趣味の経済学
官に逆らった経営者たち

西山弥太郎・井深大・本田宗一郎・小倉昌男

アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します     If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain――Winston Churchill  30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない      日曜エコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    好奇心と遊び心いっぱいの TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します     If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain――Winston Churchill     30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない      アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します

官に逆らった経営者たち 「日本株式会社」論に異論
 =1=「川鉄千葉工場にペンペン草は生えているか?」 ( 2002年4月 8日 )
 =2=「井深さんは補聴器を作るつもりですか?」 ( 2002年4月22日 )
 =3=「ホンダは二輪車だけ作っていればいい」 ( 2002年5月 6日 )
 =4=「クロネコヤマトに郵便は扱わせない」 ( 2002年5月20日 )


FX、金融商品取引法に基づく合法のみ行為
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趣味の経済学 アマチュアエコノミストのすすめ Index 
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官に逆らった経営者たち
=3=「ホンダは二輪車だけ作っていればいい」(前)
<特定産業振興法が宗一郎に火を付けた>
 戦後の日本経済を考えるとき、日本政府の指導が大きな影響力を持つと考え「日本株式会社」との表現を使う論者がいるようだ。政府が産業育成に積極的にかかわった例として、「傾斜生産方式」と並んで「特定産業振興法」(特振法)をあげる。この法案は将来、輸入自由化・資本自由化に備え日本企業の国際競争力を強化を目的としている。国際競争力強化の必要がある産業として、自動車産業・石油化学・特殊鋼などを指定している。これらの産業に税制や金融面での恩恵を与えると共に、合理化を進め、企業の合併や集中を図ろうとするものであった。通産省が特振法で目指したのは、政府(官僚)が先頭に立って、自由化に対抗する日本型官民協調態勢を築くことと理解された。つまり官僚が産業政策を立案し、業界を指導し、天下り先を確保し、日本型社会主義経済を築こうとするものであった。しかし官僚たちは日本のためであり、自己利益などの意識はない。損得勘定ではなく、正義感からの立案ではあった。
 特振法成立に向けて精力的に動いたのは、後に大型事務次官と言われるようになる、当時の通産省企業局長、佐橋滋であった。佐橋のもとで特振法の立案に携わった元通産省事務次官の両角良彦は当時を次のように振り返っている。
「自由化される業界の立場からみれば、そりゃ何とかしてもらわにゃ困る。いきなり国際競争力の寒い風に吹かれたら、太刀打ちできない。せめてオーバーコートぐらいは着せてほしいということですね。これは当然のことでしょう。やはり貿易自由化はタイムリミットのある問題なのです。日本政府の公約ですから。それに間に合うようにしなければならない。しかし、企業はまだ国際競争力に対しての自覚が非常に薄かったですね。ですから、オーバーコートが脱げるようになったら、その時脱げばいい。寒いうちはオーバーコートを差し上げなくてはなりますまい。それが特振法の目的だったんです」
<「特振法」=「ホンダは二輪車だけ作っていればいい」> 通産省は1961(昭和36)年に資本の自由化に対処するために、自動車業界を量産車メーカー、特殊車メーカー、ミニカー・メーカーの3グループに再編成する構想を発表した。1964年に特定産業振興臨時措置法案(特振法)として国会に上程した。それによると、特定産業については重電機、石油化学などが予定されていたが、とくに乗用車については、メーカーの新規参入を禁止する内容が含まれていた。四輪メーカーの乱立を防ぎ、国内の過当競争を阻止しない限り、日本車はアメリカ製に太刀打ちできないとされた。通産省は、以下の3グループに力を集約しようとした。
 量産車グループ:トヨタ、日産、東洋工業(現マツダ)。
 特殊車グループ:プリンス、いすゞ、日野。
 小型車グループ:三菱、富士重工、東洋工業、ダイハツ。
 この法案が通れば、ホンダが四輪に進出する機会は永遠に失われる。宗一郎の夢は、実現のなかばでついえてしまうのである。
「顧客に向かって、安くて価値のある製品を送り出す。 それがひいては社会に貢献することになる。商品が受け入れられなくて、社会に貢献できないのであれば、そういった会社が消滅していくのは当たり前のことだ」それが宗一郎の抱く企業理念であった。会社の存続は、あくまで消費者である国民に委ねるべきであって、企業は経営判断をそこに根ざして行うものである。けっして国や官僚の思惑に左右されるものでないし、指導されるものでもない。自由経済主義において、ごく常識的なルールである。これを無視し、力ずくで介入しようとする役人たちが宗一郎には許せなかった。
 これより前から、本田技研が四輪車の生産を意識しはじめていたという事情もあった。昭和35年に本田技術研究所を本体から分離独立させたのも、その現れであった。また社内には、四輪研究開発部隊が発足してもいた。責任者は中村良夫。オート三輪メーカーのクロガネが倒産したため、ホンダに移ってきた人物である。中村にオートバイを作るつもりはなかった。宗一郎との面接で、ホンダは四輪をやる気はあるのか、と正面から訊いたのもこの男だった。「あるよ」と宗一郎は短く、しかし強い調子で答えていた。
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<本田宗一郎Vs佐橋滋>  宗一郎は特振法の立法化に正面切って反対し、本田技研と通産省は烈しく対立した。猛然たる鍔ぜりあいは激化する一方で、マスコミもそれに飛びついた。通産省出身のある業界幹部が間に入り、宗一郎と通産省事務次官の会合を設定したのは、肌寒い一日のことであった。
 事務次官の名は佐橋滋。その権勢ぶりから、当時、天皇と呼ばれた人物である。しかしこれも、火に大量の油を注ぐ結果となった。
「ずばりお尋ねします。本田技研は四輪車を作るな。そうおっしゃるのですね」
 宗一郎は、つとめて冷静に切り出した。だが、その眼は憤怒にめらめらと燃えている。佐橋は、眼鏡の奥の瞳を冷たく光らせて応えた。
「まあ、はっきり言ってしまえばそういうことです。アメリカのビッグ3に対抗するには、日本の自動車メーカーなど二、三社でいい。新規参入を許す意味も必要もありませんよ」
 黙り込む宗一郎を見下すように眺めて、佐橋は続けた。
「それに、ホンダさんは二輪車だけでも企業として十分存続していけるでしょう」
 自制は、ぶつりと切れた。宗一郎は立ち上がって叫んでいた。
「ふざけるなあっ! うちの株主でもないあんた方に、四輪車を作るななどと指図されるいわれはないっ」
 佐橋は動じず、つい、と眼鏡を押し上げた。
「しかしね、本田さん。貿易の自由化は目の前だ。それまでに日本の四輪業界の体質を強化しておかないことには―」
「あんた方役人に何がわかる!? オートバイだって外国製品に立派に太刀打ちできた。厳しい競争があるからこそ、企業は必死になって努力するし、成長もするんです。自由競争のみが、競争力強化の真の手段なんだ」
「オートバイと自動車は別ですよ。あなたはフォードやGMに勝つ自信がおありですか?」
「あるに決まっているでしょう。オートバイでやったことを自動車でもやるのです」
 顔を歪めるようにして笑い、佐橋はこう言い放った。
「私たち官庁は国のためにどうあるべきかを考えている。あなたは自分の欲望や会社のことしか考えてないのではありませんか?」
「なんだと? 俺が私利私欲で会社をやっているとでも思っているのか! 俺たちが、オートバイで世界一位になったとき、お前らはなんて言った。 日本のために日の丸を揚げてくれて感謝しています、なんて言ってやがったじゃないか。いいか、俺がもし自動車で日の丸を揚げたときには、お前は切腹するぐらいの覚悟をしておけ」
 宗一郎は立ち上がり、会談はあっという間に決裂した。出された茶にひとくちもつけず、宗一郎は通産省の建物をあとにした。宗一郎は涙した。悔しかったからではない、今まで、俺に殴られながらついてきてくれた河島や、俺に金の心配をさせまいと頑張ってきてくれた藤澤の顔がちらついたからであった。そして一人つぶやいた。
「すまん」 「本田宗一郎物語」から
<宗一郎の怒り>  宗一郎は1983年のテレビインタビューで、佐橋滋と会った時を振り返り、次のように語っている。
「どうにも納得できないということで、僕は暴れたわけで、特振法とは何事だ。おれはやる(自動車を作る)権利がある。既存のメーカーだけが自動車を作って、われわれがやってはいけないという法律をつくるとは何事だ。自由である。大きな物を、永久に大きいとだれが断言できる。歴史を見なさい。新興勢力が伸びるにに決まっている。そんなに合同(合併)させたかったら、通産省が株主になって、株主総会でものを言え!と怒ったのです。うちは株式会社であり、政府の命令で、おれは動かない」(1995年2月5日、NHKテレビ「戦後経済を築いた男たち」から)
参照
▲「ホンダ50年史」▲  
▲ YOU TUBE 本田社長インタビュー「特振法について語る」▲

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<「トラックでもなんでもいい、大急ぎで車を作ってくれ」>  通産省の建物をあとにした宗一郎は、八重洲に向かった。
「おい、受付嬢がなかなか中に入れてくれなかったぞ」
「そりゃ無理ないな。社長とはいっても本社には近寄りもしないんだからな。年中研究所に入りびたりでな」
と、身を揺すって豪快に笑う藤澤を見て、宗一郎はホッとした。俺はコイツと一緒にやってきたんだ。そう思うと、今まで感じていた憤りが、ウソのように静まった。
「で、なんの用だい。社長みずから血相を変えて俺に会いにくるなんて、普通じゃないからな」
「ああ」
 宗一郎は、事務次官の佐橋との会談の様子を手短に語った。じっと聞いていた藤澤は、落ち着いた声で宗一郎に訊ねた。
「うちにはトヨタや日産にひけをとらない輸出実績がある。それをまったく考慮しないというんだな?」
「そうなんだ。しかも、四輪メーカーはその日産・トヨタだけで十分だといわんばかりの口ぶりだったな」
「そうか」
「そうか、だけか?ずいぶん落ち着いているじゃないか」
「ははは」
「ははは、じゃないぜ。何か奇策でもあるのか」
「うちの会社にはな、本田宗一郎という気違いがいてな」
「おいおい、もったいをつけるなよ」
「本田宗一郎が本気を出せば何でもできるんだ。世間の奴らはその恐ろしさを知らないがね」
「で、いったい俺に何をしろっていうんだ?」
「トラックでもなんでもいい、大急ぎで車を作ってくれ」
「そ、そうか、既得権か。わ、わかった。また来る!」
 宗一郎は、受付嬢にジョークを飛ばして、本社を後にした。
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<四輪車開発>  中村良夫をはじめ緊張する技術スタッフに向かって、宗一郎は強い口調で、会社の置かれている状況を説明した。一刻も早く車が欲しいという宗一郎の言葉に、全員が闘志を燃やした。
 宗一郎の至上命令を受け、四輪車の開発はすさまじい勢いで進められた。まさに尻に火のついた状態で多くのプロトタイプが生まれては捨てられた。一応実用化のめどが立ち、これならいけそうだ、と研究所員は、そのプロトタイプ車を宗一郎に見せることになった。
「なんだ、この不細工な車は。俺の想像しているのと全然ちがうぞ!」
 宗一郎は怒り始めた。そのプロトタイプは、シトロエンの2CVに似た軽自動車であった。宗一郎を最も怒らせたのは、そのエンジンであった。低回転型の2気筒だったからである。
「誰だ、こんなエンジンを作ったのは! もっと、ましなエンジンはないのか」
そう怒鳴る宗一郎に、ある研究員が、おずおずと答えた。
「500ccのスポーツカー用のエンジンならある段階にきていいるのですが、8000回転で回るDOHCなので、とても……」
「よし、それでいくぞ。それを360ccに作り変えろ。DOHCのままでいいぞ」
「しかし、……」
「しかし、じゃない。エンジンはそれで決まりだ。車体は他に無いのか?」
「500ccのスポーツカーはまだ、完成の域には・・・・」
「他には?」
「あの、軽トラックなら」
「スケッチを見せてみろ」
「は、はい」
「よし、このトラックでいくぞ」
「エンジンは?」
「さっきの、DOHCだ、あれを360ccにしたやつを使う」
「あの、軽トラックに、スポーツカーのエンジンをですか?」
「ははは、まあ、いいじゃないか。ホンダの第1号車としてふさわしいとは思わんか?まあ、500ccのスポーツカーが先だったらよかったんだが。スポーツカーの方も急いでくれよ」
 こうして生まれたのが、ホンダ社初の四輪車T360であった。それは国産初のDOHC搭載車でもあった。と同時に世界初のDOHCエンジン搭載のトラックだった?かもしれない。
 そのT360は昭和37年6月に発表され、同時に軽四輪スポーツカーのS360も華々しく登場した。 S360の完成披露は鈴鹿サーキットでおこなわれ、美女を隣に乗せて宗一郎自らがハンドルを握るという逸話を残したが、もともと、その年のモーターショーに出品するため、わずか数台しか作られなかった車である。S360はまもなく、幻の名車と呼ばれる運命をたどることとなった。
 当時、難しいといわれたスポーツカーにあえて挑んだのは、技術に対するホンダのパイオニア精神を世に問うためであった。当然ホンダが初めて手がける分野であり、スポーツカーは技術的にも未解決の問題を多く含んでいた。だからこそ、宗一郎はチャレンジ・スピリットをかき立てられたのである。本命のS500ccの商品化は、翌年に迫っていた。
宗一郎は、藤沢への約束通り、最短で販売できる車を仕立て上げた。
 一方、藤澤には、秘密にしていた奇策があった。それは、消費者が会社を選別すべきであって、国ではない、という宗一郎の理念にそったものだった。「これで国は口出しできまい」と藤沢は一人ほくそえんだ。
 その奇策とは、 全国六十一紙の全面広告を使ってクイズを打つことであった。内容は、『さて、ホンダが発売する四輪車S500のお値段は?』、であった。これには、五百七十四万通という途方もない数の応募が殺到した。ハガキがさばききれず、整理して抽選するための機械をホンダ自らが開発しなければならないほどだった。昭和38(1963)年6月のことであった。
 この反響の大きさには、通産省の役人も驚きを隠せなかったという。それが多少は功を奏したか、ホンダに四輪車を駆け込み生産させた特定産業振興法案は、同年の通常国会であえなく廃案となった。その後の成否は、ホンダをはじめ、現在の自動車業界の業績が雄弁に証明している。
 昭和38年の後半は、宗一郎と本田技研にとってまことに輝かしい季節となった。 10月、スーパーカブならびにスポーツカブが、世界の優秀品としてフランスのモード杯を受賞。それを祝うように、ホンダは小型スポーツカーS500を発売する。宗一郎が期待した通り、この車は若者たちの垂涎の的となった。本格的なスポーツカーを、時代が待望していたのである。
 続く11月には、鈴鹿サーキットで、日本で初めての世界GPが開催され、50cc、250cc、350ccの3クラスに優勝したのである。それはホンダが名実ともに世界一の二輪車メーカーとなったことを意味していた。 「本田宗一郎物語」から 
( 2002年5月6日 TANAKA1942b )
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官に逆らった経営者たち
=3=「ホンダは二輪車だけ作っていればいい」(後)
<藤澤「本当に幸せでした。心からお礼を言います」、宗一郎「おれも礼を言うよ。良い人生だったな」>  1973年3月、藤澤は、「おれは今期限りで辞めるよ。本田社長に、そう伝えてくれ」と西田専務に命じた。本田はちょうど中国へ海外出張中だった。藤澤のこうした意向は、正式に本田と相談をした結果のものではなかった。西田は、羽田空港で本田の帰国を待ち、その場で藤澤の辞意を伝えた。本田にとっては予期しないことだったが、しばらく考えてから本田も、
 「おれは藤澤あっての社長だ。副社長がやめるなら、おれも一緒。辞めるよ」
 と、西田に告げたのだった。
 西田からの報告を受けた藤澤は、本田との長い付き合いの中で初めて大きな誤りをした、と感じた。本田に、ゆっくりと考えてもらう時間が必要だろうと考えてのことだったが、やはり最初に、なぜ、本田に直接、自分が職を辞したいという意向があることを相談しなかったかと・・・。
 「本田さんは、社長交代の時、私に「おい、おれたち、辞めることになったんだからな。次の社長を頼む」と、おっしゃっただけでした。ご自身も、水冷・空冷論争でのことや、技術研究所の社長を退かれたことで、この時が来ると、ある程度は覚悟されていたのだと思います。藤澤さんが辞めると聞いて、同じ創業者である藤澤さんだけ辞めさせておいて、自分だけが残れるはずがない、と瞬時に引き際がいつかを考える。本田さんは、そんな素晴らしい方でした」(河島)
 こうして本田宗一郎と藤澤武夫の、創業期からの二人三脚は終わった。
 ホンダの両トップ交代劇は、二人が世間一般では、まだまだ現役として十分活躍できる年齢(本田が65歳、藤澤が61歳)だったこと、加えて、次期社長に内定した河島の年齢が、45歳という異例の若さだったことでも、大きな反響を呼んだ。しかも、二人にとっては全く血縁関係にない、新社長の誕生。ホンダが同族会社ではないということを、身をもって内外に示したのである。
 退任が決まった後のある会合で、藤澤は本田と顔を合わせた。当時の様子を藤澤は、1973年8月の「退任のご挨拶」ので、次のように触れている。
 ──ここへ来いよ、と(本田さんに)目で知らされたので、一緒に連れ立った。
 「まあまあだな」
 と言われた。
 「そう、まあまあさ」
 と答えた。
 「幸せだったな」
 と言われた。
 「本当に幸せでした。心からお礼を言います」
 と言った私に、
 「おれも礼を言うよ。良い人生だったな」
 とのことで引退の話は終わりました── 「ホンダ50年史」から▲
 創立25年目の1973年10月、本田・藤澤の両トップは株主総会を経て、二人そろって正式に引退。本田宗一郎66歳、藤澤武夫62歳であった。引退後の肩書きは取締役最高顧問であったが、二人とも会社に顔を出すことはなかった。鮮やかな引き際であった。同じ10月、第一次石油危機が発生し、二人の活躍舞台であった日本の高度成長は幕を下ろした。二人の引退はまさに一つの時代の終わりを告げるものであった。
 引退後、藤澤は趣味三昧の生活に入った。一方宗一郎は「本田のために頑張ってくれた社員にお礼を言いたい」と全国行脚の旅に出ている。車で700ヶ所を1年半かかって回った。海外も半年かけて回り、各地の工場でそこで働く従業員一人ひとりと握手をして「ありがとう」と言って回った。
 宗一郎は持ち前の明るさと行動力で社会事業やボランティア活動に携わって、多くの「本田ファン」をつくり、1989年には日本人で始めてアメリカの「自動車殿堂」入りを果たした。宗一郎の晩年は現役時代と同じように明るく輝いていた。
 河島が社長に就任した1ヶ月後、日本を第1次石油危機が襲った。それ以来、物価の高騰が続く中にあって、1974年1月末に河島新体制は、「ホンダ車は値上げせず」という施策を打ち出し、この難局を乗り切った。
 若い後継者を育て、早く道を譲る。こうしたホンダ流のトップ人事は、激動の時代に立ち向かう大きな力となった。河島も、
 「社長になった時に、真っ先に考えたことの一つに、”引き際の潔さ”をホンダの美風として残したいということだった」
 と、きっぱり言い切る。
 河島自身も、久米を後継者として選び、道を譲ったのは55歳の時であった。
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<お礼の会> 1991年8月5日、本田宗一郎は84歳でその生涯を終えた。宗一郎は人生の最後の着地についても生前から真剣に考えていた。
 「素晴らしい人生を送ることができたのもお客様、お取引先の皆さん、社会の皆さん、そして従業員の皆さんのおかげである。おれが死んだら、世界中の新聞に「ありがとうございました」という感謝の気持ちを掲載してほしい」と周囲に話していた。
 「お礼の会」は本社および各事業所で開催された。本社・青山会場では9月5日から3日間、午前10時から午後5時までの長時間にわたり開催され、これは8月23日社告として主要紙に掲載された。
 本社・青山会場と各事業所5会場への来場者数は延べ6万2千人を超えた。会場では、宗一郎の写真に手を合わせる人、展示品や絵画を囲んで談笑する人など、それぞれの想いを込めて、在りし日の宗一郎を偲んでいた。
 「皆様のおかげで幸せな人生でした。どうもありがとう」
 感情を素直にさらけ出し、時にはぶつかり合いながらも、多くの人々と想いを分かち合うという生き方を貫いた本田宗一郎は、最後に、形式やしきたりを超えた「お礼の会」という、全く新しい別れの形を残していった。
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<主要企業のオートバイ・シェア推移> 戦後のオートバイ製造業界はすさまじい競争であった。シェア推移を見るとそれがわかる。
メーカー\年 1951年 1953年 1955年 1957年 1960年 1963年 1966年
本田技研工業 9.9 17.9 16.4 18.9 44.1 63.5 58.1
東京発動機   9.3 20.2 12.0 4.2 2.2  
鈴木自動車工業     3.5 7.1 10.6 14.1 18.3
ヤマハ発動機     0.9 3.9 9.4 8.7 15.9
山口自転車工業     4.3 4.5 10.0    
ブリジストンサイクル         2.7 4.2 3.5
丸正自動車工業 2.1 3.9 3.1 2.0 1.0 0.0  
目黒製作所 6.6 3.3 3.1 3.3 0.9 0.3  
川崎重工業           1.8 2.8
唱和製作所 6.4 2.3 3.0 4.0      
みずほ自動車 0.5 4.9 3.5 0.2      
宮田製作所 2.1 2.2 1.4 0.8      
北川自動車   2.7 1.4 0.0      
富士重工業 33.2 14.2 9.8 12.1 4.0 1.9 1.4
三菱重工業 25.1 15.1 12.7 13.7 3.1 1.2  

<生産統計(四輪) 車種×メーカー 2001年1月-2001年12月>
メーカー\車種 乗用車 トラック バス 全車種合計
トヨタ 2,938,820 384,849 30,755 3,354,424
ホンダ 1,219,809 64,898   1,284,707
日産 1,088,170 171,169 10,755 1,270,288
スズキ 712,632 194,896   907,528
三菱 632,151 195,719 6,879 834,749
マツダ 657,241 72,038   729,279
富士重工 372,663 90,220   426,883
いすゞ 12,822 199,877 3,230 215,929
日野   48,605 1,449 53,435
日産ディーゼル   22,704   24,153
日本GM 492     492
その他   437   437
全メーカー 8,117,563 1,601,536 58,092 9,777,191

<主要国自動車生産台数  2000年1月-2000年12月合計>
アメリカ 日 本 ドイツ フランス イギリス イタリア
生産台数 12,804,972 10,141,057 5,547,447 3,183,681 1,813,426 1,728,353

<イギリスの自動車産業> 1950年代から1960年代にかけて世界的にも脚光を浴びたイギリスの自動車産業は、世界で2位の生産台数を誇っていたが、まもなく西ドイツに抜かれ、フランスに抜かれ、日本にも抜かれることになった。生産台数は60年代の200万台を頂点に、80年代は100万台程度に下がっている。この間、政府は規模の経済の重要性を認識し、企業間の合併を指導し、最後はイギリス系メーカーとしてはただ1社、ブリティッシュ・レイランド社に統合した(1968年)。しかしBL社はその後も奮わず、破産を避けるため、1974年に国有化する。しかし業績は改善せず、日本のホンダと技術提携して国際競争の中で延命しようとしたが、1989年民営化後、1994年にはドイツのBMWに売却された。サッチャー首相の民営化政策は1981年のブリティッシュ・エアロスペースに始まり、ジャガー、ブリティッシュ・テレコム、英国航空、ブリティッシュ・スティールと順調に進み、1990年には電力、水道事業と進んだ。つまりそれまでこれらの事業は国営だったというわけだ。
<フランスの自動車産業>フランスでの企業国有化は第2次大戦後、対独協力企業の懲罰を求めるレジスタンス(第2次大戦中から共産党と結んだレジスタンスの組織=Conceil National de la Resistance)の圧力に対応して、1944年末から行われた。
1945年ルノー国有化(1996年民営化)、1945年4大銀行国有化、1946年炭坑国有化、1946年電気・ガス国有化、1946年9大保険会社国有化
戦後の経済計画の出発点となるモネの「近代化=設備計画」(1947-1951)は、左翼の伝統的な計画理念を引き継ぎ、労働運動を含む広範な支持を得て開始された。モネ・プランは限定された資金・資源の有効な配分によって、石炭・電力・鉄鋼・セメント・農業機械の6つの「基礎的部門」の優先的発展をめざす一種の「傾斜生産方式」を採用した。
 国有化と計画経済を通じた国家主導の再建政策によって、経済復興は順調に進んだかのように思われた。国有企業は計画期間中国内設備投資の約半分を占め、近代化の推進主体となった。復興の振興につれて輸出も順調に回復し、貿易収支も徐々に改善された。しかしこの政策は次第に弱点を露呈した。とくに国家支出の拡大に伴いインフレ傾向が顕在化したこと。また強力な国家介入政策が西欧世界の自由主義的政策と対立したことが重要であった。1986年売上高上位20社のうち13社が国有企業であった。自動車産業について言えば、日本でトヨタが国有化させた状況を想像すればいい。戦後しばらくの間のフランスは「資本主義」と言うより「社会主義国家」であった。
<ドイツの自動車産業>フォルクスワーゲンは戦災で工場施設の2/3を焼失、1945年に連邦政府とニーザクセン州の所有する国営の有限会社として再建された。1960年には連邦政府20%、ニーザクセン州20%を所有する準国有の株式会社に改組される。ドイツの戦後経済復興は、西ヨーロッパの経済再建への支援策、1947年6月に発表されたマーシャル・プラン(ヨーロッパへの援助総額120-130億ドル)によるところが大きい。1952年のヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)の成立もドイツの経済再建に大きな影響を与えた。自動車産業はドイツの民族資本が中心であり、オペルがGMの資本下にある程度。戦後の西ドイツは直接自動車産業を支配はしなかったが、政府自身が国際機関の影響を強く受けていた。マーシャル・プランの資金受け皿としての「ヨーロッパ経済協力機構(OEEC)」、その発展的機構「経済協力機構(OECD)」も無視出来ない。西ヨーロッパでは本田宗一郎のように「官に逆らう経営者」は出てこなかった。この業界についても、日本は「比較的政府関与の少ない、自由主義経済」であったと言える。少なくとも「日本株式会社」という表現は不適切であった。
( 2002年5月13日 TANAKA1942b )
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官に逆らった経営者たち
西山弥太郎・井深大・本田宗一郎・小倉昌男

西山弥太郎   http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/keieisha.html
井深大     http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/keieisha-2.html
本田宗一郎   http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/keieisha-3.html
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