京都:曇・最低13.0℃最高24.0℃。日中は雲が多かった。
「インターナショナル」の歌詞の写しである。
☞1969年2月6日「インターナショナルを歌う」
ここでは4月28日(月)〝沖縄デー〟の高野悦子と御堂筋デモについて、日記に記述がない動きを追う。
高野悦子が下宿から向ったのは、4月26日と同じく、立命館大学全共闘が拠点としていた恒心館である。
恒心館☞1969年3月8日
そして、午後1時過ぎから立命館大学広小路キャンパスで「全立命総決起集会」が開かれ、法闘委・文闘委・寮連合の約300人が参加した。
広小路キャンバスから向ったのは、京都市左京区吉田二本松町の京都大学教養部(現・京都大学総合人間学部)である。
京都大学教養部で、京都大学教養部闘争委員会とともに「全京都集会」が開かれ約800人が参加、デモ行進をしてから大阪へ向った。
三条駅─(京阪本線)─天満橋駅
午後6時から大阪市東区(現・中央区)の大手前公園(現・大阪城公園大手前芝生広場)で、「全関西全共闘総決起集会」が開かれ、立命館大学全共闘約400人を含む約3,800人が参加した。社会党・総評系の「沖縄返還安保廃棄大阪府民大会」に加わった形である。
京都大学全共闘や大阪市立大学全共闘などがそれぞれ闘争報告を行い、立命館大学全共闘からは佐野議長があいさつに立って中川会館封鎖に始まる闘争の報告を行った。
新左翼各派は多くを東京に動員したため前面に出ず、各大学全共闘がノンセクトの学生を吸収して大学ごとに集まった。
「この日注目されたのは、紛争校のほとんどのセクトが「全共闘」という形で大学単位で参加したことだ。石やゲバ棒などの〝武器〟は一切なし」(『平穏裡に市民高揚』「朝日ジャーナル1969年5月11日号」(朝日新聞社、1969年))だった。大荒れで逮捕者多数を出した同日の東京とはかなり趣が違った。
「大阪・大手前公園を埋めつくしたのは、2万人以上。大阪府下の加盟単産だけでなく地区、職場反戦、地区べ平連…と平和と反戦を旗じるしにする団体の旗はほとんど結集していたようにさえ見えた。それに京都、神戸、奈良県下の各大学、セクトの旗。集会は長い帯となって御堂筋に流れこみ、熱っぽい「沖縄返せ」のシュプレヒコールは2時間以上、御堂筋のいちょう並木にこだました」(『高らかに「沖縄返せ」─大阪の会場』「朝日新聞(大阪本社)1969年4月29日)(朝日新聞社、1969年))。
公園内をジグザグデモをした後、午後7時45分に出発。大手前公園─馬場町─(本町通)─本町四丁目(現・本町三丁目)─(御堂筋)─大阪府立体育会館前のルートでデモ行進した。
デモには大手前公園を出た所から大阪府警察本部機動隊による並進規制(サンドイッチ規制)が行われたが、立命館大学全共闘の一団も他大学と同じようにフランスデモ・ジグザグデモを行った。「18人が公安条例違反容疑などで逮捕されたが、混乱は比較的少なかった」(『沖縄デー─京阪神でも集会・デモ』「朝日新聞(大阪本社)1969年4月29日」(朝日新聞社、1969年))とされている。
なお御堂筋は当時まだ南行一方通行にはなっていなかった。
高野悦子の日本史学専攻の同級生でデモに参加した人は「4月28日の御堂筋突破のデモにゆきタバコがなく、すぐ後ろにいた高野さんからピースの1本をもらった時か、或はバリ内で犬や猫の話をしていた時か…こんなことはどうでも良かったかも分りません。彼女の最後の出逢いが何時だったかなんてことは」手紙(立命館大学生。高野家宛)(『高野悦子さんを囲んで』「那須文学第10号」(那須文学社、1971年))と振り返っている。
高野悦子と同じ出身地でデモに参加した人は「1969年4月28日、戦慄の群人の中に居た横顔と後姿のあなただった。郷里に来てみればあなたのシルエットだけがなおも鮮烈に残っている…(中略)…。あなたの流れ髪に、あなたのぎこちない関西言葉に、あなたのたったたった一本の煙草に、あなたの眼鏡の内に、あなたの歩調と手の仕草に、あなたの誰も知ることのない笑み顔の中に、あなたの全思想を自からの肉体で帆を上げた」手紙(西那須野町。公務員)(前掲「那須文学第10号」(※句読点を付した))と回想している。 恒心館のバリケード内にいたイヌとネコである。とくにイヌは高野悦子になついていた。
ニャロメは、マンガ雑誌「週刊少年サンデー」(小学館)に当時連載中の赤塚不二夫『もーれつア太郎』に登場するネコのキャラクター。
☞1969年1月20日「サンデーちゃんを読んでいたーんヨ」