と封鎖で預金が大幅に増加したことにより、金融機関は資金繰りの危機から免れ、地方銀行は国債消化、そして都市銀行は日銀借入の返済に向かっていった。
この結果、日銀券は2月18日の618億円から一挙に収縮して3月12日には152億円となった。しかしその後も財政の赤字支出が続いたため、いったん大幅に収縮していた日銀券は、21年4月以降再び増勢に転じ、同年9月末には644億円と金融緊急措置以前の水準を突破、インフレは再燃することっとなった。
昭和21年 |
残高・単位百万円 |
前日比増減 |
2月16日(土) |
61,451 |
912 |
18日(月) |
61,824 |
373 |
19日(火) |
61,730 |
△94 |
20日(水) |
61,979 |
△280 |
21日(木) |
60,979 |
△470 |
22日(金) |
60,261 |
△718 |
23日(土) |
59,691 |
△569 |
25日(月) |
58,679 |
△1,011 |
26日(火) |
57,549 |
△1,129 |
27日(水) |
54,991 |
△1,558 |
28日(木) |
54,342 |
△1,648 |
3月1日(金) |
52,631 |
△1,711 |
2日(土) |
49,774 |
△2,856 |
3日(日) |
46,735 |
△3,039 |
4日(月) |
41,812 |
△4,922 |
5日(火) |
36,473 |
△5,348 |
6日(火) |
31,906 |
△4,557 |
7日(木) |
29,726 |
△2,179 |
8日(金) |
25,224 |
△4,502 |
9日(土) |
16,166 |
△9,058 |
11日(月) |
15,453 |
△712 |
12日(火) |
15,204 |
△248 |
13日(水) |
15,349 |
144 |
14日(木) |
15,745 |
396 |
15日(金) |
16,055 |
310 |
16日(土) |
16,477 |
422 |
『日本銀行百年史』(第5巻)
(『伊予銀行五十年史』から)
<銀行券発行制度の改正>
昭和17年(1942)2月制定の「日本銀行法」により、わが国の恒久的な銀行券発行制度として最高発行額屈伸制度が採用されたが、戦時における銀行券の著しい増発のため、昭和18年度以降この制度は実質的には停止状態になっていた。
戦争終結直後のインフレーションの高進とともに、発券制度が議論の的になったのは自然の成り行きであった。
(『日本銀行百年史』から)
<銀行券発行保証充当限度額の推移>
(単位:億円)
決定年月日 |
対民間信用分 |
対政府信用分 |
合計 |
23・ 2・ 4 |
394 (13.5) |
2,594 (86.5) |
2,928 |
3・31 |
769 (25.8) |
2,208 (74.2) |
2,977 |
9・30 |
751 (19.3) |
3,135 (80.7) |
3,886 |
12・15 |
651 (15.7) |
3,505 (84.3) |
4,156 |
24・11・ 1 |
1,010 (21.5) |
3,690 (78.5) |
4,700 |
25・ 2・ 1 |
1,440 (34.1) |
2,780 65.9) |
4,220 |
10・18 |
2,120 (50.2) |
2,100 (49.8) |
4,220 |
11・28 |
2,800 (57.1) |
2,100 (42.9) |
4,900 |
26・ 5・ 1 |
3,400 (69.4) |
1,500 (30.6) |
4,900 |
12・16 |
4,400 (72.1) |
1,700 (27.9) |
6,100 |
(『日本銀行百年史』から)
(T注) 民間銀行の信用創造により通貨流通量が増減したとしても、貨幣の発行高を法律で定めてそれを守らそうという発想だ。
つまり、この頃は「日銀券の発行高は日銀が決め、その額を守ることができる」と考えていた。すでに戦前から管理通貨制度になっていたのもかかわらず、金本位制の考え方が支配していた。
管理通貨制度では正貨の量は関係ないけれども、日本では昭和27年(1952)8月までは「通貨発行審議会」があって、ここが通貨流通量を監視していた。そして、審議会が廃止された後も、大蔵大臣が発行限度や補償充当限度などについて単独で決定できるようになってはいた。それだけ「管理通貨制度」が理解されていなかった、ということであり、本位制度の考えを引きずっていたわけだ。
(^_^) (^_^) (^_^)
<スタンプ手形制度>
スタンプ手形制度は、当面、炭鉱、肥料製造、繊維加工業(生糸および紡績を除く)および地方の緊要な特定の工場に適応された。
生糸が除かれているのは、21年4月26日に、金融緊急措置の特例として、購繭資金、生糸生産資金の一定割合の自由支払が認められていたためである。また紡績が除かれているのは、21年6月、総司令部の輸入許可に基づいて米国より原綿2200万ポンドが輸入されることになり、貿易庁がこれを紡績会社に委託加工させ、
6割を輸出、4割を国内向け、輸出代金で輸入原綿代金を決済することになった。したがって原綿代金は不要であるが、加工のための資金が必要となり、5大銀行を中心とするシンジケート団が組成され、綿業再開資金11億円、運転資金16億円を融資することが決まった。
これにともない日銀はこのために発行された手形の再割引に応ずることにしたためである。
スタンプ手形制度は、輸出前貸金融にも適用され、21年8月30日、貿易手形制度が実施された。当行も手形取得に努め、再割引の活用を推進した。
その結果、当行貸出金に占める割引手形の比率はしだいに上昇したが、全体の資金需要が強く、新勘定貸出金は増加し、日銀借入を中心とする借入金と再割引手形を合算した借用金残高は増加の傾向をたどった。
(『富士銀行百年史』から)
<傾斜金融の開始>
わが国の原材料ストックは昭和20年秋ごろになるとしだいに底をついてきた。21年12月、ようやく重油、コークスなどの輸入が総司令部によって認められた。
これをまず鉄鋼部門に投入、次に生産された鉄鋼を石炭部門に投入して鉄鋼と石炭の生産を増加させ、これをさらに他の重点産業に投入しようとした。いわゆる「傾斜生産方式」と呼ばれるものである。これにともない金融政策も傾斜金融の色彩を強くしていった。
22年1月25日、「復興金融金庫」が業務を開始した。復興金融金庫は産業資金のうち民間の金融機関からの融資を期待しえない場合の金融を行うものとされた。
鉄鋼、石炭などの重点産業は、戦時保証打ち切りの影響も大きく、多額の必要資金を全部民間の金融機関から融資を受けることは期待できなかった。復興金融金庫の高僧は、21年の年初からあり、6月に閣議決定が行われ、法案成立までは日本興業銀行が担当することになった。
そこで日本興業銀行は復興金融部を設け、8月1日より業務を開始、22年1月に金融金庫に太宗を引き継いだ。
復興金融金庫は22年1月に開業し、24年4月、ドッジラインにより新規貸出を停止した。この間の融資についてみると、22年度までは赤字融資が多かったが、23年度は復金インフレ抑止の観点から制限が加えられ、設備資金の比重が増えた。貸出先では石炭、鉄鋼、肥料、電力等の重点産業が多かった。
また所要資金は大部分を復金債の発行に仰ぎ、その多くの部分を日本銀行引き受けに依存したため、これが通貨増発の原因となり、いわゆる復金インフレといわれた。
このようにインフレの解消という目標がありながら、重点産業のために信用を創出することが当時の金融の使命であった。したがって民間金融機関に対しても傾斜金融が強く要請され、それが後述する融資準則になってあらわれたのである。(中略)
戦後の日本経済の復興は、戦争による打撃から立ち直ることの比較的早かった繊維工業、繊維商社の地盤である大阪地区から始まった。当行ではこの時期、まず資金を大阪地区に優先的に投下し、戦後の当行の取引基盤を築いていった。
富士銀行の誕生とともに推進されていく経済主流取引はこのころからその萌芽があったのである。
(『富士銀行百年史』から)
<昭和30年の金融緩和と貸出規制の恒常化>
昭和30年の数量景気をもたらした輸出の好調と国内の方策は、外為会計、食管会計を通じて、市中に大量の資金を散布することになり、急速に金融緩和に向かった。
当行の日本銀行からの借入も、30年3月末に193億円あったものが、30年9月末には63億円、31年3月末には外為関係の借入(外国為替引当借入)10億円を除いてゼロになり、オーバーローンも実質的に解消した。企業の資金繰りも好転し、余裕資金を借入返済にあてる企業も増加した。
30年度上期の当行貸出増加額は31億円で、引き締め直前の28年度上期の増加額177億円に比べると実に6分の1であった。(中略)
「岩戸景気」の行き過ぎに対する調整策として34年12月から35年7月まで予防的引き締めが行われたが、36年に入って国際収支が悪化し、36年9月から37年9月まで本格的な引き締めが実施された。
その後再び国際収支が悪化して38年12月から39年12月まで金融引き締めが行われた。この間、一貫して産業界の設備投資は旺盛で設備資金、運転資金を含めた膨大な資金需要が都市銀行に集中した。
すでに30年代前半から都市銀行の外部負債依存傾向が強まっていた。外部負債の増加は、日本銀行の窓口規制との関係で経営の弾力性低下を意味した。また、高金利のコールや借入金が増加することは収益面に少なからぬ影響をもたらし、資金ポジションの優劣が収益力の差に直接反映する状況となった。
貸出の規制は、日銀の引き締め政策への協力と同時に、都市銀行自体の主体的な立場で強化されなければならなかった。
このような情勢で、当行は主要取引先からの多額の借入申込に対し、長期的な貸出政策と資金ポジションとの兼ね合いのなかで、徹底した重点方針のもとで、貸出を行った。
しかし、それでも外部負債の増加を免れなかった。37年から「新金融調節方式」が導入されたため日銀借入金は37年3月末の1272億円から40年3月末には1070億円に減少したが、コールマネーおよび金融機関借入金が162億円から1569億円に増加し、
輸入決済資金借を含む借用金合計は1485億円から2746億円に増加した。また外部負債の内容が金利の高いコールマネーや金融機関借入金へ移行したことが影響して、38年下期の業績は、他の都市銀行同様、33年下期以来初めての減益となった。
(『富士銀行百年史』から)
<金融機関資金融通準則>
いわゆる石橋財政の転換に伴って、金融面においても22年初頭から融資規則が強化され、以後は、日銀の追加信用による通貨の増発を抑制するために、金融機関が自由預金増加の範囲内で資金量を規制し、同時に重要産業への必要資金を確保するために、いわば傾斜金融方式ともいうべき質的な規制も行われることになった。
その後、片山内閣においてもこの方針は継続され、22年3月1日には「金融機関資金融通準則」が公布施行されたのである。
この準則は、金融機関(銀行・信託・保険・農林中央金庫・商工組合中央金庫)が自主的に融資規制を行うに当たって準拠すべき事項を定めたもので、要旨は次のようなものであった。
(1)貸出優先順位
融通資金は、産業資金貸出順位表に定められた基準に従って、まず最重点産業の所要資金に充当し、次にその他の緊急な資金を供給するものとし、これ以外の資金の融通を最小限度にとどめるよう計画的に運用しなければならない。
優先順位表の要約
甲の一=石灰・亜炭・製鋼・肥料
甲の二=金属工業・石油鉱業・石綿・綿織物・染織整理など。
乙=甲および丙に属さないもの。
丙=絹糸・金属製家具・家庭用電気器具・化粧品・菓子・精米など。
(2)日銀の融資斡旋に対する強力 (以下略)
(『東海銀行史』から)
<タンス預金とインフレと>
敗戦から昭和22年までは、どの銀行にとっても苦難の時期であった。金は再封鎖を恐れてタンス預金となり、あるいは減価をさけ物に向かって預金とならず、その上、インフレで諸経費は上昇するという状態であった。
したがって、これまでのような債券投資中心の資金運営では経営を維持しえず、有利な貸出先を獲得する必要があったのであるが、経済の混乱のためにそれも容易ではなかった。
しかし、この多難な時期は、同時に地方銀行にとっては、その後の発展への強固な基礎づくりの時期でもあった。とくに、昭和はじめの恐慌以来、地元銀行の地位がいちじるしく低下していた福島県にあっては、東邦銀行のその後の発展の基礎がつくられた時期であった。
地方銀行がこの困難な時期を何とか乗り越えられたのは、戦中の1県1行主義の実現によるところが多大であった。たとえば、戦後もしばらくの間は、ほとんどの物資の統制が続いたのであるが、全県下に支店網をもつ地元銀行が、それら統制団体の流通資金をほぼ独占的に担当することになったのは当然であろう。
安全で有利な取引先を見つけるのが困難であった時期に、それは極めて大きな役割を果たしたのである。「当行が……福島県唯一の地元銀行としての素地を戦後になって獲得することができたのは、もとより努力のしからしめるところであるが、その背景には……統制経済下の流通資金ルートを良く利用しえた事情も認められる」
本県が農業県であったことも有利に作用した(多くの地銀にとって同様である)。一時的とはいえ、農家経済がうるおったことは、有力な資金源となった。また、軽工業を中心とした地場産業もしだいに復興してゆき、統制もだんだん解除されてゆく。
戦争中の国債消化機関としての地銀から、県下一円の商工業者を中心とした地銀本来の姿に戻って行くのである。
東邦銀行で、貸出金が有価証券保有を上回るのは昭和23年以降である。そして、前に述べた内部体制の整備と相まって、近代的銀行へと急速に脱皮して行くのである。
(『東邦銀行小史』から)
<貸出金の運用と管理>
当行では昭和21年の金融緊急措置のあおりで預金が伸び悩んだうえに、徴税の強化によって第1次封鎖預金から納税資金の引き出しが相次いだことから、資金繰りがにわかに窮屈になった。
このため、日銀借入が一挙に増え、23年3月末の借用金勘定は1億2,600万円となり、総預金に対する割合は6.3%と、かつてない高率を記録するに至った。
このような情勢に直面して、当行は、専決貸出権限の停止、無担保貸出の抑制、不要不急貸出の回収などの一連の措置を講じたが、県内重要産業の復興資金、賃金・原料の値上がりによる運転資金、地方公共団体に対する貸出など資金需要は極めて旺盛で、貸出金は22年から24年初めにかけて大幅に増加した。
25年に入り、6月の朝鮮動乱勃発以来、活発となった輸出の増大と生産の拡大で資金需要が急増したことや、26年から始まった休戦交渉に起因する国内景気の中だるみで滞貨融資が増えたことにより、市中銀行のオーバー・ローンは一段と顕著になった。
こうした局面を打開するため、政府は26年6月、「インフレを回避し重要産業向け資金を確保するとともに不要不急融資を抑制する」新経済政策を発表し、続いて10月には、大蔵省から各銀行に対し設備資金の融資を抑制するよう、との通達が出された。
当行は、この政府の方針にのっとり、貸出に当たっては不急融資を抑制して量的規制を強化するとともに、質的向上をも図るため、信用調査、選別融資、担保貸出主義を徹底した。
動乱ブームによる投資の急増が沈静に向かった27〜28年には、景気が停滞気味に推移したことから、政府は28年度には財政投融資を中心とする積極的な財政政策をとることになった。
この政策が功を奏して、民間設備投資と輸入は活況を呈したが、反面、物価の国際的割高による輸出の不振が響いて国債収支が悪化したため、日本銀行は、28年秋から29年にかけて、窓口規制と高率適用を強化して金融引き締めを行うことになった。
当行は、こにように金融事情が変動するさなかの28年11月の支店長会議で融資方針を発表、「貸出額の増加は預金増加額の50%を目標とし、抑制すべき融資は抑制する一方、地場産業の育成に寄与する資金は積極的かつ円滑に供給するよう」示達した。
この間の貸出内容をみると、戦後の復興期には貸出の60〜70%が、大手紡績に対する協調融資と繊維、紙、パルプ、食料品、木材、木製品などの県内製造業に集中していたが、26年頃からは商業活動が活発化しはじめて商業部門への貸出が増加するなど、資金量の増大とともに業種分散化の傾向がみられ、地方経済の各層にわたって幅広い接触を持つことになった。
(『伊予銀行五十年史』から)
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<貨幣経済の再開と相次ぐ通貨切替え=琉球銀行>
敗戦の混乱を経て人心もようやく落ち着きを取り戻し、収容所から旧居住地への復帰が許された1945年末ごろになると、住民の間から当然のことながら通貨経済の復活を要求する声があがった。
「……単なる配給でただ食って生きていくという今日では、働き甲斐がない」、「……働きに応じて報酬を受けるということにしないと、住民はナマケグセがついて、ついに遊惰の民となって救えなくなってしまう……」、
「……今日のようにただ配給を受けて、食うに心配はいらぬ、仕事はなるだけ骨おしみをしようという勤労精神に反するような状態が長く続いたら大変なことになる」、「……何らかのかたちの売店が欲しい……日常必需物資の入手方法がないため、タバコ、歯ブラシ、下駄、その他の必需品はヤミ取引である……」
などであった。いわば「働いて賃金を受ける」、「金で物を買う」、「余分を貯え、生活を高めていきたい」など、無通貨経済の不便さを嘆き、貨幣制度の生み出すメリットを強く求める声であった。
しかし、占領下の沖縄経済の立て直しを画策していた米軍政府が貨幣経済の再開を宣言したのは、住民が旧居住地へ復帰して農工業などへ従事し、少なくとも交換可能な物資・サービスの供給ができるようになった1946年3月に入ってからであった。
すなわち、米軍政府は1946年3月25日に特別布告を発し、@B型円軍票、A新発行日本銀行券、B5円以上の証紙貼付旧日本銀行券、C5円未満の旧日本銀行券および硬貨を法定通貨として指定した(但し八重山では、上記の法貨のほかに八重山郵便局印紙切手類出納会計官之印が押印された5円以上の旧日本円銀行券も流通した)。
この布告に基づいて、4月15日から28日にかけて住民が戦時中から所持していた旧日本円が回収された。しかし、上記の通り数種の通貨が法定通貨として指定されていたにもかかわらず、実際に1対1の割合で交付されたのはB型円軍票(以下B円と称する)であり、B円のほか一部旧日本銀行券が流通しただけで新日本円は発行されなかった。
これが第1次通貨交換である。
なお交換に当たっては、当時の物資不足にかんがみインフレ防止の見地から手持現金を制限する措置が講じられた。交付されるB円現金は世帯主100円、家族1人増す毎に50円を加えた額に制限され、それを超過する分は封鎖預金として預け入ることが強制され封鎖凍結された。その後は、毎月世帯主100円、家族50円に限って引き出しが認められた。
一方、奄美大島、宮古、八重山については、沖縄群島に比べて戦災が少なかったこともあって、交換時の交付額は世帯主100円、家族1人当たり100円であり、以後引き出しに当たっても世帯主300円、家族1人当たり100円に増額された。
一方、この通貨交換と並行して、1946年5月1日には公務員および軍雇用者に対する賃金制度、配給物資の有償制が実施に移された。
賃金は軍作業で時給制、民間では日給と月給制が採用された。1946年6月3日、戦後初の月給を受け取った沖縄民政府の職員は、月給を懐に家路を急いだという。
こうした制度の確立によって、終戦後の無償配給制度とそれに基礎を置く物々交換制度に終止符が打たれ、貨幣経済が本格的に動き出すようになった。
(『琉球銀行35年史』から)
<米軍政下の金融情勢>
昭和23年5月4日、軍政府は布令第1号「琉球銀行の設立」を公布、5月1日に遡及して発効することとなり、ここに全琉を統括するかたちの中央銀行的権限を付与された琉球銀行の設立をみるのである。
そして、これと同時に大島中央、宮古、八重山の各銀行が吸収された。沖縄中央銀行は5月1日に沖縄銀行(現在の当行とは別)と改称され、7月1日に吸収合併された。
なお琉球銀行の資本金は、米軍政府が51%出資し、残りを一般住民および各市町村が負担して設立されるのであるが、色々と話題になりながらの昭和47年5月の本土復帰なで株式の51%は米国民政府(昭和25年12月に米軍政府を改称)が保有したままであった。
昭和24年になると、一般の経済活動はにわかに活発化する。とくに商業の活動は著しく、昭和23年11月の自由企業制の開始から25年10月までに1万9,070件の企業が設立された。
このころ、運輸、バス、石油会社等も設立された。加えて昭和26年から民間貿易も再開されたこともあって、多量の物資が本土から輸入され、消費ムードを助長した。
いわゆる「貿易庁ブーム」である。本土から輸入される物品は、数倍の値で飛ぶように売れた時代であった。
ここで資金の需要がにわかに高まった。しかし、既存の金融機関だけでは一般に対応するには困難があった。このため市中では、個人金融が盛んになり、大1割(月10%の金利)という高金利も生まれていた。巷では市中銀行設立の動きも起こったものの、軍政府は許可しなかった。そこで民間による無尽会社設立の気運が高まった。
昭和24年3月1日、軍政副長官は沖縄民政府知事へ書簡を送り、琉球銀行の監督下におかれることを条件にして無尽会社の設立を認めた。
こうして昭和24年に、沖縄本島に那覇無尽梶A沖縄無尽梶Aが設立され、宮古に宮古共栄無尽梶A八重山に八重山無尽鰍ェ設立された。
さらに昭和25年から29年までの間に、鰍ンやこ無尽、南陽無尽梶A三和無尽鰍ェ設立された。
ところがこれは軍政府の方針に反し、本島で2社、宮古で1社多かったことになる。ちなみに軍政府財務部は、昭和24年1月17日の全琉財政部長会議で、「健全な財政金融運営の観点から」と称して、無尽会社の数を、奄美1社、沖縄本島2社、宮古1社、八重山1社と公表していたのである。
こういう情勢のなかで、昭和25年6月朝鮮戦争が勃発、軍事基地建設ブームが訪れた。さらに朝鮮半島へ出動する米軍部隊が沖縄へ移駐してきたため軍人軍属による消費需要が起こり基地関連収入が急激に上昇した。
昭和27年6月、米民政府は高まる資金需要にかんがみ、無尽会社の預金貸付業務の取扱いを認可する。また昭和28年10月、立法第68号「相互銀行法」が公布され、翌年12月には沖縄、那覇、南陽の無尽会社がそれぞれ、相互銀行に名称を変更した。以後、無尽会社は次々、相互銀行へ転換した。
その他、昭和25年から30年の間に、琉球復興金融基金(のちに琉球開発金融公社〜現・沖縄振興開発金融公庫に継承)、協同組合中央金庫(現・沖縄県信用農<漁>業協同組合連合会)、移民金庫(昭和35年解散)、大衆金融公庫(現・沖縄振興開発金融公庫に継承)が設立された。
また、民間金融機関として、火災および生命保険会社、商工信用協同組合などが次々設立され、戦後沖縄の金融機構の基礎が固められたのである。
(『沖縄銀行30年史』から)
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<とみん銀行の門出>
朝鮮動乱の勃発で特需ブームが到来するとともに、各種企業の設備投資が相次いだため、市中銀行はほとんどオーバー・ローンとなり、中小企業を顧みる余裕はなくなった。
こうした実情に対応して東京都並びに東京商工会議所は、合同で中小企業専門銀行設立について検討を進め、26年6月には試案がまとまった。
内容は、「資本金を3億円程度とし、その半分以内を東京都が出資し、あと半額以内を民間公募とするが、都の出資分は逐次民間に肩代わりさせる」というものであったが、この案に対する反対の声は強く、大蔵省も地方自治体が銀行に出資することに難色を示したため計画は一時とん挫した。
ところが、特需ブーム後の反動不況が起こると中小企業金融問題は早急な解決を迫られるようになった。そこで、都の幹部はこの問題について理解のある工藤氏に意見を求めたところ、氏は「全額民間出資の銀行が望ましい」との助言を与え、「資本集めについても協力を惜しまない」と述べて激励した。
26年7月、東京都はこれまでの計画を白紙に戻すとともに、新に知事の諮問機関として東京都地方銀行対策審議会を発足させ、審議会会長に工藤昭四郎を選出した。
そのころ工藤氏は、復興金融金庫法廃止(同年3月)により理事長の職を退くことが決まっていた。このため審議会は、安井都知事への答申に当たっても工藤氏を新銀行設立準備委員長とするよう付帯決議をつけるなど、氏の手腕に大きな期待を寄せたのであった。
都知事はこの答申を受け、直ちに「東京都民銀行」の設立を工藤氏に委嘱した。氏は、まず同じ趣旨のもとで設立準備中だった「東京商工銀行」との合同工作を行い、東京都民銀行への傘下を要請し、12月28日からはすでに決定済みの資本金1億2,500万円(授権資本2億5,000万円)の公募に入った。
応募は12月25日に締め切られ、1億3,500万円に達し資本金を1,000万円もオーバーした。応募先の約3分の2は経済同友会関係企業、約3分の1が中小企業及び一般民間で、経済界の工藤氏に寄せる信頼の厚さがいみじくもこの株式の公募を通じて浮き彫りにされたのであった。
このような経過をたどって、昭和26年12月12日、「株式会社東京都民銀行」はスタート(昭和50年から東京都民銀行は愛称を”とみん銀行”とした)、初代頭取には工藤昭四郎氏が就任した。
(『都民とともに三十年』から)
<長野県商工信用組合⇒長野銀行>
松本商工会議所は昭和24年度(1949)の議員総会で、松本市に本店を置く銀行を設立する運動が具体化すれば、これに協力して中小企業の要望に応えることを決議した。
24年6月に「中小企業等共同組合法」および「共同組合による金融事業に関する法律」が公布、7月に施行されるとともに、市街地信用組合法は廃止され、市街地信用組合の全部と信用事業を行う産業組合や商工共同組合は、それぞれ信用協同組合に改組されることになった。
これを受けて関係者の間から、地元の中小企業の切実な要望に応えるためには、設立形態は銀行ではなくて、信用協同組合ではどうかという考えも出された。
このため松本商工会議所と長野県共同組合連合は、県内全域を営業区域とする信用組合の設立を前提として検討を重ねた。そして翌25年3月、双方の関係者が話し合った結果、金融機関設立の準備に着手することになった。
こうして設立へ向けての準備を始める一方で新聞発表を行ったところ、県下の中小企業関係者の間に極めて大きな反響を呼び、挙げて計画に賛同する姿勢が示された。
設立準備は順調に運び、県内一円から県議会議員、商工会議所会頭、商工会長、県商工共同組合連合会役員など38人が発起人として選任された、
第1回発起人会は昭和25年3月、松本商工会議所で開かれ、設立趣意書、目論見書などの原案を決め、発起人壮大として太田政徳(県議会商工委員長)を選任し、組合員募集を開始した。
設立準備会は25年4月5日、松本市第1公民館で開かれ、128人が出席し必要な議決を行った。
市街地信用組合、産業組合、商工共同組合から中小企業等共同組合法による信用協同組合へ移行したものは、昭和25年4月1日現在、全国で計587組合(全国信用金庫協会の資料による)あり、数は多かったが移行は円滑に進渉した。
一方、新規に信用協同組合設立を申請した例は、全国的に極めて少なかったこともあって、手続き上さまざまな問題が発生し、長野県商工信用組合の設立認可も長引くことが」懸念された。
このため太田政徳、小松平十郎、平林正寿らは、25年4月に設立申請後も足しげく大蔵省、通産省、長野財務部等へ赴き折衝を重ねた。
こうした努力が功を奏し、7月23日には設立の内認可を受けたので、7月28日に発起人会が開催され、創立総会を8月23日、松本市第1公民館で開くことを決めた。
9月8日に第1回役員会を開き、10月14日に大倉大臣あてに本認可申請書を提出し、11月9日に長野県商工信用組合として本認可を受けた。
こうして、昭和25年11月15日に当組合は本支店6店舗において一斉に開業した。開業時の組合員数は2,558人、出資金は650万4,000円、職員数は36人であった。
その後、昭和45年(1970)4月1日、相互銀行に転換し、「長野相互銀行」として新にスタート。平成元年(1989)2月1日に普通銀行に転換し、「長野銀行」としてスタートすることになった。
(『長野銀行五十年史』から)
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<どの銀行も貸出資金は足りなかった>
戦後の金融経済の特徴は、@経済全般が混乱していて日銀が主導して動かしていた。A銀行は貸出資金が不足していた。Bこうした情勢なので「信用創造プロセス」が働いていたように考えられる。
Cしかし、現場ではそうした理論は利用・応用されずに「預金高」と「貸出高」のバランスで考えていた。
銀行は貸し出すために資金が少なかった。そのために日銀からの借入金に頼っていた。しかしそのバランスは「ベースマネー」と「マネーサプライ」との関係で考えていたのではない。
ベースマネーから、自行がいくら貸し出しできるか、の数字は出せない。「現在、ベースマネーが○○億円なので、わが行は○○億円貸出することができる」とか「昨年同月に比べ、ベースマネーが10%増えたので、わが行も貸出高を10%増やそう」、との数式はない。
また、日本銀行券が銀行側に多いのか、非銀行側に多いのかはベースマネーの統計では問題にならない、
さらに銀行保有の有価証券高も数字が出てこない。銀行は日銀当預が少なくても、手持ちの有価証券を市場で売却して貸出原資となる現金を増やし貸出を増やすことができる。この有価証券の保有高はベースマネーの数字には含まれない。
こうしたことからベースマネーをもとに貸出高を計画することはできない。ベースマネーとマネーサプライとの関係は銀行業界で実際の仕事では使うことのできない理論と言える。ベースマネーもマネーサプライも金融機関の負債であることがイメージできれば、このことがよく分かる。
経済学教育業界で教えていることは、実社会では役に立たない、ということになる。
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<主な参考文献・引用文献>
『日本銀行百年史』第5巻 日本銀行百年史編纂委員会 日本銀行 1982.10.10
『三菱銀行史』 編纂・発行 三菱銀行史編纂委員会 1954. 8.15
『第一銀行小史』 編纂・発行 第一勧業銀行資料展示室 1973. 6.11
『住友銀行百年史』 住友銀行史編纂委員会 住友銀行 1998. 8.10
『伊予銀行五十年史』 伊予銀行五十年史編纂委員会 伊予銀行 1992. 6.25
『富士銀行百年史』 富士銀行調査部百年史編さん室 富士銀行 1962. 3. 1
『東海銀行史』 編集・発行 東海銀行史編纂委員会 1962.10. 1
『東邦銀行小史』 宮島宏志郎 日本経済評論社 1979. 8.20
『琉球銀行35年史』 琉球銀行調査部 琉球銀行 1985. 3
『沖縄銀行30年史』 沖縄銀行30年史編纂室 沖縄銀行 1987. 5.31
『都民とともに三十年』東京都民銀行三十年史 大日本印刷CDC事業部 東京都民銀行 1981.12.18
『長野銀行五十年史』 長野銀行五十年史編纂委員会 長野銀行 2001. 5.31
( 2006年7月3日 TANAKA1942b )
銀行は預金高と貸出額のバランスを計る
キーワードはオーバーローン
「ベースマネーの増加により(原因)、マネーサプライが増加する(結果)、は神話である」とTANAKAは主張する。そして「神話ではなく、その通りの時代もあったかも知れない」がTANAKAの考えだ。ではその時代とは?
それは、明治時代、貨幣を発行することができる「国立銀行」という名前の「民間銀行」が153もあった頃、日本で銀行制度ができ始めた頃だと思った。どの銀行も十分な資金がなく、預金が増えれば融資も増やせる時代だったに違いない。そうした考えで銀行制度が生まれた明治時代を少し振り返って見てきた。
しかし明治時代に経済学の教科書が説明するような「信用創造プロセス」が働いていたとは言えない状況であった。たしかに銀行は貸し出すためにの資金量が不足してはいたが、教科書の説明する信用創造プロセスでは、当時の金融状況を説明・理解することはできない。
銀行の資金量が不足していた時代と言えば、戦争直後の、昭和20年代から30年代がそうであったと思われる。この時代なら教科書の説明する信用創造プロセスが働いていたと、と言えるのではないかと思い、取り扱うことにした。
この時代多くの年史に登場するのが「オーバーローン」という言葉だ。経済学教育業界では「貨幣乗数」「ハイパワード・マネー」「トランスミッションメカニズム」という言葉を使っているが、金融の現場ではそれに代わるのが「オーバーローン」という言葉だ。
今週はこの言葉を中心に扱うことにする。
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<オーバーローンと貯蓄増強>
昭和25年の朝鮮動乱を契機として日本の経済は急速に拡大したが、これに伴って資金需要も急増した。
さらに動乱後の反動期において貿易商社を中心とする滞貨資金、救済資金の需要が追加されることになって、銀行の貸出は急激に増加し、また日本銀行の貸出も増加して、銀行のオーバーローンの問題は各方面の議論を呼んだ。
資本の蓄積が不足しているなかで、早急に経済復興を進めるには産業資金の供給が必要であり、これは銀行貸出を中心に行われた。
一方、24年からのドッジラインによる超均衡財政のため、財政は基調的に揚げ超であったので、通貨の供給は日本銀行の対民間信用の増加によって行われ、日本銀行の貸出は膨張していった。
オーバーローンの発生は、制度的・構造的要因に由来する点もあり、その対策は多方面にわたって考えられる必要があったが、有力な対策として資本蓄積のための諸施策が進められた。
すなわち、企業の資本充実のために26年から29年にかけて資産再評価が実施され、27年3月には特別償却制度が導入された。金融の面では貯蓄増強を推進するために、預金金利の引き上げ、利子課税上の優遇、貯蓄増強運動が行われた。
(『富士銀行の百年』から)
<高度成長下のオーバーローン激化>
日本経済の高度成長の過程で、金融機関は、急速に経営規模を拡大し、成長資金」の供給面で大きな役割を果たした。そして同時にオーバー・ローンの激化などの問題を抱え込むに至った。
もっとも、”数量景気”の時期に当たる昭和30年には、金融は大緩慢を呈し、日本銀行の貸出は解消に向かい、オーバー・ローンも消失して、いわゆる”金融正常化”が進んだ。
これは、空前の豊作と輸出の好調から、食管会計と外為会計を通ずる財政資金の散布超過が巨額にのぼる一方、資金需要はそれほど増加しなかったことによるものであった。
この金融緩慢に伴って、大企業は取引銀行を選別する傾向を示したので、地方銀行は、優良取引先から逆選別を受ける結果となり、苦境に」立たされ、有価証券投資を増大して、余資の運用をはからなければならなくなった。
しかし、これは一時的現象に終わり、31年以降は、大企業の旺盛な設備投資によって金融史上の逼迫が続いた。そして、証券市場が、資金供給の役割を十分に果たせなかったため、大企業は、その膨大な資金需要を、主取引先である都市銀行の信用拡大に依存するようになった。
そのため、年銀行のオーバーローンは極度に激化し、日銀借入は増大して、36年末には、その残高は、預金の19%に当たる1兆2,000億円にものぼった。しかも、その日銀借入額は、恒常化する傾向をもったのであった。
これに対し地方銀行は、重化学工業の大企業と密接な関係をもつことが少なく、また伝統的な堅実主義を貫いていたので、こうしたオーバーローンに陥ることなく、その日銀借入額は、同じ36年末でも90億円にとどまった。
なお、オーバーローンに悩む都市銀行は、コール市場を通じて、その資金の充足をはかったが、地方銀行は、各種の中小金融機関とともに、コール市場への重要な資金供給者としての役割を担った。
このような関係を反映して、コール金利は異常な高騰を続けたが、出し手金融機関にとって、本来、支払い準備であるべきコール資金が、収益資産そ精買うを強く帯びるに至り、預金コストの割高を補った。
この間、健全財政主義の建前から国債の発行はほとんど行われず、成長通貨の供給は、おもに日銀貸出を通じて行われてきた。
しかし、日銀貸出の異常な増加は、公定歩合操作による金融政策を無力化した。そこで、日本銀行は金融正常化をはかり、金融精政策の有効性を高めるために、37年11月、”新金融調節方式”を打ち出し、日銀貸出に代えてオペレーションによる資金に調節を行うことにした。
それにより、日銀貸出は抑制されたが、都市銀行の資金不足は依然として続き、市中借入金は増加の傾向をたどった。
(『第四銀行百年史』から)
<オーバーローンの激化と三井銀行>
昭和24年(1949)4月のドッジ・ラインの実施により、超均衡財政が取られたため経済基調は悪化した。しかも、合理化努力によってコスト引き下げをはかろうとしていた企業は、世界的な不況による輸出の不振と国内需要の低調により、滞貨の累増を招いていた。
そのため、市中銀行に対する資金需要は増大し、貸出が増加した。同時に、日銀も貸出利率を引き下げて、再割引貿易手形や社債担保貸出を優遇するなど貸出緩和に関する一連の施策をとったので、市中銀行のオーバーローンは不可避的に激化していったのであった。
(『三井銀行100年のあゆみ』から)
<昭和30年代の高度成長は、オーバーローンという形で遂行された>
昭和38年に日本銀行は従来の貸出重点主義からオペレーションによる資金供給に移行し、市中銀行のオーバーローンを是正して金融の正常化を実現する方針を打ち出した。
そして同年1月以降、オペレーションの対象になる債券の種類を、政府保証債のほかに利付き金融債・電力債・長期国債・適格地方債にまで拡大し、財政の引き揚げ時期には売り戻し条件付で大幅な買いオペを実施することとなった。
その結果、4月に公定歩合は戦後初めて年利5.84%という低利を記録し、国債金利にさやよせが行われた。このころには都市銀行の含み貸出も解消し、5月には日銀の窓口指導も廃止されている。
一方、貿易為替の自由化措置も進み、わが国は7月にはOECDへの加盟が認められ、39年4月にはIMF八条国に移行したが、それに伴って戦後の外国為替制度の中心的役割を果たしてきた外貨予算制度を廃止し、わが国は名実ともに開放経済体制へ移行して行くのである。
以上が、財政・金融面から見た高度成長のあらましであるが、その実際の担い手は大企業を中心とした民間設備投資であったことは承知のとおりである。
しかも、戦災や敗戦による痛手を受けた企業は、自己金融力が弱いため他人資本(銀行からの借入金)に依存せざるを得なかった。言い換えれば、昭和30年代の高度成長な民間設備投資主導型であり、それは企業のオーバーボロウィング、銀行のオーバーローンという形で遂行されてきたわけである。
都市銀行は大企業とのつながりが強く、企業の資金不足をそのまま反映して恒常的な資金需要のために、預貸率は悪化せざるを得なかった。
とくに当行の場合、三井グループ等からの資金需要も大きく、これがその後の長期計画と大衆化路線の発動を呼ぶことになる。
(『三井銀行100年のあゆみ』から)
<融資自主規制でもオーバーローン>
大蔵省では昭和26年7月、「当面の財政金融情勢に即応する銀行業務の運営し関する件」という銀行局通達を発し、市中銀行に対して重要資金の悪保と不要不急資金の貸出抑制を要望した。全国銀行協会連合会ではこの要望に応じて、同年7月融資自主規制委員会を設置し、不要不急資金の貸出抑制を従来以上に徹底化することとなった。
しかしながら、このような金融引き締め措置にもかかわらず、市中銀行のオーバー・ローンは依然改善されず、ついに26年8月になって、全国銀行勘定の貸出は残高においても預金を上回るという状態になり、日銀借入金も2千億円を突破するに至った。
この間、25年度下期においては外為会計の撤超と、輸入促進のための日銀ユーザンス制度の実施とによって、一時市中銀行の資金繰りは好転するかに見えたこともあったが、26年度に入ってユーザンス期限が集中的に到来し、過剰輸入物資の取引資金需要が殺到するにおよんで、オーバー・ローンはさらに激化した。
こうして日銀ユーザンス乙種段階も金融引き締めの線に沿って、26年11月以降輸入手形決済資金貸に切り替えられることとなった。
このように、当期にいける金融政策が25年以降ほぼ一貫して引き締めの方向にあったにもかかわらず、市中銀行のオーバー・ローン傾向がほとんど是正されることなく推移したのは、総合的な財政・経済政策を伴わない単なる信用政策の限界を示したものと言える。
(『三和銀行史』から)
<オーバーローンの実態はどうであったか?>
貸出の推移を見ると、当行の貸出残高は24年3月末の318億円から28年3月末には1,493億円へと飛躍的に増加し、その増加率は預金増加率をはるかに上回った。
もとより貸出の激増は6大銀行、全国銀行とも同様で、当行の場合その増加率はむしろ他行を下回った。これはしばしば記したように、当行が健全金融の立場を堅持し、いたずらに貸出の量的拡大を目標とすることなく、その質的充実に努めてきた結果である。
これと同様に、当行と特に関連の深い綿紡績業に対して、27年以降米穀輸出入銀行の綿花借款、別口外貨貸等の優遇措置が採られ、これが当行の負担を軽減したこともその一因として見逃せない。(中略)
しかし、それでも貸出が激増したので、当行においてもオーバー・ローンの傾向を免れず、貸出残高に対する比率は24年3月末の78%から26年9月末には103%に上昇した。その後は金融基調の変化とオーバー・ローン是正への努力が功を奏し、27年3月末98%、28年3月末96%と次第に改善のあとを見せたが、なお24年3月末には遠く及ばなかった。
当行のこの比率が6大銀行平均を上回ったのは、既に述べたように当行の手持ち現金が少なかったために他ならない。すなわち実質預金の貸出に対する比率を見れば28年3月末現在で当行、6大銀行、全国銀行ともほとんど同一であって、銀行別によって大きな相違は認められない。
オーバー・ローンの拡大と共に当行の借用金も大幅に増加した。しかしその増加率は当行の健全経営方針をうつして全国銀行はもとより、6大銀行平均に比しても低かったことが注目される。
これは貸出の膨張を証券保有の圧縮によって調節し、資金のバランスを極力はかったからである。
この期間における当行有価証券の増加率は71%に過ぎず、貸出に対する比率も22%から9%に低下した。一般に銀行の証券保有が低調であったのは、貸出増加による手許資金繰の逼迫によるものでるが、これと同時に24年以降国際の新規発行が原則として停止されたこと、政府による国債の償還と日銀の買いオペレーションが行われたこと、貸出金利の上昇から証券保有の妙味が失われたこと等の諸事情も軽視できない。
(『三和銀行史』から) (T注) 銀行は貸出資金(日銀当預や手許現金)が少なくなれば、保有する証券を売って、手許現金や日銀当預を増やすことができる。しかし銀行の保有証券はベースマネーに含まれない。
<全国銀行のオーバー・ローンの推移> 預金総額に対する貸出の比率 %
貸出の預金総額に対する比率 貸出の実質預金に対する比率
年 月 末 |
三和銀行 |
6大銀行 |
全国銀行 |
年 月 末 |
三和銀行 |
6大銀行 |
全国銀行 |
昭和24.3 |
78.2 |
74.2 |
73.1 |
昭和24.3 |
102.1 |
98.9 |
90.2 |
昭和25.3 |
84.9 |
83.2 |
85.1 |
昭和25.3 |
113,6 |
111.6 |
104.6 |
昭和26.3 |
85.3 |
82.0 |
87.9 |
昭和26.3 |
110.3 |
109.3 |
108.5 |
昭和26.9 |
102.8 |
101.0 |
101.4 |
昭和26.9 |
120.2 |
123.5 |
118.3 |
昭和27.3 |
98.4 |
96.1 |
97.9 |
昭和27.3 |
124.6 |
121.4 |
115.6 |
昭和28.3 |
96.0 |
93.0 |
96.9 |
昭和28.3 |
114.3 |
114.6 |
114.1 |
| (『三和銀行史』から)
<都市銀行のオーバーローン>
昭和31年以降37年までの民間企業設備投資累計額は18兆円に達した。これは国民総生産累計の18%に相当するが、このうち、内部留保・減価償却・株式、すなわち企業の自己資金で賄われたのは約60%にとどまった。
設備投資ぼ面で他に遅れをとることがシェア競争の劣勢に直結するという事態がしばしばあったため、安定的な設備資金の調達にさきだって、金融機関からの短期借入金により敢行する企業も多くみられた。
外部からの資金供給者としては、大型投資が主に大企業によって推進されたところから、その主取引銀行である都市銀行が中心となっていた。
ところが、企業の資金需要があまりに旺盛なため、都市銀行の資金は常に不足しており、半ば恒常的に日本銀行からの借入金に依存するかたちになっていた。
このオーバーローン減少は、30年の金融緩和の際に一時的に解消したほか戦後ほぼ一貫して見られるもので、とくに36年末には日本銀行からの借入金は1兆2,000億円にのぼり、前年末の2.8倍に達した。
大蔵大臣」の諮問機関として31年に設置された金融制度調査会の38年4月の答申ではオーバーローンの発生はある程度やむを得なかったとしながら、強くその是正を要請した。また、この答申に先立つ37年10月、
日本銀行は金融政策の弾力的運営のため、「新金融調節方式」を導入した。その際、日本銀行借入金の多い都市銀行に対して貸出限度額、すなわちクレジット・ラインを設定することにより、オーバーローンの是正を図った。
この新金融調節方式は、日本銀行借入金の抑制という点では一応の正貨を挙げたものの、その後も都市銀行の資金不足は続き、日本銀行借入金に代わって市中借入金が増加し、両者を合わせた外部負債合計では、依然として増加を続けたのである。
(『北海道拓殖銀行史』から)
<ドッジ・ラインとオーバー・ローン>
ドッジ・ラインの恐慌により、さしもの猛威をたくましくしたわが国のインフレーションも終息期に入り日銀券発行高は急激に収縮し、24年1月の3,415億円から、同年7月には2,954億円に後退したが、それに伴い金詰まり・企業の整理・滞貨の増大を招き、投資活動は停滞し日本経済は深刻な安定恐慌に陥って言った。
加うるに期待されていた輸出も、アメリカ景気の下降、ポンド切り下げにあって不振を呈し、安定恐慌に拍車を加えたので、折柄24年6月、新発足した日銀政策委員会は金融面で一連の緩和政策を決定、日本銀行の信用供与を中心ろして、銀行の貸出は急速に増加した。
この銀行貸出増加は、主として不況と輸出の減少によってもたらされた滞貨融資に向けられ、不足額は日銀借入金によって賄われたが、さらに国債・復金債の償還が積極化されたので、銀行の資金構成は急速に流動性を失い、オーバー・ローンを引き起こす原因となった。
(『福井銀行六十年史』から)
<資金需要が旺盛でオーバーローンが続く>
新秋田銀行創立10周年を期して預金増強運動を展開した結果、無記名的預金の復活なども幸いして、27年1月30日、総預金はついに待望の50億円を突破するに至った。
しかし、50億円を突破したというものの、27年3月末の残高は24年3月末の2倍に過ぎず、この間の善行銀行の平均が3倍を超えていることを考えると、総じて預金の増加は不振であったと言えよう。
貸出については、折からの金詰まりと物価の漸騰傾向を反映して、根強い資金需要があり、貸出金は順調に推移した。それに反して預金が伸び悩みを続けたため預貸率は悪化し、特に預金が前期比減となった昭和25年上期には97.8%と、ほとんどオーバーローンの状態となった。
これに応じて日銀借入金も増加し、25年9月末の残高は4億9,900万円にも達した。その後、預金の増加に伴って、こうした状態は改善されたものの、資金需要は依然として旺盛であった。
(『秋田銀行百年史』から)
<オーバーローンの激化と改善策>
政府・日本銀行は、ドッジ・ラインの強行が本格的な恐慌状態を招くことを懸念し、昭和24年6月、日本銀行政策委員会を発足させるとともに、高率適用制度の緩和、貸出金利の引き下げ、国債・復金債による買いオペ、斡旋融資の強化、融資規制の改正など、総合的な金融緩和措置を打ち出した。
これらの、いわゆる”ディス・インフレ”政策は一応の成果を収めたものの、金融危難の貸出増加額は預金増加額を上回り、その不足額が日銀借入によって賄われたため、金融機関の資産構成は急速に悪化し、オーバーローンの激化をもたらした。
戦後のインフレと復興投資の増大により、民間の資本蓄積は極度に不足した。さらに朝鮮動乱以降、民間設備投資の本格化から資金需要が旺盛となり、金融機関の日銀借入が増加し、オーバーローンが激化するに至った。
こうしたオーバーローン現象に対処し、インフレ再燃を防止して、金融の正常化を図るため、日本銀行は、昭和25年12月から26年にかけて高率適用制度を強化し、26年10月には公定歩合の2厘引き上げを実施した。
一方、市中銀行の26年7月、全国銀行協会連合会内に融資自主規制委員会を設置して、自主的に不要不急融資の抑制に努めた。
オーバーローンの基本的解決策としては、とくに次の3項目が重点的に推進された。
@ 企業内の内部留保を充実させること
A 国民の貯蓄を増強させること
B 金融制度を再検討すること
まず、企業の内部留保の充実を目的として、25年と26年に第1次、第2次の資産再評価が行われ、27年3月14日には「企業合理化促進法」が公布、施行され、
さらに重要産業の近代化設備などに対する特別償却制度と固定資産税減免が行われた。その他、26年には価格変動準備金と退職給与引当金、27年には貸倒準備金などの諸制度も実施された。
次に預金増強策としては、@預金金利の引き上げ、A割増金付預金の復活、B無記名定期預金の復活、C「こども銀行」の育成、D国民貯蓄組合の結成奨励、E預金利子課税の軽減──などの措置が講じられ、27年4月には日本銀行に貯蓄増強中央委員会が設置され、これを中心に貯蓄運動の強化が図られた。
また、金融制度の再検討も進められ、民間金融機関の資金不足を補完する形で政府関係金融機関の新設が相次いだ。
(『群馬銀行五十年史』から)
<ディス・インフレ政策とオーバー・ローンの進行>
戦後の金融の異常性を示す指標は、預金対貸出金比率の悪化、預金構成の変化(安定性預金の比重の低下)、日銀の対民間信用供与の一方的増大、金利体系の不均衡等の現象であるが、これらは相互にからみ合っていた。
預金に対する貸出過多の状態が銀行勘定の計数面に現われ、それが指摘されたのは、25年4月米国の意向として「日本経済の現状は銀行信用の増加などからいってむしろインフレ的であり、銀行の資産構成が不健全である」との見解が伝えられてからのことである。
これを契機として、このころからオーバー・ローンの問題が一般の関心をひくに至った。しかしその半面の事実である事業会社の外部負債への依存、資本構成の悪化ということは、すでにそれ以前再建整備による自己資本の減少と、減価償却の不足、インフレーションに基づく貨幣資本の枯渇などによって促進されていた。
一方、證券市場を通ずる資金量の充実も思うようにまかせなかった。企業の内部留保を除いた産業資金供給額中に占める株式・社債の割合は、最も高率を示した24年度でさえ25%に過ぎず、その後も証券形態による資金調達額は15%程度にとどまっていた。
従って産業資金の85%見当は貸出の形態を通じて供給されたのであるが、23年ごろまでは復興金融金庫の貸出が相当大きな比重を占めていた。
これが一般銀行への負担のしわ寄せを阻止し、同時に復金の資金が市中に流れていって、しだいに市中銀行の稼働資金を増加させたことも否定できない。
ところが24年度以降はそれまで政府資金で賄われていたものが一般金融に肩代わりされたため、銀行は外国為替貸付を別としても総額の50〜70%を供給せざるを得なくなった。
銀行信用の構造が正常な形を喪失したのはここにきざしている。
結局オーバー・ローン発生の本質的な原因は、経済の膨張発展の度合いがきわめて急速なることを要請され、従って蓄積された資金の量を超えて産業資金を供給することが必要とされたためであった。
同時にまたドッジ・ラインの下で、経済安定施策として徴税と見返り資金等による政府の直接的な強制蓄積の方式がとられたことも関係している。
すなわち、民間金融機関による任意貯蓄資金の吸収には多くを期待し得ない状態であったにも拘わらず、産業資金の供給を一切市中金融に委ねたというところに無理があったといえよう。
(『日本勧業銀行60年史』から)
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<オーバー・ローン問題の所在==日本銀行の見方>
市中銀行、とくに都市銀行のオーバー・ローン現象は、昭和20年代、30年代を通じての金融面における大きな問題であった。
もっとも「オーバー・ローン」という言葉について、必ずしも厳密な定義があるわけではない。当初、オーバー・ローン現象は「市中銀行の貸出が預金を超過する」状態と考える傾向があったが、しだいにぢちゅうぎんこうの恒常的な中央銀行借入れ依存という状態が注目されるようになったという経緯もあった。
オーバー・ローンに対する理解として預金に対し貸出が過大であるという見方は、銀行の有価証券保有が過小であるという見方に通ずる。これは銀行資産の流動性という観点から問題になりうる現象であった。
さらにこれを企業の資金調達ルートという面からみると、銀行借入れに偏しているということになる。この現象は当初、企業の「オーバー・ボローイング」と呼ばれておたが、とくにそうした銀行借入が短期借入れの形で行われていたことが、企業債務の安定性という観点から問題とされた。
このような戦後の企業金融方式は、戦時期から引き継がれたものであった。戦時金融統制の下でわが国産業資金の大部分は金融機関貸出によって供給されるという方式が形成されたが、他方、資本市場は終戦前の戦局悪化の中でほとんどその機能を停止し、戦後も昭和24年(1949)5月半ばまで、証券取引所の閉鎖が続いた。
こうして間接金融方式優位の体制が、わが国の戦後金融の中に定着した。戦争終結後わが国の産業界は、激しいインフレーション進行の中で、戦争による破壊を修復し、軍需生産体制を民需生産体制に切り替え、経済復興のための投資を行わねばならず、産業資金需要は膨大な量にたっしたが、これらの資金需要に応じたのは主として銀行貸出であったから、当然預貸率は高水準を続けた。
そうした高い預貸率は市中銀行の資金不足という結果につながりやすい。もっとも市中銀行の貸出がいかに大きくとも、あるいは有価証券の取得を含めた市中銀行の信用供与がいかに大きくとも、それがそのまま預金となって市中銀行(厳密にいえば「市中金融機関」ないし「市中金融部門」)に環流すれば信用供与残高と預金残高とは並行的に増加することになり、
その限りのおいては市中銀行全体としては資金不足は生じない(もっとも預金に対する現金支払準備率は低下するが、いまこの点は無視することにする)。
しかし、現実には市中銀行の信用創造活動の過程で、銀行部門から資金のリークが生じる。それは1つは非金融部門への現金にリークであり、他の1つは財政部門への資金引き上げで、この中には国債終始の赤字に伴う民間部門からの資金引き上げが含まれる。こうした市中銀行部門からの資金リークによって市中銀行の資金不足が生じることになるが、
その結果本行貸出がそうした資金不足を補填する形で増加することになる。以上が市中銀行の信用創造活動から本行対民間信用の増加を招くメカニズムである。
(『日本銀行百年史』から)
戦後オーバー・ローンの推移
戦後このようなオーバー・ローン現象が問題とされるようになったのは、ドッジ・ラインが実施された昭和24年ごろからであったといえよう。もっともこーばー・ローン現象がこのころから顕著になったわけではなく、オーバー・ローンの程度はむしろ終戦直後の混乱期のほうが著しかった。
その後昭和22年から23年にかけオーバー・ローン現象が若干改善されたのは、戦後インフレーション対策の一環としてきびしい融資規制措置がとられたこと、失われた通貨への信頼感が徐々にながら回復の方向に向かい、預金吸収の努力がようやく功を奏するようになったことなどのほかに、戦後の赤字財政の結果として財政資金の市中散布が続いていたこと、
22年1月の復興金融金庫開業により企業の資金需要の一部が同金庫の融資によって賄われたことなどの諸要因が影響したものであった。
しかし昭和24年ごろからオーバー・ローンは再び悪化し始めた。これにはドッジ・ラインの実施によって財政資金対民間収支が大幅な引き揚げ超過に転じ、また復興金融金庫も新規融資を停止したことなどが大きく響いていたが、こうしたこーばー・ローンの悪化傾向はさらに朝鮮戦争ブームの中で一段と強まった。
昭和25年6月の朝鮮戦争勃発以降特需と輸出の急増に支えられて、日本経済はそれまでの不況局面から一転して急速な景気上昇局面に入ったが、この間顕著な信用膨張を背景に生産活動の活発化とろもに激しい物価上昇が生じた。
こうしたインフレーション的経済拡大の下で、銀行券の発行は急増し、さらに企業収益の好転を反映した法人税の増収を中心に財政資金対民間収支は大幅な引き揚げ超過を示したため、オーバー・ローンはいっそう激化し、後述のようにその是非や対策をめぐって活発な意見が交換されるようになった。
その後昭和28年秋以降の金融引き締め政策による国際収支の改善と物価の安定を背景に、翌29年後半から30年にかけて、一方では銀行券の増勢が鈍化するとともに、国際収支の黒字持続と大豊作に伴い、財政資金の対民間収支が大幅散布超過になったことにより、オーバー・ローンは急速に改善され、本行貸出も昭和30年末から31年春にかけてほとんど輸出前貸手形・輸入決済手形等の優遇貸出のみとなり、その他の一般貸出は事実上ゼロという状況になった。
こうしてオーバー・ローン現象は一応解消したが、それは全く一時的現象にとどまった。昭和31年夏ごろ以降景気が再び過熱の様相をみせるようになると、銀行券の増発基調と財政資金の引き揚げ超過傾向から、やがて翌32年にかけてオーバー・ローンの後の景気動向により一時的に緩和されたこともあったが、日本経済の高度成長が続く中で、わが国金融の構造的特色として定着し、昭和30年代後半には、いわゆる「金融正常化」論の中心テーマとして、その是正が大きな政策課題に発展した。
(『日本銀行百年史』から)
本行のオーバー・ローン是正論
当時本行はどのような観点からオーバー・ローンの是正を考えていたかという点については、一言でいえば金融の正常な在り方に反するとみていたからである。
しかしそれは単なる観念論として考えていたのではない。昭和27年2月の本行『調査月報』は「我国市中銀行のオーバーローンに付いて」と題する論文を掲載し、この中でオーバー・ローンの弊害についても考察を加えている。
その論旨は要するに、銀行の健全性、金融政策の有効性、対外信用の3点からオーバー・ローンを問題視したものであった。
こうした問題点のうち、とくにどれに力点を置くかは本行内でも必ずしも統一されてはいなかったであろうが、一万田総裁がとくに重視していたのは、第3の対外信用という観点であったように思われる。
オーバー・ローンが再び大きく悪化した昭和25年〜26年は、連合国の対日講話に気運が急速に高まり、わが国の国際経済への復帰が展望された時期であり、
また国内の状況も戦後の混乱期を経て、ようやく落ち着きを取り戻しつつあった。
そうした状況の下で、わが国の金融の在り方につき、戦時・戦後の異常な時期にとられてきたこれまでの方式を再検討し、いわばオーソドックスな方式に切り替えていこうとしたのは、極めて自然な思考であったといえよう。
また当時一万田総裁は講話条約発行後経済を自立されるためにはどうしても外資導入が必要であり、それには海外から不健全とみられるようなオーバー・ローン方式を是正しなければならないと考えていたものと思われる。
(『日本銀行百年史』から)
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<人為的な低金利政策>
岩戸景気に涌く、昭和35年7月に池田勇人内閣が成立、「国民所得倍増計画」がはなばなしく打ち上げられた。高度成長の象徴的存在にもなる池田内閣を機に、日本経済の高度成長路線は完全に定着した。
35年という年は、2月に東京証券取引所のダウ平均が初めて1000円を突破し、証券ブームが起こった。また、6月には政府が貿易・為替自由化大綱を決定し、国際社会の一員として大きなステップを踏み出した年でもある。銀行の大衆化路線の推進もちょうどこの時期に始まっている。
官民ともども高度成長に向けて一斉に走り出した。金融政策もこの目標に従うことが要請され、強力に遂行されていく。
高度成長に貢献した金融政策のうち、その最たるものが低金利政策である。この低金利政策は、高度成長期のみならず、戦後経済に遂行された政策であり、いわば、戦後日本の金融正確の特徴をなすものであった。
その果たした意義・役割たるや実に大きかったが、一方で金融構造の歪みや経済の各分野における弊害をもたらしたことも見落とせない。
昭和20年代の復興段階において、低金利政策はすでに定着していた。金利の決定は、22年12月に制定された「臨時金利調整法」により、大蔵大臣が最高限度を酷似すると規定されている。
この法律の条文には、「大蔵大臣は、当分のあいだ、経済一般の状況に照し必要があるときは、日本銀行政策委員会をして金融機関の金利の最高限度を定めさせることができる」(同法、第2条)とあるが、”臨時”のはずであった法律が、なんと現在にまで及んでいる。
昭和20年代は、ハイパー・インフレの時代であり、本来ならば、金利も当然高くて然るべきだったが、この法律によって、預金金利や貸出金利は人為的に低く抑えられていたのである。
公定歩合も当然、低位に固定されていたが、それでは金融政策の運営がうまくいかないので、日本銀行が導入したのが高率適用制度である。日本銀行からの公定歩合による借入金が、ある一定の基準額を超えると、その超えた分の日銀借入金には、公定歩合より高いペナルティ金利が課せられた。
一方で公定歩合を低く抑えながら、他方で高い金利を課すという方法がとられたわけである。
私自身その当時は、まだ課長代理の頃であったが、とても巧妙な金利規制であるとの印象を強く受けたものである。この制度の運用によって、日本銀行は、公定歩合を動かさないでも、市中に流れる資金量をコントロールすることがことができた。
昭和22年以降は、何回か高率適用制度の強化が図られたが、25年2月には大幅緩和がなされ、やっと37年には廃止された。この高率適用については、当然、金融界からは強い反対があった。産業界からも、金利を情報硬直化させるのではないか、との批判が出されていた。
低金利政策の恩恵を一番受けたのは産業界である。インフレ率以下の低い金利で資金を借り、産業の基盤整理、復興、成長に大いに役立てたからである。昭和20年代の低金利政策は、30年代の高度成長時代にもそのまま受けつがれていき、成長政策を支えるための当然の金融政策と見なされていった。
とくに、池田内閣の「所得倍増計画」以後、いっそう、その政策意図が明確かつ強力になった。私たちのように経済の第一線にいた銀行員にとっては、低金利政策が大蔵省などによって、力ずくで実行されているという強い印象を受けたものである。
(『私の銀行昭和史』から)
金融の歪み拡大
昭和30年代は一貫して旺盛な資金需要が続き、産業界も金融界も、万年資金不足の時代であった。それゆえ、20年代に構築された日本の金融システムが、非常にうまくワークした時代でもあった。つまり金融機関の専門化・分業化が、ある意味で成功したと言える時代であった。
何が一番問題であったか。それは、常に高圧型の経済のもとで、どうしても借入れ需要が都市部に、とりわけ基幹産業を中核とする大企業において著増する。
しかし、それに見合う資金の調達力が都市銀行にはなかったということである。 そのころ相互銀行、信用金庫、農業共同組合、信用組合などが急ピッチで店舗を増やしている。
郵貯の店舗網の急速に拡充されている。ところが都市銀行は、資金需要の強さや資金規模に比べると、わずかな”割当配当”による店舗増しか認めてもらえず、思うような店舗展開はできなかった。
昭和30年代を通じて、金融界全体の資金量に占める都銀のシェアは低下し続けていった。都銀の資金需要アンバランス、つまり資金供給力不足の問題は、オーバーローンの議論へと発展する。
都銀の外部負債は、一時的にオーバーローンを改称した30年度下期1,611億円(平残ベース)に縮小したが、32年度下期には7,170億円へと急増、さらに40年度下期には2兆9,304億円に達した。外部負債比率は同じ基幹に8.7%から27.8%へと高まった。
外部負債は、日銀借入とコールマネーが中心だが、30年代前半は日銀借入の比重が高く、広範にはコールマネーのウェイト上昇が目立っていた。これは、都市銀行に対する資金需要を、自らの預金ではむろんのこと、日銀借入を足しても埋め切れず、他の金融機関からの借入(コール)でまかなったという推移を物語るものである。
逆に言うと、地銀・相銀などはコールを放出できるほどの”余裕”のある機関であったわけで、地域別あるいは金融機関別の資金偏在の問題がここに浮き彫りにされている。
オーバーローンの恒常化は金融市場の健全な発展を阻害し、金融政策の効果をも薄める弊害があるとされ、金融制度調査会でも36年ごろからオーバーローン解消について検討が始められた。
このオーバーローン問題は、それと表裏の関係にある民間企業のオーバーボロイングの問題ともからみ、都市銀行の貸出しとビヘイビアが非難の対象になるという。おかしな方向へ進展した。
オーバーローン問題は、サウンド・バンキングという銀行の基本的はあり方からも重大な課題であり、その視点から金融正常化論議がなされるべきであったのに、論議のピントがずれた感を否めなかった。
オーバーローンの現象面を追う末梢的な話が多く、何が原因でこの事態が生じたかの根元に対する検討が欠けていた。オーバーローンの原因として、企業の投資意欲と銀行の貸出態度とに比重が置かれ、基本原因である経済金融政策に内在していた欠点や政策当局の運営責任についての検証、追求がなされていなかったのは、非常に不満だった。
大蔵省も日本銀行も、豊富かつ低廉な資金を産業界に供給することが、高度成長下における金融機関の最大の使命だと思い込んでいて、行政指導などで圧力をかけながら、低金利政策を推進していったのである。このような人為的な低金利政策の強行に対して、日本銀行の中からも一部の人の反論が出ていたが、日本銀行全体としては、大蔵省と一体となって政策遂行をしていた。
インフレ率以下に金利が抑えられていれば、産業界は資金を競って借りまくり、銀行界も激しい競争状態のもとで貸出しを増加させていく。オーバーローン、オーバーボロイングも、ある意味では当然の現象であった。
(『私の銀行昭和史』から)
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<窓口規制時代>
朝鮮動乱後わが国の経済は徐々に高度成長時代への足固めに入った。
企業サイドの旺盛な資金需要に、各金融機関は積極的に応えた。当行も国内経済の成長発展に乗る形で、業容拡大に努めた。当時の業務推進は昭和45年以降の様な体系的に資金を補足するという態勢整備はまだなく、各支店各々独自の資金源を求め行動するという状況下にあった。
従って、その対象は土地代金、公務員退職金の捕捉等が主目的となることが多かった。
この様な動きは他行も同様であった。「一本釣り」の勧誘技術向上のためSP(セールスプロモーション)教育を取り入れたのもこの頃である。
運用面では、日銀借入等、外部資金に依存することなく、すべて当行自前の預金で賄うという姿勢を貫いた。
当時、都銀の大部分は日銀に対してオーバーボロウィングの状態にあった。景気の過熱を怖れた日銀は「窓口規制」を強化、銀行貸出しの騰勢と、これに伴うインフレを抑制し、安定路線への誘導を企画した。
規制対象は一般銀行(相互、信金を除く)、長信3行で、これらの金融機関に対し、月末時に翌月末残高を口頭で指示し、その枠内に末残高を抑制するよう要請した。枠内抑制が困難な事態が発生した場合はその事情を具体的に説明し、了解が得られれば枠拡を認めた。
指示残高を守らなかった場合は、日銀貸出の抑制、貸出しに対し高金利適用を制裁として課した。
この規制に対し、都銀は面従腹背の態度、即ち、末残は指示に従うが月中は枠を突破するという逆フライパンの管理姿勢(平残枠突破)の所が多かったが、日銀はこれを黙認していた。地銀は概して指示に従った。
その一方で、規制が及ばない信金は、地場中小企業に対し、信金との取引メリットを過大に宣伝し、当行攻撃の手段とした。
目に余る行動であったので、信金の不適切な行動に対し、当時の日銀伊部支店長に注意、是正を要請したが、なかなか実現に至らなかった。
窓口規制は長期に亘り、その前半、私は現場支店長として、指示枠管理のため取引先とハードネゴを繰り返す日々を送り、後半は銀行全体の枠管理のため采配を振るう立場に立たされ、地域担当役員からの各種不満・苦情の対応に苦慮した。
融資枠の決定が日銀サイドで一方的に決定される以上、この対策は計数の粉飾か(都銀方式)、厳しい査定に徹する以外に解決にお手段はない。担当としては後者の路線を選んだが、苦渋の日々が続いた。
しかし、時間の経過と共に、現場サイドにおいても規制に対する理解の進渉、経験の積み重ねによる学習効果等から、徐々に平静を取り戻した。
枠の指示を受ける立場で現場仕事をした経験から、配分する側に立たされたときも、営業店の苦しみや本音が良く理解できた。
営業店に対する枠配分は、各営業店月中回収額(手・証貸、商手)に対し、新規申込案件を加算、これを全店集計し、日銀指示枠との対比で計数を調整して、最後の取纏めを行うという作業であったが、担当者の管理は神技的精緻さで、不首尾を日銀から指摘されたことは一度もなかった。
本部サイドのチェックポイントは、企業の安全性、将来性、支店にとっての取引メリット、貢献度、地域におけるリーダーシップ等であった。ただし、限られた規制内での資金配分のため、公平は期したものの、ときには大企業優先の配分となったことは否めない。
その結果、親企業の取引は維持できたが、系列子会社は都銀の戦略的攻撃に足もとを掬われたケースもあり、当行がメイン行としての地歩を確保できないまま、現在に至っている。この現象は西武地区に顕著である。(中略)
プラザ合意後、窓口規制は廃止され、金融界は貸出競争時代に突入したが、当行は規制時代の厳しい融資姿勢を貫いた。
その結果、規制解除後の量の拡大競争に巻き込まれることなく、独自性を維持することができた。この姿勢は、次の大きな舞台、即ち、バブル期に花開くこととなった。
規制撤廃と同時に、堰を切ったように貸出競争が再開され、その方向は不動産・ノンバンクに集中し、悲劇的終焉を迎え終わった。
枠管理に愚直なまでに正直に対処した銀行と、要領を旨とする銀行に大きな違いが生じたのは、当然の成り行きであった。「正直者は馬鹿を見ない」のである。
(『静岡銀行と共に』から)
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<現金輸送と日本銀行寄託券制度>
銀行にとって円滑な通貨の供給は、最も重要な責務の一つであるが、一面「現金」の有効適切な在庫管理は大きな問題でもあり、特に営業基盤内に日本銀行の支店のなかった当行にとっては、
他行以上に重要な課題であった。必要以上の現金保有は全くの運用損失となり、また過小な保有では支払いに支障をきたすことになる。この適正な資金操作は最終的には当座預金口座を持つ日本銀行支店で現金の受払いを中心として行われ、
当行の開業当時いわゆる「銀行の銀行」の機能を持つ日本銀行は、南九州では熊本に支店があるのみであった。当行が日本銀行熊本支店と当座取引を開始したのは昭和9年6月13日であり、その間は為替尻の決済を住友、安田、第一の各熊本支店に委嘱していた関係上、現金手配も同じ3行から主に調達していた。
この現金手配は毎日宮崎県各支店の現金受払状況をまとめて、手当が必要となると、その日の午後8時ごろの宮崎駅発列車に乗り、吉都線経由で翌朝の午前3時ごろ熊本駅に到着、駅前の旅館で仮眠のあと午前9時銀行開店を待って現金を受領し、午前10時ごろの列車で帰路に着くのが常であった。
そして3日目の午前中に県内支店が現金受取りに来るという日程で、大体3日ないし4日後の現金を手当していたので、資金の運用損失はもとより、多くの労力、時間、そして危険負担は計り知れないものがあった。
昭和8年ごろからしだいに不況から脱しつつあった宮崎県は、12年になると日中戦争を契機に逐年経済の活力を強め、並行して銀行券の流通も多量化してきたので、この現金手配のため、宮剤・熊本間の現金輸送業務もしだいに頻度が増えていった。
18年4月1日鹿児島市に日本銀行鹿児島支店が開設され、鹿児島、沖縄の両県と宮崎県がその管轄となり、現金手配も熊本から鹿児島へ変更になった。距離的には熊本よりも短縮されて、幾分緩和はされたものの、第2次世界大戦の空襲が激化するにつれ、現金輸送はますます危険が多くなり、戦時中における最大の難事となった。
当行生え抜きで生き字引と言われた初代会長橋口重則は、50年の銀行員生活のうち、一番の思い出が、第2次世界大戦中日本銀行が宮崎にないため、空襲下の鹿児島から現金をリュックにつめ、汽車で命がけで運んだことである、と毎日新聞のインタビューに答えている。
いずれにしても7年の開業以来、諸制約を克服して、熊本市、あるいは鹿児島市と、現金輸送業務を続行したことは、当行が県内中枢金融機関としての役割を十分に果たしていたものと評価されるところである。
(『宮崎銀行五十年史』から)
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<銀行は貸出原資が不足していた>
銀行は貸出すために原資が不足していた。しかしこのことを論ずるにあたって、「貨幣乗数」「ハイパワード・マネー」「トランスミッションメカニズム」などの言葉は使われていない。
「オーバーローン」という言葉で論じられている。預金高と貸出高という分かりやすい数字を使って考えている。
預金高以上の貸出が行われた、ということは、預金高以上に貸し出すことができる、ということでもある。しかし、それが良くないということは、経営安定上良くないのである、ということに注目。
「貨幣乗数」「ハイパワード・マネー」「トランスミッションメカニズム」などの言葉で、各銀行が「自分の銀行はあといくら貸し出すことができるのか?」と考えることはできない。
教科書の言葉を使って考えるとすると、日銀が銀行業界全体でいくら貸し出すことが出来るかを計算し、それぞれの銀行に割り当てることになる。完全な統制経済でなければできないシステムだ。
今回取り上げている経済学の教科書は非マルクス経済学。しかし、そのセンスは、「各銀行が勝手に活動していてはマクロ経済がうまくいかない」「経済理論も、学生を納得させられる程度のシッカリしたものができない」
「日銀を中心に金融経済が成り立っていると考えた方が、説明し易い」という”隠れコミュニスト”のセンスになっている。
多くの銀行がオーバーローンを問題にしているが、なぜオーバーローンが良くないか?については書いていない。あまりにも当たり前のことと考えていたのだろう。
しかし経済学の教科書では、オーバーローンという言葉は出てこない。金融の現場と教育の現場ではまるで問題意識が違っている。
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<主な参考文献・引用文献>
『富士銀行の百年』 編集・発行 富士銀行調査部百年史編さん室 1980.11. 1
『第四銀行百年史』 第四銀行企画部行史編集室 第四銀行 1974. 5.20
『三井銀行100年のあゆみ』 日本経営史研究所 三井銀行 1976. 7. 1
『三和銀行史』 編集・発行 三和銀行史刊行委員会 1954. 3.20
『北海道拓殖銀行史』 編集・発行 北海道拓殖銀行 1991. 4. 1
『福井銀行六十年史』 編纂・発行 福井銀行六十年史編纂委員 1965. 5. 2
『秋田銀行百年史』 秋田銀行100年史編纂室 秋田銀行 1979.12. 1
『群馬銀行五十年史』 群馬銀行調査部五十年史編纂室 群馬銀行 1983. 6. 1
『日本勧業銀行60年史』 編集・発行 日本勧業銀行調査部 1957. 8. 2
『日本銀行百年史』第5巻 日本銀行百年史編纂委員会 日本銀行 1982.10.10
『私の銀行昭和史』 松沢卓二 東洋経済新報社 1985.12. 5
『静岡銀行と共に』 酒井次吉郎 静岡新聞社 2004. 3. 1
『宮崎銀行五十年史』 宮崎銀行資料室 宮崎銀行 1984. 7.31
( 2006年7月10日 TANAKA1942b )
旺盛な借入意欲に対する資金不足
懸賞金付預金など救国貯蓄運動の実施
「ベースマネーの増減により(原因)、マネーサプライが増減する(結果)、は神話である」とTANAKAは主張する。そして「神話ではなく、その通りの時代もあったかも知れない」がTANAKAの考えだ。ではその時代とは?
それは、明治時代、貨幣を発行することができる「国立銀行」という名前の「民間銀行」が153もあった頃、日本で銀行制度ができ始めた頃だと思った。どの銀行も十分な資金がなく、預金が増えれば融資も増やせる時代だったに違いない。そうした考えで銀行制度が生まれた明治時代を少し振り返って見てきた。
しかし明治時代に経済学の教科書が説明するような「信用創造プロセス」が働いていたとは言えない状況であった。たしかに銀行は貸し出すための資金量が不足してはいたが、教科書の説明する信用創造プロセスでは、当時の金融状況を説明・理解することはできない。
銀行の資金量が不足していた時代と言えば、戦争直後の、昭和20年代から30年代がそうであったと思われる。この時代なら教科書の説明する信用創造プロセスが働いていたと、と言えるのではないかと思い、取り扱うことにした。
この時代たしかに銀行の資金量は不足していた。しかし、だからと言って教科書の説明する「信用創造プロセス=トランスミッションメカニズム」が働いていたとは言えない、少なくとも金融機関の現場では、「貨幣乗数」「ハイパワード・マネー」「トランスミッションメカニズム」などの言葉は使われていなかった。
終戦直後から昭和20〜30年代の金融情勢を調べてみると、「貨幣乗数」「ハイパワード・マネー」「トランスミッションメカニズム」などの言葉が無意味であることと、さらに「貯蓄のパラドックス」も神話のようだし、「買いオペ」が銀行に資金を提供する、ということも怪しくなってくる。
そうした新たな問題が気になるところなのだが、今週は、資金不足に現場の銀行でどのように対処したのか?現場の銀行員の努力について扱うことにした。
戦後日本の経済成長は、同じ戦災で経済が破綻したフランス・イギリス・ドイツに比べ比較的市場に対する政府の干渉が少なかったことが大きなポイントになる、との考えだが、もう1つ、国民がセッセと貯蓄に励んだことも大きな要因になると考えるようになった。
今週扱うのは、銀行の貯蓄増強運動=貯蓄のパラドックスと反対のこと、を扱う。戦後の経済混乱期から脱出できたのは、銀行員の貯蓄増強運動があったからだと言って良い。今週のポイントはこのようなことになる。
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<預金増強運動の強化>
昭和24年末に通貨安定対策本部が解散し、各地方に貯蓄推進委員会が作られるようになってから、貯蓄運動は地方の独自性をもって推進されるようになった。
24年4月には日本銀行に貯蓄推進部が正式にできて以来、地方の自主的な貯蓄運動の指導がゆきわたり、27年4月には貯蓄増強中央委員会が発足するなどの中で貯蓄運動は官制のおそきせから脱して民間の自主活動の色あいを深めていった。
このような背景もあって、当行の預金増強運動もしだいに独自性を深めてゆき、27年11月には本部機構の中に「貯蓄推進部」を独立の部として新設し、その強化をはかった。
まず25年から127年にかけて全国的に行われた貯蓄運動としてはつぎのものがある。
1兆円達成特別貯蓄運動(25年3月中)
経済自立促進特別貯蓄運動(25年9月から10月20日まで)
経済自立促進歳末特別貯蓄運動(25年11月20日から12月末まで)
25年度目標達成特別貯蓄運動(26年3月中)
講和記念特別貯蓄運動(26年9月10日から10月20日まで)
歳末貯蓄運動(26年12月中)
経済自立特別貯蓄運動(27年2月11日から3月末まで)
独立記念特別貯蓄運動(27年5月1日から6月末まで)
第2次特別貯蓄運動(27年9月1日から10月末まで)
歳末貯蓄運動(27年11月、12月中)
これら全国運動の他に青森県独自の運動として実施されたものに次のものがある。
青森県経済自立促進特別貯蓄運動(25年10月11日から11月10日まで)
青森県農業振興特別貯蓄運動({26年8月10日から8月末まで)
以上のような全国的あるいは全県的運動の中でも当行独自の施策を掲げて積極的な運動を展開したが、そのほか当行だけの預金増強運動として、つぎの諸対策が実施された。
「預金倍加運動」26年3月に、26年2月末残高の倍額達成をできるだけ早い期間に実現しようというもので、各店の自主的な計画に基づいて運動を進めた。
「職域貯蓄組合結成」預金増強策の一環として当行全役員を以て職域貯蓄組合を26年3月に結成した。
「預金増強総蹶起運動」26年7月中旬から27年3月までその期間とし、27年3月末残高80億円達成をその目標とした。具体的には定期積金の増強を重点とし、ブロック毎に運動計画を樹てて運動を展開した。
「定期積金獲得強化対策」前総蹶起運動の一環として26年7月から9月までをその強化期間とし、契約高1月1億円を目標に、工員1人努力目標2万円と定め、各店毎には7月10日現在定積残高の倍額を9月末迄に達成すること等を基準に割当を行った。
「青銀たのしみ積金特別増加運動」27年8月9月をその期間として、工員1人3万円以上の契約獲得を、目標とした。
以上のような貯蓄運動によって、定期積金などの貯蓄性預金はしだいに増加してその比重を高めたが、預金全体では予想に反して伸び悩みをみせ、総蹶起運動の目標であった80億円達成は、予定の27年3月末から遅れて27年12月末に実現した。
これは26年のりんごの不作影響も大きかったが、県経済がデフレから動乱ブームの過程の中で、マイナス要因を強く受けて1つの転換期にさしかかったことによるものである。
(『青森銀行史』から)
<割増金付預金のことごと>
昭和12年以降の臨時軍事費の著しい増加による膨大な歳出は、租税よりも国債に多く依存しなければならなかった。
このため国債は、太平洋戦争が終結した昭和20年度末残高で、1408億1,100万円の巨額におよんだのである。
政府は、支那事変が勃発して間もない昭和12年9月10日に「臨時資金調整法」を公布して、資金に不急不要部門への流れを防ぐとともに、浮動資金を吸収するための貯蓄増強措置を定め、
また適時に大規模な国民貯蓄奨励運動を展開するところあった。しかし、年々増加する国債はそのほとんどが日本銀行による引受発行だが、一般消費が次第に困難となって日本銀行の国債保有高が累積し、通貨増加によるインフレが進行の一途をたどった。
そこでインフレ抑制に緊要な貯蓄増強を一層効果あげるため、大衆の射幸心にも訴えることを立案の結果、「臨時資金調整法」を一部改正増補し、これを根拠法として「割増金附貯蓄規制」(昭和19年6月2日)が制定され、「割増金預金」が、
また同じく「福券規則」(昭和19年8月31日)によって「勝札」(後に「宝くじ」)を発行できるようになった。「割増金附預金」とは、預金債券としての性質は一般の預金に異ならないが、預金契約の成立と同時に抽選権を随伴するのが特色で、抽選によって等級別の割増金品が確定すれば、その供与債務を取扱銀行が負うものである。
当初に実施された「割増金附預金」は19年6月15日から7月14日にわたって募集の「福徳定期預金」で、日本勧業銀行(現第一勧業銀行⇒みずほ銀行)が幹事銀行となり、証書要旨の作成、抽選番号の統括配布、抽選の実施を引受け、全国の普通銀行が一律いっせいに取扱う合同形式によるものであった。
この形式による取扱いは、その後1口金額が当初300円を1,000円に引き上げ、あるいは割増金品の内容を改訂するなど多少の変更はあったものの、回次を重ねて24年7月頃まで続けられた。その募集した額はそれぞれ取扱銀行の定期預金となり、各銀行は募集口数に応じた負担金を定期預金利息で支払って幹事銀行に拠出し、それが割増金品に充当される仕組みであった。
割増金の額はインフレの進行につれ次第に大きくなり、生活物資欠乏の折りでもあったので、賞金に換えて自転車・綿布・たおる・地下足袋・石鹸・サッカリン・飴などの日需品が賞品として用いられた。
当行では企画課が抽選番号の管理や割増金品の受け渡しを総括担当したが、本店営業部の金庫に依頼保管していた賞品の飴が溶けてしまい、さればといって代用品は他に求められず、当時の営業部次長の奥山良蔵と私は途方に暮れたこともあった。
今となってはなつかしい思い出の一つである。
「福徳定期預金」には抽選で多額の賞品なり、当時としては求めがたい賞品が附与されるのが魅力で、また割増金品については所得税が課せられぬことでも好評をよび、さらには預金証書の印紙税も免除扱いのため、
その募集取扱高は順調に伸長を続けていた。ところが、「割増金附預金」の基本的根拠法である「臨時資金調整法」は、GHQの指令により昭和23年4月7日に廃止され、したがって「割増金附預金」を取扱いできなくなった。
しかし、ながら、戦後経済下の当時現況はなお一層の貯蓄増強を肝要としており、「割増金附預金」の存在意義が高く評価されてもいたので、同年7月12日に法律143号「割増金附貯蓄の取り扱いに関する法律」が公布施行され、「割増金附預金」は単独法のもとに新たに生まれかわり実施のこととなった。
なお宝くじも同様に、同日公布施行の法律144号「当せん金附証票法」によって取扱いが継続された。
さて当行における「割増金附預金」の取扱状況はどうであったろうか。前述に日本勧業銀行を幹事として全国普通銀行の合同形式によった「福徳定期預金」が創設されると、当行もこれに参加して取扱募集回次ごとに相当の好成績をあげたのであるが、手もとに保存していた当時の資料を探しても見当たらず、
計数を含めてその詳細をお知らせできぬことはまことに遺憾である。ともあれ「割増金附預金」が、法の定めるところ定期預金のみに限られてはおらない点から、当行は「福徳定期預金」を取扱うかたわら、独自の企画による「ほがらか預金」を23年10月11日に、そして「両銀たのしみ積金」を11月5日に、それぞれ実施し募集を開始したのである。
(『回想・わが心の山形銀行』から)
<貯蓄推進運動>
政府は昭和21年末から、金融機関における貸出の抑制を行い、22年2月には「産業資金の供給調整に関する措置要綱」に基づき、資金を重点産業に優先的に確保し、不急産業への資金融通を極力抑制する方針を打ち出している。
前述の措置と同時に、政府はインフレを抑制し、産業資金を確保すべく、昭和21年11月から「救国貯蓄運動」を展開している。すなわち中央に通貨安定対策本部が設置され、国民的規模での貯蓄の推進が図られることとなり、この運動に呼応して、各都道府県には、前記本部の下部組織として、通貨安定推進委員会が設置されている。
滋賀県においても、同年11月、日銀大津事務所長および県下金融機関関係者、学識経験者などを委員として、滋賀地方通貨安定推進委員会が設立され、救国貯蓄運動の推進に当たっている。
『滋賀銀行20年史』によれば、滋賀銀行における状況が以下のように記されている。
「この運動に呼応して、当行は自主目標額を1億2千万円と定め、11,12の両月預金増強を推進した結果、目標額達成店26、半額以上達成店22、半額未満達成店12、減少店3で、総計において、21年12月は10月末に比し8,400余万円の預金増加となり、当行預金は12月末10億円の関門を遂に突破したのであった」(『滋賀銀行20年史』)と。
(『滋賀銀行小史』から)
<総預金1千億円の大台突破>
昭和45年1月、月中預金平均残高が5百億円台に乗せたのを足がかりに、3年倍増の1千億円を目標とし、その達成期を48年1月の平均残高とした。
各期に中間目標額を設定し、一段と外部活動の積極化と内部態勢の強化を図り、また新種預金の販売、店舗の増設などの諸施策を進め総力を結集した。
この結果47年12月30日現在の総預金は1,148億5千万円に達し、さらに48年1月中の平均残高は1,057億7,200万円に達し宿願が結実した。その後地方的季節資金の流出と一般経済情勢によって平均残高は一時千億台を割ったが、期末残高は千億台を維持し、48年下期以降は、期末・平残とも千億台に定着し、さらに上昇をたどりつつある。
昭和49年度の預金増強は、50年12月末、2千億円実現を目標とした。これは50年5月の当行創業80周年の記念事業として意義深いものがあり、同時に当行の飛躍的発展を約束するものとしてこれが必達を期して努力中である。
(『羽後銀行80年史』から)
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