高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 5月 8日(木)
 朝起きてラジオのスイッチをひねり、モーツァルトの初期のピアノ曲をきく。
 NHK-FM5月8日午前9時00分~:家庭音楽鑑賞「モーツァルト『田園舞曲集』」。

 晴れやかな初夏の陽の中で
 京都:晴・最低12.1℃最高29.1℃。終日、快晴だった。

 掲示板には新年度のカリキュラムが発表され、その平和なる人々は懸命にそれをのぞいていた。生協の食堂は相変らずの混みようで、のんびりとした騒然さ。
 文学部掲示板は、清心館1階に、生協の食堂は地階にあった。
 清心館☞1969年5月19日
清心館
 なお文学部(一部)は5月6日(火)から新年度を開講していた。

 しかし、ひとたび恒心館にいくと、そのまやかしは、はっきりと打ち破られた。
 恒心館のバリケードは続いている。
 恒心館☞1969年3月8日

 畜生! やはりスキーをやめて「資本論」にすべきか。
☞1969年5月7日「スキー道具一式を売って「資本論」を買うか」

 バイトが終ったあとで屋上にいってね、星空を眺めながら煙草の煙を夜空にプウーッと吐き出しちゃった。
 京都国際ホテルの屋上である。5月8日は夜遅くも晴れていた。
河原町通方向の夜景

 どこかにsomeoneがいつでもいるってね。
☞1969年5月7日「この広い宇宙のどこかに私をみつめているsomeoneがいるにちがいない」

 体をきたえる準備運動として各闘争委の部屋掃除をシヨウゼ
 立命館大学全共闘の各学部の闘争委は、恒心館にあった。

 決意。私はスキー道具一式を売却し、その金で、「資本論」およびその他の本を買うことを、ここに誓います。
高野悦子のスキー道具(実物)
 決意したものの、高野悦子は結局、スキー道具一式を売却しなかった。
 スキー道具は下宿の部屋に残っていた。実物を関係者が保管していた。貴重な遺品であり、謹んで紹介する。

スキー板とケース
 スキー板は小賀坂スキー製作所(本社・長野市)の当時主力商品だった「OHP・オガサカニューライン」である。
 小賀坂スキー製作所は国内初のスキーメーカーとして創業し、戦前に宮内庁へスキーを献上。1958年に株式会社となり、スキー選手だった小賀坂広治が初代社長になった。
 元々競技用スキーを手掛けていた同社は、“技術屋”出身である小賀坂広治の経営方針の下、1960年代には主に一般向けスキーを生産。その製品はインストラクターや上級者向けとして位置付けられていた。
メーカーとブランドハンドメイドと材質
 「HICKORY OHP」の表示は両面ヒッコリーの合板を意味する。ヒッコリーは弾力性があるためスキー板の材質として優れていた。国産の手作りで表面はプラスチックの青色、滑走面はポリエチレンでインターロックエッジになっている。
 1968-69年シーズンにおける参考小売価格は10,800円。小賀坂のウッドスキーのラインナップでは最高級に位置し、国産のウッドスキー全体の中でみても最上位の一つだった。ただこのころには比較的高価なメタルスキーやグラスファイバースキーがすでに存在し、輸入スキーはもっと高額だった。
 形は先端が鋭角で幅が狭いいわゆるノーマルスキーで、全長は180センチある。当時のスキー板の長さの基準は身長プラス30センチを標準的な目安としており、180センチは成人女子用では短い。
 スキー板は日本では1990年代末になって現在のカービングスキーが主流に取って代わり、長さの基準も身長マイナス10センチ程度に変わっている。
ノーマルスキーホープマーカー
 スキー板にブーツを着脱する金具であるビンディングは、日本のホープ社が輸入元で西ドイツ(現・ドイツ)・マーカー社製の「ホープマーカーLDRスーパー」が装着されている。1968-69年シーズンの参考小売価格は3,500円。
 ホープマーカーはかかと側でワンタッチで着脱できるしくみで、当時最もポピュラーなビンディングだった。一定の力がかかると靴からスキー板が外れるセーフティ・ビンディングのため、スキー板が流れていかないように赤色の革のリーシュコード(流れ止め)がセットになっている(『'69新製品と主力製品・誌上展示会』「スキーフレンド9号」(大河出版、1968年)参考)
 スキー板は朱と緑のツートンカラーのケースに入れて保管していた。
保管していた状態
☞1969年1月2日「家族五人で正月を温泉とスキーで過そうという訳である」

高野悦子の通学定期券(実物)


 今日よんだもの。「賃金、価格、利潤」「石原吉郎詩集」
 「賃金、価格、利潤」「石原吉郎詩集」☞1969年5月7日

1969年 5月11日(日)
 一二・二〇 PM
 日記の記述。昼すぎである。以下、「九日、中村氏は仕事の始まる前パントリーにいた」に続く。

 中村氏は仕事の始まる前パントリーにいた。
 パントリーはホテルにある各レストランなどの配膳室の意味である。ここでは京都国際ホテルのメイン・ダイニングのそれをさすと考えられる。

 文闘委のニャロメ諸氏とあそんで、落書きをして
 文学部闘争委員会のあった恒心館での出来事である。当時バリケードにいた学生も恒心館にネコがいたと話している。
 ニャロメ☞1969年4月29日

 シアンクレールで涙を流したあと幾らか元気をとりもどしたが、ジャズのリズムになかなかのれなかった。
 シアンクレール☞1969年2月1日
高野悦子「二十歳の原点」案内