(5)アイルランドの歴史を変えたジャガイモ 
これがなかったらドイツ料理はどうなる
<ジャガイモ> ヨーロッパ人は最初に、カリブ諸島とメキシコで新世界のほとんどの作物に出会っていた。 1492年、クリストファー・コロンブスの一行は上陸して間もなく、エスパニョーラ島でトウモロコシとアヒ(トウガラシ)が栽培されているのを発見し、エルナン・コルテスは1519年、メキシコに到着後、チリ(これもトウガラシ)で味つけされたトウモロコシのトルティーヤを食べ、アステカ族のカカオの飲み物、カカワルトルをすすった。 侵略者であるスペイン人たちはアステカ帝国の首都テノチティトランの青空市場を訪れたとき、ウモロコシやチリやカカオの実のもかに十種類ものトマトとインゲンマメを目にした。
 しかしアステカの大市場では、とても重要なアメリカの作物が売られていなかった。それは北アメリカや熱帯のカリブ諸島の人々はもちろん、アステカ族やマヤ族の人々も知らないものだった。 この作物、つまりジャガイモは南アメリカだけで、それもアンデス山脈の麓でのみ栽培されていたのだ。(中略)
 メキシコのアステカ帝国と同じように新しく台頭してきたインカ族は、起源1400年ごろペルーでインカ帝国を建設したが、アステカ帝国よりもはるかに短命に終わる定めだった。 1532年、およそ260人の兵士w3おひきいたスペイン人フランシスコ・ピサロが、黄金を求めてペルーを占領する。 ピサロが皇帝アタワルパを拉致し処刑すると、インカ帝国は崩壊した。(インカ帝国はメキシコから広まったヨーロッパの伝染病によってすでに弱体化していた)。
 ピサロの一行はペルーで黄金を発見した。インカ帝国の神殿の壁はすべて黄金で覆われていたのだ。
 ジャガイモはインカ帝国が権力を握るようになる数百年も前からその土地で作られていた。紀元前3,000年の昔に栽培されるようになったが、アンデス地方の山岳気候、つまり涼しい昼と長くて凍てつくような夜にもかかわらずよく育った。 先住民は山の傾斜をけずり、遠くの川から水を引いて台地に畑を作り、ジャガイモを栽培した。彼らは改良を重ねて、色や大きさ、味や生育条件の異なるたくさんの品種のジャガイモを作り出した。 ペルーのジャガイモの皮は、茶、赤、オレンジ、ピンク、紫、黒灰色とさまざまな色だったと思われる。クルミより小さいものもあれば、グレープフルーツほどの大きさのものもあったらしい。
 1,400年代初頭、インカ帝国が歴史の舞台に登場するころには、ペルーの人々はジャガイモといっしょに他の食物も常食していた。 ひとつは、アメリカ大陸のほとんどの地域で作物の王様と見なされていたトウモロコシ、インカ族のとくに富裕な権力者たちは、トウモロコシのビール、チチャをたいへん好んだ。 コボ司祭は、多くのペルー人がこの発酵酒に目がなかったと書いている。チチャを十分に確保するために、インカ王は臣民を山あいの家から低地へ強制的に移住させた。 トウモロコシを栽培させて王家の貯蔵庫をいっぱいにするためだ(ジャガイモは海抜4,500メートルまで育つが、トウモロコシは海抜3,300メートルより高い土地では育たない)。
 チチャなどトウモロコシの加工品は人気があったが、インカ族のほとんどの庶民は、それまでどおりジャガイモを主食にしていた。インカ族の言葉ケチュア語で「パパス」と呼ばれるジャガイモを、マメやトウガラシなどいろいろな作物といっしょに毎日食べていたらしい。 ペルー人のもう1つの主食であるアカザ属ノ穀物、キノアとジャガイモを使ってシチューやスープを作ることも多かった。 これらの料理にはクイと呼ばれるテンジクネズミの肉も入っていたことだろう。インカ族の庶民はテンジクネズミを家の中で飼っていたのだ(現代のペルー人も同じように家で飼っている)。
 昔のペルー人は取れたてのジャガイモかチューニョを料理に使っていた。コボ司祭が「パンの代用品」と書いたチューニョは、特別な方法で作られたジャガイモの加工品である。 取れたてのジャガイモをまず地面の上に拡げ、一晩そのままにしておく。すると山の冷たい空気で凍りつく。翌日になって解凍したら、踏みつけて中に含まれている水分を押し出す。 この工程は、ジャガイモがからからに乾燥して軽くなるまで、発砲スチロールの板きれのようになるまで何度も繰り返される。 こうして「フリーズドライ」のかたちにすれば、ジャガイモを半永久的に保存しておくことができるのだ。
 生であれ乾燥させたものであれ、ジャガイモはインカ族の暮らしになくてはならないものだが、ヨーロッパ人にとっては、目新しい不思議な食物だった。 1,530年代にペルーを侵略したスペイン人は、ジャガイモを試食してみて食用になることを発見した(「スペイン人にとっても美味しい料理だった」と試食した人が書いている)。 しかしこのパパスは一体何なのか、ずいぶん頭を悩ましたらしい。
 初期のスペイン人の多くは、ジャガイモを見てトリュフを連想したと書いている。ある征服者によると、「パパスは一種のトリュフで、人々はパンの代わりに食べている」。 フランシスコ・ピサロでさえ、ジャガイモは「白っぽい、味の良いトリュフ」のようだと言ったと伝えられている。今日ではアメリカ合衆国のほとんどの人がトリュフといえば高価なチョコレートを思い浮かべるだろうが、そもそもこの言葉は食用のキノコを指す(それが本来の意味である)。 では、ジャガイモとキノコの間に一体どんな関係があるというのだろう?少なくとも1500年代のヨーロッパ人の目には、両方とも土の中で見つかるという共通点があった。 トリュフは、オークかカバの木の根元の土中にできる。ジャガイモもまた土に埋まっている。それは「塊茎(かいけい)」つまりジャガイモの茎の地下に入った部分で、栄養分を貯蔵する役目を果たしているのだ。(中略)
 1700年代、北ヨーロッパの多くの国々がジャガイモを主食にするようになった。 ロシアでは深刻な飢饉で国が打撃を受けると、1765年、エカテリーナ2世がジャガイモの栽培を国民に奨励する。ポーランド、オランダ、ベルギー、スカンジナヴィア諸国でも、人々は、大地主や金持ちでなくても、ジャガイモのおかげで栄養のある安定した食生活が送れることに気付いた。
 ヨーロッパの一部の地域でジャガイモは、アメリカ原産の他の食物とともに、重要な社会的かつ政治的な変化を生み出す要因になった。 食物が多く手に入るようになると、飢饉などで餓死する人や栄養不足が原因で病死する人の数が減り、その結果、人口が増大し始めたのだ。 そしてこれまで弱小で自国も守れなかった国々が力をつけ、世界の舞台でより大きな役割を果たせるようになる。ヨーロッパ世界は変わりつつあった。 その変化に一役買ったのがアメリカから来たジャガイモだったのだ。 (『世界を変えた野菜読本』から)
<アイルランドのジャガイモ飢饉>  北ヨーロッパ諸国のうち、ジャガイモをもっとも重要な食糧としたのはアイルランドだが、このアメリカの作物が恐ろしい悲劇を生んだのもまた、アイルランドでだった。(中略)
 いつどんなふうに伝わったかはさておき、ジャガイモは1600年代半ばまでにはしっかりとアイルランドに根を下ろしていた。 湿度の多い涼しい気候は、ジャガイモ栽培にとってとって理想的な条件を満たしていたが、それ以外の事情もジャガイモが歓迎される理由になる。 アイルランドは長い間イギリスの支配勢力との戦いや争いによって分裂していた。1600年代から1700年代にかけてアイルランドの土地の大部分はイギリスに住んでいる地主が所有し、その土地を輸出用の作物や家畜を育てるのに使った。 そのため多くのアイルランド人は自分の土地をほとんど、あるいはまったく持たず、資産もなく、生活は貧しく常に飢饉や病気の犠牲になった。
 ジャガイモがアメリカ大陸から伝わると、アイルランドの庶民の生活は大きく変化した。高価な機具や畑を耕す家畜を使わずに、借地の狭い一画でジャガイモを栽培することができるようになったのだ。 1エーカーばかりの土地があれば5人家族が1年間食べていけるだけのジャガイモが穫れたし、アイルランドの土地をたえず行軍する軍隊の目をごまかして、収穫時まで地下に安全に置いておくこともできた。
 1700年代の末ごろまでなアイルランド人は1人当たり平均毎日3,4キロのジャガイモを食べ、他のものはほとんど食べなくなる。 食事は毎回ゆでたジャガイモで、時折キャベツやカブやミルクが添えられた。昔の諺に、いかにもアイルランド人らしい食事の様子を簡潔に表現したものがある。 「最初のジャガイモを食べているあいだに、次のジャガイモの皮をむき、3個目のジャガイモを手に持ったまま、4個目のジャガイモをじっと見ている」。 乳牛の餌もジャガイモで、料理に使う鍋で茹でていた。
 この変わりばえのしない、しかし栄養のある食物が安定して供給されるようになると、アイルランドの人口が増加し始める。 ちょうどジャガイモが登場して、ほかの国々の人口が増えたのと同じだ。1754年から1845年までに、人口はおよそ320万円から820万円まで増加した。 そしてこれら数百万の人々は日々の食糧をジャガイモに依存していた。ほかの作物の育て方を知らず、栄養補給源もこれしかなかったのだ。
 1845年に思いがけない災難が「アイルランド」のジャガイモとそこに住む人々を襲う。国中のジャガイモの葉がほとんど一晩で黒くなり、やがて枯れてしまったのだ。 掘り起こして見ると、ほとんどが腐っていた。その年は全滅せずに済んだが、翌46年に再び菌類(ジャガイモ立ち枯れ病菌のことと思われる)による恐ろしい病気が蔓延した。 「この年、(アイルランドの)まるまる4つの州で病気にかからなかった植物はほとんどなく、ジャガイモは全滅と言っても過言でない。 その結果もたらされたものは、まさに恐怖と荒廃以外のなにものでもなかった」
 翌年は小康状態だった。病気を根絶するために必死の努力がなされたが、1848年と49年に再びその病気が猛威を振るう。200年以上もジャガイモに依存してきたアイルランド人には、食べるものは何も残っていなかった。
 瞬く間に数千人が餓えと病気で死んでいった。餓えで弱った体はすぐに病気にかかってしまう。世界中が食糧援助に乗り出した(イギリス政府はアメリカのトウモロコシをアイルランドに送ったが、この奇妙な外国の穀物をどう料理すればいいのか誰も知らなかった)が、焼け石に水で、まったく効果がなかった。 「ジャガイモ飢饉」が1849年に終息するまでに150万人もの人が死に、やがておよそ同数の人がアイルランドを去り、少しはましな生活を求めて外国へ渡った。
 これら移民の多くが向かったのはアメリカ合衆国だった。1850年代に100万人のアイルランド人が船に乗り、成功の機会を求めてアメリカを目指した。 貧困や差別にもめげず、彼らは新天地でよち良い生活を築いた。アイルランド人は大好きなジャガイモが合衆国の北東部で栽培されていることを知り(1700年代にジャガイモも移民と共にアイルランドから伝わっていた)、引き続きジャガイモを常食した。 すぐにほかのアメリカ人はジャガイモのことを「スパッド」と呼ぶようになった。スパッドとはアイルランド人に付けられたあだ名で、ジャガイモの栽培に必ず使う「鋤(スペード)」が語源だ。 (『世界を変えた野菜読本』から)
(T注)アイルランドのジャガイモ飢饉に関しては「品種改良にみる農業先進国型産業論」でも書いたので、そちらも参照して下さい。
<ジャガイモの生産国・消費国>  1800年代から1900年代にかけて、ジャガイモはその栽培にあう気象条件の土地を求めて世界中の多くの地域に広まっていき、インド北部、中国、そしてアフリカの比較的涼しい地域にまで根付いていく。 「白いポテト」のとって暑すぎる国は、インドネシア、日本、そしてとくに中国を含むアジアの多くの地域で人間と動物の両方の食料になった。 現在、中国はサツマイモの生産が世界一で、多くの中国人はもっぱらアメリカから来たこの「バタタス」を常食にしている。
 たくさんの名前をもつ、「もう一つのポテト」、ジャガイモの生産で世界のトップにいるのがロシアで、それに次ぐ中国、ポーランド、合衆国が主要生産国である。 ジャガイモの消費量について言えば、おそらくドイツ人が一番多いだろう。1980年代に行われた調査によれば、東ドイツの1人当たりの年間消費量はおよそ160キロだった。 ドイツは統一されたが、国民は今でもたくさんのジャガイモを料理して食べている。(中略)
 今では世界中の人々が、フライドポテトにケチャップ、マヨネーズ、ヴィネガーなどいろいろなソースをつけて食べている。 世界中で愛されているポテトチップスも、合衆国で考え出され世界中に広まったジャガイモ料理だ。薄くパリッと揚がったジャガイモの薄切りは、1870年代に偶然作られたものだった。 そもそもポテトチップスという単語は、ニューヨーク州サラトガスプリングズの避暑地のメニューではフライドポテトを指した。 レストランの客たちが、フライドポテトが分厚すぎると文句を言ったので、コックはジャガイモを紙のように薄く切って熱い油で揚げて見せた。 すると客たちはこれに大満足し、「サラトガチップ」が誕生した。合衆国ではその名前はのちにポテトチップスに変わったが、イギリスではポテトチップスと言うとフライドポテトのことになるので、この新しいチップスは「ポテトクリスプ」と呼ばれている。
 ジャガイモは、ポテトクリプス、ポテトチップス、フライドポテトのような最高のスナックのもなったが、世界中の料理の基本的な私財でもあり、ボリュームのある、栄養たっぷりな、美味しい料理にも使われている。 たいていの人は、1700年代や1800年代のアイルランド人のように日々の食事をジャガイモだけに頼っているわけではないが、ジャガイモはたくさんの美味しい料理に姿を変えて、いつも多くの国の食卓をにぎわしている。 (『世界を変えた野菜読本』から)
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<ジャガイモの伝播経路>  最初にジャガイモの素晴らしさに気付き、利用したのは大航海時代に活躍した船員でした。新鮮な野菜や果物の不足する長期の航海では、 壊血病(ビタミンC欠乏症)対策が最大の難題で、レモンやオレンジの積み込みに努めていましたが、貯蔵性がよくビタミンCの多いジャガイモの登場はこの難題を解決してくれたのです。 世界各地のジャガイモの栽培が港の近郊から始まっているのは航海食品として利用されたからです。
 ヨーロッパのジャガイモの歴史は荒救食(貧者のパン)として有名になっていますが、最大の貢献は越冬食として冬の長い北欧の人びとの健康を支えていることです。 冬でも野菜が入手しやすい本州以南の人には分からないかも知れませんが、北海道では30年くらい前までは11月の末にジャガイモ、ニンジン、大根、キャベツなどを土に埋め蓄え、春までの間雪の下から掘り出して食べていました(筆者は今でも100キログラム以上の野菜を雪中貯蔵しています)。 ジャガイモは収穫後もビタミンCがあまり減少しません。栽培しやすくて貯蔵も容易なジャガイモは、冬期間のビタミンC供給源として、野菜の少ないヨーロッパの人びとに広く利用されるようになったのです。
 北欧に普及したジャガイモはロシアの東進政策に伴ってシベリア、極東に広がり、18世紀の末には千島で栽培されており、最上徳内が北海道に持ち帰っています。(中略)
 ジャガイモは伝播の過程で数多くのドラマを演じていますが、最大の悲劇はアイルランドで起こりました。 ジャガイモの普及の早かったアイルランドは不毛の土地が多く、そんな土地でも穫れるジャガイモは人びとに大歓迎され、生産量の増加に伴って人工も増加しました。 人口が800万人を越えた19世紀半ばに南米からヨーロッパに侵入していた疫病がアイルランドを襲いました。疫病はいままで恐れられているジャガイモの大病気で、雨が続くと1週間で広い畑がしべて枯れてしまい、土中のいもまで腐ってしまいます。 何年も続いた疫病の大発生は大飢饉となり数十万人が餓死、何百人もの人びとが難民として北米に移住しました。 小さい種いもを大切に持って北米各地に入植した人びとは、そこでジャガイモの栽培をしました。もちろん、それ以前にヨーロッパからジャガイモは伝播していましたが、栽培を全米に拡げたのはこのアイルランドの移住者です。 北米でジャガイモを「アイリッシュポテト」と呼ぶのはこのためです。
 メキシコ以北のアメリカ大陸には、コロンブス以前はジャガイモは栽培されていなかったというのが定説です。 狩猟や採集を生業にしていた人びとが多かったからでしょう。ジャガイモは麦や家畜と同様、ヨーロッパの移民が持参しました。 東海岸で栽培の始まったジャガイモの産地が西に移動して、有名なアイダホを中心とする大生産地が形成されるのは今世紀に入ってからです。 ポテトフレーク、チップス、フライドポテトなどの加工食品業と輸送手段の発達が産地を作ったといえます。 (『世界を制覇した植物たち』から)
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<ジャガイモの日本への伝播経路>  オランダ人で初めて東方世界に行ったとはいえ、1538年9月から89年1月までの滞在がインドに限られていたリンスホーテンにしても、ヤパン(日本)に関する記録は詳細をきわめていた。
 「中国大陸の東方約80マイルにあり、マカオからは北東へ航海して300マイル。取引港はナガサケ(長崎)」
 「山多く、寒い国、川、海で仕切られ、穀物畑は多くないが、常食は米。牛、羊はいるが食用ではなく、魚を好んで食べる」
 「中国人ほどうるさくなく、人柄は俊敏。物事を早く学びとる。礼儀作法は優雅。武器の名手は多いが、滅多に抜刀しない」
 「食事は各自が小卓につき、床に座り、2本の小さな木で食べる。米から醸造した酒を飲み、食後は壺入りの熱い飲み物を飲む」
 「王はヤカタイ(屋形)と呼ばれ、収入は米で計る。ヤカタイと家族に必要な以外の収入はクニシュー(国衆)とその部下に分配する」
 香料の道を先駆けしようと、インド洋を突っ切ってジャワ島に着く近道をしたほどのオランダにとって、日本はまるで道の世界だったとはいえないことになる。 1600年4月、豊後に着いた最初のオランダ船レイフデ号は、ジャワ島を目指した5艘の船団からの脱落船で、種子島に着いたポルトガル船同様の漂着だったが、1609年のその次の船からは、ジャワ島のジャカトラ出航後に直航してきている。
 1613年6月、平戸に入ったクローブ号のジョン・セーリス船長は、準備を十分にしてきたように手まわしよくオランダ商館まで設けた。
 「ジャカトラのイモを積んで、ベランダ(オランダ)人はみんな去ってしまえばいい」
 とジャワ人が囁いた、あのジャガイモを積んだ船の幾艘かは、1609年から13年の間に、少なくとも九州の湾や町の在り場所はかなりはっきりと知っていたのである。
 「ヤパン(日本)は、毎年2万キロほどポルトガルに銀を売っている。そのため、ポルトガル船はナウ・ダス・プラタス(銀船)とさえ呼ばれている」
 とリンスホーテンは記している。トメ・ピレスがいう「煉瓦の形をした黄金」も日本のものだとすると、マルコポーロが黄金の国ジパングといったのは夢物語とばかりは必ずしもいえない。
 しかし、それほど国中が豊かな輝きに満ちていたかといえば正反対で、ジャカトラのイモを積んだオランダ船がきた1600年代だけで、7回も飢饉に襲われている。 その末期から1700年代にかけては爛熟した文化を謳歌したあの元禄時代だが、元禄8、9年と連続したあとに、14年から16年にかけても、凶作と飢饉が相次いだ。
 「幼少より飢え、寒さ、労働に耐えるため、ヤパンの人間はきわめて忍耐強い」
 とリンスホーテンは書いているが、1700年代半ばの享保飢饉では、全国250藩のうち46藩が大凶作。餓死者96万9千9百人に及んだと『徳川実記』は記録している。
 新世界を発見し、東方航路も拡げた旧世界のヨーロッパで、民衆が飢えと物価の値上がりに苦しんだように、黄金の国・日本も実は生きていくのがやっとという民衆に満ちていたのだった。 いや、民衆だけではない。米沢藩主の上杉治憲は、日常の費用が年間1,200両だったのを2百両に減らして食料の備蓄や産業を興す資金にしたし、大陸からの襲来を防ぐ第1線にあった対馬で、34代にわたり藩主だった宗家は、15万2,450両の借財を抱えて明治維新を迎えた。 借金だらけで、王都も転々としたスペインや、女王の戴冠後のやりくりに貴族の館を歴訪したイギリスなどのヨーロッパの王家と大差はない。 東方世界も西方社会も、暮らしとかやりくりということでは似たようなものだったことになる。
 九州の平戸に着いたジャガイモの広まり方も、だから、新大陸からスペインのセビリヤに上陸した以後と似ている。
 無骨な姿を珍しがられたり、気味悪がられたりしたが、1755年に四国を襲った宝暦飢饉で、九州から豊後水道と瀬戸内海を越えた土地に広まった。 1783年に北陸と東北が見舞われた天明飢饉では北日本に進んでいった。米や麦はまったくとれない頃の北海道から、探検家で地理学者の近藤重蔵が、友人の最上徳内にこういう便りをしたのは1798年のことである。
 「ジャガタライモは、エゾ(北海道の土地)の者だけでなく(本州から渡った者)も栽培している。ニシン不漁の時には、いまや欠かせない食物となっている」
 この種イモが日本本土から渡ったものか、1700年代から往来し始めたロシア人がもたらしたものか、はっきりしない。
 津軽海峡を越えて本土から渡っていった、と考えるのが順当なところだが、宗谷海峡を渡ったサハリン(樺太)ではシベリアを越えて太平洋にでたロシア人はもちろん、そのロシア人にならってアイヌ族の人々までジャガイモ栽培を始めていたのでのでので
 いずれにしても、ジャガイモが世界を1周した末に、北海道に根付いたことはほぼハッキリしている。そして、世界一周の間に民族も人種も超えて飢えを救い、養ったように、日本人を養ってくれたことも、またまぎれもなかったのである。 (『じゃがいもの旅の物語』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『世界を変えた野菜読本』  シルヴィア・ジョンソン 金原瑞人 晶文社      1999.10.10
『世界を制覇した植物たち』    大山莞爾・天知輝夫・坂崎潮 学会出版センター 1997. 5.10
『じゃがいもの旅の物語』              杉田房子 人間社      1996.11. 7
( 2007年10月15日 TANAKA1942b )
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(6)アメリカで品種改良されたトウモロコシ 
最近の話題はバイオエタノール原料
<トウモロコシ>  1492年10月12日、3か月も続いた航海ののちクリストファー・コロンブスの一行はようやくカリブ海に到着した。 (アジアの一部と思いこんでいた)この見知らぬ土地を探検してみると、見たこともない不思議な光景につぎつぎ出くわした。 とくに好奇心をそそられたのは、畑に植わっていたある植物だ。それは人の背よりも高く、人の腕ほどの太さの穂をつけ、その穂は「エンドウマメほどの大きさの粒でおおわれていた」。 それはマイスという名の植物で、島に住むアラワック族が作物として育てていた。 4回目のアメリカへの航海に同行し、のちに父親コロンブスの新世界での冒険を本にした息子のフェルナンドは、探検隊がマイス、すなわちトウモロコシを試食してみたら、「ゆでてあったり、焼いてあったり、ひいて粉になっていたりしたが、とてもおいしかった」と記している。
 コロンブスの航海に続いてほかのヨーロッパ人たちも出航し、この不思議な新世界を探検してその富を搾取した。 トウモロコシは、彼らが足を踏み入れたアメリカ大陸のほとんどすべての土地で栽培されていた。
 1519年、スペイン人エルナン・コルテスの一行は、メキシコの岩だらけの土地を行軍してアステカ帝国の首都テノチティトランのたどりついた。 大きな都市を囲んでいる浅い湖には、チナンパと呼ばれる人工の浮島を利用した畑があり、トウモロコシやインゲンマメなどの作物が栽培されていた。 スペイン人は、アステカ族の人々が作るトウモロコシ料理の多様さに驚いた。紙ほどの薄さのパンのようなトルティーヤ、トウモロコシのやわらかいパン生地で具を包んださまざまな種類のタマーレ。 タマーレには、「幅広のタマーレ、先のとんがったタマーレ、白いタマーレ……貝殻のかたちにマメを並べたタマーレ……赤い果物のタマーレ、シチメンチョウの卵のタマーレ」があったという。
 フランシスコ・ピサロひきいるスペインの征服者たちは、ペルーのインカ帝国に「兵士の槍のように背の高い」トウモロコシが栽培されているのを発見した。 彼らは1533年、インカ帝国の首都クスコに到着し、聖なる太陽神殿に隣接する庭園で金と銀でできたトウモロコシの茎を見た。 インカの市場では、本物のトウモロコシの粒が貨幣として使われていた。スペイン人の記録によれば、食べ物を買いに来た女は、まず品物のまえの地面にトウモロコシの小山を作り、売り手が納得するまで小山に1粒ずつ足していったという。
 1500年代から1600年代にかけてアメリカ大陸にやってきたヨーロッパ人がみんな、コルテスやピサロのような探検家や征服者だったわけではない。 新天地を求めて旧世界に別れを告げてきた開拓者もいた。かれらにとってトウモロコシはただの珍しい植物ではなかった。 このアメリカの穀物は、未知の危険にみちた土地で彼らを餓えから守ってくれる食糧となったのだから。
 1620年、北アメリカの海岸にたどりついたイギリスの入植者たちが、新世界での最初の冬を生きのびることができたのは、ワンパノアグ族のインディアンから入手したトウモロコシのおかげだった。 その後、ワンパノアグ族が入植者たちにトウモロコシの栽培方法や料理の仕方を教えた。プリマス植民地総督ウィリアム・ブラッドフォードは、トウモロコシの贈り主であるアメリカ先住民よりも神に感謝した。 「われわれがこの穀物を発見できたのは、間違いなく神の配慮によるものだ。これがなかったらわれわれはどうなっていたことだろう」(ブラッドフォード総督の言葉は、マサチューセッツ州、コッド岬のコーンヒルに建てられた記念碑に刻まれている。 そこで入植者たちはインディアンが隠しておいたかごいっぱいのトウモロコシを発見したのだ)
 ワンパノアグ族はほとんどのアメリカ先住民同様、トウモロコシを栽培するのが上手だったし、このもっとも大事な作物の栽培について長い経験をもっていた。 彼らは畝を作って種を植え、その横に肥料として死んだ魚を埋めた。同じ畝にインゲンマメもいっしょに植えることが多かったらしい。(中略)
 トウモロコシの栽培は、およそ8,000年前にメキシコではじまったらしい。コムギなどの穀物と同じようにトウモロコシもまた、野生だったものを人間が栽培できるようにした。 科学者のなかには、アメリカ先住民が一種の原始的なトウモロコシを改良して現在のトウモロコシを作ったと考える人もいるし、テオシントと屋バレル野生の草がトウモロコシの直系の祖先だと考える人もいる。
 メキシコや中央アメリカの一部で今でも発見されるテオシントは、現在のトウモロコシとあまり似ていない。それは茎が数本出ている小さな草で、それぞれの茎のつけ根には一列に並んだ粒がつき、粒はかたい種皮で覆われている。 しかし、この二つの植物は遺伝学的に近い関係にある。そこで科学者たちは、初期の農耕民が良さそうなものを選び出して繁殖させることにより、野生の草を現在のかたちのトウモロコシに改良したと考えたのだ。
 メキシコで栽培できるようになると、トウモロコシは瞬く間にアメリカ大陸全土に広まった。トウモロコシの栽培は、およそ4,000年前には、アンデス山脈の麓にあるペルーですでに始まっていた。 現在のアメリカ合衆国の南西部にあたる地域に住んでいた先住民は、隣のメキシコの住民からトウモロコシ栽培を学んだ。 そこからトウモロコシは北アメリカのほとんどの地域に伝わっていく。1500年代にヨーロッパ人がやってやってくるころには、南西部の砂漠地帯に住むズーニー族やホピ族から、北東部の森林地帯に住むイロクォイ族やヒューロン族まで、トウモロコシを栽培し主食としていた。 (『世界を変えた野菜読本』から)
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<ヨーロッパで普及するまで> トマトやジャガイモと同じように、トウモロコシもヨーロッパで普及するには時間がかかった。トウモロコシは次の様に優れた作物であった。 収穫量が多い。同じ面積でコムギのおよそ2倍の収穫量。 収穫までの期間が短く、ほかの穀物に比べて手間も暇もかからない。 様々な気候や異なった条件下で栽培できる。
 こうした利点がありながらヨーロッパではコムギが常食だった。その最大の理由はパンを作ることができないことだった。トウモロコシにはグルテンが含まれていない。グルテンはコムギに含まれているたんぱく質で、イーストと結びついてパンを発酵させふくらませる働きをする。トウモロコシはビスケットのように硬くてパサついていた。パンを常食とするヨーロッパ人にはなかなか受け入れられなかった。ごく一部の地域=ルーマニアやハンガリーなどヨーロッパ南東部の、貧しい人々は安くて収穫量の多い穀物だと気付いていたが、ヨーロッパのほとんどの地域では、トウモロコシは家畜やブタの飼料にふさわしい穀物だと考えられていた。
 1600年前半にスペインやポルトガルの小作農がトウモロコシを栽培し始めていたようだ。1670年代にイギリスの哲学者ジョン・ロックは、南フランスを旅行中にトウモロコシ畑を目にしている。彼は、その穀物がプレ・デスパーニュ(スペインコムギ)と呼ばれ、「貧しい人々の食欲を」満たしていることを知った。
 北イタリアでは、トウモロコシ粥はポレタンと呼ばれた。ポレタンはポリッジにあたる古いラテン語からきている。1780年にこの地方を訪れたドイツの作家ゲーテは、小作農の家族が毎日ポレタンを「そのまま何も加えずに食べたり、たまにすりおろしたチーズを振りかけて食べている姿」を記している。
<アフリカで普及するまで> ヨーロッパではトウモロコシは限られた地域でしか常食されることはなかったが、アフリカでは何百万人もの人がこのアメリカの穀物に依存するようになった。トウモロコシが初めてアフリカに伝わったのは、国際的に奴隷貿易が行なわれるようになってからだった。それは1400年代に始まり、ポルトガル人がアフリカの西海岸にやってきてアフリカ人を連れていき、ヨーロッパや中近東で奴隷として売った。1600年代にヨーロッパの国々が新世界に植民地を建設するようになると、奴隷の需要は大幅に増え、およそ300年のあいだ奴隷船は大西洋を横断して、多くのアフリカ人をアメリカ大陸のプランテーションへ運んだ。初期の奴隷商人は帰路につく際、新大陸からアフリカへトウモロコシを持ち帰った。トウモロコシは初めアメリカ大陸へ輸送されることになっている奴隷に、安くて手ごろな食べ物を供給するために西アフリカで栽培されていた。しかしそのうちアフリカの多くの地域で栽培されるようになる。それは育てやすく収穫量の多い、アフリカの人たちにとって最適の穀物であった。
<世界中に普及する> トウモロコシはアメリカ大陸から世界中を旅して、多くの人々の食生活や料理に影響を与えてきた。インド北部では1800年代にトウモロコシが常食されるようになったが、あまりにも広く行き渡ったので、多くのインド人が、トウモロコシは太古からインドの食事に欠かせないものだと思っているらしい。中国でのトウモロコシ栽培は1700年代まで南西部に限られていたが、1800年代になると北部にも広がっていった。現在中国のトウモロコシ年間生産量はアメリカについで世界第2位になっている。
 トウモロコシは現代では昔のアメリカ先住民には想像できないようなかたちで消費されている。一つはコーンオイルで、これは粒のなかの油分豊富な胚芽から作られる。胚芽はやわらかくしたトウモロコシ粒を現代の製粉技術ですりつぶして分離させる。もう一つはコーンスターチやコーンシロップで、残ったものをさらにすりつぶして加工するとできる。これらのトウモロコシ製品は、マーガリンやサラダドレッシングやパン・ケーキ類など沢山の種類の加工食品に使われている。このようにトウモロコシは、昔と同じように今もアメリカ大陸の人々の食卓をほとんど毎食のようにかざっている。
<トウモロコシの品種改良> トウモロコシがアメリカ大陸からせ買い各地で栽培されるまで長い時間がかかった、そして品種改良も本格的に行なわれるのは18世紀後半になってからだった。20世紀に入って、雑種強勢(ヘテロシス)を利用する一代雑種(F1ハイブリッド)による改良が始まるまでは、このやっかいな他家受粉植物の改良に、あの手この手の育種法が試みられた。
 第一の方法は品種混植法による改良で、1808年に発刊されたフィラデルフィア農学会誌によると、ニュージャージー州の農業主が、1772年に、ギニアから導入したフリント種と在来の早生種とを混合栽培して、早生で穂の大きい株から種子をとったという記録がある。 インディアンから贈られたトウモロコシに本格的な改良の手が加えられるようになり、品種混植法、集団選抜法、一穂一列法などの育種法が考案され、アメリカのコーンベルトの大穀倉地帯を形成する基本品種が生まれた。しかし、他殖性植物のトウモロコシは自殖性植物と違って、選抜された材料の受粉様式を厳密に制御しないと、選抜の高価があがらない。このため20世紀になって一代雑種を利用する育種がさかんになるまでは、トウモロコシの改良のテンポはゆっくりしたものだった。アメリカのコーンベルト地帯におけるトウモロコシの収量は、一代雑種の利用によってはじめて飛躍的に向上した。
 この新しい一代雑種合成法は、つぎのような手順で進められる。
(1) 自殖によって多数の系統をつくる。
(2) その中から優良な自殖系統を選抜する。
(3) それらを交雑する。
(4) 雑種強勢の顕著にあらわれる組合せを探す。
(5) この組合せの両親系統を自殖で繁殖させる。
(6) 毎年一代雑種を作って利用する。
<一代雑種法の進歩> この一代雑種を利用する方法、しばらくは普及しなかった。その理由、自殖系統間の交雑では、母本とする系統の生育が貧弱で、十分な交雑種子を生産できなかったことによる。そこでコネチカット州のジョンズは、自殖系統間交雑で得られる一代雑種どうしを交雑する複交雑法を提案した。雑種強勢のよくあらわれる4種の系統A,B,C,Dを用意する。AとBとの交雑で得られる一代雑種を母本とし、CとDとの交雑で得られる一代雑種を父本として、一代雑種同士を交雑する。交雑によって強勢化した一代雑種どうしの交雑で、農家に配布する種子を生産できるので、採種効果は高まった。この方法は一代雑種を2度行なうので、「二代雑種」とでも言うべき方法だ。 こうして普及した複交雑、しかし現代では生育旺盛な自殖系統が育成できるようになり、単交雑によく一代雑種種子の生産が効率よくできるようになった。このようにトウモロコシはアメリカでの品種改良により生産効率高まり、先進国では家畜の飼料用穀物として重要な農作物になっている。
<アメリカ⇒ヨーロッパ⇒アメリカでの品種改良⇒アフリカでの主要穀物>
  トウモロコシはアメリカで一代雑種方式による品種改良によって生産が拡大した。新大陸からヨーロッパに持ち込まれたトウモロコシは再度アメリカに持ち込まれ、 ここでF1ハイブリッドとして再度、世界に普及して行った。その恩恵はアフリカにおいて大きなものになった。アフリカではこのトウモロコシと、新大陸から持ち込まれたキャッサバが主要な生産穀物となっている。 アフリカでは、地元原産の農作物ではなく、アメリカを原産地とする農作物がヨーロッパに持ち込まれ、これがアフリカに持ち込まれて、アフリカの主要な穀物となった。 「地産地消」とはまったく違った普及の仕方であった。
 好奇心旺盛な人々が遠い地域から農作物の種を持ち込み、これを地元で育てて、品種改良をして、これが普及しゆたかな食生活を作っていったことになる。 「土の臭いのしない者の意見は聞かない」という日本の農業関係者の態度とは違う。世界の人々、日本の昔の農業関係者は、遠い地域で育ったの農産物も受け入れ、品種改良をして、ゆたかな農作物を育て、それによって消費者はゆたかな食生活を愉しむようになった。 これが歴史の教えるところだと思う。
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<食料からバイオエタノールの原料へ>  世界各地を転々とするうちに、各地で主要な農作物として扱われるようになったトウモロコシ、これが最近はまったく違って意味で注目されるようになった。 それは、アメリカでのバイオエタノールの原料としてのトウモロコシだ。これに関しては「バイオエタノールの普及が日本の農業を変える」と題して書いたので、それをここで引用することにしよう。
「トウモロコシの価格が2倍になったの。このチャンスを逃すわけにはいかないわ」  最近、テレビのニュース・報道特集でバイオエタノールを取り上げることが多い。アメリカではトウモロコシを原料にバイオエタノールが作られる。 このため需要が増大して、生産者価格が上昇し、農家は大豆の替わりにトウモロコシを生産するようになった。大豆の生産が減少したので、価格が上昇し、日本ではキューピーがマヨネーズの小売価格を値上げした。 この生産者価格の変化はその他の農産物の価格にも影響してくるだろう。
 5月8日のTVで、アメリカ、アイオワの農家が言っていた「トウモロコシの価格が2倍になったの。こんなの初めてよ。このチャンスを逃すわけにはいかないわ」と。昨年まで大豆を作っていた畑の、3割をトウモロコシに変えた、という。
 バイオエタノール(エチルアルコール)の原料はアメリカではトウモロコシであり、ブラジルではサトウキビを原料に、このバイオエタノールで走る車が全体の15%にものぼるという。
 平成16年度大豆の自給率は概算で3%。トウモロコシは0%。
 5月15日、NHK・TV「クローズアップ現代」では、日本で休耕田を利用してバイオエタノール用のコメを栽培する農家を取り上げて扱っていた。まだコストが高いので、政府の補助金に頼ることになる。
 日本では、この他にサトウキビを原料にした研究が進んでいる。二酸化炭素排出権取引の関係もあり、いつまでも輸入に頼っているわけには行かないだろう。沖縄でバイオエタノール用のサトウキビが栽培されるようになると、食用サトウキビの生産が減る。 こうした生産作物の変化が食料品の価格変動に影響してくるだろう。こうした食料以外の農作物の価格変動が日本の農業にどのような影響を与えるのか?農水省、農協などの対策はどうなっているのか?そして、それ以上に一般農かはどうなのか? バイオエタノールはコストが高いため政府の補助金に頼ることになる。ということは、農家が生産して、採算がとれるかどうかは、政府からの補助金次第ということになる。 農家が、生産を続けるかどうかは、農家が政治家に政治献金し、政治家が予算を獲得し、役所に働きかけ、農家に補助金が十分いくようになってこそ、農家がバイオエタノール用の農作物を栽培し、 国産バイオエタノールが普及することになる。こうしたレントシーキング構造では、贈収賄が起こる可能性が高くなる。コストダウンを図って市場価格で供給できるようにしないと普及は難しい。
 テレビでは積極的な農家が取り上げられるが一般農家はどうなのだろうか?
 @アメリカのように「儲かりさえすればいい」、との考えで作付を変えるようなことはしない。政府、農協、取引業者、補助金などの関係を変えることは難しい。A需要が増えたのだから生産を拡大するのは当然だ。 B将来は予想し難いので、周りの動きに惑わされることなく、今まで通り自分の信念に基づいた生産活動をする。C政府の方針を待ってそれに従う。 Dどうせ考えても分からないだろうから、考えないことにする。
「農家もビジネスマンなのです。常にどうすれば利益が上がるか考えています」  前述とは別のテレビ番組でアメリカの農家が話していた。「農家もビジネスマンなのです。常にどうすれば利益が上がるか考えています。遺伝子組み換えであれ、非遺伝子組み換えであれ、利益が確保されることが大切なのです」 遺伝子組み換えトウモロコシにすることによって収穫量が10%アップすると言う。食用のトウモロコシも普及しているアメリカは、バイオエタノール用に遺伝子組み換えトウモロコシの栽培に、関係者や市民運動家の反対運動はない。
 アメリカでは農家が大学や研究所と共同で、品種改良をはじめとする農業改革に積極的に取り組んでいる。「農業も産業であり、産学協同も当然」というのがアメリカの農業の現状のようだ。これからも産業としての農業改革が進むだろう。 アメリカ農業の強さは、広大な農地の広さだけではなく、こうした利益追求を当然のこととして取り組んでいることだ。日本やEUでは「農業は産業である」とは考えていない。 EUでは、欧州委員会農業総局前副局長=ディビット・ロバーツ氏がNHKテレビの取材に応えて 「農業は地域の活性化を維持する役割を果たしています。私たちは地域政策の中で農業を効率化しすぎないように、細心の注意を払わなければなりません。農業の効率化によって、地方に住む人が減ってしまうことになってしまえば、基本的な地方行政を維持していくうえでの人口が保てなくなるために、その地方は衰退していかざるを得ないからです。 我々は地域に雇用機会を様々なかたちで保証し、農村を活性化しようとしているのです」 と語っている。
「土の匂いのしない者の意見は聞かない」  マスコミはアメリカでの動きや、他の農作物の価格上昇について報道するが、日本の農家の反応は鈍い。 テレビでは休耕田を利用してバイオエタノール用のコメ栽培を始めた農家を取り上げていたが、こうした積極的な農家は少ないだろう。 これを機会に農業が変わる可能性があるのだが、実際の農家が変わるか、と考えるとどうも変わりそうもないように思われる。農業関係者の多くは「土の匂いのしない者の意見は聞かない」とか「鍬を持つ汗の匂いがしない者の意見は聞く必要はない」、という傾向がある。 「現場を知らない者が何を言うのか?」と、部外者の意見、知識・知恵を無視する傾向にある。
 バイオエタノール用のコメならば、遺伝子組み換えでも問題はないはずだ。これを機会に遺伝子組み換えの技術が進歩するといいのだが、「花粉が飛んで交雑する」と研究飼育にも反対するかも知れない。 農水省は数年前に、花粉症アレルギーの体質改善に効果のある遺伝子組み換えコメの開発に成功し、近々市場に提供するようなことを表明していたが、その後何も関連ニュースは聞かれない。 たとえ、アレルギー体質改善に効果のあるコメであっても、遺伝子組み換えには反対する農業関係者やその周りの市民運動家などが、圧力をかけるのは想像に難くない。
遺伝子組み換えによるインディカ米からのバイオエタノール  日本では減反政策で休耕田が増えている。農業関係者は水田の環境保全への貢献を主張する。けれども休耕田では、単なる空き地でしかない。 折角だから、ここでコメを作るといい。バイオエタノールならば味は関係ない。テレビでの農家は、飼料用のコメ品種として「べこあおば」を採用していた。普通の食用コメの2倍の大きさだと言う。これで収穫増を狙う。 こうした積極的な取り組み態度からは日本人の得意な品種改良や農業経営改革画を進めて「農業は先進国型産業である」を実証する可能性が高いと思う。
 抵抗勢力が強いので実現へは紆余曲折があるだろうが、日本でバイオエタノールを生産するには、@ジャポニカではなく、インディカ米の改良品種を栽培。例えば、「緑の革命」(green revolution)での主役、奇跡の米(ミラクル・ライス)と呼ばれた新多収短稈稲品種IR−8やIR-5の改良型。 A品種改良には遺伝子組み換え技術を使う。B補助金は出さず、市場で価格競争をさせる。C品種改良されたものには特許を与え、民間の種子会社をはじめバイオ技術を持った会社にインセンティブを与える。 D種子、栽培されたコメ・トウモロコシなどの取引市場を完備し、先物取引も行う。
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<京都議定書> 1997年12月11日に京都市で開かれた地球温暖化防止京都会議(第3回気候変動枠組条約締約国会議、で議決した議定書。 正式名称は、「気候変動に関する国際連合枠組条約の京都議定書(英 Kyoto Protocol to the United Nations Framework Convention on Climate Change)」。略称は<京都議定書(Kyoto Protocol)>。 先進国の温室効果ガス排出量について、法的拘束力のある数値目標を各国毎に設定。国際的に協調して、目標を達成するための仕組みを導入する(排出量取引、クリーン開発メカニズム、共同実施など)。 途上国に対しては、数値目標などの新たな義務は導入しない。
 この京都議定書に基づき、二酸化炭素の排出量を削減するため、排出権取引が始まり、車の燃料としてバイオエタノールが注目されている。
<バイオエタノール> トウメイリオ;モロコシ、サトウキビ、コメ、木材など植物を原料に、エタノール(エチルアルコール)を作り、ガソリンに混ぜて自動車の燃料とする。 エンジンに使えば二酸化炭素が排出されるが、原料である植物が二酸化炭素を光合成で吸収するので、総合的に判断してプラス、マイナスゼロと勘定する。バイオマスエタノール(バイオエタノール、Bioethanol)。
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<主な参考文献・引用文献>
『世界を変えた野菜読本』  シルヴィア・ジョンソン 金原瑞人 晶文社      1999.10.10
『世界を制覇した植物たち』    大山莞爾・天知輝夫・坂崎潮 学会出版センター 1997. 5.10
( 2007年10月22日 TANAKA1942b )
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(7)ケチャップにより一気に普及したトマト 
日本ではチキンライスによって普及
<トマトがなかったら、イタリア料理はどんなものになるだろう?>  トマトがなかったら、イタリア料理はどんなものになるだろう?辛くて刺激的なトウガラシがなかったら、インドカレーはどんな味になるだろう? もしジャガイモがなかったら、ドイツ人はどんな料理を作るのだろう?チョコレートがなかったら、フランス人のシェフはどうやってムースやエクレアといった、ほっぺたの落ちそうなデザートを作るのだろう?
 「(4)新世界からの貴金属以上の贈り物」ではこのように書いた。新大陸からやってきた農作物の中でもトマトはひときわ西洋料理をゆたかにした。今週はこのトマトについて扱う。
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<トマト>  今日、料理の世界でも食の世界でも至る所でトマトを目にする。スーパーの棚にはトマトの丸煮やトマトシチューの缶詰、それにトマトジュース、トマトペースト、トマトピューレ、トマトソースなどが並んでいる。 ニューヨークのファーストフードの店でも東京のファーストフードの店でも、客はハンバーガーやフライドポテトに甘くてちょっと辛味のきいたトマトケチャップをつける。 パスタやピザにはふつうトマトで作った風味のあるソースをかける。また丸くて大きなトマトは、つやつやして汁気があって味もよく、裏庭の菜園で育てられる野菜の中ではもっとも高く評価されている。
 現在ではトマトはほとんどの地域で食べられている。しかしつい最近になるまで、あちこちで変わった食品と見られ、いぶかしくうさんくさく思われていた。 1800年代半ばになるまで、ヨーロッパや北アメリカの多くの人々はトマトには毒があると思っていたのだ。なかには食べようと思った人もいたかも知れないが、なにしろ食べ方が分からなかった。 トマトはモモなどの果物のように色鮮やかで汁気が多いが、酸味とやや塩気がある。野菜なのだろうか、それとも果物なのだろうか?生で食べた方がいいのだろうか、それとも煮て食べた方がいいのだろうか?いったいどんな種類の食物なのだろうか?
 1500年代前半になるまで、この奇妙な果実を見たり聞いたりしたことのある人はヨーロッパにもアジアにもアフリカにも、だれ一人いなかった。 トマトはトウモロコシ、ジャガイモ、トウガラシと同じようにアメリカ大陸だけで栽培され食べられていたものの、これらの重要な作物と違い、新大陸でも広く栽培されていたわけではなかった。 トマトを世に送りだした功労者は、昔のメキシコ、とくにアステカ族の人々なのである。
 トマト属に入る野生の植物は、いまでも南アメリカの西側、アンデス山脈周辺の多くの地域で見つけることができる。 しかし、この地方に住んでいた古代の人々は、トマトを栽培植物として育ててはいなかったようだ。野生の植物を改良してトマトの栽培を始めたのはメキシコ人だった。 おそらく南アメリカから鳥が運んできた種子が芽を出したのだろう。
 トマトを目にした最初の旧世界の人間は、1519年にアステカ帝国を侵略したコルテス一行だった。この作物にあまり心を動かされなかったか、あるいは広く使われていなかったかのどちらかなのだろう。 トマトをアステカ族の食生活に登場する食材として記録したスペイン人はほんの数人にすぎない。(中略)
 スペインの征服者たちは1500年代前半に赤い tomatl と共にそれ以外の数種類の種もスペインに持ち帰ったと思われる。しかしこれらはどれもヨーロッパ世界ではあまり歓迎されなかった。 1554年にトマトはいくつかの植物誌に登場し始めるが、その料理法や原産地に詳しい人はいなかったようだ。 イタリアの作家ピエトロ・マッティオリは、トマトはもう一つの珍しい野菜、ナスと関係があるとし、二つの植物の類似性(実際、両方とも植物学上同じナス科に属す)を指摘した。 また、「トマトはナスと同じように料理する。油で炒めて塩とトウガラシで味つけする」とも書いている。
 トマトは1500年代の末ごろにさらに知られるようになったが、ヨーロッパの大部分の地域ではあまり人気がなかった。 1597年にイギリスの植物学者ジョン・ジェラードは、植物全体が「いやな臭いを放つ」(おそらく葉の強い臭いを言ったのだろう)と書いている。 トマトは「スペインやイタリアなどの暑い国々」で栽培され、「塩、トウガラシ、油で味つけして煮込んで食べるが、栄養はほとんどない」とも書いている。 (『世界を変えた野菜読本』から)
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<トマト 世界への伝播と品種改良>  トマトの野生種に「ペルビアーナム」と名づけられたものがあるように、その原産地はアンデス山脈の太平洋側のペルー、エクアドル、ボリビア地方です。 この山岳地帯には多数の野生種を見いだすことができ、有史以前にインディアンによってメキシコに伝えられ、現在の栽培種になったと言われます。
 トマトという名前の由来は、メキシコのアステカ文明で使われていたナワテル語の「トマトゥル」から来ています。 「トマトゥル」とは元来「ホウズキ」を指し、「膨らむ果実」を意味しています。メキシコでは、ホウズキを煮込んで料理に使用していたことから、ペルーから伝わったトマトを食べることにも抵抗感はなかったと推測されます。 そして、トマトはメキシコで野生種から栽培種に進化したと言われています。これは、いかにアステカ文明の農耕技術が進んでいたかを示しているものであると思います。
 しかし、そのアステカ文明はスペイン人によって滅ぼされます。また、原産地であるペルーはインカ帝国が栄えたところですが、この地も1533年スペイン人のピサロによって滅ぼされました。 この点を考えると、トマトはこれら文明の遺産であるとも言えます。 BR> このような変遷をたどり、トマトはスペイン人によってヨーロッパに運ばれたとも、コロンブスが第2回目の公開でヨーロッパに持ち帰ったとも言われています。 しかし、ヨーロッパ伝播後しばらくは観賞用植物として利用されました。食用になるまでにはかなりの時間が必要であり、その理由は学名から理解することができます。
 学名は、「リコペルシコン・エスクレンタム」と言います。一般的には「リコペルシコン」の「リコ」は狼という意味で活力を表し、「ペルシコン」は桃、「エスクレンタム」は食べられるという意味で、 すなわち、「食することができる狼の(活力がでる)桃」ということになり、一種薬草のイメージがありました。また一方では、古代ギリシャの医学者ガレノスが有毒植物に名付けた「リコペルシオン(リコ=狼、ペルド=殺す)」に由来しているとも言われ、トマトが有毒植物であるかのように思われたことにもよります。
 いずれにしても、最も古いトマトの記録は、1544年イタリアはベニスのマッティオーリによって著された『コメンタリ』にあります。 この中で「トマトは熟すると黄色」と記述され、はじめてヨーロッパに伝わったトマトは黄色であったことがうかがえます。しかし、10年後の改訂版では「熟すると黄色になるものと赤色になるもの」と表現されています。 このころからイタリアでは料理への利用が盛んになります。中国では、「青、黄、白、黒」の5色がると料理が美味しく感じると言われていますが、ヨーロッパにおいてもトマトの赤色が料理の色彩に重宝がられたと考えられます。
 一方、イギリスでは1596年、植物学者ジェランドが自宅の庭園でトマトを栽培し、それを試食しています。ただし、彼のトマトに対する評価は低く、栄養的に推奨できないと言い切っています。 また、17世紀半ばごろ、トマトの栽培が法令で禁止されたこともあります。そのため、イギリスでは1750年ごろにウスターソースの材料としてトマトが着目されるまではトマト栽培は盛んになりませんでした。 同じヨーロッパでもトマトの受け入れ方にずいぶんと相違が見られます。
 17世紀になって、イタリアでは収穫後すぐに料理に利用する形から瓶に詰めて保存する形に急速に発展を遂げています。イタリアのトマト加工は、1811年フィリッポ・リーによって始められ、缶詰の製造原理を応用してトマトの保存品が作られました。 1875年には北イタリアでフランチェスコ・チリオによって本格的ば青酸が始まっています。伝統的なトマト加工品として缶詰トマトをあげることができますが、1900年の初め、「サンマルツァーノ」品種の出現で、さらに盛んになっていきます。(中略)
 イタリアをはじめとする南ヨーロッパではトマトは加工用として発展したのに対し、フランス、イギリスなどの北ヨーロッパでは、低温、低日照のため温室栽培が行われ、生で食べることが中心でした。赤い小玉の「ベストオブオール」、桃色の「フルーツ」などの品種がイギリスで作出されています。 これらの品種は、後にアメリカや日本にも渡っています。
 アメリカへのトマトの伝播は、栽培種のトマトの故郷である隣接のメキシコからではなく、1789年にサント・ドミンゴからフランスの亡命者によってフィラデルフィアにもたらされたのが最初と言われています。
 そのアメリカでトマトの効用を初めて説いたのは、1806年、フィラデルフィアのマクマホンです。その後、積極的にトマトを食することを薦める意見が出されましたが、依然として多くの人々はトマトを有害なものと考えていました。 無害であると思われ出したのは1830年代になってからです。(中略)
 さらに、アメリカでトマトケチャップの需要が爆発的に伸びる食品ができました。 それがホットドッグです。1893年シカゴの万国博に、焼いたフランクフルトソーセージを細長いパンに挟み、トマトケチャップをかけたものが売り出されました。 簡単に調理でき、手軽に食べることができます。価格も安く、万国博に来た穂とたちに喜ばれました。これを契機に、トマトケチャップが手軽な調味料として定着しました。
 現在、カリフォルニア州ではではて大規模な農場できわめて効率良く栽培され、大型の機械で収穫されています。これらのトマトは機械衝撃あるいは大量輸送に耐えるため、キャッチボールをしても壊れません。代表品種として、「UC134][UC82]があります。 しかし、生産効率を追求したため、粘度が高くなりジュースには適さないという問題が生じています。 (『世界を制覇した植物たち』から)
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<トマトを食べた男を見て、失神する婦人が続出した>  1820年9月26日、アメリカ合衆国ニュージャージー州、セーラムの裁判所には、2,000人の群集が集まっていた。 ある勇敢な軍人が”毒草”トマトの実をみんなの目の前で食べてみせると予告したのを聞きつけて、集まった人々であった。
 人々の視線の先には、ひとりの陸軍大佐が悠然と裁判所の階段に坐っていた。彼の名はロバート・ギボン・ジョンソン。 ジョンソン大佐は自宅の畑で育てたトマトを、この日、公衆の面前で試食してみせると宣言していた。このあたり一帯の大地主であり、州の農業委員会のメンバーを務めていた彼は、トマトが無害の食べ物であり、南ジャージーの砂地でも栽培できることをPRしたかったのである。
 このジョンソン大佐の”勇気ある”宣言に対して、町医者のミーター博士は「トマトは有毒である。したがって、大佐はたちどころに発熱して死ぬであろう」と断じていた。 集まっていた人々は誰もが、ジョンソン大佐がトマトをかじった瞬間、その場で泡をふいて昏倒するのを半ば期待してやってきていたのだった。
 刻一刻と予告された時間が迫ってくる。おもむろにジョンソン大佐が立ち上がった。
 「お集まりの諸君、とくとご覧ください」
 皆、固唾をのんで見守るなか、ジョンソン大佐がトマトにかぶりついた途端、観衆のなかから悲鳴が起こり失神する女性が続出した。 そして、それからすぐ悲鳴は感嘆のどよめきに変わった。もちろんジョンソン大佐には何も起きなかった。それどころかジョンソン大佐は美味しそうにトマトをペロリと食べてしまったのであった。
 これは、トマトが北アメリカに広まりつつあった19世紀の初めごろ、トマト有毒説が信じられていたことを示すものとして、よく知られている有名なエピソードである。 自らトマトに毒がないことを証明してみせた「勇気ある男」は、いまもセーラムの人々の語り草となっており、セーラムでは、1989年から4年間、「ジョンソン・デイ」と称して、この9月26日の出来事を再現する祭りを実施した。 この祭りの様子を取材しにイギリスのBBCもセーラムを訪れている。
 これはアメリカではきわめて有名な話で、専門書や学術書、ニューヨーク・タイムズもこのエピソードを取り上げている。 食物史家のジャン・ロンゴーンにいたっては、セーラムの逸話を「アメリカのメジャーな新聞と雑誌に取り上げられる回数の最も多いエピソード」と紹介しているほどだ。
 しかし、じつをいうと、この話にはそれを裏付ける確固たる証拠がないのである。1820年9月26日以後のどのアメリカの新聞を見ても、この事件を報道している記事はないし、それを記録した文献も見つかっていないという。 それでもこの話がこれほど有名になり、伝説となって、アメリカはおろか世界中に流布したのは、ひとえにトマトという野菜に、人々の強い関心をひく何かがあるからにほかならない。
 こうすた事実とも伝説ともつかぬトマトにまつわる話は、アメリカだけでなく世界各地に数多く残されている。
 もはや地球上で食べてない国はないと言ってもいいほど、人々の生活になじみ深いものになったトマトだが、じつは、それはこの200年ぐらいの間の急速な変化にすぎない。 たった200年でこれほど評価の変わった野菜も珍しい。
 当初、トリカブトやチョウセンアサガオのように毒草と思われ、人々から敬遠されていたトマトは、どんな国でどんなふうに食べられるようになっていったのだろうか。 (『トマトが野菜になった日』から)
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<トマト 日本への伝播と品種改良>  日本にはポルトガル人によって17世紀に初めて伝えられました。1708年、貝原益軒の書いた『大和本草』ではホウズキヨリ大ニシテ」と表現され、唐柿として記されています。 また、1859年の飯沼慾齋が著した『草木図説』では六月柿と呼ばれています。六月柿とは御所柿と似ていること、そして夏(六月)に収穫されたことによります。 この時期までは観賞用でした。1875年、『西洋野菜そだて草』の中では、図解入りで説明されています。この時期、食べられるとともに竹垣を柱にした栽培(有支柱栽培)が行われていました。 また、日本で最初に契約栽培を行ったのが「少年よ、大志をいだけ」で有名なクラーク博士です。彼はアメリカから日本に来て食事に困りました。 とくに西洋野菜がなく、そこで近くの農家にトマトの栽培を依頼したのが始まりです。 (『世界を制覇した植物たち』から)
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<トマト 日本へはチキンライスの流行によってトマトケチャップが定着?>  アメリカでは、ハンバーガーやホットドッグでトマトケチャップが定着しましたが、日本では、チキンライスの流行によるところが大きいと言われています。 大正から昭和にかけて、「最新割烹指導書」や「料理相談」の中にチキンピラフやチキンライスが記載されています。
 チキンライスは、鶏肉とタマネギを炒め、そこんひ冷やご飯を入れ、さらに炒め、最後にトマトケチャップで味つけします。 アメリカでトマトケチャップが定着したのと同じように、簡単に調理ができることから、日本の家庭に受け入れられたのでしょう。 とくに、子どもたちにとっては、西洋の野菜であるトマトやタマネギ、そして鶏肉というハイカラな素材が使われており、ごちそうに見えたに違いありません。
 戦後になってからは、オムレツの中身がチキンライスに代わり、オムライスができあがります。これにより、さらに大流行となりました。 この時代になって、やっと生トマトが食卓にのぼるようになります。日本では、トマト加工品の方が早く食生活に利用されたことになります。
 ところで、チキンライス1人前を作るのに、トマトケチャップは約50グラム使われます。これを、生トマトに換算してみますと、約100〜150グラムになります。 健康を維持するためには、一般に緑黄色野菜の1は、日の摂取量は150グラム。チキンライスを食べることで、ほとんど摂取できることになります。 また、トマトの赤色色素であるリコピン抗酸化作用(癌予防、老化抑制など)があります。これまでチキンライスは子どもの食べ物というイメージがありましたが、今後は、大人の食べ物として位置付けていいのではないでしょうか。 (『世界を制覇した植物たち』から)
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<トマトの品種改良> アメリカには1860年頃イギリスやフランスから導入された。1910年頃にかけては、偶然変異の選抜や純系選抜法によって、ポンデローザ、アーリアーナ、ボニー・ベストなどの優れた品種が育成された。さらに1911年から1935年頃には、品種間交雑に重点をおいた改良で、地域適応性や輸送加工性に優れた品種が多く育成された。1936年以降は一代雑種の利用が急速に普及するようになった。
  トマトの品種改良、それには他の農産物とは違った目標を持った改良が行なわれた。『世界を変えた作物』から引用しよう。
<機械で採るトマト>  わが国のトマト栽培は、ほかの野菜類と同様に、多肥集約の支柱栽培が多い。促成栽培や抑制栽培な作型が分化し、1年中市場に出回っている。 園芸加工品の中では、果樹のミカンと野菜のトマトは重要な位置を占めている。最近では、農産物の貿易自由化の波に中で、生産コストの低減が大きな課題となっている。 とくに、加工原料としてのトマトの生産は、国際的な競争力に乏しい。たとえば、1トンのトマトの生産に必要とされる労力をみると、日本はイタリアの3.5倍、アメリカの9倍にも達している。
 アメリカのトマトの生産コストがきわだって低いのは、トマトの品種改良によって、もっとも多くの労力を必要とする収穫作業を機械化したことによる。 (『世界を変えた作物』から)
 サンフランシスコから双発のプロペラ機で、サクラメントに飛んだときの話である。海岸山脈を越えてセントラル谷に入ると、色タイルを敷き詰めたような模様が眼下に開けた。西の海岸山脈と東のシェラネバダ山脈にはさまれて広がるセントラル谷は、温暖な気候とサクラメント川の豊かな水に恵まれて、みごとな灌漑農業を発達させていた。色タイルのように見えた模様のなかの赤い部分がとくに目についた。双発機がサクラメントに近づき高度を下げたとき、赤いタイルがなんとトマト畑であることがわかった。トマト畑を大型コンバインが走り、トマトが機械で収穫されていた。これは、著者の一人が、もう10年以上も前にアメリカで見た光景である。 (この本は1985年初版)
機械で収穫できるトマトの改良は、まず草丈の短縮。2メートル以上の草丈になると支柱を立てて茎を固定することになる。 しかし支柱があると機械収穫ができない。草丈の低い矮生と呼ばれる突然変異体を利用し、草丈の低い品種を改良した。
機械収穫に必要な第2条件は、均一な成熟だ。機会で一気に収穫するには果実がいっせいに成熟する必要がある。
第3の条件は、果実の離脱性が優れていること。普通の栽培ではあまり取れやすいと、収穫前に落ちてしまうので、逆に離脱しにくい方に改良がされていた。
そして第4の条件は果実の破損耐性。トマトは薄い果皮と多汁質の軟らかい果肉からなっているので、少しの衝撃でも果実が破損しやすい。 機械収穫に適したトマト品種育成では、衝撃に強いことが最も大切であった。
 1942年、アメリカのトマト栽培家ジョンゲニールが思いついた、トマトを機械で収穫すること、これは約20年かけて達成された。矮性化で無支柱栽培を可能にし、心止まりで果実の成熟をそろえて一斉収穫を可能にし、果実の小形化、細長化、硬質化によって損傷にたえるようにし、さらに離脱性を適度につけて、機械収穫用トマトの改造は成功した。 このトマトの改造は、アメリカならではの資本主義的機械文明の落とし子といえよう。 (『世界を変えた作物』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『世界を変えた野菜読本』  シルヴィア・ジョンソン 金原瑞人 晶文社      1999.10.10
『世界を制覇した植物たち』    大山莞爾・天知輝夫・坂崎潮 学会出版センター 1997. 5.10
『トマトが野菜になった日」             橘みのり 草思社      1999.12.25
『世界を変えた作物』            藤巻宏・鵜飼保雄 培風館      1985. 4.30
( 2007年10月29日 TANAKA1942b )
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(8)ヨーロッパにはなかったマメ類やナッツ 
インゲンマメ・ピーナツ・カシューナッツ
<インゲンマメ> コロンブスは。アメリカとヨーロッパの「果物」と」「草木」には「昼と夜ほどの違いがある」と言ったが、彼の言葉は当たらずと言えども遠からずだった。 たしかに、全体がすっぽりと皮に包まれ、その中にまるまるとした粒が並んでいる穂を付けた背の高いトウモロコシ、あるいはアメリカ先住民が作る特別な飲み物の材料、カカオ豆が実るカカオの木のような不思議な果物、あるいはピーナツのように土の中で育つ「木に実」も見たことがなかった。
 しかしアメリカの作物の中にはあまりエキゾチックと言えないものもそのよい例がある。実際、ヨーロッパで栽培したり食べたりしているものととてもよく似た作物もあった。 その良い例が新世界のマメだろう。アメリカ原産のマメはそのうちヨーロッパで広く使われるようになるが、ヨーロッパ人によって発見された当時はあまり注目を集めなかった。 コロンブスをはじめとする探検家たちはヨーロッパのマメをよく知っていたので、アメリカ大陸の新種のマメもまた、何千年ものあいだ人間の食生活にとり入れられてきた作物と同じ科に属しているのだろうと考えていた。
 エンドウマメやレンズマメのようなマメは、マメ科と呼ばれる植物のグループに属している。
 莢(さや)に入っているこれらの植物の種子は、人類が食べたもっとも古い食物の一つである。人類は最初は野生の草からマメを集めていたが、やがて農耕を始めるようになると、これらの草を栽培し、より大きくおいしいマメを作ろうと改良を重ねた。
 多くの古代文明では一般庶民はほとんど毎食、ポリッジやスープやシチューに乾燥させたレンズマメを入れて食べていた(旧約聖書のエサウの家督相続の話に出てくる「一椀のあつもの」とはそのような料理をいう)。 マメはまた古代の多くの地域で食べられていた。中国をはじめとするアジアの地域ではダイズがもっとも重要なマメだったが、アズキやリョクトウなども欠かすことはできなかった。 ヨーロッパでは、ファーバビーンつまりソラマメがいちばんよく食べられていた。
 古代ギリシャやローマの人々は乾燥させたソラマメをニンニクやタマネギといっしょに料理して食べていたし、ときには莢のついたまま鍋に入れて料理することもあった。 日々の食事における重要な役割に加えて、というよりおそらくそれゆえに、ソラマメは象徴的な意味をもっていた。ローマ人にとってソラマメは自然な生命のサイクルと結びついており、死者の魂と、出産や種の植え付けによって生まれた新しい命を象徴していたのだ。 ギリシャ人もまた、ソラマメの重要性についてローマ人といくらか似た考え方をしていたが、彼らはもっと実用的なことにも使っていた。 ギリシャの政治の世界では、ソラマメは票を集計するのに役立っており、投票箱のソラマメは、一粒一票を表していたのだ。
 中世のヨーロッパでも一般庶民は相変わらずソラマメを常食していた。たんぱく質を含むソラマメ(やほかのマメ類)が、肉食をほとんど取らない食生活では不足しがちな栄養素を補ってくれたからだ。 ヨーロッパやアジアではコムギ、アワ、あるいはコメといった穀物といっしょにマメを食べていたが、そうするとマメの栄養価はさらに増す。 マメは何百万もの人々の食生活に不可欠だったにもかかわらず、中世ヨーロッパふぇはローマ時代のような象徴的な意味はなかった。 「マメほどの価値もない」(何の価値もない)あるいは「豆の山」(価値の少ないもの)という1300年代に生まれた慣用句は、ヨーロッパ人がこの主要な食べ物をどう位置づけていたかをよく表している。
 1400年代後半、コロンブスなどの探検家がヨーロッパから出航するときには、乾燥させたマメがいっぱい詰まった樽が船倉に積み込まれた。 長い航海のあいだ、乗組員はゆでたソラマメやレンズマメ、地中海沿岸地帯で常食されていたヒヨコマメ(ガルバンソ)を食べていた。 そしてアメリカ大陸に着いたヨーロッパ人は、インゲンマメという新世界を発見したのだった。
 だがアメリカ大陸のマメのなかに、ヨーロッパ人の食事に欠かせないあの見慣れたソラマメはなかった。新世界で栽培されていた品種はヨーロッパのものとはまったく違っていたのだ。 その中には、今まで世界中に知られるようになったマメがたくさんある。赤インゲンマメ、サヤインゲン、黒インゲンマメ、白インゲンマメ、黄インゲンマメ、ライマメ。 これらのマメはどれも植物学上はインゲン属に入り、その多くは何百年もまえにアメリカ先住民によって品種改良されたものだった。 (『世界を変えた野菜読本』から)
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<ピーナツ>  「アメリカ的な」食べ物と言えば、まずピーナツだろう。アメリカ合衆国の野球場やサーカスや動物園では、殻つき殻なしを問わず炒ったピーナツを食べるものと決まっている。 現在では飛行機のなかでも食べる習慣ができ、空の旅を楽しみながらお召し上がりくださいとばかりに、乗客にはからっと炒ったピーナツの袋が配られることが多い。 またピーナツバターはアメリカの子供たちの大好物だ。そしてアメリカ合衆国の歴史にもピーナツは登場する。合衆国を二分するもっとも深刻な戦いとなった南北戦争中に、北軍の兵士も南軍のへいしもピーナツを食べ、ピーナツの歌をうたった。
 ピーナツはまさにアメリカ人の食べ物だ。アメリカ大陸が原産地であり、いまではアメリカ人の生活にとってなくてはならないものになっている。 しかしアフリカやアジアでも長い歴史をもち、はるかに重要な役割を演じてきた。
 南アメリカこそ今から3000年以上も前にピーナツが初めて登場した場所であり、古代のペルー人は野生のピーナツを栽培し、乾燥した海岸地方の砂土で作物として育てていた。 ピーナツがこの地域で常食されていたことは、考古学的な発掘から明らかになっている。数千ものピーナツの殻が多くの発掘現場で発見されたのだ。 乾燥した気候のせいで殻は現在まで残っていたが、それは少なくとも紀元前2500年のものである。
 ピーナツが古代のペルーで重視されていたことを示す手掛かりが、紀元100年から紀元800年にこの地方に住んでいたモチュ族の墓で発見されている。 副葬品の中に、ピーナツの殻を象った装飾のある陶器があったのだ。もっと後の時代になると、インカ族の墓にピーナツやトウモロコシ、インゲンマメやトウガラシの入った小さな手提げ袋が多く見られるようになる。 これらの作物は現世でも来世でも大事なものと考えられていたらしい。
 紀元前500年以前に、ピーナツは原産地南アメリカからメキシコへ伝わっていた。アステカ族はピーナツを栽培したものの、それは食生活で重要な役割を演じることはなかった。 それどころか彼らは、ピーナツを食物というより薬として考えていたようだ。サアグン修道士の本によれば、アステカの市場でピーナツは、「ハーブの知識と根菜の知識をもった治療師」である「薬屋」で売られていたという。 粉にして水に溶かしたピーナツが解熱剤として使われていたらしい。
 ピーナツはまたカリブ諸島でも栽培されていたが、そこでは重要な食糧だった。1535年から書き始められたスペイン人の記録に、エスパニョーラ島の人々が栽培しているマニという名の植物のことが載っている。 「彼らはその種を播き、やがて収穫する。それは殻に入っており、マツの実くらいの大きさの……あるふれた作物である。人々はそれが体にいいと思っている」
 1500年前半、スペイン人とポルトガル人が南アメリカを侵略したとき、ペルーがブラジルなどの地域でピーナツが栽培されているのを発見した。 南アメリカではピーナツは、マンドゥビとかマンディという名前で知られていた。ヨーロッパ人は、先住民はピーナツを食べていると報告しているものの、彼ら自身はピーナツに対して用心深かった。 1600年前半にペルーで暮らしていたスペイン人司祭ベルナベ・コボは、ピーナツを食べると頭痛やめまいのような軽い症状が出ると訴えている。 南アメリカにいたヨーロッパ人のなかには、ピーナツはアーモンドの代わりに使うのだろうと考える人もいれば、一種のコーヒーを作るために炒って挽くのだろうと考える人もいた。 しかし、この新しい食べ物に夢中になる人はほとんどいなかった。
 ヨーロッパ人がこんなに冷ややかな反応をした理由の1つは、彼らの目にこの植物がじつに奇妙に映ったからだろう。 かたい殻に包まれた実の部分については、ピーナツはヘーゼルナッツやアーモンドのような旧世界の木の実と似ている。しかし馴染みのナッツが木に実るのに対して、アメリカの「ナッツ」は土の中、つまり背の低い草の根に実るのだ。(中略)
 1500年代に初めてピーナツの存在を知ったヨーロッパ人は、それが馴染みのある木の実とは妙に違っていることに気づいた。 おそらくスペイン人とポルトガル人が持ち帰ったのだろうが、ピーナツは広く栽培されることはなかった(ヨーロッパの大部分の気候はピーナツを栽培できるほど暖かくなかった)。 そのかわりトウガラシと同じように、ピーナツはアフリカやアジアに新天地を見つけた。
 トウガラシ同様、最初にピーナツをアフリカに持ち込んだのはポルトガルの承認と船乗りだった。ピーナツはすでに1560年代にアフリカの西海岸で栽培されており、その同じ地域でポルトガルなどのヨーロッパの奴隷商人が奴隷売買をしていたのだ。 インド南部にピーナツを紹介したのはポルトガル人だが、アジアのほかの地域に紹介したのはおそらくスペイン人だろう。
 アメリカ大陸のスペイン植民地は1500年代後半には、スペインが支配するフィリピン諸島と貿易航路によって結ばれていた。 スペインの大型帆船、ガリオン船の船団はメキシコの西海岸から太平洋を横断して数千キロも離れたフィリピンのマニラ港へ向かう。 マニラぬ向かうガリオン船は新世界の特産物やメキシコの鉱山の銀を積み込み、絹、香辛料、磁器などの東洋の珍しい品々の購入にあてた。 帰りはメキシコのアカプルコ港でこの高価な積み荷を降ろし、そこで待ち受けていたヨーロッパの貿易商人と取り引きするのだ。 多くの新世界の商品とともにピーナツもこの航路で運ばれ、フィリピンから中国、日本、東インド諸島へと伝わっていった。 アメリカ大陸のマメは数千キロも者離れたこれらの地域へ到着すると、すぐに根付いた。
 アフリカでピーナツはトウモロコシやキャッサバ(もう1つのアメリカの作物)と同じように、深刻な栄養不足を補ってくれた。 アフリカ大陸は広大で気候や地形も変化にとんでいるにもかかわらず、耕作に適した作物がほとんどなかった。そこで育てやすいだけでなく、ひどく不足していた栄養分を補給してくれるピーナツはとりわけ歓迎されたのだ。 ピーナツはその26パーセントがタンパク質で、健康に良い植物油が含まれている。1500年代にピーナツがアフリカに到着すると、肉をほとんど取らない人々の食生活に貴重な栄養素が加わることになった。
 北アメリカではのちにスナックになったが、西アフリカではたちまち日々の重要な食材になった。 炒ったピーナツは挽き割りにしてから青菜と混ぜた。また挽き割りにしたピーナツを、ヤムイモ、トマト、オクラなどの野菜で作った濃厚なスープやシチューに混ぜることもあった。
 現在、西アフリカの多くの国や部族には、それぞれ独自の特別な「グランドナット」シチューの料理法がある(「グランドナット」はアフリカの英語圏で使われているピーナツを表す言葉)。 ガーナでは「ンカテクワン」と呼ばれ、キャッサバやヤムイモやプランテーン(一種のバナナ)を煮てすりつぶして作った団子、フーフーと一種に食べるのが普通だ。 マリやセネガルのバンバラ族は、マフェという名の一種のピーナツシチューを作る。このシチューのほかに、鶏肉、オクラ、トマト、サツマイモといった材料を入れる。
 ピーナツがアジアにたどり着くと、アフリカの場合と同じようにたちまち毎日の食事に欠かせないものになった。東南アジアの人々は、挽き割りピーナツがコメや肉や野菜にかけるソースにピッタリなことに気づいて、ピーナツにトウガラシやココナッツミルクやライムの果汁などさまざまな種類の材料を混ぜて辛味のあるソースを作った。 今日インドネシアやタイでは、串に刺して焼いたやわらかな肉料理、人気の軽食サテーを食べるときは必ずピーナツソースを添える。 (『世界を変えた野菜読本』から)
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<アメリカのナッツ>  もっとも重要なアメリカの「木の実」(ナッツ)であるピーナツは、厳密にいうと木の実ではなくマメだ。しかしアメリカ大陸の本物のナッツのうち少なくとも1つは外国を旅してきた。 それは南アメリカの熱帯地方原産のカシューナッツで、今まではアジアやアフリカでも栽培されている。カシューナッツは、植物学上アメリカタウルシやウルシ やマンゴーやピスタチオと同じウルシ科に属しており、腎臓の形をしたカシューナッツは汁気の多い黄色や赤の「カシューアップル」の底で大きくなる。 カシューアップルは果実ではなく花柄(かへい)が肥大したもので、滑らかな殻に包まれた白い粒のナッツが正真正銘のカシューナットノキの果実である。
 大昔のブラジルの先住民はアカシューと呼ばれたカシューナットノキを育て、アップルの部分もナッツも食べ物として利用していた。 ポルトガル人はこの変わった植物を発見するとその名をカシューと縮め、その実を東アフリカや、インドをはじめとするアジアの地域に持っていった。 カシューナットノキはこれらの地域に根付くようになり、現在ではインドがカシューナッツの最大の生産国であり、モザンピーク、タンザニアといったアフリカの国々がこれに続いている。
 カシューナッツはピーナツと違い、料理の世界で重要な食材にならなかった。現在は主に塩味のついたナッツとして食べられるか、お菓子に使われる程度だ。 世界の大部分の地域でカシューアップルは捨てられているが、ブラジルではそのジュースが飲まれ、インドやアフリカの一部ではアルコール飲料の製造に利用されている。 カシューナットノキのもう一つの変わった産物は、CNSL(カシューナッツ・シェルリキッド)と呼ばれる、殻の内側に実から取り出した油性の液体だ。 これはアメリカつたうるしウルシの樹液のように皮膚につくとひどくかぶれるが、熱を加えれば毒を取り除くことができ、さまざまな工業用途に利用できる。 CNSLは車のブレーキライニングで使用される樹脂だけでなく、ペンキやワニスの原料にもなる。
 カシューナッツのほかに、ペカン、ペカンヒッコリー、ブラジルナッツ、クログルミといった数種類の本物の木の実がアメリカ原産だが、ほとんどのものは故郷を離れることもなく、世界に知られないまま今日に至っている。 (『世界を変えた野菜読本』から)
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<カカオ>  イタリア人ジローラモ・ベンゾーニは、1500年代半ばに中央アメリカを訪れた際、土地の住民が珍重しているという飲み物の話を聞いた。 「わたしはある部族の村を通りすぎようとしていた。インディオが振る舞ってくれると言うのを断ったりしたら、さぞ驚かされることだろう」とベンゾーニは報告している。 彼がその飲み物を口にしたのは、アメリカ大陸に着いて1年以上も経ってからだった。「さすがに水だけは飲む気がしなかったので、ほかの人にならってわたしもそれを飲むことにした。 苦みの強い味だが、渇きはとまったし、元気が出てきて、酔うこともなかった」
 先住民には「何よりも貴重なもの」と考えられていたこの苦い飲み物は、チョコレートでできていた。新世界で貴重品だったチョコレートは、旧世界でもほとんど同じくらい高価で重要なものになった。 しかしアメリカ大陸の人々が知っていたチョコレートと、ヨーロッパ人が好きになる甘いチョコレートとはまったく違っていた。
 いろいろなかたちに姿を変えるチョコレートは、そもそもアメリカ大陸以外にはなかった珍しい木の実から作られる。 このカカオと呼ばれる木には大きな莢が実り、幹や太い枝に直接くっついたまま成長する。莢の中にはカカオ豆が入っていて、チョコレート製品を作る原料となる、カカオ豆が「チョコレート」になるには、複雑な加工処理を経なければならない。 まずカカオ豆を莢から取り出し、発酵、乾燥させたのち、炒って挽いて粉にする。
 カカオ豆を食べられるように加工する方法を最初に発見したのは、古代のアメリカ大陸の人々だった。野生のカカオの木はメキシコや中央アメリカの高温多湿な地域と南アメリカの熱帯地方だが、南アメリカでは栽培されず、メキシコや中央アメリカの住民が数千年も前にこのユニークな作物の栽培法と加工法を考え出した。
 アメリカ大陸最古の文明の1つ、オルメカ文明を築いた人々がカカオを最初に栽培したらしい。「カカオ」という名前は、紀元前1,000年の昔にメキシコに住んでいたこの古代人とかかわりがあるようだ。 もっと後のマヤ文明の人々は、オルメカ人からカカオという言葉とカカオ豆の加工法を受け継いだ。紀元200年ごろに始まったマヤ文明は、現在のメキシコ、グアテマラ、ホンジュラスにあたる熱帯雨林地方に大都市を建設した。 これらの地域はカカオ栽培に最適な場所で、カカオはマヤ族の農民にとって重要な作物になった。
 マヤ族はカカオ豆を炒って挽いて粉にし、水やほかの材料と混ぜてねっとりとしたペーストにして強烈な風味野の飲み物を作った。この飲み物はマヤ族にとって非常に大事なものだったし、後世のアメリカ大陸の人々にとっても重要な飲み物になる。 マヤ族は手をかけてその飲み物を作り、たいていはそのためにわざわざデザインされた容器に入れて、特別な場合に飲んだ。 マヤの墳墓で発見された美しい陶器のなかには、化学的な実験の結果カカオと判明した滓(かす)がついているものもあれば、マヤの絵文字でカカオを表す言葉が刻まれているものもある。
 紀元1,300年ごろに権力を手にしたアステカ族は、カカオを利用するアメリカ大陸の伝統を受け継いだ。だがメキシコ中央部の高い山あいにあったアステカ帝国の首都は、熱帯の植物カカオには涼しすぎたため、商人はもっと暖かい低地からカカオ豆を運んで来なければならなかった。 アステカ族はまた、征服した人々に貢ぎ物としてカカオ豆を納めさせた。貢ぎ物のリストによると、毎年980荷分のカカオが首都のテノチティトランに送られ、1荷分には2万4,000個のカカオ豆が正確に数えられて詰められていたらしい。
 カカオ豆はアステカ族にとってとても貴重なものだったので、数百年前のマヤ文明の時代と同じように通貨としても通用した。 アステカ族の市場では、カカオ豆で商品を買うことができた。たとえば、小さな綿のマントはカカオ豆100個分といった具合だ。 カカオ豆は貴重品だったので偽物が出回ることもあり、悪質な連中は空のカカオの莢に粘土や土を詰めて取り引きに使った。
 過去のマヤ族やオルメカ族同様、アステカのあいだでも、カカオ豆は貴重な飲み物を作るのに使われることが一番多かった。 スペイン人は1,500年前半、メキシコに到着してすぐにこの昔から伝わる飲み物の存在を知った。
 1519年、エルナン・コルテスの一行は、メキシコの東海岸に上陸すると皇帝モクテスマの篤志たちに歓迎され、有効と平和のしるしに食べ物や飲み物でもてなされる。 飲み物はカカワトル(カカオ水)だったが、あまり美味しそうには見えなかった。「スペイン人が飲もうとしないのを見たインディオたちは、すべてのヒョウタンの中身を毒味さいてみせた。 スペイン人はチョコレートで喉の渇きを癒し、それを飲むとどんなに元気になるか、知った」
 コルテス一行はテノチティトランに着いて初めて、カカオで作った飲み物がいかに貴重なものかを知ることになる。 もっともアステカ帝国の皇帝モクテスマとその家臣たちは毎日大量に飲んでいたのだが、コルテスの部下だったベルナール・ディアス・デル・カスティーリョ(1492?-1581? スペインの歴史家、征服者。『新スペインの征服正史』を著す)は、 メキシコ征服に関する記述で、皇帝の食事の典型的な献立を書き残している。モクテスマの前には30種類以上の料理が並べられ、その中には野鳥の肉を焼いたものをはじめ「アステカ帝国でとれるあらゆる種類の果物」があったという。 食事のあいだ給仕は、カカオ豆から作った飲み物を「純金製の杯に入れて」運んできた。モクテスマの食事が終わると、衛兵や召使いが食事をし、「カカオの飲み物を2,000杯以上も飲み干した。 メキシコではこの飲み物を十分に泡立てて供する」とディアス・デル・カスティーリョは報告している。 (『世界を変えた野菜読本』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『世界を変えた野菜読本』  シルヴィア・ジョンソン 金原瑞人 晶文社      1999.10.10
( 2007年11月5日 TANAKA1942b )