農作物のルーツを探る
ゆたかな食生活は地産地消から


TANAKA1942bです 「コメは自由化すべきだ」 と主張します   アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します        If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain.――Winston Churchill    30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない。――ウィンストン・チャーチル       日曜画家ならぬ日曜エコノミスト TANAKA1942bが経済学の神話に挑戦します     好奇心と遊び心いっぱいのアマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します     アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します


2007年12月3日更新  
……… は じ め に ………
 今日、日本では人々がゆたかな食生活を愉しんでいる。「グルメブームは一部の人たちのもので一般人には関係ない」などと言う臍曲がりがいたとしても、戦前・戦後の苦しい食生活の時期から比べれば、現在、日本人がゆたかな食生活を愉しんでいることは間違いない。 そのゆたかな食生活を支えているのは、「日本に古来からあった食材に加えて、世界各地から豊富な食材が持ち込まれて来たからだ」と言える。 農作物で日本が原産地と言えるのは、ワラビ、ウド、ツワブキ、フキ、タラ、オカヒジキ、アシタバ、 ミョウガ、セリ、ハマボウフウ、ミツバ、ジュンサイ、ワサビ、ニラ、サンショウ、ジネンジョ、 ユリ類、カンゾウ類、ギボウシ類、きのこ類、山菜類などだ。もし地産地消を厳密に実行しようとすれば、日本の食事は実に貧しいものになる。 言い替えれば、現代日本人のゆたかな食生活を支えているのは、「反地産地消の精神」に基づいて世界中から美味しい食材を求めてきて、消費者に提供しているからだ、と言える。 では、実際にどのような食材が、世界のどこを原産地として品種改良され日本の食卓に上がっているのだろうか?農作物の原産地を探り、それがどのようにして日本の食卓に並ぶようになったのか? 食材・農作物のグローバリゼーションを探ることにした。TANAKAは「コメは自由化すべし」と考えている。農作物の輸入を自由化し、コメの輸入も自由化して、ゆたかな日本の食卓をさらにゆたかにすることによって、 現代の「ゆたかな社会」を実感できれば良いことだ、と思う。

農作物のルーツを探る  ゆたかな食生活は地産地消から
 (1) 「たけのこ生活」から「ゆたかな食生活」へ 敗戦直後の食糧難を振り返ってみる ( 2007年9月17日 )
 (2) コシヒカリ育成に見る品種改良の意味 F1ハイブリッド・トマト「桃太郎」ほか ( 2007年9月24日 )
 (3) 江戸時代の少ない食材を生かした食生活 庶民の日常と滅多にないハレの世界 ( 2007年10月1日 )
 (4) 新世界からの貴金属以上の贈り物 コロンブス以後西欧での農作物の多様化 ( 2007年10月8日 )
 (5) アイルランドの歴史を変えたジャガイモ これがなかったらドイツ料理はどうなる ( 2007年10月15日 )
 (6) アメリカで品種改良されたトウモロコシ 最近の話題はバイオエタノール原料 ( 2007年10月22日 )
 (7) ケチャップにより一気に普及したトマト 日本ではチキンライスによって普及 ( 2007年10月29日 )
 (8) ヨーロッパにはなかったマメ類やナッツ インゲンマメ・ピーナツ・カシューナッツ ( 2007年11月5日 )
 (9) トウガラシ・カボチャ・パイナップル・キャッサバ 香辛料・野菜・果物・主食穀物 ( 2007年11月12日 )
 (10)イネがたどった長い旅路を考えてみる 諸説を読んで想像力を働かせてください ( 2007年11月19日 )
 (11)品種改良は地産地消に反するか? 旺盛な食欲が食生活の新しい時代を開く ( 2007年11月26日 )
 (12)生産者は「消費者は王様」を理解し 消費者はゆたかな食生活を楽しみましょう ( 2007年12月3日 )

趣味の経済学 アマチュアエコノミストのすすめ Index
2%インフレ目標政策失敗への途 量的緩和政策はひびの入った骨董品
(2013年5月8日)

FX、お客が損すりゃ業者は儲かる 仕組みの解明と適切な後始末を (2011年11月1日)
コメ自由化への試案 Index

(1)「たけのこ生活」から「ゆたかな食生活」へ 
敗戦直後の食糧難を振り返ってみる
  「食と農」という言葉をキーワードにすると、それに続く文章は大体決まってくる。「現代は飽食の時代」と「自給率低下」が織り込まれた文章になってくる。 さらに続くのは「地産地消」であったり「食育」であったりする。そこには「消費者は国内の農業生産力が低下している現実を知らない」「昔からの食生活を忘れ、偏った食生活に陥っている」と消費者非難が続き、 「自給率向上」と「生産者保護」へと話しは続く。
 こうした立場で戦後の「食と農」をから語るとどうなるか、ごく標準的な見方からの文章を引用してみよう。ただしTANAKAの見方は少し違うので、それは後で書くことにして、 先ずは、日本経済新聞社論説委員・岸康彦著『食と農の戦後史』から引用してみよう。
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<敗戦後の「食と農」の変化に対する一般的な見方>   第2次世界大戦に敗れてから半世紀、日本人の食生活は目覚ましい変化をとげた。ひと口で言えば飢餓から飽食への年月である。 日本に飢えのの時代があったことを記憶している人は年々減り、私たちの周りにはあふれるほどの食べ物がある。
 しかし、飽食を満喫している消費者たちは、あり余る食べ物がどのように生産されているかが見えにくくなっている。 だれもが家族の健康と安全を願い、心のどこかに「本当に安心できるものを食べているのか」「こんなに輸入食品が増えて、将来、日本の農業は大丈夫なのか」など漠然とした不安を抱きながらも、 生産の場にまではなかなか目が届かないのが現実だろう。
 最近では飛行機や自動車の絵は上手に描けるが、ブタやニワトリは正しく描けない子供が少なくないと聞く。 都会に生まれ、都会に育つ人の割合がますます高まっているのだから、無理からぬことではあるが、今の状態が正常とは思えない。 生産と消費の間に断絶が生じているのである。
 この点は農業の側にも責任がある。米価要求運動に台布王されるように、戦後の日本農業は農政依存型になりすぎて、消費者が何を求めているかに鈍感だった。 農家は作ることだけを考え、また農業団体はもっぱら国に要求することに力を入れて、食べる側との交渉や都会に向けての情報発信が少なかった。
 食品工業や外食産業の発展は、疑いもなく私たちの「食」の世界を豊にした。家庭で料理をつくる代わりに加工食品を利用して、レストランへ食べに行く。 あるいは弁当やファーストフードを買って手軽に食事をすます。このような「食の外部化」が食文化の歴史に新しい1ページを加えたことは間違いないが、その半面、 外部化が進めば進むほど、作る側と食べる側のつながりが稀薄になることも避けられない。(中略)
 飢餓から飽食へと時代が移る中で、私たちの得たものは多かった。しかし、同時に、失ったものも少なくないのではないか。たとえば農産物の味である。 野菜はもちろんミカンなどの果物までが、ボイラーで温めたハウスで育てられている。そのこと自体は農業技術の進歩によるものであり、おかげで私たちは、食べたい時いつでも食べられる便利さを手に入れたが、それと引き換えに本物の味を忘れかけている。 私たちにとって「食べる」とはどういうことなのか、この点も本書を通じて問い直したい。
 世界中のおいしいものを食べられる消費者は恵まれている。けれどもその陰で日本農業が後退に後退を重ねていることも見落としたくない事実である。 (『食と農の戦後史』から)
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<こうした見方とは違った視点でゆたかな食生活を考えます>  上記文章は日本経済新聞社論説委員の文章です。日本の代表的な見方かも知れませんが、TANAKAは違った視点で、農業を考えてみます。
 敗戦後日本人はイデオロギーを捨てた。ごく一部の人が「共産主義」というイデオロギーに固執したが、多くの国民は「生きること」に精いっぱいだった。 工業生産力は落ち込み、海外からの帰国者が溢れ、食糧不足は深刻だった。「食糧がない」「食えない」ということがどんなに苦しいことか、国民は知った。
 都会の人たちは知り合いを頼み、タンスの中から衣服を持ち出し、それと引換に農村からサツマイモやコメをもらって、満員列車に乗って、警察の目を気にしながら持ち帰った。
 「都市と農村の格差」で言えば、農村優位は絶対であった。食糧不足がどれほど社会不安に繋がるか、一種のトラウマとなって日本人の心に刻まれた。
 そうした苦しい生活の経済の成長と共に和らいでいった。フランス・イギリス・ドイツなどヨーロッパ諸国がソ連とは違う社会主義経済を追求したのに対して、 日本では比較的政府の干渉の少ない自由経済であった。工業生産部門では政府の保護を強調する人もいるがむしろ「官に逆らった経営者」がハイリスク・ハイリターンの経営にチャレンジし、 それに続く企業が日本経済を成長させた、
 ある地域での食糧生産力とそこで養える人口とは密接な関係がある。とくに、江戸時代のように食糧の輸入がなければ、日本列島で生産される食糧に、列島の人口は制限される。 敗戦後、日本列島での食糧自給が始まって、海外からの引き揚げ帰国者が溢れ、食糧供給力以上の人口が増え、それによって多くの日本人は「飢え」を経験した。
 この「飢え」を解消するには、方法は2つ。@食糧生産力を上げる。A海外から食糧を輸入する。日本ではAを採用した。
 戦後の大きな社会改革の1つである「農地改革」、これは生産量アップを目指したのもではなく、農村部の民主化を目指したものであった。Aの食糧輸入に関しては、工業製品を輸出することにより、食糧輸入を可能にした。 戦前と違い、自由貿易であったことも幸いした。
 アメリカほどではなかったが、自由世界の中では比較的自由経済であったため、国民の「豊になりたい」との努力がみのり、 経済は大きく成長した。豊になったことにより、食生活も大きく変化した。昔からの食生活が西洋風に変わり、農業生産が変化についていけず、食糧自給率は低下した。 工業生産力の向上により、食糧輸入は容易になり、消費者は安い輸入食料を求めるようになった。消費者の食生活の変化と経常収支の黒字がこの傾向に拍車を掛けた。
 カロリーベースでの総合食糧自給率は現在40%。日本人のカロリーはその40%を日本の農家の生産した食糧により賄い、残り60%は海外からの輸入による。 その輸入は工業製品の輸出により可能になった。つまり、日本人は食糧の40%を日本の農家にたより、残り60%は工業労働者の汗によって賄われている、と言える。
 こうした状況を見て、食料自給立の低さを嘆く人もいるが、むしろこの狭い日本列島でこの人口を養っていける工業生産力を評価すべきだと思う。敗戦後日本が目指したのはこの様な社会であったのだからだ。
 さて、ゆたかになった日本人の生活は「地産地消」とは違った道を歩んでいる。安くてうまい物ならば、世界中から買い求めて豊かな食生活を楽しんでいる。 この生活、しかし、豊になる前から、日本人は「地産地消」ではなく、良いのもは産地に拘らず楽しんでいた。そして、この傾向は日本人に限らず、世界中の人々が「地産地消」とは違った生活をしていたことに気付くはずだ。 人類は「地産地消」とは違う生活をしてきたのだった。
 このホームページでは「農作物のルーツを探る」と題して、日本人を含む世界の人びとがどれほど貪欲は食生活して来たかを探って見ようと思う。 今、私たちが食べているものが、原産地でのものと如何に違うか。どのようにして自分たちに適した食料へと変化させてきたか、多くの文献を基に「豊かな食生活は反地産地消から」というTANAKAの考えをまとめることにした。
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<「たけのこ生活」から飽食・グルメへ=敗戦から21世紀への道のり>  1930年代の世界大不況で各国は自由貿易を捨て、輸入制限を始めた。ヨーロッパの植民地大国は域外からの輸入を制限し始めた。 これによって日・独・伊は自給自足を満たすため資源の供給地、そして製品の輸出先である植民地を拡大しようとし、既得権を持っている国と衝突し、ここに第2次世界大戦が始まった。
 このことを教訓に大戦後は自由貿易を推進すべくガットが調印された。制度上の自由貿易は保証されたが、敗戦によって産業施設を破壊された日本は、輸出産業がなかった。 貿易は自由であっても、輸出して外貨を稼がないと輸入する原資がなかった。したがって敗戦直後の日本では自給自足・地産地消をやっていた。 外地からの引揚者も増加し、食糧不足は深刻であった。庶民はたけのこ生活を強いられ、買い出し、かつぎ屋、闇市が栄えた。それでも絶対量が不足するので栄養失調も深刻であった。 こうした敗戦直後の状況について『食と農の戦後史』から引用してみよう。
銀シャリとヤミ市  8月15日はふつう「終戦の日」または「終戦記念日」と呼ばれている。しかし、そのころの生活を顧みれば、単に第2次世界大戦が終わったことを意味する「終戦」という言葉はいかにもそらぞらしい。 戦火に焼かれたこの国で、人々は飢えをしのぐのに精いっぱいであり、明日を考えるより今日をどう食いつなぐかに疲れ果てていた。 そのにあったのは紛れもなく「敗戦」であり、「無条件降伏」の現実だった。焼け跡で、人々はどんなものを食べていたのだろうか。 当時16歳だったジャーナリストの林信彰が、1945(昭和20)年8月15日の食事内容を書き残している。もちろん家により、ところによって差はあったが、おおよその様子は戦争を知らない世代にも感じとってもらえるだろう。

 「朝はサツマイモの雑炊である。サツマイモといえば聞こえはいいが、種イモとして使ったカスを切り干しにした粉である。かすかに甘味はあるが、それよりも強い苦みがある。 少し食べ過ぎると下痢を起こすという代物だ。昼は動員先の工場でニギリメシが出た。これは一見赤飯のように見える。終戦を祝って赤飯を炊いたわけではない。 フスマが大量に混入されているからだ。そして夕食はスイトンである。戦争が終わったということで、だいじにしてきたダイズとコンブを煮込んだ缶詰1個が、おかずとして開けられたのである。 この食事、いったい何カロリーあったであろうか。それより、空腹はしのげたにしても、栄養としてはたしてどれだけ吸収されただろう」

 戦争中はほとんどあらゆる物資が配給制だった。書食の配給量は45年7月11日(大都市では8月11日)から成人1人1日当たり2合1勺(297グラム)になっていた。 質はともかく、量は41年4月以来の2合3勺(330グラム)配給を維持するという建前を保ってきたが、敗戦直前になってついに1割削減に踏み切らざるをえなかった。 在庫が不足していただけでなく、米軍機の空襲が大都市から全国に広がって、鉄道輸送が間に合わなくなったのである。
 297グラムに365日を掛けると年間では108キログラムである。現在、コメの消費量は1人1年に70キロを切っているから、108キロは十分な量ではないかと思う太がいるかもしれない。 しかし主食といってもコメだけでなく、ほかに麦、雑穀、澱粉、イモ類などが含まれていた。同じご飯でも、白米だけで炊いたものは「銀シャリ」または「銀めし」と呼ばれた。 このころには庶民が銀シャリにありつくことなど、まず不可能だった。
 魚や野菜のような副食が、特に都市部ではきわめて乏しかった時代であることも忘れてはならない。まして、肉、牛乳などの畜産物が食卓にのぼることはまれだった。 今日とちがって、頼りになる栄養源はコメだけしかなかったと言ってもよいころである。事実、戦前の日本人は1年におよそ1石(約150キロ)のコメを食べていた。
 2合1勺の食糧配給量は1042キロカロリーと計算されていた。そのころ栄養学者が生存に裁定必要としていたカロリーのおよそ65%でしかない。 たまに配給されるコメも5分づきのため「半つき米」と呼ばれた。この半つき米を白米にするには、1升びんに入れて股の間にはさむなどして支え、棒を差し込んで時間をかけてつく。 気の長い精白作業はしばしば子供の役目になっていた。乏しいながらも身のまわりに食べるものが何かあった農村地帯はともかく、都会では毎日が飢えと隣り合わせの暮らしだった。
 都会のあちこちに、戦争が終わるとほとんど間をおかず、ヤミ市(青空市場)ができた。統制の網をくぐったヤミ取引の食料品をはじめ、さまざまな品物が売られていた。 農家からブローカーが買ってきた農産物、旧軍隊から流出した加工食品や日用品など、出所の明らかでない品物が雑然と並んでいた。人々はバラックの雑炊食堂でかろうじて胃袋を満たし、めぼしいものはないかとヤミ市をあさった。
 東京の場合、45年12月現在でおよそ1万7,000のヤミ市があり、そこに店を出した商人は8万人にのぼってとされる。 時々、警察が取り締まりをしたが、ヤミ市は都会人の生活になくてはならぬものになっていただけに、その効果は薄かった。
 しかしヤミ値は高い。カネのない庶民には、にぎやかなヤミ市もしばしば欲求不満を募らせるだけの結果になった。次の例は敗戦2年目の46年になってからの東京での話しだが、ヤミ市では似たようなことを多くの人が経験している。

 「初月給210円を懐に、今晩のおかずでも買って両親を喜ばせようと、新橋駅前のヤミ市へ足を踏み入れた。 (中略) ふとわらに通した3匹の目刺しが目についたので、「よし、これだ!」と値札を見ると、なんと百円とあるではないか。瞬間、くらくらっと軽い目まいがしたのを覚えている。 「おい、お兄さん、買うのか買わねえのかよ!」と、頭にねじり鉢巻きをした若い男が威勢のよい声を背中に浴びながら、すごすごときびすを返した」

 街には家も職もない人々や戦災孤児たちがさまよい、駅や公園、地下道をねぐらにしていた。 今日で言えばホームレスということになるが、状況の深刻さは比べ物にならない。飢えと病気、夜の冷え込みで行き倒れになる人も続出した。 当時の新聞によると、浮浪者のたまりとして知られた東京の上野駅で、45年10月には1日平均2.5人、多い日には6人もの餓死者が出た。 大阪市内でも餓死者は8月60人、9月67人、10月には69人を数えた・この記事には「始まっている「死の行進」、餓死はすでに全国の街に」という見出しがついていた。
滞りがちな配給  悪いことに、45年産のコメは1905(明治38)年以来40年ぶりの凶作だった。水稲の作況指数は67にとどまり、生産量は陸稲を合わせても587万トン(3915万石)と、前年より約300万トン少なかった。 生産量が500万トン台に落ちたのも40年ぶりである。
 もっとも、敗戦で統計調査組織の機能が麻痺し、被害が実態以上に大きく報告されたことも事実らしい。統計上の収穫量が少なければ供出の負担は軽くなり、農家にとってはありがたいことになる。 農業生産を所轄する農林省や、対日占領政策の実施機関である連合国軍総司令部(GHQ)も、この数字を頭から信じていたわけではない。 農林省内では当時、個人的にではあるが、750万トン(5000万石)を下ることはないと推計した人もいる。この量であれば、東北に大冷害が発生した1934(昭和9)年とほぼ同じになる。
 そのような混乱はあったにしても、凶作であったことは間違いない。もともと戦争で肥料の生産が不足していたうえ、男手を戦地や工場に取られて田畑は十分な管理ができなかった。 今のようにトラクターや田植え機、コンバイン(収穫機)といった便利な機械があるわけでもなく、農薬もほとんどなかった。 生産基盤が弱くなっていたところへ、この年には稲の生育期に不順な天候が続いたうえ、収穫期にダメ押しの台風や水害に襲われるという不安も重なった。
 戦争開始の直後、1942年に制定された食糧管理法によって、コメ、麦などの主要農産物は、農家が自家用に消費するものを除いて善良を政府が買い上げることになっていた。 これを「供出」という。以前はそれ以外に、言わば”純国産”として、日本の統治下にあった台湾や朝鮮半島、満州(現在の中国東北部)からコメや雑穀、大豆を「移入」することができた。 コメだけでも、多い年には200万トン以上を移入した実績がある。
 しかし45年8月15日以後、移入はなくなった。といって、敗戦直後でカネのない国に気前よくコメを輸出してくれる国があるはずはない。 乏しい在庫を食いつなぎつつ、農家にできるだけ多く供出してもらうしかなかった。
 食糧不足を少しでも補おうと、政府は「総合供出制」という苦肉の策を編み出した。コメ以外の農産物による「代替供出」を認めたのである。
 未利用資源による代替食糧の活用は戦争中から研究されていたことである。43年には農林省の前身である農商省に代用食品課が設けられた。 食糧不足が年ごとに強まるのに対応するため、未利用資源を使って代用食を供給しようという皮算用だった。44年になると、東京には小麦粉、豆などに魚粉や桑の葉の粉などを混ぜたパンを供出する食堂も開設された。
 敗戦直前の45年7月には、農商省の食糧管理局(現在の食糧庁)に利用課という、名前だけでは何をするのか分からないような課が設置された。 2年弱で廃止された小さな課だが、その目的は未利用資源の活用にあった。
 利用課の研究成果はどうか。未利用資源はのちにさらに追加され、カボチャの茎葉・種子・ワラビ、ゼンマイからサナギまでが対象になった。 趣味の食べ物ではなく、命をつなぐ食料としてである。もっとも、実際に集荷された未利用資源の量はわぐかなものだった。
 食糧管理局は厳しい供出と配給制度の下で国民の食糧に責任を持っていた。しかし現実に食糧がなくては配給責任を果たすことができない。 45年7月からの2合1勺配給は新米が出回れば解消するはずだった。1042キロカロリーの食生活が長続きするはずはないからである。 ところが、その直後の者緯線と未曾有の凶作で、11月から新しい米穀年度に入っても事態はいっこうに改善せず、2合1勺配給を継続せざるをえなかった。
 食糧庁編『食糧管理史』には、45年8月に政府が以ていた食糧はコメ換算で約89万トン(590万石)という数字がある。 この量は前年同月の43%でしかない。そこへ凶作が襲ったのだから、まったく心細い状況だった。10月9日、幣原喜重郎内閣の農相に就任した松村謙三が登庁初日に食糧管理局の片柳真吉次長(のちに農林事務次官)を呼び、「いま東京に配給米はどれくらいあるか」と尋ねたところ、「3日分しかありません」という答えが返ってきた。
 その年12月に片柳の後任として食糧管理局次長になった楠見義男(のちに農林事務次官)も同様な経験をしている。 枯れもまず担当課長に聞いたのは東京の在庫量だった。やはり「せいぜい3日分ぐらい」という返事に、楠見は今さらながらショックを受けた。
 東京の人口は戦火を避けての疎開などで戦前の半分以下、400万人を切るところまで減っていたのに、なおこの状態である。 このままでは年を越せない。しかし課長を叱っても無駄なことはわかり切っている。楠見は翌日から千葉、茨城、栃木といった東京周辺の生産県を回り、越年用のコメを貸してくれるよう知事たちに懇請した。 これを手始めとして、次長、朝刊として食糧管理局に在任した6ヶ月間、やりくり算段のその日暮らしが続いたと彼は書いている。
 楠見が就任する前の10月、東京では配給日になっても予定した量の食糧が確保できなかったことがある。その分、配給に遅れが生じるわけで、これを配給遅延あるいは遅配と呼んだ。 10月は近県からの出荷を督促してなんとか埋め合わせたが、年が明けるともう打つ手にも限界があった。遅配の恒常化は46年1月にまず北海道から始まり、3月には東京、横浜などに飛び火した。
 GHQが当時の状況をまとめた小冊子『占領第1年における日本の食糧事情』に、46年3月時点の東京で配給物資だけを使って食事を作ったとしたらどんな具合になったかが示されている。
 それによると、すべての食べ物を合計しても、得られる熱量は1,100キロカロリー強にすぎない。これでは生きていくだけでも難しい。配給で足りない分は家庭菜園で生産するか、人に分けてもらうか、またはヤミ買いするしかなかった、と冊子には書かれている。
 すでに戦争中から、多少とも庭のある家では菜園を作っていたが、なんといっても素人のやることである。腹の足しになるものとしてはイモ類とカボチャぐらいで、広い土地が必要なコメや麦まではなかなか手が及ばなかった。
 遅配は全国の主要都市で断続的におよそ2年間続いた。特に北海道がひどく、札幌などの主要都市では60日前後から70日近い遅配になった時もある。 在庫を少しでも長持ちさせるため、食糧管理局は「計画的遅配」と称して意図的に配給を遅らせたこともあった。 それでも配給があればまだいい。モンペ姿の主婦たちは配給所の前に行列を作り、辛抱強く何かが手に入るのを待った。しかし予定の配給がないまま終わることもたびたびあった。これを欠配という。
買い出しと取り締まりの泥仕合  遅配、欠配に対し、消費者は自衛しなくては生きていけない。都会の家庭では勤めを休んでも近郊の農家へ買い出しに出かけた。栄養補給のための買い出しは戦争中もあったが、戦後はさらに盛んになっただけでなく、栄養補給というより、生きるための切羽詰まった行動になっていた。 中でも肉体労働者はカロリー不足がひどくては働けないから、よけい欠勤が増える。やがて役所でも月に何日かの「食糧休暇」を設けるようになった。
 モノ不足でインフレが激しかったから、買い出しにはカネより品物を以ていく必要があった。農家との物々交換である。 戦災に遭った人たちには残ったものとて少なかったが、いちばんよく使われたのは晴着などの衣類である。母親を空襲で亡くし、かろうじて焼け残った形見の着物をリュックサックに入れて買い出しに行った、などという話しがざらにあった。 衣類がなくなると、リュックに詰めるものは時計、カメラなど、当時としては衣類同様に貴重な品物へと代わっていった。
 手元に残ったものを1つまた1つと持ち出し、農家に頼み込んでコメやイモと交換する。こんな暮らしぶりを、タケノコの皮を1枚ずつ剥いでいくのに例えて「タケノコ生活」と呼んだ。
 買い出し先はだんだん遠くなり、長距離列車に乗らなければ行けないところまで足を延ばすようになった。「買い出し列車」には都会からの「買い出し部隊」だけでなく、農産物などを都会に運んでひともうけしようとする「かつぎ屋」もたくさん乗っていた。 切符を入手するのもひと苦労だったが、車内はいつも満員すし詰め、乗り降りは窓からというのが普通だった。
 そのころ女子大生として寮生活をしていた一番ケ瀬康子・日本女子大学教授の「買い出し」という小文から引いてみる。

 「台湾から女子大学入学のために出てきた時に、母が持たせてくれた着物やコート、ワンピースなどは、しだいに消えていった。 しかし、それでも農家は、こちらが頼みに頼まないとなかなか分けてくれない。大根を何本か獲得するために、頭をさげながら何軒も何軒も売ってくれる農家をたずねて歩いた記憶がある。 全部で20キロもある大根数本を帯の芯で作ったリュックサックに入れて、”いも電車”で帰ってくる。電車に乗るときは、窓から乗り込む人が多く、各駅に停まるたびに、てんやわんやの騒ぎであった。 もちろん窓ガラスは割れ、板が打ち付けてあった。また電車が足りなくなったのか、常に貨車がつねげてあった。その貨車には、私たちは”買い出し”のリュックとともに詰め込まれた」

 そんな有様でも食べ物が手に入れば幸せだった。父や母に連れられて買い出しに行ったことのある人たちは、農家に「お前たちに売るコメはないよ」などと、つれない返事をされた記憶を必ず持っている。 初対面の都会人には、コメはおろかイモや野菜を手に入れるのも大変だった。
 その悔しさは都会の人の心に刻み込まれた。戦前から学校では終身の時間などに、暑さ寒さに負けず食糧を生産してくれるお百姓さんに感謝するよう教育されてきた。 しかし敗戦の現実は、そうした気持ちをどこかへ吹き飛ばしてしまった。
 次節で述べるように、この時期、農家も左うちわで暮らしていたわけでは決してないことは強調しておく必要がある。 戦争の被害者は都会の人間だけではなかった。それにしても、なけなしの貴重品を背負って行ってもなかなか食べ物にありつけなかった買い出しの記憶は、死ぬまで消えないであろう。
 戦後50年たった今でも、新聞社には高齢の読者からそういった内容の投書が届く。「食糧安全保障のために農業を守れと言うが、いざという時に日本の農家が国民の食糧を確保してくれるはずがない」などと、不信感をむき出しにした手紙もある。 あのころを思い起こすと、一概に感情論と非難することはできない。
 1993年までの15年間、朝日新聞の農政担当論説委員だった黒川宣之は、論説委員会で農業問題について議論した時、「年配の論説委員が、戦時中にコメの買い出しに行って農家に冷たくされたことを持ち出して農家を攻撃するのを聞き、食べ物の恨みの怖さに驚いた記憶がある」と書いている。 飢えの時代は都市住民と農家との間に途方もなく深い溝を残した。
 だれもがしていることとは言え、買い出しもかつぎ屋もヤミには違いない。警察の取り締まりの対象になったのは当然である。 農家に泣きついてやっと交換したわずかばかりの食べ物を、帰りの車中や駅頭で没収されることもあった。47年8月に警視庁保安経済二課長となった後藤田正晴(のちに警察庁長官、副総理)は、取り締まり当事者としての複雑な心境を次にように述べている。

 「遅配欠配がしょっちゅう起こる。国民としては背に腹は代えられず、ヤミをやらざるを得ない。 それを国家権力が取り締まる。列車を止めて、取締官が買い出しの物資を没収して、それを正規のルートに乗せて再配給するわけである。 しかし、私どもは、こんなことが政府のやることかと、内心の矛盾を感じていた。取り締まりに当たる一線の警察官も同じ思いだったはずだ。人を取り締まりながら、自分の家族もヤミ市で物資を買わないと、生きていけないからである」

 食糧不足は東京の場合、46年の5、6月が最もひどかった。ほかの都市では東京よりやや遅れて最悪期がやってきたところが多いようである。
 GHQの指示で厚生省が45年12月から46年にかけて、全国の主要都市と農村地帯で栄養状態を調査した。今日も続く国民栄養調査の始まりである。 先に紹介した『占領第1年目に於ける日本の食糧事情』によえうと、農村県が低いながらも安定して1人1日当たり何とか1900キロカロリー台の熱量を摂取しているのに対し、東京は月による差が極めて大きく、配給の不安定さを示している。 名古屋、大阪などの4都市では、たださえ少ない熱量が時と共に減っており、蛋白質も46年8月には「東京」「4都市」「農村県」の3地域中で最低に落ちた。
 この冊子の基になった国民栄養調査結果で主要9都市の状況を見ると、46年に4回行われた調査の単純平均で、1人1日当たりの熱量は僅か1721キロカロリーにすぎない。 とうてい健康な肉体を維持できる水準ではなかった。
 凶作の翌年でコメの在庫は乏しく、次の収穫までには何ヶ月かある。遅配、欠配がひどくなる中、政府は戦争中に疎開した人たちが都市へ戻るのを防止するため、人口10万人以上の都市への転入を禁止するなど、食糧難の乗り切りに懸命だった。 3月には、歌舞伎俳優の片岡仁左衛門親子3人ら5人が、食べ物の恨みから同居人に殺されるという事件も起きた。「栄養失調」という言葉が日常語になり、このままでは餓死者が1000万人に達するという風雪が流れたほどで、人心は不安の極にあった。
「コメよこせ」メーデー  1946年5月1日、11年ぶりに復活したメーデーでは「働けるだけ食わせろ」がスローガンの1つになった。 12日には東京・世田谷で「米よこせ区民大会」が開かれ、勢いに乗った113人は赤旗を先頭に皇居まで押し掛けた。デモ隊は坂下門をくぐり、史上初めて赤旗が皇居内に入った。 この時、「君たちのデモの行く先は天皇のところだ」とアジ演説をしたのは、1月に中国から帰ったばかりの日本共産党幹部・野坂参三だった。
 続いて5月1日に皇居前広場で開かれた「食糧メーデー」(飯米獲得人民大会)には、主催者側の数えで25万人が参加した。主催者の本当の狙いは、吉田茂・自由党総裁による組閣が難航しているのに追い討ちをかけ、人民政権を樹立することにあった。 日本の民主化を進めていた連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーも、大会代表が首相官邸に座り込んだことを見かねて、翌20日、「秩序なき暴力行為は今後絶対に許容されない」と警告声明を発表した。 それにしても「飯米獲得」で25万人が集まること自体、国民の切ない願いを反映していた。
 食糧メーデーはプラカード事件を引き起こしたことでも知られる。参加者の1人が掲げたプラカードにはこう書かれていた。

 「詔書 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク 食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」

 国体がゴジ(護持)されたとは、敗戦にもかかわらず天皇制が存続だれたことを意味している。 このプラカードの語句が不敬罪に当たるとして、東京地検は3日後にプラカードの製作者を起訴した。結果は不敬罪ではなく名誉毀損で有罪との判決があり、さらに争われるうちに免訴とされたが、この裁判は不敬罪廃止のきっかけになった。 ともかく、当時の国民の「たらふく食いたい」という願いを象徴する事件ではあった。
 食糧メーデーの前後は食糧難が最も深刻な時期に当たっていた。NHKラジオの街頭インタビュー番組「街頭にて」が6月3日放送分から衣替えし、道行く人たちとアナウンサーとの対話・討論形式を採用した時、初めて取り上げたテーマはそのものずばり「貴方はどうして食べていますか」という深刻なものだった。 大反響を呼んだこの番組はほどなく「街頭録音」名称を変え、人気番組の1つとして58年まで続く。
 そんな時代でも、世の中にはヤミもデモもできない人たちがいた。45年10月11日に死んだ東京高校(旧制)のドイツ語教授・亀尾英四郎もその1人である。 ゲーテの『エッケルマンとの対話』の訳者として知られていた亀尾は、戦争中から妻子7人を配給物資とわずかな家庭菜園の野菜だけで養っていた。 彼はいつも自分の食べる分を切り詰めて子供たちに与えていた結果、ついに栄養失調で倒れたのだった。
 亀尾より2年後になるが、47年11月にアサヒ新聞がスクープした東京地方裁判所判事・山口良忠の死は、法の番人の悲劇として衝撃を与えた。
 山口判事には妻と2人の幼い子があった。彼自身は食糧の統制は不要という意見を持っていたとされるが、判事として法の威信を守ろうと配給だけの生活を続けた。 インフレのさなかに税込み3000円の月給だけでは食べていけない。同僚の裁判官たちは一般国民と同様、ヤミの買い出しをしていたが、山口は郷里から送られるものも拒否し、激増する事件の審理に打ち込んだ。 そうした無理が重なって地裁で倒れ、偶然にも2年前の亀尾と同じ10月11日に死亡した。医師は「かつてない極度の栄養失調による」と診断した。
 政治的背景もあって高揚したコメよこせ運動が次第に収まり、配給事情も徐々に改善されて国民が一息ついたのは、47年秋にまとまった量の輸入食糧が放出されてからだった。 翌48年には、コメの作付が良くて需給はようやく緩和に向かう。山口判事はその日まで生き延びることができなかった。
 残された山口判事の日記には、悪法と知りつつ法にしたがって死刑に服したギリシャの哲人、ソクラテスを引き合いに出しつつ、「食糧統制法は悪法だ、しかし法律としてある以上、国民は絶対にこれに服従せねばならない(中略) 自分はソクラテスならねど食糧統制法の下、喜んで餓死するつもりだ」(『朝日新聞』東京版1947年11月5日)と書かれていた。 「食糧統制法」とはもちろん「食糧管理法」のことだろう。
(『食と農の戦後史』から)
*                      *                      *
<敗戦直後の献立>  現代の私たちにとって、美味しさへの欲求は一段と強まり、生きるために食べるだけでなく、食べることをエンジョイするために働くという側面も現れている。 「飽食日本」なる表現は、経済的な豊かさの中で一部の人びとの食への過度な欲求を揶揄するものであり、確かに揶揄したくなる場面に出会うこともある。
 しかし、戦中、敗戦後の一時期は、空腹を満たすにも食料はなく、なりふり構わず、道端の雑草すら食べねばならなかった。 敗戦の年、@米は明治42年以来の凶作(587万トン)で、平年作に戻る翌年の64%弱の収穫しかなかったこと、A石炭不足で鉄道は間引き運転となり、輸送力を確保できなかったこと、 Bさらに、朝鮮、台湾など旧植民地からの移入が途絶えたことが、食糧不足の主因である。市街地の焼け跡にはヤミ市が立ち、賑わっていたが、公定価格の数倍から十数倍もするヤミ値は庶民の手の届くものではなかった。
 それでも人びとは悲嘆にくれて日を送るわけにはいかなかった。家の中にあって食料品と交換できるものならば何でも袋に詰めて、栄養不足の身体にムチ打って超満員列車に必死の思いで乗り込み、遠くの農漁村へ食料の買い出しに出かけなければならなかったからである。 休日も買い出しに出かけるので、月曜日には欠勤者が増え、業務に支障をきたし、官庁や企業は「食糧休日」を与えるまでになった。
 マーク・ゲインの『ニッポン日記』でも、助手が東京から1週間かけて、四国まで親類の農家を頼って米の買い出しに出かけるため暇をもらっている。 この助手は恵まれている。
 「あなたが缶詰をいくら下さってもどうにもなりません。私たちは米がなくちゃ腹がへってやりきれません」
 こう言って、給料を前借りし、米と交換するための装身具を2つ3つもらえたし、道中で警察の取り締まりを運良く逃れ、家族2か月分の米を持ち帰ることができた。
 苦労を重ねた末にやっと手に入れた食糧とはどんなものであったか、次にあげる1週間の献立は、敗戦の翌年、大阪の守口市に住む一主婦の日記にあったものである。

 5月12日
  朝 よめな入りむしパン
  昼 にぎりめし、むしパン、にしん
  夜 大豆入り飯、玉ねぎ・なっぱ煮、干しかれい
 5月13日
  朝 大豆飯、干しかれい、梅干し
  昼 なっぱ・竹の子入りむしパン、にしん
  夜 竹の子入り飯、鯨、竹の子煮、漬物
 5月14日
  朝 竹の子入り飯、鯨、竹の子、漬物
  昼 だんご入り雑炊、かれい
  夜 干し大根、昆布、芋づる入り飯、にしん、かれい、漬物、大豆しょうゆびたし
 5月15日
  朝 干し大根入り飯、つけもの、かれい
  昼 糠(ぬか)入りむしパン
  夜 竹の子飯、竹の子煮付け、竹の子酢の物、ふりかけ、梅干し
 5月16日
  朝 竹の子飯、竹の子煮付け、かれい
  昼 糠入りむしパン
  夜 麦飯、竹の子油炒め、ふりかけ、菜づけ
 5月17日
  朝 麦飯、竹の子
  昼 麦飯、玉ねぎ、いか
  夜 麦飯、えそ塩焼き、玉ねぎ、漬物

 この献立は、相当裕福な家庭のものであるという。
 「ええ家庭やなあ、私らの食べてたものとえらい違うわ!」
 勤務先の同僚がこの献立を見て発した第一声である。同僚は敗戦時15歳、献立を記録した人と同じ都市部の阪神間に住んでいた。 敗戦時3歳未満の私には「そうですか?」と言うしかない。職場の歓送迎会などで、これまでに彼女と食卓をいっしょにしたことが何度かあった。 そのたびに、彼女の食いっぷりの良さにびっくりさせられた。かなり肥満で、体重が足の両膝に負担をかけ、歩行に支障をきたすまでになって、医者からもっと体重を減らすよう注意されているにもかかわらず、眼の前に出された料理はことごとく口に運ぶから、ついつい過食となる。
(『食の戦後史』から)
<食と農の戦後史> 
年代 政治・経済・一般できごと、食と農の主なできごと
1945
〜50
コメ凶作45、農地改革46、バラック、ヤミ市、リンゴの歌45、食糧メーデー46、エジプト米輸入48、主婦連、暮らしの手帖48、1ドル=360円49、朝鮮戦争50、たけのこ生活、買い出し・かつぎ屋、雑炊食堂
1951
〜55
養老乃瀧51、農地法52、お茶漬け海苔52、京樽52、テレビ放送開始53、初のスーパー・紀ノ国屋53、MSA余剰農産物買付54、全国農協中央会・全国農業会議54、缶入りジュース54、
1956
〜60
国連加盟56、台所合成洗剤56、神武景気・なべ底景気・岩戸景気56〜61、コシヒカリ育成56、チキンラーメン58、60年安保60、家電三種神器
1961
〜65
冷凍庫付き冷蔵庫61、ダイズ・バナナ・レモン自由化61〜64、ガット11条国63、OECD加盟・IMF8条国64、オリンピック景気62〜64、屋根型紙パック牛乳64
1966
〜70
40年不況65、家庭用電子レンジ66、いざなぎ景気66〜70日米貿易摩擦68、ボンカレー68、自主流通米せいど69、コメ生産調整70、大阪万博70、自販機100万台突破70、養老乃滝・吉野屋・すかいらーく・KFC・小僧寿し・外食元年
1971
〜75
ニクソンショック71、カップヌードル71、ダイエー小売業第1位72、列島改造ブーム72〜73、コメ小売価格自由化72、石油ショック不況73、マクドナルド・モスバーガー・セブンイレブン
1976
〜80
ほっかほっか亭76、外食産業売上げ10兆円超える76、宅急便76、第2次石油ショック不況80〜82、コシヒカリ作付け第1位79、外食企業の上場盛ん
1981
〜85
円高不況85〜86、あきたこまち84、「桃太郎」85、
1986
〜90
平成景気88〜90、外食産業売上高20兆円86、食料自給率50%切る87、特別栽培米87、電子レンジ普及率50%超える87、日米牛肉・オレンジ交渉妥結88、消費税89、
1991
〜00
WTO発足95、バブル崩壊91、平成米騒動94、ミニマム・アクセス米初輸入95、
*                      *                      *
<ゆたかになった日本人の食生活>  敗戦直後の食生活について引用した。これは、現代がいかに「ゆたかな社会」かということを理解してもらうためであった。 「ゆたかな社会」と「そうでない社会」では「食」に対する感じ方がまるで違ってくる。経済一般についても、銀行のオーバーローンに関しても、 「ゆたかな社会」と「そうでない社会」では捉え方が違ってくる。
 現代日本がいかにゆたかな食生活を営んでいるか、この理解をもとに「ゆたかな食生活は反地産地消から」というテーマで話しを進めることにしよう。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『食と農の戦後史』                  岸康彦 日本経済新聞社  1996.11.18
『食の戦後史』                    中川博 明石書店     1995.10.31
( 2007年9月17日 TANAKA1942b )
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(2)コシヒカリ育成に見る品種改良の意味
F1ハイブリッド・トマト「桃太郎」ほか
<ゆたかな食生活と農産物の品種改良>  戦争直後の食糧難、あの時代を振り返ってみれば、「現代はゆたかな時代だ」に誰も反対はしないだろう。 今週は、戦後の食料事情に関して、「コシヒカリの育種」を取り上げる。タケノコ生活からゆたかな食生活への変化と、コシヒカリの育成とが無関係でないので、トマト「桃太郎」と一緒に取り上げることにした。
<コシヒカリ育種に見る品種改良の影響>  コシヒカリ育成に関しては「品種改良にみる農業先進国型産業論」で書いた。
 そこで書いたものをもう1度こちらに掲載してみよう。
● コシヒカリ開発略年表 
<新潟県農試 高橋浩之 池隆肆 仮谷桂>
1944(昭和19)年 7月末、新潟県農事試験所(長岡市長倉町)水稲育種指定試験地主任技師の高橋浩之は人工交配に取り組んだ。それは晩生(おくて)種の「農林22号」を母とし、早稲(わせ)種の「農林1号」を父とする組み合わせだった。今でこそコシヒカリは美味い米、と評価されるが、高橋はイモチ病に強く「質より量」を目指しての育種であった。
 田植え作業は県農試付属の農業技術員養成所の生徒の手を借り、除草作業は長岡市内の女学校に手伝ってもらい、やっと交配作業にたどりついた。当時を知る元新潟県農業専門技術員の村山錬太郎は、「高橋さんのような高等官の主任技師で、素足で真っ先に田んぼに入っていく人はおりませんでした。あのころ、夕方遅くなっても、圃場に独特の藁帽子をかぶった高橋さんの姿が見え、今日もまた高橋さんは頑張って働いていると思ったものでした」と当時を振り返る。
 高橋は後年、当時の状況を述べた次のような手紙を、東大教授(育種学)の松尾孝嶺に送っている。「毎日何回となく、水田を自分ではい回りながら、時には、めまいがして畦にしゃがみ込んだりしたこともありましたが、自分のやっている仕事が、人を殺すことにまったく関係がないという信念によって、迷うことなく仕事に専念することができました。今になって思えば、あのころの運営はまことに奇跡の感がします」。松尾は太平洋戦争当時、新潟県農試の雪害試験地主任を務め、高橋とは大いに語り合った仲だった。
1945(昭和20)年 戦争激化のため育種事業は全面中止。8月1日、米軍機の空襲で高橋の家は焼け、育種に関する資料は焼失。
1946(昭和21)年 育種事業再開。F1(雑種第1代)誕生。新潟県農試には、そのころ高橋が主任を務める全額国費事業の水稲育種指定試験地と、県費事業の水稲育種部の2つがあり、同じような水稲育種の仕事をこの2つの試験機関が平行して行なっていた。そして高橋が所属する国の試験地では保存した種モミが順調に発芽したのに、一方の県育種部の種はまったく発芽せず、県の育種は失敗してしまう。それは、高橋は再開したときに種子が順調に発芽するように種モミをガラス瓶に入れ良好な乾燥状態に保つよう努力したからであった。
 高橋はこの雑種第1代の生育を見守り、その刈り取りを済ませた後、人事異動で6年間勤務した新潟を去り、農林省農事試験場鴻巣試験地へ転任。コシヒカリの栄光を知ることなく、1962年、53歳で世を去った。
1947(昭和22)年 高橋の後任は、東京帝大農学部卒の仮谷桂で、機構改革のため47年5月から同試験地は長岡農事改良実験所となり、刈谷は同所長となる。高橋の下で長く助手を務めていた池隆肆は1944年に出征したが、高橋が新潟を去る直前の1946年7月に復員して試験場に戻っており、「農林22号X農林1号」の雑種第2代の選抜には、この両名が取り組む。このように高橋の目指した「農林1号」の耐病性強化という育種目標は、長岡実験所で引き続き選抜作業を進めることになった。 しかし、この「農林22号X農林1号」の雑種第2世代に対する評価は芳しいのもではなく、この品種は福井へ譲渡されることになり、種子の一部は新潟県農試へ譲渡された。当時、農林省稲担当企画官だった松尾孝嶺が育種関係の会議で「新設される福井実験所へ回す育種材料を出してくれ。捨てるものがあったら、福井へ送ってくれ」と冗談まじりに言ったという話が伝わっている。どこの試験機関でも最有望の秘蔵っ子の育成系統を回すはずはなく、「農林22号X農林1号」は「捨てるもの」と判断されたのだった。
<福井県農試 岡田正憲 石墨慶一郎>
1948(昭和23)年 この年の春から新設された福井農事改良実験所は、周辺の試験機関から育種材料の配布を受け、本格的に水稲新品種の育成を始める。所長は宮崎高等農林卒の岡田正憲。その下に宇都宮高等農林化学科卒の石墨慶一郎、など総員たった4人。長岡でF3誕生、一部が福井へ送られ、以後福井で育成される。この年6月28日福井大地震が起き、試験田は水が抜けたり土砂が噴出したり、稲はほとんど壊滅にひんした。 ところが、この系統だけは、たまたま水はけの悪い湿田に、いささか早めに植えられていて、運良く被害を免れた。材料のままで敗戦をやりすごしたときと同様、ここでも未来のコシヒカリは災害をやり過ごしたのだった。 
1950(昭和25)年 福井実験所では雑種5世代の育成試験からこの「農林22号X農林1号」に対する評価が高まり、この年から初めて収量をもチェックする生産能力検定予備試験の対象にされる。翌年の雑種第6代の生産検定試験に残されたのは307番と318番の2系統。前者が後に「ホウセンワセ」に、後者がコシヒカリになる系統であった。
1951(昭和26)年 岡田が九州農試に去った後所長となった石墨はこの系統の307番を「越南14号」と系統名を付け、20府県に種モミを配布し、適応性試験を依頼する。これは1955年、「ホウセンワセ」と正式に命名され、農林番号品種に登録される。この「ホウセンワセ」は評判がよく、1962年から1966年まで5ヵ年連続日本1の栽培面積を誇ったのだった。
1952(昭和27)年 石墨は318番を残すかどうか悩むぬ。この年の調査で稈長はさらに伸びて90.6センチに達し、倒伏しやすい欠点がさらに濃厚になった。出穂期が「ホウセンワセ」より10日近く遅い早生種のため、北陸南部(福井、石川、富山)では適応性の狭い、不向きな系統という問題も抱えていた。にもかかわらず石墨は、思い切ってこの系統に「越南17号」と系統名を付け、翌年には20府県に種モミを配布し、適応試験を依頼することに踏み切った。
 石墨は当時「農林1号の耐病化」に取り組んでいて、良食味を目指したのではなかった。しかしこの「越南17号」は品種改良上、拾ってはならないとされる、耐病性が弱くしかも倒伏しやすい系統だった。 後に石墨は「この「越南17号」が品種にならなくて元々、もしも品種に採用されればもっけの幸い、という気楽な気分だった」と言っている。石黒は、当初育種の基礎理論もわからず、本当はこの欠点に気がついていなかったらしい。それでも石墨が「越南17号」を登録したのは、「ホウセンワセ」が評判よく、ほんの少し前までの自信喪失の状態とは変わって、優秀な育種家と評価され、自信もわき、浮き浮きした気分になっていたからだと考えられる。もし「ホウセンワセ」以前であったら、「越南17号」は登録されず、コシヒカリは生まれなかったであろう。
<新潟県農試 杉谷文之>
1953(昭和28)年 福井試験地の石墨慶一郎がこの年「越南17号」の適応性試験を依頼したのは北は山形、福島から南は大分、熊本までの23府県に及んだ。しかし「越南17号」に対する評価は、どこの試験場でも芳しいものではなかった。そうした中で新潟県農試だけは違っていた。この「越南17号」は試験田でべったり倒れ不評であったにも拘わらず、新潟県農業試験場長の杉谷文之ただ一人が倒れた試験田の稲を前にしながら「新潟県のために、これを奨励品種にしなければならん」と叫んだ、と伝えられる。回りにいた技術者はみな「こんなにべったり倒れる稲を奨励品種にしたら、農家への指導が大変だ」と、内心不満だったという。 しかし、県の奨励品種に採用するかどうかの実質的決定権は農業試験所長が握っていた。場長の杉谷が奨励品種に採用すると腹を決めた以上、試験所職員は全面的にその判断に従わねばならなかった。そして当時新潟県農試はワンマン場長杉谷の意のままであった。
 一方長岡から譲られた種子は、新潟県農試の橋本良材(よしき)の働きにより正式に「越路早生」と命名され、県奨励品種となる。この「越路早生」はコシヒカリより耐病性や耐倒伏性が強く、その後約30年間新潟県の早生種の基幹品種の位置を占めた。
1955(昭和30)年 この年の暮れ、農林番号に登録するための新品種選定会議が北陸農業試験場の主催で開かれる。そこで新潟県農試の国武正彦は「新潟県としては、多収品種である「北陸52号」と「北陸60号」は奨励品種に採用しない。「越南17号」は倒れやすいが、品質がよく、稈質も良いので、これを奨励品種に採用する方針」と発言すると、会議は一瞬気まずい空気に包まれたといわれる。 国の審査会でも不満続出し、「今後、このようなイモチ病に弱い系統は審査しないで不合格にするから、持ち込ませないように」となった。
1956(昭和31)年 石墨慶一郎が福井農試で育種した「越南17号」は農林番号品種に登録された。そこに至るまでいろいろケチが付けられたが、この系統に与えられたのは「水稲農林100号」という縁起の良い番号であり、「越の国に光輝く」という意味の コシヒカリ という素晴らしい名前だった。
1957(昭和32)年 杉谷は新潟県農試が「農林22号」を母に「新4号」を父として1950年に人工交配したものの系統を「越栄(こしさかえ)」と名付け奨励品種に採用する。これは杉谷自身「越南17号」にあまり期待していなくて、とりあえず何か成果を示さなければとの取り繕いだったに違いない。よいと思ったらすぐに実施するという性癖、良く言えば即断実行、悪く言えばワンマン敵な独断的性癖がこのような不可解な行動を取らしたと考えるべきなのだろう。この「越栄」は奨励品種採用の5年後に、作付面積が16,600haに達したが、これをピークに減少、やがて中生種の基幹品種としての座を再びコシヒカリに明渡し、72年奨励品種からも除外される。
1958(昭和33)年 7月下旬に台風来襲。それ以降は収穫期まで低温と長雨の続く凶作年になる。作物係長の国武は「この長雨はコシヒカリにとって明るい兆し」と場長の杉谷に報告している。というのは、長雨続きでどの品種もすべて倒れ、コシヒカリの倒伏しやすい弱点がそれほど暴露されずに済んだと同時に、コシヒカリの長所の1つである穂発芽しにくい性質が確認されたからであった。
1959(昭和34)年 次のような表彰状がある。
 表彰状  高橋浩之殿 池隆肆殿 仮谷桂殿 岡田正憲殿 石墨慶一郎殿
 貴殿がたは水稲農林22号と同農林1号の交配および初期選抜またはその雑種後代よりの有望系統の選抜および固定を行い両親を同じくする優良品種越路早生ハツニシキホウセンワセおよびコシヒカリを育成して稲作の改良発展に多大な貢献をされましたので表彰します
 昭和34年12月7日      農業技術協会長 秋元眞次郎
<コシヒカリの独り立ち>
1961(昭和36)年 新潟県奨励品種になったコシヒカリ、魚沼地方などの山間部には定着したが、新潟県全体の水稲作付け率は、1位「越路早生」20.8%、2位「日本海」14.7%、コシヒカリは3位で9.2%。作付率は県内の1割にも達しなかった。当時米は配給統制時代で、うまい米もまずい米も政府の買い入れ価格は同一で、農家としては品質向上よりも収穫量が問題であった。食味は良くても倒れやすくイモチ病に弱いコシヒカリでは、経済的メリットが少ないと、コシヒカリにそっぽを向いていた。
1962(昭和37)年 新潟県で「日本一うまい米づくり運動」始まる。作付率は「越路早生」30.7%、コシヒカリ13%。4割増えたが「越路早生」に比べればその普及率は低かった。この年の7月、杉谷は農林部参事に左遷され、同年12月には依願免職となり失意のうちに故郷の富山に引きこもった。
1963(昭和38)年 「ササニシキ」登場。これは水稲育種指定試験を担当する宮城県農試古川分場が1953年、コシヒカリの姉妹品種「ハツニシキ」を母に「ササシグレ」を父として交配したものの系統で、1963年、その雑種第10代を「ササニシキ」と命名したもの。宮城、岩手、山形の3県に急速に普及し、1963年には宮城県内の作付率は54.7%に、1973年には82.2%に達していた。
1966(昭和41)年 1961年の農業基本法制定当時、政府は「米はやがて過剰になる」との長期見通しを公表したのに、現実は逆にその後、米不足になり、1965,1966年の両年、180万トンもの米を輸入することになった。このため全国的に米の増産運動が盛り上がる。
1967(昭和42)年 「日本一うまい米づくり運動」を主唱した塚田知事が贈賄事件の責任をとって1966年に辞任し、代わった亘四郎知事は米政策を変更し、質より量を重視する「米100万トン達成運動」を1967年から展開し始める。これにより「越路早生」とコシヒカリの作付け率は落ち込み、多肥多収品種の「フジミノリ」や「レイメイ」が伸びた。コシヒカリにとっての最後で、最大の危機だった。 
<自主流通米の時代>
1969(昭和44)年 この年から自主流通米制度がスタート。史上空前の米過剰になりこの年10月末の食糧庁古米在庫は550万トンになる。
1970(昭和45)年 この年の10月末、政府の古米在庫は実に720万トンに膨れ上がり、全国の農業倉庫は2年前の古々米や3年前の古々々米などで満杯になる。1965,66年の米不足を革新政党や農業経済学者は一時的な状況とは見ずに、今後とも恒常的に続く現象ととらえ「国民所得の向上によって、デンプン質食糧である米の消費が減るというのは、西欧で言えても、日本では通用しない。早急に選択的拡大政策を取りやめ、米の生産増強対策を打ち出せ」と政府を追及、米増産運動を煽ったのだった。しかし米の消費量は1963年をピークに減少する。 もしも米の増産運動を煽らず、冷静かつ客観的な分析を行なっていたら、米増産ブームから一転して米減反政策へ180度転換する事態に直面して、驚きと怒りでいっぱいの稲作農家の苦悩を少しでも和らげることができたに違いない。
1973(昭和48)年 自主流通米制度5年目で流通量は170万トンになった。 
1974(昭和49)年 新潟県の自主流通米ルートへの出荷量(主食用うるち米)は約236,000トン。このうち72%、17万トンが「越路早生」で、コシヒカリは19%の4万4000トンに過ぎなかった。
1978(昭和53)年 自主流通米制度10年目で流通量は200万トンに達した。
1979(昭和54)年 これまで全国の水稲品種中作付率1位だった「日本晴」に代わり、コシヒカリが作付率17.6%でトップになり、以後王座は揺るがない。その理由の第1は、米過剰問題が深刻化したこと。食味のよい米は自主流通米ルートに流れるものの、まずい米は政府向けにしか売れず、政府の倉庫にはまずい米ばかりが累積して大量に古米化する傾向が強まった。政府としては自主流通米ルートに出荷できないような消費者に敬遠される北海道産米などは減らしていこうとの姿勢に変わり、この結果、全国で非良質品種から食味の良い品種への転換が大きく進むことになった。
1986(昭和61)年 国の農政審議会がこの年にまとめた「21世紀へ向けての農政の基本方向」と題する報告の中で、自主流通米制度は次のように評価されている。「自主流通米制度は、(1)消費者にとっては食味のよい米を選択して購入でき、(2)生産者にとっては政府に売るよりも高い手取り価格が実現でき、(3)政府にとっては米の管理制度に民間流通の長所を取り入れるとともに、財政負担も軽減できることから、3者いずれに対してもメリットを発揮してきた。(中略)今後は・・・米流通に市場メカニズムを更に導入し・・・自主流通米に比重を置いた米流通を実現していく必要がある」
1988(昭和63)年 主食用うるち米に占める自主流通米の比率は62%となり、以後、自主流通米が米の流通の主役となる。
1991(平成3)年 自主流通米入札で新潟コシヒカリと宮城ササニシキとの差が大きくなる。新潟コシヒカリと宮城ササニシキとの価格差は1988年までは1000円以内、1989年で1500円程度。1990年産米の入札平均価格で新潟コシヒカリ1俵24,870円、宮城ササニシキ21,989円と2,880円の差。1991産米以降では3,000円の格差になる。
1995(平成7)年 この年の11月、半世紀にわたって米の流通を厳しく管理してきた食糧管理法が廃止され、米取引の規制を緩和した食糧法が施行された。
1996(平成8)年  この年のコシヒカリの作付率は30.6%と空前の普及率になり、北は福島から南は九州までに栽培面積が広まる。価格も魚沼コシヒカリは一般米の約2倍、他銘柄米の50%高にもなった。
2002(平成14)年  2002(平成14)年産水稲の品種別収穫量・作付面積は1位=コシヒカリ 3,187,000トン、606,500ha 2位=ひとめぼれ 851,700トン、157,800ha 3位=ヒノヒカリ 829,500トン、163,700ha(農水省「子ども相談電話」HPから)
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<優良形質の利用>  コシヒカリをはじめ、イネの新品種は1980年代後半までに、すべて人工交配、選抜、固定という過程を経て育成されていた。 こうしてできた品種は形質が安定しているので、農家は収穫したコメから種子をとって翌年播けば同じイネができる。しかしイネ以外の農作物ではハイブリッド(雑種)化が進んだ。
 雑種の1代目には「雑種強勢」という現象があり、両親の組み合わせが良ければ優れた形質が特に強く現れる。雑種強勢は両親が遠縁である方が出やすい。 従って価値ある1代雑種を作るには、できるだけ多くの品種を揃え、交配を繰り返して最適の組み合わせを見つけなければならない。
 現在、種苗店で売っている種子は1代雑種だ圧倒的に多い。日本で栽培され、市場に出荷されている野菜は百数十種にのぼると言われているが、キャベツ、トマト、キュウリなど、お馴染みの野菜はほとんどが1代雑種になった。 ハイブリッド種子全盛時代である。
 種苗会社はなぜハイブリッド種子に力を注ぐのか。メンデル遺伝学の「分離の法則」により、1代雑種を栽培して実った種子(雑種第2代)を播くと、育った作物は形質がばらばらになってしまい、農産物として商品価値がなくなる。 つまりハイブリッド種子の効果はその代限りで、翌年も使うというわけにはいかないのである。このため農家は毎年、種苗会社から種子を買うことになる。 逆に種苗会社としては、優秀なハイブリッドを作り出せば、その両親を企業秘密にして市場を独占し、大いに儲けることができるわけである。
 1代雑種を利用する技術そのものは戦前からあった。1915(大正4)年、農務省蚕業試験場の外山亀太郎が蚕のハイブリッド品種を作ることに成功した。 これはハイブリッドの技術を品種改良に利用した世界最初の例である。その後、野菜でも次々にハイブリッド品種が登場した。
 しかし日本の農家がハイブリッドの驚異を目のあたりにしたのは、60年代早々に海外から押し寄せてきた鶏だった。 「青い目のニワトリ」と呼ばれた外国鶏のほとんどがハイブリッドを売り物にしていた。
 もちろん鶏の目が本当に青かったわけではないが、輸入鶏は使用人のように体が大きく、卵もよく産んだ。前評判通り、雑種強勢を利用した外国鶏の性能は素晴らしく、ハイブリッド化の遅れた国産鶏は圧倒された。 63年夏の段階ですでに、国内の大手種鶏会社数十社のうち、外国の鶏を導入せず国産1本で進む方針を打ち出していたのは2社にすぎなかった。
 一代雑種である以上、野菜と同様に、2代目は形質がばらばらになってしまう。だから養鶏業者は自分で卵を孵化させて雛をとることができず、毎年、種鶏会社からハイブリッドの雛を買わなくてはならない。 米国の種鶏会社は、高度経済成長時代を迎えていた日本での養鶏の将来性に注目したのである。 (『食と農の戦後史』から)
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<F1ハイブリッド・トマト「桃太郎」を育てる>  鶏では外国に後れをとったが、野菜や花のハイブリッド化では日本の種苗会社が力を発揮した。 日本で改良されたハイブリッド品種の中には、世界市場でも十分に通用するものがたくさんある。野菜ではブロッコリー、花ではペチュニアなどがその例で、海外でも大きなシェアを握っている。
 国内向けの野菜で圧倒的な実績をあげているハイブリッド品種の例としては、1985年にタキイ種苗が発表したトマト「桃太郎」がある。 夏から秋にかけて出回るトマトのうち、実に80%を超えるシェアを確保していると推定されており、ある時期には店頭のトマトがほとんど「桃太郎」一色になってしまうこともある。
 1960年代からスーパーマーケットが急増し、大量流通時代が到来した。63年にはには大都市野菜を安定供給するために指定産地制度が設けられ、産地の大型化も進んだ。 大都市周辺で野菜産地が少なくなる一方、交通網が整備されて野菜の産地はだんだん遠距離化した。
 年間通して安定供給するために、本来の旬以外にもビニールハウスで栽培する野菜が多くなった。地元でとれたものを季節ごとに地元で消費していた時代には、それぞれの地域に特色のある品種があったが、大量生産・流通時代とともに伝統的な野菜が次々に消えていった。
 「野菜がまずくなった」という声がよく聞かれるようになったのは、そのころからである。中でも不満が強かったのはトマトだった。 トマトは果肉が柔らかいため、畑で完全に熟したものを出荷すると、流通の途中で痛みやすい。これでは小売店に敬遠されてしまう。
 どんなに味がよくても、小売店で扱ってくれなければお手上げである。このため農家は、トマトの実がほんの少し色づいたところで収穫していた。店頭に並ぶころには赤くなるが、それは外観だけのことで、本当の味が出るはずはない。
 完熟してから出荷しても痛みにくいトマトを───タキイ種苗は50年代初めから新しい発想で新品種開発にとりかかった。 流通過程でロスを出さないためには果肉が硬く、トマト特有のゼリー状の部分が少ないほどいい。あれこれ探したすえ、硬さは米国から導入されたばかりの新品種で解決した。 機械で収穫するために開発された品種だった。
 しかし、味が落ちては困る。日本人好みのトマトはピンク色で、糖度の高いものとされている。毎年1,000以上もの品種素材を交配した結果、ようやくこれらの条件をすべて満たす品種ができた。 滋賀県にあるタキイ研究農場で開発に当たった住田敦は、「消費者から支持されたという以上に、小売店から支持されたことが成功につながった」と、次のように語っている。
 「当時はこんなに硬くて売れるかなと思うくらいに硬いと思いました。夏に1週間ぐらい机の上に置いても、どうにもならないんですね。 それで、市場に持っていって試食してもらうと、いいじゃないかと言われたんで、最終的に作り上げたんです」
 「桃太郎」の育成に使われたたくさんの品種のうち、米国から入ったものなど1部は公表されている。 しかし、公表品種だけでは他の種苗会社が「桃太郎」と同じトマトを作ることはできない。これがハイブリッド種子を開発した会社の強みである。 さらに優れた新品種が登場する日まで、タキイ種苗にとって「桃太郎」はドル箱であり続ける。 (『食と農の戦後史』から)
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<「桃太郎」の誕生>  日本経済の高度成長期の影響を受けて、量より質を求める声が出てきたのは昭和50年代に入ってからです。 戦後の空腹期から昭和40年代の満腹期を経て、日本型料理から洋風型料理が増えると、各野菜の消費量が減少して少量他品目の時代に入ります。 また、料理のファッション化、高品質化が求められるようなり、トマトの品質に対する要望も強くなってきたのもこのころのことです。 今日、店頭で販売されているほとんどのトマトが、「桃太郎」に変わったのもこんな時代背景を経過して結果であり、もし、戦後の食糧難の時代に「桃太郎」が育成されていても、現在ほどの普及はなかったと思います。
 赤色で15グラム程度のミニトマトも、糖度が8度程度あって甘いことや、小型で外食産業で扱いやすいことから、10年ほど前から急増し、現在、生食用トマトの約10%のシェアを占めるようになりました。
 長い年月を要するトマトの育種にとって、誤った育種目標を立てると大きなロスをしてしまいます。10年先の時代を想定して、美味しい品種を作ろうと秘かに進められていた「桃太郎」の育種が、消費者のトマトに対する不信感によって目標の手応えを確認されることになります。
 昭和50年代に入って野菜の高品質化が進むと、トマトについては、「抵抗性品種が作られてまずくなった」「ビニールハウスで無理な時期に作るからますくなった」など、味に対する痛烈な批判を浴びるようになり、また、消費者アンケートのなかでも、最近まずくなったと思われる野菜のワーストワンにあげられました。
 こんな時代がくることを予測して秘かに始められていた「桃太郎」の育成ですが、消費者の不信感によって育成者が奮起し、一層力が注がれました。
 「桃太郎」をはじめ、日本の生食用トマトの品種は、ほぼ100%雌親と雄親の交配によってできた一代雑種で、その両親には複数の育種素材が使われています。 育種目標とする特性をもった素材の存在が、育種の成否を左右します。いかに的確で、立派な育種目標があっても、素材がなければ品種はできません。
 「桃太郎」が育成された両親の育成系統樹は大変複雑です。お伽噺の桃太郎は日本男児ですが、トマトの「桃太郎」の両親には、日本の品種だけでなく、ミニトマトやアメリカの赤トマトが育種素材として多数使われています。 畑で完熟した果実を収穫しても過熟にならなくて適度の硬さをもった美味しいトマト、糖度を1−2度高くした甘いトマト、目標は単純な発想ですが、簡単には「桃太郎」は生まれてくれませんでした。
 前述したように現在では、世界各国で日持ちのする硬い品種がたくさん育種されていますが、「桃太郎」の育種を始めたころは、硬い品種がほとんどなかったことから、何年もかかり世界各国から集めた何千もの素材のなかから、 「桃太郎」の育種親となった完熟収穫できる硬い品種を見つけられたことは、それだけでも幸運だと言えます。 糖度をわずか1−2度上げるのも「桃太郎」の育成で最も苦労した点の一つです。
 生食用トマトの品種改良は、それぞれの時代背景の影響を受け、また影響を与えてきました。 ひとつに品種を作るには10年程度の長い年数が必要なだけに、将来の日本の日本の時代と農業の方向を推測しながら、慎重に育種目標を立てて進めなければなりません。 「桃太郎」は肥大の要望を受けて育成され、日本の生食用トマトのシェアの80%をも占めるようになったのは、輸送性を重視した海外とは異なる日本の流通と消費動向に加えて、育種素材があったからだと思います。
 「桃太郎」は多数の人が好む品種を目標に育成されましたが、香りや酸味など、昔のトマトを忘れられない人もいます。 一方、生産農家の立場からは、生産の安定は当然ながら、省力にも目を向けなければなりません。
 また、自然の育種素材がどんどん少なくなり、手法的にも新しい先端技術といえる遺伝子組み換えなどが行われ、今までになかった新しい素材が作られるでしょう。 このような新しい技術の力も借りながら生食用トマトの育種は、今後も時代背景に対応して進むものと思われます。 (『世界を制覇した植物たち』から)
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<甘熟トマト「桃太郎」の開発者> 
◆ F1品種の普及と育種素材 国内における野菜の品種改良は、世界に先駆けて始められた一代雑種(F1)の開発と普及によって飛躍的な発展を遂げました。 トマトにおいても、世界最初のF1品種として福寿が昭和12年に育成され、次いで昭和23年に福寿2号が市販されて以後は、ほとんどF1品種が使われるようになりました。 育成された数多くのF1品種も時代の推移に伴って変化してゆくトマトの栽培に大きく寄与しましたが、一方では、それまで作られていた地方品種や固定種が次々と姿を消してしまい、国内での育種素材は、昭和40年代には使い果たしてしまったと思われます。 しかし、このことが積極的に育種素材を野生種や海外から求めるようになり、トマトの耐病性育種や品質育種が進んだ大きな要因として挙げられます。 桃太郎の育種素材の1つとして使われた Florida MH-1 も米国で育成され、導入された品種です。
◆ 消費者の味に対する要望  トマトの育種の経緯を大まかにみると、戦後の復興期には収量性が育種目標の中心となり、その後、普及した施設園芸と作型分化に適応性のある品種が育成され、 昭和40年代には施設化と産地の集団化が進んで、連作による土壌病害が問題となり、耐病性育種が盛んに行われました。 日本経済の高度成長期の影響を受けて、量より質を求める声が出てきたのは昭和50年代に入ってからですが、とくにトマトの味については、「ビニールハウスで無理な時期に作るからまずくなった」 「耐病性品種が作られてまずくなった」など味に対する痛烈な批判を浴びるようになり、また、消費者アンケートの中でも、最近まずくなったと思われる野菜のワーストワンにトマトがあり、 反面、今後もっと食べたい野菜の筆頭もトマトでした。このようは消費者のトマトに対する不満と要望に答えるために品質育種が始まり、私たち桃太郎の育成に一層の力を注ぐことになりました。 一方では、生産者の良質トマト生産への努力も払われました。その例が朝穫りトマト、予冷出荷、完熟出荷、ファーストトマトの利用などです。
◆ おいしいトマトを作る努力  ”完熟出荷”の言葉は、野菜や果物の中でも、トマトが最も早くから使われたのではないかと思います。昭和40年代の中ごろには、すでに静岡県の個人農家が完熟トマトの出荷を始めており、東京の西部青果でも、茨城・千葉・静岡・長野県のトマト産地で赤トマトのマスター2号を使ったリレー出荷の周年栽培を試み、 私も栽培技術面でお手伝いをしました。その後、長野県中信試験所で育成された品種サンコールを、長野県経済連がスーパーマーケットに販売したことが本格的な完熟トマトの出荷で、 これは桃太郎が普及する頃まで続いたようです。マスター2号やサンコールの完熟出荷が広く普及しなかったのは、いずれの品種も日本人には好まれていない果皮が橙赤色の、いわゆる赤トマトであったことも一因ですが、 完熟トマトと普通トマトの品種本来の品質差が少なかったことが大きな要因であったと思われます。
 ほかにもサターンや強力米寿などの桃色系品種を使って、朝穫りや予冷による完熟出荷も行われましたが、果実から柔らかい普通トマトの完熟出荷では消費段階でむしろ過熟トマトになってしまいます。 桃太郎を発表するとき、完熟トマトとはせずに”甘熟トマト”としたのは完熟=過熟のイメージが消費者にあることを恐れたからです。 桃太郎の育成中に最もプレッシャーを感じたのは、ファースト系トマトの台頭です。ファーストは比較的酸味が少なくて甘味が強く、果肉がよく詰まっているため古くから消費者に人気があり、 最近まで栽培されていた唯一の固定種です。本来ファーストは7〜8月蒔きの冬出しが敵作型ですが、固定種のファーストに耐病性や低温性、耐熱性、秀品性などの特性を付与したF1品種が育成され、 ファーストの適作型を超えて栽培され始めた、昭和50年代の広範には全てがファースト系になるのではないかと思うほどの勢いで栽培面積が伸びていました。 主だったトマトの育種メーカーからはファースト系のF1が育成されていましたが、そのころ、私たちタキイ種苗のトマト育成スタッフは、ファースト系品種には手をつけず桃太郎の育成に熱中していました。 このことが、他社に先駆けて完熟用品種を育成できたことだったと言っても過言ではないと思います。
◆ 硬いトマトを探す  桃太郎が出回るまでの夏秋トマトは、果実にほんの僅かに赤味がつき始めたころに収穫して出荷されました。 高温期に色が回ったトマトを収穫すると、消費者に届くまでに過熟になってしまうからです。米国でも青果用トマトは、全く着色していない緑色の果実が収穫され、エチレンガスで真っ赤に着色させて出荷されています。 こんなトマトが美味しいはずがありません。誰でも完熟で収穫したものは美味しいと分かっていても、流通面で問題があるので難しいのです。
 それで、まず果実が柔らかくなりやすく、一番問題のある夏秋トマトの作型から育種を始め、できるだけ硬い品種を探し始めました。 これがなかなか見つからず、果重が60g程度の硬い加工用品種も使ってみましたが、果実を大きくすると硬度が低下して使えません。 硬さの遺伝はポリジーンで、ほぼ両親の中間に形質が現れます。満足できる硬い素材との出会いは、フロリダ大学で育成された機会収穫用の青果トマト Florida MH-1 が米国から導入された時からです。 この品種は、米国だけでなく国内でも育成された当時からかなり注目され、多くの国内公民の試験機関にも導入されていたと思います。 長い間の念願であった果実を硬くする目標は、 Florida MH-1 を素材に使うことにより一挙に達成されたと言えます。
◆ 完熟だけでは満足できない品質  育成の途中で、硬い果実で完熟収穫しても果たして、消費者が区別できるほどの美味しいトマトとして認められるという疑問が生じ、この疑問も桃太郎育成のポイントになったと思います。
 完熟での品質アップだけでなく、なんとか品種そのものに甘さと肉質の良さを持たせようと国内外の大玉トマトやミニトマトなど、数多くの中から選んだ素材をいくつも使って交雑を繰り返しました。 その中から、果実の堅さを羽茂、変形果の原因となる子宝数を多くせずに多肉質にし、糖度も今までの大玉品種にはない6程度の高糖度をもって、 明確に他の品種と区別することが出来るF1検定の中で、桃太郎に比べて少し品質が劣るものの、もっと作り易い組み合わせを幾つも捨てたのは勇気がいることでした。 育成途中に生じた完熟したトマトで、本当に美味しいトマトができるだろうかという小さな疑問と、赤トマトの完熟出荷で失敗した経験を生かし、 高品質を求めて徹底した選抜を行った結果、従来の完熟トマトと比べてハッキリと区別できる桃太郎が生まれたと思います。
◆ 作型の幅と新しい病害への対応  こうして、昭和58年に育成された桃太郎は、消費、流通、生産面から予想を越える反響を得たことは、現在、消費者のトマトにたいする要望がそれだけ大きかった結果であり、 もしも、戦後に桃太郎ができていても、これだけ大きくは注目はされなかったでしょう。
 その後、冬春用のハウス桃太郎と、青枯病に強く露地栽培でも作りやすい桃太郎T93が加わって、桃太郎として使われる幅が広がり、それぞれの品種が作型別に使い分けられています。 また、昨年発表した桃太郎8は、最近、全国のトマト産地で問題になっている萎凋病レース2に抵抗性を持っている夏秋用の桃太郎として、萎凋病レース2の被害が大きい地域を中心に産地化しています。
 トマトがアーリアナ群やポンデローザ群などの固定種から福寿2号などF1品種の時代に移り変わり、耐病性品種を経過して、現在は桃太郎が中心品種になっていますが、 時代の流れとともに生産者や消費者の要望も変化し、今後もまだ桃太郎な弟たちや全く新しいタイプの品種が必要になってくるかも知れません。 桃太郎の育成に携わって、育種素材と目標に対する集中が最も大切であることを痛感しました。
  住田敦(京都府立大学農学科植物病理学講座、S41年卒;タキイ種苗研究農場長) 『農業および園芸』代69巻 第3号(1994年)から
(『京の伝統野菜と旬野菜』から)
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<品種改良を抜きにして現代の農産物を語ることはできない>  コシヒカリと桃太郎の品種改良について取り上げてみた。現代において、品種改良を抜きにして農業・農作物・食生活を語ることはできない。 農業は「先進国型産業」だと思う。少なくとも、現代日本の現状を見るならば、「品種改良とは知識産業だ」と言っても良いと思う。
 「農業は労働力集約産業である」とか、「広い土地があってこそ産業として成り立つのだ」と言うのは、日本の現状を見ていない、「ダメな言い訳を探している、変化を怖れる”非先進国型産業”の既得権者の言うことだ。
 このシリーズでは「地産地消」とは違った考えで、人々の食生活が進化してきた、ということを主張するつもりだ。その前提として、「品種改良をみれば、農業が先進国型産業であることが分かる」ということをハッキリさせようと思う。
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<主な参考文献・引用文献>
『食と農の戦後史』                  岸康彦 日本経済新聞社  1996.11.18
『京の伝統野菜と旬野菜』             高嶋四郎編 トンボ出版    2003. 6.10
( 2007年9月24日 TANAKA1942b )
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(3)江戸時代の少ない食材を生かした食生活 
庶民の日常と滅多にないハレの世界
<「和食」のきた道>  日本人は「選食」の名人である。
 日本列島に展開されてきた、食の文化史をたどってみると、それがよく理解できる。いうまでもなく、食材の選び方、料理の加工法、つまり、その材料に最もふさわしい食べ方まで含めてセレクトすることが「選食」である。
 たとえば、縄文時代はほぼ1万年続いているが、発掘による食材は、クリやクルミなど植物性の出土例は60種類ほどであるが、キノコや山菜・海藻などまで含めると300種類以上は食用に供されていたとみられている。 動物類で70種くらい、鳥類が40種ほど、魚類が約70種で貝類は350種くらいと推測されており、これらは「縄文選食」なのである。
 縄文晩期以降は稲作や豆類、野菜などの栽培が普及するが、それらのほとんどは大陸からの渡来もので、日本の風土や日本人の思考のふるいにかけた「選食」である。
 その後も、外来文化を「選食」して取り込みながら、料理や加工に新しい工夫をこらし、現在に至っている。「選食」の基準は、安全、食味、健康度、生産性である。
 「選食」が発展して、和食文化を生む。和食の評価が世界的に年々高くなっているのは、人間の歯の構造にマッチしており、健康維持には、理想的な組み立てだからである。
 人間の歯の60パーセントは臼歯、25パーセントが門歯で残りが犬歯、臼歯は穀物を噛む歯であり、摂取カロリーの60パーセントを、穀類から取るのが理想であることを示す。 同じように、門歯は野菜類の歯であり、犬歯は肉用。したがって野菜と肉類はほぼ2対1の割合がよい。人間の唾液にはデンプン分解酵素のアミラーゼが多いことを考えても、主食は穀類で、その割合は60パーセントくらいがよいことを示している。
 この割合で食べてきたのが日本人。縄文以来の「選食」が、実は人類の理想食を生んだのである。
 その「和食」のきた歴史ぼ道を、イラストを中心にまとめたのが本書であり、「選食」に込められた日本人の知恵の歴史でもある。 (『たべもの日本史』から)
<昔の食生活>  食生活に関して身土不二という言葉がある。身は人体を、土は大地を、また不二は異ならず一体であることを指す。 すなわち、人の体とその居住する土地は不離の関係にあり、人はその土地から生産されるものを食べることによって成長と健康を保持し、長寿に繋がるとの考え方である。
 交易が不活発な時代にあっては、それぞれの土地で自給自足的な食生活を強いられていたのは当然であり、延宝で採れる生鮮食品を手に入れることは困難であった。 それゆえ、食生活はその土地から生産される穀物、野菜、山菜にほとんど頼らざるを得なかった。
 とは言っても、食生活の内容はその居住する周辺の自然環境に大きく左右された。海辺の農村と山深い農村では、魚介類の消費量に雲泥の差があった。 落語の「目黒のサンマ」のように、江戸の庶民は江戸前(東京湾)で捕れた新鮮な魚介を食し得た。それはイワシ、アジ、サンマなど、漁獲量が多く安価であったからである。 一方で、地方から江戸屋敷詰になった武士で脚気を患う者が多かったという。その因は、地方と違って江戸の精白度の高い米を地方にいるときの習慣で大食し、副菜をほとんど食べなかったからである。
 山川菊栄の『武家の女性』は、老母から幕末の水戸藩下級武士(15石5人扶持)の生活を聞き書きしたものである。それによると、座布団は主人が薄いものを使うだけで、家族はもちろんのこと、客があっても出さなかったというから、その生活のつましさは想像できよう。
 食生活においても、しょうゆは買うものの、味噌は1年分を仕込み、漬物はいく通りも4斗樽に漬けておいた。 朝食は味噌汁と漬物だけ、昼は野菜の煮付けであった。ただ、晩は味噌汁に魚が一皿付いたという。水戸は海に近く魚売りが毎日のように来て、鯛や鰹でも1本丸ごと買い、家で料理した。 何よりも安価であったためである。
 戦前の食生活を知るために格好の資料がある。農山漁村分化協会発行の『日本の食生活全集』である。これは大正の終わりから昭和の初め頃の各都道府県の食生活を、古老の協力を得て再現したものである。 当時のふるさとの食生活を知りたいと思われる方はぜひ参考にしていただきたい。
 全集の各巻に掲載されている十数ページのカラー写真を見ると、日常食はそれぞれの料理に四季折々の食材が巧みに使われ、郷土色あふれるものである。 と同時に、なんと素朴かつ質素であることか、これが第一印象である。
 これに比べて、祭りなどのハレの料理は素朴さを残しつつも皿数も多く、特にひな祭りの料理は色鮮やかである。 (『食の戦後史』から)
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<江戸庶民の食生活>  江戸時代に関して、歴史の見直しが進んでいる。「田沼意次は賄賂政治であった」はほぼ完全に否定されたと思う。 「鎖国」という言葉も、適正な言葉かどうかが疑問視され始めている。荻原重秀の再評価は『勘定奉行荻原重秀の生涯』(村井淳志著=集英社新書=2007.3.21)でハッキリしたと言えよう。 犬公方徳川綱吉将軍の見直しも進んでいるし、幕末の「金流出」も、むしろ日本の貨幣制度が、管理通貨制度の要素を取り入れた進んだ制度だった、との評価も出始めている。 『貧農史観を見直す』ということも進んでいる。ここでは江戸庶民の食生活を少し扱う。それは、現代に比べれば食材の種類は少なかったが、それなりに工夫して食生活を改善させていた、ということになる。
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<江戸のファーストフード>  庶民の生活は、その日暮らしのつつましいものとはいえ、太平の世の中に「江戸城の将軍様のお膝元」に暮らせる幸せを感じて、一生懸命働き、また楽しみを見つけていたと言える。 えどの風俗は、260年あまりの時間をかけて醸成されたが、その江戸後期から明治にかけての様子が『江戸府内絵本風俗往来』(菊池貫一郎、1905年)にも見ることができる。 そこにはやはり、屋台での天ぷら、すしに、かつぎ売りのしるこ、水菓子(果物、たとえばすいか)の切り売りが見える。 またこの本のその他の絵を見ても、庶民の生活はつい最近の昭和の中頃までの姿と重なり、江戸の営みがあまり変化せずに続いてきたのがわかるような気がして筆者には懐かしく、江戸がとても近く感じられるのである。
 江戸は規模こそ異なるものの、現在の東京と同様に一極集中化していた。そして、江戸の町の庶民の多くは長屋住まいであり、食べ物をつくるための土地を持てなかったので、すべてを購入するしかなかった。 このため「棒手振り」といって、毎日の食事の材料であるあさりのむき身や納豆、魚、野菜などを、路地裏までも売りに来る人々がいたのである。 こうした売り手には、その日稼ぎの人が多かった。
 一方、商店に住み込みで働いていた手代、丁稚小僧やまかないの女性たちなどは、毎日の食事といえば、飯に汁、漬物が基本で、昼。夕食ではこれに煮物、また月に何回かは魚がつく程度であったから、祭礼や花火見物などに出かけて屋台などでとる外食は、とれも大きな楽しみであった。
 また、火事で始終復興工事をしていた江戸には、職人(大工・左官・鳶など)が多く、この人たちにとっては、手軽に安く口にできる屋台なででの食べ物は、たいへん都合がよかったと思われる。 というのは、満腹では仕事がはかどらず、そこそこの腹具合での労働が能率に繋がったからである。そして、こうした屋台で食べられてきたものこそが、本書で扱う「ファーストフード」にほかならない。
 えどは徳川幕府が日本の中心たるべく、ほとんど何もない状態から作り上げた都市であるから、もともとその工事のための男の人口が多かった。 さらに参勤交代で郷里に妻子をおいて江戸詰めになった藩士、上方(かみがた)からやってきた大店(おおだな)の使用人たち、仕事を求めて出稼ぎに来た人なども、その多くが単身男性であった。
 こうした多くの男性たち、なかでも使用人や出稼ぎ人などの庶民に人気のあった、すぐ腹の足しになる食べ物、すなわち「てんぷら」「にぎりずし」「そば」「鰻の蒲焼き」などは、いずれも屋台売りから始まっており、いわば江戸庶民のファーストフードとして役立っていた。 本種では、こうした庶民の味ファーストフードから筆を起こし、それらの一部をも吸収しながら、この時代に寛政していった「日本料理」にまで筆をすすめたいと思う。 (『江戸のファーストフード』から)
<いろんなファーストフード>  江戸中期頃から江戸独特の食べ物が庶民の手で作られ、その売り手も煮売り・辻売り・棒手振り・屋台見世・茶屋・料理店などと広がっていく。
 毎日の食材ばかりでなく、煮豆のような料理済みのものを売る総菜売り(今のテイクアウト)もあり、また魚などでは、天秤棒で担いでくる半切り桶(すし桶のように浅い桶)にまな板と包丁を入れて売り歩き、注文があればその場で下ろして売る者もいた。 野菜などもある程度洗ったものを売り、すぐ使えるようにしていた。
 魚は日本橋が魚市場で、野菜は「やっちゃば」(市場)が神田にでき、そこから仕入れて売り歩いた。野菜売りは「前菜売り」といって、なすとか青菜など1、2種類だけを扱う者をいい、「八百屋」というもっと多くの野菜を扱う者と区別していたが、そのうち区別せずに、野菜を扱えばすべて八百屋というようになった。 江戸近郊の農家も直接売りに来ていたようである。
 こうした食事情の中で、家で食事を作れない人々──独身男性や住み込みの人々が、その場で食べられるファーストフードを愛用していたのである。 とくに串をもちいて食べやすくしたてんぷら・でんがく・蒲焼き・だんご・手でつまんで食べられるにぎり寿司・餅菓子類(大福など)・饅頭そして水菓子の切り売りなどに人気があった。
 加えて汁を伴うそばきり・ところてんなどもあり、これらは路上で、屋台やそれに準じたこしらえ(屋根なしの台に並べたり、樽上に品物をのせ笠をさしかけたり)のもとで売られていた。
(『江戸のファーストフード』から)
<外国と日本のファーストフード>  江戸のファーストフードの代表となるてんぷら、にぎりずし、そば、鰻の蒲焼きについて述べてきた。 これらが盛んになるのは天明期(1781-1789)以降といわれている。庶民がそれなりに力をもち、封建制度の中でも比較的自由な気風になった頃に、さまざまなジャンルの分化が発達し、そんな中で外食文化もまた栄えたのであった。
 庶民の食べ物を売る屋台などは、盛り場や大通り、また神社仏閣の祭礼、花見や月見のような遊興などで、人々が集まるところに発達した。 路上での買い食いは、多くのひとが行き交うにぎわいの中で可能となった。武家や大商人や町屋の人々は、買い食いは賤しい輩のすることとして、外出するときは弁当持参だったり、仕出しを頼むという方法をとっていた。
 ところで、1966年にわが国にファーストフードとしてのハンバーガー店が、アメリカから上陸したときのことを思い起こして頂きたい。 オリンピックを契機に、日本が経済的に急成長していたときのことであった。それまではむしろハレの場で無礼講と称して路上で食べ歩いたりすることはあっても、日常の場でそれを行うとひんしゅくものであった。 しかし自由な若者たちは積極的にそれを日常に取り入れ、今や特別おかしいことでもなくなっている。
 江戸時代の屋台でのファーストフードも、はじめは零細など特別な時の人手の多いところから始まったが、江戸も後半になると多くの繁華な場所では常設となり、日常化していった。 てんぷら、にぎりずし、そば、鰻の蒲焼き、おでんなど、屋台売りから店を構えてのものまで、さまざまはな売り方があった。
 中でも揚げ物としてのてんぷらは、イギリスのフィッシュ・アンド・チップスやアメリカのフライドチキンなどと同じく、気軽に食べられ、安い上に満足感を得られるために、東西の庶民に受け入れられていて面白い。
 にぎり寿司は、江戸の活気あふれる忙しさが産んだ、日本独特の食べ物として誇れるものであろう。魚の新鮮さと飯のうまさが酸味にマッチしてして素晴らしい食べ物になったが、江戸の庶民のにぎりずしもやがて高級化の道をたどる。
 そばも、麺状のそばきりとして食べるようになったのは江戸でのことであった。路上でのそば屋は「風鈴そば」とjか「夜鷹そば」と言われ、丼に入れて汁をかけたもので、ファーストフードとしてふさわしい。 店を構えてのそば屋は酒を添えて盛りや掛け、さらにはてんぷらや霰(あられ)などの具も工夫し、より美味しいものにしていった。
 こうして江戸の後半には、日常の食材を購入しなければならなかった庶民の台所事情がさまざまの食べ物商人を育て、そのことがまた新しい食べ物を生んで、人々の旺盛な食欲を充たしていったのである。
(『江戸のファーストフード』から)
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<将軍の儀礼食と食事>  古代から勢力を有していた公家や寺社家に対して、これらを新興の武家が圧倒していく過程が、中世という時代であった。 源頼朝は、鎌倉に幕府を開いて武家政権を樹立させたが、それは局地的な東国政権としての性格が強かった。その後も承久の乱や建武の新政など、公家勢力によるーデターが起こっており、権力奪回の可能性が完全に失われたのは、室町時代以降のことである。
 こうして武家が実質的に日本社会の支配者となったが、この時代に室町将軍を頂点として、その威光を天下に知らしめるための儀式が成立した。 これが御成(おなり)と呼ばれるもので、将軍が臣下の家を訪問した際に開かれる饗宴を含むが、室町期に較べて将軍の力が絶大となった江戸幕府においても、この伝統的な武家儀式が継承されていた。
 この御成には、17献もしくは21献にもおよぶ盛大な饗宴が伴い、そこでは食事場所における将軍との距離や、食事内容の差を強調することで、身分秩序の再確認がなされた。 いっぽう最下級の家臣に至るまで、参加者全員が献立の一部を共有することによって、将軍との集団的連帯感を確認するという仕掛けが施されていた。
 ここでは江戸時代の将軍の食生活を、徳川将軍御成の事例から、見ていきたいと思う。近世の御成は、江戸初期に集中し、室町期に書き残された種々の御成記を手本として行われたが、残された史料はあまり豊富ではない。
 たまたま『南紀徳川史』巻125祭典部に、御成関係史料が収められているので、これに拠ることとしたい。その善用を知りうるのは、寛永元(1624)年正月23日から28日にかけて、紀伊中納言南龍公(なんりゅうこう)が受けて催した3代将軍の御成である。
 すなわち家康の10男である紀伊藩主徳川頼宣(よりのぶ)が、兄にあたる大御所の秀忠と甥の将軍家光とを、それぞれもてなした時の次第や献立が書き残されている。 このうち23日には大御所が、そして27日には将軍が大勢の伴を従えて、竹橋にあった紀州藩邸を訪れた。
 ここでは、より記述の詳しい前将軍秀忠の場合で、饗宴の内容を見てみよう。まず御数寄屋で饗宴がもたれたが、本膳は酒漬の鶴のほか、鮑・鯛・栗生薑(はじかみ)・縒り鰹・蜜柑・昆布と椎茸煮染の7菜に、鶴・土筆の汁と飯がつく。
 二の膳がユルカ(うるか=鮎の腸)の和え物・鳧(けり)の焼き物・平貝・切蒲鉾・香の物塩山椒の5菜と鱈・昆布の汁、これに肴として京焼の皿に盛られた海鼠腸(このわた)が付き、金飩・水栗・御揚枝・豆の子・黒胡麻・砂糖・山芋煮染といった7種の菓子が供されている。
 その後、書院で御祝いが始まり、初献は、亀足(きそく)の鳥と雑煮に、餅・荒布・鯣(するめ)・菜・鰹の5種を亀甲に盛り、芋一重と餅5切に小串鮑と平鰹。 このほかに、塩引き・鰭(ひれ)の物など5種の2献と、唐墨・鯣(するめ)など3種の3献といった内容で、祝賀の饗礼に行われる礼式である式3献が初めに執り行われた。
 この時に大御所からの拝領があり、前には書院で紀伊家に太刀や銀子・衣服・後には大広間で家臣に銀子と衣服が下されている。次に大御所への返礼として、大広間で太刀・金子・衣服等、さらには馬の進上がなされて、贈答の儀式が終わる。
 続いて祝賀の舞である式三番を初めとして能七番に狂言一番が催され、これがすむと鳥目(ちょうもく=銭)と小袖が役者たちに下給され、能の見物人には饅頭に鯣(するめ)と酒が振る舞われる。 大御所たちは再び書院に移り、ここで本格的な七五三の膳に入る。
 本膳は、塩引き・蛸・蒲鉾・和交(あえまぜ)・香の物・含め鯛・桶の7菜に湯漬け。二の膳は、巻き鯣・削ぎ物・貝盛・りょうし(?)・海月(くらげ)の5菜に集汁(あつめじる)と鯉の汁。 三の膳は、羽盛・船盛・鰭の物といった装飾を施した三菜に白鳥などの汁、さらに桜煎と福良煮の吸物。これに焼き麩(ふすま)・饅頭・姫胡桃・蜜柑(みかん)・羊羹・豆飴・御揚枝・結び昆布・柿・榧(かや)・千鳥など11種の菓子が添えられている。
 これに合わせて三献が終わると、再び引き替えの御膳が出てくる。この本膳は、かき合え鯛・縒り鰹・栗生薑・生椎茸・独活・香の物・和え物の7菜に飯と鶴の汁。 二の膳は、鮒の生馴れ酢・煎鳥・萵苣(ちさ)・塩鯛・焼き鱒の5菜に汁。三の膳は焼き小鯛・白魚と昆布・韮の和え物の3歳に汁。 これに引き物として、雲雀の煎鳥と烏賊(いか)の塩刺と煎子と牡蠣の吸物、さらに菓子として肥後蜜柑と枝柿が添えられている。
 なお香の物については、一般に菜の数に入らないとされているが、二汁五菜以上の場合には菜に含まれ、一汁三菜以下では菜として数えられない、という原則があるので、これに従った。
 いよいよ27日からは、将軍家光の御成となるが、儀式や献立の内容も大御所の場合とほぼ同様であるので、ここでは省略する。 以上が江戸初期の御成の饗膳であったが、室町将軍と較べて、一つ一つの料理はかなり贅沢になっており、また膳や土器に金箔を施すなど、華美な装飾が眼につく。
 なお、こうした将軍御成に準ずるような饗宴は、正月などに有力大名の間でも行われていた。尾張徳川家などでも、大がかりな饗宴が催されたのち、年頭の御祝儀を言上する家臣や奥女中などに対して、雑煮や吸物を下賜する儀礼が行われている。 ほかに加賀前田家や肥後細川家などでも、ほぼ同様な饗宴が行われていたことが知られているが、近世を通じて、しだいに小規模化していく傾向が見られる。
(『江戸の食生活』から)
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<神楽と直会、饗宴と坂送り>  「一生に一度はお伊勢参りをしたい」。これが江戸庶民の夢であった。そのお伊勢参り、行って来た人の話を聞いて皆行きたいと願った。どのような話をしたのか? なにも誇張することはなかった。伊勢神宮の御師の館での経験は正に夢の中の出来事であった。普通の武士はもちろん、お殿様でさえめったに経験できないほどの経験をした。どのようなことだったのか?それを参考文献から引用してみよう。
 はじめは、清めの御祈祷(湯祓い)。
 鼓と謡が奏されるなか、白衣を着た男が一人出て、五徳寵で火を焚き、舞姫が扇と鈴、竹に柳を結んだものを持って舞う。そして、白木台に置いた銚子の酒を釜にさし、水手桶の水をさす。舞姫は、次々とかわる。かわるごとに太鼓が打たれる。
 次に、長手の杉箸の先に細く刻んだ白紙を付けた幣(ぬさ)が講中に配られる。それを皆一人一人取りいただき、拝し、自分で振って身を清めるのである。なお、その幣は、そのあと寵で焚きあげられる。けがれをこの火に集めて除く、という意味があるのだ。
 謡の奏されるなか、岡田太夫と嫡子が衣冠を正して登場。正面に向かって三拝平伏する。講中の面々も皆平伏す。
 岡田太夫が願文を開き、講中の五穀豊穣、家内安全の趣旨を持ち舞う。そして、幣を講中の頭上で振る。座している舞姫一人が手に米を握り、2,3度盆に移す。さらに、投銭といって、舞姫の座するところ、楽人のいるところ、四方八方に銭を投げること2,3度。 面々の前に落ちたものは、それぞれが拾う。その後、扇舞、山の舞、連舞が舞われる。これも、講中によってかわる。奉納金によって、大神楽、中神楽、小神楽と分かれているにである。
 神楽がすむと、直会(なおらい)である。白木台にのせた瓶子と神酒が下され、三方にのせた外宮内宮の供えものの授与がある。講中がいただき、すめば神楽殿の襖が閉められる。
 以上、神楽から直会まで要した時間は、およそ二た時(4時間)。
 引き続いて、座敷をかえて饗宴。岡田太夫が衣冠を正し正座し、このたび代々御神楽が首尾よくすんで恐悦との段を述べる。三方にのせた金杯銀杯に長柄の銚子の酒。宴席での礼講である。一同が、うやうやしくいただく。その後、手代からも恐悦の挨拶があり、夕食の案内となる。
 饗応の献立は、次ぎのとおりである。ちなみに、本膳から四の膳にいたるまで、すべての白木膳であった。
  本 膳 皿(独活せん切り・とさかのり・かうたけ・さより糸作り・紅酢),壺(磯もの・銀杏),瓦器(粒さんせう・花しほ)/飯,汁
  二の膳 白木台(紅かんてん・肴・青磯草・ねりからし)、白木台籠(大根・かちぐり・干菓子)、椀盛(鯛すまし・さんせう)
  三の膳 白木台(伊勢海老)、白木台(鶴)、椀すまし(鯛真子・じゅんさい)
  四の膳 皿(鯛塩焼)、猪口(ウルカノシホカラ)
  第 五 重引(生)(生麩・すりしやうが)
  第 六 椀(尾ツキすまし)
  第 七 猪口(四の膳にあり)
  第 八 平(敷みそ・松だけ・伊勢えび・ゆば)
  第 九 皿(子鯛を巻。但し酢にて味とる。ばうふう)
  第 十 大鉢引(鎌倉海老一色)
  第十一 二見浦といへる箱入干菓子一箱づゝ引
  金銀の大盃二ツを出す
 こけおどしともとられる豪華さである。 
 むろん、御師は、古くは天皇や貴族、あるいは武士の祈願を仲介することが本務であった。そこでは、奉幣使(願主の代人)を手厚くもてなさなくてはならない。それがこのような馳走の原型だったのであろうことは、想像にたやすい。
 豪華な食事を前にした講中の驚きのようすは、ことに細々と記されていないが。が、本膳から四の膳まではていねいに図示されている。この『伊勢参宮献立道中記』のなかでも異例のこと。ということは、つまり、もっとも豪華なご馳走であり、もっとも印象に深い饗宴であったということになろう。
 饗宴のあとは、前夜と同じ絹の揃いの夜具が用意された。「熟睡に及び衆人前後を知らず伏す」と記されている。
 さて、翌日は出立の日。朝起きがけに、前朝と同じ焼き結びと梅干しひとつ・煎茶がふるまわれた。そして、朝食となるが、それも本膳に二の膳付きの形式であった。
  皿   (しそ・うど・ちさ) 
  汁
  本 膳 壺(ぜんまい・甲州梅・すまし)、薄板(紅つけ大根・わかめ・たひのつけやき)/飯
  二の膳 椀(たひ・すまし)猪口(したしもの)、平ラ引(薄雪・こち・すまし・貝焼引)、椀(引・蛤すまし)、茶碗(新豆・煎海鼠・ヒドリ(火取り永いも))、大鉢(たひの浜焼引)
 むろん、酒もすすめられた。
 朝食がすむと、手代の挨拶。本来であれば宮川まで送ってそこで一酒をさしあげるべきところ、講中にはここから別々になったり先を急いだりする者もあるので、と世話人からいわれたとして、弁当(結び)・組肴(五種献立)・生菓子(餅)・錫徳利酒(二ツ)を取り出す。つまろ、送別の小宴である。 この時代は、旅への出立と帰還時に村境や町境で近親者が集まって酒宴を催す慣行が広く行われていた。これを、「坂送り」「坂迎え」というが、文献によっては、「酒送り」「酒迎え」と記しているものもある。伊勢の御師も、講中を宮川で迎え、外宮あたりまで送るのを慣例としていたのである。
 いよいよ一行が出立。手代は外宮まで見送り、ここで断りをいって帰っていったのである。
 ところで、御師の館で費やした費用はいかほどであったのか。じつは、それも『伊勢参宮献立道中記』に記載されているのだ。
 それによると、「代々御神楽初穂料」が30両である。
 そのほか太夫の奥方や嫡子、助勤の太夫たちにそれぞれ祝儀として2,3分ずつ。講中から御師岡田太夫に渡された額は、しめて36両余りとなっている。
 代参者は20人、その数からすると講員はおそらく300人以上、あるいは400人ぐらいか。講員が多い伊勢講としても相当な費用といわざるを得ない。例の『東海道中膝栗毛』には、講中での代々神楽の初穂料が15両とある。 これが標準的な中神楽の料金であるので、志度ノ浦講中のそれは、大神楽であった。ちなみに、小神楽の場合は、10両以下で、7両とか6両を支払った、という記録がある。
  しかし、それにしても相当な、というよりも法外な費用であった。江戸の後期、江戸の市中においてさえも、一家数人で年に5両もあれば暮らしがたった時代なのである。江戸時代の歴史、とくに庶民の生活の実態を見直さなければならないという根拠は、ひとえにこうした消費力にあるのである。 (『江戸の旅文化』から)
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<牛肉は文明開化の味がする>  明治維新を境に、日本人の食生活をガラリと変えたのは肉食である。もともと江戸時代でも肉食はまったく行われなかったわけではなく、

 狩場ほどぶっつんで置く麹町
 冬牡丹麹町から根わけなり

 といった川柳もあるくらいで、野獣肉の嗜食も、江戸の中期は盛んなものであった。当時、麹町平河町に俗称を「ももんじゃ」、屋号を山奥屋と称する獣肉店があり、この山奥屋はカキシブ(柿渋)で防水した障子かなにかに紅葉や牡丹の絵が描かれていた。 いうまでもなく紅葉はシカ、牡丹はイノシシの隠語である。平河町は半蔵門と目と鼻の至近距離にある。四谷の宿に獣肉市が立って、馬方や宿場人足を相手に肉を売ったとのちがい、武家の軽輩の者や足軽、中間(ちゅうげん)の間に、半ば公然と獣肉が食べられていたと見てさしつかえない。 山奥屋には、かなりたくさん肉が在庫していたようで、川柳子はそれを「狩場ほどぶっつんで置く……」と形容したわけである。
 そればかりか「赤斑牛と井伊侯」の話しは有名で、俗仏庵主の『牛鍋通』という本には、

 近江の国は、昔から大津牛と称へ、牛の発達した処で、彦根の藩主井伊侯は、毎年赤斑牛の鞍下(今のロース)を、毛付けの儘味噌漬けにして将軍家及び御三家へ、薬用として献上したものだそうだ。 幕末に到って、直弼侯は、根が坊主出だけに、牛を殺すのを嫌って献上を怠った処、水戸の烈公が非常な牛肉好きで、ある時殿中で献上の催促に及んだ。 すると直弼公は、「拙者は殺生は嫌ひでござる」とスゲなく断ったが、水戸公の勘定を害した初めてだといふ説がある。どういう訳だか、昔は赤斑牛だけは食っても穢れぬと言ひ習はして居た。

と、記されている。
 しかし、一般の日本人は穢らわしいとして、これを嫌い、わずか一部の者が食用としていたことも事実であった。これが維新後は、牛肉を食べることが、文明開化でもあるように、牛肉と欧化主義が結びついて、それこそ猫も杓子も、「モシあなたエ、牛は至極高味(おいしい)ですね。 此肉がひらけちゃ牡丹(猪)や紅葉(鹿)も食へやせん。こんな清潔なものを、なぜ今まで食わなかったのでごわせう……追々我国も文明開化と云ってひらけて来やしたから、我々までが食うようになったのは、実にありがたい訳でごス。 それをいまだに野蛮の弊習と云ってネ、ひらけねえ奴等が肉食をすりやァ神仏へ手が合わされへえの、ヤレ穢れるのとわからねへ野暮をいふのは究理学を弁へねへからのことでげス。 そんな夷に福沢先生の著した身区食の説でも読ませてへネ」などというようにまでなった。仮名垣魯文は『安愚楽鍋』(明治4年刊)の序文に、

 士農工商、老弱男女、愚賢貧富おしなべて、牛肉食わねば開化不進奴(ひらけぬやつ)。

と、書いて牛肉食の効を手放しで礼賛している。「牛鍋」こそは西洋文明輸入時代を代表する特産であった。 (『日本の食文化』から)
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<外国から渡来した野菜>  わが国の野菜はほとんど全部外国から渡来したもので、日本原産といえば、フキ、セリ、ミツバなど数えるほどしかない。 外国から渡来した野菜のうち、古代に渡来したものはいずれもアジア大陸から入ったもので、その中にはダイコン、ツケナ、マクワウリなどのように、地中海沿岸地域やアフリカ原産のものも入っている。
 ヨーロッパの野菜が直接わが国に入ったのは、室町時代以降のこととされ、ポルトガル船やオランダ船が九州の長崎や平戸に寄港し、キリスト教を布教し、各種の文化をもたらした際、その渡来文化の1つとしてカボチャ、トウモロコシ、ジャガイモなどが渡来した。 さらに近代になって、明治差保年欧米の作物を積極的に導入し、そのなかから多くの野菜が普及した。例えばキャベツ、トマト、タマネギなどのような、当初は西洋野菜と呼ばれた種類が、今ではごく普通の大衆野菜になっている。  (『野菜』から)
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<食事の回数は次第にふえていった>  『武者物語』の北条氏康の言葉に、「およそ人間はたかきもひくきも1日再度づつの食なれば」とあるように、中世までは1日2食が普通で、搗女(つきめ)や大工のような烈しい労働をする者には、間食を給していたようであるが、いつの間にかその間食が朝食と夕食の間に割り込んで昼食になり、1日3食が正規の食事になった。 ところが最近1世紀農業の機械化が進む直前の農村の食生活の報告をみると、その3食の合間合間にやや軽い食事をとって1日の労働力を補強しているのがみられる。 1年のうちでも特に、春の彼岸から秋の彼岸に至るまではおやつのある季節で、東京都下の八王子地方では「アオサ」(朝飯)「オチャ」(午前10時頃の間食)、「オヒル」(昼食)、「オコジュウ」(午後のオヤツ)、「ヨーメシ」(夕飯)がある。 この地方は明治時代、農業と養蚕と機織を兼ねたからその労働量もすさまじかったが、幼稚な農業時述で耕作していた時代には農業一方でも容易ならぬ労働で、岩手県下の村で「アサナラス」(午前4時)、「アシャエ」(朝飯で午前7時)、「コピリ」(午前10時)、 「オヒル」(午後1時)、「アトコビリ」(午後4時)、「ユウハン」(午後8時)という例もある。
 農家では田植えや肥料用の草刈り仕事を村内の家々と仲間ですることがあるので、自家の家族だけならば食べないですむおやつも、この際には出さなければならない。 また男女の農奉公人のいる家や、家族でも息子や娘や若い嫁にうんと働いて貰うためには、おやつの用意を忘れてはならないのである。 おやつの材料は蒸薯・あられ、小豆と米を煮たもの、団子などいろいろあるが、握飯に梅干か漬物という地方もある。この間食を関東から関西はチャノコ・オチャ・コジャというが、東北の農家はお茶を飲むことが少ないためかコビル・コビリという地方が多い。
 目が覚めると起きぬけ、前晩握っておいた握り飯を食って朝露を踏んで朝草を刈りに行き、馬の姿が見えなくなるほど草を積んで帰って朝食を食う。 文字通り朝飯前の仕事をすめせてから朝飯を食べて、今度は田圃に、又は山や畑に行く。10時頃コビルを食って又ひと働きして昼飯にする。 昼飯を済ませてからしばらく午睡をして、早起きの寝不足と午前中の労働の疲れを流して又働く。午後の3時頃には「アトコビリ」で口を潤して、長い夏の夕陽が沈んで手許が見えなくなるまで働いて家に帰って夕食の膳につく、というようなわけで、星をいただいて帰る農夫の手労働は、4回、5回の食事によって補給されるのである。 秋の取り入れがすむと稲こきがある。籾磨りがある、いろいろな穀物の搗きものがあって、これも夜遅くまでかかるので、手足を道具にし、精力を動力にして労働した時代には、機関車に石炭を投げ込むようにひんぱんに食事をした。 これは人間の食い溜めの能力が昔よりも衰えたためなのか、或いは度々食った方が身体に良いということになったためか、又は文化が進に従って人間の労働量が増したからであるのか、その理由を明らかにしたいものである。
 このおやつは都会人のおやつとは異なって、単なる口なぐさみではない。一旦精力を消耗した者が働こうとするときの腹ごしらえであるから、精力の出るものでなければならない。 これは経済上の理由もあって薯類が多く、雑穀粉の団子も用いられる。食事ごしらえをする婦人も野良働きに出る関係上、特におやつをつくる余裕がないところから、間食には3度の食事のあまりの飯・汁を食う地方もあって、そんなところでは正規の食事とおやつの区別がつかないので、春から秋までは1日4回の食事であるという地方が少なくない。 なかには農村はたいてい年中4回の食事で、学校の先生と役場員だけ3回である、という地方さえある。正規の食事の回数がまた1回増えたわけである。
 こうしたひんぱんな食事は、結局胃の腑に入る食物の総量如何ということになる。どこでも純米ばかり食っているわけではないが、田植え・麦こなし・稲刈り・麦蒔きの頃の男子の食量は1日8合、冬の間は6合と概算している村がある。 男子は1日8合が普通であるが、夏秋の忙しい季節は9乃至1升は入用であるという地方もある。労働のはげしい季節には1人7,8合入用であるが、外働きをしない冬の季節には4合でよい、食事と労働量は比例する、というのが普通である。
 青森県の野辺地町では、2,3食分食って置くことをタメゴクというが、福井県の序損でも漁師は海上で魚に出会うと1日中食わず飲まずに働いて家に帰ってから1升飯を食うので、食いおき。食いおくりをするという。 タメゴクを美徳とすればチカヅエ──近い飢えか──してちょいちょい食いたがるのは不便な性分である。食事量が1人前以下の者がガセナス、仕事が1人前できない者もガセナスで(山形県西村郡)、一般に多く食う者が多く働き、少食の者は働きも少ない、と考えられていた。  (『食生活の歴史』から)
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<百姓がコメを食べなかったら、収穫されたコメは誰が食べたのか?> 
江戸時代の百姓の主食は何だったのだろうか?コメ?麦?そば?粟・ひえ・きび?芋?豆?
 今日私たち日本人の主食はコメ。これに異論はない。 「貧乏人は麦を食べればいい」との表現のように、コメ以外は貧しい食材、とのイメージがある。そして「江戸時代の百姓は、貧しくてコメは十分に食べられなかった。正月とかハレの時だけだった。」こんな風に思いがちだ。果たして本当はどうなのだろう? 「コメ自由化への試案」「大江戸経済学」を書き始めて、いろいろな資料を読んでみると、江戸時代へのイメージが変わってきた。「江戸時代の百姓は抑圧された階級で、食うのが精一杯の生活だった」というのは誤り、けっこう豊かな生活をしていたらしい。 そして、「粟やひえが主食でコメは滅多に食べられなかった。」とは勝手な思い込みらしく思えてきた。さてそこで本題、江戸時代の百姓は何を食べていたのだろうか? 板倉聖宣著『日本史再発見』に参考になる文章があったので、ここで引用することにしよう。

高知藩の食糧生産と消費1723(享保8)年度の高知藩の、食糧生産と消費を対照した記録から考えてみよう。
1723(享保8)年度の品目別収穫高
 米  276,000石
 麦  120,000石 食糧としては、麦2升を米1升と扱う つまり米6万石分
 そば  7,400石 1.5升で米1升分 つまり米5,000石分
 粟・ひえ・きび 9,000石 3升で米1升分 つまり米3,000石分
 芋   25,000石 3升で米1升分 つまり米8,100石分
 大小豆 7,400石 2升で米1升分 つまり米3,700石分
 これらをコメに換算すると、米27.6万石+雑穀7.98万石=35.58万石 1723(享保8)年度の高知藩の食料生産高はコメ換算で35.58万石。
1723(享保8)年度の食糧需要量高松藩の人口40万人として、うち10万人赤子。残り30万人のうち
 15万人 男子 1年分の食糧 1.8石
 15万人 女子 1年分の食糧 0.9石
 1723(享保8)年度の高知藩で必要な食糧は 1.8X15万+0.9X15万=40.5万 35.58万石の収穫高に対して、必要量は40.5万石。差引4.92万石の不足となる。 この不足分は、わらび、芋の茎、大根、かぶななどで補う。
 高知藩全人口の一割の武士と町人がこのうち米だけ4万石食べたとして、残りの米は23.6万石。他の雑穀に比べ圧倒的に多い。つまりこの時代高知藩の百姓は「コメを主食としていた」ことになる。つまり高知藩の百姓の食糧品目割合は次の通り。

  品目  石高(石)  %

  米   236,000  65.5 
  麦    60,000  16.6
  そば   5,000   1.4
  粟    3,000   0.8
  芋    8,100   2.3
  豆    3,700   1.1
  その他  44,200  12.3
  計   360,000  100.0
 8代将軍吉宗の頃、四国高松藩の百姓は上記の割合で食糧を取っていた、と考えられる。この推測には「武士、町人はコメだけ食べていた」との条件での計算である。 江戸時代の農民はコメを主に食べていた。白米だけを食べることは少なかったろうが、コメに麦などの雑穀を加えて食べていた。そしてコメの割合は約65%であった。 つまり、「江戸時代の百姓の主食はコメであった」と言える。
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<食生活の歴史観を変えてみよう>  「人は住んでいる地域でとれた物を食べるのが良い。その土地の気候・風土に合った食べ物が体に良い」。 地産地消の考えはこのようなものなのだろう。けれども実際人々は地域で生産されたものばかりではなく、美味しい物があれば遠くから時間と金を掛けて運んできても食べていた。 その努力が積み重なって、現在のゆたかな食生活がある。江戸時代の将軍の食生活、それも特別豪華なもの、それと庶民のお伊勢参りの夢のような食事、これらが当時とてつもなく豪華であったことは想像できる。 しかし、現代の庶民の食生活に較べれば、食材が貧素だ。地産地消では超豪華な食事でもこの程度。食材を多様化する努力によって日本人の食事はゆたかになったと言って良い。
 江戸時代の農民の生活というと、「農民=貧困」というイメージになりやすい。「封建制度の下で、農民は過酷な年貢取り立てに苦しめられていた」という「貧農史観」が主流であったようだが、最近は見直されてきているようだ。 上記『日本史再発見』にみるように、実際は農民の主食はコメであったと考えるのが妥当だ。なんとなく常識のようになっていることに疑問を持つこと、これがアマチュアエコノミストの特権で、ここでは「地産地消」に挑戦している。
 そんなチャレンジの一環として、江戸時代の農民とコメの関係について引用してみた。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『食と農の戦後史』                  岸康彦 日本経済新聞社  1996.11.18
『京の伝統野菜と旬野菜』             高嶋四郎編 トンボ出版    2003. 6.10
『江戸の食生活』                  原田信男 岩波書店     2003.11.27 
『江戸の旅文化』                  神崎宣武 岩波新書     2004. 3.19
『江戸のファーストフード』            大久保洋子 講談社      1998. 1.10
『日本の食文化』                  平野雅章 中公文庫     1991. 1.10 
『野菜』在来種の系譜                 青葉高 法政大学出版局  1981. 4.10
『青葉高著作選』U 野菜の日本史           青葉高 八坂書房     2000. 7.30 
『食生活の歴史』                  瀬川清子 講談社学術文庫  2001.10.10 
『日本史再発見』                  板倉聖宣 朝日新聞社    1993. 6
( 2007年10月1日 TANAKA1942b )
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(4)新世界からの貴金属以上の贈り物 
コロンブス以後西欧での農作物の多様化
  この「農作物のルーツを探る」シリーズ、「はじめに」で次のように書いた。
 今日、日本では人々がゆたかな食生活を愉しんでいる。「グルメブームは一部の人たちのもので一般人には関係ない」などと言う臍曲がりがいたとしても、戦前・戦後の苦しい食生活の時期から比べれば、現在、日本人がゆたかな食生活を愉しんでいることは間違いない。 そのゆたかな食生活を支えているのは、「日本に古来からあった食材に加えて、世界各地から豊富な食材が持ち込まれて来たからだ」と言える。
 日本の食生活の話しを始めると「食糧自給率が低い」「天候・気候不安で、将来が不安だ」「日本の農作物は良いけれど、外国のそれは、農薬・遺伝子組み換えなど不安が多い」という話題になりがちだ。 戦争直後、日本人がどのように食糧確保に苦労したかを忘れている。当時を想い出してみれば、現在いかにグルメ時代なのか、理解できるはずだ。そうしたことで、昔の食生活について取り扱ってみた。 そして、今週からは、「如何に”反”地産地消の食生活をしたか」「農作物が原産地を離れて、遠い国の人々に愛されたか」について扱うことにする。
 コロンブスのアメリカ大陸到着から始まる、農作物のヨーロッパ移住過程についてだ。
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<すっかり定着した、遠い原産地からの農作物>  トマトがなかったら、イタリア料理はどんなものになるだろう?辛くて刺激的なトウガラシがなかったら、インドカレーはどんな味になるだろう? もしジャガイモがなかったら、ドイツ人はどんな料理を作るのだろう?チョコレートがなかったら、フランス人のシェフはどうやってムースやエクレアといった、ほっぺたの落ちそうなデザートを作るのだろう?
 まったく想像もつかない。だがイタリアやインドをはじめ世界中のたくさんの地域では、長いことこれらの食材なしで料理が作られてきたのだ。 イタリア人はクリームやチーズや野菜で作ったソースをパスタの上にかけていたし、インド人をはじめとするアジアの国々の人々は辛味を出すのに、黒コショウ、クミン、ショウガといった香辛料を使っていた。 また多くに国では甘いお菓子はミルクやハチミツやアーモンドペーストで作られ、チョコレートのようなこってりした食欲をそそる材料は使われなかった。
 現代の料理には欠かせないトマトやジャガイモ、トウガラシやカカオなどの食材をヨーロッパやアジアではなぜ使っていなかったのだろう? 理由は簡単。トマトもジャガイモもトウガラシもカカオも、ヨーロッパやアジアなどの東半球の地域にはもともとなかったからだ。
 現在よく知られている作物は、東半球原産のものが多い。コムギやオートムギ、オオムギやコメのような穀物は初めアジアで栽培されるようになり、やがて大勢の人が常食するようになった ニンジンやエンドウマメ、キャベツやナスのような野菜、リンゴやブドウ、ナシやモモのような果物、これらはすべてヨーロッパの国々や、インド、中国などのあじあの国々、アフリカの一部の地域で栽培され、食べられていた。
 しかしトマトやジャガイモ、トウガラシやカカオは別で、どれもアメリカ原産の作物だ。これらは西半球、つまり北アメリカ、中央アメリカ、南アメリカにしかなかったのだ。トウモロコシ、カボチャ、ピーナツ、バニラ、たくさんの種類のインゲンマメもまた原産地はアメリカ大陸だった。 ヨーロッパ、アジア、アフリカの人々は、長いこと西半球のある大陸と行き来することがまったくなかった。世界の果てにあった大陸にも人間や動物が住み、さまざまな植物が育っていたのだが、ヨーロッパ、アジア、アフリカの人々にはまったく知れていなかった。 しかし1492年、大変化が訪れた。
 この有名な年に何がおきたか知らない人はいないだろう。クリストファー・コロンブスと彼の部下たちが豊かなインドや東インド諸島への近道を探しているうちに、アメリカ大陸を「発見」してしまったのだ。 最初に上陸したカリブ海の島では、見るものすべてが驚きだった。「どの木もヨーロッパにあるものとは昼と夜もどの違いがある。果物も草花も岩も何もかもが違っている」
 コロンブスはこの不思議な新しい土地はアジアの一部だと言って譲らなかった。あとに続く探検家たちはすぐにコロンブスの誤りに気づいて、「新世界」の発見を宣言した。 しかしアメリカ大陸の先住民にとっては、ヨーロッパからの侵入者こそ彼らの世界にやってきた新参者だった、彼らにとって世界は少しも新しいものではなく、ヨーロッパ人の住む世界と同じように昔からあったのだから。
 アメリカ大陸にはヨーロッパ人がやってくる何千年も前から人間が住んでいた。彼らはさまざまな土地で暮らしていた。 厳寒の北極地方、太陽が照りつける平原、木の生い茂った熱帯雨林、高山。野性の同阿植物を食糧とする狩猟民や採集民もいれば、畑を耕して作物を育てる農耕民もいた。 それぞれの畑では、家族を、小さな村を、あるいは何千人もの人が住む大きな都市を養えるだけの作物がとれた。
 アメリカ大陸の農耕民は、自分たちの土地でどんな植物が育つのかよく知っていた。はるか昔から野性の植物を栽培し、たくさんの種類のトウモロコシやジャガイモ、インゲンマメやカボチャを育ててきたのだ。 やがてこれらの主要作物はアメリカ大陸の大部分で常食される持ち込んだ細菌による伝染病の発生だ。たとえばアステカ族の住むメキシコでは、天然痘が「穂と人のあいだに広がり、壊滅的な状態をもたらした。 ……非常に多くの人が天然痘で死んだ。歩くこともできず……動くこともできず……手のほどこしようがなかった」。 いくつかの地域では、アメリカ先住民の90パーセントが天然痘やはしかなど、免疫のないヨーロッパの病気で死んでしまった。
 1492年にはじまったふたつの世界の出会いは分裂や混乱を引き起こし、いまもなおその影響が残っている。しかし、すべてが悲惨な結末を迎えたわけではない。 アメリカ大陸と旧世界との作物の交流は多くの人々ぼ食生活を改善し、そのおかげで世界中の人々がそれまでよりたくさんのもの食べられるようになった。 もっと栄養があり、種類も豊富でおいしいものが壁等レ留ようになったのだ。
 別の分野でもそうだが、おそらくこの交流でもアメリカ大陸は大きな貢献をしたことになるだろう。トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、トウガラシ、カカオといった作物は、ヨーロッパ、アジア、アフリカの広範な地域における料理や食生活を変えてしまった。 アメリカの作物は、多くの人々の栄養源としてだけでなく、食の楽しみにもまた不可欠なものになった。
 このいきさつは、世界史のなかでも非常に興味をそそられる章のひとつである。 (『世界を変えた野菜読本』から)
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<ソラナムファミリーはスーパーファミリー?>  タバコ、ジャガイモ、トマト、トウガラシ、ペチュニアというとても身近な植物たちが、みな同じナス科に属し、ふるさとも同じ中南米であると来て驚かれる方も多いかも知れません。 実はこんも植物たちは、コロンブスのアメリカ大陸発見に始まる大航海時代以降はじめてヨーロッパ、アジアに紹介され、わずか数百年の間に世界中の人々の生活を変えてしまったのです。
 フライドポテトとトマトケチャップ、ハンバーガー、ピザとタバスコ、トマト味のシチュー、トマトとピーマンの入ったサラダ、現代の食卓の人気メニューです。 ここからナス科の植物たちを消してしまうとどうなるでしょう。味も彩りも、なんとも味気のないものになってしまいますね。 これらの植物たちはそれほど現在の私たちの生活になくてはならない、また潤いを与えてくれるものとなっています。 しかし、彼らが食卓に登場したのがつい最近だということや、登場の裏にさまざまなドラマがあったことは意外に知られていないのではないでしょうか。
 さて、バイオテクノロジーというと、難しい学問だと感じられる方も多いでしょう。しかし、イチゴや花では組織培養による苗の生産はなくてはならないものになっていますし、胚芽培養という技術を用いた新品種も数多く登場しています。 すでに人々の生活の底辺を支える実用技術となっていると言っても過言ではありません。アメリカで遺伝子組み換えトマトが商品化され、その品質の良さで人気を集めたというニュースをご存知の方もいらっしゃると思います。 日本でも、とまとやペチュニアなどでは商品化に向けて安全性確認テストの段階にきています。夢の技術と言われた遺伝子組み換え技術が、医薬に続き植物の分野でもいよいよ実用化の段階になってきていると言って良いと思います。 実は、このバイオテクノロジーの分野でもナス科の植物たちが主役となっているのです。
 この本では、中南米原産のナス科の植物たちの大活躍の物語を、今まであまり紹介されなかったエピソードをたくさん盛り込んでお届けします。
 本の題名を御覧になって、ソラナムって何だろう、そかも世界を制覇したスーパーファミリーとはなんと大袈裟な、と思われた方も多いのではないでしょうか。
 ナス科の中で最も大きな属は、南米原産のジャガイモやインド原産のナスが含まれています。日本では、ナスが千年以上前に渡来し、野菜として長い歴史をもつためナス科の代表植物と考えられています。 しかし、世界的には、きわめて重要な食用作物となったジャガイモのほうが代表的な植物と考えられているようです。本の題名にナス科という言葉を用いた場合、本分にナスが出てこないと読者の皆様が混乱されるかも知れないということで「ソラナム」を用いさせていただきました。 本分の中ではナス科という一般的な表現になっています。
 さて、スーパーファミリーかどうかについては、最後まで読んでのお楽しみです。 (『世界を制覇した植物たち』から)
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<胡椒を求めて東へ西へ、新大陸へ>  どうして地中海諸民族はヨーロッパ支配をやめてしまったのだろうか。その後、ルネサンス後の時代にヨーロッパ人は何に促されて世界中へ拡がっていったのだろう。 ヨーロッパが大西洋の大陸棚と地中海から膨張していく出発点となったのは、例えば宗教とか資本主義の興隆とかは何ら関係がなく、胡椒と大いに関わりがあったのである。 胡椒は中世に取り引きされたほぼ20種の香辛料の一つにすぎなかったのだが、1世紀以上の間イタリアに輸入される全香辛料の半分以上を占めたのである。 他の香辛料で胡椒の価格の10分の1に達するものは1つもなかった。ヨーロッパで広く用いられていた塩漬けの他には保存法がなかった時代に、多量の塩で漬け込んだ肉を食べやすくする香辛料は胡椒以外にはなかった。 塩と胡椒は、とりわけ航海中やひもじい日々や凶作の場合に、肉食の人間が飢えるのを防いでくれたのである。1980年代のはじめにイギリス海軍の難破船「メアリー・ローズ」号が海底から引き上げられたとき、1545年に船とともに沈んだ水兵のほぼ全員が所持品の中に胡椒の入った小袋を持っていたことがわかった。 16世紀はじめにはヴェネツィアは胡椒貿易の独占で得た収益によって豊かで美しい都市になっていた。ところが1470年頃からトルコ人が地中海以東の陸上貿易路を妨げていた。 その結果、ポルトガル人・イタリア人・スペイン人の大探検家はみな東洋へ到達するために西方や南方に向けて出帆した。 南北アメリカは胡椒探検の副産物として発見されたのである。 (『歴史を変えた種』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『世界を変えた野菜読本』   シルヴィア・ジョンソン 金原瑞人 晶文社       1999.10.10
『世界を制覇した植物たち』     大山莞爾・天知輝夫・坂崎潮 学会出版センター  1997. 5.10
『歴史を変えた種』 ヘンリー・ボブハウス 阿部三樹夫・森仁史訳 パーソナルメディア 1987.12. 5
( 2007年10月8日 TANAKA1942b )