趣味の経済学
官に逆らった経営者たち

西山弥太郎・井深大・本田宗一郎・小倉昌男

アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します     If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain――Winston Churchill  30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない      日曜エコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    好奇心と遊び心いっぱいの TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します     If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain――Winston Churchill     30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない      アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します

官に逆らった経営者たち 「日本株式会社」論に異論
 =1=「川鉄千葉工場にペンペン草は生えているか?」 ( 2002年4月 8日 )
 =2=「井深さんは補聴器を作るつもりですか?」 ( 2002年4月22日 )
 =3=「ホンダは二輪車だけ作っていればいい」 ( 2002年5月 6日 )
 =4=「クロネコヤマトに郵便は扱わせない」 ( 2002年5月20日 )

FX、金融商品取引法に基づく合法のみ行為
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趣味の経済学 アマチュアエコノミストのすすめ Index 
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官に逆らった経営者たち
=2=「井深さんは補聴器を作るつもりですか?」(前)
<「東京通信研究所」設立> 1945(昭和20)年10月、東京日本橋にある白木屋の3階、そこの狭い配電室の入り口に「東京通信研究所」の看板が掲げられた。そして1946(昭和21)年5月7日「東京通信工業株式会社」(東通工)が資本金19万円で設立された。奇しくも同時期、1945(昭和20)年10月浜松市で本田宗一郎が本田技術研究所を開設。1948(昭和23)年9月、本田技研工業株式会社(資本金100万円)として発足 。ここに戦後日本を代表するベンチャー・ビジネスがそろって産声をあげた。しかし業界も、マスコミも、世間もこの誕生が将来日本社会にどれほど大きな影響を与えるか、考えは及ばなかった。
 創立時の役員は次の通り。社長=前田多聞(まえだ たもん)。戦後すぐの東久邇内閣とそれに続く幣原内閣で文部大臣を務めたが、戦時下の東条内閣で新潟知事をしていたことが公職追放に抵触し、辞任していた。専務=井深大、取締役=盛田昭夫。その他、のちに宮内庁長官になる田島道治、井深が以前から世話になっていた増谷麟が役員になり、社外から全国銀行協会会長を務めた万代順四郎、旧家盛田家の当主盛田久左エ衛門が参加した。この時井深39歳、盛田25歳。こうして総勢20数名の小さな会社「東京通信工業株式会社」は誕生した。
 1946年1月井深が起草した「東京通信工業株式会社設立趣意書」の「会社設立の目的」「経営方針」には次のような文がある。
「会社設立の目的」
一、 真面目ナル技術者ノ技能ヲ、最高度ニ発揮セシムベキ自由豁達ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設
一、 日本再建、文化向上ニ対スル技術面、生産面ヨリノ活発ナル活動 以下略
「経営方針」
一、 不当ナル儲ケ主義ヲ廃シ、飽迄内容ノ充実、実質的ナ活動ニ重点ヲ置キ、徒ラニ規模ノ大ヲ追ハズ
一、 経営規模トシテハ寧口小ナルヲ望ミ大経営企業ノ大経営ナルガ為ニ、進ミ得ザル分野ニ技術ノ進路ト経営活動ヲ期スル  以下略
 設立当初は「家電メーカー」というより、「電気工事会社」であった。NHKのスタジオ改修工事などで実績をあげていった。
G型テープレコーダー1949(昭和24)年9月テープレコーダーの試作第1号機ができあがった。販売価格16万円。重量45Kgであった。以後H型、P型と改良が進む。テープレコーダーの開発には東通工の技術者のほかに東京芸術大学の学生が参加していた。後に大型新人バリトン歌手としてヨーロッパでも将来を嘱望された大賀典雄であった。音楽家としての耳を生かし、素人では分からない微妙な音の違いを指摘していった。そして既に経営者としての力量を示すかのように、テープレコーダーの芸大売り込み等営業面でもその才能を発揮していた。
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<トランジスタの特許取得へ> 1952(昭和27)年井深は初めて渡米する事になった。テープレコーダーの販売拡大のヒントを得るためだった。ニューヨークで山田志道に会った。山田はこれ以降アメリカにあって社外から東通工を支援することになる。アメリカ滞在中に友人が井深を訪ねてきた。ウェスタン・エレクトリック社(WE社)がトランジスタの特許を望む会社に公開しても良いと言っているが興味はないかと言う。トランジスタはベル研究所のショックレー、バーディーン、ブラッテンの3博士によって発明され、製造特許は親会社であるWE社が持っている。特許使用料を支払えば公開するという情報だった。
 突然ひらめいた。
「トランジスタをやってみよう。技術屋がたくさん必要になるに違いないし、リサーチャーもいるだろう。それに、我が社の技術屋の連中も新しいことに首を突っ込むのが大好きだ。うってつけじゃないか」
 トランジスタなど今回の渡米目的には入っていない。会社の事情がなければWE社の話に耳を貸さなかったかもしれない。 特許料が2万5千ドル(約900万円)というのも、東通工にとっては大きすぎる金額だ。しかし、やってみるだけのことはありそうだ。トランジスタも発明されてから4年、鉱石検波器とは違うことももはやわかっていたし、何よりも、トランジスタ自体が初期の接触型から合金型へと進歩していた。
 さっそく、井深は山田に頼み込んだ。
 「トランジスタの話を、よく聞いて帰りたいんだ」
 山田はウェスタン・エレクトリック社(WE社)の特許担当マネージャーに会えるよう、何度もコンタクトを取ったが、アポイントは取れなかった。心残りであったが井深は事後を山田に託して帰国の途に就いた。
 井深は社内のコンセンサスが得られると、通産省にトランジスタ製造の許可を求めにいった。しかし、返事はつれなかった。
「ちょっとやそっとで、トランジスタなんかできないよ。それに補聴器程度にしか使えないだろうし。それともトランジスタ補聴器を作りますか?」
 町工場に毛の生えた程度の東通工で難しいトランジスタが出来るわけがない。そんなことで高額な特許料を支払い、貴重な日本の外貨を使われてはたまらないと、てんで問題にもされない。
 東芝、三菱、日立といった大会社もトランジスタの開発を始めるところが現れ始めたが、その際にはアンブレラ契約を交わすという方法を採っていた。アメリカのRCAからすべての技術を供与してもらう代わりに、すべての商品にロイヤリティーを支払わなければならない。日本を代表する会社でさえそうなのに、東通工はWE社から特許権だけを買い取ろうとしていた。いかにも無謀なことだ、と言うのが通産省の見解だった。
 アメリカでは井深から後を託された山田の尽力によって、トランジスタの特許取得に向け、着々と交渉が進められていた。そして山田の努力が実を結ぶ日が来た。井深に届いた一通のエアメールがその実を運んで来た。
「あなたの会社に特許を許諾する用意がある。代表者が来てサインしなさい」
 ライセンシーにしても良いというWE社からの手紙だった。東通工がどこの会社とも技術提携せずアドバイスも受けずに、独力でテープを完成させたことに感心し、トランジスタの特許を使わせても大丈夫だ、と判断したらしかった。
 1953(昭和28)年8月、3ヶ月の予定で欧米を視察することになっていた盛田がWE社との契約を任されることになった。
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<トランジスタ補聴器>  WE社との交渉には山田が同行した。日本ではまだ通産省の許可が下りてないため、許可が下り次第正式に契約することにして、仮契約を済ませた。東通工がWE社と結んだのはライセンシー契約であり、ノウハウ契約とは違う。そのため盛田は調印を済ませると、日本に帰ってから役立つように、トランジスタに関するありとあらゆる資料を集めまわった。これで渡米の目的を無事果たしたことになる。
 仮調印のおり、WE社の技術者は、
「トランジスタは非常に面白い。しかし今の段階ではオーディオパーパスにしか使えない。ヒヤリングエイド(補聴器)を作ったら良いだろう。日本に帰ったらぜひとも補聴器をつくれ」
としきりに勧めてくれた。盛田は補聴器では大きなマーケットになりそうもないなと思いつつ、「はあ、はあ」と聞いておいた。日本に帰った盛田はWE社とのやり取りを井深に話した。
「トランジスタができれば、わが社のチャンスとなるはずです。トランジスタを使って何かやりましょう。WE社では、補聴器をやれと言っているけど、どうでしょう」
井深も補聴器には否定的だった。 
「ラジオをやろう」
これが井深が出した答えだった。
「トランジスタを作るからには、大衆製品を狙わなくては意味がない。だから何としてもラジオだ。難しくても、最初からラジオを狙おうじゃないか」
 アメリカでさえ補聴器にしか使えない低周波数トランジスタしか作られていない当時、大胆な発想だった。しかし井深は強気だった。
「大丈夫だ、必ずラジオ用のものができるよ」
この言葉で、東通工の技術者たちの挑戦が始まった。
<「貴重な外貨は使わせない」と通産省>開発に対する会社の方針は決まった。しかし通産省の許可がおりない。
「当社ではWE社からライセンシーとしての許可をもらいました。ついては通産省のほうでも、この件に関して許可をお願い致します」
井深の言葉に通産省はカンカンだった。かってにサインしてくるなどもってのほか、けしからんと、余計につむじを曲げる始末。補聴器程度にしか使えないトランジスタのために、貴重な外貨は使えない、と言うのだった。
 通産省の出方をみながらできることから始めるほかはない。そこで社内から精鋭たちが集められ、トランジスタ開発部隊が編成された。ヘッドにはテープレコーダーの製造部長をやっていた岩間和夫が志願した。多方面から腕に自信のある連中が集まってきた。物理屋の塚本哲男と岩田三郎、機械屋の茜部資躬、化学屋の天谷昭夫、電気屋の安田順一。
 1953(昭和28)年も暮れかけようという頃、通産省の電子工業関係部門で大幅な人事異動が行われた。急転直下、トランジスタの認可が下りそうな気配だ。年が明けるとすぐ、岩間はトランジスタ研究のためアメリカへと旅立った。岩間和夫この時35歳。遅れて1月末、WE社のトランジスタ工場を視察するため、井深もアメリカへ向かった。いよいよ本格的にトランジスタに取り組む態勢が整った。そして1954(昭和29)年2月2日、東京通信工業にトランジスタ技術導入認可が下りた。
<世界初のトランジスタラジオはアメリカ企業が発売> そうこうしているうちに、東通工の社員を落胆させるニュースが、アメリカから届いた。“世界初のトランジスタラジオ発売”というニュースである。1954年の12月、米国リージェンシー社がトランジスタを4石使った出力10mWの本格的なスーパーヘテロダイン方式受信機TR-1型を発表、クリスマスシーズンを目指して発売を始めたのだ。
 自分たちの手で、世界初のトランジスタラジオを。その想いでこれまで頑張ってきなのだ。
「通産省が、もう少し早く許可してくれていたら」
 しかし、これが一つの転機となった。これまで以上にトランジスタ自体の開発も、回路のほうも、力を入れて取り組むようになった。成果は翌年1月に現れた。トランジスタを使ったラジオが鳴ったのだった。ジャンクション型のトランジスタ5石を用いたスーパー受信機TR-52型、その試作の成功だった。このTR-52型の改良型、TR-55が装いも新たに、日本初のトランジスタラジオの栄誉を担って発売された。1955(昭和30)年8月のことだった。
 米国ベル研究所で,3極真空管に相当する最初の半導体素子「点接触型トランジスタ」が発明され,その特許が申請されたのが1948(昭和23)年。1949年にはより本格的な「接合型トランジスタ」,1951年には「電界効果トランジスタ(FET)」が発明された。
 こうしたアメリカの大企業で発明されたトランジスタ、しかしそれを実用化したのは当時世間の認識度の低い会社、東京通信工業というベンチャービジネスだった。しかしこのベンチャービジネスが実用化したトランジスタ、日本の代名詞にもなるほどに世界に知れ渡った。池田勇人首相がヨーロッパ訪問したとき、フランスでドゴール大統領から、「トランジスタのセールスマン」と評されている。後にアメリカとの貿易問題になるほどに日本企業の主力産業になる。東通工技術者の無謀とも言える挑戦がなかったら、そして通産省のアドバイス通り特許取得を諦めていたら・・・
「官に逆らった経営者たち」「官に逆らった技術者たち」この人たちが日本の産業を革新し、私たち日本人だけでなく世界の人々の生活を便利にし、世界中の技術者・経営者に大きなインセンティブを与えることになった。敗戦後の荒廃した日本で川崎製鉄の西山弥太郎が、最も基本的産業である鉄鋼業界に革新を起こし、現代の奇跡とも言うべき日本の高度成長が始まる直前、東通工のトランジスタの実用化は大きな意味を持っている。ここにも「官に逆らった経営者たち」の日本社会に与えたインパクトの大きさをみる事になる。
( 2002年4月22日 TANAKA1942b )
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官に逆らった経営者たち
=2=「井深さんは補聴器を作るつもりですか?」(後)
<ソニー・モルモット論> ソニーがトランジスタラジオで注目され始めた1960年代、週刊朝日の「日本の企業」に東芝を取り上げ執筆した中で、大宅壮一が「ソニー・モルモット論」を展開した。 「トランジスタでは、ソニーがトップメーカーだったが、現在ではここでも東芝がトップに立ち、生産高はソニーの2倍半近くに達している。つまり、儲かるとわかれば必要な資金をどしどし投じられるところに東芝の強みがあるわけで、何のことはない、ソニーは、東芝のためにモルモット的役割を果たしたことになる」
 こういう言われ方は、ソニーにとって残念なことだった。たしかに東芝はトランジスタのために13億円もの大金を投じて工場を建てているし、生産高も多い。設立当時19万円だったソニーの資本金は12年経って、2億円に増えたが、東芝など戦前からの歴史を持つ大会社に比べれば、まだ駆け出し企業でしかなかった。
 しかし後年、井深は「ソニー・モルモット論」に対し、以下のように語っている。

「私共の電子工業では常に新しいことを、どう製品に結びつけていくかということが、一つの大きな仕事であり、常に変化していくものを追いかけていくということは、当たり前である。決まった仕事を、決まったようにやるということは、時代遅れと考えなくてはならない。ゼロから出発して、産業と成りうるものが、いくらでも転がっているのだ。これはつまり商品化に対するモルモット精神を上手に活かしていけば、いくらでの新しい仕事ができてくるということだ。トランジスタについても、アメリカをはじめヨーロッパ各国が、消費者用のラジオなど見向きもしなかった時に、ソニーを先頭に、日本の製造業者全部がこのラジオの製造に乗り出した。これが今日、日本のラジオが世界に幅をきかせている一番大きな原因である。これが即ち、消費者に対する種々の商品をこしらえるモルモット精神の勝利である。
 トランジスタの使い道は、まだまだ我々の生活の周りにたくさん残っているのではないか。それを一つひとつ開拓して商品にしていくのがモルモット精神だとすると、モルモット精神もまた良きかなと言わざるを得ないのではないか」
<モルモットがたくさん生まれる社会>ソニーがモルモットだったことをソニー自身が認めた。ところでモルモットはソニーだけなのか?井深がモルモットなら西山弥太郎もモルモットだ。本田宗一郎もヤマト運輸の小倉昌男もモルモットだ。官僚は権限を拡大しようとする。権限を強め、発言力を高め、天下り先を多くする。利権団体と族議員が官僚と協力しあう。ここに市場のメカニズムとは違う力が働く。それをレントシーキングと呼ぶ。
 しかしこのレントシーキングは人を引きつける力がある。政・官・業のトライアングルは集産主義的ビジョンを示すことがある。そのビジョンがないと不安になる人たちがいる。「政府は規制緩和すべきだと言う。しかし規制緩和した後、どのような社会になるのかそのビジョンを示せ」と言う。「政府がビジョンを描き、計画を立て、責任をもって実行すべきだ」となる。こうした考えの中に「モルモット」は存在しない。変わり者・へそ曲がりの経営者が出てきて、官に逆らった経営をするとトライアングルの立てたビジョンが崩れる。 それはトライアングルの権威失墜につながる。自由な市場経済では常に新規参入の可能性があり、官の立てた政策は修正させられる。このように将来が予測出来ない事に不安を覚える人たちが、市場経済に不安を持つ。しかしその不安は「無知から来る不安と」と非難される恐れがある。このため本音は言わずに、他の理由を見つけて市場経済を非難する。「今の政権に課せられた最大の課題は、景気対策である」(市場に任せていたらどうなるか分からない)。「真水10兆円規模の補正予算を組むべきだ」(その財源は問題にしない) (日本版財政赤字の政治経済学▲参照)。「公共事業の乗数効果に期待しよう」(日本ではインフラは整備され乗数効果は少ない。ビールは1杯目が旨いのだが、もうげっぷが出るほど呑んでいる)
今日の日本社会は「世論に逆らう官がいっぱいいる状況」と言うべきだろう。
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<モルモット売上高2位に浮上> 2002年4月27日朝日新聞によると、見出しに「ソニー売上高2位 電機大手の3月期連結 5社、最悪の赤字」とある。記事の初めの部分は次の通り。「電機大手9社の3月期連結決算で、ソニーが売上高で松下電器産業を抜いて、日立製作所に次ぐ2位に浮上した。ソニーとシャープ、三洋電機を除く6社は当期赤字に陥り、うち5社が過去最悪の赤字を計上。IT(情報技術)不況による本業の赤字と、リストラに伴う特別退職金など特別損失の計上が響いた。」
 同じ新聞の見出しに「役員報酬、ソニー開示へ」とあり、本文は次の通り。「ソニーは25日の取締役会で、6月に開催する定期株主総会の際、01年度の役員報酬の総額実績を開示する決定をした。月例給与に相当する役員報酬は米国では個別役員ごとに開示するのが主流だが、日本の上場企業では一部を除いて、役員報酬の全額すら開示してないのが現状だ。総額であっても大手企業が開示するケースは珍しい。ただ、今回の決定は個別開示を求めた市民団体に一部こたえた形であり、個別開示については「検討する」とするにとどめている」
 また同じ新聞に「ホンダ、営業利益6392億円」「ホンダが26日発表した3月期連結決算は、売上高が前期比13.9%増の7兆3624億円、営業利益が57.1%増の6392億円で、いずれも過去最高を更新した。利益のの6割をかせぐ米国が好調で、国内も小型車「フィット」がヒット。売上高に対する営業利益の割合は8.7%と、トヨタ自動車(01年9月中間期で7.4%)を上回った可能性が高く、経営効率の高さも際だつ。」
電機大手9社の決算と見通し   単位は億円 02年度は見通し ▼はマイナス・つまり赤字
企業\年度 売上高・01年度 売上高・02年度 当期損益・01年度 当期損益・02年度
日立製作所 7兆9937 8兆1000 ▼4838 600
ソ ニ ー 7兆5782 8兆0000 153 1500
松下電器産業 6兆8766 7兆 800 ▼4310 420
東  芝 5兆3940 5兆8500 ▼2540 230
N E C 5兆1010 5兆1000 ▼3120 100
富 士 通 5兆 69 5兆2000 ▼3825 0
三菱電機 3兆6489 3兆7000 ▼ 779 250
三洋電機 2兆 247 2兆1000 17 250
シャープ 1兆8037 2兆0000 113 370
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<ソニー商品開発の歩み>
1950年 日本初のテープレコーダー"G型"発売
1954年 トランジスタ技術導入認可
1955年 日本初のトランジスタ・ラジオ"TR-55"発売
1960年 世界初のトランジスタ・テレビ発売
1963年 世界初のトランジスタ小型VTRを発売
1968年 "トリニトロン"カラーテレビ発売
1971年 3/4インチ・Uマチック・VTR発売
1975年 家庭用ベータ方式VTRを発売
1979年 ヘッドホンステレオ"ウォークマン"発売
1982年 CDプレーヤーを発売 放送局用1/2インチ・カメラ一体型VTR"ベータカム"発売
1985年 カメラ一体型8ミリビデオ発売
1987年 デジタルオーディオテープ(DAT)デッキを発売
1988年 電子スチルカメラ"マビカ"を発売
1989年 高画質ハイバンド方式8ミリビデオ"ビデオハイエイト"シリーズ発売 
1992年 MDシステムを発売
1993年 放送業務用コンポーネントデジタルVTR"デジタルベータカム"システム発売 
1996年 デジタルスチルカメラ『サイバーショット』発売 平面ブラウン管 FDトリニトロン管搭載『KV-28SF5』発売
1997年 DVDプレイヤー発売 パーソナルコンピューター『VAIO』発売
1998年 ICメモリーカード「メモリースティック」発売
1999年 エンタテインメントロボット「AIBO(アイボ)」発売 小型二足歩行エンターテインメントロボット「SDR-3X」を開発
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<イギリスの電機産業> コンピュータはアメリカとほぼ同時期に、あるいはそれよりも早くイギリスで開発された。ケンブリッジ大学やマンチェスター大学でコンピュータがいち早く開発されたが、その企業化はイギリスではスムーズに進展しなかった。タイミングよくビジネス・チャンスをものにしたアメリカのIBMによってコンピュータ業界は世界的な準独占体制を築かれてしまった。イギリスでは多くの小規模コンピュータ・メーカーが乱立し、それを憂慮した政府の指導の下、最後はBLと類似した形でICLという合併企業が生まれたが、この企業も強い競争力を持つことはできず、1989年には日本の富士通に買収されてしまった。
<フランスの電機産業> フランスには世界的な電機産業はない。1985年の時点で政府によって管理されているフランス企業の数は2,636社。1995年には290社減って、2,346社。公共部門は1985年末に144万人を雇用していたが、1995年には130万人となった。これは総就業人口の5.1%と雇用労働者の6.6%に相当する。このようにフランスではリベラルなレジスタンスの社会主義的な経済政策が現在でも生きている。
<ドイツの電機産業> ドイツの電機産業と言えばジーメンス。ヨーロッパ企業の売り上げでは、(1)ロイヤル・ダッチ・シェル、(2)ブリティッシュ・ペトロリューム、(3)ダイムラー・ベンツ、(4)フォルクスワーゲン、(5)ユニレバー、(6)ジーメンス、の順になる。
 しかしこのジーメンス、OECD報告にみられるようにマイクロ・エレクトロニクス(ME)技術革新の立ち後れが問題になっている。東ドイツ、東ヨーロッパ、共産圏との前線基地国として政府、西ヨーロッパ諸国、アメリカなどの意向に企業は逆らうことが出来なかった。それが長く続き保守的な経営になり、デジタルICの重要性を過小評価し、機械工学に対する固執と過大評価の企業行動をとった。こうして1970年代前半にLSI-超LSI世代の開発に立ち遅れ、技術開発力の停滞が半ば構造化する。現在ジーメンスは高速化・大容量化がいっそう進むDRAMの自力開発が困難であり、しかも半導体売上高が国際競争に耐えうる臨界点にあるとさえ言われている。 戦前からの伝統ある企業も時代の変化を感じ取る経営者が現れないと、新規参入のベンチャー企業・モルモット企業の後塵を拝することになる。この業界についても、日本は「比較的政府関与の少ない、自由主義経済」であったと言える。少なくとも「日本株式会社」という表現は不適切であった。
( 2002年4月29日 TANAKA1942b )
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官に逆らった経営者たち
西山弥太郎・井深大・本田宗一郎・小倉昌男

西山弥太郎   http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/keieisha.html
井深大     http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/keieisha-2.html
本田宗一郎   http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/keieisha-3.html
小倉昌男    http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/keieisha-4.html
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