趣味の経済学
官に逆らった経営者たち

西山弥太郎・井深大・本田宗一郎・小倉昌男

アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します     If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain――Winston Churchill  30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない      日曜エコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    好奇心と遊び心いっぱいの TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します     If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain――Winston Churchill     30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない      アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します

官に逆らった経営者たち 「日本株式会社」論に異論
 =1=「川鉄千葉工場にペンペン草は生えているか?」 ( 2002年4月 8日 )
 =2=「井深さんは補聴器を作るつもりですか?」 ( 2002年4月22日 )
 =3=「ホンダは二輪車だけ作っていればいい」 ( 2002年5月 6日 )
 =4=「クロネコヤマトに郵便は扱わせない」 ( 2002年5月20日 )

FX、金融商品取引法に基づく合法のみ行為
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趣味の経済学 アマチュアエコノミストのすすめ Index 
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官に逆らった経営者たち
=4=「クロネコヤマトに郵便は扱わせない」(前)
<創業期> とても事業として成り立つとは思えなかった宅急便、無謀ともいえた郵便小包への挑戦が、挫折することなく伸張している。ヤマト運輸の宅急便の取扱個数は1998(平成10)年度の7億7926万個と、郵便小包の3億1644万個の2.46倍。同年度の宅配市場では、37%のシェアを占め、日本通運のペリカン便の17%、郵便小包の15%を大きく上回っている。
 宅急便は1976(昭和51)年2月にスタートした。
 それまで家庭から小荷物を送るには、郵便小包以外に方法はなかった。宅急便はそこに殴り込みをかけたのだった。初年度の実績は、郵便小包の1億7880万個に対しわずか170万個。ヤマト運輸の試みは、誰しも失敗するだろうと考えていた。けれども、1980年代初頭(昭和50年代半ば)に採算点を超え、宅急便は利益を計上した。それを見て、同業30数社が一気にこの個人宅配市場に参入してきた。「クロネコヤマトの宅急便」のコマーシャルソングが全国の子供たちの口に上るようになった。(「小倉昌男 経営学」まえがき から)

 今週と来週はこのクロネコヤマトの宅急便の「官に逆らった経営者」=ヤマト運輸社長・小倉昌男の戦い振りを取り上げることにした。先ずは会社の生い立ちから。
 ヤマト運輸の前身「大和運輸」は1919(大正8)年11月、東京市京橋区木挽町(現在の銀座3丁目)において、資本金10万円、代表者小倉康臣、従業員15名、トラック4台をもって設立された。社史によれば、同社の設立は、明治末期に設立されたわが国最初のトラック事業者「帝国運輸」が発足後4年で解散消滅した後では、初めてのものであるという。つまりわが国で2番目に古いトラック事業者であるとともに、現在も営業を続けている事業者のなかでは最古の存在ということになる。
 現在最大の事業規模を誇る日本通運も、1919年(大和運輸と同年)に設立された「東京市街自動車」(トラック輸送を条件に許可されたバス事業者)の貨物部の一部として、牛馬車を用いて鉄道貨物の取扱業を行っていた。ちなみに、通運事業とは、鉄道輸送への貨物の集配を行う事業。なお、大和運輸は1982(昭和57)年に小倉昌男のもとで社名が「ヤマト運輸」と変更される。ここでは便宜的に小倉昌男の登場までを「大和運輸」、それ以降を「ヤマト運輸」と記述する。 
 戦前の大和運輸はいくつかの節目を経て成長した。
 その第一は、1923(大正12)年4月の三越呉服店(現三越百貨店)との市内配送契約だった。この契約は、三越が顧客向けに自社で行っていた配送を大和運輸へ専属委託するとしたものであり(その後他社も参入)、創業段階の大和運輸に経営の安定をもたらした。三越との配送契約は1979(昭和54)年12月にヤマト運輸側から契約を解消するまで67年間にわたって続けられた。百貨店から消費者への配送が、その後の消費者物流事業の技術的下地を築いたことは想像に難くない。
 第二の節目は、「大和便」の開始だった。自動車技術の進展によって車両の積載容量が増加すれば、それまでとは違った輸送形態が可能になる。トラックでいえば、容量の少ない車を貸し切りとして荷主の輸送に応じる段階から、複数荷主から貨物を引受、それらを積み合わせて同一方面に効率よく輸送に応じる段階に入って行ったのだった。1929(昭和4)年6月の東京ー横浜間の本格的な定期便を開始する(わが国最初の路線事業)。これを皮切りに、1935年末までに、北は前橋、宇都宮、東は千葉、水戸、西は平塚に及ぶネットワークを完成させている。この路線の運送事業に用いられたのが「大和便」の名称であり、ある意味では宅急便の祖先にあたるものだった。
<戦後期>  大和運輸は戦後、従業員290名、車両126台で営業を開始した。
 終戦後の大和運輸は、戦前から行っていた百貨店の配送契約と大和便による路線トラック事業を軸として発展した。このうち、百貨店の配送契約は、三越との契約を再開したのをはじめ、白木屋、松屋、伊勢丹、高島屋などと取引を広げた。さらに、昭和20年代から30年代にかけては、1954(昭和29)年に東京に進出した大丸百貨店をはじめ、経済成長とともに本格化した百貨店の新店舗拡大にあわせてマーケットが広がった。
 大和運輸にとってこの時期の百貨店配送は2つの意味を持った。
 第一は、戦前から培ったノウハウを武器にこの分野で圧倒的優位を誇り、同社の安定的な収益源となったこと。社史においても、路線トラック事業が昭和30年代末の不況を中心に悩むなかで、同社の経営を支えたのは百貨店配送であると指摘している。
 百貨店配送の第二の意味は、それによって小口貨物を家庭に配送する技術が養われたことだった。トラック業界ではかつて、百貨店から出る貨物を「ゴミ」と称したことがあった。企業物流に比べ、ゴミのように小さく、利益を上げずらい性格を言い表している。日本経済において重厚長大型産業が重視されていた時点では、この表現は当たっていたかもしれない。しかし「ゴミ」の輸送で利益をあげようとすれば、それに適した輸送システムを開発し、徹底した効率化を実現しなければならない。家庭に配送を行うためには、独自の配送地図や経路選択を開発しなければならない。このような内部技術は、貼付式の輸送伝票のように宅急便の基礎として直接活かされるものもあれば、一般家庭への知名度を得る、といった間接的に活かされたものもある。
 昭和40年代、貨物輸送は鉄道輸送からトラック輸送へ移行した。日本の貨物輸送における鉄道輸送のシェアは、1965(昭和40)年の30.5%から1975(昭和50)年の13.1%に低下し、トラック輸送は自家用と営業用を合わせて26.1%から36.0%へと急進した。大和運輸もこの時期、大和便のネットワーク拡大に努めたが、この時期までに日本最大の物流事業者に成長した日本通運や西濃運輸、さらに大手私鉄系の資本に支えられた新規事業者に後れをとった。結果的に事業は低迷し、新たな事業へ向けての経営革新が求められていた。
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<小口消費者物流=「宅急便」への挑戦> 個人宅配市場にターゲットを絞る。小倉昌男のこの案には、役員全員が反対した。
 だがヤマト運輸にはもう後がない。労働組合の代表の参加も仰いでチームを作り、利用者=家庭の主婦の立場で考え、商品化に取り組んだ。コストをかけても、質の高いサービスを提供すれば、利用者は必ず増える。「サービスが先、利益は後」を合い言葉に、宅急便事業が発進した。
 成功の大きなカギを握っていたのが、第一線のドライバーたちだった。荷物を運んで荷主に直接届ける彼らが、サッカーのフォワードのように現場の中心選手として働けるかどうか。旧来のピラミッド型組織を崩し、社員全員で情報を共有してやる気を引き出す「全員経営」を目指した。同時に、宅急便の全国ネットワーク構築や情報システムの整備、集配車両の開発などを通し、徹底した業態化を推し進めた。温度管理を取り入れたクール宅急便、スキー、ゴルフ宅急便などサービス内容も拡大し、宅急便は飛躍的な伸びを見せた。
 ところが思わぬ壁にぶつかった。時代遅れの規制行政がネットワークの拡大を阻んだ。小倉昌男は運輸大臣を相手に訴訟を起こしたのだった──。
 宅急便の発展段階で幾度となく、規制行政が発展の壁となった。そしてその規制行政との戦いがこの「官に逆らった経営者たち」のテーマなのだが、もう少し宅急便発足の状況を振り返ってみよう。
 新しい市場──個人から個人へ送られる小荷物を対象とし、不特定多数の人に利用してもらう個人宅配事業は、広く国民にメリットがある反面、採算が不確かであるというデメリットがあった。小倉昌男は新事業に対する社内の根回しを始めた。が、役員たちの反応は悲観的なものだった。
 百貨店配送は、日本橋や新宿のデパートから荷物が出るから集配の苦労はない。それに対して東京23区に散らばった市民に家庭から一個ずつ集荷するのは大変な苦労を要する。そんな仕事を始めれば赤字間違いない、というのが役員全員の意見だった。
 小倉昌男は社内の会議などあらゆる機会をとらえて新規事業の構想を説いて回ったが、はかばかしい反応が得られなかった。そんなとき、意外なところから声が上がった。社長がそんなにしつこく言うなら本気で考えてみようか──。そんなことを言い出したのは、なんと、労働組合の幹部たちだった。
 1975(昭和50)年8月、「宅急便開発要項」が役員会で承認される。同年9月1日ワーキンググループが編成される。これには労働組合の代表も参加する。作業は2ヶ月で結論を出した。
 準備も整い、1976(昭和51)年1月20日に関東支社に宅急便の組織と人事が発令された。そして1月23日、営業を開始した。初日の全体の出荷個数は、11個であった。東京23区、都下、関東6県の市部から始めた営業区域は態勢がととのった所から順次営業を開始していった。この結果、1979(昭和54)年度末(3月末日)の宅急便の取扱区域は、面積比で27.4%であったが、人口比では74.8%に達したのであった。
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<官僚組織との闘い> このシリーズ「官に逆らった経営者たち」としたが、ヤマト運輸・小倉昌男に関しては「官と闘った経営者」とのタイトルの方がよさそうだ。ではどのように闘ったのか?それを見ていこう。
路線免許での行政訴訟 1989(平成元)年12月までトラック運送業者は「道路運送法」で規制されていた。
(1)不特定多数の荷主の貨物を積み合わせて運ぶ路線トラックは旅客の乗り合いバスと同じように、利用する道路ごとに路線免許が必要とされた。たとえば東京から名古屋に貨物を運ぶのに、国道1号を通ろうが、国道246号を通ろうが、東名高速道路を通ろうが問題ないはずなのに、いちいち道路ごとの免許が必要だというおかしな規制が存在していた。
(2)貸し切りトラックは、道路ではなく、都道府県の行政単位に免許が与えられた。従って、東京都で免許を受けていても、神奈川県で受けていないと、東京のお客の荷物を、神奈川のお客に届ける事が出来ない。
 ヤマト運輸は1981(昭和56)年11月に、仙台ー青森間の路線免許延長の申請を提出した。しかし、青森県の同業者が反対運動をしたために、申請書は棚ざらしになってしまった。申請後4年経過した1985(昭和60)年12月に、行政不服審査法に基づき運輸大臣に不作為の異議申し立てをした。結果ははじめからわかっていた。 勿論違法ではない、というものであった。しかし、この手続きをとらないと訴訟が起こせないから、その順序のためであった。
 1986(昭和61)年8月28日、運輸大臣を相手取り「不作為の違法確認の訴え」を起こした。監督官庁を相手に行政訴訟に打って出た。官に闘いを挑んだのだった。路線延長の申請を5年も放っておいた理由など、裁判所で説明出来るわけがない、とふんだわけだ。運輸省は慌てて、公聴会を同年10月23日に開き、12月2日には免許を付与した。申請から免許取得まで実に5年、行政訴訟からは4ヶ月足らず、のことだった。
 同じことが九州でも起きた。福岡から熊本を経由して鹿児島に至る国道3号線の免許を申請したのが、1980(昭和55)年12月15日、東北路線に関する行政訴訟と平行して、九州路線も行政訴訟によって闘う姿勢を見せたため、運輸省は1986(昭和61)年12月に公聴会を開催し、翌1987(昭和62)年1月に免許を付与した。こちらは、申請から免許取得まで6年かかった。こうした運輸省を小倉昌男は次のように批判する。
 運輸省は、商業貨物と宅配荷物の市場の違いなど全くわかっていなかった。「市場が違うから商業貨物を運んでいる既存業者とは一切競合しない」、といくら説明しても、まったく理解できてない様子だった。ヤマト運輸は宅急便の全国展開に社運を賭けていた。それなのに、「既存業者の反対を抑えてくれればいつでも免許をやる」、とうそぶいた運輸官僚のことを思い出すと、未だ怒りがおさまらない。
 ヤマト運輸は、監督官庁に楯突いてよく平気でしたね、と言う人がいる。別に楯突いた気持ちはない。正しいと思うことをしただけである。あえて言うならば、運輸省がヤマト運輸のやることに楯突いたのである。不当な処置を受けたら裁判所に申し出て是正を求めるのは当然で、変わったことをした意識はまったくない。
 幸いヤマト運輸はつぶれずにそんだ。しかし役人のせいで、宅急便の全国展開が少なくとも5年は遅れている。規制行政がすでに時代遅れになっていることすら認識できない運輸省役人の頭の悪さにはあきれるばかりであったが、何よりも申請事案を5年も6年も放っておいて心の痛まないことのほうが許せなかった。 与えられた仕事に最善を尽くすのが職業倫理ではないか。倫理観のひとかけらもない運輸省などない方がいいのである。(「小倉昌男 経営学」 から)

 1989(平成元)年9月には、北海道一円にわたる5路線、延長1,260キロの路線免許を取得する。12月には伊豆大島、奄美大島にもサービスを開始する。その結果1990(平成2)年3月末には、全国対比で面積比99.5%、人口比99.9%の地域にサービスを拡大することになった。
運賃改定で新聞広告を利用 宅急便の取扱荷物サイズは、Sサイズ(10キログラムまで)とMサイズ(20キログラムまで)の2本立てで、運賃はSサイズがMサイズより100円安く設定されていた。それを、Sサイズより一回り小さいサイズを作り、安い運賃を設定すれば、利用者も喜ぶし少量荷物の販売促進にもなると考えた。具体的には、2キログラムまでをPサイズとし、運賃はSサイズより200円安く設定し、同時にMサイズは100円値上げしてSサイズとMサイズとの差を200円にした。トータルとして増減なしにしようとした。
 しかし運輸省は「宅急便の独自の運賃設定は認められない」と言う。宅急便の運賃表を作って届けても受理しない。「では係官の机の上に置いて帰る」と言うと、「内容を見て良いと思うものだけ受理の印を押すが、その印のないものは運輸省が受理したことにはならない」と言う。そこで小倉昌男は新たな作戦に出る。
 そのころ運輸省所轄の公共運賃は2年おきに改定するのが習慣であった。宅急便の新運賃を設定しようとしていたころ、路線トラック運賃の改定の時期がきて、運輸省とトラック協会(個々の業者ではない)との話し合いがまとまった。そのやり方は、路線トラック全社から社印を押した運賃改定申請書の表紙だけをトラック協会に提出させ、トラック協会はあらかじめ用意した5種類の運賃表にバラバラにホッチキスで止め、運輸省に提出する。運輸省は査定と称し、談合済みの運賃表に一本化する。路線トラック会社はバラバラに申請した形になってはいるが、どんな内容の申請をしたのか自分ではわからない、という茶番であった。 この時、ヤマト運輸は運賃改定申請書の提出を拒否した。大手の申請が1社でも欠けると作業が進まないから、運輸省はトラック協会を通じて頭を下げてきた。そこで、宅急便の独自運賃の申請を認めるなら路線トラックの申請書を提出する、という妥協案を出す。運輸省から承知したとの返答があり、路線運賃の申請書と宅急便運賃の申請書を両方とも提出した。しかし宅急便のほうは受理はしたものの、1年経っても一向に処理しない。そこで新たな作戦に出た。
 1983(昭和58)年3月、宅急便の運賃を3サイズに分けて改定する新運賃表の認可を申請した。その実施時期を6月1日として申請した。これは、運賃をいつ改定するかは事業者が決めるべきであって、運輸省が一方的に決めるべきではない、との考えからだった。そして5月17日の一般紙の朝刊に1頁3段の大きな広告を出した。それは「これまでより200円安いPサイズの発売と、その実施時期を6月1日にする」という内容だった。
 運輸省はヤマト運輸の申請を、審査しなかった。そこで5月31日の朝刊に同じ1頁3段の広告を出した。今度は「宅急便Pサイズの発売を延期いたします」の大見出しに続き、次のメッセージが読者の注目を引いた。「従来、宅急便はSサイズ(10Kgまで)と、Mサイズ(20Kgまで)の2タイプでしたがこの度、ご利用の皆様の便宜のために、Sサイズより200円安いPサイズ(2Kgまで)の運賃を設け、6月1日から取扱開始を予定していました。しかし、運輸省の認可が遅れているため発売を延期せざるをえなくなりました。宅急便ご利用の皆様には大変ご迷惑をおかけいたします。紙上をおかりして、おわび申しあげます。運輸省の認可が下り次第、すみやかに発売を開始いたします」
 これを見て運輸次官が激怒したと伝えられている。しかし世論は、すでに行政管理庁や第二臨調が宅急便の運賃のあり方について改善を勧告していたこともあり、運輸省の対応の遅さを批判する声が強かった。結局、運輸省は7月6日に認可したのだった。このように小倉昌男は役所の対応の遅さに対して、真正面から向かって行った。
──以下次週へ続く
( 2002年5月20日 TANAKA1942b )
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官に逆らった経営者たち
=4=「クロネコヤマトに郵便は扱わせない」(後)
<取次店は荷扱所なのか?>  宅急便がビジネスとして成立するかどうかをめぐって、小倉昌男が最も悩んだ点が、「個人の荷物をどう集荷するか?」だった。「電話一本で即集荷」は、たしかに戦略的な解決策ではあったが、1976年当時、電話は決して誰もが所有する代物ではなかった。学生など持っている方が珍しかった。ヤマトとしても、すべての荷主宅までただちに集荷に行けるほどの体力はなかった。
 荷主にとって出しやすく、ヤマトとしても集めやすい、そんな集荷方法として考え出されたのが、取次店制度だった。各街にある地元商店街に協力してもらおう、というのだった。これは、従来の路線事業における荷扱所(代理店営業)と違って、本業を別に持つ商店を対象とするところがミソだった。つまりサイドビジネスとして、空いた時間や店のスペースを利用してもらおうという制度だった。
 こうして燃料販売業者の目黒屋が取次店第一号になった。そして目黒屋の呼びかけで、目黒燃料組合員が取次店になっていった。
 このように、目黒燃料組合を起点として、宅急便が徐々に普及してきた1978年7月運輸省が「取次店は路線事業者の代理人である」とする一片の通達を発する。「宅急便取次店は路線事業者の荷扱所に相当するから、事業法に基づく許認可手続を行え」、というのであった。また、警察庁も、交通保安上支障があると思われる取次所については公安委員会による意見聴取事項とし、当局による実施調査を必要とする、と通知してきた。つまり、「交通に支障をきたすようなら認めないぞ」、というのだ。これは、「荷扱所は集配車が一時的に道路を占有する」と運輸省が都道府県公安委員会に言ったらしい。ヤマトでは「交差点以外の店なら許可してよい」とのお墨付きをもらう。
 宅急便など商売にならない、と高をくくっていたのが、商売になりだしたら一転して管理下に置こうとする。いかにも役所らしい対応だった。しかし軽車両運送事業届けをすることは取次店にとって決してマイナスではなかった。そこでただちに事業計画変更認可申請を開始。1978年7月31日の第一回申請で東京784点を申請したのを皮切りに、同年末日までに967店、翌1979年には1642店の申請をおこなう。そして、宅急便が損益分岐点を超える1980年以降は、爆発的に取次店が増えていく。宅急便取次が儲かる商売であると認知され始めたからだった。
 1980年代に入り、「我も我も」と宅急便取次店になる商店が増えてくると、さしもの運輸省も、取次店の営業実態が従来路線事業の荷扱所と異なることを認めざるを得なくなる。1985年12月、運輸省は取次店設置について大幅な規制緩和を行う。すなわち許可制から届出制に改め、路線外であっても集配圏の範囲内であれば設置届出を受理する旨、変更するのであった。
<投函サービスへの参入> 宅急便は届け先から受領印をもらう。それに対して郵便は、郵便受け・新聞受けに投函するだけ。郵便料金大幅値上げを契機にヤマト運輸は投函サービスを始めた。きっかけは1993年末、日経BP社からの打診だった。「来年から第3種郵便物料金が大幅に値上がりする。5割を超える値上げになるようだ。直販雑誌の多いわれわれとしては、これではとてもやっていけない。郵便よりも安い投函サービスを手がけてもらえないだろうか?」 
 郵便事業は赤字が累積し、1993年度で1002億円を超えていた。このため翌1994年1月に大幅値上げを決めていた。ハガキが41円から50円に、そして第3種郵便物は1月と4月の2度に及ぶ「改訂」で平均56%の値上げとなった。1993年から会長職に復帰した小倉昌男は決断する。「現状維持じゃだめだ。宅急便に続く柱となる事業を築こう」の合い言葉で新しい事業に取り組む事になる。
 事業は順調に伸びた。1997年、「クロネコメール」として全国展開することになる。規格は300グラムまでが160円、600グラムまでが210円の2サイズとなった(2000年から、1キログラムまで310円、を含む3サイズ。全国一律料金)。宅急便の伝票一貫システムに依らない物流、伝票のないという点で現場に戸惑いはあったものの、バーコードで表現される宅急便コードと郵便番号を併用する形で”情流”、物流ともに順調にスタートした。そして毎度のことながら、例によって運輸省が意地悪なことを言い出した。このサービスが宅急便とは異質な輸送サービスであることを認めず、「運送業であるのだから、引渡確認(受領印)が必要」「賠償制度を設けなさい」と言ってきた。この点に関しては、到着確認や賠償制度の導入で折り合いがついたものの、「全国一律料金はダメ」という点は長い間もめた。1990年に成立した「物流二法」(「貨物自動車運送事業法」および「貨物運送取扱事業法)によって運賃は届け出制に改められたが、運輸省の行政指導は執拗だった。
 運輸省の言い分は「貨物なんだから、運賃制度を遵守して距離ごとに価格を決めなければダメ」。しかし、宅急便同様の価格体系になっては、コスト計算も煩雑で荷主にとってメリットがなくなる。ヤマト運輸として引けなかった。顧客ニーズを背景に粘り強い交渉をした結果、ヤマト運輸に軍配があがるのは3年後のこと。郵政公社化=郵便事業への民間参入論(信書を除く)の高まりを受けて、2000年7月、民間運輸業者として初めて「全国一律運賃」の認可を受けることになる。
<クレジット・カードは信書なのか?> これまで見てきたのは「ヤマト運輸に逆らった官(運輸省)」という例だった。ところがここに来て郵政省という官もヤマト運輸に逆らってきた。それはクロネコ・メールでクレジット・カードを扱い始めた事に対して、郵政省が「クレジット・カードは信書にあたる。郵便法第5条に抵触する」と言ってきたことだった。クレジット会社と契約を結んだ利用者に、カード会社がカードそのものを送付する。それを書留郵便ではなく、クロネコ・メールを利用する。これが好評で売り上げも伸びてきたのだが、郵政省はクレジット・カードは信書にあたると主張する。この問題は両者譲らずいまだに決着をみていない。
郵便法
(郵便の国営)第2条
郵便は、国の行う事業であつて、総務大臣が、これを管理する。
(事業の独占)第5条
何人も、郵便の業務を業とし、又、国の行う郵便の業務に従事する場合を除いて、郵便の業務に従事してはならない。ただし、総務大臣が、法律の定めるところに従い、契約により総務省のため郵便の業務の一部を行わせることを妨げない。
2 何人も、他人の信書の送達を業としてはならない。2以上の人又は法人に雇用され、これらの人又は法人の信書の送達を継続して行う者は、他人の信書の送達を業とする者とみなす。
3 運送営業者、その代表者又はその代理人その他の従業者は、その運送方法により他人のために信書の送達をしてはならない。但し、貨物に添附する無封の添状又は送状は、この限りでない。
4 何人も、第2項の規定に違反して信書の送達を業とする者に信書の送達を委託し、又は前項に掲げる者に信書(同項但書に掲げるものを除く。)の送達を委託してはならない、
 クレジット・カードを信書として扱わない、または第5条を削除すればいいのだが、郵政族の力は強い。郵政事業への民間参入にポストの数を条件にしたり、「市場経済に逆らう政・官」は抵抗勢力の力を誇示する。
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<戦後西ヨーロッパ諸国の社会主義的経済政策> これまで見てきたように、戦後西ヨーロッパ諸国は社会主義的な経済政策を採ってきた。「暴力革命に依らない社会主義建設」を目指していた。これが支持されたのにはいくつかの要因があった。
 (1)欧米知識人のマルクス主義接近が顕著になる「赤い30年代」、ハロルド・ラスキを始めとするマス・インテリの影響を受けた人々が社会主義に対する甘い幻想を抱いていたこと。ソ連のネップ(新経済政策)が破綻に瀕していたにも関わらず、それを報道しなかった。そのために多くの人々が社会主義を理想社会と思い込んでいた。
 (2)スペイン市民戦争で共和国軍・国際旅団を支持した人々が共産党と衝突し、共産党と離れアナーキストに近づき、アナルコ・サンディカリズムに希望を託し、労働者による工場自主管理を理想の生産システムであるかのように勘違いした。この勘違いは現在でも生きていて、日本では、倒産したカメラ・メーカーや写真用品販売店で労働者による自主管理がマスコミを賑わした。
 (3)第2次大戦直後、フランスの実業家ジャン・モネがフランスとドイツが2度と戦争をしないために、欧州統一機構が必要と考え、その具体的な第1歩を提案する。それは独仏の国境沿いにあるアルザス・ロレーヌ地方などで産出される石炭や鉄鉱石の共同管理であった。そしてその思想はEUへと発展していく。
 (4)ドゴールはフランスの栄光をかけ、アメリカとは違った政治・経済政策をとった。その際コカコーラ・マクドナルド・ディズニーランドだけでなくアメリカの自由な市場経済システムさえ否定してしまった。「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」
 第2次大戦直後、ヨーロッパでいかに社会主義的な思想が支配していたか、それにはロンドン大学にあったハイエクがその著書「隷従への道=The Road to Serfdom」をイギリスで出版出来ず、シカゴ大学のフランク・ナイトの尽力により、同大学出版部から出版されたことに象徴される。それほどまでに、当時ヨーロッパではフォン・ミーゼスやハイエクは受け入れられなかった。 (このシリーズのためにいくつか本を読み、この時代に興味を持ったのですが、本題「官に逆らった経営者たち」から離れるのでいずれ「戦後西ヨーロッパ諸国の社会主義的経済政策」とでも題して書こうと思います。)
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<なぜ「日本株式会社」論なのか?> 戦後日本経済は驚異的な成長を遂げた。(1)戦時中の国家統制がなくなり、国家社会主義から普通の資本主義に近づいたこと。(2)パージにより若い経営者が誕生し、過去に捕らわれない大胆な経営を行ったこと。(3)戦争の被害を大きく受けた国の中では、最も政府の関与が少なかったこと。
 それにも関わらず「日本株式会社」論は生きている。マスコミは読者・視聴者を多く捉えれば、それで経営が成り立つ。週刊誌的な興味本位な見出しや内容は新聞・雑誌・テレビどれも程度の差はあっても、株式会社であるのだから当然のこと。その姿勢がなければ経営が成り立たないのだから、非難すべきことではない。エコノミストもプロであれば、それで生活費を稼いでいるのであれば、これも非難すべきことではない。それでも次の2点が気になる。 (1)戦後の日本経済を扱うのに、それ以前(戦前)との比較が少ない。日本以外(この場合ヨーロッパ)との比較がない。視野狭窄のようだ。(2)民の生き生きとした経営者より、厳しい規制を実施した官ばかりに目を向ける。良い面より悪い面を強調する自虐的な態度、それは歴史観のそれとも似た態度だ。子育てに例えるとこうなる。(1)徹底的に欠点を探し出し、愛の鞭を使ってでも直そうとする(すべての子供を単一目標に向け育てる)。(2)どんな小さな事でもいいから、長所を見つけ、褒めて褒めて褒めちぎって、長所を伸ばそうとする(先ず親が多様な価値観を認めること)。 自分が公平な第三者にどう見られているか、絶えずそれを気にすることだろう。
( 2002年5月27日 TANAKA1942b )
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シリーズ「官に逆らった経営者たち」  完

官に逆らった経営者たち
西山弥太郎・井深大・本田宗一郎・小倉昌男
西山弥太郎   http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/keieisha.html
井深大     http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/keieisha-2.html
本田宗一郎   http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/keieisha-3.html
小倉昌男    http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/keieisha-4.html
全部の目次   http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/