コメ自由化への試案
農作物のルーツを探る
ゆたかな食生活は地産地消から


TANAKA1942bです 「コメは自由化すべきだ」 と主張します   アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します        If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain.――Winston Churchill    30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない。――ウィンストン・チャーチル       日曜画家ならぬ日曜エコノミスト TANAKA1942bが経済学の神話に挑戦します     好奇心と遊び心いっぱいのアマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します     アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します


2007年12月3日更新  
……… は じ め に ………
 今日、日本では人々がゆたかな食生活を愉しんでいる。「グルメブームは一部の人たちのもので一般人には関係ない」などと言う臍曲がりがいたとしても、戦前・戦後の苦しい食生活の時期から比べれば、現在、日本人がゆたかな食生活を愉しんでいることは間違いない。 そのゆたかな食生活を支えているのは、「日本に古来からあった食材に加えて、世界各地から豊富な食材が持ち込まれて来たからだ」と言える。 農作物で日本が原産地と言えるのは、ワラビ、ウド、ツワブキ、フキ、タラ、オカヒジキ、アシタバ、 ミョウガ、セリ、ハマボウフウ、ミツバ、ジュンサイ、ワサビ、ニラ、サンショウ、ジネンジョ、 ユリ類、カンゾウ類、ギボウシ類、きのこ類、山菜類などだ。もし地産地消を厳密に実行しようとすれば、日本の食事は実に貧しいものになる。 言い替えれば、現代日本人のゆたかな食生活を支えているのは、「反地産地消の精神」に基づいて世界中から美味しい食材を求めてきて、消費者に提供しているからだ、と言える。 では、実際にどのような食材が、世界のどこを原産地として品種改良され日本の食卓に上がっているのだろうか?農作物の原産地を探り、それがどのようにして日本の食卓に並ぶようになったのか? 食材・農作物のグローバリゼーションを探ることにした。TANAKAは「コメは自由化すべし」と考えている。農作物の輸入を自由化し、コメの輸入も自由化して、ゆたかな日本の食卓をさらにゆたかにすることによって、 現代の「ゆたかな社会」を実感できれば良いことだ、と思う。

農作物のルーツを探る  ゆたかな食生活は地産地消から
 (1) 「たけのこ生活」から「ゆたかな食生活」へ 敗戦直後の食糧難を振り返ってみる ( 2007年9月17日 )
 (2) コシヒカリ育成に見る品種改良の意味 F1ハイブリッド・トマト「桃太郎」ほか ( 2007年9月24日 )
 (3) 江戸時代の少ない食材を生かした食生活 庶民の日常と滅多にないハレの世界 ( 2007年10月1日 )
 (4) 新世界からの貴金属以上の贈り物 コロンブス以後西欧での農作物の多様化 ( 2007年10月8日 )
 (5) アイルランドの歴史を変えたジャガイモ これがなかったらドイツ料理はどうなる ( 2007年10月15日 )
 (6) アメリカで品種改良されたトウモロコシ 最近の話題はバイオエタノール原料 ( 2007年10月22日 )
 (7) ケチャップにより一気に普及したトマト 日本ではチキンライスによって普及 ( 2007年10月29日 )
 (8) ヨーロッパにはなかったマメ類やナッツ インゲンマメ・ピーナツ・カシューナッツ ( 2007年11月5日 )
 (9) トウガラシ・カボチャ・パイナップル・キャッサバ 香辛料・野菜・果物・主食穀物 ( 2007年11月12日 )
 (10)イネがたどった長い旅路を考えてみる 諸説を読んで想像力を働かせてください ( 2007年11月19日 )
 (11)品種改良は地産地消に反するか? 旺盛な食欲が食生活の新しい時代を開く ( 2007年11月26日 )
 (12)生産者は「消費者は王様」を理解し 消費者はゆたかな食生活を楽しみましょう ( 2007年12月3日 )

趣味の経済学 アマチュアエコノミストのすすめ Index
2%インフレ目標政策失敗への途 量的緩和政策はひびの入った骨董品
(2013年5月8日)

FX、お客が損すりゃ業者は儲かる 仕組みの解明と適切な後始末を (2011年11月1日)
コメ自由化への試案 Index

(1)「たけのこ生活」から「ゆたかな食生活」へ 
敗戦直後の食糧難を振り返ってみる
  「食と農」という言葉をキーワードにすると、それに続く文章は大体決まってくる。「現代は飽食の時代」と「自給率低下」が織り込まれた文章になってくる。 さらに続くのは「地産地消」であったり「食育」であったりする。そこには「消費者は国内の農業生産力が低下している現実を知らない」「昔からの食生活を忘れ、偏った食生活に陥っている」と消費者非難が続き、 「自給率向上」と「生産者保護」へと話しは続く。
 こうした立場で戦後の「食と農」をから語るとどうなるか、ごく標準的な見方からの文章を引用してみよう。ただしTANAKAの見方は少し違うので、それは後で書くことにして、 先ずは、日本経済新聞社論説委員・岸康彦著『食と農の戦後史』から引用してみよう。
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<敗戦後の「食と農」の変化に対する一般的な見方>   第2次世界大戦に敗れてから半世紀、日本人の食生活は目覚ましい変化をとげた。ひと口で言えば飢餓から飽食への年月である。 日本に飢えのの時代があったことを記憶している人は年々減り、私たちの周りにはあふれるほどの食べ物がある。
 しかし、飽食を満喫している消費者たちは、あり余る食べ物がどのように生産されているかが見えにくくなっている。 だれもが家族の健康と安全を願い、心のどこかに「本当に安心できるものを食べているのか」「こんなに輸入食品が増えて、将来、日本の農業は大丈夫なのか」など漠然とした不安を抱きながらも、 生産の場にまではなかなか目が届かないのが現実だろう。
 最近では飛行機や自動車の絵は上手に描けるが、ブタやニワトリは正しく描けない子供が少なくないと聞く。 都会に生まれ、都会に育つ人の割合がますます高まっているのだから、無理からぬことではあるが、今の状態が正常とは思えない。 生産と消費の間に断絶が生じているのである。
 この点は農業の側にも責任がある。米価要求運動に台布王されるように、戦後の日本農業は農政依存型になりすぎて、消費者が何を求めているかに鈍感だった。 農家は作ることだけを考え、また農業団体はもっぱら国に要求することに力を入れて、食べる側との交渉や都会に向けての情報発信が少なかった。
 食品工業や外食産業の発展は、疑いもなく私たちの「食」の世界を豊にした。家庭で料理をつくる代わりに加工食品を利用して、レストランへ食べに行く。 あるいは弁当やファーストフードを買って手軽に食事をすます。このような「食の外部化」が食文化の歴史に新しい1ページを加えたことは間違いないが、その半面、 外部化が進めば進むほど、作る側と食べる側のつながりが稀薄になることも避けられない。(中略)
 飢餓から飽食へと時代が移る中で、私たちの得たものは多かった。しかし、同時に、失ったものも少なくないのではないか。たとえば農産物の味である。 野菜はもちろんミカンなどの果物までが、ボイラーで温めたハウスで育てられている。そのこと自体は農業技術の進歩によるものであり、おかげで私たちは、食べたい時いつでも食べられる便利さを手に入れたが、それと引き換えに本物の味を忘れかけている。 私たちにとって「食べる」とはどういうことなのか、この点も本書を通じて問い直したい。
 世界中のおいしいものを食べられる消費者は恵まれている。けれどもその陰で日本農業が後退に後退を重ねていることも見落としたくない事実である。 (『食と農の戦後史』から)
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<こうした見方とは違った視点でゆたかな食生活を考えます>  上記文章は日本経済新聞社論説委員の文章です。日本の代表的な見方かも知れませんが、TANAKAは違った視点で、農業を考えてみます。
 敗戦後日本人はイデオロギーを捨てた。ごく一部の人が「共産主義」というイデオロギーに固執したが、多くの国民は「生きること」に精いっぱいだった。 工業生産力は落ち込み、海外からの帰国者が溢れ、食糧不足は深刻だった。「食糧がない」「食えない」ということがどんなに苦しいことか、国民は知った。
 都会の人たちは知り合いを頼み、タンスの中から衣服を持ち出し、それと引換に農村からサツマイモやコメをもらって、満員列車に乗って、警察の目を気にしながら持ち帰った。
 「都市と農村の格差」で言えば、農村優位は絶対であった。食糧不足がどれほど社会不安に繋がるか、一種のトラウマとなって日本人の心に刻まれた。
 そうした苦しい生活の経済の成長と共に和らいでいった。フランス・イギリス・ドイツなどヨーロッパ諸国がソ連とは違う社会主義経済を追求したのに対して、 日本では比較的政府の干渉の少ない自由経済であった。工業生産部門では政府の保護を強調する人もいるがむしろ「官に逆らった経営者」がハイリスク・ハイリターンの経営にチャレンジし、 それに続く企業が日本経済を成長させた、
 ある地域での食糧生産力とそこで養える人口とは密接な関係がある。とくに、江戸時代のように食糧の輸入がなければ、日本列島で生産される食糧に、列島の人口は制限される。 敗戦後、日本列島での食糧自給が始まって、海外からの引き揚げ帰国者が溢れ、食糧供給力以上の人口が増え、それによって多くの日本人は「飢え」を経験した。
 この「飢え」を解消するには、方法は2つ。@食糧生産力を上げる。A海外から食糧を輸入する。日本ではAを採用した。
 戦後の大きな社会改革の1つである「農地改革」、これは生産量アップを目指したのもではなく、農村部の民主化を目指したものであった。Aの食糧輸入に関しては、工業製品を輸出することにより、食糧輸入を可能にした。 戦前と違い、自由貿易であったことも幸いした。
 アメリカほどではなかったが、自由世界の中では比較的自由経済であったため、国民の「豊になりたい」との努力がみのり、 経済は大きく成長した。豊になったことにより、食生活も大きく変化した。昔からの食生活が西洋風に変わり、農業生産が変化についていけず、食糧自給率は低下した。 工業生産力の向上により、食糧輸入は容易になり、消費者は安い輸入食料を求めるようになった。消費者の食生活の変化と経常収支の黒字がこの傾向に拍車を掛けた。
 カロリーベースでの総合食糧自給率は現在40%。日本人のカロリーはその40%を日本の農家の生産した食糧により賄い、残り60%は海外からの輸入による。 その輸入は工業製品の輸出により可能になった。つまり、日本人は食糧の40%を日本の農家にたより、残り60%は工業労働者の汗によって賄われている、と言える。
 こうした状況を見て、食料自給立の低さを嘆く人もいるが、むしろこの狭い日本列島でこの人口を養っていける工業生産力を評価すべきだと思う。敗戦後日本が目指したのはこの様な社会であったのだからだ。
 さて、ゆたかになった日本人の生活は「地産地消」とは違った道を歩んでいる。安くてうまい物ならば、世界中から買い求めて豊かな食生活を楽しんでいる。 この生活、しかし、豊になる前から、日本人は「地産地消」ではなく、良いのもは産地に拘らず楽しんでいた。そして、この傾向は日本人に限らず、世界中の人々が「地産地消」とは違った生活をしていたことに気付くはずだ。 人類は「地産地消」とは違う生活をしてきたのだった。
 このホームページでは「農作物のルーツを探る」と題して、日本人を含む世界の人びとがどれほど貪欲は食生活して来たかを探って見ようと思う。 今、私たちが食べているものが、原産地でのものと如何に違うか。どのようにして自分たちに適した食料へと変化させてきたか、多くの文献を基に「豊かな食生活は反地産地消から」というTANAKAの考えをまとめることにした。
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<「たけのこ生活」から飽食・グルメへ=敗戦から21世紀への道のり>  1930年代の世界大不況で各国は自由貿易を捨て、輸入制限を始めた。ヨーロッパの植民地大国は域外からの輸入を制限し始めた。 これによって日・独・伊は自給自足を満たすため資源の供給地、そして製品の輸出先である植民地を拡大しようとし、既得権を持っている国と衝突し、ここに第2次世界大戦が始まった。
 このことを教訓に大戦後は自由貿易を推進すべくガットが調印された。制度上の自由貿易は保証されたが、敗戦によって産業施設を破壊された日本は、輸出産業がなかった。 貿易は自由であっても、輸出して外貨を稼がないと輸入する原資がなかった。したがって敗戦直後の日本では自給自足・地産地消をやっていた。 外地からの引揚者も増加し、食糧不足は深刻であった。庶民はたけのこ生活を強いられ、買い出し、かつぎ屋、闇市が栄えた。それでも絶対量が不足するので栄養失調も深刻であった。 こうした敗戦直後の状況について『食と農の戦後史』から引用してみよう。
銀シャリとヤミ市  8月15日はふつう「終戦の日」または「終戦記念日」と呼ばれている。しかし、そのころの生活を顧みれば、単に第2次世界大戦が終わったことを意味する「終戦」という言葉はいかにもそらぞらしい。 戦火に焼かれたこの国で、人々は飢えをしのぐのに精いっぱいであり、明日を考えるより今日をどう食いつなぐかに疲れ果てていた。 そのにあったのは紛れもなく「敗戦」であり、「無条件降伏」の現実だった。焼け跡で、人々はどんなものを食べていたのだろうか。 当時16歳だったジャーナリストの林信彰が、1945(昭和20)年8月15日の食事内容を書き残している。もちろん家により、ところによって差はあったが、おおよその様子は戦争を知らない世代にも感じとってもらえるだろう。

 「朝はサツマイモの雑炊である。サツマイモといえば聞こえはいいが、種イモとして使ったカスを切り干しにした粉である。かすかに甘味はあるが、それよりも強い苦みがある。 少し食べ過ぎると下痢を起こすという代物だ。昼は動員先の工場でニギリメシが出た。これは一見赤飯のように見える。終戦を祝って赤飯を炊いたわけではない。 フスマが大量に混入されているからだ。そして夕食はスイトンである。戦争が終わったということで、だいじにしてきたダイズとコンブを煮込んだ缶詰1個が、おかずとして開けられたのである。 この食事、いったい何カロリーあったであろうか。それより、空腹はしのげたにしても、栄養としてはたしてどれだけ吸収されただろう」

 戦争中はほとんどあらゆる物資が配給制だった。書食の配給量は45年7月11日(大都市では8月11日)から成人1人1日当たり2合1勺(297グラム)になっていた。 質はともかく、量は41年4月以来の2合3勺(330グラム)配給を維持するという建前を保ってきたが、敗戦直前になってついに1割削減に踏み切らざるをえなかった。 在庫が不足していただけでなく、米軍機の空襲が大都市から全国に広がって、鉄道輸送が間に合わなくなったのである。
 297グラムに365日を掛けると年間では108キログラムである。現在、コメの消費量は1人1年に70キロを切っているから、108キロは十分な量ではないかと思う太がいるかもしれない。 しかし主食といってもコメだけでなく、ほかに麦、雑穀、澱粉、イモ類などが含まれていた。同じご飯でも、白米だけで炊いたものは「銀シャリ」または「銀めし」と呼ばれた。 このころには庶民が銀シャリにありつくことなど、まず不可能だった。
 魚や野菜のような副食が、特に都市部ではきわめて乏しかった時代であることも忘れてはならない。まして、肉、牛乳などの畜産物が食卓にのぼることはまれだった。 今日とちがって、頼りになる栄養源はコメだけしかなかったと言ってもよいころである。事実、戦前の日本人は1年におよそ1石(約150キロ)のコメを食べていた。
 2合1勺の食糧配給量は1042キロカロリーと計算されていた。そのころ栄養学者が生存に裁定必要としていたカロリーのおよそ65%でしかない。 たまに配給されるコメも5分づきのため「半つき米」と呼ばれた。この半つき米を白米にするには、1升びんに入れて股の間にはさむなどして支え、棒を差し込んで時間をかけてつく。 気の長い精白作業はしばしば子供の役目になっていた。乏しいながらも身のまわりに食べるものが何かあった農村地帯はともかく、都会では毎日が飢えと隣り合わせの暮らしだった。
 都会のあちこちに、戦争が終わるとほとんど間をおかず、ヤミ市(青空市場)ができた。統制の網をくぐったヤミ取引の食料品をはじめ、さまざまな品物が売られていた。 農家からブローカーが買ってきた農産物、旧軍隊から流出した加工食品や日用品など、出所の明らかでない品物が雑然と並んでいた。人々はバラックの雑炊食堂でかろうじて胃袋を満たし、めぼしいものはないかとヤミ市をあさった。
 東京の場合、45年12月現在でおよそ1万7,000のヤミ市があり、そこに店を出した商人は8万人にのぼってとされる。 時々、警察が取り締まりをしたが、ヤミ市は都会人の生活になくてはならぬものになっていただけに、その効果は薄かった。
 しかしヤミ値は高い。カネのない庶民には、にぎやかなヤミ市もしばしば欲求不満を募らせるだけの結果になった。次の例は敗戦2年目の46年になってからの東京での話しだが、ヤミ市では似たようなことを多くの人が経験している。

 「初月給210円を懐に、今晩のおかずでも買って両親を喜ばせようと、新橋駅前のヤミ市へ足を踏み入れた。 (中略) ふとわらに通した3匹の目刺しが目についたので、「よし、これだ!」と値札を見ると、なんと百円とあるではないか。瞬間、くらくらっと軽い目まいがしたのを覚えている。 「おい、お兄さん、買うのか買わねえのかよ!」と、頭にねじり鉢巻きをした若い男が威勢のよい声を背中に浴びながら、すごすごときびすを返した」

 街には家も職もない人々や戦災孤児たちがさまよい、駅や公園、地下道をねぐらにしていた。 今日で言えばホームレスということになるが、状況の深刻さは比べ物にならない。飢えと病気、夜の冷え込みで行き倒れになる人も続出した。 当時の新聞によると、浮浪者のたまりとして知られた東京の上野駅で、45年10月には1日平均2.5人、多い日には6人もの餓死者が出た。 大阪市内でも餓死者は8月60人、9月67人、10月には69人を数えた・この記事には「始まっている「死の行進」、餓死はすでに全国の街に」という見出しがついていた。
滞りがちな配給  悪いことに、45年産のコメは1905(明治38)年以来40年ぶりの凶作だった。水稲の作況指数は67にとどまり、生産量は陸稲を合わせても587万トン(3915万石)と、前年より約300万トン少なかった。 生産量が500万トン台に落ちたのも40年ぶりである。
 もっとも、敗戦で統計調査組織の機能が麻痺し、被害が実態以上に大きく報告されたことも事実らしい。統計上の収穫量が少なければ供出の負担は軽くなり、農家にとってはありがたいことになる。 農業生産を所轄する農林省や、対日占領政策の実施機関である連合国軍総司令部(GHQ)も、この数字を頭から信じていたわけではない。 農林省内では当時、個人的にではあるが、750万トン(5000万石)を下ることはないと推計した人もいる。この量であれば、東北に大冷害が発生した1934(昭和9)年とほぼ同じになる。
 そのような混乱はあったにしても、凶作であったことは間違いない。もともと戦争で肥料の生産が不足していたうえ、男手を戦地や工場に取られて田畑は十分な管理ができなかった。 今のようにトラクターや田植え機、コンバイン(収穫機)といった便利な機械があるわけでもなく、農薬もほとんどなかった。 生産基盤が弱くなっていたところへ、この年には稲の生育期に不順な天候が続いたうえ、収穫期にダメ押しの台風や水害に襲われるという不安も重なった。
 戦争開始の直後、1942年に制定された食糧管理法によって、コメ、麦などの主要農産物は、農家が自家用に消費するものを除いて善良を政府が買い上げることになっていた。 これを「供出」という。以前はそれ以外に、言わば”純国産”として、日本の統治下にあった台湾や朝鮮半島、満州(現在の中国東北部)からコメや雑穀、大豆を「移入」することができた。 コメだけでも、多い年には200万トン以上を移入した実績がある。
 しかし45年8月15日以後、移入はなくなった。といって、敗戦直後でカネのない国に気前よくコメを輸出してくれる国があるはずはない。 乏しい在庫を食いつなぎつつ、農家にできるだけ多く供出してもらうしかなかった。
 食糧不足を少しでも補おうと、政府は「総合供出制」という苦肉の策を編み出した。コメ以外の農産物による「代替供出」を認めたのである。
 未利用資源による代替食糧の活用は戦争中から研究されていたことである。43年には農林省の前身である農商省に代用食品課が設けられた。 食糧不足が年ごとに強まるのに対応するため、未利用資源を使って代用食を供給しようという皮算用だった。44年になると、東京には小麦粉、豆などに魚粉や桑の葉の粉などを混ぜたパンを供出する食堂も開設された。
 敗戦直前の45年7月には、農商省の食糧管理局(現在の食糧庁)に利用課という、名前だけでは何をするのか分からないような課が設置された。 2年弱で廃止された小さな課だが、その目的は未利用資源の活用にあった。
 利用課の研究成果はどうか。未利用資源はのちにさらに追加され、カボチャの茎葉・種子・ワラビ、ゼンマイからサナギまでが対象になった。 趣味の食べ物ではなく、命をつなぐ食料としてである。もっとも、実際に集荷された未利用資源の量はわぐかなものだった。
 食糧管理局は厳しい供出と配給制度の下で国民の食糧に責任を持っていた。しかし現実に食糧がなくては配給責任を果たすことができない。 45年7月からの2合1勺配給は新米が出回れば解消するはずだった。1042キロカロリーの食生活が長続きするはずはないからである。 ところが、その直後の者緯線と未曾有の凶作で、11月から新しい米穀年度に入っても事態はいっこうに改善せず、2合1勺配給を継続せざるをえなかった。
 食糧庁編『食糧管理史』には、45年8月に政府が以ていた食糧はコメ換算で約89万トン(590万石)という数字がある。 この量は前年同月の43%でしかない。そこへ凶作が襲ったのだから、まったく心細い状況だった。10月9日、幣原喜重郎内閣の農相に就任した松村謙三が登庁初日に食糧管理局の片柳真吉次長(のちに農林事務次官)を呼び、「いま東京に配給米はどれくらいあるか」と尋ねたところ、「3日分しかありません」という答えが返ってきた。
 その年12月に片柳の後任として食糧管理局次長になった楠見義男(のちに農林事務次官)も同様な経験をしている。 枯れもまず担当課長に聞いたのは東京の在庫量だった。やはり「せいぜい3日分ぐらい」という返事に、楠見は今さらながらショックを受けた。
 東京の人口は戦火を避けての疎開などで戦前の半分以下、400万人を切るところまで減っていたのに、なおこの状態である。 このままでは年を越せない。しかし課長を叱っても無駄なことはわかり切っている。楠見は翌日から千葉、茨城、栃木といった東京周辺の生産県を回り、越年用のコメを貸してくれるよう知事たちに懇請した。 これを手始めとして、次長、朝刊として食糧管理局に在任した6ヶ月間、やりくり算段のその日暮らしが続いたと彼は書いている。
 楠見が就任する前の10月、東京では配給日になっても予定した量の食糧が確保できなかったことがある。その分、配給に遅れが生じるわけで、これを配給遅延あるいは遅配と呼んだ。 10月は近県からの出荷を督促してなんとか埋め合わせたが、年が明けるともう打つ手にも限界があった。遅配の恒常化は46年1月にまず北海道から始まり、3月には東京、横浜などに飛び火した。
 GHQが当時の状況をまとめた小冊子『占領第1年における日本の食糧事情』に、46年3月時点の東京で配給物資だけを使って食事を作ったとしたらどんな具合になったかが示されている。
 それによると、すべての食べ物を合計しても、得られる熱量は1,100キロカロリー強にすぎない。これでは生きていくだけでも難しい。配給で足りない分は家庭菜園で生産するか、人に分けてもらうか、またはヤミ買いするしかなかった、と冊子には書かれている。
 すでに戦争中から、多少とも庭のある家では菜園を作っていたが、なんといっても素人のやることである。腹の足しになるものとしてはイモ類とカボチャぐらいで、広い土地が必要なコメや麦まではなかなか手が及ばなかった。
 遅配は全国の主要都市で断続的におよそ2年間続いた。特に北海道がひどく、札幌などの主要都市では60日前後から70日近い遅配になった時もある。 在庫を少しでも長持ちさせるため、食糧管理局は「計画的遅配」と称して意図的に配給を遅らせたこともあった。 それでも配給があればまだいい。モンペ姿の主婦たちは配給所の前に行列を作り、辛抱強く何かが手に入るのを待った。しかし予定の配給がないまま終わることもたびたびあった。これを欠配という。
買い出しと取り締まりの泥仕合  遅配、欠配に対し、消費者は自衛しなくては生きていけない。都会の家庭では勤めを休んでも近郊の農家へ買い出しに出かけた。栄養補給のための買い出しは戦争中もあったが、戦後はさらに盛んになっただけでなく、栄養補給というより、生きるための切羽詰まった行動になっていた。 中でも肉体労働者はカロリー不足がひどくては働けないから、よけい欠勤が増える。やがて役所でも月に何日かの「食糧休暇」を設けるようになった。
 モノ不足でインフレが激しかったから、買い出しにはカネより品物を以ていく必要があった。農家との物々交換である。 戦災に遭った人たちには残ったものとて少なかったが、いちばんよく使われたのは晴着などの衣類である。母親を空襲で亡くし、かろうじて焼け残った形見の着物をリュックサックに入れて買い出しに行った、などという話しがざらにあった。 衣類がなくなると、リュックに詰めるものは時計、カメラなど、当時としては衣類同様に貴重な品物へと代わっていった。
 手元に残ったものを1つまた1つと持ち出し、農家に頼み込んでコメやイモと交換する。こんな暮らしぶりを、タケノコの皮を1枚ずつ剥いでいくのに例えて「タケノコ生活」と呼んだ。
 買い出し先はだんだん遠くなり、長距離列車に乗らなければ行けないところまで足を延ばすようになった。「買い出し列車」には都会からの「買い出し部隊」だけでなく、農産物などを都会に運んでひともうけしようとする「かつぎ屋」もたくさん乗っていた。 切符を入手するのもひと苦労だったが、車内はいつも満員すし詰め、乗り降りは窓からというのが普通だった。
 そのころ女子大生として寮生活をしていた一番ケ瀬康子・日本女子大学教授の「買い出し」という小文から引いてみる。

 「台湾から女子大学入学のために出てきた時に、母が持たせてくれた着物やコート、ワンピースなどは、しだいに消えていった。 しかし、それでも農家は、こちらが頼みに頼まないとなかなか分けてくれない。大根を何本か獲得するために、頭をさげながら何軒も何軒も売ってくれる農家をたずねて歩いた記憶がある。 全部で20キロもある大根数本を帯の芯で作ったリュックサックに入れて、”いも電車”で帰ってくる。電車に乗るときは、窓から乗り込む人が多く、各駅に停まるたびに、てんやわんやの騒ぎであった。 もちろん窓ガラスは割れ、板が打ち付けてあった。また電車が足りなくなったのか、常に貨車がつねげてあった。その貨車には、私たちは”買い出し”のリュックとともに詰め込まれた」

 そんな有様でも食べ物が手に入れば幸せだった。父や母に連れられて買い出しに行ったことのある人たちは、農家に「お前たちに売るコメはないよ」などと、つれない返事をされた記憶を必ず持っている。 初対面の都会人には、コメはおろかイモや野菜を手に入れるのも大変だった。
 その悔しさは都会の人の心に刻み込まれた。戦前から学校では終身の時間などに、暑さ寒さに負けず食糧を生産してくれるお百姓さんに感謝するよう教育されてきた。 しかし敗戦の現実は、そうした気持ちをどこかへ吹き飛ばしてしまった。
 次節で述べるように、この時期、農家も左うちわで暮らしていたわけでは決してないことは強調しておく必要がある。 戦争の被害者は都会の人間だけではなかった。それにしても、なけなしの貴重品を背負って行ってもなかなか食べ物にありつけなかった買い出しの記憶は、死ぬまで消えないであろう。
 戦後50年たった今でも、新聞社には高齢の読者からそういった内容の投書が届く。「食糧安全保障のために農業を守れと言うが、いざという時に日本の農家が国民の食糧を確保してくれるはずがない」などと、不信感をむき出しにした手紙もある。 あのころを思い起こすと、一概に感情論と非難することはできない。
 1993年までの15年間、朝日新聞の農政担当論説委員だった黒川宣之は、論説委員会で農業問題について議論した時、「年配の論説委員が、戦時中にコメの買い出しに行って農家に冷たくされたことを持ち出して農家を攻撃するのを聞き、食べ物の恨みの怖さに驚いた記憶がある」と書いている。 飢えの時代は都市住民と農家との間に途方もなく深い溝を残した。
 だれもがしていることとは言え、買い出しもかつぎ屋もヤミには違いない。警察の取り締まりの対象になったのは当然である。 農家に泣きついてやっと交換したわずかばかりの食べ物を、帰りの車中や駅頭で没収されることもあった。47年8月に警視庁保安経済二課長となった後藤田正晴(のちに警察庁長官、副総理)は、取り締まり当事者としての複雑な心境を次にように述べている。

 「遅配欠配がしょっちゅう起こる。国民としては背に腹は代えられず、ヤミをやらざるを得ない。 それを国家権力が取り締まる。列車を止めて、取締官が買い出しの物資を没収して、それを正規のルートに乗せて再配給するわけである。 しかし、私どもは、こんなことが政府のやることかと、内心の矛盾を感じていた。取り締まりに当たる一線の警察官も同じ思いだったはずだ。人を取り締まりながら、自分の家族もヤミ市で物資を買わないと、生きていけないからである」

 食糧不足は東京の場合、46年の5、6月が最もひどかった。ほかの都市では東京よりやや遅れて最悪期がやってきたところが多いようである。
 GHQの指示で厚生省が45年12月から46年にかけて、全国の主要都市と農村地帯で栄養状態を調査した。今日も続く国民栄養調査の始まりである。 先に紹介した『占領第1年目に於ける日本の食糧事情』によえうと、農村県が低いながらも安定して1人1日当たり何とか1900キロカロリー台の熱量を摂取しているのに対し、東京は月による差が極めて大きく、配給の不安定さを示している。 名古屋、大阪などの4都市では、たださえ少ない熱量が時と共に減っており、蛋白質も46年8月には「東京」「4都市」「農村県」の3地域中で最低に落ちた。
 この冊子の基になった国民栄養調査結果で主要9都市の状況を見ると、46年に4回行われた調査の単純平均で、1人1日当たりの熱量は僅か1721キロカロリーにすぎない。 とうてい健康な肉体を維持できる水準ではなかった。
 凶作の翌年でコメの在庫は乏しく、次の収穫までには何ヶ月かある。遅配、欠配がひどくなる中、政府は戦争中に疎開した人たちが都市へ戻るのを防止するため、人口10万人以上の都市への転入を禁止するなど、食糧難の乗り切りに懸命だった。 3月には、歌舞伎俳優の片岡仁左衛門親子3人ら5人が、食べ物の恨みから同居人に殺されるという事件も起きた。「栄養失調」という言葉が日常語になり、このままでは餓死者が1000万人に達するという風雪が流れたほどで、人心は不安の極にあった。
「コメよこせ」メーデー  1946年5月1日、11年ぶりに復活したメーデーでは「働けるだけ食わせろ」がスローガンの1つになった。 12日には東京・世田谷で「米よこせ区民大会」が開かれ、勢いに乗った113人は赤旗を先頭に皇居まで押し掛けた。デモ隊は坂下門をくぐり、史上初めて赤旗が皇居内に入った。 この時、「君たちのデモの行く先は天皇のところだ」とアジ演説をしたのは、1月に中国から帰ったばかりの日本共産党幹部・野坂参三だった。
 続いて5月1日に皇居前広場で開かれた「食糧メーデー」(飯米獲得人民大会)には、主催者側の数えで25万人が参加した。主催者の本当の狙いは、吉田茂・自由党総裁による組閣が難航しているのに追い討ちをかけ、人民政権を樹立することにあった。 日本の民主化を進めていた連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーも、大会代表が首相官邸に座り込んだことを見かねて、翌20日、「秩序なき暴力行為は今後絶対に許容されない」と警告声明を発表した。 それにしても「飯米獲得」で25万人が集まること自体、国民の切ない願いを反映していた。
 食糧メーデーはプラカード事件を引き起こしたことでも知られる。参加者の1人が掲げたプラカードにはこう書かれていた。

 「詔書 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク 食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」

 国体がゴジ(護持)されたとは、敗戦にもかかわらず天皇制が存続だれたことを意味している。 このプラカードの語句が不敬罪に当たるとして、東京地検は3日後にプラカードの製作者を起訴した。結果は不敬罪ではなく名誉毀損で有罪との判決があり、さらに争われるうちに免訴とされたが、この裁判は不敬罪廃止のきっかけになった。 ともかく、当時の国民の「たらふく食いたい」という願いを象徴する事件ではあった。
 食糧メーデーの前後は食糧難が最も深刻な時期に当たっていた。NHKラジオの街頭インタビュー番組「街頭にて」が6月3日放送分から衣替えし、道行く人たちとアナウンサーとの対話・討論形式を採用した時、初めて取り上げたテーマはそのものずばり「貴方はどうして食べていますか」という深刻なものだった。 大反響を呼んだこの番組はほどなく「街頭録音」名称を変え、人気番組の1つとして58年まで続く。
 そんな時代でも、世の中にはヤミもデモもできない人たちがいた。45年10月11日に死んだ東京高校(旧制)のドイツ語教授・亀尾英四郎もその1人である。 ゲーテの『エッケルマンとの対話』の訳者として知られていた亀尾は、戦争中から妻子7人を配給物資とわずかな家庭菜園の野菜だけで養っていた。 彼はいつも自分の食べる分を切り詰めて子供たちに与えていた結果、ついに栄養失調で倒れたのだった。
 亀尾より2年後になるが、47年11月にアサヒ新聞がスクープした東京地方裁判所判事・山口良忠の死は、法の番人の悲劇として衝撃を与えた。
 山口判事には妻と2人の幼い子があった。彼自身は食糧の統制は不要という意見を持っていたとされるが、判事として法の威信を守ろうと配給だけの生活を続けた。 インフレのさなかに税込み3000円の月給だけでは食べていけない。同僚の裁判官たちは一般国民と同様、ヤミの買い出しをしていたが、山口は郷里から送られるものも拒否し、激増する事件の審理に打ち込んだ。 そうした無理が重なって地裁で倒れ、偶然にも2年前の亀尾と同じ10月11日に死亡した。医師は「かつてない極度の栄養失調による」と診断した。
 政治的背景もあって高揚したコメよこせ運動が次第に収まり、配給事情も徐々に改善されて国民が一息ついたのは、47年秋にまとまった量の輸入食糧が放出されてからだった。 翌48年には、コメの作付が良くて需給はようやく緩和に向かう。山口判事はその日まで生き延びることができなかった。
 残された山口判事の日記には、悪法と知りつつ法にしたがって死刑に服したギリシャの哲人、ソクラテスを引き合いに出しつつ、「食糧統制法は悪法だ、しかし法律としてある以上、国民は絶対にこれに服従せねばならない(中略) 自分はソクラテスならねど食糧統制法の下、喜んで餓死するつもりだ」(『朝日新聞』東京版1947年11月5日)と書かれていた。 「食糧統制法」とはもちろん「食糧管理法」のことだろう。
(『食と農の戦後史』から)
*                      *                      *
<敗戦直後の献立>  現代の私たちにとって、美味しさへの欲求は一段と強まり、生きるために食べるだけでなく、食べることをエンジョイするために働くという側面も現れている。 「飽食日本」なる表現は、経済的な豊かさの中で一部の人びとの食への過度な欲求を揶揄するものであり、確かに揶揄したくなる場面に出会うこともある。
 しかし、戦中、敗戦後の一時期は、空腹を満たすにも食料はなく、なりふり構わず、道端の雑草すら食べねばならなかった。 敗戦の年、@米は明治42年以来の凶作(587万トン)で、平年作に戻る翌年の64%弱の収穫しかなかったこと、A石炭不足で鉄道は間引き運転となり、輸送力を確保できなかったこと、 Bさらに、朝鮮、台湾など旧植民地からの移入が途絶えたことが、食糧不足の主因である。市街地の焼け跡にはヤミ市が立ち、賑わっていたが、公定価格の数倍から十数倍もするヤミ値は庶民の手の届くものではなかった。
 それでも人びとは悲嘆にくれて日を送るわけにはいかなかった。家の中にあって食料品と交換できるものならば何でも袋に詰めて、栄養不足の身体にムチ打って超満員列車に必死の思いで乗り込み、遠くの農漁村へ食料の買い出しに出かけなければならなかったからである。 休日も買い出しに出かけるので、月曜日には欠勤者が増え、業務に支障をきたし、官庁や企業は「食糧休日」を与えるまでになった。
 マーク・ゲインの『ニッポン日記』でも、助手が東京から1週間かけて、四国まで親類の農家を頼って米の買い出しに出かけるため暇をもらっている。 この助手は恵まれている。
 「あなたが缶詰をいくら下さってもどうにもなりません。私たちは米がなくちゃ腹がへってやりきれません」
 こう言って、給料を前借りし、米と交換するための装身具を2つ3つもらえたし、道中で警察の取り締まりを運良く逃れ、家族2か月分の米を持ち帰ることができた。
 苦労を重ねた末にやっと手に入れた食糧とはどんなものであったか、次にあげる1週間の献立は、敗戦の翌年、大阪の守口市に住む一主婦の日記にあったものである。

 5月12日
  朝 よめな入りむしパン
  昼 にぎりめし、むしパン、にしん
  夜 大豆入り飯、玉ねぎ・なっぱ煮、干しかれい
 5月13日
  朝 大豆飯、干しかれい、梅干し
  昼 なっぱ・竹の子入りむしパン、にしん
  夜 竹の子入り飯、鯨、竹の子煮、漬物
 5月14日
  朝 竹の子入り飯、鯨、竹の子、漬物
  昼 だんご入り雑炊、かれい
  夜 干し大根、昆布、芋づる入り飯、にしん、かれい、漬物、大豆しょうゆびたし
 5月15日
  朝 干し大根入り飯、つけもの、かれい
  昼 糠(ぬか)入りむしパン
  夜 竹の子飯、竹の子煮付け、竹の子酢の物、ふりかけ、梅干し
 5月16日
  朝 竹の子飯、竹の子煮付け、かれい
  昼 糠入りむしパン
  夜 麦飯、竹の子油炒め、ふりかけ、菜づけ
 5月17日
  朝 麦飯、竹の子
  昼 麦飯、玉ねぎ、いか
  夜 麦飯、えそ塩焼き、玉ねぎ、漬物

 この献立は、相当裕福な家庭のものであるという。
 「ええ家庭やなあ、私らの食べてたものとえらい違うわ!」
 勤務先の同僚がこの献立を見て発した第一声である。同僚は敗戦時15歳、献立を記録した人と同じ都市部の阪神間に住んでいた。 敗戦時3歳未満の私には「そうですか?」と言うしかない。職場の歓送迎会などで、これまでに彼女と食卓をいっしょにしたことが何度かあった。 そのたびに、彼女の食いっぷりの良さにびっくりさせられた。かなり肥満で、体重が足の両膝に負担をかけ、歩行に支障をきたすまでになって、医者からもっと体重を減らすよう注意されているにもかかわらず、眼の前に出された料理はことごとく口に運ぶから、ついつい過食となる。
(『食の戦後史』から)
<食と農の戦後史> 
年代 政治・経済・一般できごと、食と農の主なできごと
1945
〜50
コメ凶作45、農地改革46、バラック、ヤミ市、リンゴの歌45、食糧メーデー46、エジプト米輸入48、主婦連、暮らしの手帖48、1ドル=360円49、朝鮮戦争50、たけのこ生活、買い出し・かつぎ屋、雑炊食堂
1951
〜55
養老乃瀧51、農地法52、お茶漬け海苔52、京樽52、テレビ放送開始53、初のスーパー・紀ノ国屋53、MSA余剰農産物買付54、全国農協中央会・全国農業会議54、缶入りジュース54、
1956
〜60
国連加盟56、台所合成洗剤56、神武景気・なべ底景気・岩戸景気56〜61、コシヒカリ育成56、チキンラーメン58、60年安保60、家電三種神器
1961
〜65
冷凍庫付き冷蔵庫61、ダイズ・バナナ・レモン自由化61〜64、ガット11条国63、OECD加盟・IMF8条国64、オリンピック景気62〜64、屋根型紙パック牛乳64
1966
〜70
40年不況65、家庭用電子レンジ66、いざなぎ景気66〜70日米貿易摩擦68、ボンカレー68、自主流通米せいど69、コメ生産調整70、大阪万博70、自販機100万台突破70、養老乃滝・吉野屋・すかいらーく・KFC・小僧寿し・外食元年
1971
〜75
ニクソンショック71、カップヌードル71、ダイエー小売業第1位72、列島改造ブーム72〜73、コメ小売価格自由化72、石油ショック不況73、マクドナルド・モスバーガー・セブンイレブン
1976
〜80
ほっかほっか亭76、外食産業売上げ10兆円超える76、宅急便76、第2次石油ショック不況80〜82、コシヒカリ作付け第1位79、外食企業の上場盛ん
1981
〜85
円高不況85〜86、あきたこまち84、「桃太郎」85、
1986
〜90
平成景気88〜90、外食産業売上高20兆円86、食料自給率50%切る87、特別栽培米87、電子レンジ普及率50%超える87、日米牛肉・オレンジ交渉妥結88、消費税89、
1991
〜00
WTO発足95、バブル崩壊91、平成米騒動94、ミニマム・アクセス米初輸入95、
*                      *                      *
<ゆたかになった日本人の食生活>  敗戦直後の食生活について引用した。これは、現代がいかに「ゆたかな社会」かということを理解してもらうためであった。 「ゆたかな社会」と「そうでない社会」では「食」に対する感じ方がまるで違ってくる。経済一般についても、銀行のオーバーローンに関しても、 「ゆたかな社会」と「そうでない社会」では捉え方が違ってくる。
 現代日本がいかにゆたかな食生活を営んでいるか、この理解をもとに「ゆたかな食生活は反地産地消から」というテーマで話しを進めることにしよう。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『食と農の戦後史』                  岸康彦 日本経済新聞社  1996.11.18
『食の戦後史』                    中川博 明石書店     1995.10.31
( 2007年9月17日 TANAKA1942b )
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(2)コシヒカリ育成に見る品種改良の意味
F1ハイブリッド・トマト「桃太郎」ほか
<ゆたかな食生活と農産物の品種改良>  戦争直後の食糧難、あの時代を振り返ってみれば、「現代はゆたかな時代だ」に誰も反対はしないだろう。 今週は、戦後の食料事情に関して、「コシヒカリの育種」を取り上げる。タケノコ生活からゆたかな食生活への変化と、コシヒカリの育成とが無関係でないので、トマト「桃太郎」と一緒に取り上げることにした。
<コシヒカリ育種に見る品種改良の影響>  コシヒカリ育成に関しては「品種改良にみる農業先進国型産業論」で書いた。
 そこで書いたものをもう1度こちらに掲載してみよう。
● コシヒカリ開発略年表 
<新潟県農試 高橋浩之 池隆肆 仮谷桂>
1944(昭和19)年 7月末、新潟県農事試験所(長岡市長倉町)水稲育種指定試験地主任技師の高橋浩之は人工交配に取り組んだ。それは晩生(おくて)種の「農林22号」を母とし、早稲(わせ)種の「農林1号」を父とする組み合わせだった。今でこそコシヒカリは美味い米、と評価されるが、高橋はイモチ病に強く「質より量」を目指しての育種であった。
 田植え作業は県農試付属の農業技術員養成所の生徒の手を借り、除草作業は長岡市内の女学校に手伝ってもらい、やっと交配作業にたどりついた。当時を知る元新潟県農業専門技術員の村山錬太郎は、「高橋さんのような高等官の主任技師で、素足で真っ先に田んぼに入っていく人はおりませんでした。あのころ、夕方遅くなっても、圃場に独特の藁帽子をかぶった高橋さんの姿が見え、今日もまた高橋さんは頑張って働いていると思ったものでした」と当時を振り返る。
 高橋は後年、当時の状況を述べた次のような手紙を、東大教授(育種学)の松尾孝嶺に送っている。「毎日何回となく、水田を自分ではい回りながら、時には、めまいがして畦にしゃがみ込んだりしたこともありましたが、自分のやっている仕事が、人を殺すことにまったく関係がないという信念によって、迷うことなく仕事に専念することができました。今になって思えば、あのころの運営はまことに奇跡の感がします」。松尾は太平洋戦争当時、新潟県農試の雪害試験地主任を務め、高橋とは大いに語り合った仲だった。
1945(昭和20)年 戦争激化のため育種事業は全面中止。8月1日、米軍機の空襲で高橋の家は焼け、育種に関する資料は焼失。
1946(昭和21)年 育種事業再開。F1(雑種第1代)誕生。新潟県農試には、そのころ高橋が主任を務める全額国費事業の水稲育種指定試験地と、県費事業の水稲育種部の2つがあり、同じような水稲育種の仕事をこの2つの試験機関が平行して行なっていた。そして高橋が所属する国の試験地では保存した種モミが順調に発芽したのに、一方の県育種部の種はまったく発芽せず、県の育種は失敗してしまう。それは、高橋は再開したときに種子が順調に発芽するように種モミをガラス瓶に入れ良好な乾燥状態に保つよう努力したからであった。
 高橋はこの雑種第1代の生育を見守り、その刈り取りを済ませた後、人事異動で6年間勤務した新潟を去り、農林省農事試験場鴻巣試験地へ転任。コシヒカリの栄光を知ることなく、1962年、53歳で世を去った。
1947(昭和22)年 高橋の後任は、東京帝大農学部卒の仮谷桂で、機構改革のため47年5月から同試験地は長岡農事改良実験所となり、刈谷は同所長となる。高橋の下で長く助手を務めていた池隆肆は1944年に出征したが、高橋が新潟を去る直前の1946年7月に復員して試験場に戻っており、「農林22号X農林1号」の雑種第2代の選抜には、この両名が取り組む。このように高橋の目指した「農林1号」の耐病性強化という育種目標は、長岡実験所で引き続き選抜作業を進めることになった。 しかし、この「農林22号X農林1号」の雑種第2世代に対する評価は芳しいのもではなく、この品種は福井へ譲渡されることになり、種子の一部は新潟県農試へ譲渡された。当時、農林省稲担当企画官だった松尾孝嶺が育種関係の会議で「新設される福井実験所へ回す育種材料を出してくれ。捨てるものがあったら、福井へ送ってくれ」と冗談まじりに言ったという話が伝わっている。どこの試験機関でも最有望の秘蔵っ子の育成系統を回すはずはなく、「農林22号X農林1号」は「捨てるもの」と判断されたのだった。
<福井県農試 岡田正憲 石墨慶一郎>
1948(昭和23)年 この年の春から新設された福井農事改良実験所は、周辺の試験機関から育種材料の配布を受け、本格的に水稲新品種の育成を始める。所長は宮崎高等農林卒の岡田正憲。その下に宇都宮高等農林化学科卒の石墨慶一郎、など総員たった4人。長岡でF3誕生、一部が福井へ送られ、以後福井で育成される。この年6月28日福井大地震が起き、試験田は水が抜けたり土砂が噴出したり、稲はほとんど壊滅にひんした。 ところが、この系統だけは、たまたま水はけの悪い湿田に、いささか早めに植えられていて、運良く被害を免れた。材料のままで敗戦をやりすごしたときと同様、ここでも未来のコシヒカリは災害をやり過ごしたのだった。 
1950(昭和25)年 福井実験所では雑種5世代の育成試験からこの「農林22号X農林1号」に対する評価が高まり、この年から初めて収量をもチェックする生産能力検定予備試験の対象にされる。翌年の雑種第6代の生産検定試験に残されたのは307番と318番の2系統。前者が後に「ホウセンワセ」に、後者がコシヒカリになる系統であった。
1951(昭和26)年 岡田が九州農試に去った後所長となった石墨はこの系統の307番を「越南14号」と系統名を付け、20府県に種モミを配布し、適応性試験を依頼する。これは1955年、「ホウセンワセ」と正式に命名され、農林番号品種に登録される。この「ホウセンワセ」は評判がよく、1962年から1966年まで5ヵ年連続日本1の栽培面積を誇ったのだった。
1952(昭和27)年 石墨は318番を残すかどうか悩むぬ。この年の調査で稈長はさらに伸びて90.6センチに達し、倒伏しやすい欠点がさらに濃厚になった。出穂期が「ホウセンワセ」より10日近く遅い早生種のため、北陸南部(福井、石川、富山)では適応性の狭い、不向きな系統という問題も抱えていた。にもかかわらず石墨は、思い切ってこの系統に「越南17号」と系統名を付け、翌年には20府県に種モミを配布し、適応試験を依頼することに踏み切った。
 石墨は当時「農林1号の耐病化」に取り組んでいて、良食味を目指したのではなかった。しかしこの「越南17号」は品種改良上、拾ってはならないとされる、耐病性が弱くしかも倒伏しやすい系統だった。 後に石墨は「この「越南17号」が品種にならなくて元々、もしも品種に採用されればもっけの幸い、という気楽な気分だった」と言っている。石黒は、当初育種の基礎理論もわからず、本当はこの欠点に気がついていなかったらしい。それでも石墨が「越南17号」を登録したのは、「ホウセンワセ」が評判よく、ほんの少し前までの自信喪失の状態とは変わって、優秀な育種家と評価され、自信もわき、浮き浮きした気分になっていたからだと考えられる。もし「ホウセンワセ」以前であったら、「越南17号」は登録されず、コシヒカリは生まれなかったであろう。
<新潟県農試 杉谷文之>
1953(昭和28)年 福井試験地の石墨慶一郎がこの年「越南17号」の適応性試験を依頼したのは北は山形、福島から南は大分、熊本までの23府県に及んだ。しかし「越南17号」に対する評価は、どこの試験場でも芳しいものではなかった。そうした中で新潟県農試だけは違っていた。この「越南17号」は試験田でべったり倒れ不評であったにも拘わらず、新潟県農業試験場長の杉谷文之ただ一人が倒れた試験田の稲を前にしながら「新潟県のために、これを奨励品種にしなければならん」と叫んだ、と伝えられる。回りにいた技術者はみな「こんなにべったり倒れる稲を奨励品種にしたら、農家への指導が大変だ」と、内心不満だったという。 しかし、県の奨励品種に採用するかどうかの実質的決定権は農業試験所長が握っていた。場長の杉谷が奨励品種に採用すると腹を決めた以上、試験所職員は全面的にその判断に従わねばならなかった。そして当時新潟県農試はワンマン場長杉谷の意のままであった。
 一方長岡から譲られた種子は、新潟県農試の橋本良材(よしき)の働きにより正式に「越路早生」と命名され、県奨励品種となる。この「越路早生」はコシヒカリより耐病性や耐倒伏性が強く、その後約30年間新潟県の早生種の基幹品種の位置を占めた。
1955(昭和30)年 この年の暮れ、農林番号に登録するための新品種選定会議が北陸農業試験場の主催で開かれる。そこで新潟県農試の国武正彦は「新潟県としては、多収品種である「北陸52号」と「北陸60号」は奨励品種に採用しない。「越南17号」は倒れやすいが、品質がよく、稈質も良いので、これを奨励品種に採用する方針」と発言すると、会議は一瞬気まずい空気に包まれたといわれる。 国の審査会でも不満続出し、「今後、このようなイモチ病に弱い系統は審査しないで不合格にするから、持ち込ませないように」となった。
1956(昭和31)年 石墨慶一郎が福井農試で育種した「越南17号」は農林番号品種に登録された。そこに至るまでいろいろケチが付けられたが、この系統に与えられたのは「水稲農林100号」という縁起の良い番号であり、「越の国に光輝く」という意味の コシヒカリ という素晴らしい名前だった。
1957(昭和32)年 杉谷は新潟県農試が「農林22号」を母に「新4号」を父として1950年に人工交配したものの系統を「越栄(こしさかえ)」と名付け奨励品種に採用する。これは杉谷自身「越南17号」にあまり期待していなくて、とりあえず何か成果を示さなければとの取り繕いだったに違いない。よいと思ったらすぐに実施するという性癖、良く言えば即断実行、悪く言えばワンマン敵な独断的性癖がこのような不可解な行動を取らしたと考えるべきなのだろう。この「越栄」は奨励品種採用の5年後に、作付面積が16,600haに達したが、これをピークに減少、やがて中生種の基幹品種としての座を再びコシヒカリに明渡し、72年奨励品種からも除外される。
1958(昭和33)年 7月下旬に台風来襲。それ以降は収穫期まで低温と長雨の続く凶作年になる。作物係長の国武は「この長雨はコシヒカリにとって明るい兆し」と場長の杉谷に報告している。というのは、長雨続きでどの品種もすべて倒れ、コシヒカリの倒伏しやすい弱点がそれほど暴露されずに済んだと同時に、コシヒカリの長所の1つである穂発芽しにくい性質が確認されたからであった。
1959(昭和34)年 次のような表彰状がある。
 表彰状  高橋浩之殿 池隆肆殿 仮谷桂殿 岡田正憲殿 石墨慶一郎殿
 貴殿がたは水稲農林22号と同農林1号の交配および初期選抜またはその雑種後代よりの有望系統の選抜および固定を行い両親を同じくする優良品種越路早生ハツニシキホウセンワセおよびコシヒカリを育成して稲作の改良発展に多大な貢献をされましたので表彰します
 昭和34年12月7日      農業技術協会長 秋元眞次郎
<コシヒカリの独り立ち>
1961(昭和36)年 新潟県奨励品種になったコシヒカリ、魚沼地方などの山間部には定着したが、新潟県全体の水稲作付け率は、1位「越路早生」20.8%、2位「日本海」14.7%、コシヒカリは3位で9.2%。作付率は県内の1割にも達しなかった。当時米は配給統制時代で、うまい米もまずい米も政府の買い入れ価格は同一で、農家としては品質向上よりも収穫量が問題であった。食味は良くても倒れやすくイモチ病に弱いコシヒカリでは、経済的メリットが少ないと、コシヒカリにそっぽを向いていた。
1962(昭和37)年 新潟県で「日本一うまい米づくり運動」始まる。作付率は「越路早生」30.7%、コシヒカリ13%。4割増えたが「越路早生」に比べればその普及率は低かった。この年の7月、杉谷は農林部参事に左遷され、同年12月には依願免職となり失意のうちに故郷の富山に引きこもった。
1963(昭和38)年 「ササニシキ」登場。これは水稲育種指定試験を担当する宮城県農試古川分場が1953年、コシヒカリの姉妹品種「ハツニシキ」を母に「ササシグレ」を父として交配したものの系統で、1963年、その雑種第10代を「ササニシキ」と命名したもの。宮城、岩手、山形の3県に急速に普及し、1963年には宮城県内の作付率は54.7%に、1973年には82.2%に達していた。
1966(昭和41)年 1961年の農業基本法制定当時、政府は「米はやがて過剰になる」との長期見通しを公表したのに、現実は逆にその後、米不足になり、1965,1966年の両年、180万トンもの米を輸入することになった。このため全国的に米の増産運動が盛り上がる。
1967(昭和42)年 「日本一うまい米づくり運動」を主唱した塚田知事が贈賄事件の責任をとって1966年に辞任し、代わった亘四郎知事は米政策を変更し、質より量を重視する「米100万トン達成運動」を1967年から展開し始める。これにより「越路早生」とコシヒカリの作付け率は落ち込み、多肥多収品種の「フジミノリ」や「レイメイ」が伸びた。コシヒカリにとっての最後で、最大の危機だった。 
<自主流通米の時代>
1969(昭和44)年 この年から自主流通米制度がスタート。史上空前の米過剰になりこの年10月末の食糧庁古米在庫は550万トンになる。
1970(昭和45)年 この年の10月末、政府の古米在庫は実に720万トンに膨れ上がり、全国の農業倉庫は2年前の古々米や3年前の古々々米などで満杯になる。1965,66年の米不足を革新政党や農業経済学者は一時的な状況とは見ずに、今後とも恒常的に続く現象ととらえ「国民所得の向上によって、デンプン質食糧である米の消費が減るというのは、西欧で言えても、日本では通用しない。早急に選択的拡大政策を取りやめ、米の生産増強対策を打ち出せ」と政府を追及、米増産運動を煽ったのだった。しかし米の消費量は1963年をピークに減少する。 もしも米の増産運動を煽らず、冷静かつ客観的な分析を行なっていたら、米増産ブームから一転して米減反政策へ180度転換する事態に直面して、驚きと怒りでいっぱいの稲作農家の苦悩を少しでも和らげることができたに違いない。
1973(昭和48)年 自主流通米制度5年目で流通量は170万トンになった。 
1974(昭和49)年 新潟県の自主流通米ルートへの出荷量(主食用うるち米)は約236,000トン。このうち72%、17万トンが「越路早生」で、コシヒカリは19%の4万4000トンに過ぎなかった。
1978(昭和53)年 自主流通米制度10年目で流通量は200万トンに達した。
1979(昭和54)年 これまで全国の水稲品種中作付率1位だった「日本晴」に代わり、コシヒカリが作付率17.6%でトップになり、以後王座は揺るがない。その理由の第1は、米過剰問題が深刻化したこと。食味のよい米は自主流通米ルートに流れるものの、まずい米は政府向けにしか売れず、政府の倉庫にはまずい米ばかりが累積して大量に古米化する傾向が強まった。政府としては自主流通米ルートに出荷できないような消費者に敬遠される北海道産米などは減らしていこうとの姿勢に変わり、この結果、全国で非良質品種から食味の良い品種への転換が大きく進むことになった。
1986(昭和61)年 国の農政審議会がこの年にまとめた「21世紀へ向けての農政の基本方向」と題する報告の中で、自主流通米制度は次のように評価されている。「自主流通米制度は、(1)消費者にとっては食味のよい米を選択して購入でき、(2)生産者にとっては政府に売るよりも高い手取り価格が実現でき、(3)政府にとっては米の管理制度に民間流通の長所を取り入れるとともに、財政負担も軽減できることから、3者いずれに対してもメリットを発揮してきた。(中略)今後は・・・米流通に市場メカニズムを更に導入し・・・自主流通米に比重を置いた米流通を実現していく必要がある」
1988(昭和63)年 主食用うるち米に占める自主流通米の比率は62%となり、以後、自主流通米が米の流通の主役となる。
1991(平成3)年 自主流通米入札で新潟コシヒカリと宮城ササニシキとの差が大きくなる。新潟コシヒカリと宮城ササニシキとの価格差は1988年までは1000円以内、1989年で1500円程度。1990年産米の入札平均価格で新潟コシヒカリ1俵24,870円、宮城ササニシキ21,989円と2,880円の差。1991産米以降では3,000円の格差になる。
1995(平成7)年 この年の11月、半世紀にわたって米の流通を厳しく管理してきた食糧管理法が廃止され、米取引の規制を緩和した食糧法が施行された。
1996(平成8)年  この年のコシヒカリの作付率は30.6%と空前の普及率になり、北は福島から南は九州までに栽培面積が広まる。価格も魚沼コシヒカリは一般米の約2倍、他銘柄米の50%高にもなった。
2002(平成14)年  2002(平成14)年産水稲の品種別収穫量・作付面積は1位=コシヒカリ 3,187,000トン、606,500ha 2位=ひとめぼれ 851,700トン、157,800ha 3位=ヒノヒカリ 829,500トン、163,700ha(農水省「子ども相談電話」HPから)
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<優良形質の利用>  コシヒカリをはじめ、イネの新品種は1980年代後半までに、すべて人工交配、選抜、固定という過程を経て育成されていた。 こうしてできた品種は形質が安定しているので、農家は収穫したコメから種子をとって翌年播けば同じイネができる。しかしイネ以外の農作物ではハイブリッド(雑種)化が進んだ。
 雑種の1代目には「雑種強勢」という現象があり、両親の組み合わせが良ければ優れた形質が特に強く現れる。雑種強勢は両親が遠縁である方が出やすい。 従って価値ある1代雑種を作るには、できるだけ多くの品種を揃え、交配を繰り返して最適の組み合わせを見つけなければならない。
 現在、種苗店で売っている種子は1代雑種だ圧倒的に多い。日本で栽培され、市場に出荷されている野菜は百数十種にのぼると言われているが、キャベツ、トマト、キュウリなど、お馴染みの野菜はほとんどが1代雑種になった。 ハイブリッド種子全盛時代である。
 種苗会社はなぜハイブリッド種子に力を注ぐのか。メンデル遺伝学の「分離の法則」により、1代雑種を栽培して実った種子(雑種第2代)を播くと、育った作物は形質がばらばらになってしまい、農産物として商品価値がなくなる。 つまりハイブリッド種子の効果はその代限りで、翌年も使うというわけにはいかないのである。このため農家は毎年、種苗会社から種子を買うことになる。 逆に種苗会社としては、優秀なハイブリッドを作り出せば、その両親を企業秘密にして市場を独占し、大いに儲けることができるわけである。
 1代雑種を利用する技術そのものは戦前からあった。1915(大正4)年、農務省蚕業試験場の外山亀太郎が蚕のハイブリッド品種を作ることに成功した。 これはハイブリッドの技術を品種改良に利用した世界最初の例である。その後、野菜でも次々にハイブリッド品種が登場した。
 しかし日本の農家がハイブリッドの驚異を目のあたりにしたのは、60年代早々に海外から押し寄せてきた鶏だった。 「青い目のニワトリ」と呼ばれた外国鶏のほとんどがハイブリッドを売り物にしていた。
 もちろん鶏の目が本当に青かったわけではないが、輸入鶏は使用人のように体が大きく、卵もよく産んだ。前評判通り、雑種強勢を利用した外国鶏の性能は素晴らしく、ハイブリッド化の遅れた国産鶏は圧倒された。 63年夏の段階ですでに、国内の大手種鶏会社数十社のうち、外国の鶏を導入せず国産1本で進む方針を打ち出していたのは2社にすぎなかった。
 一代雑種である以上、野菜と同様に、2代目は形質がばらばらになってしまう。だから養鶏業者は自分で卵を孵化させて雛をとることができず、毎年、種鶏会社からハイブリッドの雛を買わなくてはならない。 米国の種鶏会社は、高度経済成長時代を迎えていた日本での養鶏の将来性に注目したのである。 (『食と農の戦後史』から)
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<F1ハイブリッド・トマト「桃太郎」を育てる>  鶏では外国に後れをとったが、野菜や花のハイブリッド化では日本の種苗会社が力を発揮した。 日本で改良されたハイブリッド品種の中には、世界市場でも十分に通用するものがたくさんある。野菜ではブロッコリー、花ではペチュニアなどがその例で、海外でも大きなシェアを握っている。
 国内向けの野菜で圧倒的な実績をあげているハイブリッド品種の例としては、1985年にタキイ種苗が発表したトマト「桃太郎」がある。 夏から秋にかけて出回るトマトのうち、実に80%を超えるシェアを確保していると推定されており、ある時期には店頭のトマトがほとんど「桃太郎」一色になってしまうこともある。
 1960年代からスーパーマーケットが急増し、大量流通時代が到来した。63年にはには大都市野菜を安定供給するために指定産地制度が設けられ、産地の大型化も進んだ。 大都市周辺で野菜産地が少なくなる一方、交通網が整備されて野菜の産地はだんだん遠距離化した。
 年間通して安定供給するために、本来の旬以外にもビニールハウスで栽培する野菜が多くなった。地元でとれたものを季節ごとに地元で消費していた時代には、それぞれの地域に特色のある品種があったが、大量生産・流通時代とともに伝統的な野菜が次々に消えていった。
 「野菜がまずくなった」という声がよく聞かれるようになったのは、そのころからである。中でも不満が強かったのはトマトだった。 トマトは果肉が柔らかいため、畑で完全に熟したものを出荷すると、流通の途中で痛みやすい。これでは小売店に敬遠されてしまう。
 どんなに味がよくても、小売店で扱ってくれなければお手上げである。このため農家は、トマトの実がほんの少し色づいたところで収穫していた。店頭に並ぶころには赤くなるが、それは外観だけのことで、本当の味が出るはずはない。
 完熟してから出荷しても痛みにくいトマトを───タキイ種苗は50年代初めから新しい発想で新品種開発にとりかかった。 流通過程でロスを出さないためには果肉が硬く、トマト特有のゼリー状の部分が少ないほどいい。あれこれ探したすえ、硬さは米国から導入されたばかりの新品種で解決した。 機械で収穫するために開発された品種だった。
 しかし、味が落ちては困る。日本人好みのトマトはピンク色で、糖度の高いものとされている。毎年1,000以上もの品種素材を交配した結果、ようやくこれらの条件をすべて満たす品種ができた。 滋賀県にあるタキイ研究農場で開発に当たった住田敦は、「消費者から支持されたという以上に、小売店から支持されたことが成功につながった」と、次のように語っている。
 「当時はこんなに硬くて売れるかなと思うくらいに硬いと思いました。夏に1週間ぐらい机の上に置いても、どうにもならないんですね。 それで、市場に持っていって試食してもらうと、いいじゃないかと言われたんで、最終的に作り上げたんです」
 「桃太郎」の育成に使われたたくさんの品種のうち、米国から入ったものなど1部は公表されている。 しかし、公表品種だけでは他の種苗会社が「桃太郎」と同じトマトを作ることはできない。これがハイブリッド種子を開発した会社の強みである。 さらに優れた新品種が登場する日まで、タキイ種苗にとって「桃太郎」はドル箱であり続ける。 (『食と農の戦後史』から)
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<「桃太郎」の誕生>  日本経済の高度成長期の影響を受けて、量より質を求める声が出てきたのは昭和50年代に入ってからです。 戦後の空腹期から昭和40年代の満腹期を経て、日本型料理から洋風型料理が増えると、各野菜の消費量が減少して少量他品目の時代に入ります。 また、料理のファッション化、高品質化が求められるようなり、トマトの品質に対する要望も強くなってきたのもこのころのことです。 今日、店頭で販売されているほとんどのトマトが、「桃太郎」に変わったのもこんな時代背景を経過して結果であり、もし、戦後の食糧難の時代に「桃太郎」が育成されていても、現在ほどの普及はなかったと思います。
 赤色で15グラム程度のミニトマトも、糖度が8度程度あって甘いことや、小型で外食産業で扱いやすいことから、10年ほど前から急増し、現在、生食用トマトの約10%のシェアを占めるようになりました。
 長い年月を要するトマトの育種にとって、誤った育種目標を立てると大きなロスをしてしまいます。10年先の時代を想定して、美味しい品種を作ろうと秘かに進められていた「桃太郎」の育種が、消費者のトマトに対する不信感によって目標の手応えを確認されることになります。
 昭和50年代に入って野菜の高品質化が進むと、トマトについては、「抵抗性品種が作られてまずくなった」「ビニールハウスで無理な時期に作るからますくなった」など、味に対する痛烈な批判を浴びるようになり、また、消費者アンケートのなかでも、最近まずくなったと思われる野菜のワーストワンにあげられました。
 こんな時代がくることを予測して秘かに始められていた「桃太郎」の育成ですが、消費者の不信感によって育成者が奮起し、一層力が注がれました。
 「桃太郎」をはじめ、日本の生食用トマトの品種は、ほぼ100%雌親と雄親の交配によってできた一代雑種で、その両親には複数の育種素材が使われています。 育種目標とする特性をもった素材の存在が、育種の成否を左右します。いかに的確で、立派な育種目標があっても、素材がなければ品種はできません。
 「桃太郎」が育成された両親の育成系統樹は大変複雑です。お伽噺の桃太郎は日本男児ですが、トマトの「桃太郎」の両親には、日本の品種だけでなく、ミニトマトやアメリカの赤トマトが育種素材として多数使われています。 畑で完熟した果実を収穫しても過熟にならなくて適度の硬さをもった美味しいトマト、糖度を1−2度高くした甘いトマト、目標は単純な発想ですが、簡単には「桃太郎」は生まれてくれませんでした。
 前述したように現在では、世界各国で日持ちのする硬い品種がたくさん育種されていますが、「桃太郎」の育種を始めたころは、硬い品種がほとんどなかったことから、何年もかかり世界各国から集めた何千もの素材のなかから、 「桃太郎」の育種親となった完熟収穫できる硬い品種を見つけられたことは、それだけでも幸運だと言えます。 糖度をわずか1−2度上げるのも「桃太郎」の育成で最も苦労した点の一つです。
 生食用トマトの品種改良は、それぞれの時代背景の影響を受け、また影響を与えてきました。 ひとつに品種を作るには10年程度の長い年数が必要なだけに、将来の日本の日本の時代と農業の方向を推測しながら、慎重に育種目標を立てて進めなければなりません。 「桃太郎」は肥大の要望を受けて育成され、日本の生食用トマトのシェアの80%をも占めるようになったのは、輸送性を重視した海外とは異なる日本の流通と消費動向に加えて、育種素材があったからだと思います。
 「桃太郎」は多数の人が好む品種を目標に育成されましたが、香りや酸味など、昔のトマトを忘れられない人もいます。 一方、生産農家の立場からは、生産の安定は当然ながら、省力にも目を向けなければなりません。
 また、自然の育種素材がどんどん少なくなり、手法的にも新しい先端技術といえる遺伝子組み換えなどが行われ、今までになかった新しい素材が作られるでしょう。 このような新しい技術の力も借りながら生食用トマトの育種は、今後も時代背景に対応して進むものと思われます。 (『世界を制覇した植物たち』から)
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<甘熟トマト「桃太郎」の開発者> 
◆ F1品種の普及と育種素材 国内における野菜の品種改良は、世界に先駆けて始められた一代雑種(F1)の開発と普及によって飛躍的な発展を遂げました。 トマトにおいても、世界最初のF1品種として福寿が昭和12年に育成され、次いで昭和23年に福寿2号が市販されて以後は、ほとんどF1品種が使われるようになりました。 育成された数多くのF1品種も時代の推移に伴って変化してゆくトマトの栽培に大きく寄与しましたが、一方では、それまで作られていた地方品種や固定種が次々と姿を消してしまい、国内での育種素材は、昭和40年代には使い果たしてしまったと思われます。 しかし、このことが積極的に育種素材を野生種や海外から求めるようになり、トマトの耐病性育種や品質育種が進んだ大きな要因として挙げられます。 桃太郎の育種素材の1つとして使われた Florida MH-1 も米国で育成され、導入された品種です。
◆ 消費者の味に対する要望  トマトの育種の経緯を大まかにみると、戦後の復興期には収量性が育種目標の中心となり、その後、普及した施設園芸と作型分化に適応性のある品種が育成され、 昭和40年代には施設化と産地の集団化が進んで、連作による土壌病害が問題となり、耐病性育種が盛んに行われました。 日本経済の高度成長期の影響を受けて、量より質を求める声が出てきたのは昭和50年代に入ってからですが、とくにトマトの味については、「ビニールハウスで無理な時期に作るからまずくなった」 「耐病性品種が作られてまずくなった」など味に対する痛烈な批判を浴びるようになり、また、消費者アンケートの中でも、最近まずくなったと思われる野菜のワーストワンにトマトがあり、 反面、今後もっと食べたい野菜の筆頭もトマトでした。このようは消費者のトマトに対する不満と要望に答えるために品質育種が始まり、私たち桃太郎の育成に一層の力を注ぐことになりました。 一方では、生産者の良質トマト生産への努力も払われました。その例が朝穫りトマト、予冷出荷、完熟出荷、ファーストトマトの利用などです。
◆ おいしいトマトを作る努力  ”完熟出荷”の言葉は、野菜や果物の中でも、トマトが最も早くから使われたのではないかと思います。昭和40年代の中ごろには、すでに静岡県の個人農家が完熟トマトの出荷を始めており、東京の西部青果でも、茨城・千葉・静岡・長野県のトマト産地で赤トマトのマスター2号を使ったリレー出荷の周年栽培を試み、 私も栽培技術面でお手伝いをしました。その後、長野県中信試験所で育成された品種サンコールを、長野県経済連がスーパーマーケットに販売したことが本格的な完熟トマトの出荷で、 これは桃太郎が普及する頃まで続いたようです。マスター2号やサンコールの完熟出荷が広く普及しなかったのは、いずれの品種も日本人には好まれていない果皮が橙赤色の、いわゆる赤トマトであったことも一因ですが、 完熟トマトと普通トマトの品種本来の品質差が少なかったことが大きな要因であったと思われます。
 ほかにもサターンや強力米寿などの桃色系品種を使って、朝穫りや予冷による完熟出荷も行われましたが、果実から柔らかい普通トマトの完熟出荷では消費段階でむしろ過熟トマトになってしまいます。 桃太郎を発表するとき、完熟トマトとはせずに”甘熟トマト”としたのは完熟=過熟のイメージが消費者にあることを恐れたからです。 桃太郎の育成中に最もプレッシャーを感じたのは、ファースト系トマトの台頭です。ファーストは比較的酸味が少なくて甘味が強く、果肉がよく詰まっているため古くから消費者に人気があり、 最近まで栽培されていた唯一の固定種です。本来ファーストは7〜8月蒔きの冬出しが敵作型ですが、固定種のファーストに耐病性や低温性、耐熱性、秀品性などの特性を付与したF1品種が育成され、 ファーストの適作型を超えて栽培され始めた、昭和50年代の広範には全てがファースト系になるのではないかと思うほどの勢いで栽培面積が伸びていました。 主だったトマトの育種メーカーからはファースト系のF1が育成されていましたが、そのころ、私たちタキイ種苗のトマト育成スタッフは、ファースト系品種には手をつけず桃太郎の育成に熱中していました。 このことが、他社に先駆けて完熟用品種を育成できたことだったと言っても過言ではないと思います。
◆ 硬いトマトを探す  桃太郎が出回るまでの夏秋トマトは、果実にほんの僅かに赤味がつき始めたころに収穫して出荷されました。 高温期に色が回ったトマトを収穫すると、消費者に届くまでに過熟になってしまうからです。米国でも青果用トマトは、全く着色していない緑色の果実が収穫され、エチレンガスで真っ赤に着色させて出荷されています。 こんなトマトが美味しいはずがありません。誰でも完熟で収穫したものは美味しいと分かっていても、流通面で問題があるので難しいのです。
 それで、まず果実が柔らかくなりやすく、一番問題のある夏秋トマトの作型から育種を始め、できるだけ硬い品種を探し始めました。 これがなかなか見つからず、果重が60g程度の硬い加工用品種も使ってみましたが、果実を大きくすると硬度が低下して使えません。 硬さの遺伝はポリジーンで、ほぼ両親の中間に形質が現れます。満足できる硬い素材との出会いは、フロリダ大学で育成された機会収穫用の青果トマト Florida MH-1 が米国から導入された時からです。 この品種は、米国だけでなく国内でも育成された当時からかなり注目され、多くの国内公民の試験機関にも導入されていたと思います。 長い間の念願であった果実を硬くする目標は、 Florida MH-1 を素材に使うことにより一挙に達成されたと言えます。
◆ 完熟だけでは満足できない品質  育成の途中で、硬い果実で完熟収穫しても果たして、消費者が区別できるほどの美味しいトマトとして認められるという疑問が生じ、この疑問も桃太郎育成のポイントになったと思います。
 完熟での品質アップだけでなく、なんとか品種そのものに甘さと肉質の良さを持たせようと国内外の大玉トマトやミニトマトなど、数多くの中から選んだ素材をいくつも使って交雑を繰り返しました。 その中から、果実の堅さを羽茂、変形果の原因となる子宝数を多くせずに多肉質にし、糖度も今までの大玉品種にはない6程度の高糖度をもって、 明確に他の品種と区別することが出来るF1検定の中で、桃太郎に比べて少し品質が劣るものの、もっと作り易い組み合わせを幾つも捨てたのは勇気がいることでした。 育成途中に生じた完熟したトマトで、本当に美味しいトマトができるだろうかという小さな疑問と、赤トマトの完熟出荷で失敗した経験を生かし、 高品質を求めて徹底した選抜を行った結果、従来の完熟トマトと比べてハッキリと区別できる桃太郎が生まれたと思います。
◆ 作型の幅と新しい病害への対応  こうして、昭和58年に育成された桃太郎は、消費、流通、生産面から予想を越える反響を得たことは、現在、消費者のトマトにたいする要望がそれだけ大きかった結果であり、 もしも、戦後に桃太郎ができていても、これだけ大きくは注目はされなかったでしょう。
 その後、冬春用のハウス桃太郎と、青枯病に強く露地栽培でも作りやすい桃太郎T93が加わって、桃太郎として使われる幅が広がり、それぞれの品種が作型別に使い分けられています。 また、昨年発表した桃太郎8は、最近、全国のトマト産地で問題になっている萎凋病レース2に抵抗性を持っている夏秋用の桃太郎として、萎凋病レース2の被害が大きい地域を中心に産地化しています。
 トマトがアーリアナ群やポンデローザ群などの固定種から福寿2号などF1品種の時代に移り変わり、耐病性品種を経過して、現在は桃太郎が中心品種になっていますが、 時代の流れとともに生産者や消費者の要望も変化し、今後もまだ桃太郎な弟たちや全く新しいタイプの品種が必要になってくるかも知れません。 桃太郎の育成に携わって、育種素材と目標に対する集中が最も大切であることを痛感しました。
  住田敦(京都府立大学農学科植物病理学講座、S41年卒;タキイ種苗研究農場長) 『農業および園芸』代69巻 第3号(1994年)から
(『京の伝統野菜と旬野菜』から)
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<品種改良を抜きにして現代の農産物を語ることはできない>  コシヒカリと桃太郎の品種改良について取り上げてみた。現代において、品種改良を抜きにして農業・農作物・食生活を語ることはできない。 農業は「先進国型産業」だと思う。少なくとも、現代日本の現状を見るならば、「品種改良とは知識産業だ」と言っても良いと思う。
 「農業は労働力集約産業である」とか、「広い土地があってこそ産業として成り立つのだ」と言うのは、日本の現状を見ていない、「ダメな言い訳を探している、変化を怖れる”非先進国型産業”の既得権者の言うことだ。
 このシリーズでは「地産地消」とは違った考えで、人々の食生活が進化してきた、ということを主張するつもりだ。その前提として、「品種改良をみれば、農業が先進国型産業であることが分かる」ということをハッキリさせようと思う。
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<主な参考文献・引用文献>
『食と農の戦後史』                  岸康彦 日本経済新聞社  1996.11.18
『京の伝統野菜と旬野菜』             高嶋四郎編 トンボ出版    2003. 6.10
( 2007年9月24日 TANAKA1942b )
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(3)江戸時代の少ない食材を生かした食生活 
庶民の日常と滅多にないハレの世界
<「和食」のきた道>  日本人は「選食」の名人である。
 日本列島に展開されてきた、食の文化史をたどってみると、それがよく理解できる。いうまでもなく、食材の選び方、料理の加工法、つまり、その材料に最もふさわしい食べ方まで含めてセレクトすることが「選食」である。
 たとえば、縄文時代はほぼ1万年続いているが、発掘による食材は、クリやクルミなど植物性の出土例は60種類ほどであるが、キノコや山菜・海藻などまで含めると300種類以上は食用に供されていたとみられている。 動物類で70種くらい、鳥類が40種ほど、魚類が約70種で貝類は350種くらいと推測されており、これらは「縄文選食」なのである。
 縄文晩期以降は稲作や豆類、野菜などの栽培が普及するが、それらのほとんどは大陸からの渡来もので、日本の風土や日本人の思考のふるいにかけた「選食」である。
 その後も、外来文化を「選食」して取り込みながら、料理や加工に新しい工夫をこらし、現在に至っている。「選食」の基準は、安全、食味、健康度、生産性である。
 「選食」が発展して、和食文化を生む。和食の評価が世界的に年々高くなっているのは、人間の歯の構造にマッチしており、健康維持には、理想的な組み立てだからである。
 人間の歯の60パーセントは臼歯、25パーセントが門歯で残りが犬歯、臼歯は穀物を噛む歯であり、摂取カロリーの60パーセントを、穀類から取るのが理想であることを示す。 同じように、門歯は野菜類の歯であり、犬歯は肉用。したがって野菜と肉類はほぼ2対1の割合がよい。人間の唾液にはデンプン分解酵素のアミラーゼが多いことを考えても、主食は穀類で、その割合は60パーセントくらいがよいことを示している。
 この割合で食べてきたのが日本人。縄文以来の「選食」が、実は人類の理想食を生んだのである。
 その「和食」のきた歴史ぼ道を、イラストを中心にまとめたのが本書であり、「選食」に込められた日本人の知恵の歴史でもある。 (『たべもの日本史』から)
<昔の食生活>  食生活に関して身土不二という言葉がある。身は人体を、土は大地を、また不二は異ならず一体であることを指す。 すなわち、人の体とその居住する土地は不離の関係にあり、人はその土地から生産されるものを食べることによって成長と健康を保持し、長寿に繋がるとの考え方である。
 交易が不活発な時代にあっては、それぞれの土地で自給自足的な食生活を強いられていたのは当然であり、延宝で採れる生鮮食品を手に入れることは困難であった。 それゆえ、食生活はその土地から生産される穀物、野菜、山菜にほとんど頼らざるを得なかった。
 とは言っても、食生活の内容はその居住する周辺の自然環境に大きく左右された。海辺の農村と山深い農村では、魚介類の消費量に雲泥の差があった。 落語の「目黒のサンマ」のように、江戸の庶民は江戸前(東京湾)で捕れた新鮮な魚介を食し得た。それはイワシ、アジ、サンマなど、漁獲量が多く安価であったからである。 一方で、地方から江戸屋敷詰になった武士で脚気を患う者が多かったという。その因は、地方と違って江戸の精白度の高い米を地方にいるときの習慣で大食し、副菜をほとんど食べなかったからである。
 山川菊栄の『武家の女性』は、老母から幕末の水戸藩下級武士(15石5人扶持)の生活を聞き書きしたものである。それによると、座布団は主人が薄いものを使うだけで、家族はもちろんのこと、客があっても出さなかったというから、その生活のつましさは想像できよう。
 食生活においても、しょうゆは買うものの、味噌は1年分を仕込み、漬物はいく通りも4斗樽に漬けておいた。 朝食は味噌汁と漬物だけ、昼は野菜の煮付けであった。ただ、晩は味噌汁に魚が一皿付いたという。水戸は海に近く魚売りが毎日のように来て、鯛や鰹でも1本丸ごと買い、家で料理した。 何よりも安価であったためである。
 戦前の食生活を知るために格好の資料がある。農山漁村分化協会発行の『日本の食生活全集』である。これは大正の終わりから昭和の初め頃の各都道府県の食生活を、古老の協力を得て再現したものである。 当時のふるさとの食生活を知りたいと思われる方はぜひ参考にしていただきたい。
 全集の各巻に掲載されている十数ページのカラー写真を見ると、日常食はそれぞれの料理に四季折々の食材が巧みに使われ、郷土色あふれるものである。 と同時に、なんと素朴かつ質素であることか、これが第一印象である。
 これに比べて、祭りなどのハレの料理は素朴さを残しつつも皿数も多く、特にひな祭りの料理は色鮮やかである。 (『食の戦後史』から)
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<江戸庶民の食生活>  江戸時代に関して、歴史の見直しが進んでいる。「田沼意次は賄賂政治であった」はほぼ完全に否定されたと思う。 「鎖国」という言葉も、適正な言葉かどうかが疑問視され始めている。荻原重秀の再評価は『勘定奉行荻原重秀の生涯』(村井淳志著=集英社新書=2007.3.21)でハッキリしたと言えよう。 犬公方徳川綱吉将軍の見直しも進んでいるし、幕末の「金流出」も、むしろ日本の貨幣制度が、管理通貨制度の要素を取り入れた進んだ制度だった、との評価も出始めている。 『貧農史観を見直す』ということも進んでいる。ここでは江戸庶民の食生活を少し扱う。それは、現代に比べれば食材の種類は少なかったが、それなりに工夫して食生活を改善させていた、ということになる。
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<江戸のファーストフード>  庶民の生活は、その日暮らしのつつましいものとはいえ、太平の世の中に「江戸城の将軍様のお膝元」に暮らせる幸せを感じて、一生懸命働き、また楽しみを見つけていたと言える。 えどの風俗は、260年あまりの時間をかけて醸成されたが、その江戸後期から明治にかけての様子が『江戸府内絵本風俗往来』(菊池貫一郎、1905年)にも見ることができる。 そこにはやはり、屋台での天ぷら、すしに、かつぎ売りのしるこ、水菓子(果物、たとえばすいか)の切り売りが見える。 またこの本のその他の絵を見ても、庶民の生活はつい最近の昭和の中頃までの姿と重なり、江戸の営みがあまり変化せずに続いてきたのがわかるような気がして筆者には懐かしく、江戸がとても近く感じられるのである。
 江戸は規模こそ異なるものの、現在の東京と同様に一極集中化していた。そして、江戸の町の庶民の多くは長屋住まいであり、食べ物をつくるための土地を持てなかったので、すべてを購入するしかなかった。 このため「棒手振り」といって、毎日の食事の材料であるあさりのむき身や納豆、魚、野菜などを、路地裏までも売りに来る人々がいたのである。 こうした売り手には、その日稼ぎの人が多かった。
 一方、商店に住み込みで働いていた手代、丁稚小僧やまかないの女性たちなどは、毎日の食事といえば、飯に汁、漬物が基本で、昼。夕食ではこれに煮物、また月に何回かは魚がつく程度であったから、祭礼や花火見物などに出かけて屋台などでとる外食は、とれも大きな楽しみであった。
 また、火事で始終復興工事をしていた江戸には、職人(大工・左官・鳶など)が多く、この人たちにとっては、手軽に安く口にできる屋台なででの食べ物は、たいへん都合がよかったと思われる。 というのは、満腹では仕事がはかどらず、そこそこの腹具合での労働が能率に繋がったからである。そして、こうした屋台で食べられてきたものこそが、本書で扱う「ファーストフード」にほかならない。
 えどは徳川幕府が日本の中心たるべく、ほとんど何もない状態から作り上げた都市であるから、もともとその工事のための男の人口が多かった。 さらに参勤交代で郷里に妻子をおいて江戸詰めになった藩士、上方(かみがた)からやってきた大店(おおだな)の使用人たち、仕事を求めて出稼ぎに来た人なども、その多くが単身男性であった。
 こうした多くの男性たち、なかでも使用人や出稼ぎ人などの庶民に人気のあった、すぐ腹の足しになる食べ物、すなわち「てんぷら」「にぎりずし」「そば」「鰻の蒲焼き」などは、いずれも屋台売りから始まっており、いわば江戸庶民のファーストフードとして役立っていた。 本種では、こうした庶民の味ファーストフードから筆を起こし、それらの一部をも吸収しながら、この時代に寛政していった「日本料理」にまで筆をすすめたいと思う。 (『江戸のファーストフード』から)
<いろんなファーストフード>  江戸中期頃から江戸独特の食べ物が庶民の手で作られ、その売り手も煮売り・辻売り・棒手振り・屋台見世・茶屋・料理店などと広がっていく。
 毎日の食材ばかりでなく、煮豆のような料理済みのものを売る総菜売り(今のテイクアウト)もあり、また魚などでは、天秤棒で担いでくる半切り桶(すし桶のように浅い桶)にまな板と包丁を入れて売り歩き、注文があればその場で下ろして売る者もいた。 野菜などもある程度洗ったものを売り、すぐ使えるようにしていた。
 魚は日本橋が魚市場で、野菜は「やっちゃば」(市場)が神田にでき、そこから仕入れて売り歩いた。野菜売りは「前菜売り」といって、なすとか青菜など1、2種類だけを扱う者をいい、「八百屋」というもっと多くの野菜を扱う者と区別していたが、そのうち区別せずに、野菜を扱えばすべて八百屋というようになった。 江戸近郊の農家も直接売りに来ていたようである。
 こうした食事情の中で、家で食事を作れない人々──独身男性や住み込みの人々が、その場で食べられるファーストフードを愛用していたのである。 とくに串をもちいて食べやすくしたてんぷら・でんがく・蒲焼き・だんご・手でつまんで食べられるにぎり寿司・餅菓子類(大福など)・饅頭そして水菓子の切り売りなどに人気があった。
 加えて汁を伴うそばきり・ところてんなどもあり、これらは路上で、屋台やそれに準じたこしらえ(屋根なしの台に並べたり、樽上に品物をのせ笠をさしかけたり)のもとで売られていた。
(『江戸のファーストフード』から)
<外国と日本のファーストフード>  江戸のファーストフードの代表となるてんぷら、にぎりずし、そば、鰻の蒲焼きについて述べてきた。 これらが盛んになるのは天明期(1781-1789)以降といわれている。庶民がそれなりに力をもち、封建制度の中でも比較的自由な気風になった頃に、さまざまなジャンルの分化が発達し、そんな中で外食文化もまた栄えたのであった。
 庶民の食べ物を売る屋台などは、盛り場や大通り、また神社仏閣の祭礼、花見や月見のような遊興などで、人々が集まるところに発達した。 路上での買い食いは、多くのひとが行き交うにぎわいの中で可能となった。武家や大商人や町屋の人々は、買い食いは賤しい輩のすることとして、外出するときは弁当持参だったり、仕出しを頼むという方法をとっていた。
 ところで、1966年にわが国にファーストフードとしてのハンバーガー店が、アメリカから上陸したときのことを思い起こして頂きたい。 オリンピックを契機に、日本が経済的に急成長していたときのことであった。それまではむしろハレの場で無礼講と称して路上で食べ歩いたりすることはあっても、日常の場でそれを行うとひんしゅくものであった。 しかし自由な若者たちは積極的にそれを日常に取り入れ、今や特別おかしいことでもなくなっている。
 江戸時代の屋台でのファーストフードも、はじめは零細など特別な時の人手の多いところから始まったが、江戸も後半になると多くの繁華な場所では常設となり、日常化していった。 てんぷら、にぎりずし、そば、鰻の蒲焼き、おでんなど、屋台売りから店を構えてのものまで、さまざまはな売り方があった。
 中でも揚げ物としてのてんぷらは、イギリスのフィッシュ・アンド・チップスやアメリカのフライドチキンなどと同じく、気軽に食べられ、安い上に満足感を得られるために、東西の庶民に受け入れられていて面白い。
 にぎり寿司は、江戸の活気あふれる忙しさが産んだ、日本独特の食べ物として誇れるものであろう。魚の新鮮さと飯のうまさが酸味にマッチしてして素晴らしい食べ物になったが、江戸の庶民のにぎりずしもやがて高級化の道をたどる。
 そばも、麺状のそばきりとして食べるようになったのは江戸でのことであった。路上でのそば屋は「風鈴そば」とjか「夜鷹そば」と言われ、丼に入れて汁をかけたもので、ファーストフードとしてふさわしい。 店を構えてのそば屋は酒を添えて盛りや掛け、さらにはてんぷらや霰(あられ)などの具も工夫し、より美味しいものにしていった。
 こうして江戸の後半には、日常の食材を購入しなければならなかった庶民の台所事情がさまざまの食べ物商人を育て、そのことがまた新しい食べ物を生んで、人々の旺盛な食欲を充たしていったのである。
(『江戸のファーストフード』から)
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<将軍の儀礼食と食事>  古代から勢力を有していた公家や寺社家に対して、これらを新興の武家が圧倒していく過程が、中世という時代であった。 源頼朝は、鎌倉に幕府を開いて武家政権を樹立させたが、それは局地的な東国政権としての性格が強かった。その後も承久の乱や建武の新政など、公家勢力によるーデターが起こっており、権力奪回の可能性が完全に失われたのは、室町時代以降のことである。
 こうして武家が実質的に日本社会の支配者となったが、この時代に室町将軍を頂点として、その威光を天下に知らしめるための儀式が成立した。 これが御成(おなり)と呼ばれるもので、将軍が臣下の家を訪問した際に開かれる饗宴を含むが、室町期に較べて将軍の力が絶大となった江戸幕府においても、この伝統的な武家儀式が継承されていた。
 この御成には、17献もしくは21献にもおよぶ盛大な饗宴が伴い、そこでは食事場所における将軍との距離や、食事内容の差を強調することで、身分秩序の再確認がなされた。 いっぽう最下級の家臣に至るまで、参加者全員が献立の一部を共有することによって、将軍との集団的連帯感を確認するという仕掛けが施されていた。
 ここでは江戸時代の将軍の食生活を、徳川将軍御成の事例から、見ていきたいと思う。近世の御成は、江戸初期に集中し、室町期に書き残された種々の御成記を手本として行われたが、残された史料はあまり豊富ではない。
 たまたま『南紀徳川史』巻125祭典部に、御成関係史料が収められているので、これに拠ることとしたい。その善用を知りうるのは、寛永元(1624)年正月23日から28日にかけて、紀伊中納言南龍公(なんりゅうこう)が受けて催した3代将軍の御成である。
 すなわち家康の10男である紀伊藩主徳川頼宣(よりのぶ)が、兄にあたる大御所の秀忠と甥の将軍家光とを、それぞれもてなした時の次第や献立が書き残されている。 このうち23日には大御所が、そして27日には将軍が大勢の伴を従えて、竹橋にあった紀州藩邸を訪れた。
 ここでは、より記述の詳しい前将軍秀忠の場合で、饗宴の内容を見てみよう。まず御数寄屋で饗宴がもたれたが、本膳は酒漬の鶴のほか、鮑・鯛・栗生薑(はじかみ)・縒り鰹・蜜柑・昆布と椎茸煮染の7菜に、鶴・土筆の汁と飯がつく。
 二の膳がユルカ(うるか=鮎の腸)の和え物・鳧(けり)の焼き物・平貝・切蒲鉾・香の物塩山椒の5菜と鱈・昆布の汁、これに肴として京焼の皿に盛られた海鼠腸(このわた)が付き、金飩・水栗・御揚枝・豆の子・黒胡麻・砂糖・山芋煮染といった7種の菓子が供されている。
 その後、書院で御祝いが始まり、初献は、亀足(きそく)の鳥と雑煮に、餅・荒布・鯣(するめ)・菜・鰹の5種を亀甲に盛り、芋一重と餅5切に小串鮑と平鰹。 このほかに、塩引き・鰭(ひれ)の物など5種の2献と、唐墨・鯣(するめ)など3種の3献といった内容で、祝賀の饗礼に行われる礼式である式3献が初めに執り行われた。
 この時に大御所からの拝領があり、前には書院で紀伊家に太刀や銀子・衣服・後には大広間で家臣に銀子と衣服が下されている。次に大御所への返礼として、大広間で太刀・金子・衣服等、さらには馬の進上がなされて、贈答の儀式が終わる。
 続いて祝賀の舞である式三番を初めとして能七番に狂言一番が催され、これがすむと鳥目(ちょうもく=銭)と小袖が役者たちに下給され、能の見物人には饅頭に鯣(するめ)と酒が振る舞われる。 大御所たちは再び書院に移り、ここで本格的な七五三の膳に入る。
 本膳は、塩引き・蛸・蒲鉾・和交(あえまぜ)・香の物・含め鯛・桶の7菜に湯漬け。二の膳は、巻き鯣・削ぎ物・貝盛・りょうし(?)・海月(くらげ)の5菜に集汁(あつめじる)と鯉の汁。 三の膳は、羽盛・船盛・鰭の物といった装飾を施した三菜に白鳥などの汁、さらに桜煎と福良煮の吸物。これに焼き麩(ふすま)・饅頭・姫胡桃・蜜柑(みかん)・羊羹・豆飴・御揚枝・結び昆布・柿・榧(かや)・千鳥など11種の菓子が添えられている。
 これに合わせて三献が終わると、再び引き替えの御膳が出てくる。この本膳は、かき合え鯛・縒り鰹・栗生薑・生椎茸・独活・香の物・和え物の7菜に飯と鶴の汁。 二の膳は、鮒の生馴れ酢・煎鳥・萵苣(ちさ)・塩鯛・焼き鱒の5菜に汁。三の膳は焼き小鯛・白魚と昆布・韮の和え物の3歳に汁。 これに引き物として、雲雀の煎鳥と烏賊(いか)の塩刺と煎子と牡蠣の吸物、さらに菓子として肥後蜜柑と枝柿が添えられている。
 なお香の物については、一般に菜の数に入らないとされているが、二汁五菜以上の場合には菜に含まれ、一汁三菜以下では菜として数えられない、という原則があるので、これに従った。
 いよいよ27日からは、将軍家光の御成となるが、儀式や献立の内容も大御所の場合とほぼ同様であるので、ここでは省略する。 以上が江戸初期の御成の饗膳であったが、室町将軍と較べて、一つ一つの料理はかなり贅沢になっており、また膳や土器に金箔を施すなど、華美な装飾が眼につく。
 なお、こうした将軍御成に準ずるような饗宴は、正月などに有力大名の間でも行われていた。尾張徳川家などでも、大がかりな饗宴が催されたのち、年頭の御祝儀を言上する家臣や奥女中などに対して、雑煮や吸物を下賜する儀礼が行われている。 ほかに加賀前田家や肥後細川家などでも、ほぼ同様な饗宴が行われていたことが知られているが、近世を通じて、しだいに小規模化していく傾向が見られる。
(『江戸の食生活』から)
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<神楽と直会、饗宴と坂送り>  「一生に一度はお伊勢参りをしたい」。これが江戸庶民の夢であった。そのお伊勢参り、行って来た人の話を聞いて皆行きたいと願った。どのような話をしたのか? なにも誇張することはなかった。伊勢神宮の御師の館での経験は正に夢の中の出来事であった。普通の武士はもちろん、お殿様でさえめったに経験できないほどの経験をした。どのようなことだったのか?それを参考文献から引用してみよう。
 はじめは、清めの御祈祷(湯祓い)。
 鼓と謡が奏されるなか、白衣を着た男が一人出て、五徳寵で火を焚き、舞姫が扇と鈴、竹に柳を結んだものを持って舞う。そして、白木台に置いた銚子の酒を釜にさし、水手桶の水をさす。舞姫は、次々とかわる。かわるごとに太鼓が打たれる。
 次に、長手の杉箸の先に細く刻んだ白紙を付けた幣(ぬさ)が講中に配られる。それを皆一人一人取りいただき、拝し、自分で振って身を清めるのである。なお、その幣は、そのあと寵で焚きあげられる。けがれをこの火に集めて除く、という意味があるのだ。
 謡の奏されるなか、岡田太夫と嫡子が衣冠を正して登場。正面に向かって三拝平伏する。講中の面々も皆平伏す。
 岡田太夫が願文を開き、講中の五穀豊穣、家内安全の趣旨を持ち舞う。そして、幣を講中の頭上で振る。座している舞姫一人が手に米を握り、2,3度盆に移す。さらに、投銭といって、舞姫の座するところ、楽人のいるところ、四方八方に銭を投げること2,3度。 面々の前に落ちたものは、それぞれが拾う。その後、扇舞、山の舞、連舞が舞われる。これも、講中によってかわる。奉納金によって、大神楽、中神楽、小神楽と分かれているにである。
 神楽がすむと、直会(なおらい)である。白木台にのせた瓶子と神酒が下され、三方にのせた外宮内宮の供えものの授与がある。講中がいただき、すめば神楽殿の襖が閉められる。
 以上、神楽から直会まで要した時間は、およそ二た時(4時間)。
 引き続いて、座敷をかえて饗宴。岡田太夫が衣冠を正し正座し、このたび代々御神楽が首尾よくすんで恐悦との段を述べる。三方にのせた金杯銀杯に長柄の銚子の酒。宴席での礼講である。一同が、うやうやしくいただく。その後、手代からも恐悦の挨拶があり、夕食の案内となる。
 饗応の献立は、次ぎのとおりである。ちなみに、本膳から四の膳にいたるまで、すべての白木膳であった。
  本 膳 皿(独活せん切り・とさかのり・かうたけ・さより糸作り・紅酢),壺(磯もの・銀杏),瓦器(粒さんせう・花しほ)/飯,汁
  二の膳 白木台(紅かんてん・肴・青磯草・ねりからし)、白木台籠(大根・かちぐり・干菓子)、椀盛(鯛すまし・さんせう)
  三の膳 白木台(伊勢海老)、白木台(鶴)、椀すまし(鯛真子・じゅんさい)
  四の膳 皿(鯛塩焼)、猪口(ウルカノシホカラ)
  第 五 重引(生)(生麩・すりしやうが)
  第 六 椀(尾ツキすまし)
  第 七 猪口(四の膳にあり)
  第 八 平(敷みそ・松だけ・伊勢えび・ゆば)
  第 九 皿(子鯛を巻。但し酢にて味とる。ばうふう)
  第 十 大鉢引(鎌倉海老一色)
  第十一 二見浦といへる箱入干菓子一箱づゝ引
  金銀の大盃二ツを出す
 こけおどしともとられる豪華さである。 
 むろん、御師は、古くは天皇や貴族、あるいは武士の祈願を仲介することが本務であった。そこでは、奉幣使(願主の代人)を手厚くもてなさなくてはならない。それがこのような馳走の原型だったのであろうことは、想像にたやすい。
 豪華な食事を前にした講中の驚きのようすは、ことに細々と記されていないが。が、本膳から四の膳まではていねいに図示されている。この『伊勢参宮献立道中記』のなかでも異例のこと。ということは、つまり、もっとも豪華なご馳走であり、もっとも印象に深い饗宴であったということになろう。
 饗宴のあとは、前夜と同じ絹の揃いの夜具が用意された。「熟睡に及び衆人前後を知らず伏す」と記されている。
 さて、翌日は出立の日。朝起きがけに、前朝と同じ焼き結びと梅干しひとつ・煎茶がふるまわれた。そして、朝食となるが、それも本膳に二の膳付きの形式であった。
  皿   (しそ・うど・ちさ) 
  汁
  本 膳 壺(ぜんまい・甲州梅・すまし)、薄板(紅つけ大根・わかめ・たひのつけやき)/飯
  二の膳 椀(たひ・すまし)猪口(したしもの)、平ラ引(薄雪・こち・すまし・貝焼引)、椀(引・蛤すまし)、茶碗(新豆・煎海鼠・ヒドリ(火取り永いも))、大鉢(たひの浜焼引)
 むろん、酒もすすめられた。
 朝食がすむと、手代の挨拶。本来であれば宮川まで送ってそこで一酒をさしあげるべきところ、講中にはここから別々になったり先を急いだりする者もあるので、と世話人からいわれたとして、弁当(結び)・組肴(五種献立)・生菓子(餅)・錫徳利酒(二ツ)を取り出す。つまろ、送別の小宴である。 この時代は、旅への出立と帰還時に村境や町境で近親者が集まって酒宴を催す慣行が広く行われていた。これを、「坂送り」「坂迎え」というが、文献によっては、「酒送り」「酒迎え」と記しているものもある。伊勢の御師も、講中を宮川で迎え、外宮あたりまで送るのを慣例としていたのである。
 いよいよ一行が出立。手代は外宮まで見送り、ここで断りをいって帰っていったのである。
 ところで、御師の館で費やした費用はいかほどであったのか。じつは、それも『伊勢参宮献立道中記』に記載されているのだ。
 それによると、「代々御神楽初穂料」が30両である。
 そのほか太夫の奥方や嫡子、助勤の太夫たちにそれぞれ祝儀として2,3分ずつ。講中から御師岡田太夫に渡された額は、しめて36両余りとなっている。
 代参者は20人、その数からすると講員はおそらく300人以上、あるいは400人ぐらいか。講員が多い伊勢講としても相当な費用といわざるを得ない。例の『東海道中膝栗毛』には、講中での代々神楽の初穂料が15両とある。 これが標準的な中神楽の料金であるので、志度ノ浦講中のそれは、大神楽であった。ちなみに、小神楽の場合は、10両以下で、7両とか6両を支払った、という記録がある。
  しかし、それにしても相当な、というよりも法外な費用であった。江戸の後期、江戸の市中においてさえも、一家数人で年に5両もあれば暮らしがたった時代なのである。江戸時代の歴史、とくに庶民の生活の実態を見直さなければならないという根拠は、ひとえにこうした消費力にあるのである。 (『江戸の旅文化』から)
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<牛肉は文明開化の味がする>  明治維新を境に、日本人の食生活をガラリと変えたのは肉食である。もともと江戸時代でも肉食はまったく行われなかったわけではなく、

 狩場ほどぶっつんで置く麹町
 冬牡丹麹町から根わけなり

 といった川柳もあるくらいで、野獣肉の嗜食も、江戸の中期は盛んなものであった。当時、麹町平河町に俗称を「ももんじゃ」、屋号を山奥屋と称する獣肉店があり、この山奥屋はカキシブ(柿渋)で防水した障子かなにかに紅葉や牡丹の絵が描かれていた。 いうまでもなく紅葉はシカ、牡丹はイノシシの隠語である。平河町は半蔵門と目と鼻の至近距離にある。四谷の宿に獣肉市が立って、馬方や宿場人足を相手に肉を売ったとのちがい、武家の軽輩の者や足軽、中間(ちゅうげん)の間に、半ば公然と獣肉が食べられていたと見てさしつかえない。 山奥屋には、かなりたくさん肉が在庫していたようで、川柳子はそれを「狩場ほどぶっつんで置く……」と形容したわけである。
 そればかりか「赤斑牛と井伊侯」の話しは有名で、俗仏庵主の『牛鍋通』という本には、

 近江の国は、昔から大津牛と称へ、牛の発達した処で、彦根の藩主井伊侯は、毎年赤斑牛の鞍下(今のロース)を、毛付けの儘味噌漬けにして将軍家及び御三家へ、薬用として献上したものだそうだ。 幕末に到って、直弼侯は、根が坊主出だけに、牛を殺すのを嫌って献上を怠った処、水戸の烈公が非常な牛肉好きで、ある時殿中で献上の催促に及んだ。 すると直弼公は、「拙者は殺生は嫌ひでござる」とスゲなく断ったが、水戸公の勘定を害した初めてだといふ説がある。どういう訳だか、昔は赤斑牛だけは食っても穢れぬと言ひ習はして居た。

と、記されている。
 しかし、一般の日本人は穢らわしいとして、これを嫌い、わずか一部の者が食用としていたことも事実であった。これが維新後は、牛肉を食べることが、文明開化でもあるように、牛肉と欧化主義が結びついて、それこそ猫も杓子も、「モシあなたエ、牛は至極高味(おいしい)ですね。 此肉がひらけちゃ牡丹(猪)や紅葉(鹿)も食へやせん。こんな清潔なものを、なぜ今まで食わなかったのでごわせう……追々我国も文明開化と云ってひらけて来やしたから、我々までが食うようになったのは、実にありがたい訳でごス。 それをいまだに野蛮の弊習と云ってネ、ひらけねえ奴等が肉食をすりやァ神仏へ手が合わされへえの、ヤレ穢れるのとわからねへ野暮をいふのは究理学を弁へねへからのことでげス。 そんな夷に福沢先生の著した身区食の説でも読ませてへネ」などというようにまでなった。仮名垣魯文は『安愚楽鍋』(明治4年刊)の序文に、

 士農工商、老弱男女、愚賢貧富おしなべて、牛肉食わねば開化不進奴(ひらけぬやつ)。

と、書いて牛肉食の効を手放しで礼賛している。「牛鍋」こそは西洋文明輸入時代を代表する特産であった。 (『日本の食文化』から)
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<外国から渡来した野菜>  わが国の野菜はほとんど全部外国から渡来したもので、日本原産といえば、フキ、セリ、ミツバなど数えるほどしかない。 外国から渡来した野菜のうち、古代に渡来したものはいずれもアジア大陸から入ったもので、その中にはダイコン、ツケナ、マクワウリなどのように、地中海沿岸地域やアフリカ原産のものも入っている。
 ヨーロッパの野菜が直接わが国に入ったのは、室町時代以降のこととされ、ポルトガル船やオランダ船が九州の長崎や平戸に寄港し、キリスト教を布教し、各種の文化をもたらした際、その渡来文化の1つとしてカボチャ、トウモロコシ、ジャガイモなどが渡来した。 さらに近代になって、明治差保年欧米の作物を積極的に導入し、そのなかから多くの野菜が普及した。例えばキャベツ、トマト、タマネギなどのような、当初は西洋野菜と呼ばれた種類が、今ではごく普通の大衆野菜になっている。  (『野菜』から)
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<食事の回数は次第にふえていった>  『武者物語』の北条氏康の言葉に、「およそ人間はたかきもひくきも1日再度づつの食なれば」とあるように、中世までは1日2食が普通で、搗女(つきめ)や大工のような烈しい労働をする者には、間食を給していたようであるが、いつの間にかその間食が朝食と夕食の間に割り込んで昼食になり、1日3食が正規の食事になった。 ところが最近1世紀農業の機械化が進む直前の農村の食生活の報告をみると、その3食の合間合間にやや軽い食事をとって1日の労働力を補強しているのがみられる。 1年のうちでも特に、春の彼岸から秋の彼岸に至るまではおやつのある季節で、東京都下の八王子地方では「アオサ」(朝飯)「オチャ」(午前10時頃の間食)、「オヒル」(昼食)、「オコジュウ」(午後のオヤツ)、「ヨーメシ」(夕飯)がある。 この地方は明治時代、農業と養蚕と機織を兼ねたからその労働量もすさまじかったが、幼稚な農業時述で耕作していた時代には農業一方でも容易ならぬ労働で、岩手県下の村で「アサナラス」(午前4時)、「アシャエ」(朝飯で午前7時)、「コピリ」(午前10時)、 「オヒル」(午後1時)、「アトコビリ」(午後4時)、「ユウハン」(午後8時)という例もある。
 農家では田植えや肥料用の草刈り仕事を村内の家々と仲間ですることがあるので、自家の家族だけならば食べないですむおやつも、この際には出さなければならない。 また男女の農奉公人のいる家や、家族でも息子や娘や若い嫁にうんと働いて貰うためには、おやつの用意を忘れてはならないのである。 おやつの材料は蒸薯・あられ、小豆と米を煮たもの、団子などいろいろあるが、握飯に梅干か漬物という地方もある。この間食を関東から関西はチャノコ・オチャ・コジャというが、東北の農家はお茶を飲むことが少ないためかコビル・コビリという地方が多い。
 目が覚めると起きぬけ、前晩握っておいた握り飯を食って朝露を踏んで朝草を刈りに行き、馬の姿が見えなくなるほど草を積んで帰って朝食を食う。 文字通り朝飯前の仕事をすめせてから朝飯を食べて、今度は田圃に、又は山や畑に行く。10時頃コビルを食って又ひと働きして昼飯にする。 昼飯を済ませてからしばらく午睡をして、早起きの寝不足と午前中の労働の疲れを流して又働く。午後の3時頃には「アトコビリ」で口を潤して、長い夏の夕陽が沈んで手許が見えなくなるまで働いて家に帰って夕食の膳につく、というようなわけで、星をいただいて帰る農夫の手労働は、4回、5回の食事によって補給されるのである。 秋の取り入れがすむと稲こきがある。籾磨りがある、いろいろな穀物の搗きものがあって、これも夜遅くまでかかるので、手足を道具にし、精力を動力にして労働した時代には、機関車に石炭を投げ込むようにひんぱんに食事をした。 これは人間の食い溜めの能力が昔よりも衰えたためなのか、或いは度々食った方が身体に良いということになったためか、又は文化が進に従って人間の労働量が増したからであるのか、その理由を明らかにしたいものである。
 このおやつは都会人のおやつとは異なって、単なる口なぐさみではない。一旦精力を消耗した者が働こうとするときの腹ごしらえであるから、精力の出るものでなければならない。 これは経済上の理由もあって薯類が多く、雑穀粉の団子も用いられる。食事ごしらえをする婦人も野良働きに出る関係上、特におやつをつくる余裕がないところから、間食には3度の食事のあまりの飯・汁を食う地方もあって、そんなところでは正規の食事とおやつの区別がつかないので、春から秋までは1日4回の食事であるという地方が少なくない。 なかには農村はたいてい年中4回の食事で、学校の先生と役場員だけ3回である、という地方さえある。正規の食事の回数がまた1回増えたわけである。
 こうしたひんぱんな食事は、結局胃の腑に入る食物の総量如何ということになる。どこでも純米ばかり食っているわけではないが、田植え・麦こなし・稲刈り・麦蒔きの頃の男子の食量は1日8合、冬の間は6合と概算している村がある。 男子は1日8合が普通であるが、夏秋の忙しい季節は9乃至1升は入用であるという地方もある。労働のはげしい季節には1人7,8合入用であるが、外働きをしない冬の季節には4合でよい、食事と労働量は比例する、というのが普通である。
 青森県の野辺地町では、2,3食分食って置くことをタメゴクというが、福井県の序損でも漁師は海上で魚に出会うと1日中食わず飲まずに働いて家に帰ってから1升飯を食うので、食いおき。食いおくりをするという。 タメゴクを美徳とすればチカヅエ──近い飢えか──してちょいちょい食いたがるのは不便な性分である。食事量が1人前以下の者がガセナス、仕事が1人前できない者もガセナスで(山形県西村郡)、一般に多く食う者が多く働き、少食の者は働きも少ない、と考えられていた。  (『食生活の歴史』から)
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<百姓がコメを食べなかったら、収穫されたコメは誰が食べたのか?> 
江戸時代の百姓の主食は何だったのだろうか?コメ?麦?そば?粟・ひえ・きび?芋?豆?
 今日私たち日本人の主食はコメ。これに異論はない。 「貧乏人は麦を食べればいい」との表現のように、コメ以外は貧しい食材、とのイメージがある。そして「江戸時代の百姓は、貧しくてコメは十分に食べられなかった。正月とかハレの時だけだった。」こんな風に思いがちだ。果たして本当はどうなのだろう? 「コメ自由化への試案」「大江戸経済学」を書き始めて、いろいろな資料を読んでみると、江戸時代へのイメージが変わってきた。「江戸時代の百姓は抑圧された階級で、食うのが精一杯の生活だった」というのは誤り、けっこう豊かな生活をしていたらしい。 そして、「粟やひえが主食でコメは滅多に食べられなかった。」とは勝手な思い込みらしく思えてきた。さてそこで本題、江戸時代の百姓は何を食べていたのだろうか? 板倉聖宣著『日本史再発見』に参考になる文章があったので、ここで引用することにしよう。

高知藩の食糧生産と消費1723(享保8)年度の高知藩の、食糧生産と消費を対照した記録から考えてみよう。
1723(享保8)年度の品目別収穫高
 米  276,000石
 麦  120,000石 食糧としては、麦2升を米1升と扱う つまり米6万石分
 そば  7,400石 1.5升で米1升分 つまり米5,000石分
 粟・ひえ・きび 9,000石 3升で米1升分 つまり米3,000石分
 芋   25,000石 3升で米1升分 つまり米8,100石分
 大小豆 7,400石 2升で米1升分 つまり米3,700石分
 これらをコメに換算すると、米27.6万石+雑穀7.98万石=35.58万石 1723(享保8)年度の高知藩の食料生産高はコメ換算で35.58万石。
1723(享保8)年度の食糧需要量高松藩の人口40万人として、うち10万人赤子。残り30万人のうち
 15万人 男子 1年分の食糧 1.8石
 15万人 女子 1年分の食糧 0.9石
 1723(享保8)年度の高知藩で必要な食糧は 1.8X15万+0.9X15万=40.5万 35.58万石の収穫高に対して、必要量は40.5万石。差引4.92万石の不足となる。 この不足分は、わらび、芋の茎、大根、かぶななどで補う。
 高知藩全人口の一割の武士と町人がこのうち米だけ4万石食べたとして、残りの米は23.6万石。他の雑穀に比べ圧倒的に多い。つまりこの時代高知藩の百姓は「コメを主食としていた」ことになる。つまり高知藩の百姓の食糧品目割合は次の通り。

  品目  石高(石)  %

  米   236,000  65.5 
  麦    60,000  16.6
  そば   5,000   1.4
  粟    3,000   0.8
  芋    8,100   2.3
  豆    3,700   1.1
  その他  44,200  12.3
  計   360,000  100.0
 8代将軍吉宗の頃、四国高松藩の百姓は上記の割合で食糧を取っていた、と考えられる。この推測には「武士、町人はコメだけ食べていた」との条件での計算である。 江戸時代の農民はコメを主に食べていた。白米だけを食べることは少なかったろうが、コメに麦などの雑穀を加えて食べていた。そしてコメの割合は約65%であった。 つまり、「江戸時代の百姓の主食はコメであった」と言える。
*                      *                      *
<食生活の歴史観を変えてみよう>  「人は住んでいる地域でとれた物を食べるのが良い。その土地の気候・風土に合った食べ物が体に良い」。 地産地消の考えはこのようなものなのだろう。けれども実際人々は地域で生産されたものばかりではなく、美味しい物があれば遠くから時間と金を掛けて運んできても食べていた。 その努力が積み重なって、現在のゆたかな食生活がある。江戸時代の将軍の食生活、それも特別豪華なもの、それと庶民のお伊勢参りの夢のような食事、これらが当時とてつもなく豪華であったことは想像できる。 しかし、現代の庶民の食生活に較べれば、食材が貧素だ。地産地消では超豪華な食事でもこの程度。食材を多様化する努力によって日本人の食事はゆたかになったと言って良い。
 江戸時代の農民の生活というと、「農民=貧困」というイメージになりやすい。「封建制度の下で、農民は過酷な年貢取り立てに苦しめられていた」という「貧農史観」が主流であったようだが、最近は見直されてきているようだ。 上記『日本史再発見』にみるように、実際は農民の主食はコメであったと考えるのが妥当だ。なんとなく常識のようになっていることに疑問を持つこと、これがアマチュアエコノミストの特権で、ここでは「地産地消」に挑戦している。
 そんなチャレンジの一環として、江戸時代の農民とコメの関係について引用してみた。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『食と農の戦後史』                  岸康彦 日本経済新聞社  1996.11.18
『京の伝統野菜と旬野菜』             高嶋四郎編 トンボ出版    2003. 6.10
『江戸の食生活』                  原田信男 岩波書店     2003.11.27 
『江戸の旅文化』                  神崎宣武 岩波新書     2004. 3.19
『江戸のファーストフード』            大久保洋子 講談社      1998. 1.10
『日本の食文化』                  平野雅章 中公文庫     1991. 1.10 
『野菜』在来種の系譜                 青葉高 法政大学出版局  1981. 4.10
『青葉高著作選』U 野菜の日本史           青葉高 八坂書房     2000. 7.30 
『食生活の歴史』                  瀬川清子 講談社学術文庫  2001.10.10 
『日本史再発見』                  板倉聖宣 朝日新聞社    1993. 6
( 2007年10月1日 TANAKA1942b )
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(4)新世界からの貴金属以上の贈り物 
コロンブス以後西欧での農作物の多様化
  この「農作物のルーツを探る」シリーズ、「はじめに」で次のように書いた。
 今日、日本では人々がゆたかな食生活を愉しんでいる。「グルメブームは一部の人たちのもので一般人には関係ない」などと言う臍曲がりがいたとしても、戦前・戦後の苦しい食生活の時期から比べれば、現在、日本人がゆたかな食生活を愉しんでいることは間違いない。 そのゆたかな食生活を支えているのは、「日本に古来からあった食材に加えて、世界各地から豊富な食材が持ち込まれて来たからだ」と言える。
 日本の食生活の話しを始めると「食糧自給率が低い」「天候・気候不安で、将来が不安だ」「日本の農作物は良いけれど、外国のそれは、農薬・遺伝子組み換えなど不安が多い」という話題になりがちだ。 戦争直後、日本人がどのように食糧確保に苦労したかを忘れている。当時を想い出してみれば、現在いかにグルメ時代なのか、理解できるはずだ。そうしたことで、昔の食生活について取り扱ってみた。 そして、今週からは、「如何に”反”地産地消の食生活をしたか」「農作物が原産地を離れて、遠い国の人々に愛されたか」について扱うことにする。
 コロンブスのアメリカ大陸到着から始まる、農作物のヨーロッパ移住過程についてだ。
*                      *                      *
<すっかり定着した、遠い原産地からの農作物>  トマトがなかったら、イタリア料理はどんなものになるだろう?辛くて刺激的なトウガラシがなかったら、インドカレーはどんな味になるだろう? もしジャガイモがなかったら、ドイツ人はどんな料理を作るのだろう?チョコレートがなかったら、フランス人のシェフはどうやってムースやエクレアといった、ほっぺたの落ちそうなデザートを作るのだろう?
 まったく想像もつかない。だがイタリアやインドをはじめ世界中のたくさんの地域では、長いことこれらの食材なしで料理が作られてきたのだ。 イタリア人はクリームやチーズや野菜で作ったソースをパスタの上にかけていたし、インド人をはじめとするアジアの国々の人々は辛味を出すのに、黒コショウ、クミン、ショウガといった香辛料を使っていた。 また多くに国では甘いお菓子はミルクやハチミツやアーモンドペーストで作られ、チョコレートのようなこってりした食欲をそそる材料は使われなかった。
 現代の料理には欠かせないトマトやジャガイモ、トウガラシやカカオなどの食材をヨーロッパやアジアではなぜ使っていなかったのだろう? 理由は簡単。トマトもジャガイモもトウガラシもカカオも、ヨーロッパやアジアなどの東半球の地域にはもともとなかったからだ。
 現在よく知られている作物は、東半球原産のものが多い。コムギやオートムギ、オオムギやコメのような穀物は初めアジアで栽培されるようになり、やがて大勢の人が常食するようになった ニンジンやエンドウマメ、キャベツやナスのような野菜、リンゴやブドウ、ナシやモモのような果物、これらはすべてヨーロッパの国々や、インド、中国などのあじあの国々、アフリカの一部の地域で栽培され、食べられていた。
 しかしトマトやジャガイモ、トウガラシやカカオは別で、どれもアメリカ原産の作物だ。これらは西半球、つまり北アメリカ、中央アメリカ、南アメリカにしかなかったのだ。トウモロコシ、カボチャ、ピーナツ、バニラ、たくさんの種類のインゲンマメもまた原産地はアメリカ大陸だった。 ヨーロッパ、アジア、アフリカの人々は、長いこと西半球のある大陸と行き来することがまったくなかった。世界の果てにあった大陸にも人間や動物が住み、さまざまな植物が育っていたのだが、ヨーロッパ、アジア、アフリカの人々にはまったく知れていなかった。 しかし1492年、大変化が訪れた。
 この有名な年に何がおきたか知らない人はいないだろう。クリストファー・コロンブスと彼の部下たちが豊かなインドや東インド諸島への近道を探しているうちに、アメリカ大陸を「発見」してしまったのだ。 最初に上陸したカリブ海の島では、見るものすべてが驚きだった。「どの木もヨーロッパにあるものとは昼と夜もどの違いがある。果物も草花も岩も何もかもが違っている」
 コロンブスはこの不思議な新しい土地はアジアの一部だと言って譲らなかった。あとに続く探検家たちはすぐにコロンブスの誤りに気づいて、「新世界」の発見を宣言した。 しかしアメリカ大陸の先住民にとっては、ヨーロッパからの侵入者こそ彼らの世界にやってきた新参者だった、彼らにとって世界は少しも新しいものではなく、ヨーロッパ人の住む世界と同じように昔からあったのだから。
 アメリカ大陸にはヨーロッパ人がやってくる何千年も前から人間が住んでいた。彼らはさまざまな土地で暮らしていた。 厳寒の北極地方、太陽が照りつける平原、木の生い茂った熱帯雨林、高山。野性の同阿植物を食糧とする狩猟民や採集民もいれば、畑を耕して作物を育てる農耕民もいた。 それぞれの畑では、家族を、小さな村を、あるいは何千人もの人が住む大きな都市を養えるだけの作物がとれた。
 アメリカ大陸の農耕民は、自分たちの土地でどんな植物が育つのかよく知っていた。はるか昔から野性の植物を栽培し、たくさんの種類のトウモロコシやジャガイモ、インゲンマメやカボチャを育ててきたのだ。 やがてこれらの主要作物はアメリカ大陸の大部分で常食される持ち込んだ細菌による伝染病の発生だ。たとえばアステカ族の住むメキシコでは、天然痘が「穂と人のあいだに広がり、壊滅的な状態をもたらした。 ……非常に多くの人が天然痘で死んだ。歩くこともできず……動くこともできず……手のほどこしようがなかった」。 いくつかの地域では、アメリカ先住民の90パーセントが天然痘やはしかなど、免疫のないヨーロッパの病気で死んでしまった。
 1492年にはじまったふたつの世界の出会いは分裂や混乱を引き起こし、いまもなおその影響が残っている。しかし、すべてが悲惨な結末を迎えたわけではない。 アメリカ大陸と旧世界との作物の交流は多くの人々ぼ食生活を改善し、そのおかげで世界中の人々がそれまでよりたくさんのもの食べられるようになった。 もっと栄養があり、種類も豊富でおいしいものが壁等レ留ようになったのだ。
 別の分野でもそうだが、おそらくこの交流でもアメリカ大陸は大きな貢献をしたことになるだろう。トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、トウガラシ、カカオといった作物は、ヨーロッパ、アジア、アフリカの広範な地域における料理や食生活を変えてしまった。 アメリカの作物は、多くの人々の栄養源としてだけでなく、食の楽しみにもまた不可欠なものになった。
 このいきさつは、世界史のなかでも非常に興味をそそられる章のひとつである。 (『世界を変えた野菜読本』から)
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<ソラナムファミリーはスーパーファミリー?>  タバコ、ジャガイモ、トマト、トウガラシ、ペチュニアというとても身近な植物たちが、みな同じナス科に属し、ふるさとも同じ中南米であると来て驚かれる方も多いかも知れません。 実はこんも植物たちは、コロンブスのアメリカ大陸発見に始まる大航海時代以降はじめてヨーロッパ、アジアに紹介され、わずか数百年の間に世界中の人々の生活を変えてしまったのです。
 フライドポテトとトマトケチャップ、ハンバーガー、ピザとタバスコ、トマト味のシチュー、トマトとピーマンの入ったサラダ、現代の食卓の人気メニューです。 ここからナス科の植物たちを消してしまうとどうなるでしょう。味も彩りも、なんとも味気のないものになってしまいますね。 これらの植物たちはそれほど現在の私たちの生活になくてはならない、また潤いを与えてくれるものとなっています。 しかし、彼らが食卓に登場したのがつい最近だということや、登場の裏にさまざまなドラマがあったことは意外に知られていないのではないでしょうか。
 さて、バイオテクノロジーというと、難しい学問だと感じられる方も多いでしょう。しかし、イチゴや花では組織培養による苗の生産はなくてはならないものになっていますし、胚芽培養という技術を用いた新品種も数多く登場しています。 すでに人々の生活の底辺を支える実用技術となっていると言っても過言ではありません。アメリカで遺伝子組み換えトマトが商品化され、その品質の良さで人気を集めたというニュースをご存知の方もいらっしゃると思います。 日本でも、とまとやペチュニアなどでは商品化に向けて安全性確認テストの段階にきています。夢の技術と言われた遺伝子組み換え技術が、医薬に続き植物の分野でもいよいよ実用化の段階になってきていると言って良いと思います。 実は、このバイオテクノロジーの分野でもナス科の植物たちが主役となっているのです。
 この本では、中南米原産のナス科の植物たちの大活躍の物語を、今まであまり紹介されなかったエピソードをたくさん盛り込んでお届けします。
 本の題名を御覧になって、ソラナムって何だろう、そかも世界を制覇したスーパーファミリーとはなんと大袈裟な、と思われた方も多いのではないでしょうか。
 ナス科の中で最も大きな属は、南米原産のジャガイモやインド原産のナスが含まれています。日本では、ナスが千年以上前に渡来し、野菜として長い歴史をもつためナス科の代表植物と考えられています。 しかし、世界的には、きわめて重要な食用作物となったジャガイモのほうが代表的な植物と考えられているようです。本の題名にナス科という言葉を用いた場合、本分にナスが出てこないと読者の皆様が混乱されるかも知れないということで「ソラナム」を用いさせていただきました。 本分の中ではナス科という一般的な表現になっています。
 さて、スーパーファミリーかどうかについては、最後まで読んでのお楽しみです。 (『世界を制覇した植物たち』から)
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<胡椒を求めて東へ西へ、新大陸へ>  どうして地中海諸民族はヨーロッパ支配をやめてしまったのだろうか。その後、ルネサンス後の時代にヨーロッパ人は何に促されて世界中へ拡がっていったのだろう。 ヨーロッパが大西洋の大陸棚と地中海から膨張していく出発点となったのは、例えば宗教とか資本主義の興隆とかは何ら関係がなく、胡椒と大いに関わりがあったのである。 胡椒は中世に取り引きされたほぼ20種の香辛料の一つにすぎなかったのだが、1世紀以上の間イタリアに輸入される全香辛料の半分以上を占めたのである。 他の香辛料で胡椒の価格の10分の1に達するものは1つもなかった。ヨーロッパで広く用いられていた塩漬けの他には保存法がなかった時代に、多量の塩で漬け込んだ肉を食べやすくする香辛料は胡椒以外にはなかった。 塩と胡椒は、とりわけ航海中やひもじい日々や凶作の場合に、肉食の人間が飢えるのを防いでくれたのである。1980年代のはじめにイギリス海軍の難破船「メアリー・ローズ」号が海底から引き上げられたとき、1545年に船とともに沈んだ水兵のほぼ全員が所持品の中に胡椒の入った小袋を持っていたことがわかった。 16世紀はじめにはヴェネツィアは胡椒貿易の独占で得た収益によって豊かで美しい都市になっていた。ところが1470年頃からトルコ人が地中海以東の陸上貿易路を妨げていた。 その結果、ポルトガル人・イタリア人・スペイン人の大探検家はみな東洋へ到達するために西方や南方に向けて出帆した。 南北アメリカは胡椒探検の副産物として発見されたのである。 (『歴史を変えた種』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『世界を変えた野菜読本』   シルヴィア・ジョンソン 金原瑞人 晶文社       1999.10.10
『世界を制覇した植物たち』     大山莞爾・天知輝夫・坂崎潮 学会出版センター  1997. 5.10
『歴史を変えた種』 ヘンリー・ボブハウス 阿部三樹夫・森仁史訳 パーソナルメディア 1987.12. 5
( 2007年10月8日 TANAKA1942b )
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(5)アイルランドの歴史を変えたジャガイモ 
これがなかったらドイツ料理はどうなる
<ジャガイモ> ヨーロッパ人は最初に、カリブ諸島とメキシコで新世界のほとんどの作物に出会っていた。 1492年、クリストファー・コロンブスの一行は上陸して間もなく、エスパニョーラ島でトウモロコシとアヒ(トウガラシ)が栽培されているのを発見し、エルナン・コルテスは1519年、メキシコに到着後、チリ(これもトウガラシ)で味つけされたトウモロコシのトルティーヤを食べ、アステカ族のカカオの飲み物、カカワルトルをすすった。 侵略者であるスペイン人たちはアステカ帝国の首都テノチティトランの青空市場を訪れたとき、ウモロコシやチリやカカオの実のもかに十種類ものトマトとインゲンマメを目にした。
 しかしアステカの大市場では、とても重要なアメリカの作物が売られていなかった。それは北アメリカや熱帯のカリブ諸島の人々はもちろん、アステカ族やマヤ族の人々も知らないものだった。 この作物、つまりジャガイモは南アメリカだけで、それもアンデス山脈の麓でのみ栽培されていたのだ。(中略)
 メキシコのアステカ帝国と同じように新しく台頭してきたインカ族は、起源1400年ごろペルーでインカ帝国を建設したが、アステカ帝国よりもはるかに短命に終わる定めだった。 1532年、およそ260人の兵士w3おひきいたスペイン人フランシスコ・ピサロが、黄金を求めてペルーを占領する。 ピサロが皇帝アタワルパを拉致し処刑すると、インカ帝国は崩壊した。(インカ帝国はメキシコから広まったヨーロッパの伝染病によってすでに弱体化していた)。
 ピサロの一行はペルーで黄金を発見した。インカ帝国の神殿の壁はすべて黄金で覆われていたのだ。
 ジャガイモはインカ帝国が権力を握るようになる数百年も前からその土地で作られていた。紀元前3,000年の昔に栽培されるようになったが、アンデス地方の山岳気候、つまり涼しい昼と長くて凍てつくような夜にもかかわらずよく育った。 先住民は山の傾斜をけずり、遠くの川から水を引いて台地に畑を作り、ジャガイモを栽培した。彼らは改良を重ねて、色や大きさ、味や生育条件の異なるたくさんの品種のジャガイモを作り出した。 ペルーのジャガイモの皮は、茶、赤、オレンジ、ピンク、紫、黒灰色とさまざまな色だったと思われる。クルミより小さいものもあれば、グレープフルーツほどの大きさのものもあったらしい。
 1,400年代初頭、インカ帝国が歴史の舞台に登場するころには、ペルーの人々はジャガイモといっしょに他の食物も常食していた。 ひとつは、アメリカ大陸のほとんどの地域で作物の王様と見なされていたトウモロコシ、インカ族のとくに富裕な権力者たちは、トウモロコシのビール、チチャをたいへん好んだ。 コボ司祭は、多くのペルー人がこの発酵酒に目がなかったと書いている。チチャを十分に確保するために、インカ王は臣民を山あいの家から低地へ強制的に移住させた。 トウモロコシを栽培させて王家の貯蔵庫をいっぱいにするためだ(ジャガイモは海抜4,500メートルまで育つが、トウモロコシは海抜3,300メートルより高い土地では育たない)。
 チチャなどトウモロコシの加工品は人気があったが、インカ族のほとんどの庶民は、それまでどおりジャガイモを主食にしていた。インカ族の言葉ケチュア語で「パパス」と呼ばれるジャガイモを、マメやトウガラシなどいろいろな作物といっしょに毎日食べていたらしい。 ペルー人のもう1つの主食であるアカザ属ノ穀物、キノアとジャガイモを使ってシチューやスープを作ることも多かった。 これらの料理にはクイと呼ばれるテンジクネズミの肉も入っていたことだろう。インカ族の庶民はテンジクネズミを家の中で飼っていたのだ(現代のペルー人も同じように家で飼っている)。
 昔のペルー人は取れたてのジャガイモかチューニョを料理に使っていた。コボ司祭が「パンの代用品」と書いたチューニョは、特別な方法で作られたジャガイモの加工品である。 取れたてのジャガイモをまず地面の上に拡げ、一晩そのままにしておく。すると山の冷たい空気で凍りつく。翌日になって解凍したら、踏みつけて中に含まれている水分を押し出す。 この工程は、ジャガイモがからからに乾燥して軽くなるまで、発砲スチロールの板きれのようになるまで何度も繰り返される。 こうして「フリーズドライ」のかたちにすれば、ジャガイモを半永久的に保存しておくことができるのだ。
 生であれ乾燥させたものであれ、ジャガイモはインカ族の暮らしになくてはならないものだが、ヨーロッパ人にとっては、目新しい不思議な食物だった。 1,530年代にペルーを侵略したスペイン人は、ジャガイモを試食してみて食用になることを発見した(「スペイン人にとっても美味しい料理だった」と試食した人が書いている)。 しかしこのパパスは一体何なのか、ずいぶん頭を悩ましたらしい。
 初期のスペイン人の多くは、ジャガイモを見てトリュフを連想したと書いている。ある征服者によると、「パパスは一種のトリュフで、人々はパンの代わりに食べている」。 フランシスコ・ピサロでさえ、ジャガイモは「白っぽい、味の良いトリュフ」のようだと言ったと伝えられている。今日ではアメリカ合衆国のほとんどの人がトリュフといえば高価なチョコレートを思い浮かべるだろうが、そもそもこの言葉は食用のキノコを指す(それが本来の意味である)。 では、ジャガイモとキノコの間に一体どんな関係があるというのだろう?少なくとも1500年代のヨーロッパ人の目には、両方とも土の中で見つかるという共通点があった。 トリュフは、オークかカバの木の根元の土中にできる。ジャガイモもまた土に埋まっている。それは「塊茎(かいけい)」つまりジャガイモの茎の地下に入った部分で、栄養分を貯蔵する役目を果たしているのだ。(中略)
 1700年代、北ヨーロッパの多くの国々がジャガイモを主食にするようになった。 ロシアでは深刻な飢饉で国が打撃を受けると、1765年、エカテリーナ2世がジャガイモの栽培を国民に奨励する。ポーランド、オランダ、ベルギー、スカンジナヴィア諸国でも、人々は、大地主や金持ちでなくても、ジャガイモのおかげで栄養のある安定した食生活が送れることに気付いた。
 ヨーロッパの一部の地域でジャガイモは、アメリカ原産の他の食物とともに、重要な社会的かつ政治的な変化を生み出す要因になった。 食物が多く手に入るようになると、飢饉などで餓死する人や栄養不足が原因で病死する人の数が減り、その結果、人口が増大し始めたのだ。 そしてこれまで弱小で自国も守れなかった国々が力をつけ、世界の舞台でより大きな役割を果たせるようになる。ヨーロッパ世界は変わりつつあった。 その変化に一役買ったのがアメリカから来たジャガイモだったのだ。 (『世界を変えた野菜読本』から)
<アイルランドのジャガイモ飢饉>  北ヨーロッパ諸国のうち、ジャガイモをもっとも重要な食糧としたのはアイルランドだが、このアメリカの作物が恐ろしい悲劇を生んだのもまた、アイルランドでだった。(中略)
 いつどんなふうに伝わったかはさておき、ジャガイモは1600年代半ばまでにはしっかりとアイルランドに根を下ろしていた。 湿度の多い涼しい気候は、ジャガイモ栽培にとってとって理想的な条件を満たしていたが、それ以外の事情もジャガイモが歓迎される理由になる。 アイルランドは長い間イギリスの支配勢力との戦いや争いによって分裂していた。1600年代から1700年代にかけてアイルランドの土地の大部分はイギリスに住んでいる地主が所有し、その土地を輸出用の作物や家畜を育てるのに使った。 そのため多くのアイルランド人は自分の土地をほとんど、あるいはまったく持たず、資産もなく、生活は貧しく常に飢饉や病気の犠牲になった。
 ジャガイモがアメリカ大陸から伝わると、アイルランドの庶民の生活は大きく変化した。高価な機具や畑を耕す家畜を使わずに、借地の狭い一画でジャガイモを栽培することができるようになったのだ。 1エーカーばかりの土地があれば5人家族が1年間食べていけるだけのジャガイモが穫れたし、アイルランドの土地をたえず行軍する軍隊の目をごまかして、収穫時まで地下に安全に置いておくこともできた。
 1700年代の末ごろまでなアイルランド人は1人当たり平均毎日3,4キロのジャガイモを食べ、他のものはほとんど食べなくなる。 食事は毎回ゆでたジャガイモで、時折キャベツやカブやミルクが添えられた。昔の諺に、いかにもアイルランド人らしい食事の様子を簡潔に表現したものがある。 「最初のジャガイモを食べているあいだに、次のジャガイモの皮をむき、3個目のジャガイモを手に持ったまま、4個目のジャガイモをじっと見ている」。 乳牛の餌もジャガイモで、料理に使う鍋で茹でていた。
 この変わりばえのしない、しかし栄養のある食物が安定して供給されるようになると、アイルランドの人口が増加し始める。 ちょうどジャガイモが登場して、ほかの国々の人口が増えたのと同じだ。1754年から1845年までに、人口はおよそ320万円から820万円まで増加した。 そしてこれら数百万の人々は日々の食糧をジャガイモに依存していた。ほかの作物の育て方を知らず、栄養補給源もこれしかなかったのだ。
 1845年に思いがけない災難が「アイルランド」のジャガイモとそこに住む人々を襲う。国中のジャガイモの葉がほとんど一晩で黒くなり、やがて枯れてしまったのだ。 掘り起こして見ると、ほとんどが腐っていた。その年は全滅せずに済んだが、翌46年に再び菌類(ジャガイモ立ち枯れ病菌のことと思われる)による恐ろしい病気が蔓延した。 「この年、(アイルランドの)まるまる4つの州で病気にかからなかった植物はほとんどなく、ジャガイモは全滅と言っても過言でない。 その結果もたらされたものは、まさに恐怖と荒廃以外のなにものでもなかった」
 翌年は小康状態だった。病気を根絶するために必死の努力がなされたが、1848年と49年に再びその病気が猛威を振るう。200年以上もジャガイモに依存してきたアイルランド人には、食べるものは何も残っていなかった。
 瞬く間に数千人が餓えと病気で死んでいった。餓えで弱った体はすぐに病気にかかってしまう。世界中が食糧援助に乗り出した(イギリス政府はアメリカのトウモロコシをアイルランドに送ったが、この奇妙な外国の穀物をどう料理すればいいのか誰も知らなかった)が、焼け石に水で、まったく効果がなかった。 「ジャガイモ飢饉」が1849年に終息するまでに150万人もの人が死に、やがておよそ同数の人がアイルランドを去り、少しはましな生活を求めて外国へ渡った。
 これら移民の多くが向かったのはアメリカ合衆国だった。1850年代に100万人のアイルランド人が船に乗り、成功の機会を求めてアメリカを目指した。 貧困や差別にもめげず、彼らは新天地でよち良い生活を築いた。アイルランド人は大好きなジャガイモが合衆国の北東部で栽培されていることを知り(1700年代にジャガイモも移民と共にアイルランドから伝わっていた)、引き続きジャガイモを常食した。 すぐにほかのアメリカ人はジャガイモのことを「スパッド」と呼ぶようになった。スパッドとはアイルランド人に付けられたあだ名で、ジャガイモの栽培に必ず使う「鋤(スペード)」が語源だ。 (『世界を変えた野菜読本』から)
(T注)アイルランドのジャガイモ飢饉に関しては「品種改良にみる農業先進国型産業論」でも書いたので、そちらも参照して下さい。
<ジャガイモの生産国・消費国>  1800年代から1900年代にかけて、ジャガイモはその栽培にあう気象条件の土地を求めて世界中の多くの地域に広まっていき、インド北部、中国、そしてアフリカの比較的涼しい地域にまで根付いていく。 「白いポテト」のとって暑すぎる国は、インドネシア、日本、そしてとくに中国を含むアジアの多くの地域で人間と動物の両方の食料になった。 現在、中国はサツマイモの生産が世界一で、多くの中国人はもっぱらアメリカから来たこの「バタタス」を常食にしている。
 たくさんの名前をもつ、「もう一つのポテト」、ジャガイモの生産で世界のトップにいるのがロシアで、それに次ぐ中国、ポーランド、合衆国が主要生産国である。 ジャガイモの消費量について言えば、おそらくドイツ人が一番多いだろう。1980年代に行われた調査によれば、東ドイツの1人当たりの年間消費量はおよそ160キロだった。 ドイツは統一されたが、国民は今でもたくさんのジャガイモを料理して食べている。(中略)
 今では世界中の人々が、フライドポテトにケチャップ、マヨネーズ、ヴィネガーなどいろいろなソースをつけて食べている。 世界中で愛されているポテトチップスも、合衆国で考え出され世界中に広まったジャガイモ料理だ。薄くパリッと揚がったジャガイモの薄切りは、1870年代に偶然作られたものだった。 そもそもポテトチップスという単語は、ニューヨーク州サラトガスプリングズの避暑地のメニューではフライドポテトを指した。 レストランの客たちが、フライドポテトが分厚すぎると文句を言ったので、コックはジャガイモを紙のように薄く切って熱い油で揚げて見せた。 すると客たちはこれに大満足し、「サラトガチップ」が誕生した。合衆国ではその名前はのちにポテトチップスに変わったが、イギリスではポテトチップスと言うとフライドポテトのことになるので、この新しいチップスは「ポテトクリスプ」と呼ばれている。
 ジャガイモは、ポテトクリプス、ポテトチップス、フライドポテトのような最高のスナックのもなったが、世界中の料理の基本的な私財でもあり、ボリュームのある、栄養たっぷりな、美味しい料理にも使われている。 たいていの人は、1700年代や1800年代のアイルランド人のように日々の食事をジャガイモだけに頼っているわけではないが、ジャガイモはたくさんの美味しい料理に姿を変えて、いつも多くの国の食卓をにぎわしている。 (『世界を変えた野菜読本』から)
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<ジャガイモの伝播経路>  最初にジャガイモの素晴らしさに気付き、利用したのは大航海時代に活躍した船員でした。新鮮な野菜や果物の不足する長期の航海では、 壊血病(ビタミンC欠乏症)対策が最大の難題で、レモンやオレンジの積み込みに努めていましたが、貯蔵性がよくビタミンCの多いジャガイモの登場はこの難題を解決してくれたのです。 世界各地のジャガイモの栽培が港の近郊から始まっているのは航海食品として利用されたからです。
 ヨーロッパのジャガイモの歴史は荒救食(貧者のパン)として有名になっていますが、最大の貢献は越冬食として冬の長い北欧の人びとの健康を支えていることです。 冬でも野菜が入手しやすい本州以南の人には分からないかも知れませんが、北海道では30年くらい前までは11月の末にジャガイモ、ニンジン、大根、キャベツなどを土に埋め蓄え、春までの間雪の下から掘り出して食べていました(筆者は今でも100キログラム以上の野菜を雪中貯蔵しています)。 ジャガイモは収穫後もビタミンCがあまり減少しません。栽培しやすくて貯蔵も容易なジャガイモは、冬期間のビタミンC供給源として、野菜の少ないヨーロッパの人びとに広く利用されるようになったのです。
 北欧に普及したジャガイモはロシアの東進政策に伴ってシベリア、極東に広がり、18世紀の末には千島で栽培されており、最上徳内が北海道に持ち帰っています。(中略)
 ジャガイモは伝播の過程で数多くのドラマを演じていますが、最大の悲劇はアイルランドで起こりました。 ジャガイモの普及の早かったアイルランドは不毛の土地が多く、そんな土地でも穫れるジャガイモは人びとに大歓迎され、生産量の増加に伴って人工も増加しました。 人口が800万人を越えた19世紀半ばに南米からヨーロッパに侵入していた疫病がアイルランドを襲いました。疫病はいままで恐れられているジャガイモの大病気で、雨が続くと1週間で広い畑がしべて枯れてしまい、土中のいもまで腐ってしまいます。 何年も続いた疫病の大発生は大飢饉となり数十万人が餓死、何百人もの人びとが難民として北米に移住しました。 小さい種いもを大切に持って北米各地に入植した人びとは、そこでジャガイモの栽培をしました。もちろん、それ以前にヨーロッパからジャガイモは伝播していましたが、栽培を全米に拡げたのはこのアイルランドの移住者です。 北米でジャガイモを「アイリッシュポテト」と呼ぶのはこのためです。
 メキシコ以北のアメリカ大陸には、コロンブス以前はジャガイモは栽培されていなかったというのが定説です。 狩猟や採集を生業にしていた人びとが多かったからでしょう。ジャガイモは麦や家畜と同様、ヨーロッパの移民が持参しました。 東海岸で栽培の始まったジャガイモの産地が西に移動して、有名なアイダホを中心とする大生産地が形成されるのは今世紀に入ってからです。 ポテトフレーク、チップス、フライドポテトなどの加工食品業と輸送手段の発達が産地を作ったといえます。 (『世界を制覇した植物たち』から)
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<ジャガイモの日本への伝播経路>  オランダ人で初めて東方世界に行ったとはいえ、1538年9月から89年1月までの滞在がインドに限られていたリンスホーテンにしても、ヤパン(日本)に関する記録は詳細をきわめていた。
 「中国大陸の東方約80マイルにあり、マカオからは北東へ航海して300マイル。取引港はナガサケ(長崎)」
 「山多く、寒い国、川、海で仕切られ、穀物畑は多くないが、常食は米。牛、羊はいるが食用ではなく、魚を好んで食べる」
 「中国人ほどうるさくなく、人柄は俊敏。物事を早く学びとる。礼儀作法は優雅。武器の名手は多いが、滅多に抜刀しない」
 「食事は各自が小卓につき、床に座り、2本の小さな木で食べる。米から醸造した酒を飲み、食後は壺入りの熱い飲み物を飲む」
 「王はヤカタイ(屋形)と呼ばれ、収入は米で計る。ヤカタイと家族に必要な以外の収入はクニシュー(国衆)とその部下に分配する」
 香料の道を先駆けしようと、インド洋を突っ切ってジャワ島に着く近道をしたほどのオランダにとって、日本はまるで道の世界だったとはいえないことになる。 1600年4月、豊後に着いた最初のオランダ船レイフデ号は、ジャワ島を目指した5艘の船団からの脱落船で、種子島に着いたポルトガル船同様の漂着だったが、1609年のその次の船からは、ジャワ島のジャカトラ出航後に直航してきている。
 1613年6月、平戸に入ったクローブ号のジョン・セーリス船長は、準備を十分にしてきたように手まわしよくオランダ商館まで設けた。
 「ジャカトラのイモを積んで、ベランダ(オランダ)人はみんな去ってしまえばいい」
 とジャワ人が囁いた、あのジャガイモを積んだ船の幾艘かは、1609年から13年の間に、少なくとも九州の湾や町の在り場所はかなりはっきりと知っていたのである。
 「ヤパン(日本)は、毎年2万キロほどポルトガルに銀を売っている。そのため、ポルトガル船はナウ・ダス・プラタス(銀船)とさえ呼ばれている」
 とリンスホーテンは記している。トメ・ピレスがいう「煉瓦の形をした黄金」も日本のものだとすると、マルコポーロが黄金の国ジパングといったのは夢物語とばかりは必ずしもいえない。
 しかし、それほど国中が豊かな輝きに満ちていたかといえば正反対で、ジャカトラのイモを積んだオランダ船がきた1600年代だけで、7回も飢饉に襲われている。 その末期から1700年代にかけては爛熟した文化を謳歌したあの元禄時代だが、元禄8、9年と連続したあとに、14年から16年にかけても、凶作と飢饉が相次いだ。
 「幼少より飢え、寒さ、労働に耐えるため、ヤパンの人間はきわめて忍耐強い」
 とリンスホーテンは書いているが、1700年代半ばの享保飢饉では、全国250藩のうち46藩が大凶作。餓死者96万9千9百人に及んだと『徳川実記』は記録している。
 新世界を発見し、東方航路も拡げた旧世界のヨーロッパで、民衆が飢えと物価の値上がりに苦しんだように、黄金の国・日本も実は生きていくのがやっとという民衆に満ちていたのだった。 いや、民衆だけではない。米沢藩主の上杉治憲は、日常の費用が年間1,200両だったのを2百両に減らして食料の備蓄や産業を興す資金にしたし、大陸からの襲来を防ぐ第1線にあった対馬で、34代にわたり藩主だった宗家は、15万2,450両の借財を抱えて明治維新を迎えた。 借金だらけで、王都も転々としたスペインや、女王の戴冠後のやりくりに貴族の館を歴訪したイギリスなどのヨーロッパの王家と大差はない。 東方世界も西方社会も、暮らしとかやりくりということでは似たようなものだったことになる。
 九州の平戸に着いたジャガイモの広まり方も、だから、新大陸からスペインのセビリヤに上陸した以後と似ている。
 無骨な姿を珍しがられたり、気味悪がられたりしたが、1755年に四国を襲った宝暦飢饉で、九州から豊後水道と瀬戸内海を越えた土地に広まった。 1783年に北陸と東北が見舞われた天明飢饉では北日本に進んでいった。米や麦はまったくとれない頃の北海道から、探検家で地理学者の近藤重蔵が、友人の最上徳内にこういう便りをしたのは1798年のことである。
 「ジャガタライモは、エゾ(北海道の土地)の者だけでなく(本州から渡った者)も栽培している。ニシン不漁の時には、いまや欠かせない食物となっている」
 この種イモが日本本土から渡ったものか、1700年代から往来し始めたロシア人がもたらしたものか、はっきりしない。
 津軽海峡を越えて本土から渡っていった、と考えるのが順当なところだが、宗谷海峡を渡ったサハリン(樺太)ではシベリアを越えて太平洋にでたロシア人はもちろん、そのロシア人にならってアイヌ族の人々までジャガイモ栽培を始めていたのでのでので
 いずれにしても、ジャガイモが世界を1周した末に、北海道に根付いたことはほぼハッキリしている。そして、世界一周の間に民族も人種も超えて飢えを救い、養ったように、日本人を養ってくれたことも、またまぎれもなかったのである。 (『じゃがいもの旅の物語』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『世界を変えた野菜読本』  シルヴィア・ジョンソン 金原瑞人 晶文社      1999.10.10
『世界を制覇した植物たち』    大山莞爾・天知輝夫・坂崎潮 学会出版センター 1997. 5.10
『じゃがいもの旅の物語』              杉田房子 人間社      1996.11. 7
( 2007年10月15日 TANAKA1942b )
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(6)アメリカで品種改良されたトウモロコシ 
最近の話題はバイオエタノール原料
<トウモロコシ>  1492年10月12日、3か月も続いた航海ののちクリストファー・コロンブスの一行はようやくカリブ海に到着した。 (アジアの一部と思いこんでいた)この見知らぬ土地を探検してみると、見たこともない不思議な光景につぎつぎ出くわした。 とくに好奇心をそそられたのは、畑に植わっていたある植物だ。それは人の背よりも高く、人の腕ほどの太さの穂をつけ、その穂は「エンドウマメほどの大きさの粒でおおわれていた」。 それはマイスという名の植物で、島に住むアラワック族が作物として育てていた。 4回目のアメリカへの航海に同行し、のちに父親コロンブスの新世界での冒険を本にした息子のフェルナンドは、探検隊がマイス、すなわちトウモロコシを試食してみたら、「ゆでてあったり、焼いてあったり、ひいて粉になっていたりしたが、とてもおいしかった」と記している。
 コロンブスの航海に続いてほかのヨーロッパ人たちも出航し、この不思議な新世界を探検してその富を搾取した。 トウモロコシは、彼らが足を踏み入れたアメリカ大陸のほとんどすべての土地で栽培されていた。
 1519年、スペイン人エルナン・コルテスの一行は、メキシコの岩だらけの土地を行軍してアステカ帝国の首都テノチティトランのたどりついた。 大きな都市を囲んでいる浅い湖には、チナンパと呼ばれる人工の浮島を利用した畑があり、トウモロコシやインゲンマメなどの作物が栽培されていた。 スペイン人は、アステカ族の人々が作るトウモロコシ料理の多様さに驚いた。紙ほどの薄さのパンのようなトルティーヤ、トウモロコシのやわらかいパン生地で具を包んださまざまな種類のタマーレ。 タマーレには、「幅広のタマーレ、先のとんがったタマーレ、白いタマーレ……貝殻のかたちにマメを並べたタマーレ……赤い果物のタマーレ、シチメンチョウの卵のタマーレ」があったという。
 フランシスコ・ピサロひきいるスペインの征服者たちは、ペルーのインカ帝国に「兵士の槍のように背の高い」トウモロコシが栽培されているのを発見した。 彼らは1533年、インカ帝国の首都クスコに到着し、聖なる太陽神殿に隣接する庭園で金と銀でできたトウモロコシの茎を見た。 インカの市場では、本物のトウモロコシの粒が貨幣として使われていた。スペイン人の記録によれば、食べ物を買いに来た女は、まず品物のまえの地面にトウモロコシの小山を作り、売り手が納得するまで小山に1粒ずつ足していったという。
 1500年代から1600年代にかけてアメリカ大陸にやってきたヨーロッパ人がみんな、コルテスやピサロのような探検家や征服者だったわけではない。 新天地を求めて旧世界に別れを告げてきた開拓者もいた。かれらにとってトウモロコシはただの珍しい植物ではなかった。 このアメリカの穀物は、未知の危険にみちた土地で彼らを餓えから守ってくれる食糧となったのだから。
 1620年、北アメリカの海岸にたどりついたイギリスの入植者たちが、新世界での最初の冬を生きのびることができたのは、ワンパノアグ族のインディアンから入手したトウモロコシのおかげだった。 その後、ワンパノアグ族が入植者たちにトウモロコシの栽培方法や料理の仕方を教えた。プリマス植民地総督ウィリアム・ブラッドフォードは、トウモロコシの贈り主であるアメリカ先住民よりも神に感謝した。 「われわれがこの穀物を発見できたのは、間違いなく神の配慮によるものだ。これがなかったらわれわれはどうなっていたことだろう」(ブラッドフォード総督の言葉は、マサチューセッツ州、コッド岬のコーンヒルに建てられた記念碑に刻まれている。 そこで入植者たちはインディアンが隠しておいたかごいっぱいのトウモロコシを発見したのだ)
 ワンパノアグ族はほとんどのアメリカ先住民同様、トウモロコシを栽培するのが上手だったし、このもっとも大事な作物の栽培について長い経験をもっていた。 彼らは畝を作って種を植え、その横に肥料として死んだ魚を埋めた。同じ畝にインゲンマメもいっしょに植えることが多かったらしい。(中略)
 トウモロコシの栽培は、およそ8,000年前にメキシコではじまったらしい。コムギなどの穀物と同じようにトウモロコシもまた、野生だったものを人間が栽培できるようにした。 科学者のなかには、アメリカ先住民が一種の原始的なトウモロコシを改良して現在のトウモロコシを作ったと考える人もいるし、テオシントと屋バレル野生の草がトウモロコシの直系の祖先だと考える人もいる。
 メキシコや中央アメリカの一部で今でも発見されるテオシントは、現在のトウモロコシとあまり似ていない。それは茎が数本出ている小さな草で、それぞれの茎のつけ根には一列に並んだ粒がつき、粒はかたい種皮で覆われている。 しかし、この二つの植物は遺伝学的に近い関係にある。そこで科学者たちは、初期の農耕民が良さそうなものを選び出して繁殖させることにより、野生の草を現在のかたちのトウモロコシに改良したと考えたのだ。
 メキシコで栽培できるようになると、トウモロコシは瞬く間にアメリカ大陸全土に広まった。トウモロコシの栽培は、およそ4,000年前には、アンデス山脈の麓にあるペルーですでに始まっていた。 現在のアメリカ合衆国の南西部にあたる地域に住んでいた先住民は、隣のメキシコの住民からトウモロコシ栽培を学んだ。 そこからトウモロコシは北アメリカのほとんどの地域に伝わっていく。1500年代にヨーロッパ人がやってやってくるころには、南西部の砂漠地帯に住むズーニー族やホピ族から、北東部の森林地帯に住むイロクォイ族やヒューロン族まで、トウモロコシを栽培し主食としていた。 (『世界を変えた野菜読本』から)
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<ヨーロッパで普及するまで> トマトやジャガイモと同じように、トウモロコシもヨーロッパで普及するには時間がかかった。トウモロコシは次の様に優れた作物であった。 収穫量が多い。同じ面積でコムギのおよそ2倍の収穫量。 収穫までの期間が短く、ほかの穀物に比べて手間も暇もかからない。 様々な気候や異なった条件下で栽培できる。
 こうした利点がありながらヨーロッパではコムギが常食だった。その最大の理由はパンを作ることができないことだった。トウモロコシにはグルテンが含まれていない。グルテンはコムギに含まれているたんぱく質で、イーストと結びついてパンを発酵させふくらませる働きをする。トウモロコシはビスケットのように硬くてパサついていた。パンを常食とするヨーロッパ人にはなかなか受け入れられなかった。ごく一部の地域=ルーマニアやハンガリーなどヨーロッパ南東部の、貧しい人々は安くて収穫量の多い穀物だと気付いていたが、ヨーロッパのほとんどの地域では、トウモロコシは家畜やブタの飼料にふさわしい穀物だと考えられていた。
 1600年前半にスペインやポルトガルの小作農がトウモロコシを栽培し始めていたようだ。1670年代にイギリスの哲学者ジョン・ロックは、南フランスを旅行中にトウモロコシ畑を目にしている。彼は、その穀物がプレ・デスパーニュ(スペインコムギ)と呼ばれ、「貧しい人々の食欲を」満たしていることを知った。
 北イタリアでは、トウモロコシ粥はポレタンと呼ばれた。ポレタンはポリッジにあたる古いラテン語からきている。1780年にこの地方を訪れたドイツの作家ゲーテは、小作農の家族が毎日ポレタンを「そのまま何も加えずに食べたり、たまにすりおろしたチーズを振りかけて食べている姿」を記している。
<アフリカで普及するまで> ヨーロッパではトウモロコシは限られた地域でしか常食されることはなかったが、アフリカでは何百万人もの人がこのアメリカの穀物に依存するようになった。トウモロコシが初めてアフリカに伝わったのは、国際的に奴隷貿易が行なわれるようになってからだった。それは1400年代に始まり、ポルトガル人がアフリカの西海岸にやってきてアフリカ人を連れていき、ヨーロッパや中近東で奴隷として売った。1600年代にヨーロッパの国々が新世界に植民地を建設するようになると、奴隷の需要は大幅に増え、およそ300年のあいだ奴隷船は大西洋を横断して、多くのアフリカ人をアメリカ大陸のプランテーションへ運んだ。初期の奴隷商人は帰路につく際、新大陸からアフリカへトウモロコシを持ち帰った。トウモロコシは初めアメリカ大陸へ輸送されることになっている奴隷に、安くて手ごろな食べ物を供給するために西アフリカで栽培されていた。しかしそのうちアフリカの多くの地域で栽培されるようになる。それは育てやすく収穫量の多い、アフリカの人たちにとって最適の穀物であった。
<世界中に普及する> トウモロコシはアメリカ大陸から世界中を旅して、多くの人々の食生活や料理に影響を与えてきた。インド北部では1800年代にトウモロコシが常食されるようになったが、あまりにも広く行き渡ったので、多くのインド人が、トウモロコシは太古からインドの食事に欠かせないものだと思っているらしい。中国でのトウモロコシ栽培は1700年代まで南西部に限られていたが、1800年代になると北部にも広がっていった。現在中国のトウモロコシ年間生産量はアメリカについで世界第2位になっている。
 トウモロコシは現代では昔のアメリカ先住民には想像できないようなかたちで消費されている。一つはコーンオイルで、これは粒のなかの油分豊富な胚芽から作られる。胚芽はやわらかくしたトウモロコシ粒を現代の製粉技術ですりつぶして分離させる。もう一つはコーンスターチやコーンシロップで、残ったものをさらにすりつぶして加工するとできる。これらのトウモロコシ製品は、マーガリンやサラダドレッシングやパン・ケーキ類など沢山の種類の加工食品に使われている。このようにトウモロコシは、昔と同じように今もアメリカ大陸の人々の食卓をほとんど毎食のようにかざっている。
<トウモロコシの品種改良> トウモロコシがアメリカ大陸からせ買い各地で栽培されるまで長い時間がかかった、そして品種改良も本格的に行なわれるのは18世紀後半になってからだった。20世紀に入って、雑種強勢(ヘテロシス)を利用する一代雑種(F1ハイブリッド)による改良が始まるまでは、このやっかいな他家受粉植物の改良に、あの手この手の育種法が試みられた。
 第一の方法は品種混植法による改良で、1808年に発刊されたフィラデルフィア農学会誌によると、ニュージャージー州の農業主が、1772年に、ギニアから導入したフリント種と在来の早生種とを混合栽培して、早生で穂の大きい株から種子をとったという記録がある。 インディアンから贈られたトウモロコシに本格的な改良の手が加えられるようになり、品種混植法、集団選抜法、一穂一列法などの育種法が考案され、アメリカのコーンベルトの大穀倉地帯を形成する基本品種が生まれた。しかし、他殖性植物のトウモロコシは自殖性植物と違って、選抜された材料の受粉様式を厳密に制御しないと、選抜の高価があがらない。このため20世紀になって一代雑種を利用する育種がさかんになるまでは、トウモロコシの改良のテンポはゆっくりしたものだった。アメリカのコーンベルト地帯におけるトウモロコシの収量は、一代雑種の利用によってはじめて飛躍的に向上した。
 この新しい一代雑種合成法は、つぎのような手順で進められる。
(1) 自殖によって多数の系統をつくる。
(2) その中から優良な自殖系統を選抜する。
(3) それらを交雑する。
(4) 雑種強勢の顕著にあらわれる組合せを探す。
(5) この組合せの両親系統を自殖で繁殖させる。
(6) 毎年一代雑種を作って利用する。
<一代雑種法の進歩> この一代雑種を利用する方法、しばらくは普及しなかった。その理由、自殖系統間の交雑では、母本とする系統の生育が貧弱で、十分な交雑種子を生産できなかったことによる。そこでコネチカット州のジョンズは、自殖系統間交雑で得られる一代雑種どうしを交雑する複交雑法を提案した。雑種強勢のよくあらわれる4種の系統A,B,C,Dを用意する。AとBとの交雑で得られる一代雑種を母本とし、CとDとの交雑で得られる一代雑種を父本として、一代雑種同士を交雑する。交雑によって強勢化した一代雑種どうしの交雑で、農家に配布する種子を生産できるので、採種効果は高まった。この方法は一代雑種を2度行なうので、「二代雑種」とでも言うべき方法だ。 こうして普及した複交雑、しかし現代では生育旺盛な自殖系統が育成できるようになり、単交雑によく一代雑種種子の生産が効率よくできるようになった。このようにトウモロコシはアメリカでの品種改良により生産効率高まり、先進国では家畜の飼料用穀物として重要な農作物になっている。
<アメリカ⇒ヨーロッパ⇒アメリカでの品種改良⇒アフリカでの主要穀物>
  トウモロコシはアメリカで一代雑種方式による品種改良によって生産が拡大した。新大陸からヨーロッパに持ち込まれたトウモロコシは再度アメリカに持ち込まれ、 ここでF1ハイブリッドとして再度、世界に普及して行った。その恩恵はアフリカにおいて大きなものになった。アフリカではこのトウモロコシと、新大陸から持ち込まれたキャッサバが主要な生産穀物となっている。 アフリカでは、地元原産の農作物ではなく、アメリカを原産地とする農作物がヨーロッパに持ち込まれ、これがアフリカに持ち込まれて、アフリカの主要な穀物となった。 「地産地消」とはまったく違った普及の仕方であった。
 好奇心旺盛な人々が遠い地域から農作物の種を持ち込み、これを地元で育てて、品種改良をして、これが普及しゆたかな食生活を作っていったことになる。 「土の臭いのしない者の意見は聞かない」という日本の農業関係者の態度とは違う。世界の人々、日本の昔の農業関係者は、遠い地域で育ったの農産物も受け入れ、品種改良をして、ゆたかな農作物を育て、それによって消費者はゆたかな食生活を愉しむようになった。 これが歴史の教えるところだと思う。
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<食料からバイオエタノールの原料へ>  世界各地を転々とするうちに、各地で主要な農作物として扱われるようになったトウモロコシ、これが最近はまったく違って意味で注目されるようになった。 それは、アメリカでのバイオエタノールの原料としてのトウモロコシだ。これに関しては「バイオエタノールの普及が日本の農業を変える」と題して書いたので、それをここで引用することにしよう。
「トウモロコシの価格が2倍になったの。このチャンスを逃すわけにはいかないわ」  最近、テレビのニュース・報道特集でバイオエタノールを取り上げることが多い。アメリカではトウモロコシを原料にバイオエタノールが作られる。 このため需要が増大して、生産者価格が上昇し、農家は大豆の替わりにトウモロコシを生産するようになった。大豆の生産が減少したので、価格が上昇し、日本ではキューピーがマヨネーズの小売価格を値上げした。 この生産者価格の変化はその他の農産物の価格にも影響してくるだろう。
 5月8日のTVで、アメリカ、アイオワの農家が言っていた「トウモロコシの価格が2倍になったの。こんなの初めてよ。このチャンスを逃すわけにはいかないわ」と。昨年まで大豆を作っていた畑の、3割をトウモロコシに変えた、という。
 バイオエタノール(エチルアルコール)の原料はアメリカではトウモロコシであり、ブラジルではサトウキビを原料に、このバイオエタノールで走る車が全体の15%にものぼるという。
 平成16年度大豆の自給率は概算で3%。トウモロコシは0%。
 5月15日、NHK・TV「クローズアップ現代」では、日本で休耕田を利用してバイオエタノール用のコメを栽培する農家を取り上げて扱っていた。まだコストが高いので、政府の補助金に頼ることになる。
 日本では、この他にサトウキビを原料にした研究が進んでいる。二酸化炭素排出権取引の関係もあり、いつまでも輸入に頼っているわけには行かないだろう。沖縄でバイオエタノール用のサトウキビが栽培されるようになると、食用サトウキビの生産が減る。 こうした生産作物の変化が食料品の価格変動に影響してくるだろう。こうした食料以外の農作物の価格変動が日本の農業にどのような影響を与えるのか?農水省、農協などの対策はどうなっているのか?そして、それ以上に一般農かはどうなのか? バイオエタノールはコストが高いため政府の補助金に頼ることになる。ということは、農家が生産して、採算がとれるかどうかは、政府からの補助金次第ということになる。 農家が、生産を続けるかどうかは、農家が政治家に政治献金し、政治家が予算を獲得し、役所に働きかけ、農家に補助金が十分いくようになってこそ、農家がバイオエタノール用の農作物を栽培し、 国産バイオエタノールが普及することになる。こうしたレントシーキング構造では、贈収賄が起こる可能性が高くなる。コストダウンを図って市場価格で供給できるようにしないと普及は難しい。
 テレビでは積極的な農家が取り上げられるが一般農家はどうなのだろうか?
 @アメリカのように「儲かりさえすればいい」、との考えで作付を変えるようなことはしない。政府、農協、取引業者、補助金などの関係を変えることは難しい。A需要が増えたのだから生産を拡大するのは当然だ。 B将来は予想し難いので、周りの動きに惑わされることなく、今まで通り自分の信念に基づいた生産活動をする。C政府の方針を待ってそれに従う。 Dどうせ考えても分からないだろうから、考えないことにする。
「農家もビジネスマンなのです。常にどうすれば利益が上がるか考えています」  前述とは別のテレビ番組でアメリカの農家が話していた。「農家もビジネスマンなのです。常にどうすれば利益が上がるか考えています。遺伝子組み換えであれ、非遺伝子組み換えであれ、利益が確保されることが大切なのです」 遺伝子組み換えトウモロコシにすることによって収穫量が10%アップすると言う。食用のトウモロコシも普及しているアメリカは、バイオエタノール用に遺伝子組み換えトウモロコシの栽培に、関係者や市民運動家の反対運動はない。
 アメリカでは農家が大学や研究所と共同で、品種改良をはじめとする農業改革に積極的に取り組んでいる。「農業も産業であり、産学協同も当然」というのがアメリカの農業の現状のようだ。これからも産業としての農業改革が進むだろう。 アメリカ農業の強さは、広大な農地の広さだけではなく、こうした利益追求を当然のこととして取り組んでいることだ。日本やEUでは「農業は産業である」とは考えていない。 EUでは、欧州委員会農業総局前副局長=ディビット・ロバーツ氏がNHKテレビの取材に応えて 「農業は地域の活性化を維持する役割を果たしています。私たちは地域政策の中で農業を効率化しすぎないように、細心の注意を払わなければなりません。農業の効率化によって、地方に住む人が減ってしまうことになってしまえば、基本的な地方行政を維持していくうえでの人口が保てなくなるために、その地方は衰退していかざるを得ないからです。 我々は地域に雇用機会を様々なかたちで保証し、農村を活性化しようとしているのです」 と語っている。
「土の匂いのしない者の意見は聞かない」  マスコミはアメリカでの動きや、他の農作物の価格上昇について報道するが、日本の農家の反応は鈍い。 テレビでは休耕田を利用してバイオエタノール用のコメ栽培を始めた農家を取り上げていたが、こうした積極的な農家は少ないだろう。 これを機会に農業が変わる可能性があるのだが、実際の農家が変わるか、と考えるとどうも変わりそうもないように思われる。農業関係者の多くは「土の匂いのしない者の意見は聞かない」とか「鍬を持つ汗の匂いがしない者の意見は聞く必要はない」、という傾向がある。 「現場を知らない者が何を言うのか?」と、部外者の意見、知識・知恵を無視する傾向にある。
 バイオエタノール用のコメならば、遺伝子組み換えでも問題はないはずだ。これを機会に遺伝子組み換えの技術が進歩するといいのだが、「花粉が飛んで交雑する」と研究飼育にも反対するかも知れない。 農水省は数年前に、花粉症アレルギーの体質改善に効果のある遺伝子組み換えコメの開発に成功し、近々市場に提供するようなことを表明していたが、その後何も関連ニュースは聞かれない。 たとえ、アレルギー体質改善に効果のあるコメであっても、遺伝子組み換えには反対する農業関係者やその周りの市民運動家などが、圧力をかけるのは想像に難くない。
遺伝子組み換えによるインディカ米からのバイオエタノール  日本では減反政策で休耕田が増えている。農業関係者は水田の環境保全への貢献を主張する。けれども休耕田では、単なる空き地でしかない。 折角だから、ここでコメを作るといい。バイオエタノールならば味は関係ない。テレビでの農家は、飼料用のコメ品種として「べこあおば」を採用していた。普通の食用コメの2倍の大きさだと言う。これで収穫増を狙う。 こうした積極的な取り組み態度からは日本人の得意な品種改良や農業経営改革画を進めて「農業は先進国型産業である」を実証する可能性が高いと思う。
 抵抗勢力が強いので実現へは紆余曲折があるだろうが、日本でバイオエタノールを生産するには、@ジャポニカではなく、インディカ米の改良品種を栽培。例えば、「緑の革命」(green revolution)での主役、奇跡の米(ミラクル・ライス)と呼ばれた新多収短稈稲品種IR−8やIR-5の改良型。 A品種改良には遺伝子組み換え技術を使う。B補助金は出さず、市場で価格競争をさせる。C品種改良されたものには特許を与え、民間の種子会社をはじめバイオ技術を持った会社にインセンティブを与える。 D種子、栽培されたコメ・トウモロコシなどの取引市場を完備し、先物取引も行う。
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<京都議定書> 1997年12月11日に京都市で開かれた地球温暖化防止京都会議(第3回気候変動枠組条約締約国会議、で議決した議定書。 正式名称は、「気候変動に関する国際連合枠組条約の京都議定書(英 Kyoto Protocol to the United Nations Framework Convention on Climate Change)」。略称は<京都議定書(Kyoto Protocol)>。 先進国の温室効果ガス排出量について、法的拘束力のある数値目標を各国毎に設定。国際的に協調して、目標を達成するための仕組みを導入する(排出量取引、クリーン開発メカニズム、共同実施など)。 途上国に対しては、数値目標などの新たな義務は導入しない。
 この京都議定書に基づき、二酸化炭素の排出量を削減するため、排出権取引が始まり、車の燃料としてバイオエタノールが注目されている。
<バイオエタノール> トウメイリオ;モロコシ、サトウキビ、コメ、木材など植物を原料に、エタノール(エチルアルコール)を作り、ガソリンに混ぜて自動車の燃料とする。 エンジンに使えば二酸化炭素が排出されるが、原料である植物が二酸化炭素を光合成で吸収するので、総合的に判断してプラス、マイナスゼロと勘定する。バイオマスエタノール(バイオエタノール、Bioethanol)。
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<主な参考文献・引用文献>
『世界を変えた野菜読本』  シルヴィア・ジョンソン 金原瑞人 晶文社      1999.10.10
『世界を制覇した植物たち』    大山莞爾・天知輝夫・坂崎潮 学会出版センター 1997. 5.10
( 2007年10月22日 TANAKA1942b )
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(7)ケチャップにより一気に普及したトマト 
日本ではチキンライスによって普及
<トマトがなかったら、イタリア料理はどんなものになるだろう?>  トマトがなかったら、イタリア料理はどんなものになるだろう?辛くて刺激的なトウガラシがなかったら、インドカレーはどんな味になるだろう? もしジャガイモがなかったら、ドイツ人はどんな料理を作るのだろう?チョコレートがなかったら、フランス人のシェフはどうやってムースやエクレアといった、ほっぺたの落ちそうなデザートを作るのだろう?
 「(4)新世界からの貴金属以上の贈り物」ではこのように書いた。新大陸からやってきた農作物の中でもトマトはひときわ西洋料理をゆたかにした。今週はこのトマトについて扱う。
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<トマト>  今日、料理の世界でも食の世界でも至る所でトマトを目にする。スーパーの棚にはトマトの丸煮やトマトシチューの缶詰、それにトマトジュース、トマトペースト、トマトピューレ、トマトソースなどが並んでいる。 ニューヨークのファーストフードの店でも東京のファーストフードの店でも、客はハンバーガーやフライドポテトに甘くてちょっと辛味のきいたトマトケチャップをつける。 パスタやピザにはふつうトマトで作った風味のあるソースをかける。また丸くて大きなトマトは、つやつやして汁気があって味もよく、裏庭の菜園で育てられる野菜の中ではもっとも高く評価されている。
 現在ではトマトはほとんどの地域で食べられている。しかしつい最近になるまで、あちこちで変わった食品と見られ、いぶかしくうさんくさく思われていた。 1800年代半ばになるまで、ヨーロッパや北アメリカの多くの人々はトマトには毒があると思っていたのだ。なかには食べようと思った人もいたかも知れないが、なにしろ食べ方が分からなかった。 トマトはモモなどの果物のように色鮮やかで汁気が多いが、酸味とやや塩気がある。野菜なのだろうか、それとも果物なのだろうか?生で食べた方がいいのだろうか、それとも煮て食べた方がいいのだろうか?いったいどんな種類の食物なのだろうか?
 1500年代前半になるまで、この奇妙な果実を見たり聞いたりしたことのある人はヨーロッパにもアジアにもアフリカにも、だれ一人いなかった。 トマトはトウモロコシ、ジャガイモ、トウガラシと同じようにアメリカ大陸だけで栽培され食べられていたものの、これらの重要な作物と違い、新大陸でも広く栽培されていたわけではなかった。 トマトを世に送りだした功労者は、昔のメキシコ、とくにアステカ族の人々なのである。
 トマト属に入る野生の植物は、いまでも南アメリカの西側、アンデス山脈周辺の多くの地域で見つけることができる。 しかし、この地方に住んでいた古代の人々は、トマトを栽培植物として育ててはいなかったようだ。野生の植物を改良してトマトの栽培を始めたのはメキシコ人だった。 おそらく南アメリカから鳥が運んできた種子が芽を出したのだろう。
 トマトを目にした最初の旧世界の人間は、1519年にアステカ帝国を侵略したコルテス一行だった。この作物にあまり心を動かされなかったか、あるいは広く使われていなかったかのどちらかなのだろう。 トマトをアステカ族の食生活に登場する食材として記録したスペイン人はほんの数人にすぎない。(中略)
 スペインの征服者たちは1500年代前半に赤い tomatl と共にそれ以外の数種類の種もスペインに持ち帰ったと思われる。しかしこれらはどれもヨーロッパ世界ではあまり歓迎されなかった。 1554年にトマトはいくつかの植物誌に登場し始めるが、その料理法や原産地に詳しい人はいなかったようだ。 イタリアの作家ピエトロ・マッティオリは、トマトはもう一つの珍しい野菜、ナスと関係があるとし、二つの植物の類似性(実際、両方とも植物学上同じナス科に属す)を指摘した。 また、「トマトはナスと同じように料理する。油で炒めて塩とトウガラシで味つけする」とも書いている。
 トマトは1500年代の末ごろにさらに知られるようになったが、ヨーロッパの大部分の地域ではあまり人気がなかった。 1597年にイギリスの植物学者ジョン・ジェラードは、植物全体が「いやな臭いを放つ」(おそらく葉の強い臭いを言ったのだろう)と書いている。 トマトは「スペインやイタリアなどの暑い国々」で栽培され、「塩、トウガラシ、油で味つけして煮込んで食べるが、栄養はほとんどない」とも書いている。 (『世界を変えた野菜読本』から)
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<トマト 世界への伝播と品種改良>  トマトの野生種に「ペルビアーナム」と名づけられたものがあるように、その原産地はアンデス山脈の太平洋側のペルー、エクアドル、ボリビア地方です。 この山岳地帯には多数の野生種を見いだすことができ、有史以前にインディアンによってメキシコに伝えられ、現在の栽培種になったと言われます。
 トマトという名前の由来は、メキシコのアステカ文明で使われていたナワテル語の「トマトゥル」から来ています。 「トマトゥル」とは元来「ホウズキ」を指し、「膨らむ果実」を意味しています。メキシコでは、ホウズキを煮込んで料理に使用していたことから、ペルーから伝わったトマトを食べることにも抵抗感はなかったと推測されます。 そして、トマトはメキシコで野生種から栽培種に進化したと言われています。これは、いかにアステカ文明の農耕技術が進んでいたかを示しているものであると思います。
 しかし、そのアステカ文明はスペイン人によって滅ぼされます。また、原産地であるペルーはインカ帝国が栄えたところですが、この地も1533年スペイン人のピサロによって滅ぼされました。 この点を考えると、トマトはこれら文明の遺産であるとも言えます。 BR> このような変遷をたどり、トマトはスペイン人によってヨーロッパに運ばれたとも、コロンブスが第2回目の公開でヨーロッパに持ち帰ったとも言われています。 しかし、ヨーロッパ伝播後しばらくは観賞用植物として利用されました。食用になるまでにはかなりの時間が必要であり、その理由は学名から理解することができます。
 学名は、「リコペルシコン・エスクレンタム」と言います。一般的には「リコペルシコン」の「リコ」は狼という意味で活力を表し、「ペルシコン」は桃、「エスクレンタム」は食べられるという意味で、 すなわち、「食することができる狼の(活力がでる)桃」ということになり、一種薬草のイメージがありました。また一方では、古代ギリシャの医学者ガレノスが有毒植物に名付けた「リコペルシオン(リコ=狼、ペルド=殺す)」に由来しているとも言われ、トマトが有毒植物であるかのように思われたことにもよります。
 いずれにしても、最も古いトマトの記録は、1544年イタリアはベニスのマッティオーリによって著された『コメンタリ』にあります。 この中で「トマトは熟すると黄色」と記述され、はじめてヨーロッパに伝わったトマトは黄色であったことがうかがえます。しかし、10年後の改訂版では「熟すると黄色になるものと赤色になるもの」と表現されています。 このころからイタリアでは料理への利用が盛んになります。中国では、「青、黄、白、黒」の5色がると料理が美味しく感じると言われていますが、ヨーロッパにおいてもトマトの赤色が料理の色彩に重宝がられたと考えられます。
 一方、イギリスでは1596年、植物学者ジェランドが自宅の庭園でトマトを栽培し、それを試食しています。ただし、彼のトマトに対する評価は低く、栄養的に推奨できないと言い切っています。 また、17世紀半ばごろ、トマトの栽培が法令で禁止されたこともあります。そのため、イギリスでは1750年ごろにウスターソースの材料としてトマトが着目されるまではトマト栽培は盛んになりませんでした。 同じヨーロッパでもトマトの受け入れ方にずいぶんと相違が見られます。
 17世紀になって、イタリアでは収穫後すぐに料理に利用する形から瓶に詰めて保存する形に急速に発展を遂げています。イタリアのトマト加工は、1811年フィリッポ・リーによって始められ、缶詰の製造原理を応用してトマトの保存品が作られました。 1875年には北イタリアでフランチェスコ・チリオによって本格的ば青酸が始まっています。伝統的なトマト加工品として缶詰トマトをあげることができますが、1900年の初め、「サンマルツァーノ」品種の出現で、さらに盛んになっていきます。(中略)
 イタリアをはじめとする南ヨーロッパではトマトは加工用として発展したのに対し、フランス、イギリスなどの北ヨーロッパでは、低温、低日照のため温室栽培が行われ、生で食べることが中心でした。赤い小玉の「ベストオブオール」、桃色の「フルーツ」などの品種がイギリスで作出されています。 これらの品種は、後にアメリカや日本にも渡っています。
 アメリカへのトマトの伝播は、栽培種のトマトの故郷である隣接のメキシコからではなく、1789年にサント・ドミンゴからフランスの亡命者によってフィラデルフィアにもたらされたのが最初と言われています。
 そのアメリカでトマトの効用を初めて説いたのは、1806年、フィラデルフィアのマクマホンです。その後、積極的にトマトを食することを薦める意見が出されましたが、依然として多くの人々はトマトを有害なものと考えていました。 無害であると思われ出したのは1830年代になってからです。(中略)
 さらに、アメリカでトマトケチャップの需要が爆発的に伸びる食品ができました。 それがホットドッグです。1893年シカゴの万国博に、焼いたフランクフルトソーセージを細長いパンに挟み、トマトケチャップをかけたものが売り出されました。 簡単に調理でき、手軽に食べることができます。価格も安く、万国博に来た穂とたちに喜ばれました。これを契機に、トマトケチャップが手軽な調味料として定着しました。
 現在、カリフォルニア州ではではて大規模な農場できわめて効率良く栽培され、大型の機械で収穫されています。これらのトマトは機械衝撃あるいは大量輸送に耐えるため、キャッチボールをしても壊れません。代表品種として、「UC134][UC82]があります。 しかし、生産効率を追求したため、粘度が高くなりジュースには適さないという問題が生じています。 (『世界を制覇した植物たち』から)
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<トマトを食べた男を見て、失神する婦人が続出した>  1820年9月26日、アメリカ合衆国ニュージャージー州、セーラムの裁判所には、2,000人の群集が集まっていた。 ある勇敢な軍人が”毒草”トマトの実をみんなの目の前で食べてみせると予告したのを聞きつけて、集まった人々であった。
 人々の視線の先には、ひとりの陸軍大佐が悠然と裁判所の階段に坐っていた。彼の名はロバート・ギボン・ジョンソン。 ジョンソン大佐は自宅の畑で育てたトマトを、この日、公衆の面前で試食してみせると宣言していた。このあたり一帯の大地主であり、州の農業委員会のメンバーを務めていた彼は、トマトが無害の食べ物であり、南ジャージーの砂地でも栽培できることをPRしたかったのである。
 このジョンソン大佐の”勇気ある”宣言に対して、町医者のミーター博士は「トマトは有毒である。したがって、大佐はたちどころに発熱して死ぬであろう」と断じていた。 集まっていた人々は誰もが、ジョンソン大佐がトマトをかじった瞬間、その場で泡をふいて昏倒するのを半ば期待してやってきていたのだった。
 刻一刻と予告された時間が迫ってくる。おもむろにジョンソン大佐が立ち上がった。
 「お集まりの諸君、とくとご覧ください」
 皆、固唾をのんで見守るなか、ジョンソン大佐がトマトにかぶりついた途端、観衆のなかから悲鳴が起こり失神する女性が続出した。 そして、それからすぐ悲鳴は感嘆のどよめきに変わった。もちろんジョンソン大佐には何も起きなかった。それどころかジョンソン大佐は美味しそうにトマトをペロリと食べてしまったのであった。
 これは、トマトが北アメリカに広まりつつあった19世紀の初めごろ、トマト有毒説が信じられていたことを示すものとして、よく知られている有名なエピソードである。 自らトマトに毒がないことを証明してみせた「勇気ある男」は、いまもセーラムの人々の語り草となっており、セーラムでは、1989年から4年間、「ジョンソン・デイ」と称して、この9月26日の出来事を再現する祭りを実施した。 この祭りの様子を取材しにイギリスのBBCもセーラムを訪れている。
 これはアメリカではきわめて有名な話で、専門書や学術書、ニューヨーク・タイムズもこのエピソードを取り上げている。 食物史家のジャン・ロンゴーンにいたっては、セーラムの逸話を「アメリカのメジャーな新聞と雑誌に取り上げられる回数の最も多いエピソード」と紹介しているほどだ。
 しかし、じつをいうと、この話にはそれを裏付ける確固たる証拠がないのである。1820年9月26日以後のどのアメリカの新聞を見ても、この事件を報道している記事はないし、それを記録した文献も見つかっていないという。 それでもこの話がこれほど有名になり、伝説となって、アメリカはおろか世界中に流布したのは、ひとえにトマトという野菜に、人々の強い関心をひく何かがあるからにほかならない。
 こうすた事実とも伝説ともつかぬトマトにまつわる話は、アメリカだけでなく世界各地に数多く残されている。
 もはや地球上で食べてない国はないと言ってもいいほど、人々の生活になじみ深いものになったトマトだが、じつは、それはこの200年ぐらいの間の急速な変化にすぎない。 たった200年でこれほど評価の変わった野菜も珍しい。
 当初、トリカブトやチョウセンアサガオのように毒草と思われ、人々から敬遠されていたトマトは、どんな国でどんなふうに食べられるようになっていったのだろうか。 (『トマトが野菜になった日』から)
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<トマト 日本への伝播と品種改良>  日本にはポルトガル人によって17世紀に初めて伝えられました。1708年、貝原益軒の書いた『大和本草』ではホウズキヨリ大ニシテ」と表現され、唐柿として記されています。 また、1859年の飯沼慾齋が著した『草木図説』では六月柿と呼ばれています。六月柿とは御所柿と似ていること、そして夏(六月)に収穫されたことによります。 この時期までは観賞用でした。1875年、『西洋野菜そだて草』の中では、図解入りで説明されています。この時期、食べられるとともに竹垣を柱にした栽培(有支柱栽培)が行われていました。 また、日本で最初に契約栽培を行ったのが「少年よ、大志をいだけ」で有名なクラーク博士です。彼はアメリカから日本に来て食事に困りました。 とくに西洋野菜がなく、そこで近くの農家にトマトの栽培を依頼したのが始まりです。 (『世界を制覇した植物たち』から)
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<トマト 日本へはチキンライスの流行によってトマトケチャップが定着?>  アメリカでは、ハンバーガーやホットドッグでトマトケチャップが定着しましたが、日本では、チキンライスの流行によるところが大きいと言われています。 大正から昭和にかけて、「最新割烹指導書」や「料理相談」の中にチキンピラフやチキンライスが記載されています。
 チキンライスは、鶏肉とタマネギを炒め、そこんひ冷やご飯を入れ、さらに炒め、最後にトマトケチャップで味つけします。 アメリカでトマトケチャップが定着したのと同じように、簡単に調理ができることから、日本の家庭に受け入れられたのでしょう。 とくに、子どもたちにとっては、西洋の野菜であるトマトやタマネギ、そして鶏肉というハイカラな素材が使われており、ごちそうに見えたに違いありません。
 戦後になってからは、オムレツの中身がチキンライスに代わり、オムライスができあがります。これにより、さらに大流行となりました。 この時代になって、やっと生トマトが食卓にのぼるようになります。日本では、トマト加工品の方が早く食生活に利用されたことになります。
 ところで、チキンライス1人前を作るのに、トマトケチャップは約50グラム使われます。これを、生トマトに換算してみますと、約100〜150グラムになります。 健康を維持するためには、一般に緑黄色野菜の1は、日の摂取量は150グラム。チキンライスを食べることで、ほとんど摂取できることになります。 また、トマトの赤色色素であるリコピン抗酸化作用(癌予防、老化抑制など)があります。これまでチキンライスは子どもの食べ物というイメージがありましたが、今後は、大人の食べ物として位置付けていいのではないでしょうか。 (『世界を制覇した植物たち』から)
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<トマトの品種改良> アメリカには1860年頃イギリスやフランスから導入された。1910年頃にかけては、偶然変異の選抜や純系選抜法によって、ポンデローザ、アーリアーナ、ボニー・ベストなどの優れた品種が育成された。さらに1911年から1935年頃には、品種間交雑に重点をおいた改良で、地域適応性や輸送加工性に優れた品種が多く育成された。1936年以降は一代雑種の利用が急速に普及するようになった。
  トマトの品種改良、それには他の農産物とは違った目標を持った改良が行なわれた。『世界を変えた作物』から引用しよう。
<機械で採るトマト>  わが国のトマト栽培は、ほかの野菜類と同様に、多肥集約の支柱栽培が多い。促成栽培や抑制栽培な作型が分化し、1年中市場に出回っている。 園芸加工品の中では、果樹のミカンと野菜のトマトは重要な位置を占めている。最近では、農産物の貿易自由化の波に中で、生産コストの低減が大きな課題となっている。 とくに、加工原料としてのトマトの生産は、国際的な競争力に乏しい。たとえば、1トンのトマトの生産に必要とされる労力をみると、日本はイタリアの3.5倍、アメリカの9倍にも達している。
 アメリカのトマトの生産コストがきわだって低いのは、トマトの品種改良によって、もっとも多くの労力を必要とする収穫作業を機械化したことによる。 (『世界を変えた作物』から)
 サンフランシスコから双発のプロペラ機で、サクラメントに飛んだときの話である。海岸山脈を越えてセントラル谷に入ると、色タイルを敷き詰めたような模様が眼下に開けた。西の海岸山脈と東のシェラネバダ山脈にはさまれて広がるセントラル谷は、温暖な気候とサクラメント川の豊かな水に恵まれて、みごとな灌漑農業を発達させていた。色タイルのように見えた模様のなかの赤い部分がとくに目についた。双発機がサクラメントに近づき高度を下げたとき、赤いタイルがなんとトマト畑であることがわかった。トマト畑を大型コンバインが走り、トマトが機械で収穫されていた。これは、著者の一人が、もう10年以上も前にアメリカで見た光景である。 (この本は1985年初版)
機械で収穫できるトマトの改良は、まず草丈の短縮。2メートル以上の草丈になると支柱を立てて茎を固定することになる。 しかし支柱があると機械収穫ができない。草丈の低い矮生と呼ばれる突然変異体を利用し、草丈の低い品種を改良した。
機械収穫に必要な第2条件は、均一な成熟だ。機会で一気に収穫するには果実がいっせいに成熟する必要がある。
第3の条件は、果実の離脱性が優れていること。普通の栽培ではあまり取れやすいと、収穫前に落ちてしまうので、逆に離脱しにくい方に改良がされていた。
そして第4の条件は果実の破損耐性。トマトは薄い果皮と多汁質の軟らかい果肉からなっているので、少しの衝撃でも果実が破損しやすい。 機械収穫に適したトマト品種育成では、衝撃に強いことが最も大切であった。
 1942年、アメリカのトマト栽培家ジョンゲニールが思いついた、トマトを機械で収穫すること、これは約20年かけて達成された。矮性化で無支柱栽培を可能にし、心止まりで果実の成熟をそろえて一斉収穫を可能にし、果実の小形化、細長化、硬質化によって損傷にたえるようにし、さらに離脱性を適度につけて、機械収穫用トマトの改造は成功した。 このトマトの改造は、アメリカならではの資本主義的機械文明の落とし子といえよう。 (『世界を変えた作物』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『世界を変えた野菜読本』  シルヴィア・ジョンソン 金原瑞人 晶文社      1999.10.10
『世界を制覇した植物たち』    大山莞爾・天知輝夫・坂崎潮 学会出版センター 1997. 5.10
『トマトが野菜になった日」             橘みのり 草思社      1999.12.25
『世界を変えた作物』            藤巻宏・鵜飼保雄 培風館      1985. 4.30
( 2007年10月29日 TANAKA1942b )
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(8)ヨーロッパにはなかったマメ類やナッツ 
インゲンマメ・ピーナツ・カシューナッツ
<インゲンマメ> コロンブスは。アメリカとヨーロッパの「果物」と」「草木」には「昼と夜ほどの違いがある」と言ったが、彼の言葉は当たらずと言えども遠からずだった。 たしかに、全体がすっぽりと皮に包まれ、その中にまるまるとした粒が並んでいる穂を付けた背の高いトウモロコシ、あるいはアメリカ先住民が作る特別な飲み物の材料、カカオ豆が実るカカオの木のような不思議な果物、あるいはピーナツのように土の中で育つ「木に実」も見たことがなかった。
 しかしアメリカの作物の中にはあまりエキゾチックと言えないものもそのよい例がある。実際、ヨーロッパで栽培したり食べたりしているものととてもよく似た作物もあった。 その良い例が新世界のマメだろう。アメリカ原産のマメはそのうちヨーロッパで広く使われるようになるが、ヨーロッパ人によって発見された当時はあまり注目を集めなかった。 コロンブスをはじめとする探検家たちはヨーロッパのマメをよく知っていたので、アメリカ大陸の新種のマメもまた、何千年ものあいだ人間の食生活にとり入れられてきた作物と同じ科に属しているのだろうと考えていた。
 エンドウマメやレンズマメのようなマメは、マメ科と呼ばれる植物のグループに属している。
 莢(さや)に入っているこれらの植物の種子は、人類が食べたもっとも古い食物の一つである。人類は最初は野生の草からマメを集めていたが、やがて農耕を始めるようになると、これらの草を栽培し、より大きくおいしいマメを作ろうと改良を重ねた。
 多くの古代文明では一般庶民はほとんど毎食、ポリッジやスープやシチューに乾燥させたレンズマメを入れて食べていた(旧約聖書のエサウの家督相続の話に出てくる「一椀のあつもの」とはそのような料理をいう)。 マメはまた古代の多くの地域で食べられていた。中国をはじめとするアジアの地域ではダイズがもっとも重要なマメだったが、アズキやリョクトウなども欠かすことはできなかった。 ヨーロッパでは、ファーバビーンつまりソラマメがいちばんよく食べられていた。
 古代ギリシャやローマの人々は乾燥させたソラマメをニンニクやタマネギといっしょに料理して食べていたし、ときには莢のついたまま鍋に入れて料理することもあった。 日々の食事における重要な役割に加えて、というよりおそらくそれゆえに、ソラマメは象徴的な意味をもっていた。ローマ人にとってソラマメは自然な生命のサイクルと結びついており、死者の魂と、出産や種の植え付けによって生まれた新しい命を象徴していたのだ。 ギリシャ人もまた、ソラマメの重要性についてローマ人といくらか似た考え方をしていたが、彼らはもっと実用的なことにも使っていた。 ギリシャの政治の世界では、ソラマメは票を集計するのに役立っており、投票箱のソラマメは、一粒一票を表していたのだ。
 中世のヨーロッパでも一般庶民は相変わらずソラマメを常食していた。たんぱく質を含むソラマメ(やほかのマメ類)が、肉食をほとんど取らない食生活では不足しがちな栄養素を補ってくれたからだ。 ヨーロッパやアジアではコムギ、アワ、あるいはコメといった穀物といっしょにマメを食べていたが、そうするとマメの栄養価はさらに増す。 マメは何百万もの人々の食生活に不可欠だったにもかかわらず、中世ヨーロッパふぇはローマ時代のような象徴的な意味はなかった。 「マメほどの価値もない」(何の価値もない)あるいは「豆の山」(価値の少ないもの)という1300年代に生まれた慣用句は、ヨーロッパ人がこの主要な食べ物をどう位置づけていたかをよく表している。
 1400年代後半、コロンブスなどの探検家がヨーロッパから出航するときには、乾燥させたマメがいっぱい詰まった樽が船倉に積み込まれた。 長い航海のあいだ、乗組員はゆでたソラマメやレンズマメ、地中海沿岸地帯で常食されていたヒヨコマメ(ガルバンソ)を食べていた。 そしてアメリカ大陸に着いたヨーロッパ人は、インゲンマメという新世界を発見したのだった。
 だがアメリカ大陸のマメのなかに、ヨーロッパ人の食事に欠かせないあの見慣れたソラマメはなかった。新世界で栽培されていた品種はヨーロッパのものとはまったく違っていたのだ。 その中には、今まで世界中に知られるようになったマメがたくさんある。赤インゲンマメ、サヤインゲン、黒インゲンマメ、白インゲンマメ、黄インゲンマメ、ライマメ。 これらのマメはどれも植物学上はインゲン属に入り、その多くは何百年もまえにアメリカ先住民によって品種改良されたものだった。 (『世界を変えた野菜読本』から)
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<ピーナツ>  「アメリカ的な」食べ物と言えば、まずピーナツだろう。アメリカ合衆国の野球場やサーカスや動物園では、殻つき殻なしを問わず炒ったピーナツを食べるものと決まっている。 現在では飛行機のなかでも食べる習慣ができ、空の旅を楽しみながらお召し上がりくださいとばかりに、乗客にはからっと炒ったピーナツの袋が配られることが多い。 またピーナツバターはアメリカの子供たちの大好物だ。そしてアメリカ合衆国の歴史にもピーナツは登場する。合衆国を二分するもっとも深刻な戦いとなった南北戦争中に、北軍の兵士も南軍のへいしもピーナツを食べ、ピーナツの歌をうたった。
 ピーナツはまさにアメリカ人の食べ物だ。アメリカ大陸が原産地であり、いまではアメリカ人の生活にとってなくてはならないものになっている。 しかしアフリカやアジアでも長い歴史をもち、はるかに重要な役割を演じてきた。
 南アメリカこそ今から3000年以上も前にピーナツが初めて登場した場所であり、古代のペルー人は野生のピーナツを栽培し、乾燥した海岸地方の砂土で作物として育てていた。 ピーナツがこの地域で常食されていたことは、考古学的な発掘から明らかになっている。数千ものピーナツの殻が多くの発掘現場で発見されたのだ。 乾燥した気候のせいで殻は現在まで残っていたが、それは少なくとも紀元前2500年のものである。
 ピーナツが古代のペルーで重視されていたことを示す手掛かりが、紀元100年から紀元800年にこの地方に住んでいたモチュ族の墓で発見されている。 副葬品の中に、ピーナツの殻を象った装飾のある陶器があったのだ。もっと後の時代になると、インカ族の墓にピーナツやトウモロコシ、インゲンマメやトウガラシの入った小さな手提げ袋が多く見られるようになる。 これらの作物は現世でも来世でも大事なものと考えられていたらしい。
 紀元前500年以前に、ピーナツは原産地南アメリカからメキシコへ伝わっていた。アステカ族はピーナツを栽培したものの、それは食生活で重要な役割を演じることはなかった。 それどころか彼らは、ピーナツを食物というより薬として考えていたようだ。サアグン修道士の本によれば、アステカの市場でピーナツは、「ハーブの知識と根菜の知識をもった治療師」である「薬屋」で売られていたという。 粉にして水に溶かしたピーナツが解熱剤として使われていたらしい。
 ピーナツはまたカリブ諸島でも栽培されていたが、そこでは重要な食糧だった。1535年から書き始められたスペイン人の記録に、エスパニョーラ島の人々が栽培しているマニという名の植物のことが載っている。 「彼らはその種を播き、やがて収穫する。それは殻に入っており、マツの実くらいの大きさの……あるふれた作物である。人々はそれが体にいいと思っている」
 1500年前半、スペイン人とポルトガル人が南アメリカを侵略したとき、ペルーがブラジルなどの地域でピーナツが栽培されているのを発見した。 南アメリカではピーナツは、マンドゥビとかマンディという名前で知られていた。ヨーロッパ人は、先住民はピーナツを食べていると報告しているものの、彼ら自身はピーナツに対して用心深かった。 1600年前半にペルーで暮らしていたスペイン人司祭ベルナベ・コボは、ピーナツを食べると頭痛やめまいのような軽い症状が出ると訴えている。 南アメリカにいたヨーロッパ人のなかには、ピーナツはアーモンドの代わりに使うのだろうと考える人もいれば、一種のコーヒーを作るために炒って挽くのだろうと考える人もいた。 しかし、この新しい食べ物に夢中になる人はほとんどいなかった。
 ヨーロッパ人がこんなに冷ややかな反応をした理由の1つは、彼らの目にこの植物がじつに奇妙に映ったからだろう。 かたい殻に包まれた実の部分については、ピーナツはヘーゼルナッツやアーモンドのような旧世界の木の実と似ている。しかし馴染みのナッツが木に実るのに対して、アメリカの「ナッツ」は土の中、つまり背の低い草の根に実るのだ。(中略)
 1500年代に初めてピーナツの存在を知ったヨーロッパ人は、それが馴染みのある木の実とは妙に違っていることに気づいた。 おそらくスペイン人とポルトガル人が持ち帰ったのだろうが、ピーナツは広く栽培されることはなかった(ヨーロッパの大部分の気候はピーナツを栽培できるほど暖かくなかった)。 そのかわりトウガラシと同じように、ピーナツはアフリカやアジアに新天地を見つけた。
 トウガラシ同様、最初にピーナツをアフリカに持ち込んだのはポルトガルの承認と船乗りだった。ピーナツはすでに1560年代にアフリカの西海岸で栽培されており、その同じ地域でポルトガルなどのヨーロッパの奴隷商人が奴隷売買をしていたのだ。 インド南部にピーナツを紹介したのはポルトガル人だが、アジアのほかの地域に紹介したのはおそらくスペイン人だろう。
 アメリカ大陸のスペイン植民地は1500年代後半には、スペインが支配するフィリピン諸島と貿易航路によって結ばれていた。 スペインの大型帆船、ガリオン船の船団はメキシコの西海岸から太平洋を横断して数千キロも離れたフィリピンのマニラ港へ向かう。 マニラぬ向かうガリオン船は新世界の特産物やメキシコの鉱山の銀を積み込み、絹、香辛料、磁器などの東洋の珍しい品々の購入にあてた。 帰りはメキシコのアカプルコ港でこの高価な積み荷を降ろし、そこで待ち受けていたヨーロッパの貿易商人と取り引きするのだ。 多くの新世界の商品とともにピーナツもこの航路で運ばれ、フィリピンから中国、日本、東インド諸島へと伝わっていった。 アメリカ大陸のマメは数千キロも者離れたこれらの地域へ到着すると、すぐに根付いた。
 アフリカでピーナツはトウモロコシやキャッサバ(もう1つのアメリカの作物)と同じように、深刻な栄養不足を補ってくれた。 アフリカ大陸は広大で気候や地形も変化にとんでいるにもかかわらず、耕作に適した作物がほとんどなかった。そこで育てやすいだけでなく、ひどく不足していた栄養分を補給してくれるピーナツはとりわけ歓迎されたのだ。 ピーナツはその26パーセントがタンパク質で、健康に良い植物油が含まれている。1500年代にピーナツがアフリカに到着すると、肉をほとんど取らない人々の食生活に貴重な栄養素が加わることになった。
 北アメリカではのちにスナックになったが、西アフリカではたちまち日々の重要な食材になった。 炒ったピーナツは挽き割りにしてから青菜と混ぜた。また挽き割りにしたピーナツを、ヤムイモ、トマト、オクラなどの野菜で作った濃厚なスープやシチューに混ぜることもあった。
 現在、西アフリカの多くの国や部族には、それぞれ独自の特別な「グランドナット」シチューの料理法がある(「グランドナット」はアフリカの英語圏で使われているピーナツを表す言葉)。 ガーナでは「ンカテクワン」と呼ばれ、キャッサバやヤムイモやプランテーン(一種のバナナ)を煮てすりつぶして作った団子、フーフーと一種に食べるのが普通だ。 マリやセネガルのバンバラ族は、マフェという名の一種のピーナツシチューを作る。このシチューのほかに、鶏肉、オクラ、トマト、サツマイモといった材料を入れる。
 ピーナツがアジアにたどり着くと、アフリカの場合と同じようにたちまち毎日の食事に欠かせないものになった。東南アジアの人々は、挽き割りピーナツがコメや肉や野菜にかけるソースにピッタリなことに気づいて、ピーナツにトウガラシやココナッツミルクやライムの果汁などさまざまな種類の材料を混ぜて辛味のあるソースを作った。 今日インドネシアやタイでは、串に刺して焼いたやわらかな肉料理、人気の軽食サテーを食べるときは必ずピーナツソースを添える。 (『世界を変えた野菜読本』から)
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<アメリカのナッツ>  もっとも重要なアメリカの「木の実」(ナッツ)であるピーナツは、厳密にいうと木の実ではなくマメだ。しかしアメリカ大陸の本物のナッツのうち少なくとも1つは外国を旅してきた。 それは南アメリカの熱帯地方原産のカシューナッツで、今まではアジアやアフリカでも栽培されている。カシューナッツは、植物学上アメリカタウルシやウルシ やマンゴーやピスタチオと同じウルシ科に属しており、腎臓の形をしたカシューナッツは汁気の多い黄色や赤の「カシューアップル」の底で大きくなる。 カシューアップルは果実ではなく花柄(かへい)が肥大したもので、滑らかな殻に包まれた白い粒のナッツが正真正銘のカシューナットノキの果実である。
 大昔のブラジルの先住民はアカシューと呼ばれたカシューナットノキを育て、アップルの部分もナッツも食べ物として利用していた。 ポルトガル人はこの変わった植物を発見するとその名をカシューと縮め、その実を東アフリカや、インドをはじめとするアジアの地域に持っていった。 カシューナットノキはこれらの地域に根付くようになり、現在ではインドがカシューナッツの最大の生産国であり、モザンピーク、タンザニアといったアフリカの国々がこれに続いている。
 カシューナッツはピーナツと違い、料理の世界で重要な食材にならなかった。現在は主に塩味のついたナッツとして食べられるか、お菓子に使われる程度だ。 世界の大部分の地域でカシューアップルは捨てられているが、ブラジルではそのジュースが飲まれ、インドやアフリカの一部ではアルコール飲料の製造に利用されている。 カシューナットノキのもう一つの変わった産物は、CNSL(カシューナッツ・シェルリキッド)と呼ばれる、殻の内側に実から取り出した油性の液体だ。 これはアメリカつたうるしウルシの樹液のように皮膚につくとひどくかぶれるが、熱を加えれば毒を取り除くことができ、さまざまな工業用途に利用できる。 CNSLは車のブレーキライニングで使用される樹脂だけでなく、ペンキやワニスの原料にもなる。
 カシューナッツのほかに、ペカン、ペカンヒッコリー、ブラジルナッツ、クログルミといった数種類の本物の木の実がアメリカ原産だが、ほとんどのものは故郷を離れることもなく、世界に知られないまま今日に至っている。 (『世界を変えた野菜読本』から)
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<カカオ>  イタリア人ジローラモ・ベンゾーニは、1500年代半ばに中央アメリカを訪れた際、土地の住民が珍重しているという飲み物の話を聞いた。 「わたしはある部族の村を通りすぎようとしていた。インディオが振る舞ってくれると言うのを断ったりしたら、さぞ驚かされることだろう」とベンゾーニは報告している。 彼がその飲み物を口にしたのは、アメリカ大陸に着いて1年以上も経ってからだった。「さすがに水だけは飲む気がしなかったので、ほかの人にならってわたしもそれを飲むことにした。 苦みの強い味だが、渇きはとまったし、元気が出てきて、酔うこともなかった」
 先住民には「何よりも貴重なもの」と考えられていたこの苦い飲み物は、チョコレートでできていた。新世界で貴重品だったチョコレートは、旧世界でもほとんど同じくらい高価で重要なものになった。 しかしアメリカ大陸の人々が知っていたチョコレートと、ヨーロッパ人が好きになる甘いチョコレートとはまったく違っていた。
 いろいろなかたちに姿を変えるチョコレートは、そもそもアメリカ大陸以外にはなかった珍しい木の実から作られる。 このカカオと呼ばれる木には大きな莢が実り、幹や太い枝に直接くっついたまま成長する。莢の中にはカカオ豆が入っていて、チョコレート製品を作る原料となる、カカオ豆が「チョコレート」になるには、複雑な加工処理を経なければならない。 まずカカオ豆を莢から取り出し、発酵、乾燥させたのち、炒って挽いて粉にする。
 カカオ豆を食べられるように加工する方法を最初に発見したのは、古代のアメリカ大陸の人々だった。野生のカカオの木はメキシコや中央アメリカの高温多湿な地域と南アメリカの熱帯地方だが、南アメリカでは栽培されず、メキシコや中央アメリカの住民が数千年も前にこのユニークな作物の栽培法と加工法を考え出した。
 アメリカ大陸最古の文明の1つ、オルメカ文明を築いた人々がカカオを最初に栽培したらしい。「カカオ」という名前は、紀元前1,000年の昔にメキシコに住んでいたこの古代人とかかわりがあるようだ。 もっと後のマヤ文明の人々は、オルメカ人からカカオという言葉とカカオ豆の加工法を受け継いだ。紀元200年ごろに始まったマヤ文明は、現在のメキシコ、グアテマラ、ホンジュラスにあたる熱帯雨林地方に大都市を建設した。 これらの地域はカカオ栽培に最適な場所で、カカオはマヤ族の農民にとって重要な作物になった。
 マヤ族はカカオ豆を炒って挽いて粉にし、水やほかの材料と混ぜてねっとりとしたペーストにして強烈な風味野の飲み物を作った。この飲み物はマヤ族にとって非常に大事なものだったし、後世のアメリカ大陸の人々にとっても重要な飲み物になる。 マヤ族は手をかけてその飲み物を作り、たいていはそのためにわざわざデザインされた容器に入れて、特別な場合に飲んだ。 マヤの墳墓で発見された美しい陶器のなかには、化学的な実験の結果カカオと判明した滓(かす)がついているものもあれば、マヤの絵文字でカカオを表す言葉が刻まれているものもある。
 紀元1,300年ごろに権力を手にしたアステカ族は、カカオを利用するアメリカ大陸の伝統を受け継いだ。だがメキシコ中央部の高い山あいにあったアステカ帝国の首都は、熱帯の植物カカオには涼しすぎたため、商人はもっと暖かい低地からカカオ豆を運んで来なければならなかった。 アステカ族はまた、征服した人々に貢ぎ物としてカカオ豆を納めさせた。貢ぎ物のリストによると、毎年980荷分のカカオが首都のテノチティトランに送られ、1荷分には2万4,000個のカカオ豆が正確に数えられて詰められていたらしい。
 カカオ豆はアステカ族にとってとても貴重なものだったので、数百年前のマヤ文明の時代と同じように通貨としても通用した。 アステカ族の市場では、カカオ豆で商品を買うことができた。たとえば、小さな綿のマントはカカオ豆100個分といった具合だ。 カカオ豆は貴重品だったので偽物が出回ることもあり、悪質な連中は空のカカオの莢に粘土や土を詰めて取り引きに使った。
 過去のマヤ族やオルメカ族同様、アステカのあいだでも、カカオ豆は貴重な飲み物を作るのに使われることが一番多かった。 スペイン人は1,500年前半、メキシコに到着してすぐにこの昔から伝わる飲み物の存在を知った。
 1519年、エルナン・コルテスの一行は、メキシコの東海岸に上陸すると皇帝モクテスマの篤志たちに歓迎され、有効と平和のしるしに食べ物や飲み物でもてなされる。 飲み物はカカワトル(カカオ水)だったが、あまり美味しそうには見えなかった。「スペイン人が飲もうとしないのを見たインディオたちは、すべてのヒョウタンの中身を毒味さいてみせた。 スペイン人はチョコレートで喉の渇きを癒し、それを飲むとどんなに元気になるか、知った」
 コルテス一行はテノチティトランに着いて初めて、カカオで作った飲み物がいかに貴重なものかを知ることになる。 もっともアステカ帝国の皇帝モクテスマとその家臣たちは毎日大量に飲んでいたのだが、コルテスの部下だったベルナール・ディアス・デル・カスティーリョ(1492?-1581? スペインの歴史家、征服者。『新スペインの征服正史』を著す)は、 メキシコ征服に関する記述で、皇帝の食事の典型的な献立を書き残している。モクテスマの前には30種類以上の料理が並べられ、その中には野鳥の肉を焼いたものをはじめ「アステカ帝国でとれるあらゆる種類の果物」があったという。 食事のあいだ給仕は、カカオ豆から作った飲み物を「純金製の杯に入れて」運んできた。モクテスマの食事が終わると、衛兵や召使いが食事をし、「カカオの飲み物を2,000杯以上も飲み干した。 メキシコではこの飲み物を十分に泡立てて供する」とディアス・デル・カスティーリョは報告している。 (『世界を変えた野菜読本』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『世界を変えた野菜読本』  シルヴィア・ジョンソン 金原瑞人 晶文社      1999.10.10
( 2007年11月5日 TANAKA1942b )
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(9)トウガラシ・カボチャ・パイナップル・キャッサバ
香辛料・野菜・果物・主食穀物
<トウガラシ> クリストファー・コロンブスは1493年1月15日の日誌に、カリブ海のエスパニョーラ島でたくさんの「アヒ」を発見したと書いている。 彼は、ヨーロッパで珍重されている高価な黒い香辛料にたとえて、アヒを先住民の「コショウ」と呼び、「とても体に良いので、人々は毎食欠かさず食べている」と記している。
 26年後にメキシコを征服したスペイン人は「チリ」と呼ばれる刺激の強い作物がアステカの料理でとても重要な役割を占めていることに気づいた。 アステカ族は、「辛くないレッドチリ、太いチリ、辛いグリーンチリ、イエローチリ……ウォーターチリ……ツリーチリ……」などいろいろな種類を栽培していた。
 アヒとチリは、それぞれ別のアメリカ先住民の言葉だが、両方とも一つの重要な植物を指す。この植物とそれから作られる食品は、新世界から旧世界へ輸出されたものの中で最も人気のあったものの一つだが、最もその原産地が忘れがちなものでもある。 現在その植物は世界中で栽培され、今でもたくさんの紛らわしい矛盾した名前で呼ばれている。例えば英語圏の人々の間では、ホットペパー、スウィートペパー、グリーンペパー、チリペパー、チリ、チレ、カイエン、パプリカなどと呼ばれている。
 コレラの聞き慣れた名前はどれも紛らわしく謎めいていたが、植物学者にとってその植物は謎でも何でもない。 これはナス科の仲間であり、ナス科には他にジャガイモ、トマト、タバコといった良く知られたアメリカ原産の作物がある。 この植物はナス科の「トウガラシ」(カプシカム)属に入っている。カプシカムという言葉は箱という意味のラテン語からきているのだが、この名前がついたのは種の入っている部分、つまり実がなんとなく箱のかたちに似ているからだろう。 トウガラシの実は内側にたくさんの種子がついた肉質の壁でできており、中は空っぽである。ほとんどが未熟なときには緑色で、熟すと黄味や赤味がさす。(中略)
 何世紀もの間、ヨーロッパの香辛料の貿易はアラブ諸国の商人によって牛耳られていた。 これら貿易にたけていた商人は、香辛料をインドなどの東洋の国々からアラブ諸国まで海路で運び、それから地中海の港まで陸路で運んだ。1400年代半ばになると、もう一つのイスラム勢力であるオスマン帝国が豊な東洋へ通じる陸路と海路を支配するようになった。 そこでヨーロッパ諸国は、香辛料を産出するインドや東インド諸島へ到達する新しいルートを躍起となって探し始めた。
 1400年代後半には黄金のほかに香辛料を求めて、数多くの探検家が海に出た。1480年代、ポルトガルの探検家たちはアフリカの南端にある喜望峰を回ってインド洋に出る航路を発見した。 1498年、ヴァスコ・ダ・ガマはこの航路を利用すればヨーロッパから香辛料を産出する東洋の伝説の国々へ到達できることを証明した。
 その6年前には、クリストファー・コロンブスがもう一つの航路を試していた。地球を一周すれば東インド諸島にたどり着けると信じて、このイタリアの船乗りはスペイン国旗のはためく船に乗り、南ではなく西へ向かったのだ。 コロンブスは東インド諸島のかわりに新世界の島々を偶然発見すると、香辛料の実を付けた植物を懸命に探した。もちろんヨーロッパで珍重されている、黒コショウの実のなる蔓植物である。 だが見つかったのは、まったく新しい植物アヒ、つまりトウガラシの一種だった。そしてこの植物の実やそれから作られる食品のおかげで、コショウのときよりもさらに強い辛味が世界中の料理に加わることになる。 (『世界を変えた野菜読本』から)
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<カボチャ>  トウモロコシ、ジャガイモ、トマト、ピーナツ、カカオ、トウガラシ、そして多種多様なインゲンマメは世界の料理と食生活に大きな影響を与えたが、これら以外のアメリカ原産の作物はそれほど影響力がなかった。 原産地から遠く離れたことのない作物もあれば、限られた地域だけで重宝されるようになった作物もある。しかし、これら影の薄い作物もまた、世界の多くの地域に住む人々の食生活に少なからぬ影響を与えてきたのだ。
 1500年代、インカ族、アステカ族、マヤ族などを初めとする多くの北アメリカの先住民の畑では10数種類のカボチャが栽培されていた。 ヨーロッパ人は、このアメリカの作物がキュウリ、メロン(カンタロープやスイカを含む)、ヒョウタンといったよじゅ知られている旧世界原産の作物と親戚関係にあることに気づいた。 植物学上これらはどれも大所帯のウリ科に属している。
 アルゴンキン語でアスクタスクワッシュと呼ばれるアメリカのカボチャは驚くほど種類が多く、さまざまな用途に使われた。水分が多い果肉がかたい皮に包まれているカボチャはまるのまま料理したり、あるいはあとで使うために乾燥して保存したりした。 乾燥した皮は容器や柄杓(ひしゃく)になる。皮が柔らかくそのまま食べられるものは、たいていは畑から取ってきてすぐに食べた。 多くの品種は種や花まで食用になる。
 ペポカボチャは新世界のカボチャの中で最大のものだ。アメリカ先住民は火の残っている灰の中にペポカボチャを丸ごと入れて焼き、柔らかい果肉を吸い取り、メープルシロップをかけて甘くして食べた。 北アメリカに入植したヨーロッパ人は最初この方法で料理していたが、やがてミルクと卵と糖蜜を加え、ヨーロッパ風のパイの具にするようになる。
 現在、カボチャの一族でペポカボチャとその親戚関係にあるほとんどのもの(ドングリカボチャ、クリカボチャ、ヘチマカボチャなど)は、アメリカ大陸以外ではあまり知られていない。 例外は、アメリカのカボチャの」くせにイタリア名で通っているズッキーニだ。この皮の柔らかいカボチャは1,600年代にイタリアに伝えられ、好んで食べられるようになった。 後に北アメリカに再び伝わり、実はたくさんなるがあまり味にないズッキーニはいまや多くの裏庭の菜園を占領し、キャッセロールからオムレツ、クッキーにいたるまで多くの料理に使われている。 (『世界を変えた野菜読本』から)
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<キャッサバ>  現在キャッサバはアフリカや南アメリカに住む人々の主食になっているが、北アメリカやヨーロッパではほとんど知られていない。 キャッサバは南アメリカの熱帯低地が原産の植物で、そのずんぐりした澱粉質の根を古代の先住民は食糧としていた。猛毒の青酸を含むものがあるので、食べる前に特別な方法で加工処理しなければならず、毒を抽出するために根の部分をすり下ろしてから絞ったり叩いたりする。 乾燥させると一種のあらびき粉や粉末になり、具入りのパンや粥を作るために使われた。
 1492年、コロンブスはカリブ諸島でキャッサバが栽培されているのを発見し、スペインに帰国する際、部下に食べさせるためにキャッサバのパンを積み込んだ。 その後、1500年代前半、ヨーロッパ人は南アメリカでキャッサバを知り、栽培があまりに簡単なのに驚いた。茎を切手土中に植えるだけで、1年以内にその根は人間の足ほどの大きさに育つのだ。 またヨーロッパ人は、あらびき粉が腐ることなく数年も保存できることにも強い印象を受けたが、その風味の乏しい味をあまり好まなかった。
 ところがポルトガル人が1500年代半ばにキャッサバをアフリカへ伝えたところ、ほかに作物がほとんどない熱帯地方でたちまち広まっていった。 アフリカ人はすぐに根を収穫し加工処理したが、それは南アメリカで行われていた方法ととてもよく似ていた。現在多くのアフリカ諸国でキャッサバは食生活の重要な地位を占めている。 西アフリカではどこでもキャッサバを煮つぶして作ったフーフーという団子の入ったシチューやスープを食べるし、ナイジェリアではガリと呼ばれる加熱乾燥したあらびき粉が食材としてよく使われる。
 南アメリカでもいろいろなかたちでキャッサバを食べる。なかでもファロファという名の加熱乾燥したあらびき粉は、ブラジル料理によく使われている。 北アメリカ人やヨーロッパ人ですら、それと知らずにキャッサバを食べていることがある。プディングを固めたり、ソースにとろみをつけるために使われているタピオカは、乾燥したキャッサバから作られたものだ。 (『世界を変えた野菜読本』から)
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<パイナップル> 
アメリカ大陸の作物の中で最初のころにヨーロッパ人を一番驚かせたのは、パイナップルらしい。 この汁気の多い新世界の高温多湿地帯原産のパイナップルは、大昔にメキシコや西インド諸島へ広まり栽培されるようになった。 1493年のカリブ諸島への2度目のの航海でコロンブスは、先住民が「アナニ」と呼ぶ珍しい果物を試食した。 スペイン人はこの果物が松かさに似ているので「ピニャス」と呼んだ。英語名の由来も同じだが、フランス名の「アナナ」には先住民たちの言葉アナニが残っている。
 1500年代にパイナップルはは初めてヨーロッパへ向けて船積みされたが、長い航海に耐えられたものはほんの僅かだった。 腐らずに届いたものが王族や貴族に献上されると、やがてヨーロッパ人の間でパイナップル熱が高まり、富裕な人々の贅沢品になった。 とくに熱心だったのはイギリス人で、1700年代イギリスの貴族はパイナップル栽培園と呼ばれた特別な温室でその熱帯の果実を栽培した。 客をあっと言わせようとしたある女主人がパイナップルを借りてきて、優雅な晩餐会のテーブルの中央に飾り物として置いたというエピソードもある。 とても珍重されたパイナップルは富と歓待の象徴になり、玄関やベッドの支柱の木の部分に彫刻されたほどだ。
 1800年代になると、パイナップルはさほど珍しいものでも高価なものでもなくなっていた。アメリカ大陸だけでなくオーストラリア、アジア、アフリカでも栽培されるようになり、広く入手できるようになったからだ。 1880年代には、最初の大規模なパイナップル・プランテーションがハワイ諸島にできた。現在ではタイがパイナップルの最大生産国であり、世界の総生産量のおよそ4分の1を栽培している。 もはや富裕な特権階級の食べ物どころか缶詰にもなっているパイナップルは、どこの食品売場の棚でも見つけることができる。 (『世界を変えた野菜読本』から)
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<バニラ>  アステカ族がカカオの飲み物カカワトルを作るときによく加える香辛料のひとつは、ランの莢から作った「トリルショチトル」 tlilxochitl だった。 このエキゾチックな発音のものは今で言うバニラのことで、現在もっともよく使われる香辛料のひとつである。アステカ族はメキシコ湾岸に住むトトナコ属からそれを入手したが、トトナコ族こそ、ある特別なランを栽培し、その長い莢を加工そて香辛料を作り出す方法を発見した人々だった。 アステカ族は1400年代にトトナコ族を征服すると、貢ぎ物としてこの香辛料を要求した。
 スペイン人はその美味しい香辛料を「バイニラ」と呼んだ。「小さな莢」という意味だ。彼らはカカオといっしょにバニラも輸入したので、長いことバニラはココアの香辛料としてだけ使われた。 しかし、ヨーロッパ人もアジア人もそれを加えると料理にかすかな香りがつくことに気付くようになった。
 1800年代にはメキシコ以外の土地でもバニラを栽培できるようになった。ベルギーの植物学者が、人工的にそのランの花を受粉させる方法を研究したからふぁ。 それまでほかの土地ではうまく栽培できなかったが、それはメキシコで花を受粉させていたミツバチとハチドリがいなかったからで、人口受粉が開発されると、バニラが大好きなフランス人は熱帯地方の植民地にプランテーションを開いた。
 1847年になるとさらに利用しやすくなった。アメリカ人が、アルコールの水溶液に細切れにした莢を浸してバニラの成分を抽出する方法を発見したからだ。 現在、合衆国ではバニラエッセンスがよく使われているが、多くのヨーロッパ人は今でも莢ごと使うほうを好む。また化学製法で作った合成バニラもよく使われているが、古代アメリカの人々によって最初に発見された自生のバニラの甘く繊細な香りにはとうてい敵わない。 (『世界を変えた野菜読本』から)
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<アボカド>  アメリカ先住民から世界に伝わったもう1つの作物は、アステカ族が栽培していたアボカドである。 この植物の英語名はナワトル語のアファカトルから来ている。つぶしてから味つけするもっとも現代的な食べ方グアカモーレ(つぶしたアボカドに、トマト、タマネギ、薬味を加えたメキシコ料理のソース)は、名前も食べ方もアステカが起源だ。 アステカ族はアファカ・ムリと呼ばれるアボカドソースを作り、もちろんトウモロコシのトルティーヤといっしょに食べた。 ちょうど現代人がトルティーヤチップでグアカモーレをすくって食べるように。
 スペイン人がメキシコでアボカドを試食したとき、そのバターのような味と大量に含まれる油に大きな興味をもった(アボカドほど大量の油を含む植物はオリーブとココナッツだけ)。 スペイン人はこの珍しい新世界の果実に塩を振りかけて食べたが、砂糖を少し振りかけると美味しいデザートになると考えた人もいた。
 アボカドはとても傷みやすくヨーロッパまでの船旅に耐えられなかったので。1900年代になって船積みと保存の有効な方法が開発されるまで、おもにアメリカの作物として留まっていた。 現在、アボカドはヨーロッパ、アフリカ、アジアでも知られ、そのでこぼこそた皮とナシのような形から「ワニナシ」と呼ばれることが多い。 今でもほとんどのアボカドはアメリカ大陸で栽培され、合衆国とメキシコとブラジルが主要生産国である。 (『世界を変えた野菜読本』から)
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<アメリカのベリー>  野生の植物から集められたベリーは、アメリカ大陸の多くの先住民の食生活で重要な位置を占めており、北アメリカではクランベリー、ブルーベリー、イチゴなどのたくさんの種類を生のまま食べたり、乾燥して保存したりした。 アルゴンキン族が「イビミ」(苦いベリー)と呼んだクランベリーは、ペミカン(野牛肉などを切り干しにして砕き、これに果実や脂肪をつき混ぜて固めたインディアンの保存食)を作るためにシカ肉や脂肪といっしょに料理することが多かった。 ペミカンは栄養豊富な乾燥食品で、腐ることなく何ヶ月も保存できる。
 アメリカ大陸に入植したヨーロッパ人は、新世界のベリーの多くが母国でよく見かけたものの親戚であることに気付いた(たとえば、クランベリーの一種であるコケモモは、スカンディナヴィア諸国が原産)。 しかしアメリカのベリーはたいてい、旧世界のものより粒が大きくてたくさん実る。とくにイチゴがそうだ。イチゴはアメリカ大陸の多くの地域で自生していたものを南アメリカの先住民が栽培できるようにした。
 何百年ものあいだヨーロッパで栽培されてきたイチゴは、甘みはあるが小粒の野生のキイチゴを改良したものだ。1600年代から1700年代にかけて大きなアメリカのイチゴが何種類か輸入されたが、新天地ではうまく育たなかった。 1700年代半ば、ヨーロッパの植物学者が多くの実験を重ねたのち、北アメリカ産と南アメリカ産の2種類のイチゴをかけ合わせて、ついに大粒の美味しい混合種のイチゴを作った。 この新しいアメリカのイチゴが、現在世界中で栽培されているほとんどの栽培用イチゴの先祖である。 (『世界を変えた野菜読本』から)
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<農業の生産効率についての誤解>  「農業の生産効率」というと日本など先進国の農業が「生産効率が高い」と考えがちだが、ここう言う「生産効率」とはそうではない。 むしろ日本のコメ作りは低いことになる。どういうことか?『自殺する種子』から引用しよう。
 農業の面積当たり生産高は一般に耕作の集約度が高くなるほど高くなる。そのため生産効率は集約度が高いほど高くなると考えがちであるが、生産効率を投入エネルギー当たりの獲得エネルギーの割合で測ると、まったく逆の結果となる。 その割合は、あまり手を加えなくてもある程度の収穫が得られるキャッサバでは、ザイールとトンガの例でそれぞれ37.5と26.9という数字が得られている。 もう少し手のかかる穀類では、スーダンのソルガムとメキシコのトウモロコシの例でそれぞれ14.1と10.1、これに牽引動物の力を加えると、フィリピンの水稲とメキシコのトウモロコシでそれぞれ3.3と3.4と効率は低下し、インドのコムギとナイジェリアのソルガムの例ではそれぞれ0.5と0.1となり、 ついに投入エネルギーを回収できない事態に至る。高度な機械化で投入エネルギーも大きいが収量も高いアメリカでは、トウモロコシで2.5、水稲で1.4、コムギで1.8、ジャガイモで2.3という数字が出ている。 収量はアメリカと同じくらいでも面積当たり投入エネルギー量(人力、機械、灌漑、肥料、農薬、除草剤)が桁外れに大きい日本の稲作では、投入エネルギーと回収エネルギーのバランスは大きな赤字である。 耕作をせず自然から採取だけをする場合のエネルギー効率が高いのは十分予想され、トルコの野生コムギについての実験では、40から50というどの農業生産より高い効率が得られている。 したがって、人は狩猟採取生活のあまりの厳しさに音を上げてもっと効率の良い栽培農業に移行したとする通説を支持するのは難しい。
 狩猟採取時代の食生活は、後の農耕時代や近世のたとえば飢饉(1845−47)前後のアイルランドのジャガイモだけ(文字どおり)の食生活より栄養的に豊であったらしいし、労働条件も週20時間で必要な食料は十分稼げたというデータもある。 豊かさはあれもこれも手に入れることでも得られるが、よけいな物を欲しないことでも得られる。われわれ現代人が原始人に対して抱いている、野蛮で動物的、愚かで浅はかであさましいというイメージは修正を迫られるかも知れない。 それでは何が人をより労働量の多い耕作生活に駆り立てたのだろう。(『自殺する種子』から)
<アフリカでの主食──トウモロコシ、キャッサバ>  キャッサバは日本ではタピオカの原料としてくらいしか知られていない。これがアフリカでは主な穀類になっている。それは栽培が簡単だからだ。 キャッサバの栽培は、熱帯なら極めて簡単で、枝を切って挿しておくだけで、発根し、1年もたたないうちに芋が収穫できるのです。栽培するというほどのものではない。このため、新大陸の発見以後、特に、17世紀以後にアフリカやアジアの熱帯地方に急速に広がった。この初期の普及には、奴隷貿易との関係があるようで、アフリカから新大陸まで奴隷を船輸送するときの食糧にかなり使われたらしい。
 キャッサバに較べれば、日本のコメ作りは投入エネルギーと収穫エネルギーで赤字になるので、発展途上国向きではない。 栽培が面倒で、キャッサバを栽培(栽培というほど手はかけていない)している人たちには面倒でイヤになってしまう。 「オリザの環」32「揺らぐプライド/口に合わぬコメ栽培」を参照のこと。
 日本のコメ作りを考えると「農業は先進国型産業」だと思えてくる。
<農作物の普及は、「反地産地消」>  イネの「緑の革命」のきっかけとなったIR8を作った男として記憶されるピーター・R・ジェンキンスと、CIAT(国際熱帯農業研究センター、本部コロンビア)のキャッサバプログラムを立ち上げたジェームス・H・コックは、 主要作物の高収地帯が、それぞれの作物の起源の中心地から遠く離れた大陸にある場合が多いことに注目した。これは主に病虫害種による収量減が、起源の中心地を遠く離れた地域では軽いことからくるものと考えた。(中略)
 日本はどうかというと、世界中のあちらこちらで農耕が始まり、多数の栽培作物が作り出された約1万年前よりかなり前から縄文人が生活していたので、日本で栽培化された作物種がいくつかあってもよさそうであるが、じつは1つもないようである。 考古学的な証拠や現在の植物分布状況などから、日本で半野生種的なものが利用されたらしい例(前者にはクリ、後者にはナシ)はあるが、それらが完全な栽培種となり、他国の農業に貢献した可能性はほぼゼロである。 クリにせよナシにしろ、後に作物品種として確立されたものはすべて中国大陸起源のものが日本に移入されたものの後代である。 日本で栽培化され、日本を出て大陸でも作物品種となったものとして、唯一食用ヒエのその可能性があるそうであるが、確固たる証拠があるわけでもなし、またかりにそうであったとしても大作物にはほど遠い。 したがって、日本の作物生産は100パーセント他の地域から移入された種に頼っており、逆に日本で生まれて他の地域の農業に貢献している作物種はないと言える。
 世界を先進工業国と低開発国という図式で見た場合、それはほぼそのまま農業先進国と農業低開発国、もしくは温帯圏諸国と熱帯諸国の図式に対応する。 温帯諸国の農作物を生産を支えているのは移入作物種であるが、それらは温帯圏の他の地域からきたものではなく、熱帯、亜熱帯からもたらされたものである。 つまり、目下の農業先進国vs低開発国という図式は、作物種をもらった国々vs作物種を与えた国々という図式でもある。
 それでは大多数の作物種の故郷である熱帯圏ではどうだろう。
 現在アフリカの人たちの食生活を下から支えているのは、1にトウモロコシ、2にキャッサバで、これらは南米大陸からの移入種である。 南アメリカでは、サトウキビ、コムギ、イネ、ダイズ、バナナが重要な食用作物であり、コーヒー、それに大麻が重要商品作物であるが、これらはすべて他の大陸からの移入種である。 熱帯アジアではイネが圧倒的な重要食用作物であり、他の大陸に比べて自前の作物でまかなっている度合いは高いが、それでもトウモロコシ、キャッサバ、サツマイモ、ジャガイモ、落花生、油ヤシ等、他大陸からの移入重要作物がめじろ押しである。
(『自殺する種子』から)
<キャッサバという作物>  キャッサバは、熱帯ではイネ、トウモロコシ、サトウキビと並ぶきわめて重要なカロリー生産作物である。 トウダイグサ科(Euphhorbiaceae)のManihoto属の一種(M.esculenta)で、近縁にほかの有力食用作物は存在しない。
 進化の起源地および分布の中心地は熱帯アメリカであるが、現在の作物としての重要度はアフリカで最も高く、アジアがこれに次ぐ。 温帯先進国での栽培はなく、熱帯諸国でも貧農が作り、貧乏人が食べる作物というイメージから、組織的な研究努力から取り残されてきた作物である。
 一方、アフリカの圧倒的多数の農村人口をトウモロコシと友に支えているのはキャッサバであり、収穫物の利用性、汎用性も高い。 特にアジアにおいては、加工用作物として畑作農家の貴重な現金収入源となり、経済発展に貢献している。(中略)
栽培方法  基本的には、前の年のキャッサバの茎を10−30センチに刀で切りそろえ、ゆるくほぐした土の上に挿すか、中に埋め込み、芽が出そろった後除草をして、1年後にイモを掘り出すという繰り返しであるから、 主要作物の中では最も簡単な部類に属する。(中略)
病虫害  一般にキャッサバは病虫害に強いといわれるが、この作物にとりつく病虫害の種類はほかの作物同様多岐にわたる。 そのなかで、最も多数の人々に大きな被害を与えるという点で、アフリカキャッサバモザイク病(ウイルス病)が筆頭である。 この病害を栽培方法によって防除するのは難しく、抵抗性品種の開発と普及が望みである。アジア、アメリカではこの病害は発見されていないので、アフリカからキャッサバの生木や、媒介昆虫であるホワイトフライを不用意に持ち込まないことが大切である。 葉枯れ病(cassava bacterial blight, Xanthomonus campestris pv-Manihotis)はほぼ全世界の主要生産地にみられる病害種で、罹病性品種が多雨の病害多発生年にぶつかると大きな被害を受ける。(中略)
ビル・ゲイツの発言  『タイム』誌2000年6月19日号の21世紀展望特集に、コンピュータ界の巨人ビル・ゲイツ氏がバイオテクノロジーに人類への貢献についてのエッセイを寄せている。 ここではバイオテクノロジーは万能薬ではないと断ったうえで、今後バイオテクノロジーの恩恵を受けるようになるのは、食材の選択に多くの自由がある温帯国の金持ちではなく、毎日の食糧確保が大きな問題である開発途上国の人々だろうとしている。 組み換え遺伝子を使ってコメのベータカロチン含有量を増大させ、熱帯の消費者の体内でビタミンA不足を解消させる可能性について早くも言及しているのは印象づけられたが、私は何より、損害を被っている人の数では目下地球上最大の作物病害ではないかとも言われるアフリカのキャッサバモザイクウイルス病を組み換え遺伝子を使って解決できたら、 人類史的貢献になるだろうと記述しているのには大いに感心させられた。そして飢饉問題は分配の問題でもあるとしたうえで、実はバイオテクノロジーも同じ問題を抱えていると喝破している。 バイオテクノロジーの先端企業が金になるマーケットばかりに照準を合わせ、技術の恩恵を最も必要としている人々を素通りしてしまうことが目下の問題だとしている。 ビル・ゲイツというアメリカ文化の権化のような人物からのメッセージであり、アメリカぶんかの底深さを学ぶ感がある。 わが日本からもいつの日か、相撲の大関かJリーグの得点王で、バイオテクノロジーでも環境問題でもよいが、一般市民にも専門家にも感銘を与えるような意見が出てくるのを心待ちにしたいものである。 (『自殺する種子』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『世界を変えた野菜読本』 シルヴィア・ジョンソン 金原瑞人訳 晶文社      1999.10.10
『自殺する種子』遺伝資源は誰のもの?        河野和男 新思索社     2001.12.30
( 2007年11月12日 TANAKA1942b )
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(10)イネがたどった長い旅路を考えてみる
諸説を読んで想像力を働かせてください
  農作物の中でも、特にイネのルーツを探るとなるメイリオ;と、野生稲の原産地から栽培稲、そしてそれが日本に伝わってきた経路を問題にしなければならない。 ところが、ハッキリしない点が多く、それらをまとめてここに書くのは、アマチュアには荷が重すぎる。そこで、こうした問題を扱っている文献から引用し、 あとは皆さんに想像力を働かせてもらおうと思う。稲作の伝播の長い長い旅路を考えていると、地産地消という言葉がスケールの小さい陳腐な言葉に思えてくる。
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<柳田國男はどう考えたか>  いまから半世紀ほど前に、日本の稲作がどうして始まったかについて、当時の指導的な立場にあった人たちが、徹底的に討議したことがあり、その記録は『稲の日本史』という本になって伝えられている。 この討論のために稲作史研究会が組織され、当時の名だたる学者が集められた。それは、「文化科学と自然科学の分野から従来研究されてきた稲および稲作についての学問的成果を総合して、今後の学問発展の礎石にしようとの意図をもって」、 1952年に発足したものである。その成果は当時のイネ研究の指導者であった、盛永俊太郎(もりながとしたろう)を責任者としてまとめられ、『稲の日本史』として発表された。 その後1969年に、筑摩書房から上下2巻として再刊された。この本は当時までの栽培イネの研究の集大成である。
 この中で、日本の民俗学の建設者とも言える柳田國男は稲作の南島渡来説を主張した。彼は、稲作は日本で独自に発展したと考えた。 すなわち、「ただ日本人だけは、こういう(孤立した)境涯におった結果、現在の稲作技術の進歩はよそから助けられないで、全部自分で考え出したと私は考えておる」 (同書上巻)。そして、南島からの漂流者による稲作渡来説を主張した。さらに、老大家とも言うべき人たちの論議が見ものである。 作物学者の浜田秀男が「イネは、日本と同緯度、ちょっと下の大陸から来たので、南方から直接来たものではない」と述べると、柳田國男は、「私は、海流から調べるべきであると思う。はじめにきたものは漂流に近い」と反論した。 盛永俊太郎および考古学者の直良(なおら)信夫が、イネは中国大陸から来たという結論を出そうとすると、柳田は、日本のどの海岸に来たかが問題として、終始漂着説である。 この討論会で、再三にわたり中国大陸からの渡来説で話がまとまろうとすると、柳田の漂着説が出るのは印象的である。おそらく大陸からの稲作伝来が認められると、稲作や神道儀礼などを含む「一国民俗学」が危うくなることへの本能的な反発があったと思う。 柳田は水田稲作やそれに関係する習慣を日本固有のものと強く主張したが、はたしてそうであろうか。
 今では私たちは、中国大陸へ行ってそこの稲作を見ようと思えば見ることができる。両国の間で農民の間に密接な交流があったとは思えないのに、実際に中国にも日本と同様に棚田があり、農村の景観もよく似ている。 このようなことを考えると、柳田の「稲作南島渡来説」と日本固有の稲作発展説にはなにか問題のあることに気がつく。しかし、柳田説は今でもよく引用され、影響を与えている。
(『稲作の起源』から)
<照葉樹林農耕論からみた稲の栽培化論>  半世紀前のこのような論議を紹介すると、今ではこのような問題は決着したと思われるだろうが、論議は別の主張が加わって、かえって複雑になってきている。 別の主張というのは、民族植物学者の中尾佐助に始まる。照葉樹林農耕論である。長い間、日本の近辺の稲作にとらわれた論議が続いたあとで、1960年代に中尾は、世界の農耕を眺め渡したところから稲作の起源を論議し、さらに東アジアの農耕の起源を論じた。 中尾の主張は、じつは安定したものではなかったが、その後の論議の基礎となり、とくに文科系の学者に広く受容され、今でも大きな影響力をもっている。
 栽培イネの起源についての見解の多くは、じつは伝播について述べたもので、栽培化について直接触れたものは多くない。 この栽培化の問題に迫ったのが中尾佐助の『栽培植物と農耕の起源』(岩波新書、1966)である。中尾は、アフリカ起源の雑穀農耕がインドに波及して、イネの「雑穀としての栽培化」が始まったと主張した。
 中尾の一連の説は、『照葉樹林文化』(1969)、『続・照葉樹林文化』(1976)、および『稲作文化』(1985)という、著名な学者の参加した討論記録(いずれも中公新書)の中で展開された。 後にインド起源説は撤回され、1976年の『続・照葉樹林文化』では、イネの起源地は中国とインドの中間の照葉樹林帯だったと述べている。 ここから「照葉樹林農耕論」が展開されてきた。
 イネが初め焼畑の雑穀作物であったとみる点では、イネの雲南起源説を提唱した作物学者の渡部忠世も同じである。渡部の『アジア稲作の系譜』(1983)では、まずアジアにおける稲作成立の背景として、インドシナ半島に多様性を包含した豊かな農業の発展の条件があったことが指摘された。 そして、熱帯よりやや高緯度に展開する「原農耕圏」を提唱した。地形的に山地、丘陵、高原の卓越する地域としての共通性から考えられた、農耕起源の地域という意味である。 こうした農耕圏の存在を基盤にして栽培イネが登場するとして、「原農耕圏に登場した稲の栽培が焼畑的状況に始まり、したがってその種類あるいは性質が今日でいうところの陸稲に近かった」と述べている。 このような稲作が、「丘陵と山間」を降りて、やがて「平原と平野」に展開し、単作の普遍化にともない大規模な平坦地稲作が展開した。 そしてインドシナ半島でも「江南(中国の長江以南)とガンジス平野に代表される稲作」が受容されたとする。この辺の説明は中尾と同様である。 これらの議論では、水田稲作がどうしてできたのか、答えられていない。しかし、現にみられる景観を歴史的な経過を示すかのように並べてみると、そこに説得力がでてくる。
(『稲作の起源』から)
<オリザの起源>  オリザには20あまりの種があり、そのうちの1つがオリザ・サティヴァ(Orlza sativa)、つまり私たちのイネである。 オリザにはもう1つ、グラベリマ(O.glaberima)という栽培種があって西アフリカの1部にだけ分布する。この2つ以外の種はすべて野生種である。 日本列島には現在と過去を問わず、サティヴァ以外のイネはない。そんなわけで、サティヴァ以外のイネのイネとその周辺の植物は日本人にはまったく馴染みがない。 にもかかわらず日本の研究者がイネの起源に関する学問をリードしてきたのは不思議というよりほかない。
 オリザは、サティヴァを除いても全世界の熱帯に広がる、分布域の広い属である。もっとも種のレベルでみると、分布域は限られてくるので、オリザという属は、地域的に分化したいくつもの種からなる属、ということになるかも知れない。
 イネ属植物の株を見ていると、これがほんとうにイネだろうかと思われる形のものがある。ラティフォリアと呼ばれる種など、草だけ見ているとまるでササのようだし、リドレイなども、私たちのイネのイメージにはほど遠い。 葉の色も、濃いものから淡いものまでさまざまである。種子の形や大きさもいろいろで、なかには本当にオリザであろうかと思われるほど変わった形をしたものもある。
 ところでオリザの起源地はどこだろうか。私の知る限りオリザそのものの起源地について書かれた研究論文は1つしかない。 その1つとは、国際イネ研究所(IRRI)で世界各地の遺伝資源を集めて保存する遺伝子銀行の責任者をしていたT・T・チャンが1976年に書いた論文である。 彼はその中でオリザの起源地は今はなくなってしまった大陸、ゴンドワナにあったと主張した。ゴンドワナは今からざっと2億年前に南半球にあったと考えられている大陸である。 それはやがて分裂し、今の南米、アフリカ、インド、オーストラリア、南極などに分かれていったのだという。有名なウェーゲナーの大陸移動説は、オリザの起源地解明にも一役買っている。
 彼は、オリザという1つの属に属する種が、南米とアフリカとにまたがって分布してしてしてことに気がついた。チャン博士が、オリザの起源を、両大陸がまだ1つであったゴンドワナの時代に求めたのは自然なことであった。 もちろんチャン博士の考えを証明する手だてはない。ゴンドワナ大陸自体が今は存在しない以上、チャン博士の仮説は永遠の仮説である。
 ゴンドワナ大陸があったとされる古生代から中生代にかけての時代は気候温暖な時期であった。気温は今より高く、また多湿であったようだ。 大陸は、大型のシダの盛りに覆われていた。多分イネ属は、森の下草としてひっそりと生きる日陰者の一つであったに違いない。今のイネ属の中には日陰を好む種が多いのもうなずける。
(『イネの文明』から)
<照葉樹林文化の展開>  稲作については、数えきれないくらい多くの書物があるけれど、私の知る限り、「稲作文化」というタイトルをもつものは、この本がおそらく初めてではあるまいか。
 この本は、副題に、「照葉樹林文化の展開」とあるように、同じ新書として刊行された『照葉樹林文化』(1969)と『続・照葉樹林文化』(1976)をふまえた形で話を進めており、上記2冊の本と同じく、シンポジウムの記録に手を加えたものである。
 シンポジウムのメンバーは、『照葉樹林文化』以来の中尾佐助さん、『続・照葉樹林文化』のときに参加していただいた佐々木高明さん、このたびシンポジウムの主役と言うべき渡部忠世さん、稲作文化と対照的な麦作文化についての語り手としてお願いした谷泰さん、それに司会の私、以上5名である。
 それぞれの専門は、中尾さんが集団遺伝学と栽培植物学、佐々木さんは文化人類学と人文地理学、渡部さんは作物学と民族植物学、谷さんは社会人類学と西洋史学、 私は哲学、というのが一応の看板であるが、私を除けば、みなさん、広範囲に渡るおびただしいフィールド・ワークの持ち主であり、知的関心の対象も、きわめて多彩である。
 「稲作文化」をテーマとするシンポジウムの話が出たのは、一昨年(1982)の夏ごろだったかと思う。あるパーティーの席で、渡部さんと雑談をしているうちに、いささかアルコールの勢いをかりた格好で、ぜひともやろうではないか、という成り行きになってしまった。
 私が、そんな気持ちになったのは、その2,3か月前に、顔なじみの編集者の依頼で、中尾さんと数時間にわたる対談をする機会があり(対談記録が『日本文化の系譜──照葉樹林文化とその周辺』というタイトルで徳間書店から出版された)、そのときに、 中尾さんが「稲作文化が照葉樹林文化に、どんぴしゃり重なるということが、ますますハッキリしてきた」と言われたのが印象に残っていたからだ。
 稲作の起源地を、ヒマラヤ東南麓のアッサムから雲南にかけての山地に想定する渡部さんの学説は『続・照葉樹林文化』にすでに取り込まれていたのだが、照葉樹林文化の提唱者の中尾さんと稲作専門の渡部さんに、 稲作文化についての掘り下げた対談を展開してもらいたい、というのが私の側の強い願望であった。
 その対談をできるだけ実りあるものにするために、ぜひとも、佐々木さんに加わっていただきたいと考えた。佐々木さんは、『続・照葉樹林文化』の討論メンバーであり、この討論を展開した形の著書『照葉樹林文化の道』を発表されているばかりでなく、 『季刊人類学』誌上で、渡部説をはじめて専門外の読者に広く紹介した対談記録「稲作の起源とその展開をめぐって」(同誌第5巻第2号、1974年)において、渡部さんの相手をつとめているからだ。
 中尾さんはもともとムギの専門家としてスタートしているので、このたびのシンポジウムでは、稲作文化を麦作文化との対比において捉えてみたい、という気持ちが強く、中尾さんの希望で、麦作文化に馴染みの深い谷さんに加わってもらうことになり、 顔ぶれが揃ったところで、昨年(1983年)の3月12日と13日、2日間にわたって討論が行われた。
 稲作文化というと、いかにも茫漠としたテーマであるが、渡部さんのおかげで稲作の起源地域がほぼ突き止められるに至ったこの時点で、稲作文化という1つの世界の創世について語り、その歴史的展開の過程を振り返り、現状を概観するということは、時宜に適った試みではあるまいか、と私は考えている。
 討論記録というものは、どうしても論旨のキメが荒くなりがちである。シンポジウムのメンバーの著書のうち、本書のテーマに関わりのあるものを巻末に参考文献として挙げておいたので、それらによって、説明の不十分は点を補っていただければありがたい。
  1984年10月   上山春平
(『稲作文化』はしがき から)
<栽培植物とは何か>  人間のもつ文化財に何があるだろうか。ミロのビーナスは美術上の文化財として偉大であっても、もともと古代人の礼拝の対象として作られたものだった。 信仰はなくなったが、その美だけが残った文化財だ。このような意味の文化財は農業には貧弱である。ところが、ビーナスが信仰されている故に、立像に価値がある時代があったわけである。 しかし、1本のムギ、1茎のイネは、その有用性のゆえに現在にも価値がある。それは最も価値の高い文化財でもあると言えよう。 そんな草がなぜ文化財であるのか、ちょっと不審に思う人もあるだろう。つまり、われわれが普通に見るムギやイネは、人間の手により作り出されたもので、野生時代のものとまったく異なった存在であることを知る必要がある。 そのもとをたずねることすら容易でなくなった現在の栽培植物は、われわれの祖先の手により、何千年間もかかって、改良発展させられてきた汗の結晶である。 人間の労働と期待にこたえて、ムギとイネは人間に食糧を供給しながら、自分自身をも発展させてきたものだった。もしかりに、現在の世界から、栽培しているムギとイネの種子が全部なくなったとしよう。 原子力の利用まで進んだ近代の植物育種学者が、大急ぎで金にいとめをつけずに、純粋な野生植物から再びイネとムギの品種を作り上げようとしたら、何年かかったらできるだろうか。 10年か20年か。おそらく、育種学者はその責任を負うのを避けるだろう。ミロのビーナスを再び作ることはできないが、イネやムギの品種も人間は再びそれらを作ることはできないのだ。 近代農業技術は、いま存在するイネとムギの品種が、過去何千年間発展してきたと同じように、将来に向かって、わずかにスピードアップして発展させることができるようになっただけである。
 農耕文化の文化財といえば、農具や技術の何よりも、生きている栽培植物の品種や家畜の品種が重要と言えよう。農業とは文化的に言えば、生きている文化財を先祖から受け継ぎ、それを育て、子孫に手渡していく作業とも言えよう。 その間に植物そのものはどんなに向上してきたのだろうか。これから少し具体的にイネやムギの野生植物と、栽培化された現在の品種との違いをみてみよう。
(『栽培植物と農耕の起源』から)
<稲と稲作との日本への伝来について>  稲は日本には野生しない。また、かつて野生したとも考えられない。それで、稲と稲作との日本への伝来については、従来、南方説、北方説、あるいは南北二源流説等がある。 安藤広太郎博士は「わが国の稲作は、江南地方に於いて稲作を営み、稲を常食とする南方民族の我が北九州及び南朝鮮に移入し来たり、稲作を伝えたるに始まるものと思われ、その稲は江南地方で栽培が発達していた日本型粳稲であった」と推定された。 その時代については「考古学上の弥生式土器時代の西暦紀元前1世紀頃にして、これより多く遡らないものと思われる」と。 これらの推考は考古学、言語学、史学、栽培学、植物学、あるいは人類学、海洋学と、あらゆる面から考察された博士の帰結であった。
 森本六爾氏は「先史時代の農業は弥生式文化と共に、まず日本島の南端にある九州島に伝播した。それは起源1ー2世紀から紀元前後にかけての頃である。 栽培された主な穀物は稲──それも水稲であったらしい」と。日本の前歴史は弥生式時代に入って新しい出発をしたものと思われる。 そしてそれは稲を食物とする人たちの日本に於ける生活に端を発するものと思う。この人たちが、いつ、どこから、いかなる機縁でここに渡来し、まず、どこにどのような生活を始め、それをどのように伝えたか。 このことはわれわれ日本人の誰もが、自分らの歴史の出発点として最も知りたいことであろう。そして、それを少しでも明らかにしてゆくことが稲作史研究会の大きな目的ででであ 安藤博士の研究はわれわれにとって一大指針となるものであった。
 人類が採集の生活から農耕の生活に入ったことは、ここに特定な人類と植物との間の離生的共生のはじまりを意味するものであり、生物界にとっては実に驚くべき新事態であった。 それ以後の人類の生活は、もはやその作物の生活と離れて理解することは困難となり、同時に人類の生活史は、作物の生活史の中に端的に記録されるようになったはずである。 しかし、これらはただ作物自身の中に記録されているに止まるから、その解読は決して容易なものでないのみならず、ここでも途中の記録物はほとんど喪失していると言ってよい。 しかも、この意味でわれわれは稲から、なお何かを読みとろうといつも努力している。これと対応してわれわれはまた民俗の中に残る不文の記録に深い関心をもつ。 そこに相互に解読の鍵を期待している訳でもある。
 研究会の関心は考古学、言語学、史学、人類学、海洋学と更に多岐に亘っている。会では、それらの中から選ばれた問題について、まず誰かが事実や考えを述べ、あとで皆で自由に語り合う形式がとられてきた。 ここに輯録されたのはそれらの中、よく会の目的と輪廊を示しておる第1回と、「稲と水」と「赤米」とについて語られた両度の会の記録である。
  昭和30年11月10日         盛永俊太郎
(『稲の日本史』上まえがき から)
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<主な参考文献・引用文献>
『イネの文明』人類はいつ種を手にしたか        佐藤洋一郎 PHP研究所    2003. 8. 6
『稲』品種改良の系譜                    菅洋 法政大学出版局   1998. 5. 1
『稲作の起源』イネ学から考古学への挑戦          池橋宏 講談社       2005.12.10
『新データブック世界の米』1960年代から98年まで 小田紘一郎 農山漁村文化協会  1999. 3.10
『緑の革命の稲・水・農村』               増田萬孝 農林統計協会    1995. 1.10
『イネの育種学』                    蓬原雄三 東京大学出版会   1990. 6.20 
日本史小百科『農村』                大石慎三郎編 近藤出版社     1980. 1.10
『近世稲作技術史』                    嵐嘉一 農産漁村文化協会  1975.11.20
『古代からのメッセージ 赤米のねがい』         安本義正 近代文芸社     1994. 3.10
『稲作文化』照葉樹林文化の展開       上山春平・渡部忠世編 中央新書      1985. 1.25
『栽培植物と農耕の起源』                中尾佐助 岩波新書      1966. 1.25 
『中尾佐助著作集』第1巻 農耕の起源と栽培植物     中尾佐助 北海道大学図書刊行会2004.12.25 
『現代文明ふたつの源流』                中尾佐助 朝日新聞社     1978. 5.20
『稲の日本史』上       柳田国男・安藤広太郎・盛永俊太郎他 筑摩叢書      1969. 3.30
( 2007年11月19日 TANAKA1942b )
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(11)品種改良は地産地消に反するか?
旺盛な食欲が食生活の新しい時代を開く
  新しい食材が普及する過程は色々なパターンがあった。はじめは拒否反応を示し、恐る恐る食べ始めたり、 誰かが積極的に普及させようとしたり……。大きな影響を与えたのは新大陸=南北アメリカ大陸からヨーロッパへもたらされた農作物だった。 このように、遠くから移入された農作物の他に、品種改良によって今までになかった品種が普及した例もある。日本人の主食である米、生産量のトップはコシヒカリ。 このコシヒカリが生産量日本1位になったのは、1979(昭和54)年、これまで全国の水稲品種中作付率1位だった「日本晴」(平成18年度では、19位、0.9%、1963 愛知県農試)に代わり、コシヒカリが作付率17.6%でトップになり、以後王座は揺るがない。 ササニシキ(1963年 宮城県古川農業試験場)は16位、0.7%。
 現代日本人が食べている米(粳米=うるちまい)はほとんどが戦後育種された品種だ。作付面積上位20位までに、戦前からの品種はなくなっている。 米は日本人の心だ、と言っても、戦前からのコメはなくなっている。せいぜい江戸時代からある赤米が特別に「古い品種を残そう」との趣旨で細々と栽培されているにすぎない。 これはごく自然なことで、心配することではない。消費者の好みに合わせて品種改良が進められた結果であって、むしろ、古い品種がいつまでもあるとすれば、それは品種改良が失敗しているということだ。
 ここで、最近の品種別作付面積の統計を引用してみよう。
<米の品種別作付比率 上位10品種> 
品種名 19年産比率% 18年産比率% 参考7年度産比率% 登録年・育成場所 主な生産県
コシヒカリ 37.7 37.4 28.8 1956 福井農試 新潟、茨城、栃木
ひとめぼれ 10.4 10.5 7.1 1991 宮城県古川農試 宮城、岩手、福島
ヒノヒカリ 10.4 10.5 5.4 1989 宮城県総農試 大分、熊本、福岡
あきたこまち  8.6  9.0 6.6 1984 秋田農試 秋田、岩手、山形
キヌヒカリ  3.4  3.3 2.7 1983 北陸農試 滋賀、兵庫、埼玉
はえぬき  3.1  3.1 1.6 1992 山形農試庄内支場 山形、秋田
きらら397  3.0  3.1 4.2 1988 北海道立上川農試 北海道
ななつぼし  2.0  1.5   ー 2001 北海道立中央農業試験場 北海道
ほしのゆめ  1.9  2.2   ー 1996 北海道立上川農試 北海道
つがるロマン  1.6  1.8   ー 1997 青森農試 青森
 農水省「米穀の需給及び価格の安定に関する基本指針」などから作成
 ひとめぼれ以下つがるロマンまで、すべてコシヒカリを片親に持つ、つまりコシヒカリから品種改良されたもの

<明治時代の品種改良>上の表はすべて戦後改良された品種だ。つまり戦前からの品種は上位10品種には入っていない。 では、これらの品種が生まれる以前にはどのような品種が栽培されていたのだろうか。ここでは明治時代の品種改良について文献から引用することにしよう。
 明治の品種を通覧すると、良質なものは長稈で倒伏しやすく、短稈で多収なものは品質不良であることや、早生種は少収で、晩生種は多収であることなど、当時の品種には長所と短所がハッキリとしていた。 いわゆる品種における美人薄命論といってもよく、人間にとっての希望形質(多収・良質・強稈・耐病・耐冷etc.)の一方に優れるものは他方が劣るということで、天はまさに二物を与えないのである。
 このような、いわば負の遺伝相関を打ち破り良質で多収なもの、良質で耐病性・耐冷性の優れたもの、早生で多収なものというように、二拍子も三拍子も揃ったものを人の手で作り、選んでいくことが品種改良である。 明治時代のおける品種改良の担い手は老農といわれた人々である。彼らによって作られ普及した代表的な品種をあげた。これらの品種は、今日わが国で栽培されている品種の基礎的な育種素材となった貴重なものである。

<明治時代の代表的品種> 
時 代 品 種 名 育 成 者 育 成 の 方 法
1848・嘉永1 関取 佐々木惣吉・三重 中生千本から選出
1873・明治6 赤毛 中山久蔵・北海道 渡島地方から取り寄せたものから選出
1874・明治7 竹成 松岡直右衛門・三重 千本から選出
1875・明治8 亀治 亀田亀次・島根 縮張から選出
1877・明治10 神力 丸尾重治郎・兵庫 程吉から無芒種選出
1882・明治15 愛国 高橋安兵衛・静岡 身上起から早生を選出
1893・明治26 亀の尾 阿部亀治・山形 冷立稲から選出
1895・明治28 坊主 江頭庄三郎・北海道 赤毛から選出
1907・明治40 銀坊主 石黒岩次郎・富山 愛国から強稈を選出
1909・明治42 山本新次郎・京都 日の出から選出


  (『図説・米の品種』改訂版 から)
<国内在来稲品種の徹底整理開始>  わが国の水稲育種が本格的に始まったのは、明治36年とみられる。わずか85年前のことである。 農商務省は、この年に農事試験場が整備されたのを機に研究方向を整え、その重点事項として育種を強化することにした。 畿内支場が米麦の育種に専念することになり、直ちに国の在来品種の収集に着手した。その結果在来品種は3300〜3400の多きにのぼり、 その後3〜4年かかって670に整理して、最終的には全国10地域でそれぞれ優秀品種を発表した。
<育種目標の原型確立される>  明治37年、加藤茂苞によって初めて稲の人工交配による育種が開始され、雑種が20種作られた。 この時期の育種目標は多収・早熟・良質・いもち病耐病性・耐倒伏性・耐虫性・脱粒難などである。
 米を重視するわが国の品種の姿として、これらの育種目標は、その後も時代ごとの社会的要請の差こそあれ、現在に至るまで変わることのない重要なものとして続いている。 この着目の確かさにはただ驚くのみである。
 人工交配による育種が始まったものの、政府による育種は主として、陸羽支場の寺尾博によって始められた純系淘汰法が主体であった。 この時期の育種目標は、さきの目標に加えて耐肥性・耐旱性などであった。当時この純系淘汰法は、多くの在来種の中から優良種を選ぶ手法として効率が高いものであることは、 のちに有名になる「陸羽132号」の親となった「陸羽20号」が、 「愛国」の中から選抜されたことでもわかる。当時各府県の奨励品種は、ほとんどこの純系淘汰法で選抜されたものである。
大正10年ごろからの化学工業の発達により、硫安が安価に供給されるにともない窒素系の施肥量が増え、当時の品種は倒伏そやすくなり、肥料を多く使っても倒伏せずに多収となる品種育成に対する要望が次第に強くなっていった。 純系淘汰法によって選抜された品種で、これらの特性に優れたものの作付面積が次第に増えた。
 大正14年の品種別作付面積(千ha)は「神力」系409.6、「愛国」系223.1、 「亀の尾」系157.7、「坊主」系75.3、「雄町」系61.5、 「豊国」系59.5、「旭」系43,6、「関取」 系31.7、「銀坊主」系20.1であった。 しかし、これらの品種も肥料の増投など栽培技術の変化には十分対応できなかったので、その後改良を必要とするようになっていった。(以下略)
(『図説・米の品種』改訂版 から)
<これからの品種改良の方向>  最近の稲品種改良を巡る動きは従来よりもピッチを速め、これまで画一化された育種の方向に止まらず、かなり多様な対応を要する時代を迎えようとしている。
 わが国の米の品種改良における今後の基本的な課題として、次の4つが挙げられる。
 @ 生産の低コスト化や減農薬化を重視し、良食味に加えて高収量性・耐病虫性・環境ストレス耐性・機械化適性などに優れた品種の育成。
 A 外食化など食の多様化に対応した品種の育成。
 B 酒造用並びに米の有用化学成分の利用を目的とした加工適性の優れた品種の育成。
 C 米の食用以外の利用、例えば飼料化やアルコール化などを狙った超低コスト生産品種の育成。が緊急である。
 しかし、これまでの品種では、今後予想される米利用の多様性に富んだ需要を満たすには不十分であり、残された課題は極めて多い。
 最近の「コシ・ササ」的品種の育成に止まらず、多様化が予想される育種目標を見極めて、その達成を目指す必要がある。そのためには今後ジャポニカを主体にインディカ、ジャバニカ(主としてインドネシア産)の積極的利用を図り、 幅広い遺伝変異を巧みに操作して品種改良を行い、米の需要拡大を図ることは極めて重要であると考えられる。
(『図説・米の品種』改訂版 から)
<ハイブリッドライス>  バイオテクノロジーは”未来を拓く鍵”として、世界の企業が参入して、熾烈な研究開発競争を展開し始めてから久しいが、その後種子戦争も同様にマスコミに大々的に取り上げられた。 ハイブリッドライスもその1つである。米国企業が、中国のハイブリッドライス実用化の画期的な成果に注目し、その権利を得て、国際的な支場開拓に乗り出した。日本もその戦略に含まれ、巷間を賑わし、稲作技術大国を自負する研究陣への大きなインパクトになったばかりでなく、幾つかの企業の参入を促す結果となった。
 その後、米麦等の種子産業に、民間参加の道を開くために法制の見直しが行われた。このような背景があって、わが国においても、実用化を目指した本格的なハイブリッド育種の幕開けとなったのである。
 それまでは、ハイブリッドライスの育種の基礎的研究、つまり、F1種子を効率よく採るために、自殖性作物である稲をいかにして他殖性にするかという遺伝育種学的な研究に長い年月を費やしてきた。
 ハイブリッドライスが、今後わが国の稲作に貢献できるかどうかは、既往の研究成果と中国の実用化された技術をふまえ、有望なヘテローシスを発現する組み合わせの探索、その栽培法や採種等の実用技術の開発という、最も重要な、しかも未踏の問題に挑戦していかなければならないのである。
(『図説・米の品種』改訂版 から)
<食料安保の戦略からもハイブリッドライスの開発を>  TANAKAのコメに関する主張は「食料自給率は気にしなくて良いから、ハイブリッド・ライスを開発せよ」だ。 供給熱量ベースの総合食料自給率が平成10年から40%だったのが、19年になって39%になった。この自給率低下を心配する向きも多いが、自給率自体はそれほど心配する必要はない。 それでも、食料安保という面から言えば、まったく無視するわけにもいかないかも知れない。ではどうするか?答えは「ハイブリッドライスの開発を急げ」だ。
 牛肉・豚肉・鶏肉等肉類の自給率は55%だ。けれども畜産品を考える場合は飼料のことも考えなければならない。 55%とは品目別自給率(重量ベース)でのことで、カロリーベースの食料自給率の計算方法によると、これに飼料自給率を掛けなければならない。 この場合飼料自給率は25%なので、55%に25%を掛けると13.75%となる。つまり肉類の自給率とは、飼料を外国から買ってきているので、55%の4分の1、13.75%ということになる。
 肉類の自給率は、飼料を外国からかってきているので、55%よりも低くなった。別の例をあげてみよう。それはブロッコリーだ。ブロッコリーの自給率は約50%。残りの50%はアメリカから買ってきている。 そのアメリカでのブロッコリーの約70%は日本の「株式会社サカタのタネ」から種子を買って栽培している。これを肉類の計算例を応用すると、50%+(50%X0.70)=85% つまり、 ブロッコリーの、カロリーベースの食料自給率(供給熱量総合食料自給率)は85%ということになる。
 かつて「コメ輸入を自由化したら自給率はどうなるか?」の研究が発表されたことがあった。東京大学グループと青山学院大学グループが発表した。 東大グループは「コメ自給率は20%になってしまう」と結論つけ、青学グループは「それでも20%は確保される」と結論つけた。評価は悲観的、楽観的と違えども、自給率はどちらも20%であった。
 この20%とはどちらも「品目別自給率(重量ベース)」であって、「カロリーベースの食料自給率(供給熱量総合食料自給率)」の考え方を応用すると違ってくる。 ブロッコリーの例でみたように、種子をどこから買ってくるかによって違った数字になる。と言っても現在は各国が勝手に「コシヒカリ」や「あきたこまち」を栽培している。もしこれらがハイブリッド・ライスだったらどうか? 日本の福井農試の「F1コシヒカリ」や秋田農試の「F1あきたこまち」を買ってこなければならない。将来、「わが国の要求を呑まなければ、わが国で栽培されているコシヒカリを売ってあげないよ」と外交交渉で言ってきたら、「結構ですよ。その代わり、種子はおたくの農家には売ってあげないよ」と言えば良い。
 中国ではハイブリッド・ライスが普及している。これに対して、日本ではあまり関心がない。4年ほど前に「品種改良にみる農業先進国型産業論」の中で、「ハイブリッドライスの可能性」として扱ったことがある。  この時は次のように書いた。 上に引用した文を読んで思うのは「関係者同士の一代雑種が必要なようだ」ということ。「ハイブリッドライス」とのテーマで皆同じ様なことを言っている。皆が同じ情報を共有している、ということはいいことかもしれないが、もっと楽観論、悲観論、自分の体験による他人の知らない情報、経済面・政治面からみた評価、いろんな見方があってもよさそうだ。むしろ、雑種の入り込まない「自家不和合性」こそ心配になる。
 中国がハイブリッド・ライスを開発普及させた。それに対して「悔しい」とか「なにくそ、負けないぞ」といった意地とかプライドがまったく感じられない。 生産農家だけでなく研究開発・育成関係者も「コメは粒たりとも入れるな」の決議に甘えている。
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<白菜は日本の基本食?>  新米の飯を、一箸つまむ。見たところは、いつもと、そう違いはない。冷夏に見舞われた北の方の産で、出荷はかなり遅れたらしい。その地で、心労と勤労とを一瞬思い浮かべながら、かむ。▼白菜漬けを、少しつまむ。ご飯のほのかな甘みを、ほどよい酸味が引き立てる。飯をもうひとつまみし、みそ汁をすする。栄養のことはともかくとして、晩秋の「日本の基本食」だけで、ほぼ満ち足りた。 (2003年11月24日朝日新聞朝刊「天声人語」から)
 「ハクサイ(結球白菜)が日本に初めて導入されたのは比較的新しく、1875年であった。……明治末期までは、日本では採種が成功せず、毎年種子は輸入されていたので、栽培は広がらなかった」(平凡社「大百科事典」から)
 天声人語にあるように、白菜は日本のご飯食にピッタリの食材と言える。でもその白菜が日本で栽培されるようになったのは、比較的新しい。清国の原種に頼ることなく国内でハクサイのタネをとることができるようになったのは、沼倉吉兵衛が1916(大正5)年に他の十字科植物の花粉がまざらないようにして、タネをとることに成功してからだった。これは宮城県の松島でのこと。一方、そのころ愛知県の野崎徳四郎も1919(大正8)年にハクサイのタネを取ることに成功した。 1922(大正11)年には宮城県農事試験場から、育種業者として独立した渡辺穎二が新しい白菜の品種を育てることに成功した。1922(大正11)年の農商務省の調べによると、そのころまだ、清国から大量のハクサイのタネが輸入されていたとのことだが、この時期以来だんだんと日本で品種改良されたハクサイのタネに取って代えられるようになっていった。
 白菜の日本での普及に関しては、「日本人が作りだした農産物 」の「タネ作りは種子会社に任せよう」で書いたので、そちらを参照のこと。
<白菜は日本の基本食?>  新米の飯を、一箸つまむ。見たところは、いつもと、そう違いはない。冷夏に見舞われた北の方の産で、出荷はかなり遅れたらしい。その地で、心労と勤労とを一瞬思い浮かべながら、かむ。▼白菜漬けを、少しつまむ。ご飯のほのかな甘みを、ほどよい酸味が引き立てる。飯をもうひとつまみし、みそ汁をすする。栄養のことはともかくとして、晩秋の「日本の基本食」だけで、ほぼ満ち足りた。 (2003年11月24日朝日新聞朝刊「天声人語」から)
 「ハクサイ(結球白菜)が日本に初めて導入されたのは比較的新しく、1875年であった。……明治末期までは、日本では採種が成功せず、毎年種子は輸入されていたので、栽培は広がらなかった」(平凡社「大百科事典」から)
 天声人語にあるように、白菜は日本のご飯食にピッタリの食材と言える。でもその白菜が日本で栽培されるようになったのは、比較的新しい。清国の原種に頼ることなく国内でハクサイのタネをとることができるようになったのは、沼倉吉兵衛が1916(大正5)年に他の十字科植物の花粉がまざらないようにして、タネをとることに成功してからだった。これは宮城県の松島でのこと。一方、そのころ愛知県の野崎徳四郎も1919(大正8)年にハクサイのタネを取ることに成功した。 1922(大正11)年には宮城県農事試験場から、育種業者として独立した渡辺穎二が新しい白菜の品種を育てることに成功した。1922(大正11)年の農商務省の調べによると、そのころまだ、清国から大量のハクサイのタネが輸入されていたとのことだが、この時期以来だんだんと日本で品種改良されたハクサイのタネに取って代えられるようになっていった。
 板倉聖宣著「白菜のなぞ」は中学生でもわかるやさしい文章で、白菜が日本で定着する経緯が詳しく書かれている。品種改良に関するおすすめ本の一冊です。ここからハクサイの国産化についてまとめてみよう。
 ハクサイ国産化の苦労話  私は、はじめ「日本人がハクサイを取り入れたのは明治以後だった」ということがあまりに信じ難いと思いました。そこで、「ハクサイは明治以後、どのようにして日本で栽培されるようになったのか」ということをくわしく調べてみることにしました。すると、調べれば調べるほど、いろんな面白いことがわかってきました。そこで、その結果をお知らせしたいと思います。少し話が長くなりますが、つきあって下さい。
 このような文で始まる「ハクサイ国産化」の話、要約すると次のようになる。
 ハクサイが日本に輸入されたのは1875(明治8)年、民部省の勧業寮という役所が清国の農産物調査のために委員を清国に派遣した。このとき清国農産物調査委員の人々は、清国で立派な白菜を見て喜び、山東菜・白菜・体菜・水菜(きょうな)などのタネを日本に持ち帰った。勧業寮の農務課では、その年のうちに、三田の育種場の畑にそのタネをまいて育てた。それぞれなんとか育ったのに、結球ハクサイは「葉が丸まって玉のようになる」と言われたのに、ついに葉が巻くことなかった。 育種場の人たちは「こいつは、葉がまるまって球になる(結球する)っていうのだけど、本当にそんな作物があるのかなあ」と疑う始末だった。とはいえハクサイの評判はよかった。みんな「ワーッすごい。おいしそうだ」と歓迎した。だから、日本人がこのときまでハクサイを知らなかったのは、食わず嫌いのせいではなかった、と言える。
 さて、これは1年目のこと。三田育種場の人たちは、2年3年と栽培をつづけた。ところがどうしたことか、2年目の出来は良くない。ハクサイは初めから球にはならなかったが、それでも白くて柔らかな葉がたくさん育った。それなのに2年目にはその葉もかなり緑っぽくなり、2年3年とたつにつれて、ハクサイの特徴が薄れていった。それはハクサイだけでなく、フランスから取り寄せた小麦のタネをはじめ、その他の作物もだんだん変化して、その品種としての特徴がなくなってきた。 そこでタネの輸入を請け負ったフランスのタネ屋に相談した。すると「ビルモーラン商会」というフランスのタネ屋さんは、日本でのタネのとり方をたずねた上で「ああ、それはタネの取り方が悪いのです」と言う。さいわいフランスには元植木職人で勧業寮に勤めていた内山平八という人がパリに出張中だったので、1878(明治11)年11月、その内山平八(1852〜1922)さんに「ビルモーラン商会の農場その他に留学して、そこでタネの取り方について実地に教わってきてほしい」と頼んだのだった。
 政府の勧業寮が清国に農産物取調べのため委員を送ったのと同じ1875(明治8)年、東京市の博物館に、清国から根つきの「山東白菜」の見本が3株出品された。そのハクサイは見事に結球していた。結球といえば、キャベツがあるが、キャベツもそのころ三田育種場で試験栽培されていたぐらいだったので、その結球ハクサイを始めて見た人たちは驚いた。 愛知県栽培所(のちの愛知県農業試験所)の人びとは、そのうち2株を分けてもらって、その栽培に取り組むことになった。栽培所主任の戸田寿昌(としまさ)さんと栽培係の佐藤管右衛門さんは「来年の春には花を咲かせて、たくさんタネをとって、ふやすんだ」と張り切った。そして翌年花がさき、実をつけたので、そのタネをまいた。ところが、三田育種場の場合と同じように、葉の色は白くならず、結球もしない。それでも比較的もとのハクサイに近い色、形に成長したものからのタネをとり、育てた。 こうした選抜育種を続けて1885(明治18)年、ついに結球したハクサイのタネを取ることに成功した。東京の三田育種場はハクサイの栽培を断念していたので、愛知県栽培所が日本で最初にハクサイの栽培に成功したことになった。とは言うものの、かなり無理があって、「完全に結球している」とは言えなかった。今で言う「半結球」という状態で、それも、苗が大きく生長したときに、ナワで株の中央部を1回縛り付けておいて、それから数日後にまた、上半分の葉を一つひとつ、丁寧に抱き合わせて、やっとなんとか結球している形にするというものだった。
 愛知県の栽培所では、1885(明治18)年に半結球性の山東白菜の栽培に成功して、そのタネを付近の農家の人たちに分けて、普通の農家でも栽培してもらって売り出すようになっていた。そのとき栽培所の佐藤管右衛門さんにタネをもらって熱心に栽培法の研究を下人に、野崎徳四郎という人がいた。この人が後に「日本で最初の結球ハクサイを完成させるのに成功した」のだった。
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 日清戦争によってハクサイが知られるようになった  野崎徳四郎(1850〜1933)さんは、明治維新になり、農民は名字を名乗り、自分の田畑で好きな作物を作っていいとなると、「少しでももうかる野菜を作りたい」と思い、近くの愛知県栽培所で栽培している作物に目をつけた。そこでは、清国産のハクサイをはじめ、キャベツとかハナヤサイなど外国からやってきた野菜を日本に取り入れる研究をしていた。その栽培所で「山東白菜のタネを分けてくれる」と聞いて、徳四郎さんはイの一番に申し込んで、ハクサイ研究を始めた。 徳四郎さんは、タネをまく時期を変えてみたり、肥料の質や量を変えてみたりしたが、白菜はうまく結球してくれない。当時はまだ、タネの交雑の秘密を明かした小野太郎著「小学理科書」(明治20年)も、横井時敬著「農業読本」(明治25年)もまだ世に出ていなかった。
 名古屋の畑に桜島大根を植えても、2年、3年とそのタネをとって栽培を続けていると、そのタネが普通の大根になってしまうのは、周りの畑にある普通の大根の花粉が桜島大根のメシベの先に着いて交雑してしまうからだった。ではハクサイのメシベの先にはどんな植物の花粉が着くのだろうか?周りにはハクサイを栽培している畑はない。それならば、徳四郎さんの畑の山東白菜のメシベの先には何の植物の花粉が着くのだろうか? 徳四郎さんがそのようなことを考えている頃、福羽逸人著「蔬菜栽培法」が出版される。1893(明治26)年のことだった。そしてこの本を参考にして、少しずつ改良されていった。
 1894(明治27)年7月25日、日本の海軍が清国の軍艦を攻撃して戦争が始まった。そして8月1日には正式に清国に宣戦を布告して朝鮮半島と清国の領土で大規模な戦争が始まった。 このとき、清国に出征した日本の兵隊は、そこの畑でたくさんのハクサイ、白くて結球したハクサイを目にした。そして「日本でも、こんな野菜が作れたらいいなあ」と思った。このように日清戦争のためにハクサイの知名度は高まり、ハクサイの需要が高まった。さらに、兵士のなかにはタネを持ち帰る者もいて、日本でのハクサイ研究が活発になった。
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 本場の清国から輸入しなければならない  日清戦争のとき、戦地でハクサイを見た兵隊は「日本でもこんな野菜が作れたらいいのに」と思い、それを実行した人もいた。たとえば、茨城県出身の大部鋭次郎さんは、故郷の茨城県農会の幹事だった種苗商・鈴木文二郎さんのところに、満州の<直隷白菜>のタネに、<満州での栽培法>を添えて送り届けた。また、仙台の第2師団の岡倉生三参謀は、帰国するとき<芝罘(ちーふ)白菜>のタネを持ち帰って、宮城県立農学校に寄付した。こうして日清戦争をきっかけに茨城県や宮城県でもハクサイの栽培研究が始まることになった。 さらに、1904(明治37)年には日露戦争がおきてたくさんの日本の兵隊が清国に出兵した。そこでまた多くの人がハクサイに関心を持った。
 こうしてハクサイの関心は高まり、栽培研究の行われたが明治年間には、清国産のハクサイのタネに負けないほど良質のタネは日本ではできなかった。1914(大正3)年に出版された香月喜六著「結球白菜」という本は、日本でもっとも早く出版された「ハクサイ栽培の専門書」なのだが、その本でも「本場の清国から輸入しなければならない。<直隷白菜>や<芝罘白菜>などになると、そのタネの値段は内地で売っているものの5倍から10倍にもなることがあるが、1反歩に必要なタネの量はわずかに2合で済むのだから、いくら高くてもその値段は知れている」と書いてある。
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 十字花科の自然交雑  これまでの経過で問題なのは、「日本でハクサイのタネを取ろうとすると、なぜかハクサイのメシベの先に他の植物の花粉がついて、ハクサイが変質してしまう」という問題であった。これには「ハクサイのメシベの先につく花粉はどんな植物の花粉なのか?」を明らかにする必要がある。それと、ハクサイの花が咲いてタネを取るとき、ハクサイのメシベの先にそれらの植物の花粉が混じり合わないようにすればいい。
 こうした問題に取り組んだ人に、宮城県農事試験場の場長兼同養種園長の菅野鉱次郎さんと「伊達家養種園」技師の沼倉吉兵衛さんがいた。 1897(明治30)年に落合与左衛門著「種子交換論」が出版され、「十字花科(アブラナ科)の作物のタネを取るには、とくに花粉の混じり合いを心配しなければならない」ということはかなり知られていた。
 「ツケナ類およびダイコン類、すなわち十字花科植物のタネを取ろうと思ったら、同じ十字花科の植物が近くにない場所でタネを取るようにしなければなりません、そうしないと、近くの十字花科の花粉が混じって、作物の性質が変化してしまうからです。十字花科の作物のその変化はとても速くて、他の作物には見られないことです。しかも、<体菜のタネを取ろうとして、山東菜ともいえず体菜とも言えないような珍しい作物のタネができる>というわけではなくて、<とても作物として栽培する気にもならないような悪い作物>になってしまうことはしばしば経験されてとく知られていることです。 穀類の場合は、花粉が混ざることによってときどき珍しい品種ができたりすることもあるのですが、十字花科植物の場合は、<変種によって珍しい作物ができる>などということはほとんどありません。明治18年に東京の亀戸に<白茎三河島菜>という新しい漬け菜の品種が現れたのは、おそらく山東菜と三河島菜の花粉が交雑して、そのふたつの作物の性質のいいところが伝わって、これまでよりも茎が柔らかで味もよく成長も速いという作物になったのでしょうが、そんなことはごくごく稀なできごとで、たいていは劣等な雑種ができるだけなのです。
 そこで、劣等な雑種になってしまうのを防ごうと思ったら、十字花科植物と接近した土地でタネを取ろうとしてはいけません。しかし、実際に<十字花科植物と遠く離れた土地でタネを取る>なんてことは、とても、困難なことです。<そうしたい>と思ってもなかなか出来ることではありません。そこで、結局のところ劣等なタネを取ることになってしまうのです。それならどうやっていいタネを手に入れて、変種しない作物を栽培するようにしたらいいのでしょうか。それには、タネを原産地から購入するほかありません。少なくとも2,3年に一度は原産地からタネを買わなければいけません」
 この結論では「自分たちで原産地に劣らない上等なハクサイのタネを取ろう」との沼倉さんのもくろみには合わない。「他に十字花科植物がない場所」を探さなければならない。しかし十字花科植物は身近なとことにたくさんある。ダイコンもカブも小松菜もキャベツもアブラナもカラシナも、みな十字花科植物。そればかりではない、ペンペン草のような野生の植物の中にも十字花かの植物がいろいろある。作物になっていないものだけを避けるなら、畑のない山奥に行けばいいが、野生の植物で十字花科全体を避けようとしたら、これは大変なことだ。
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 松島で本格的なタネ作りに成功  沼倉さんと菅野さんはいいことを思いついた。
 「そうだ、離島がある。松島湾にはたくさんの無人島があるじゃないか」
 松島というのは一つの島ではなくて、松島湾にある808(?)もの不思議な形をした小島からなっている。それらの島の多くは農地などできないとても小さな岩山だったが、その中で「馬放島」はかなり大きくて平らだった。沼倉さんと応援の人は島にある十字花科植物を全部調べて、できるだけ根こそぎにした。そして、堆肥をつくり、ハクサイを植える場所を耕した。菅野さんは次のように書いている。
 「馬放島は、冬・春・初夏の三期間を通じて無人島で、かつ禁猟区でした。そこで、キジその他の小鳥より猛烈に襲撃されるなど、予期しない難問がしばしば突発しました。そのため、採種にあたった沼倉氏の苦労は言語に絶するものがありました。そこで、とれたタネの量なども、計画の半分にも達しなかったのですが、ともかくもその目的を達成することができたのでした」
 こうして、沼倉吉兵衛さんは、日本で初めて、他の十字花か植物の花粉が混ざらないようにして、ハクサイのタネを取ることに成功した。そこで、宮城県農会でな、1916(大正5)年以後、清国の原種にまったく頼ることなしに、毎年、養種園内ですぐれたハクサイのタネをとることができるようになった。
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 愛知県でも成功  愛知県の野崎徳四郎さんも負けてはいられない。松島でのハクサイの採種が軌道に乗りかけた大正6年、同じ村のハクサイ採種業者に呼びかけて「愛知白菜採種組合」を組織した。そして同じ年、県庁・愛知試験場・安城農林学校が中心になって野崎さんたちがこれまで栽培してきたハクサイに「愛知ハクサイ」と正式に命名して、そのタネを大々的に売り出すことにした。その翌年、野島さんは松島ハクサイに対抗して、網で囲った農場の中でハクサイのタネを取ることにした。 近くには松島のような離島がなかったので、代わりに、タネをとるハクサイにチョウやハチが他の十字花科植物の花粉を運んでこないように、採種する農場を網で囲った。しかし最初の年は失敗。網のためハクサイに当たる日光が不足してよく育たなかった。そこで、野崎さんは翌大正8年、今度は天井だけガラス張り、周囲を金網張りにしてハクサイの採種をするよう改良した。こうして野崎徳四郎さんたちの「愛知ハクサイ」のタネも、「仙台ハクサイ」と共に、日本の農家のハクサイ栽培を活発化させることに役立つようになった。
 ところで、沼倉さんと同じ宮城県農事試験場に勤めていた人に、渡辺頴二さんという人がいた。この人は大正11年に結婚すると試験場をやめて、育種業者として自立し、新しい白菜の品種を育てることに成功した。私立の渡辺採種場は、最初、馬放島の北東にあるもっと広い桂島に設けられ、その採種場はさらに石浜・宝島・月浜・里浜と、松島湾内の島々の中に発展していった。
 1922(大正11)年の農商務省の調べによると、そのころまだ、清国の芝罘から大量のハクサイのタネが輸入されている、とのことだが、これまで見てきた人びとの努力の結果、清国産のタネは、だんだんと日本で品種改良されたハクサイのタネにとって代えられるようになっていったのだった。
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<今週のポイント>  今週は、米の品種改良と白菜の普及について取り扱った。どちらも日本の食事に欠かせない食材だ。
 米については、「米は日本の文化だ」と言う人もいるほどだが、現在の品種は戦後育成されたものばかり。では、昔の品種改良はどうだったのだろう。 そして、昔の品種は今では栽培されていない。その品種のことをどれだけ知っているだろうか。そのようなことから取り扱ってみた。 実際、米作り農家の人々、「米は日本の文化だ」と言う人、どれほど知っているだろうか。日本の守るべき文化、だとしてもほんの少し前の品種はもう忘れ去られているに違いない。 それほど、米作りは消費者の好みに合わせて変化してきている。「食育」と言うと、生産者が消費者を教育するときに使うようだが、必要なのは「生産者教育」なのではないか。 消費者がどのような好みを持っているのか、それを知ることのほうが大切だと思う。品種改良の歴史は、生産者が消費者に合わせてきた歴史、だと思う。
 白菜について言えば、朝日新聞の天声人語にあるように、日本人の食事にピッタリ適した食材と言える。その食材が中国から来たもので、普及したのは昭和になってからだった、ということは案外知られていないだろうと思う。
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<主な参考文献・引用文献>
『図説・米の品種』改訂版         櫛渕欽也・山本隆一 日本穀物検定協会 1995. 9.20
『白菜のなぞ』                   板倉聖宣 仮説社      1994.11. 1
( 2007年11月26日 TANAKA1942b )
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(12)生産者は「消費者は王様」を理解し
消費者はゆたかな食生活を楽しみましょう
<地産地消の意味> 私たち日本人が口にする食材、その多くは世界各地から集めてきたものだった。これは日本人だけでなく、世界中の人々が、生まれ故郷とは違った土地を原産地にもつ食材を食している。 先進国のグルメ、という点からだけでなく、最貧国の食材であるキャッサバも、元をただせば南アメリカをルーツとする。食材のグローバル化によって先進国ではゆたかな食生活を愉しみ、 最貧国では、最低の主食を確保している。十分ではないが、それでも食材のグローバル化がなければ、もっと悲惨な状況になっていただろうことは想像に難くない。
 「農作物のルーツを探る」の副題は「ゆたかな食生活は反地産地消から」としている。その「地産地消」とはどういうことか、「地産地消という保護貿易政策」で書いた文章をここで引用することにしよう。
……はじめに…… 農水省が、地産地消を推進しようとしている。食料の輸出を推進しようという政策と反対の政策を採用し始めた。 日本が「地産地消」を推進して、諸外国もそれを見習って「地産地消」を推進したら、日本からの食料輸出は拒否される。「わが国も地産地消を進める。従って日本からの食料輸出は拒否する」そして、「食料輸出国は、他国の地産地消政策を阻害している。 直ちに食料輸出を制限すべきだ。そうすることによって、他国の地産地消を支援することになる」という主張が聞かれることになるだろう。
 農水省のホーム・ページでは次のように説明している。www.maff.go.jp/www/press/cont2/20050810press_5b.pdf
 地産地消は、もともと、地域で生産されたものをその地域で消費することを意味する言葉である。新たな基本計画では、単に地域で生産するという側面も加え、「地域の消費者ニーズに即応した農業生産と、生産された農産物・食品を購入する機会を提供するとともに、地域の農業と関連産業の活性化を図る」と位置付けている。
 さらに次のように説明は進んでいく。
 しかしながら、1億2千万人を超える国民に食料を安定供給する必要があるとの観点に立てば、その、すべてを地場産の農産物により供給することは困難である。したがって、地産地消の活動は地場の消費者・実需者ニーズに応えるものとして、地場の生産技術条件や市場条件に見合った可能な方法で経験を積み重ねながら段階的に広げていくことが重要と考えられる。
 その場合、地産地消の概念は、必ずしも狭い地域に限定する必要はない。できるだけ近くのものを優先するのが原則であるが、周年販売や品目・品質上の品揃えを考えると、産地の地域的な範囲は柔軟な拡がりをもって考えた方がよい。最終的には我が国の全域すなわち国産農産物の全体までも射程に置くことの出来る概念だと考えられる。
 したがって、国産品を優先的に消費することを通じて、食料自給率の向上にもつながっていく考えである。このような視点に立って、行政においては、強いニーズがある地産地消を広げていくため、特に、取組が円滑に進められるようにするため、支援を行うべきである。
 (農水省のホーム・ページから)
 「地産地消」とは「国産品愛用運動」に他ならないことがハッキリした。このホーム・ページでは、この「国産愛用運動」が実はかつて大日本帝国がアジア侵略の道を歩み始めたことと大きな関係があるということを説明しようと思う。 かつて「ABCDライン(アメリカ=America・イギリス=Britain・中国=China・オランダ=Dutch)」と呼ばれた日本への経済封鎖と「国産愛用運動」「地産地消」とが、経済学的観点からは大変似ている、ということを書いていくことにした。「身近な所で栽培された農産物を食べるようにしよう」という素朴な運動が「ABCDなどの経済封鎖と同様な経済的影響がある」と言うと「そんな大袈裟な」と言いたくなるかも知れない。 しかし、美食評論家が言うのは、単に趣味・嗜好・主義の問題であってあってどうでもいいことだが、農水省が推進するとなるとこれは国家政策となるので無視するわけにはいかない。
 @「日本株式会社」との表現とはまるで違った、比較的政府の干渉の少ない自由経済であり、A戦前に比べ世界全体が自由貿易であったために、戦後の日本が、同じ戦災を被ったヨーロッパ諸国=フランス、ドイツ、イギリスなどが驚くほどの経済復興をなしとげたのは間違いない。これに関しては <官に逆らった経営者たち><戦後復興政策 ヨーロッパ 西も東も社会主義>を参照のこと。この2つの「経済的自由」とは反対の「地産地消」が経済にどのような影響を与えるのか?それをこのシリーズで書いていこうと思う。 いつもながら、右へ左へのダッチロールを繰り返しながらの進行になると思いますが、最後までお付き合いのほど、よろしくお願い致します。
<選択は消費者に任せるべきだ>  「消費者は王様」「お客さまは神さま」これが市場経済の特徴だ。この消費者・お客さまに気に入られるにはどうしたら良いか?サプライサイドは常に考え、工夫している。 その工夫によって生産活動が進化し、経済が成長する。時には我が儘な、専制君主のような消費者、けれどもそれに応える生産者が結局は勝ち組になっていく。
 地域で生産されたものをその地域で消費することが良い、と考えるなら、そのような食生活をすれば良い。あるいは、たとえ遠い地方で栽培されたものでも、美味しそうだから食べてみたい、と思えばそのようにすれば良い。 大切なことは、消費者が選択の自由を行使できることだ。国の政策としては、消費者がどちらも選べるような制度にしておくのが良い。 「地産地消」のスローガンで「国産品愛用運動」を推進するのは、消費者利益に反する。これまで見てきたように、食生活の歴史は「反地産地消」であった。 これからも そうであることが自然だし、消費者の利益になる。
<王様である消費者が生産を決める=需要が生産を決める>  セイの法則というのがあって、これは「供給はそれ自身の需要を創造する」と要約される経済学の法則だ。これは「消費量は生産量に影響される」と言い替えられる。 これに対してジョン・メイナード・ケインズによる有効需要の原理がある。これは「消費量は総需要に影響される」と表現される。
 農業の分野では、「セイの法則」の発想が生きていて、食料自給率が低いので、大規模農業にして供給を増大させよう、との発想だ。 そして、そうして生産された農作物を、「食育」で消費者を教育し国産品を愛用してもらおう、と関係者は考える。
 消費者のコメ離れは「食育」で日本食愛好者を増やそうと考える。こうした動きに農水省は逆らわない。消費者よりも生産者・農業・「コメを守れ」文化人の方が、役人にとっては怖いようだ。
 食料自給率向上はムリな目標で、それを分かっていながら農水省のお役人さんは抵抗しない。消費者中心の行政を行えば、かつての「日本消費者連盟」の竹内直一氏のように農水省に居られなくなってしまう。 自分の担当中に大きな動きがなければ、平穏無事に他の部署に異動すれば良い。このように考えると農水省に期待するのはやめた方が良さそうだ。
<大阪万博から「ごちそういっぱいの国」になった>  戦後、日本経済が成長し、人々の生活がゆたかになり、食生活もそれまでと違ったものになっていった。 コメ中心の食生活から、肉などの蛋白質が多くなっていった。日本食がヨーロッパ的になっていったとも言えよう。そうした傾向は、必ずしも一本調子で変化していったのではなかった。 「練習高原」という言葉がある。坂道を上るのではなく、階段を上るように、それも踊り場が広い階段のように、しばらくは平地で、急に上り始める。 よたかさも、しばらくは変化がなく、何かのきっかけで大きく変化する。その変化のきっかけは、東京オリンピックであったり、大阪万博であったりした。 2007年11月9日、朝日新聞の「ニッポン人・脈・記」に「万博の味 コックの青春」というシリーズが掲載されていた。この中で、現在日本で活躍する代表的なコックが、大阪万博をきかけに大きく成長していった記事が掲載されていた。 ここから、<「外食元年」世界に出会った>の一部を引用しよう。
 家庭の食卓にお皿がふえて「ごちそういっぱいの国」になる扉は、70年の大阪万博で開いた。 半年で6400万人を集めたイベントは、各国が自慢料理を日本人にふるまう「食の祭典」でもあった。
 会場ではたらく若いコックたちの中に、石鍋裕(いしなべゆたか)(59)もいた。いまや「フレンチの哲人」として知られる彼は、このとき22歳。(中略)
 石鍋にとって、万博は世界の空気を吸うチャンスだった。イタリア館の皿洗いにもぐりこんだ。次にブルガリア館の給仕係。まかないに出る素朴なトマトのパスタ。 初めて口にした甘くないヨーグルト。すべてに触発される。
 チーズを溶かしてジャガイモにつけるスイス料理のラクレット。くるくる回るロースターでつくる鶏の丸焼き。料理の見せ方もおもしろかった。
 各国パビリオンのスタッフと親しくなり、空き時間に調理場を手伝った。夜はいっしょに遊び、会場に戻ってベンチで2〜3時間の仮眠。 明るくなると起きて、また仕事。「楽しくて楽しくて」
 万博の翌年、石鍋はパリに旅立った。そのころフランスの料理界には、素材の持ち味を生かす「ヌーベル・キュイジーヌ」と呼ばれる新しい風が吹いていた。 石鍋は「マキシム」などの一流店で5年間もまれ、その現場の技術とセンスを身につけ帰国した。
 82年、東京・西麻布に、多くの日本人に親しめるフランス料理を、と「クイーン・アリス」1号店をひらいた。現在は、イタリアン、ベトナム料理など様々なタイプの店をつくり、大阪、愛知、香川などにも展開する。
 「どこへいっても物おじしない度胸を、僕は万博にもらった」(中略)
 当時の新聞や雑誌には、万博の料理に「値段ベラボウ、味まあまあ」と辛口批評もあった。日本人に外食が身近になる「外食元年」ともいわれる。 そして、コックたちの青春があった。
(「朝日新聞」2007.11.9 1面から)
 グローバリゼーションにより社会は進化する。グローバリゼーションにより食生活も進化する。 人々はその進化に素直に順応し、ゆたかな食生活を楽しむ。ごく一部の臍曲がりと既得権者は「格差助長」を理由に批判する。 そうした批判がありながらも確実に社会・食生活はゆたかな方向へ向かって進化をする。
<三つ星が8つも、全部で星が150>  「ミシュランガイド」の東京版(22日発売)の内容が11月19日発表された。最高の料理と評価される「三つ星」には、すし屋2店を含む計8店が選ばれた。
 三つ星以外で東京版に掲載されたレストランの内訳は▽二つ星25店▽一つ星117店。三つ星を含む計150店は都市別で世界最多。 また、三つ星8店はパリの10店に次いで多く、これでミシュランガイドの三つ星レストランは世界で68店になった。
 日本の食生活がゆたかになったことがこれで世界的に認められることになった。それぞれの星の店を列挙してみよう。
★三つ星に選ばれた店★
かんだ(和食)、 カンテサンス(現代風フランス料理)、 小十(こじゅう、和食)、 ジョエル・ロブション(現代風フランス料理)、  すきやばし次郎(すし)、 鮨水谷(すし)、 濱田家(和食)、 ロオジエ(フランス料理) 
★二つ星に選ばれた店★
石かわ(日本料理)、 一文字(日本料理)、 臼杵ふぐ山田屋(日本料理 ふぐ)、 えさき(日本料理)、 エメ・ヴィベール(フランス料理)、  菊の井(日本料理)、 キュイジーヌ〔s〕ミッシェル トロワグロ(現代風フランス料理)、 湖月(日本料理)、  さわ田(日本料理 すし)、 サンパウ(現代風スペイン料理)、 鮨 かねさか(日本料理 すし)、 醍醐(日本料理)、  拓(日本料理 すし)、 つきじ 植むら(日本料理)、 つきじ やまもと(日本料理 ふぐ)、 トゥエンティ ワン(フランス料理)、  ピエール・ガニェール(現代風フランス料理)、 菱沼(日本料理)、 福田家(日本料理)、 ラトリエ ドゥ ジョエル・ロブション(現代風フランス料理)、  リストランテASO(現代風イタリア料理)、 龍吟(現代風日本料理)、 ル・マンジュ・トゥー(現代風フランス料理)、  ●(がんだれの中に萬)家菜(中華料理)、 和幸(日本料理) 
★一つ星に選ばれた店★
あさぎ(日本料理 天ぷら)、 味満ん(日本料理 ふぐ)、 阿部(日本料理)、 あら井(日本料理)、 あら(漢字は鹿三つ)皮(ステーキハウス)、  アルジェントASO(現代風イタリア料理)、 アルバス(フランス料理)、 アロマフレスカ(現代風イタリア料理)、 うを徳(日本料理)、  うかい亭(日本料理 鉄板焼き)、 うち山(日本料理)、 海味(日本料理 すし)、 恵比寿(日本料理 鉄板焼き)、  大野(日本料理)、 オオハラ・エ・シーアイイー(フランス料理)、 小笠原伯爵邸(現代風スペイン料理)、 翁(日本料理 そば会席)、  オーグードゥジュール ヌーヴェルエール(フランス料理)、 おざき(日本料理)、 おはらス(フランス料理)、 ガストロノミー フランセーズ タテルヨシノ(現代風フランス料理)、  きくみ(日本料理)、 キャーヴ ひらまつ(フランス料理)、 久兵衛(日本料理 すし)、 銀座寿司幸本店(日本料理 すし)、  銀座ラ・トゥール(フランス料理)、 クーカーニョ(現代風フランス料理)、 クチーナ・ヒラタ(イタリア料理)、  クレッセント(フランス料理)、 けやき坂(日本料理 鉄板焼き)、 コジト(フランス料理)、 古拙(日本料理 そば会席)、  小室(日本料理)、 近藤(日本料理 天ぷら)、 桜ケ丘(日本料理)、 櫻川(日本料理)、 笹田(日本料理)、 さざんか(日本料理 鉄板焼き)、  ザ・ジョージアン・クラブ(フランス料理)、 三亀(日本料理)、 シェ・イノ(フランス料理)、 シェ トモ(現代風フランス料理)、  シェ・松尾(フランス料理)、 シグネチャー(現代風フランス料理)、 重よし(日本料理)、 シュマン(現代風フランス料理)、  招福楼(日本料理)、 真(日本料理 すし)、 すがわら(日本料理)、 すし おおの(日本料理 すし)、 鮨 さいとう(日本料理 すし)、  すし匠 齋藤(日本料理 すし)、 鮨 なかむら(日本料理 すし)、 すずき(日本料理)、 赤芳亭(日本料理)、  竹やぶ(日本料理 そば会席)、 たつむら(日本料理)、 タテル ヨシノ(現代風フランス料理)、 田はら(日本料理)、  竹葉亭(日本料理 うなぎ)、 チャイナブルー(中華料理)、 中国飯店 富麗華(中華料理)、 トゥールダルジャン(フランス料理)、  とうふ家うかい(日本料理)、 と村(日本料理)、 とよだ(日本料理)、 ドン・ナチュール(ステーキハウス)、 中嶋(日本料理)、  なだ万 山茶花荘(日本料理)、 なだ万 ホテルニューオータニ店(日本料理)、 ナルカミ(フランス料理)、 花山椒(日本料理)、  青空(日本料理 すし)、 万歴龍呼堂(日本料理)、 ピアット スズキ(イタリア料理)、 樋口(日本料理)、 ひのきざか(日本料理)、  ひらまつ(フランス料理)、 ひろ作(日本料理)、 深町(日本料理 天ぷら)、 福樹(日本料理)、 ブノワ(現代風フランス料理)、  ベージュ(現代風フランス料理)、 まき村(日本料理)、 未能一(日本料理)、 ミラヴィル(フランス料理)、 六雁(現代風日本料理)、  室井(日本料理)、 メゾン・ド・ウメモト 上海(中華料理)、 メゾン ポール ボキューズ(フランス料理)、 モナリザ(フランス料理)、  桃の木(中華料理)、 森本 XEX(日本料理 鉄板焼き)、 山さき(日本料理)、 やま祢(日本料理 ふぐ)、 有季銚(日本料理)、  ゆう田(日本料理 すし)、 幸村(日本料理)、 よこ田(日本料理 天ぷら)、 与太呂(日本料理 天ぷら)、 よねむら(現代風日本料理)、  よねやま(日本料理)、 ラ・ターブル・ドゥ・ジョエル・ロブション(現代風フランス料理)、 ラ・トゥーエル(フランス料理)、  ラノー・ドール(フランス料理)、 ラ プリムラ(現代風イタリア料理)、 ラ・ボンバンス(現代風日本料理)、 ラリアンス(現代風フランス料理)、  ランベリー(現代風フランス料理)、 リストランテ濱崎(現代風イタリア料理)、 リストランテ ホンダ(現代風イタリア料理)、  ル・シズイエム・サンス(現代風フランス料理)、 ル・ジュー・ドゥ・ラシエット(現代風フランス料理)、 レ・クレアシヨン・ド・ナリサワ(現代風フランス料理)、  レザンファン ギャテ(フランス料理)、 レ セゾン(フランス料理)、 分とく山(日本料理) 
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<キーワードは「ゆたかな社会」>  人々の生活で食材がゆたかになって、食生活だけでなく生活全体がゆたかになる。そして、経済的にゆたかになると、「地産地消」ではなく、遠い地域からでも美味しい食材を求めて、多彩な食材が食卓を彩ることになる。 経済的なゆたかさと、食生活のゆたかさが相互作用的に進化していく。そうした進化に嫉妬する人が理由をつけて、地産地消を主張する。 けれども人々のゆたかさを求める動きは止まらない。経済的ゆたかさを求めて革新が進むように、反地産地消の動きによって、ゆたかな食材が食卓を彩り、食生活もゆたかになっていく。
 「農作物のルーツを探る」と、こうした「ゆたかさ」と経済的なゆたかさとの関連に気付くことになる。
 「反地産地消」の動きから、食材のグローバリゼーションが始まり、人々はゆたかな食生活を楽しむことになった。このシリーズ、ごく自然な結論に達したようだ。 最後までお付き合いのほど、感謝いたします。
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<主な参考文献・引用文献>
『食と農の戦後史』                    岸康彦 日本経済新聞社   1996.11.18
『食の戦後史』                      中川博 明石書店      1995.10.31
『京の伝統野菜と旬野菜』               高嶋四郎編 トンボ出版     2003. 6.10
『江戸の食生活』                    原田信男 岩波書店      2003.11.27 
『江戸の旅文化』                    神崎宣武 岩波新書      2004. 3.19
『江戸のファーストフード』              大久保洋子 講談社       1998. 1.10
『日本の食文化』                    平野雅章 中公文庫      1991. 1.10 
『野菜』在来種の系譜                   青葉高 法政大学出版局   1981. 4.10
『青葉高著作選』U 野菜の日本史             青葉高 八坂書房      2000. 7.30 
『食生活の歴史』                    瀬川清子 講談社学術文庫   2001.10.10 
『日本史再発見』                    板倉聖宣 朝日新聞社     1993. 6
『世界を変えた野菜読本』    シルヴィア・ジョンソン 金原瑞人 晶文社       1999.10.10
『世界を制覇した植物たち』      大山莞爾・天知輝夫・坂崎潮 学会出版センター  1997. 5.10
『歴史を変えた種』  ヘンリー・ボブハウス 阿部三樹夫・森仁史訳 パーソナルメディア 1987.12. 5
『じゃがいもの旅の物語』                杉田房子 人間社       1996.11. 7
『トマトが野菜になった日」               橘みのり 草思社       1999.12.25
『世界を変えた作物』              藤巻宏・鵜飼保雄 培風館       1985. 4.30
『自殺する種子』遺伝資源は誰のもの?          河野和男 新思索社      2001.12.30
『イネの文明』人類はいつ種を手にしたか        佐藤洋一郎 PHP研究所    2003. 8. 6
『稲』品種改良の系譜                    菅洋 法政大学出版局   1998. 5. 1
『稲作の起源』イネ学から考古学への挑戦          池橋宏 講談社       2005.12.10
『新データブック世界の米』1960年代から98年まで 小田紘一郎 農山漁村文化協会  1999. 3.10
『緑の革命の稲・水・農村』               増田萬孝 農林統計協会    1995. 1.10
『イネの育種学』                    蓬原雄三 東京大学出版会   1990. 6.20 
日本史小百科『農村』                大石慎三郎編 近藤出版社     1980. 1.10
『近世稲作技術史』                    嵐嘉一 農産漁村文化協会  1975.11.20
『古代からのメッセージ 赤米のねがい』         安本義正 近代文芸社     1994. 3.10
『稲作文化』照葉樹林文化の展開       上山春平・渡部忠世編 中央新書      1985. 1.25
『栽培植物と農耕の起源』                中尾佐助 岩波新書      1966. 1.25 
『中尾佐助著作集』第1巻 農耕の起源と栽培植物     中尾佐助 北海道大学図書刊行会2004.12.25 
『現代文明ふたつの源流』                中尾佐助 朝日新聞社     1978. 5.20
『稲の日本史』上       柳田国男・安藤広太郎・盛永俊太郎他 筑摩叢書      1969. 3.30
『図説・米の品種』改訂版           櫛渕欽也・山本隆一 日本穀物検定協会  1995. 9.20
『白菜のなぞ』                     板倉聖宣 仮説社       1994.11. 1
『朝日新聞』2007.11.9 朝刊                   朝日新聞社     2007.11. 9
( 2007年12月3日 TANAKA1942b )
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