高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 4月26日(土)
 一一・四五
 日記の記述。冒頭に出てくるが、書いた時間のことである。午前11時45分。

 雨模様なのでジャンパーかグレーのセーターかで迷う。
 26日の京都:曇、夜になって雨、最低12.3℃最高19.9℃。
 「せっかくのゴールデンウィーク開幕というのに、低気圧がやってきた。西日本は各地とも厚い雲におおわれ、一時雨のところが多い。天気図をみると、大陸から日本にかけて、高気圧、低気圧が雑居している。典型的なぐずつき型だ」「京都南部=南西後北西の風雨後晴」(『きょうの天気』「朝日新聞(大阪本社)1969年4月26日」(朝日新聞社、1969年))
 グレーのセーター☞1969年4月11日「グレーのセーターに紺のスカート」

 そろそろいこうかと思っている私、本当に行くのかいおまえさん。
 行き先は、立命館大学の全共闘が拠点としていた恒心館である。
 恒心館☞1969年3月8日

四・二六

 恒心館から向ったのは、京都市左京区吉田本町の京都大学本部である。
恒心館から京都大学本部当時の京都大学本部
 京都大学本部時計台前で、午後4時半から「4・26全関西学生総決起集会」が開かれた。立命館大学全共闘・寮連合300人を含む約2,600人が参加した。

 集会の後、京大本部構内をデモ行進した後、午後6時過ぎから京大を出発。
 立命館大学全共闘を含む約1,500人は、東一条通、東大路通、丸太町通、河原町通、四条通を通って、京都市東山区円山町の京都市円山公園音楽堂の集会にデモをしながら急ぎ足で向った。
京都大学本部から円山公園音楽堂
 円山公園音楽堂では、午後7時から京都反戦青年委員会、京都府学連(反民青系)など主催の「70年安保粉砕・沖縄闘争勝利・4・28総決起4・26全関西労学決起集会」が開かれた。
大阪や兵庫県からの学生も含め約4,000人が参加した。

 午後8時40分から、祇園石段下から四条通、河原町通のコースで、途中ジグザグデモをしながらデモ行進し、午後9時半ごろ、京都市役所前に着いて解散した。
円山公園音楽堂から京都市役所前祇園石段下
 デモには約3,000人が参加した。「デモの通過で四条河原町交差点は一時、交通が停滞した。石段下付近では混乱を恐れ、シャッターをおろす店もみられた。この日のデモは反日共系学生のデモとしてはことしにはいって最大の規模」(「京都新聞昭和44年4月27日」(京都新聞社、1969年))だった。
京都市役所前京都市役所前から恒心館泊
 26日の京都は午後8時から雨が降り始め、午後9時は降水量0.5mmの小雨になった。「京都市役所前の御池通では十数分にわたってうずまきデモをくり返したため一時交通は完全にとまった」(『沖縄デーへ動く学生─京都で4000人集会』「朝日新聞(大阪本社)1969年4月27日」(朝日新聞社、1969年))
 「シュプレヒコールを行う。叫ぶことが唯一の武器。
 市役所の前につき、歩みをとめて一服喫った。足許のアスファルトは雨でぬれているし頭には小雨が降り注ぐ。
 寂しさと無力感と充実感とが、ごちゃごちゃに混じり合い、春雨のように、独りであることを、じっくりと感じた。
 私は大声で叫びたかった」(4月28日付記述)は、この日(4月26日)のことである。

☞1969年4月28日「シュプレヒコールを行う」

 高野悦子は、このあと恒心館に戻り、そこに泊っている。
☞1969年4月29日「四・二六に参加 恒心館に泊りこみ」

1969年 4月28日(月)
 シュプレヒコールを行う。
 このくだりの記述は、4月26日(土)夜のことである。

 さし当り五日までの生活費をどうするのか。
 京都国際ホテルのバイト代が入るまでのことである。
☞1969年4月24日「あと五〇〇余円で十日間を暮さねばならぬ」

 いろんな人間を今日みて、
 この記述も含めて、本日付記述全体が4月26日のことを示している可能性がある。したがって、4月27日の中村に関する記述が出てこない。
☞1969年5月4日「二十七日、中村氏と呑みに出かける」

 今恒心館にいるが、ここは闘う学生のいる場所だ。
 恒心館にいる学生は、立命館大学全共闘である。

 「生きてる 生きてる 生きてるよ バリケードという腹の中で…」
 「叛逆のバリケード」の巻頭に所収されている詩「生きてる 生きてる 生きている バリケードという腹の中で 生きている…」(前掲「叛逆のバリケード─日大闘争の記録─増補版」)のことである。
☞1969年2月22日「今「反逆のバリケード」を読んでいる」

 さしあたって日本史闘争委員会と行動を共にしよう。
 日本史闘争委員会は、立命館大学全共闘のうち文学部史学科日本史学専攻の学生の集まり。当時の立命館大学全共闘で専攻別にみて有力だったのは、文学部の日本史闘争委員会と法学部闘争委員会である。
 日本史闘争委員会は、“師岡問題”を発端に、中川会館の封鎖をめぐって話し合い路線をとった看板教授陣が辞職。さらに教授陣がいなくなった中でのレポートによる期末試験、入試実施という事態を経て、大学当局との対立が先鋭化した。
 「われわれ日本史闘争委員会、文闘委は人間を解放するために、自己を解放するために徹底的に現行大学制度の解体を目指し闘うことを宣言する」とした(『商品と化す「学問」─日本史闘争委からの報告』「立命館学園新聞昭和44年4月14日」(立命館大学新聞社、1969年))
☞1969年1月23日「師岡問題」
☞1969年1月25日「教授が相ついで辞表を提出するなど、立命は実質的に崩壊しつつある」
高野悦子「二十歳の原点」案内