高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 4月22日(火)②
 家から手紙がきていました。
 4月13日に続いての実家からの手紙である。改めて大学の授業料を払い込むようにという趣旨であった。
☞1969年4月13日「家からの手紙。十五万円送ったとのこと」

 バックに「日本歴史」「山本太郎詩集」をいれて、チリンチリンと鈴をならしながら出かけました。
 「日本歴史」は、家永三郎等編「岩波講座日本歴史21(現代4)」(岩波書店、1968年(第3次予約))である。
☞1969年4月19日「岩波歴史講座」
 「山本太郎詩集」は、「山本太郎詩集」現代詩文庫(思潮社、1968年)である。
☞1969年4月16日「きのうは「かるちえ・じゃぽね」を読み」
☞1969年4月25日「山本太郎の「どこかに俺の存在を悲しんでいるもの」」

 堀川今出川の交差点まで
堀川今出川の交差点

 青木書店にいって、お料理の本、ジャズの本、詩の本、写真の本を立ちよみし、「現代の理論」と「海」を買いました。
 立ち読みしたのは書店の1階である。
 アオキ書店☞1969年4月18日「アオキ書店で、スープの本とカクテルの本を立ち読みした」
 「現代の理論」5月増大号は、4月19日発売、250円。
☞1969年1月10日「「現代の理論」などを読んですごす」
 「海」は、中央公論社発行の文芸に関する月刊誌、発刊記念号は220円。表紙の海の字は川端康成の書である。
現代の理論海

 喫茶店「マロン」に入って、コーヒーとトーストを食べました。

まろん(マロン)

 「マロン」は、京都市上京区烏丸通丸太町上ルにあった喫茶店「まろん」である。建物は現存しない。
まろん地図マロン跡

 そこに二時半までいて「海」の〝現代の言葉とは何か〟を読み共感するところ大いにあり、
 〝現代の言葉とは何か〟は、いいだ・もも、開高健、村松剛、山崎正和『現代の〝言葉〟とはなにか』「海 発刊記念号」(中央公論社、1969年)である。
 いいだももが「たとえば死の世界なんていうのは、だれも感ずることはできないんだから、皮膚感覚では表現することはできないんだろうけれども、それに対してことばを持つということが、人間にはあるんだと思う。人情のある人間というのは、そういうものを持っているんだろうと思うけれども、そこで、おれはこれを皮膚で感じたんだというところを書けば、いまの世界の深奥に到達できるということは、どうもないのじゃないかという気がするんだけれども、どうかしら」(『現代の〝言葉〟とはなにか』「海 発刊記念号」(中央公論社、1969年))と発言している。

 一服してから井上清の「第二次世界大戦後の日本」にとりかかりました。
 バックにいれてきた「日本歴史」の中の論稿、井上清『第二次大戦後の日本と世界』(家永三郎等編「岩波講座日本歴史21(現代4)」(岩波書店、1968年(第3次予約)))である。

 ファイト十分になったところで「マロン」を引きあげ広小路にいきました。
まろんから広小路キャンパス

 眠くなるような陽ざしをあびて、全共闘が集会を開いていました。
 午後3時ごろの気温は19℃で、夕方にかけて雲が減った。
 4月22日(火)午後2時半から、広小路キャンパスの存心館前で、京都大学・京都府立医科大学・立命館大学の3つの大学などの全共闘約300人が集まって、三大学全共闘総決起集会が行われた。
 立命館大学の全共闘は「無責任で無内容な理事会を徹底的に粉砕していく」とあいさつを行った。「休み明けで学園から遠のいていた学生や新入生などに今の大学の状況を告発する第一波としての意味」(「立命館学園新聞昭和44年4月21日」(立命館大学新聞社、1969年))があるとされた。

 私のこれからの生活は、月六五〇〇円の親の金と、およそ一五〇〇〇円の賃金でまかなうこと
 月6,500円は、川越宅の下宿代の分である。

 Silence is Golden
☞1969年4月24日「沈黙は金。」
☞1969年5月2日「沈黙は金」
☞1969年6月22日①「沈黙は金!」

 四・二六
 四・二八
 五・一  をどのように闘うべきか。
 四・二六は、4・26全関西学生総決起集会─全関西労学総決起闘争に関する一連の闘争のことである。
 四・二六☞1969年4月26日
 四・二八は、“沖縄デー”に関する一連の闘争のことである。
 四・二八御堂筋デモ☞1969年4月29日
 “沖縄デー”とは、1952年4月28日に「日本国との平和条約」(サンフランシスコ条約)が発効し、沖縄がアメリカの統治下に置かれ、その後アメリカによる基地化が進んだ日を意味する。
 1969年は沖縄が日本に返還される前で、当時沖縄問題が70年安保延長とともに大きな政治的社会的争点となっていた。
高野は沖縄問題について沖縄の人の生活の観点から関心が高かった。
☞1969年2月2日「沖縄問題が論議を呼んでいるが」
☞1969年2月4日「〝声明〟沖縄県民のいのちを守り生きようとする闘いを支援し」 
☞1969年2月20日「「極東の安全と平和」を掲げて沖縄県民の命を圧殺し闘いを弾圧する」
 五・一は、メーデーに関する一連の闘争のことである
 五・一メーデー☞1969年5月2日

 授業料を払うべきか、否か
 本日付記述「家から手紙がきていました」の手紙の中で授業料を払い込むようにという趣旨が書いてあったためである。
高野悦子「二十歳の原点」案内