(9)トウガラシ・カボチャ・パイナップル・キャッサバ
香辛料・野菜・果物・主食穀物
<トウガラシ> クリストファー・コロンブスは1493年1月15日の日誌に、カリブ海のエスパニョーラ島でたくさんの「アヒ」を発見したと書いている。 彼は、ヨーロッパで珍重されている高価な黒い香辛料にたとえて、アヒを先住民の「コショウ」と呼び、「とても体に良いので、人々は毎食欠かさず食べている」と記している。
 26年後にメキシコを征服したスペイン人は「チリ」と呼ばれる刺激の強い作物がアステカの料理でとても重要な役割を占めていることに気づいた。 アステカ族は、「辛くないレッドチリ、太いチリ、辛いグリーンチリ、イエローチリ……ウォーターチリ……ツリーチリ……」などいろいろな種類を栽培していた。
 アヒとチリは、それぞれ別のアメリカ先住民の言葉だが、両方とも一つの重要な植物を指す。この植物とそれから作られる食品は、新世界から旧世界へ輸出されたものの中で最も人気のあったものの一つだが、最もその原産地が忘れがちなものでもある。 現在その植物は世界中で栽培され、今でもたくさんの紛らわしい矛盾した名前で呼ばれている。例えば英語圏の人々の間では、ホットペパー、スウィートペパー、グリーンペパー、チリペパー、チリ、チレ、カイエン、パプリカなどと呼ばれている。
 コレラの聞き慣れた名前はどれも紛らわしく謎めいていたが、植物学者にとってその植物は謎でも何でもない。 これはナス科の仲間であり、ナス科には他にジャガイモ、トマト、タバコといった良く知られたアメリカ原産の作物がある。 この植物はナス科の「トウガラシ」(カプシカム)属に入っている。カプシカムという言葉は箱という意味のラテン語からきているのだが、この名前がついたのは種の入っている部分、つまり実がなんとなく箱のかたちに似ているからだろう。 トウガラシの実は内側にたくさんの種子がついた肉質の壁でできており、中は空っぽである。ほとんどが未熟なときには緑色で、熟すと黄味や赤味がさす。(中略)
 何世紀もの間、ヨーロッパの香辛料の貿易はアラブ諸国の商人によって牛耳られていた。 これら貿易にたけていた商人は、香辛料をインドなどの東洋の国々からアラブ諸国まで海路で運び、それから地中海の港まで陸路で運んだ。1400年代半ばになると、もう一つのイスラム勢力であるオスマン帝国が豊な東洋へ通じる陸路と海路を支配するようになった。 そこでヨーロッパ諸国は、香辛料を産出するインドや東インド諸島へ到達する新しいルートを躍起となって探し始めた。
 1400年代後半には黄金のほかに香辛料を求めて、数多くの探検家が海に出た。1480年代、ポルトガルの探検家たちはアフリカの南端にある喜望峰を回ってインド洋に出る航路を発見した。 1498年、ヴァスコ・ダ・ガマはこの航路を利用すればヨーロッパから香辛料を産出する東洋の伝説の国々へ到達できることを証明した。
 その6年前には、クリストファー・コロンブスがもう一つの航路を試していた。地球を一周すれば東インド諸島にたどり着けると信じて、このイタリアの船乗りはスペイン国旗のはためく船に乗り、南ではなく西へ向かったのだ。 コロンブスは東インド諸島のかわりに新世界の島々を偶然発見すると、香辛料の実を付けた植物を懸命に探した。もちろんヨーロッパで珍重されている、黒コショウの実のなる蔓植物である。 だが見つかったのは、まったく新しい植物アヒ、つまりトウガラシの一種だった。そしてこの植物の実やそれから作られる食品のおかげで、コショウのときよりもさらに強い辛味が世界中の料理に加わることになる。 (『世界を変えた野菜読本』から)
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<カボチャ>  トウモロコシ、ジャガイモ、トマト、ピーナツ、カカオ、トウガラシ、そして多種多様なインゲンマメは世界の料理と食生活に大きな影響を与えたが、これら以外のアメリカ原産の作物はそれほど影響力がなかった。 原産地から遠く離れたことのない作物もあれば、限られた地域だけで重宝されるようになった作物もある。しかし、これら影の薄い作物もまた、世界の多くの地域に住む人々の食生活に少なからぬ影響を与えてきたのだ。
 1500年代、インカ族、アステカ族、マヤ族などを初めとする多くの北アメリカの先住民の畑では10数種類のカボチャが栽培されていた。 ヨーロッパ人は、このアメリカの作物がキュウリ、メロン(カンタロープやスイカを含む)、ヒョウタンといったよじゅ知られている旧世界原産の作物と親戚関係にあることに気づいた。 植物学上これらはどれも大所帯のウリ科に属している。
 アルゴンキン語でアスクタスクワッシュと呼ばれるアメリカのカボチャは驚くほど種類が多く、さまざまな用途に使われた。水分が多い果肉がかたい皮に包まれているカボチャはまるのまま料理したり、あるいはあとで使うために乾燥して保存したりした。 乾燥した皮は容器や柄杓(ひしゃく)になる。皮が柔らかくそのまま食べられるものは、たいていは畑から取ってきてすぐに食べた。 多くの品種は種や花まで食用になる。
 ペポカボチャは新世界のカボチャの中で最大のものだ。アメリカ先住民は火の残っている灰の中にペポカボチャを丸ごと入れて焼き、柔らかい果肉を吸い取り、メープルシロップをかけて甘くして食べた。 北アメリカに入植したヨーロッパ人は最初この方法で料理していたが、やがてミルクと卵と糖蜜を加え、ヨーロッパ風のパイの具にするようになる。
 現在、カボチャの一族でペポカボチャとその親戚関係にあるほとんどのもの(ドングリカボチャ、クリカボチャ、ヘチマカボチャなど)は、アメリカ大陸以外ではあまり知られていない。 例外は、アメリカのカボチャの」くせにイタリア名で通っているズッキーニだ。この皮の柔らかいカボチャは1,600年代にイタリアに伝えられ、好んで食べられるようになった。 後に北アメリカに再び伝わり、実はたくさんなるがあまり味にないズッキーニはいまや多くの裏庭の菜園を占領し、キャッセロールからオムレツ、クッキーにいたるまで多くの料理に使われている。 (『世界を変えた野菜読本』から)
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<キャッサバ>  現在キャッサバはアフリカや南アメリカに住む人々の主食になっているが、北アメリカやヨーロッパではほとんど知られていない。 キャッサバは南アメリカの熱帯低地が原産の植物で、そのずんぐりした澱粉質の根を古代の先住民は食糧としていた。猛毒の青酸を含むものがあるので、食べる前に特別な方法で加工処理しなければならず、毒を抽出するために根の部分をすり下ろしてから絞ったり叩いたりする。 乾燥させると一種のあらびき粉や粉末になり、具入りのパンや粥を作るために使われた。
 1492年、コロンブスはカリブ諸島でキャッサバが栽培されているのを発見し、スペインに帰国する際、部下に食べさせるためにキャッサバのパンを積み込んだ。 その後、1500年代前半、ヨーロッパ人は南アメリカでキャッサバを知り、栽培があまりに簡単なのに驚いた。茎を切手土中に植えるだけで、1年以内にその根は人間の足ほどの大きさに育つのだ。 またヨーロッパ人は、あらびき粉が腐ることなく数年も保存できることにも強い印象を受けたが、その風味の乏しい味をあまり好まなかった。
 ところがポルトガル人が1500年代半ばにキャッサバをアフリカへ伝えたところ、ほかに作物がほとんどない熱帯地方でたちまち広まっていった。 アフリカ人はすぐに根を収穫し加工処理したが、それは南アメリカで行われていた方法ととてもよく似ていた。現在多くのアフリカ諸国でキャッサバは食生活の重要な地位を占めている。 西アフリカではどこでもキャッサバを煮つぶして作ったフーフーという団子の入ったシチューやスープを食べるし、ナイジェリアではガリと呼ばれる加熱乾燥したあらびき粉が食材としてよく使われる。
 南アメリカでもいろいろなかたちでキャッサバを食べる。なかでもファロファという名の加熱乾燥したあらびき粉は、ブラジル料理によく使われている。 北アメリカ人やヨーロッパ人ですら、それと知らずにキャッサバを食べていることがある。プディングを固めたり、ソースにとろみをつけるために使われているタピオカは、乾燥したキャッサバから作られたものだ。 (『世界を変えた野菜読本』から)
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<パイナップル> 
アメリカ大陸の作物の中で最初のころにヨーロッパ人を一番驚かせたのは、パイナップルらしい。 この汁気の多い新世界の高温多湿地帯原産のパイナップルは、大昔にメキシコや西インド諸島へ広まり栽培されるようになった。 1493年のカリブ諸島への2度目のの航海でコロンブスは、先住民が「アナニ」と呼ぶ珍しい果物を試食した。 スペイン人はこの果物が松かさに似ているので「ピニャス」と呼んだ。英語名の由来も同じだが、フランス名の「アナナ」には先住民たちの言葉アナニが残っている。
 1500年代にパイナップルはは初めてヨーロッパへ向けて船積みされたが、長い航海に耐えられたものはほんの僅かだった。 腐らずに届いたものが王族や貴族に献上されると、やがてヨーロッパ人の間でパイナップル熱が高まり、富裕な人々の贅沢品になった。 とくに熱心だったのはイギリス人で、1700年代イギリスの貴族はパイナップル栽培園と呼ばれた特別な温室でその熱帯の果実を栽培した。 客をあっと言わせようとしたある女主人がパイナップルを借りてきて、優雅な晩餐会のテーブルの中央に飾り物として置いたというエピソードもある。 とても珍重されたパイナップルは富と歓待の象徴になり、玄関やベッドの支柱の木の部分に彫刻されたほどだ。
 1800年代になると、パイナップルはさほど珍しいものでも高価なものでもなくなっていた。アメリカ大陸だけでなくオーストラリア、アジア、アフリカでも栽培されるようになり、広く入手できるようになったからだ。 1880年代には、最初の大規模なパイナップル・プランテーションがハワイ諸島にできた。現在ではタイがパイナップルの最大生産国であり、世界の総生産量のおよそ4分の1を栽培している。 もはや富裕な特権階級の食べ物どころか缶詰にもなっているパイナップルは、どこの食品売場の棚でも見つけることができる。 (『世界を変えた野菜読本』から)
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<バニラ>  アステカ族がカカオの飲み物カカワトルを作るときによく加える香辛料のひとつは、ランの莢から作った「トリルショチトル」 tlilxochitl だった。 このエキゾチックな発音のものは今で言うバニラのことで、現在もっともよく使われる香辛料のひとつである。アステカ族はメキシコ湾岸に住むトトナコ属からそれを入手したが、トトナコ族こそ、ある特別なランを栽培し、その長い莢を加工そて香辛料を作り出す方法を発見した人々だった。 アステカ族は1400年代にトトナコ族を征服すると、貢ぎ物としてこの香辛料を要求した。
 スペイン人はその美味しい香辛料を「バイニラ」と呼んだ。「小さな莢」という意味だ。彼らはカカオといっしょにバニラも輸入したので、長いことバニラはココアの香辛料としてだけ使われた。 しかし、ヨーロッパ人もアジア人もそれを加えると料理にかすかな香りがつくことに気付くようになった。
 1800年代にはメキシコ以外の土地でもバニラを栽培できるようになった。ベルギーの植物学者が、人工的にそのランの花を受粉させる方法を研究したからふぁ。 それまでほかの土地ではうまく栽培できなかったが、それはメキシコで花を受粉させていたミツバチとハチドリがいなかったからで、人口受粉が開発されると、バニラが大好きなフランス人は熱帯地方の植民地にプランテーションを開いた。
 1847年になるとさらに利用しやすくなった。アメリカ人が、アルコールの水溶液に細切れにした莢を浸してバニラの成分を抽出する方法を発見したからだ。 現在、合衆国ではバニラエッセンスがよく使われているが、多くのヨーロッパ人は今でも莢ごと使うほうを好む。また化学製法で作った合成バニラもよく使われているが、古代アメリカの人々によって最初に発見された自生のバニラの甘く繊細な香りにはとうてい敵わない。 (『世界を変えた野菜読本』から)
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<アボカド>  アメリカ先住民から世界に伝わったもう1つの作物は、アステカ族が栽培していたアボカドである。 この植物の英語名はナワトル語のアファカトルから来ている。つぶしてから味つけするもっとも現代的な食べ方グアカモーレ(つぶしたアボカドに、トマト、タマネギ、薬味を加えたメキシコ料理のソース)は、名前も食べ方もアステカが起源だ。 アステカ族はアファカ・ムリと呼ばれるアボカドソースを作り、もちろんトウモロコシのトルティーヤといっしょに食べた。 ちょうど現代人がトルティーヤチップでグアカモーレをすくって食べるように。
 スペイン人がメキシコでアボカドを試食したとき、そのバターのような味と大量に含まれる油に大きな興味をもった(アボカドほど大量の油を含む植物はオリーブとココナッツだけ)。 スペイン人はこの珍しい新世界の果実に塩を振りかけて食べたが、砂糖を少し振りかけると美味しいデザートになると考えた人もいた。
 アボカドはとても傷みやすくヨーロッパまでの船旅に耐えられなかったので。1900年代になって船積みと保存の有効な方法が開発されるまで、おもにアメリカの作物として留まっていた。 現在、アボカドはヨーロッパ、アフリカ、アジアでも知られ、そのでこぼこそた皮とナシのような形から「ワニナシ」と呼ばれることが多い。 今でもほとんどのアボカドはアメリカ大陸で栽培され、合衆国とメキシコとブラジルが主要生産国である。 (『世界を変えた野菜読本』から)
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<アメリカのベリー>  野生の植物から集められたベリーは、アメリカ大陸の多くの先住民の食生活で重要な位置を占めており、北アメリカではクランベリー、ブルーベリー、イチゴなどのたくさんの種類を生のまま食べたり、乾燥して保存したりした。 アルゴンキン族が「イビミ」(苦いベリー)と呼んだクランベリーは、ペミカン(野牛肉などを切り干しにして砕き、これに果実や脂肪をつき混ぜて固めたインディアンの保存食)を作るためにシカ肉や脂肪といっしょに料理することが多かった。 ペミカンは栄養豊富な乾燥食品で、腐ることなく何ヶ月も保存できる。
 アメリカ大陸に入植したヨーロッパ人は、新世界のベリーの多くが母国でよく見かけたものの親戚であることに気付いた(たとえば、クランベリーの一種であるコケモモは、スカンディナヴィア諸国が原産)。 しかしアメリカのベリーはたいてい、旧世界のものより粒が大きくてたくさん実る。とくにイチゴがそうだ。イチゴはアメリカ大陸の多くの地域で自生していたものを南アメリカの先住民が栽培できるようにした。
 何百年ものあいだヨーロッパで栽培されてきたイチゴは、甘みはあるが小粒の野生のキイチゴを改良したものだ。1600年代から1700年代にかけて大きなアメリカのイチゴが何種類か輸入されたが、新天地ではうまく育たなかった。 1700年代半ば、ヨーロッパの植物学者が多くの実験を重ねたのち、北アメリカ産と南アメリカ産の2種類のイチゴをかけ合わせて、ついに大粒の美味しい混合種のイチゴを作った。 この新しいアメリカのイチゴが、現在世界中で栽培されているほとんどの栽培用イチゴの先祖である。 (『世界を変えた野菜読本』から)
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<農業の生産効率についての誤解>  「農業の生産効率」というと日本など先進国の農業が「生産効率が高い」と考えがちだが、ここう言う「生産効率」とはそうではない。 むしろ日本のコメ作りは低いことになる。どういうことか?『自殺する種子』から引用しよう。
 農業の面積当たり生産高は一般に耕作の集約度が高くなるほど高くなる。そのため生産効率は集約度が高いほど高くなると考えがちであるが、生産効率を投入エネルギー当たりの獲得エネルギーの割合で測ると、まったく逆の結果となる。 その割合は、あまり手を加えなくてもある程度の収穫が得られるキャッサバでは、ザイールとトンガの例でそれぞれ37.5と26.9という数字が得られている。 もう少し手のかかる穀類では、スーダンのソルガムとメキシコのトウモロコシの例でそれぞれ14.1と10.1、これに牽引動物の力を加えると、フィリピンの水稲とメキシコのトウモロコシでそれぞれ3.3と3.4と効率は低下し、インドのコムギとナイジェリアのソルガムの例ではそれぞれ0.5と0.1となり、 ついに投入エネルギーを回収できない事態に至る。高度な機械化で投入エネルギーも大きいが収量も高いアメリカでは、トウモロコシで2.5、水稲で1.4、コムギで1.8、ジャガイモで2.3という数字が出ている。 収量はアメリカと同じくらいでも面積当たり投入エネルギー量(人力、機械、灌漑、肥料、農薬、除草剤)が桁外れに大きい日本の稲作では、投入エネルギーと回収エネルギーのバランスは大きな赤字である。 耕作をせず自然から採取だけをする場合のエネルギー効率が高いのは十分予想され、トルコの野生コムギについての実験では、40から50というどの農業生産より高い効率が得られている。 したがって、人は狩猟採取生活のあまりの厳しさに音を上げてもっと効率の良い栽培農業に移行したとする通説を支持するのは難しい。
 狩猟採取時代の食生活は、後の農耕時代や近世のたとえば飢饉(1845−47)前後のアイルランドのジャガイモだけ(文字どおり)の食生活より栄養的に豊であったらしいし、労働条件も週20時間で必要な食料は十分稼げたというデータもある。 豊かさはあれもこれも手に入れることでも得られるが、よけいな物を欲しないことでも得られる。われわれ現代人が原始人に対して抱いている、野蛮で動物的、愚かで浅はかであさましいというイメージは修正を迫られるかも知れない。 それでは何が人をより労働量の多い耕作生活に駆り立てたのだろう。(『自殺する種子』から)
<アフリカでの主食──トウモロコシ、キャッサバ>  キャッサバは日本ではタピオカの原料としてくらいしか知られていない。これがアフリカでは主な穀類になっている。それは栽培が簡単だからだ。 キャッサバの栽培は、熱帯なら極めて簡単で、枝を切って挿しておくだけで、発根し、1年もたたないうちに芋が収穫できるのです。栽培するというほどのものではない。このため、新大陸の発見以後、特に、17世紀以後にアフリカやアジアの熱帯地方に急速に広がった。この初期の普及には、奴隷貿易との関係があるようで、アフリカから新大陸まで奴隷を船輸送するときの食糧にかなり使われたらしい。
 キャッサバに較べれば、日本のコメ作りは投入エネルギーと収穫エネルギーで赤字になるので、発展途上国向きではない。 栽培が面倒で、キャッサバを栽培(栽培というほど手はかけていない)している人たちには面倒でイヤになってしまう。 「オリザの環」32「揺らぐプライド/口に合わぬコメ栽培」を参照のこと。
 日本のコメ作りを考えると「農業は先進国型産業」だと思えてくる。
<農作物の普及は、「反地産地消」>  イネの「緑の革命」のきっかけとなったIR8を作った男として記憶されるピーター・R・ジェンキンスと、CIAT(国際熱帯農業研究センター、本部コロンビア)のキャッサバプログラムを立ち上げたジェームス・H・コックは、 主要作物の高収地帯が、それぞれの作物の起源の中心地から遠く離れた大陸にある場合が多いことに注目した。これは主に病虫害種による収量減が、起源の中心地を遠く離れた地域では軽いことからくるものと考えた。(中略)
 日本はどうかというと、世界中のあちらこちらで農耕が始まり、多数の栽培作物が作り出された約1万年前よりかなり前から縄文人が生活していたので、日本で栽培化された作物種がいくつかあってもよさそうであるが、じつは1つもないようである。 考古学的な証拠や現在の植物分布状況などから、日本で半野生種的なものが利用されたらしい例(前者にはクリ、後者にはナシ)はあるが、それらが完全な栽培種となり、他国の農業に貢献した可能性はほぼゼロである。 クリにせよナシにしろ、後に作物品種として確立されたものはすべて中国大陸起源のものが日本に移入されたものの後代である。 日本で栽培化され、日本を出て大陸でも作物品種となったものとして、唯一食用ヒエのその可能性があるそうであるが、確固たる証拠があるわけでもなし、またかりにそうであったとしても大作物にはほど遠い。 したがって、日本の作物生産は100パーセント他の地域から移入された種に頼っており、逆に日本で生まれて他の地域の農業に貢献している作物種はないと言える。
 世界を先進工業国と低開発国という図式で見た場合、それはほぼそのまま農業先進国と農業低開発国、もしくは温帯圏諸国と熱帯諸国の図式に対応する。 温帯諸国の農作物を生産を支えているのは移入作物種であるが、それらは温帯圏の他の地域からきたものではなく、熱帯、亜熱帯からもたらされたものである。 つまり、目下の農業先進国vs低開発国という図式は、作物種をもらった国々vs作物種を与えた国々という図式でもある。
 それでは大多数の作物種の故郷である熱帯圏ではどうだろう。
 現在アフリカの人たちの食生活を下から支えているのは、1にトウモロコシ、2にキャッサバで、これらは南米大陸からの移入種である。 南アメリカでは、サトウキビ、コムギ、イネ、ダイズ、バナナが重要な食用作物であり、コーヒー、それに大麻が重要商品作物であるが、これらはすべて他の大陸からの移入種である。 熱帯アジアではイネが圧倒的な重要食用作物であり、他の大陸に比べて自前の作物でまかなっている度合いは高いが、それでもトウモロコシ、キャッサバ、サツマイモ、ジャガイモ、落花生、油ヤシ等、他大陸からの移入重要作物がめじろ押しである。
(『自殺する種子』から)
<キャッサバという作物>  キャッサバは、熱帯ではイネ、トウモロコシ、サトウキビと並ぶきわめて重要なカロリー生産作物である。 トウダイグサ科(Euphhorbiaceae)のManihoto属の一種(M.esculenta)で、近縁にほかの有力食用作物は存在しない。
 進化の起源地および分布の中心地は熱帯アメリカであるが、現在の作物としての重要度はアフリカで最も高く、アジアがこれに次ぐ。 温帯先進国での栽培はなく、熱帯諸国でも貧農が作り、貧乏人が食べる作物というイメージから、組織的な研究努力から取り残されてきた作物である。
 一方、アフリカの圧倒的多数の農村人口をトウモロコシと友に支えているのはキャッサバであり、収穫物の利用性、汎用性も高い。 特にアジアにおいては、加工用作物として畑作農家の貴重な現金収入源となり、経済発展に貢献している。(中略)
栽培方法  基本的には、前の年のキャッサバの茎を10−30センチに刀で切りそろえ、ゆるくほぐした土の上に挿すか、中に埋め込み、芽が出そろった後除草をして、1年後にイモを掘り出すという繰り返しであるから、 主要作物の中では最も簡単な部類に属する。(中略)
病虫害  一般にキャッサバは病虫害に強いといわれるが、この作物にとりつく病虫害の種類はほかの作物同様多岐にわたる。 そのなかで、最も多数の人々に大きな被害を与えるという点で、アフリカキャッサバモザイク病(ウイルス病)が筆頭である。 この病害を栽培方法によって防除するのは難しく、抵抗性品種の開発と普及が望みである。アジア、アメリカではこの病害は発見されていないので、アフリカからキャッサバの生木や、媒介昆虫であるホワイトフライを不用意に持ち込まないことが大切である。 葉枯れ病(cassava bacterial blight, Xanthomonus campestris pv-Manihotis)はほぼ全世界の主要生産地にみられる病害種で、罹病性品種が多雨の病害多発生年にぶつかると大きな被害を受ける。(中略)
ビル・ゲイツの発言  『タイム』誌2000年6月19日号の21世紀展望特集に、コンピュータ界の巨人ビル・ゲイツ氏がバイオテクノロジーに人類への貢献についてのエッセイを寄せている。 ここではバイオテクノロジーは万能薬ではないと断ったうえで、今後バイオテクノロジーの恩恵を受けるようになるのは、食材の選択に多くの自由がある温帯国の金持ちではなく、毎日の食糧確保が大きな問題である開発途上国の人々だろうとしている。 組み換え遺伝子を使ってコメのベータカロチン含有量を増大させ、熱帯の消費者の体内でビタミンA不足を解消させる可能性について早くも言及しているのは印象づけられたが、私は何より、損害を被っている人の数では目下地球上最大の作物病害ではないかとも言われるアフリカのキャッサバモザイクウイルス病を組み換え遺伝子を使って解決できたら、 人類史的貢献になるだろうと記述しているのには大いに感心させられた。そして飢饉問題は分配の問題でもあるとしたうえで、実はバイオテクノロジーも同じ問題を抱えていると喝破している。 バイオテクノロジーの先端企業が金になるマーケットばかりに照準を合わせ、技術の恩恵を最も必要としている人々を素通りしてしまうことが目下の問題だとしている。 ビル・ゲイツというアメリカ文化の権化のような人物からのメッセージであり、アメリカぶんかの底深さを学ぶ感がある。 わが日本からもいつの日か、相撲の大関かJリーグの得点王で、バイオテクノロジーでも環境問題でもよいが、一般市民にも専門家にも感銘を与えるような意見が出てくるのを心待ちにしたいものである。 (『自殺する種子』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『世界を変えた野菜読本』 シルヴィア・ジョンソン 金原瑞人訳 晶文社      1999.10.10
『自殺する種子』遺伝資源は誰のもの?        河野和男 新思索社     2001.12.30
( 2007年11月12日 TANAKA1942b )
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(10)イネがたどった長い旅路を考えてみる
諸説を読んで想像力を働かせてください
  農作物の中でも、特にイネのルーツを探るとなるメイリオ;と、野生稲の原産地から栽培稲、そしてそれが日本に伝わってきた経路を問題にしなければならない。 ところが、ハッキリしない点が多く、それらをまとめてここに書くのは、アマチュアには荷が重すぎる。そこで、こうした問題を扱っている文献から引用し、 あとは皆さんに想像力を働かせてもらおうと思う。稲作の伝播の長い長い旅路を考えていると、地産地消という言葉がスケールの小さい陳腐な言葉に思えてくる。
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<柳田國男はどう考えたか>  いまから半世紀ほど前に、日本の稲作がどうして始まったかについて、当時の指導的な立場にあった人たちが、徹底的に討議したことがあり、その記録は『稲の日本史』という本になって伝えられている。 この討論のために稲作史研究会が組織され、当時の名だたる学者が集められた。それは、「文化科学と自然科学の分野から従来研究されてきた稲および稲作についての学問的成果を総合して、今後の学問発展の礎石にしようとの意図をもって」、 1952年に発足したものである。その成果は当時のイネ研究の指導者であった、盛永俊太郎(もりながとしたろう)を責任者としてまとめられ、『稲の日本史』として発表された。 その後1969年に、筑摩書房から上下2巻として再刊された。この本は当時までの栽培イネの研究の集大成である。
 この中で、日本の民俗学の建設者とも言える柳田國男は稲作の南島渡来説を主張した。彼は、稲作は日本で独自に発展したと考えた。 すなわち、「ただ日本人だけは、こういう(孤立した)境涯におった結果、現在の稲作技術の進歩はよそから助けられないで、全部自分で考え出したと私は考えておる」 (同書上巻)。そして、南島からの漂流者による稲作渡来説を主張した。さらに、老大家とも言うべき人たちの論議が見ものである。 作物学者の浜田秀男が「イネは、日本と同緯度、ちょっと下の大陸から来たので、南方から直接来たものではない」と述べると、柳田國男は、「私は、海流から調べるべきであると思う。はじめにきたものは漂流に近い」と反論した。 盛永俊太郎および考古学者の直良(なおら)信夫が、イネは中国大陸から来たという結論を出そうとすると、柳田は、日本のどの海岸に来たかが問題として、終始漂着説である。 この討論会で、再三にわたり中国大陸からの渡来説で話がまとまろうとすると、柳田の漂着説が出るのは印象的である。おそらく大陸からの稲作伝来が認められると、稲作や神道儀礼などを含む「一国民俗学」が危うくなることへの本能的な反発があったと思う。 柳田は水田稲作やそれに関係する習慣を日本固有のものと強く主張したが、はたしてそうであろうか。
 今では私たちは、中国大陸へ行ってそこの稲作を見ようと思えば見ることができる。両国の間で農民の間に密接な交流があったとは思えないのに、実際に中国にも日本と同様に棚田があり、農村の景観もよく似ている。 このようなことを考えると、柳田の「稲作南島渡来説」と日本固有の稲作発展説にはなにか問題のあることに気がつく。しかし、柳田説は今でもよく引用され、影響を与えている。
(『稲作の起源』から)
<照葉樹林農耕論からみた稲の栽培化論>  半世紀前のこのような論議を紹介すると、今ではこのような問題は決着したと思われるだろうが、論議は別の主張が加わって、かえって複雑になってきている。 別の主張というのは、民族植物学者の中尾佐助に始まる。照葉樹林農耕論である。長い間、日本の近辺の稲作にとらわれた論議が続いたあとで、1960年代に中尾は、世界の農耕を眺め渡したところから稲作の起源を論議し、さらに東アジアの農耕の起源を論じた。 中尾の主張は、じつは安定したものではなかったが、その後の論議の基礎となり、とくに文科系の学者に広く受容され、今でも大きな影響力をもっている。
 栽培イネの起源についての見解の多くは、じつは伝播について述べたもので、栽培化について直接触れたものは多くない。 この栽培化の問題に迫ったのが中尾佐助の『栽培植物と農耕の起源』(岩波新書、1966)である。中尾は、アフリカ起源の雑穀農耕がインドに波及して、イネの「雑穀としての栽培化」が始まったと主張した。
 中尾の一連の説は、『照葉樹林文化』(1969)、『続・照葉樹林文化』(1976)、および『稲作文化』(1985)という、著名な学者の参加した討論記録(いずれも中公新書)の中で展開された。 後にインド起源説は撤回され、1976年の『続・照葉樹林文化』では、イネの起源地は中国とインドの中間の照葉樹林帯だったと述べている。 ここから「照葉樹林農耕論」が展開されてきた。
 イネが初め焼畑の雑穀作物であったとみる点では、イネの雲南起源説を提唱した作物学者の渡部忠世も同じである。渡部の『アジア稲作の系譜』(1983)では、まずアジアにおける稲作成立の背景として、インドシナ半島に多様性を包含した豊かな農業の発展の条件があったことが指摘された。 そして、熱帯よりやや高緯度に展開する「原農耕圏」を提唱した。地形的に山地、丘陵、高原の卓越する地域としての共通性から考えられた、農耕起源の地域という意味である。 こうした農耕圏の存在を基盤にして栽培イネが登場するとして、「原農耕圏に登場した稲の栽培が焼畑的状況に始まり、したがってその種類あるいは性質が今日でいうところの陸稲に近かった」と述べている。 このような稲作が、「丘陵と山間」を降りて、やがて「平原と平野」に展開し、単作の普遍化にともない大規模な平坦地稲作が展開した。 そしてインドシナ半島でも「江南(中国の長江以南)とガンジス平野に代表される稲作」が受容されたとする。この辺の説明は中尾と同様である。 これらの議論では、水田稲作がどうしてできたのか、答えられていない。しかし、現にみられる景観を歴史的な経過を示すかのように並べてみると、そこに説得力がでてくる。
(『稲作の起源』から)
<オリザの起源>  オリザには20あまりの種があり、そのうちの1つがオリザ・サティヴァ(Orlza sativa)、つまり私たちのイネである。 オリザにはもう1つ、グラベリマ(O.glaberima)という栽培種があって西アフリカの1部にだけ分布する。この2つ以外の種はすべて野生種である。 日本列島には現在と過去を問わず、サティヴァ以外のイネはない。そんなわけで、サティヴァ以外のイネのイネとその周辺の植物は日本人にはまったく馴染みがない。 にもかかわらず日本の研究者がイネの起源に関する学問をリードしてきたのは不思議というよりほかない。
 オリザは、サティヴァを除いても全世界の熱帯に広がる、分布域の広い属である。もっとも種のレベルでみると、分布域は限られてくるので、オリザという属は、地域的に分化したいくつもの種からなる属、ということになるかも知れない。
 イネ属植物の株を見ていると、これがほんとうにイネだろうかと思われる形のものがある。ラティフォリアと呼ばれる種など、草だけ見ているとまるでササのようだし、リドレイなども、私たちのイネのイメージにはほど遠い。 葉の色も、濃いものから淡いものまでさまざまである。種子の形や大きさもいろいろで、なかには本当にオリザであろうかと思われるほど変わった形をしたものもある。
 ところでオリザの起源地はどこだろうか。私の知る限りオリザそのものの起源地について書かれた研究論文は1つしかない。 その1つとは、国際イネ研究所(IRRI)で世界各地の遺伝資源を集めて保存する遺伝子銀行の責任者をしていたT・T・チャンが1976年に書いた論文である。 彼はその中でオリザの起源地は今はなくなってしまった大陸、ゴンドワナにあったと主張した。ゴンドワナは今からざっと2億年前に南半球にあったと考えられている大陸である。 それはやがて分裂し、今の南米、アフリカ、インド、オーストラリア、南極などに分かれていったのだという。有名なウェーゲナーの大陸移動説は、オリザの起源地解明にも一役買っている。
 彼は、オリザという1つの属に属する種が、南米とアフリカとにまたがって分布してしてしてことに気がついた。チャン博士が、オリザの起源を、両大陸がまだ1つであったゴンドワナの時代に求めたのは自然なことであった。 もちろんチャン博士の考えを証明する手だてはない。ゴンドワナ大陸自体が今は存在しない以上、チャン博士の仮説は永遠の仮説である。
 ゴンドワナ大陸があったとされる古生代から中生代にかけての時代は気候温暖な時期であった。気温は今より高く、また多湿であったようだ。 大陸は、大型のシダの盛りに覆われていた。多分イネ属は、森の下草としてひっそりと生きる日陰者の一つであったに違いない。今のイネ属の中には日陰を好む種が多いのもうなずける。
(『イネの文明』から)
<照葉樹林文化の展開>  稲作については、数えきれないくらい多くの書物があるけれど、私の知る限り、「稲作文化」というタイトルをもつものは、この本がおそらく初めてではあるまいか。
 この本は、副題に、「照葉樹林文化の展開」とあるように、同じ新書として刊行された『照葉樹林文化』(1969)と『続・照葉樹林文化』(1976)をふまえた形で話を進めており、上記2冊の本と同じく、シンポジウムの記録に手を加えたものである。
 シンポジウムのメンバーは、『照葉樹林文化』以来の中尾佐助さん、『続・照葉樹林文化』のときに参加していただいた佐々木高明さん、このたびシンポジウムの主役と言うべき渡部忠世さん、稲作文化と対照的な麦作文化についての語り手としてお願いした谷泰さん、それに司会の私、以上5名である。
 それぞれの専門は、中尾さんが集団遺伝学と栽培植物学、佐々木さんは文化人類学と人文地理学、渡部さんは作物学と民族植物学、谷さんは社会人類学と西洋史学、 私は哲学、というのが一応の看板であるが、私を除けば、みなさん、広範囲に渡るおびただしいフィールド・ワークの持ち主であり、知的関心の対象も、きわめて多彩である。
 「稲作文化」をテーマとするシンポジウムの話が出たのは、一昨年(1982)の夏ごろだったかと思う。あるパーティーの席で、渡部さんと雑談をしているうちに、いささかアルコールの勢いをかりた格好で、ぜひともやろうではないか、という成り行きになってしまった。
 私が、そんな気持ちになったのは、その2,3か月前に、顔なじみの編集者の依頼で、中尾さんと数時間にわたる対談をする機会があり(対談記録が『日本文化の系譜──照葉樹林文化とその周辺』というタイトルで徳間書店から出版された)、そのときに、 中尾さんが「稲作文化が照葉樹林文化に、どんぴしゃり重なるということが、ますますハッキリしてきた」と言われたのが印象に残っていたからだ。
 稲作の起源地を、ヒマラヤ東南麓のアッサムから雲南にかけての山地に想定する渡部さんの学説は『続・照葉樹林文化』にすでに取り込まれていたのだが、照葉樹林文化の提唱者の中尾さんと稲作専門の渡部さんに、 稲作文化についての掘り下げた対談を展開してもらいたい、というのが私の側の強い願望であった。
 その対談をできるだけ実りあるものにするために、ぜひとも、佐々木さんに加わっていただきたいと考えた。佐々木さんは、『続・照葉樹林文化』の討論メンバーであり、この討論を展開した形の著書『照葉樹林文化の道』を発表されているばかりでなく、 『季刊人類学』誌上で、渡部説をはじめて専門外の読者に広く紹介した対談記録「稲作の起源とその展開をめぐって」(同誌第5巻第2号、1974年)において、渡部さんの相手をつとめているからだ。
 中尾さんはもともとムギの専門家としてスタートしているので、このたびのシンポジウムでは、稲作文化を麦作文化との対比において捉えてみたい、という気持ちが強く、中尾さんの希望で、麦作文化に馴染みの深い谷さんに加わってもらうことになり、 顔ぶれが揃ったところで、昨年(1983年)の3月12日と13日、2日間にわたって討論が行われた。
 稲作文化というと、いかにも茫漠としたテーマであるが、渡部さんのおかげで稲作の起源地域がほぼ突き止められるに至ったこの時点で、稲作文化という1つの世界の創世について語り、その歴史的展開の過程を振り返り、現状を概観するということは、時宜に適った試みではあるまいか、と私は考えている。
 討論記録というものは、どうしても論旨のキメが荒くなりがちである。シンポジウムのメンバーの著書のうち、本書のテーマに関わりのあるものを巻末に参考文献として挙げておいたので、それらによって、説明の不十分は点を補っていただければありがたい。
  1984年10月   上山春平
(『稲作文化』はしがき から)
<栽培植物とは何か>  人間のもつ文化財に何があるだろうか。ミロのビーナスは美術上の文化財として偉大であっても、もともと古代人の礼拝の対象として作られたものだった。 信仰はなくなったが、その美だけが残った文化財だ。このような意味の文化財は農業には貧弱である。ところが、ビーナスが信仰されている故に、立像に価値がある時代があったわけである。 しかし、1本のムギ、1茎のイネは、その有用性のゆえに現在にも価値がある。それは最も価値の高い文化財でもあると言えよう。 そんな草がなぜ文化財であるのか、ちょっと不審に思う人もあるだろう。つまり、われわれが普通に見るムギやイネは、人間の手により作り出されたもので、野生時代のものとまったく異なった存在であることを知る必要がある。 そのもとをたずねることすら容易でなくなった現在の栽培植物は、われわれの祖先の手により、何千年間もかかって、改良発展させられてきた汗の結晶である。 人間の労働と期待にこたえて、ムギとイネは人間に食糧を供給しながら、自分自身をも発展させてきたものだった。もしかりに、現在の世界から、栽培しているムギとイネの種子が全部なくなったとしよう。 原子力の利用まで進んだ近代の植物育種学者が、大急ぎで金にいとめをつけずに、純粋な野生植物から再びイネとムギの品種を作り上げようとしたら、何年かかったらできるだろうか。 10年か20年か。おそらく、育種学者はその責任を負うのを避けるだろう。ミロのビーナスを再び作ることはできないが、イネやムギの品種も人間は再びそれらを作ることはできないのだ。 近代農業技術は、いま存在するイネとムギの品種が、過去何千年間発展してきたと同じように、将来に向かって、わずかにスピードアップして発展させることができるようになっただけである。
 農耕文化の文化財といえば、農具や技術の何よりも、生きている栽培植物の品種や家畜の品種が重要と言えよう。農業とは文化的に言えば、生きている文化財を先祖から受け継ぎ、それを育て、子孫に手渡していく作業とも言えよう。 その間に植物そのものはどんなに向上してきたのだろうか。これから少し具体的にイネやムギの野生植物と、栽培化された現在の品種との違いをみてみよう。
(『栽培植物と農耕の起源』から)
<稲と稲作との日本への伝来について>  稲は日本には野生しない。また、かつて野生したとも考えられない。それで、稲と稲作との日本への伝来については、従来、南方説、北方説、あるいは南北二源流説等がある。 安藤広太郎博士は「わが国の稲作は、江南地方に於いて稲作を営み、稲を常食とする南方民族の我が北九州及び南朝鮮に移入し来たり、稲作を伝えたるに始まるものと思われ、その稲は江南地方で栽培が発達していた日本型粳稲であった」と推定された。 その時代については「考古学上の弥生式土器時代の西暦紀元前1世紀頃にして、これより多く遡らないものと思われる」と。 これらの推考は考古学、言語学、史学、栽培学、植物学、あるいは人類学、海洋学と、あらゆる面から考察された博士の帰結であった。
 森本六爾氏は「先史時代の農業は弥生式文化と共に、まず日本島の南端にある九州島に伝播した。それは起源1ー2世紀から紀元前後にかけての頃である。 栽培された主な穀物は稲──それも水稲であったらしい」と。日本の前歴史は弥生式時代に入って新しい出発をしたものと思われる。 そしてそれは稲を食物とする人たちの日本に於ける生活に端を発するものと思う。この人たちが、いつ、どこから、いかなる機縁でここに渡来し、まず、どこにどのような生活を始め、それをどのように伝えたか。 このことはわれわれ日本人の誰もが、自分らの歴史の出発点として最も知りたいことであろう。そして、それを少しでも明らかにしてゆくことが稲作史研究会の大きな目的ででであ 安藤博士の研究はわれわれにとって一大指針となるものであった。
 人類が採集の生活から農耕の生活に入ったことは、ここに特定な人類と植物との間の離生的共生のはじまりを意味するものであり、生物界にとっては実に驚くべき新事態であった。 それ以後の人類の生活は、もはやその作物の生活と離れて理解することは困難となり、同時に人類の生活史は、作物の生活史の中に端的に記録されるようになったはずである。 しかし、これらはただ作物自身の中に記録されているに止まるから、その解読は決して容易なものでないのみならず、ここでも途中の記録物はほとんど喪失していると言ってよい。 しかも、この意味でわれわれは稲から、なお何かを読みとろうといつも努力している。これと対応してわれわれはまた民俗の中に残る不文の記録に深い関心をもつ。 そこに相互に解読の鍵を期待している訳でもある。
 研究会の関心は考古学、言語学、史学、人類学、海洋学と更に多岐に亘っている。会では、それらの中から選ばれた問題について、まず誰かが事実や考えを述べ、あとで皆で自由に語り合う形式がとられてきた。 ここに輯録されたのはそれらの中、よく会の目的と輪廊を示しておる第1回と、「稲と水」と「赤米」とについて語られた両度の会の記録である。
  昭和30年11月10日         盛永俊太郎
(『稲の日本史』上まえがき から)
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<主な参考文献・引用文献>
『イネの文明』人類はいつ種を手にしたか        佐藤洋一郎 PHP研究所    2003. 8. 6
『稲』品種改良の系譜                    菅洋 法政大学出版局   1998. 5. 1
『稲作の起源』イネ学から考古学への挑戦          池橋宏 講談社       2005.12.10
『新データブック世界の米』1960年代から98年まで 小田紘一郎 農山漁村文化協会  1999. 3.10
『緑の革命の稲・水・農村』               増田萬孝 農林統計協会    1995. 1.10
『イネの育種学』                    蓬原雄三 東京大学出版会   1990. 6.20 
日本史小百科『農村』                大石慎三郎編 近藤出版社     1980. 1.10
『近世稲作技術史』                    嵐嘉一 農産漁村文化協会  1975.11.20
『古代からのメッセージ 赤米のねがい』         安本義正 近代文芸社     1994. 3.10
『稲作文化』照葉樹林文化の展開       上山春平・渡部忠世編 中央新書      1985. 1.25
『栽培植物と農耕の起源』                中尾佐助 岩波新書      1966. 1.25 
『中尾佐助著作集』第1巻 農耕の起源と栽培植物     中尾佐助 北海道大学図書刊行会2004.12.25 
『現代文明ふたつの源流』                中尾佐助 朝日新聞社     1978. 5.20
『稲の日本史』上       柳田国男・安藤広太郎・盛永俊太郎他 筑摩叢書      1969. 3.30
( 2007年11月19日 TANAKA1942b )
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(11)品種改良は地産地消に反するか?
旺盛な食欲が食生活の新しい時代を開く
  新しい食材が普及する過程は色々なパターンがあった。はじめは拒否反応を示し、恐る恐る食べ始めたり、 誰かが積極的に普及させようとしたり……。大きな影響を与えたのは新大陸=南北アメリカ大陸からヨーロッパへもたらされた農作物だった。 このように、遠くから移入された農作物の他に、品種改良によって今までになかった品種が普及した例もある。日本人の主食である米、生産量のトップはコシヒカリ。 このコシヒカリが生産量日本1位になったのは、1979(昭和54)年、これまで全国の水稲品種中作付率1位だった「日本晴」(平成18年度では、19位、0.9%、1963 愛知県農試)に代わり、コシヒカリが作付率17.6%でトップになり、以後王座は揺るがない。 ササニシキ(1963年 宮城県古川農業試験場)は16位、0.7%。
 現代日本人が食べている米(粳米=うるちまい)はほとんどが戦後育種された品種だ。作付面積上位20位までに、戦前からの品種はなくなっている。 米は日本人の心だ、と言っても、戦前からのコメはなくなっている。せいぜい江戸時代からある赤米が特別に「古い品種を残そう」との趣旨で細々と栽培されているにすぎない。 これはごく自然なことで、心配することではない。消費者の好みに合わせて品種改良が進められた結果であって、むしろ、古い品種がいつまでもあるとすれば、それは品種改良が失敗しているということだ。
 ここで、最近の品種別作付面積の統計を引用してみよう。
<米の品種別作付比率 上位10品種> 
品種名 19年産比率% 18年産比率% 参考7年度産比率% 登録年・育成場所 主な生産県
コシヒカリ 37.7 37.4 28.8 1956 福井農試 新潟、茨城、栃木
ひとめぼれ 10.4 10.5 7.1 1991 宮城県古川農試 宮城、岩手、福島
ヒノヒカリ 10.4 10.5 5.4 1989 宮城県総農試 大分、熊本、福岡
あきたこまち  8.6  9.0 6.6 1984 秋田農試 秋田、岩手、山形
キヌヒカリ  3.4  3.3 2.7 1983 北陸農試 滋賀、兵庫、埼玉
はえぬき  3.1  3.1 1.6 1992 山形農試庄内支場 山形、秋田
きらら397  3.0  3.1 4.2 1988 北海道立上川農試 北海道
ななつぼし  2.0  1.5   ー 2001 北海道立中央農業試験場 北海道
ほしのゆめ  1.9  2.2   ー 1996 北海道立上川農試 北海道
つがるロマン  1.6  1.8   ー 1997 青森農試 青森
 農水省「米穀の需給及び価格の安定に関する基本指針」などから作成
 ひとめぼれ以下つがるロマンまで、すべてコシヒカリを片親に持つ、つまりコシヒカリから品種改良されたもの

<明治時代の品種改良>上の表はすべて戦後改良された品種だ。つまり戦前からの品種は上位10品種には入っていない。 では、これらの品種が生まれる以前にはどのような品種が栽培されていたのだろうか。ここでは明治時代の品種改良について文献から引用することにしよう。
 明治の品種を通覧すると、良質なものは長稈で倒伏しやすく、短稈で多収なものは品質不良であることや、早生種は少収で、晩生種は多収であることなど、当時の品種には長所と短所がハッキリとしていた。 いわゆる品種における美人薄命論といってもよく、人間にとっての希望形質(多収・良質・強稈・耐病・耐冷etc.)の一方に優れるものは他方が劣るということで、天はまさに二物を与えないのである。
 このような、いわば負の遺伝相関を打ち破り良質で多収なもの、良質で耐病性・耐冷性の優れたもの、早生で多収なものというように、二拍子も三拍子も揃ったものを人の手で作り、選んでいくことが品種改良である。 明治時代のおける品種改良の担い手は老農といわれた人々である。彼らによって作られ普及した代表的な品種をあげた。これらの品種は、今日わが国で栽培されている品種の基礎的な育種素材となった貴重なものである。

<明治時代の代表的品種> 
時 代 品 種 名 育 成 者 育 成 の 方 法
1848・嘉永1 関取 佐々木惣吉・三重 中生千本から選出
1873・明治6 赤毛 中山久蔵・北海道 渡島地方から取り寄せたものから選出
1874・明治7 竹成 松岡直右衛門・三重 千本から選出
1875・明治8 亀治 亀田亀次・島根 縮張から選出
1877・明治10 神力 丸尾重治郎・兵庫 程吉から無芒種選出
1882・明治15 愛国 高橋安兵衛・静岡 身上起から早生を選出
1893・明治26 亀の尾 阿部亀治・山形 冷立稲から選出
1895・明治28 坊主 江頭庄三郎・北海道 赤毛から選出
1907・明治40 銀坊主 石黒岩次郎・富山 愛国から強稈を選出
1909・明治42 山本新次郎・京都 日の出から選出


  (『図説・米の品種』改訂版 から)
<国内在来稲品種の徹底整理開始>  わが国の水稲育種が本格的に始まったのは、明治36年とみられる。わずか85年前のことである。 農商務省は、この年に農事試験場が整備されたのを機に研究方向を整え、その重点事項として育種を強化することにした。 畿内支場が米麦の育種に専念することになり、直ちに国の在来品種の収集に着手した。その結果在来品種は3300〜3400の多きにのぼり、 その後3〜4年かかって670に整理して、最終的には全国10地域でそれぞれ優秀品種を発表した。
<育種目標の原型確立される>  明治37年、加藤茂苞によって初めて稲の人工交配による育種が開始され、雑種が20種作られた。 この時期の育種目標は多収・早熟・良質・いもち病耐病性・耐倒伏性・耐虫性・脱粒難などである。
 米を重視するわが国の品種の姿として、これらの育種目標は、その後も時代ごとの社会的要請の差こそあれ、現在に至るまで変わることのない重要なものとして続いている。 この着目の確かさにはただ驚くのみである。
 人工交配による育種が始まったものの、政府による育種は主として、陸羽支場の寺尾博によって始められた純系淘汰法が主体であった。 この時期の育種目標は、さきの目標に加えて耐肥性・耐旱性などであった。当時この純系淘汰法は、多くの在来種の中から優良種を選ぶ手法として効率が高いものであることは、 のちに有名になる「陸羽132号」の親となった「陸羽20号」が、 「愛国」の中から選抜されたことでもわかる。当時各府県の奨励品種は、ほとんどこの純系淘汰法で選抜されたものである。
大正10年ごろからの化学工業の発達により、硫安が安価に供給されるにともない窒素系の施肥量が増え、当時の品種は倒伏そやすくなり、肥料を多く使っても倒伏せずに多収となる品種育成に対する要望が次第に強くなっていった。 純系淘汰法によって選抜された品種で、これらの特性に優れたものの作付面積が次第に増えた。
 大正14年の品種別作付面積(千ha)は「神力」系409.6、「愛国」系223.1、 「亀の尾」系157.7、「坊主」系75.3、「雄町」系61.5、 「豊国」系59.5、「旭」系43,6、「関取」 系31.7、「銀坊主」系20.1であった。 しかし、これらの品種も肥料の増投など栽培技術の変化には十分対応できなかったので、その後改良を必要とするようになっていった。(以下略)
(『図説・米の品種』改訂版 から)
<これからの品種改良の方向>  最近の稲品種改良を巡る動きは従来よりもピッチを速め、これまで画一化された育種の方向に止まらず、かなり多様な対応を要する時代を迎えようとしている。
 わが国の米の品種改良における今後の基本的な課題として、次の4つが挙げられる。
 @ 生産の低コスト化や減農薬化を重視し、良食味に加えて高収量性・耐病虫性・環境ストレス耐性・機械化適性などに優れた品種の育成。
 A 外食化など食の多様化に対応した品種の育成。
 B 酒造用並びに米の有用化学成分の利用を目的とした加工適性の優れた品種の育成。
 C 米の食用以外の利用、例えば飼料化やアルコール化などを狙った超低コスト生産品種の育成。が緊急である。
 しかし、これまでの品種では、今後予想される米利用の多様性に富んだ需要を満たすには不十分であり、残された課題は極めて多い。
 最近の「コシ・ササ」的品種の育成に止まらず、多様化が予想される育種目標を見極めて、その達成を目指す必要がある。そのためには今後ジャポニカを主体にインディカ、ジャバニカ(主としてインドネシア産)の積極的利用を図り、 幅広い遺伝変異を巧みに操作して品種改良を行い、米の需要拡大を図ることは極めて重要であると考えられる。
(『図説・米の品種』改訂版 から)
<ハイブリッドライス>  バイオテクノロジーは”未来を拓く鍵”として、世界の企業が参入して、熾烈な研究開発競争を展開し始めてから久しいが、その後種子戦争も同様にマスコミに大々的に取り上げられた。 ハイブリッドライスもその1つである。米国企業が、中国のハイブリッドライス実用化の画期的な成果に注目し、その権利を得て、国際的な支場開拓に乗り出した。日本もその戦略に含まれ、巷間を賑わし、稲作技術大国を自負する研究陣への大きなインパクトになったばかりでなく、幾つかの企業の参入を促す結果となった。
 その後、米麦等の種子産業に、民間参加の道を開くために法制の見直しが行われた。このような背景があって、わが国においても、実用化を目指した本格的なハイブリッド育種の幕開けとなったのである。
 それまでは、ハイブリッドライスの育種の基礎的研究、つまり、F1種子を効率よく採るために、自殖性作物である稲をいかにして他殖性にするかという遺伝育種学的な研究に長い年月を費やしてきた。
 ハイブリッドライスが、今後わが国の稲作に貢献できるかどうかは、既往の研究成果と中国の実用化された技術をふまえ、有望なヘテローシスを発現する組み合わせの探索、その栽培法や採種等の実用技術の開発という、最も重要な、しかも未踏の問題に挑戦していかなければならないのである。
(『図説・米の品種』改訂版 から)
<食料安保の戦略からもハイブリッドライスの開発を>  TANAKAのコメに関する主張は「食料自給率は気にしなくて良いから、ハイブリッド・ライスを開発せよ」だ。 供給熱量ベースの総合食料自給率が平成10年から40%だったのが、19年になって39%になった。この自給率低下を心配する向きも多いが、自給率自体はそれほど心配する必要はない。 それでも、食料安保という面から言えば、まったく無視するわけにもいかないかも知れない。ではどうするか?答えは「ハイブリッドライスの開発を急げ」だ。
 牛肉・豚肉・鶏肉等肉類の自給率は55%だ。けれども畜産品を考える場合は飼料のことも考えなければならない。 55%とは品目別自給率(重量ベース)でのことで、カロリーベースの食料自給率の計算方法によると、これに飼料自給率を掛けなければならない。 この場合飼料自給率は25%なので、55%に25%を掛けると13.75%となる。つまり肉類の自給率とは、飼料を外国から買ってきているので、55%の4分の1、13.75%ということになる。
 肉類の自給率は、飼料を外国からかってきているので、55%よりも低くなった。別の例をあげてみよう。それはブロッコリーだ。ブロッコリーの自給率は約50%。残りの50%はアメリカから買ってきている。 そのアメリカでのブロッコリーの約70%は日本の「株式会社サカタのタネ」から種子を買って栽培している。これを肉類の計算例を応用すると、50%+(50%X0.70)=85% つまり、 ブロッコリーの、カロリーベースの食料自給率(供給熱量総合食料自給率)は85%ということになる。
 かつて「コメ輸入を自由化したら自給率はどうなるか?」の研究が発表されたことがあった。東京大学グループと青山学院大学グループが発表した。 東大グループは「コメ自給率は20%になってしまう」と結論つけ、青学グループは「それでも20%は確保される」と結論つけた。評価は悲観的、楽観的と違えども、自給率はどちらも20%であった。
 この20%とはどちらも「品目別自給率(重量ベース)」であって、「カロリーベースの食料自給率(供給熱量総合食料自給率)」の考え方を応用すると違ってくる。 ブロッコリーの例でみたように、種子をどこから買ってくるかによって違った数字になる。と言っても現在は各国が勝手に「コシヒカリ」や「あきたこまち」を栽培している。もしこれらがハイブリッド・ライスだったらどうか? 日本の福井農試の「F1コシヒカリ」や秋田農試の「F1あきたこまち」を買ってこなければならない。将来、「わが国の要求を呑まなければ、わが国で栽培されているコシヒカリを売ってあげないよ」と外交交渉で言ってきたら、「結構ですよ。その代わり、種子はおたくの農家には売ってあげないよ」と言えば良い。
 中国ではハイブリッド・ライスが普及している。これに対して、日本ではあまり関心がない。4年ほど前に「品種改良にみる農業先進国型産業論」の中で、「ハイブリッドライスの可能性」として扱ったことがある。  この時は次のように書いた。 上に引用した文を読んで思うのは「関係者同士の一代雑種が必要なようだ」ということ。「ハイブリッドライス」とのテーマで皆同じ様なことを言っている。皆が同じ情報を共有している、ということはいいことかもしれないが、もっと楽観論、悲観論、自分の体験による他人の知らない情報、経済面・政治面からみた評価、いろんな見方があってもよさそうだ。むしろ、雑種の入り込まない「自家不和合性」こそ心配になる。
 中国がハイブリッド・ライスを開発普及させた。それに対して「悔しい」とか「なにくそ、負けないぞ」といった意地とかプライドがまったく感じられない。 生産農家だけでなく研究開発・育成関係者も「コメは粒たりとも入れるな」の決議に甘えている。
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<白菜は日本の基本食?>  新米の飯を、一箸つまむ。見たところは、いつもと、そう違いはない。冷夏に見舞われた北の方の産で、出荷はかなり遅れたらしい。その地で、心労と勤労とを一瞬思い浮かべながら、かむ。▼白菜漬けを、少しつまむ。ご飯のほのかな甘みを、ほどよい酸味が引き立てる。飯をもうひとつまみし、みそ汁をすする。栄養のことはともかくとして、晩秋の「日本の基本食」だけで、ほぼ満ち足りた。 (2003年11月24日朝日新聞朝刊「天声人語」から)
 「ハクサイ(結球白菜)が日本に初めて導入されたのは比較的新しく、1875年であった。……明治末期までは、日本では採種が成功せず、毎年種子は輸入されていたので、栽培は広がらなかった」(平凡社「大百科事典」から)
 天声人語にあるように、白菜は日本のご飯食にピッタリの食材と言える。でもその白菜が日本で栽培されるようになったのは、比較的新しい。清国の原種に頼ることなく国内でハクサイのタネをとることができるようになったのは、沼倉吉兵衛が1916(大正5)年に他の十字科植物の花粉がまざらないようにして、タネをとることに成功してからだった。これは宮城県の松島でのこと。一方、そのころ愛知県の野崎徳四郎も1919(大正8)年にハクサイのタネを取ることに成功した。 1922(大正11)年には宮城県農事試験場から、育種業者として独立した渡辺穎二が新しい白菜の品種を育てることに成功した。1922(大正11)年の農商務省の調べによると、そのころまだ、清国から大量のハクサイのタネが輸入されていたとのことだが、この時期以来だんだんと日本で品種改良されたハクサイのタネに取って代えられるようになっていった。
 白菜の日本での普及に関しては、「日本人が作りだした農産物 」の「タネ作りは種子会社に任せよう」で書いたので、そちらを参照のこと。
<白菜は日本の基本食?>  新米の飯を、一箸つまむ。見たところは、いつもと、そう違いはない。冷夏に見舞われた北の方の産で、出荷はかなり遅れたらしい。その地で、心労と勤労とを一瞬思い浮かべながら、かむ。▼白菜漬けを、少しつまむ。ご飯のほのかな甘みを、ほどよい酸味が引き立てる。飯をもうひとつまみし、みそ汁をすする。栄養のことはともかくとして、晩秋の「日本の基本食」だけで、ほぼ満ち足りた。 (2003年11月24日朝日新聞朝刊「天声人語」から)
 「ハクサイ(結球白菜)が日本に初めて導入されたのは比較的新しく、1875年であった。……明治末期までは、日本では採種が成功せず、毎年種子は輸入されていたので、栽培は広がらなかった」(平凡社「大百科事典」から)
 天声人語にあるように、白菜は日本のご飯食にピッタリの食材と言える。でもその白菜が日本で栽培されるようになったのは、比較的新しい。清国の原種に頼ることなく国内でハクサイのタネをとることができるようになったのは、沼倉吉兵衛が1916(大正5)年に他の十字科植物の花粉がまざらないようにして、タネをとることに成功してからだった。これは宮城県の松島でのこと。一方、そのころ愛知県の野崎徳四郎も1919(大正8)年にハクサイのタネを取ることに成功した。 1922(大正11)年には宮城県農事試験場から、育種業者として独立した渡辺穎二が新しい白菜の品種を育てることに成功した。1922(大正11)年の農商務省の調べによると、そのころまだ、清国から大量のハクサイのタネが輸入されていたとのことだが、この時期以来だんだんと日本で品種改良されたハクサイのタネに取って代えられるようになっていった。
 板倉聖宣著「白菜のなぞ」は中学生でもわかるやさしい文章で、白菜が日本で定着する経緯が詳しく書かれている。品種改良に関するおすすめ本の一冊です。ここからハクサイの国産化についてまとめてみよう。
 ハクサイ国産化の苦労話  私は、はじめ「日本人がハクサイを取り入れたのは明治以後だった」ということがあまりに信じ難いと思いました。そこで、「ハクサイは明治以後、どのようにして日本で栽培されるようになったのか」ということをくわしく調べてみることにしました。すると、調べれば調べるほど、いろんな面白いことがわかってきました。そこで、その結果をお知らせしたいと思います。少し話が長くなりますが、つきあって下さい。
 このような文で始まる「ハクサイ国産化」の話、要約すると次のようになる。
 ハクサイが日本に輸入されたのは1875(明治8)年、民部省の勧業寮という役所が清国の農産物調査のために委員を清国に派遣した。このとき清国農産物調査委員の人々は、清国で立派な白菜を見て喜び、山東菜・白菜・体菜・水菜(きょうな)などのタネを日本に持ち帰った。勧業寮の農務課では、その年のうちに、三田の育種場の畑にそのタネをまいて育てた。それぞれなんとか育ったのに、結球ハクサイは「葉が丸まって玉のようになる」と言われたのに、ついに葉が巻くことなかった。 育種場の人たちは「こいつは、葉がまるまって球になる(結球する)っていうのだけど、本当にそんな作物があるのかなあ」と疑う始末だった。とはいえハクサイの評判はよかった。みんな「ワーッすごい。おいしそうだ」と歓迎した。だから、日本人がこのときまでハクサイを知らなかったのは、食わず嫌いのせいではなかった、と言える。
 さて、これは1年目のこと。三田育種場の人たちは、2年3年と栽培をつづけた。ところがどうしたことか、2年目の出来は良くない。ハクサイは初めから球にはならなかったが、それでも白くて柔らかな葉がたくさん育った。それなのに2年目にはその葉もかなり緑っぽくなり、2年3年とたつにつれて、ハクサイの特徴が薄れていった。それはハクサイだけでなく、フランスから取り寄せた小麦のタネをはじめ、その他の作物もだんだん変化して、その品種としての特徴がなくなってきた。 そこでタネの輸入を請け負ったフランスのタネ屋に相談した。すると「ビルモーラン商会」というフランスのタネ屋さんは、日本でのタネのとり方をたずねた上で「ああ、それはタネの取り方が悪いのです」と言う。さいわいフランスには元植木職人で勧業寮に勤めていた内山平八という人がパリに出張中だったので、1878(明治11)年11月、その内山平八(1852〜1922)さんに「ビルモーラン商会の農場その他に留学して、そこでタネの取り方について実地に教わってきてほしい」と頼んだのだった。
 政府の勧業寮が清国に農産物取調べのため委員を送ったのと同じ1875(明治8)年、東京市の博物館に、清国から根つきの「山東白菜」の見本が3株出品された。そのハクサイは見事に結球していた。結球といえば、キャベツがあるが、キャベツもそのころ三田育種場で試験栽培されていたぐらいだったので、その結球ハクサイを始めて見た人たちは驚いた。 愛知県栽培所(のちの愛知県農業試験所)の人びとは、そのうち2株を分けてもらって、その栽培に取り組むことになった。栽培所主任の戸田寿昌(としまさ)さんと栽培係の佐藤管右衛門さんは「来年の春には花を咲かせて、たくさんタネをとって、ふやすんだ」と張り切った。そして翌年花がさき、実をつけたので、そのタネをまいた。ところが、三田育種場の場合と同じように、葉の色は白くならず、結球もしない。それでも比較的もとのハクサイに近い色、形に成長したものからのタネをとり、育てた。 こうした選抜育種を続けて1885(明治18)年、ついに結球したハクサイのタネを取ることに成功した。東京の三田育種場はハクサイの栽培を断念していたので、愛知県栽培所が日本で最初にハクサイの栽培に成功したことになった。とは言うものの、かなり無理があって、「完全に結球している」とは言えなかった。今で言う「半結球」という状態で、それも、苗が大きく生長したときに、ナワで株の中央部を1回縛り付けておいて、それから数日後にまた、上半分の葉を一つひとつ、丁寧に抱き合わせて、やっとなんとか結球している形にするというものだった。
 愛知県の栽培所では、1885(明治18)年に半結球性の山東白菜の栽培に成功して、そのタネを付近の農家の人たちに分けて、普通の農家でも栽培してもらって売り出すようになっていた。そのとき栽培所の佐藤管右衛門さんにタネをもらって熱心に栽培法の研究を下人に、野崎徳四郎という人がいた。この人が後に「日本で最初の結球ハクサイを完成させるのに成功した」のだった。
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 日清戦争によってハクサイが知られるようになった  野崎徳四郎(1850〜1933)さんは、明治維新になり、農民は名字を名乗り、自分の田畑で好きな作物を作っていいとなると、「少しでももうかる野菜を作りたい」と思い、近くの愛知県栽培所で栽培している作物に目をつけた。そこでは、清国産のハクサイをはじめ、キャベツとかハナヤサイなど外国からやってきた野菜を日本に取り入れる研究をしていた。その栽培所で「山東白菜のタネを分けてくれる」と聞いて、徳四郎さんはイの一番に申し込んで、ハクサイ研究を始めた。 徳四郎さんは、タネをまく時期を変えてみたり、肥料の質や量を変えてみたりしたが、白菜はうまく結球してくれない。当時はまだ、タネの交雑の秘密を明かした小野太郎著「小学理科書」(明治20年)も、横井時敬著「農業読本」(明治25年)もまだ世に出ていなかった。
 名古屋の畑に桜島大根を植えても、2年、3年とそのタネをとって栽培を続けていると、そのタネが普通の大根になってしまうのは、周りの畑にある普通の大根の花粉が桜島大根のメシベの先に着いて交雑してしまうからだった。ではハクサイのメシベの先にはどんな植物の花粉が着くのだろうか?周りにはハクサイを栽培している畑はない。それならば、徳四郎さんの畑の山東白菜のメシベの先には何の植物の花粉が着くのだろうか? 徳四郎さんがそのようなことを考えている頃、福羽逸人著「蔬菜栽培法」が出版される。1893(明治26)年のことだった。そしてこの本を参考にして、少しずつ改良されていった。
 1894(明治27)年7月25日、日本の海軍が清国の軍艦を攻撃して戦争が始まった。そして8月1日には正式に清国に宣戦を布告して朝鮮半島と清国の領土で大規模な戦争が始まった。 このとき、清国に出征した日本の兵隊は、そこの畑でたくさんのハクサイ、白くて結球したハクサイを目にした。そして「日本でも、こんな野菜が作れたらいいなあ」と思った。このように日清戦争のためにハクサイの知名度は高まり、ハクサイの需要が高まった。さらに、兵士のなかにはタネを持ち帰る者もいて、日本でのハクサイ研究が活発になった。
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 本場の清国から輸入しなければならない  日清戦争のとき、戦地でハクサイを見た兵隊は「日本でもこんな野菜が作れたらいいのに」と思い、それを実行した人もいた。たとえば、茨城県出身の大部鋭次郎さんは、故郷の茨城県農会の幹事だった種苗商・鈴木文二郎さんのところに、満州の<直隷白菜>のタネに、<満州での栽培法>を添えて送り届けた。また、仙台の第2師団の岡倉生三参謀は、帰国するとき<芝罘(ちーふ)白菜>のタネを持ち帰って、宮城県立農学校に寄付した。こうして日清戦争をきっかけに茨城県や宮城県でもハクサイの栽培研究が始まることになった。 さらに、1904(明治37)年には日露戦争がおきてたくさんの日本の兵隊が清国に出兵した。そこでまた多くの人がハクサイに関心を持った。
 こうしてハクサイの関心は高まり、栽培研究の行われたが明治年間には、清国産のハクサイのタネに負けないほど良質のタネは日本ではできなかった。1914(大正3)年に出版された香月喜六著「結球白菜」という本は、日本でもっとも早く出版された「ハクサイ栽培の専門書」なのだが、その本でも「本場の清国から輸入しなければならない。<直隷白菜>や<芝罘白菜>などになると、そのタネの値段は内地で売っているものの5倍から10倍にもなることがあるが、1反歩に必要なタネの量はわずかに2合で済むのだから、いくら高くてもその値段は知れている」と書いてある。
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 十字花科の自然交雑  これまでの経過で問題なのは、「日本でハクサイのタネを取ろうとすると、なぜかハクサイのメシベの先に他の植物の花粉がついて、ハクサイが変質してしまう」という問題であった。これには「ハクサイのメシベの先につく花粉はどんな植物の花粉なのか?」を明らかにする必要がある。それと、ハクサイの花が咲いてタネを取るとき、ハクサイのメシベの先にそれらの植物の花粉が混じり合わないようにすればいい。
 こうした問題に取り組んだ人に、宮城県農事試験場の場長兼同養種園長の菅野鉱次郎さんと「伊達家養種園」技師の沼倉吉兵衛さんがいた。 1897(明治30)年に落合与左衛門著「種子交換論」が出版され、「十字花科(アブラナ科)の作物のタネを取るには、とくに花粉の混じり合いを心配しなければならない」ということはかなり知られていた。
 「ツケナ類およびダイコン類、すなわち十字花科植物のタネを取ろうと思ったら、同じ十字花科の植物が近くにない場所でタネを取るようにしなければなりません、そうしないと、近くの十字花科の花粉が混じって、作物の性質が変化してしまうからです。十字花科の作物のその変化はとても速くて、他の作物には見られないことです。しかも、<体菜のタネを取ろうとして、山東菜ともいえず体菜とも言えないような珍しい作物のタネができる>というわけではなくて、<とても作物として栽培する気にもならないような悪い作物>になってしまうことはしばしば経験されてとく知られていることです。 穀類の場合は、花粉が混ざることによってときどき珍しい品種ができたりすることもあるのですが、十字花科植物の場合は、<変種によって珍しい作物ができる>などということはほとんどありません。明治18年に東京の亀戸に<白茎三河島菜>という新しい漬け菜の品種が現れたのは、おそらく山東菜と三河島菜の花粉が交雑して、そのふたつの作物の性質のいいところが伝わって、これまでよりも茎が柔らかで味もよく成長も速いという作物になったのでしょうが、そんなことはごくごく稀なできごとで、たいていは劣等な雑種ができるだけなのです。
 そこで、劣等な雑種になってしまうのを防ごうと思ったら、十字花科植物と接近した土地でタネを取ろうとしてはいけません。しかし、実際に<十字花科植物と遠く離れた土地でタネを取る>なんてことは、とても、困難なことです。<そうしたい>と思ってもなかなか出来ることではありません。そこで、結局のところ劣等なタネを取ることになってしまうのです。それならどうやっていいタネを手に入れて、変種しない作物を栽培するようにしたらいいのでしょうか。それには、タネを原産地から購入するほかありません。少なくとも2,3年に一度は原産地からタネを買わなければいけません」
 この結論では「自分たちで原産地に劣らない上等なハクサイのタネを取ろう」との沼倉さんのもくろみには合わない。「他に十字花科植物がない場所」を探さなければならない。しかし十字花科植物は身近なとことにたくさんある。ダイコンもカブも小松菜もキャベツもアブラナもカラシナも、みな十字花科植物。そればかりではない、ペンペン草のような野生の植物の中にも十字花かの植物がいろいろある。作物になっていないものだけを避けるなら、畑のない山奥に行けばいいが、野生の植物で十字花科全体を避けようとしたら、これは大変なことだ。
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 松島で本格的なタネ作りに成功  沼倉さんと菅野さんはいいことを思いついた。
 「そうだ、離島がある。松島湾にはたくさんの無人島があるじゃないか」
 松島というのは一つの島ではなくて、松島湾にある808(?)もの不思議な形をした小島からなっている。それらの島の多くは農地などできないとても小さな岩山だったが、その中で「馬放島」はかなり大きくて平らだった。沼倉さんと応援の人は島にある十字花科植物を全部調べて、できるだけ根こそぎにした。そして、堆肥をつくり、ハクサイを植える場所を耕した。菅野さんは次のように書いている。
 「馬放島は、冬・春・初夏の三期間を通じて無人島で、かつ禁猟区でした。そこで、キジその他の小鳥より猛烈に襲撃されるなど、予期しない難問がしばしば突発しました。そのため、採種にあたった沼倉氏の苦労は言語に絶するものがありました。そこで、とれたタネの量なども、計画の半分にも達しなかったのですが、ともかくもその目的を達成することができたのでした」
 こうして、沼倉吉兵衛さんは、日本で初めて、他の十字花か植物の花粉が混ざらないようにして、ハクサイのタネを取ることに成功した。そこで、宮城県農会でな、1916(大正5)年以後、清国の原種にまったく頼ることなしに、毎年、養種園内ですぐれたハクサイのタネをとることができるようになった。
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 愛知県でも成功  愛知県の野崎徳四郎さんも負けてはいられない。松島でのハクサイの採種が軌道に乗りかけた大正6年、同じ村のハクサイ採種業者に呼びかけて「愛知白菜採種組合」を組織した。そして同じ年、県庁・愛知試験場・安城農林学校が中心になって野崎さんたちがこれまで栽培してきたハクサイに「愛知ハクサイ」と正式に命名して、そのタネを大々的に売り出すことにした。その翌年、野島さんは松島ハクサイに対抗して、網で囲った農場の中でハクサイのタネを取ることにした。 近くには松島のような離島がなかったので、代わりに、タネをとるハクサイにチョウやハチが他の十字花科植物の花粉を運んでこないように、採種する農場を網で囲った。しかし最初の年は失敗。網のためハクサイに当たる日光が不足してよく育たなかった。そこで、野崎さんは翌大正8年、今度は天井だけガラス張り、周囲を金網張りにしてハクサイの採種をするよう改良した。こうして野崎徳四郎さんたちの「愛知ハクサイ」のタネも、「仙台ハクサイ」と共に、日本の農家のハクサイ栽培を活発化させることに役立つようになった。
 ところで、沼倉さんと同じ宮城県農事試験場に勤めていた人に、渡辺頴二さんという人がいた。この人は大正11年に結婚すると試験場をやめて、育種業者として自立し、新しい白菜の品種を育てることに成功した。私立の渡辺採種場は、最初、馬放島の北東にあるもっと広い桂島に設けられ、その採種場はさらに石浜・宝島・月浜・里浜と、松島湾内の島々の中に発展していった。
 1922(大正11)年の農商務省の調べによると、そのころまだ、清国の芝罘から大量のハクサイのタネが輸入されている、とのことだが、これまで見てきた人びとの努力の結果、清国産のタネは、だんだんと日本で品種改良されたハクサイのタネにとって代えられるようになっていったのだった。
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<今週のポイント>  今週は、米の品種改良と白菜の普及について取り扱った。どちらも日本の食事に欠かせない食材だ。
 米については、「米は日本の文化だ」と言う人もいるほどだが、現在の品種は戦後育成されたものばかり。では、昔の品種改良はどうだったのだろう。 そして、昔の品種は今では栽培されていない。その品種のことをどれだけ知っているだろうか。そのようなことから取り扱ってみた。 実際、米作り農家の人々、「米は日本の文化だ」と言う人、どれほど知っているだろうか。日本の守るべき文化、だとしてもほんの少し前の品種はもう忘れ去られているに違いない。 それほど、米作りは消費者の好みに合わせて変化してきている。「食育」と言うと、生産者が消費者を教育するときに使うようだが、必要なのは「生産者教育」なのではないか。 消費者がどのような好みを持っているのか、それを知ることのほうが大切だと思う。品種改良の歴史は、生産者が消費者に合わせてきた歴史、だと思う。
 白菜について言えば、朝日新聞の天声人語にあるように、日本人の食事にピッタリ適した食材と言える。その食材が中国から来たもので、普及したのは昭和になってからだった、ということは案外知られていないだろうと思う。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『図説・米の品種』改訂版         櫛渕欽也・山本隆一 日本穀物検定協会 1995. 9.20
『白菜のなぞ』                   板倉聖宣 仮説社      1994.11. 1
( 2007年11月26日 TANAKA1942b )
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(12)生産者は「消費者は王様」を理解し
消費者はゆたかな食生活を楽しみましょう
<地産地消の意味> 私たち日本人が口にする食材、その多くは世界各地から集めてきたものだった。これは日本人だけでなく、世界中の人々が、生まれ故郷とは違った土地を原産地にもつ食材を食している。 先進国のグルメ、という点からだけでなく、最貧国の食材であるキャッサバも、元をただせば南アメリカをルーツとする。食材のグローバル化によって先進国ではゆたかな食生活を愉しみ、 最貧国では、最低の主食を確保している。十分ではないが、それでも食材のグローバル化がなければ、もっと悲惨な状況になっていただろうことは想像に難くない。
 「農作物のルーツを探る」の副題は「ゆたかな食生活は反地産地消から」としている。その「地産地消」とはどういうことか、「地産地消という保護貿易政策」で書いた文章をここで引用することにしよう。
……はじめに…… 農水省が、地産地消を推進しようとしている。食料の輸出を推進しようという政策と反対の政策を採用し始めた。 日本が「地産地消」を推進して、諸外国もそれを見習って「地産地消」を推進したら、日本からの食料輸出は拒否される。「わが国も地産地消を進める。従って日本からの食料輸出は拒否する」そして、「食料輸出国は、他国の地産地消政策を阻害している。 直ちに食料輸出を制限すべきだ。そうすることによって、他国の地産地消を支援することになる」という主張が聞かれることになるだろう。
 農水省のホーム・ページでは次のように説明している。www.maff.go.jp/www/press/cont2/20050810press_5b.pdf
 地産地消は、もともと、地域で生産されたものをその地域で消費することを意味する言葉である。新たな基本計画では、単に地域で生産するという側面も加え、「地域の消費者ニーズに即応した農業生産と、生産された農産物・食品を購入する機会を提供するとともに、地域の農業と関連産業の活性化を図る」と位置付けている。
 さらに次のように説明は進んでいく。
 しかしながら、1億2千万人を超える国民に食料を安定供給する必要があるとの観点に立てば、その、すべてを地場産の農産物により供給することは困難である。したがって、地産地消の活動は地場の消費者・実需者ニーズに応えるものとして、地場の生産技術条件や市場条件に見合った可能な方法で経験を積み重ねながら段階的に広げていくことが重要と考えられる。
 その場合、地産地消の概念は、必ずしも狭い地域に限定する必要はない。できるだけ近くのものを優先するのが原則であるが、周年販売や品目・品質上の品揃えを考えると、産地の地域的な範囲は柔軟な拡がりをもって考えた方がよい。最終的には我が国の全域すなわち国産農産物の全体までも射程に置くことの出来る概念だと考えられる。
 したがって、国産品を優先的に消費することを通じて、食料自給率の向上にもつながっていく考えである。このような視点に立って、行政においては、強いニーズがある地産地消を広げていくため、特に、取組が円滑に進められるようにするため、支援を行うべきである。
 (農水省のホーム・ページから)
 「地産地消」とは「国産品愛用運動」に他ならないことがハッキリした。このホーム・ページでは、この「国産愛用運動」が実はかつて大日本帝国がアジア侵略の道を歩み始めたことと大きな関係があるということを説明しようと思う。 かつて「ABCDライン(アメリカ=America・イギリス=Britain・中国=China・オランダ=Dutch)」と呼ばれた日本への経済封鎖と「国産愛用運動」「地産地消」とが、経済学的観点からは大変似ている、ということを書いていくことにした。「身近な所で栽培された農産物を食べるようにしよう」という素朴な運動が「ABCDなどの経済封鎖と同様な経済的影響がある」と言うと「そんな大袈裟な」と言いたくなるかも知れない。 しかし、美食評論家が言うのは、単に趣味・嗜好・主義の問題であってあってどうでもいいことだが、農水省が推進するとなるとこれは国家政策となるので無視するわけにはいかない。
 @「日本株式会社」との表現とはまるで違った、比較的政府の干渉の少ない自由経済であり、A戦前に比べ世界全体が自由貿易であったために、戦後の日本が、同じ戦災を被ったヨーロッパ諸国=フランス、ドイツ、イギリスなどが驚くほどの経済復興をなしとげたのは間違いない。これに関しては <官に逆らった経営者たち><戦後復興政策 ヨーロッパ 西も東も社会主義>を参照のこと。この2つの「経済的自由」とは反対の「地産地消」が経済にどのような影響を与えるのか?それをこのシリーズで書いていこうと思う。 いつもながら、右へ左へのダッチロールを繰り返しながらの進行になると思いますが、最後までお付き合いのほど、よろしくお願い致します。
<選択は消費者に任せるべきだ>  「消費者は王様」「お客さまは神さま」これが市場経済の特徴だ。この消費者・お客さまに気に入られるにはどうしたら良いか?サプライサイドは常に考え、工夫している。 その工夫によって生産活動が進化し、経済が成長する。時には我が儘な、専制君主のような消費者、けれどもそれに応える生産者が結局は勝ち組になっていく。
 地域で生産されたものをその地域で消費することが良い、と考えるなら、そのような食生活をすれば良い。あるいは、たとえ遠い地方で栽培されたものでも、美味しそうだから食べてみたい、と思えばそのようにすれば良い。 大切なことは、消費者が選択の自由を行使できることだ。国の政策としては、消費者がどちらも選べるような制度にしておくのが良い。 「地産地消」のスローガンで「国産品愛用運動」を推進するのは、消費者利益に反する。これまで見てきたように、食生活の歴史は「反地産地消」であった。 これからも そうであることが自然だし、消費者の利益になる。
<王様である消費者が生産を決める=需要が生産を決める>  セイの法則というのがあって、これは「供給はそれ自身の需要を創造する」と要約される経済学の法則だ。これは「消費量は生産量に影響される」と言い替えられる。 これに対してジョン・メイナード・ケインズによる有効需要の原理がある。これは「消費量は総需要に影響される」と表現される。
 農業の分野では、「セイの法則」の発想が生きていて、食料自給率が低いので、大規模農業にして供給を増大させよう、との発想だ。 そして、そうして生産された農作物を、「食育」で消費者を教育し国産品を愛用してもらおう、と関係者は考える。
 消費者のコメ離れは「食育」で日本食愛好者を増やそうと考える。こうした動きに農水省は逆らわない。消費者よりも生産者・農業・「コメを守れ」文化人の方が、役人にとっては怖いようだ。
 食料自給率向上はムリな目標で、それを分かっていながら農水省のお役人さんは抵抗しない。消費者中心の行政を行えば、かつての「日本消費者連盟」の竹内直一氏のように農水省に居られなくなってしまう。 自分の担当中に大きな動きがなければ、平穏無事に他の部署に異動すれば良い。このように考えると農水省に期待するのはやめた方が良さそうだ。
<大阪万博から「ごちそういっぱいの国」になった>  戦後、日本経済が成長し、人々の生活がゆたかになり、食生活もそれまでと違ったものになっていった。 コメ中心の食生活から、肉などの蛋白質が多くなっていった。日本食がヨーロッパ的になっていったとも言えよう。そうした傾向は、必ずしも一本調子で変化していったのではなかった。 「練習高原」という言葉がある。坂道を上るのではなく、階段を上るように、それも踊り場が広い階段のように、しばらくは平地で、急に上り始める。 よたかさも、しばらくは変化がなく、何かのきっかけで大きく変化する。その変化のきっかけは、東京オリンピックであったり、大阪万博であったりした。 2007年11月9日、朝日新聞の「ニッポン人・脈・記」に「万博の味 コックの青春」というシリーズが掲載されていた。この中で、現在日本で活躍する代表的なコックが、大阪万博をきかけに大きく成長していった記事が掲載されていた。 ここから、<「外食元年」世界に出会った>の一部を引用しよう。
 家庭の食卓にお皿がふえて「ごちそういっぱいの国」になる扉は、70年の大阪万博で開いた。 半年で6400万人を集めたイベントは、各国が自慢料理を日本人にふるまう「食の祭典」でもあった。
 会場ではたらく若いコックたちの中に、石鍋裕(いしなべゆたか)(59)もいた。いまや「フレンチの哲人」として知られる彼は、このとき22歳。(中略)
 石鍋にとって、万博は世界の空気を吸うチャンスだった。イタリア館の皿洗いにもぐりこんだ。次にブルガリア館の給仕係。まかないに出る素朴なトマトのパスタ。 初めて口にした甘くないヨーグルト。すべてに触発される。
 チーズを溶かしてジャガイモにつけるスイス料理のラクレット。くるくる回るロースターでつくる鶏の丸焼き。料理の見せ方もおもしろかった。
 各国パビリオンのスタッフと親しくなり、空き時間に調理場を手伝った。夜はいっしょに遊び、会場に戻ってベンチで2〜3時間の仮眠。 明るくなると起きて、また仕事。「楽しくて楽しくて」
 万博の翌年、石鍋はパリに旅立った。そのころフランスの料理界には、素材の持ち味を生かす「ヌーベル・キュイジーヌ」と呼ばれる新しい風が吹いていた。 石鍋は「マキシム」などの一流店で5年間もまれ、その現場の技術とセンスを身につけ帰国した。
 82年、東京・西麻布に、多くの日本人に親しめるフランス料理を、と「クイーン・アリス」1号店をひらいた。現在は、イタリアン、ベトナム料理など様々なタイプの店をつくり、大阪、愛知、香川などにも展開する。
 「どこへいっても物おじしない度胸を、僕は万博にもらった」(中略)
 当時の新聞や雑誌には、万博の料理に「値段ベラボウ、味まあまあ」と辛口批評もあった。日本人に外食が身近になる「外食元年」ともいわれる。 そして、コックたちの青春があった。
(「朝日新聞」2007.11.9 1面から)
 グローバリゼーションにより社会は進化する。グローバリゼーションにより食生活も進化する。 人々はその進化に素直に順応し、ゆたかな食生活を楽しむ。ごく一部の臍曲がりと既得権者は「格差助長」を理由に批判する。 そうした批判がありながらも確実に社会・食生活はゆたかな方向へ向かって進化をする。
<三つ星が8つも、全部で星が150>  「ミシュランガイド」の東京版(22日発売)の内容が11月19日発表された。最高の料理と評価される「三つ星」には、すし屋2店を含む計8店が選ばれた。
 三つ星以外で東京版に掲載されたレストランの内訳は▽二つ星25店▽一つ星117店。三つ星を含む計150店は都市別で世界最多。 また、三つ星8店はパリの10店に次いで多く、これでミシュランガイドの三つ星レストランは世界で68店になった。
 日本の食生活がゆたかになったことがこれで世界的に認められることになった。それぞれの星の店を列挙してみよう。
★三つ星に選ばれた店★
かんだ(和食)、 カンテサンス(現代風フランス料理)、 小十(こじゅう、和食)、 ジョエル・ロブション(現代風フランス料理)、  すきやばし次郎(すし)、 鮨水谷(すし)、 濱田家(和食)、 ロオジエ(フランス料理) 
★二つ星に選ばれた店★
石かわ(日本料理)、 一文字(日本料理)、 臼杵ふぐ山田屋(日本料理 ふぐ)、 えさき(日本料理)、 エメ・ヴィベール(フランス料理)、  菊の井(日本料理)、 キュイジーヌ〔s〕ミッシェル トロワグロ(現代風フランス料理)、 湖月(日本料理)、  さわ田(日本料理 すし)、 サンパウ(現代風スペイン料理)、 鮨 かねさか(日本料理 すし)、 醍醐(日本料理)、  拓(日本料理 すし)、 つきじ 植むら(日本料理)、 つきじ やまもと(日本料理 ふぐ)、 トゥエンティ ワン(フランス料理)、  ピエール・ガニェール(現代風フランス料理)、 菱沼(日本料理)、 福田家(日本料理)、 ラトリエ ドゥ ジョエル・ロブション(現代風フランス料理)、  リストランテASO(現代風イタリア料理)、 龍吟(現代風日本料理)、 ル・マンジュ・トゥー(現代風フランス料理)、  ●(がんだれの中に萬)家菜(中華料理)、 和幸(日本料理) 
★一つ星に選ばれた店★
あさぎ(日本料理 天ぷら)、 味満ん(日本料理 ふぐ)、 阿部(日本料理)、 あら井(日本料理)、 あら(漢字は鹿三つ)皮(ステーキハウス)、  アルジェントASO(現代風イタリア料理)、 アルバス(フランス料理)、 アロマフレスカ(現代風イタリア料理)、 うを徳(日本料理)、  うかい亭(日本料理 鉄板焼き)、 うち山(日本料理)、 海味(日本料理 すし)、 恵比寿(日本料理 鉄板焼き)、  大野(日本料理)、 オオハラ・エ・シーアイイー(フランス料理)、 小笠原伯爵邸(現代風スペイン料理)、 翁(日本料理 そば会席)、  オーグードゥジュール ヌーヴェルエール(フランス料理)、 おざき(日本料理)、 おはらス(フランス料理)、 ガストロノミー フランセーズ タテルヨシノ(現代風フランス料理)、  きくみ(日本料理)、 キャーヴ ひらまつ(フランス料理)、 久兵衛(日本料理 すし)、 銀座寿司幸本店(日本料理 すし)、  銀座ラ・トゥール(フランス料理)、 クーカーニョ(現代風フランス料理)、 クチーナ・ヒラタ(イタリア料理)、  クレッセント(フランス料理)、 けやき坂(日本料理 鉄板焼き)、 コジト(フランス料理)、 古拙(日本料理 そば会席)、  小室(日本料理)、 近藤(日本料理 天ぷら)、 桜ケ丘(日本料理)、 櫻川(日本料理)、 笹田(日本料理)、 さざんか(日本料理 鉄板焼き)、  ザ・ジョージアン・クラブ(フランス料理)、 三亀(日本料理)、 シェ・イノ(フランス料理)、 シェ トモ(現代風フランス料理)、  シェ・松尾(フランス料理)、 シグネチャー(現代風フランス料理)、 重よし(日本料理)、 シュマン(現代風フランス料理)、  招福楼(日本料理)、 真(日本料理 すし)、 すがわら(日本料理)、 すし おおの(日本料理 すし)、 鮨 さいとう(日本料理 すし)、  すし匠 齋藤(日本料理 すし)、 鮨 なかむら(日本料理 すし)、 すずき(日本料理)、 赤芳亭(日本料理)、  竹やぶ(日本料理 そば会席)、 たつむら(日本料理)、 タテル ヨシノ(現代風フランス料理)、 田はら(日本料理)、  竹葉亭(日本料理 うなぎ)、 チャイナブルー(中華料理)、 中国飯店 富麗華(中華料理)、 トゥールダルジャン(フランス料理)、  とうふ家うかい(日本料理)、 と村(日本料理)、 とよだ(日本料理)、 ドン・ナチュール(ステーキハウス)、 中嶋(日本料理)、  なだ万 山茶花荘(日本料理)、 なだ万 ホテルニューオータニ店(日本料理)、 ナルカミ(フランス料理)、 花山椒(日本料理)、  青空(日本料理 すし)、 万歴龍呼堂(日本料理)、 ピアット スズキ(イタリア料理)、 樋口(日本料理)、 ひのきざか(日本料理)、  ひらまつ(フランス料理)、 ひろ作(日本料理)、 深町(日本料理 天ぷら)、 福樹(日本料理)、 ブノワ(現代風フランス料理)、  ベージュ(現代風フランス料理)、 まき村(日本料理)、 未能一(日本料理)、 ミラヴィル(フランス料理)、 六雁(現代風日本料理)、  室井(日本料理)、 メゾン・ド・ウメモト 上海(中華料理)、 メゾン ポール ボキューズ(フランス料理)、 モナリザ(フランス料理)、  桃の木(中華料理)、 森本 XEX(日本料理 鉄板焼き)、 山さき(日本料理)、 やま祢(日本料理 ふぐ)、 有季銚(日本料理)、  ゆう田(日本料理 すし)、 幸村(日本料理)、 よこ田(日本料理 天ぷら)、 与太呂(日本料理 天ぷら)、 よねむら(現代風日本料理)、  よねやま(日本料理)、 ラ・ターブル・ドゥ・ジョエル・ロブション(現代風フランス料理)、 ラ・トゥーエル(フランス料理)、  ラノー・ドール(フランス料理)、 ラ プリムラ(現代風イタリア料理)、 ラ・ボンバンス(現代風日本料理)、 ラリアンス(現代風フランス料理)、  ランベリー(現代風フランス料理)、 リストランテ濱崎(現代風イタリア料理)、 リストランテ ホンダ(現代風イタリア料理)、  ル・シズイエム・サンス(現代風フランス料理)、 ル・ジュー・ドゥ・ラシエット(現代風フランス料理)、 レ・クレアシヨン・ド・ナリサワ(現代風フランス料理)、  レザンファン ギャテ(フランス料理)、 レ セゾン(フランス料理)、 分とく山(日本料理) 
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<キーワードは「ゆたかな社会」>  人々の生活で食材がゆたかになって、食生活だけでなく生活全体がゆたかになる。そして、経済的にゆたかになると、「地産地消」ではなく、遠い地域からでも美味しい食材を求めて、多彩な食材が食卓を彩ることになる。 経済的なゆたかさと、食生活のゆたかさが相互作用的に進化していく。そうした進化に嫉妬する人が理由をつけて、地産地消を主張する。 けれども人々のゆたかさを求める動きは止まらない。経済的ゆたかさを求めて革新が進むように、反地産地消の動きによって、ゆたかな食材が食卓を彩り、食生活もゆたかになっていく。
 「農作物のルーツを探る」と、こうした「ゆたかさ」と経済的なゆたかさとの関連に気付くことになる。
 「反地産地消」の動きから、食材のグローバリゼーションが始まり、人々はゆたかな食生活を楽しむことになった。このシリーズ、ごく自然な結論に達したようだ。 最後までお付き合いのほど、感謝いたします。
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<主な参考文献・引用文献>
『食と農の戦後史』                    岸康彦 日本経済新聞社   1996.11.18
『食の戦後史』                      中川博 明石書店      1995.10.31
『京の伝統野菜と旬野菜』               高嶋四郎編 トンボ出版     2003. 6.10
『江戸の食生活』                    原田信男 岩波書店      2003.11.27 
『江戸の旅文化』                    神崎宣武 岩波新書      2004. 3.19
『江戸のファーストフード』              大久保洋子 講談社       1998. 1.10
『日本の食文化』                    平野雅章 中公文庫      1991. 1.10 
『野菜』在来種の系譜                   青葉高 法政大学出版局   1981. 4.10
『青葉高著作選』U 野菜の日本史             青葉高 八坂書房      2000. 7.30 
『食生活の歴史』                    瀬川清子 講談社学術文庫   2001.10.10 
『日本史再発見』                    板倉聖宣 朝日新聞社     1993. 6
『世界を変えた野菜読本』    シルヴィア・ジョンソン 金原瑞人 晶文社       1999.10.10
『世界を制覇した植物たち』      大山莞爾・天知輝夫・坂崎潮 学会出版センター  1997. 5.10
『歴史を変えた種』  ヘンリー・ボブハウス 阿部三樹夫・森仁史訳 パーソナルメディア 1987.12. 5
『じゃがいもの旅の物語』                杉田房子 人間社       1996.11. 7
『トマトが野菜になった日」               橘みのり 草思社       1999.12.25
『世界を変えた作物』              藤巻宏・鵜飼保雄 培風館       1985. 4.30
『自殺する種子』遺伝資源は誰のもの?          河野和男 新思索社      2001.12.30
『イネの文明』人類はいつ種を手にしたか        佐藤洋一郎 PHP研究所    2003. 8. 6
『稲』品種改良の系譜                    菅洋 法政大学出版局   1998. 5. 1
『稲作の起源』イネ学から考古学への挑戦          池橋宏 講談社       2005.12.10
『新データブック世界の米』1960年代から98年まで 小田紘一郎 農山漁村文化協会  1999. 3.10
『緑の革命の稲・水・農村』               増田萬孝 農林統計協会    1995. 1.10
『イネの育種学』                    蓬原雄三 東京大学出版会   1990. 6.20 
日本史小百科『農村』                大石慎三郎編 近藤出版社     1980. 1.10
『近世稲作技術史』                    嵐嘉一 農産漁村文化協会  1975.11.20
『古代からのメッセージ 赤米のねがい』         安本義正 近代文芸社     1994. 3.10
『稲作文化』照葉樹林文化の展開       上山春平・渡部忠世編 中央新書      1985. 1.25
『栽培植物と農耕の起源』                中尾佐助 岩波新書      1966. 1.25 
『中尾佐助著作集』第1巻 農耕の起源と栽培植物     中尾佐助 北海道大学図書刊行会2004.12.25 
『現代文明ふたつの源流』                中尾佐助 朝日新聞社     1978. 5.20
『稲の日本史』上       柳田国男・安藤広太郎・盛永俊太郎他 筑摩叢書      1969. 3.30
『図説・米の品種』改訂版           櫛渕欽也・山本隆一 日本穀物検定協会  1995. 9.20
『白菜のなぞ』                     板倉聖宣 仮説社       1994.11. 1
『朝日新聞』2007.11.9 朝刊                   朝日新聞社     2007.11. 9
( 2007年12月3日 TANAKA1942b )