高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点序章(昭和43年)
1968年1月2日(火)
 およそ二〇日前、佐藤さんに同盟に入ることをすすめられたころは、
 佐藤さん☞1967年12月13日「佐藤さん、安藤さんらに民青加入をすすめられた」
 同盟☞民青

 朝の食卓で、おめでとうを言われたとき、
 食卓☞高野悦子の実家

 小紋を着、写真をとり、同級会に行かないとねばり、
小紋を着た写真
小紋を着て  日記の記述で写したことを明記している写真である。実家で撮影した。小紋とは模様が入った外出向けの和服。
☞1967年12月31日 「おかげで体重四七キロとふえて、まるまるとした顔になった」
☞原点1969年1月6日「着物をきて写真をとれと母がうるさく言う」

 同級会☞西那須野町立西那須野中学校

1968年1月10日(水)
 部落研、退部の決意
 部落研☞ 1967年5月10日
 正式に退部の申し出をするのは4月13日(土)になる。
☞1968年4月13日「やめるべき理由はないがやめますと吉江さんにいったら」
 
 同学年で部落研を1年生だけで退部または活動を止めたのは高野悦子以外にも複数いる。そもそも大学で様々な理由からサークルを1年で離れること自体は珍しいことではない。

1968年1月11日(木)
 河上さん、浦辺さん、長沼さんと話をした。
 いずれも日本史学専攻の同級生のうちの民青のメンバー。
☞1967年5月11日「長沼さん、浦辺さん、桜井さん、松田さん、北垣さん達のグループはそれぞれ民青の会員として活躍している」

 (『ものいわぬ農民』岩波新書p46より)

ものいわぬ農民 「ものいわぬ農民」岩波新書(岩波書店、1958年)は大牟羅良(1909-1993)の著書。戦後復員し、当時「日本のチベット」と言われた岩手県で古着の行商として山村を回りながら、農家のいろり端で耳を傾けた村人の話などを元にまとめた農村の生活や文化についての報告である。
 引用部分の原文は以下の通り。
 「行商の旅、それはつらいながらも自分の足どりで、自分の意志で方向をきめられる自由があり、体が疲れればいつもより早くきり上げて帰宅し、体を横たえる自由もあったのです。
 春もあたたかい陽ざしが身にしむ頃の昼下り、私は、やや軽くなりかけた風呂敷包みを背負って、渋民村の二つ森という丘の裾野─二つ森というのは、ふっくらと盛り上った草の丘なのですが─その裾野をよぎりながら、〝俺には自由がある、俺には自由があるんだ!〟と絶叫したいような衝動に駆られたことがありました」(大牟羅良『行商四ヵ年』「ものいわぬ農民」岩波新書(岩波書店、1958年))


1968年1月13日(土)
 朝、七・三〇に目が覚めて、寒いなあと思っているうちにたちまち時間がすぎて、
 前日の1月12日(金)のことである。
 1月12日・京都:晴・最低-3.6℃最高10.0℃。放射冷却で年明けからでは最も冷え込んだ。午前7時30分の屋外の気温は-1.0℃前後。

 「芸術」には間に合わないし「経済」にもおくれる。
 第1時限(09:00-10:30):芸術学(梅原猛教授)
 第2時限(10:40-12:10):経済学(瀬尾芙巳子講師)


 十一時ごろ大学に着いたのだが、社学同らしき人のアジを聞いていて、午前中の授業には出なかった。
 米原子力空母エンタープライズの佐世保寄港に反対する立命館大学一部文学部(反民青系)の集会が1月12日(金)午後3時半から存心館16号教室で開かれることになっていた。
☞原点1969年2月6日「社学同が入試阻止をもちだす」
☞原点1969年5月13日「私のAgitationより」

 その後、牧野さん、大村さんと「生物」「文学」をうける(偶然)。
 牧野さんの名前が日記で登場するのはこれが初めてである。
☞原点1969年2月6日「酔いながら牧野さんのところへいく」
 
 第3時限(13:00-14:30):生物学(菊池立身教授)
 第4時限(14:40-16:10):文学(本野亨一講師)


 『青春の墓標』を読み、「岩波歴史講座」を少しやり、

 青春の墓標☞宇都宮で1966年①
 岩波歴史講座☞1969年4月19日「だからこんなに遅くまで岩波歴史講座をひもといて頑張っているわけ」

1968年1月15日(月)
 晴
 当時は1月15日が成人の日の祝日だった。2000年からハッピーマンデー制度の導入に伴い、成人の日は1月の第2月曜日に変更された。
 京都:晴・最低-3.5℃最高4.4℃。 平気気温が-0.3℃しかなく、この冬で最も寒い一日だった。
 
 『異邦人』を、いこくじんと牧野さんに言われてああそうなのかと思い、長沼さんにいほうじんだといわれて、
 アルベール・カミュ(仏、1913-1960)の小説「異邦人」(1942年)のことである。ここでは大学の「文学」での講義内容に関係して話題になった可能性が高い。なお奥浩平『ノート1965年1月21日』「青春の墓標」(文藝春秋新社、1965年)。

 三派系の中核派が法政から飯田橋に向う途中で乱闘事件(?)をおこし、百数十名が検挙された。
 1月「15日朝、米原子力空母エンタープライズの寄港阻止で、東京・千代田区の法政大学を出て、東京駅から佐世保に向おうとした反代々木系全学連中核派の学生約200人が、学外へ出たところで、警戒中の警視庁機動隊員にこん棒などでなぐりかかり、乱闘となった。
 このため、学生側に13人。警官隊に10人のけが人を出し」「学生131人(うち女子学生15人)が凶器準備集合罪の疑いで検挙された」(『学生、機動隊と衝突─原子力空母の阻止』「朝日新聞(夕刊)1968年1月15日」(朝日新聞社、1968年))
 「米原子力空母エンタープライズ寄港阻止のため15日朝東京・市ヶ谷の法政大学から佐世保に向け出発しようとした反日共系三派全学連中核派の学生約200人が、国電飯田橋駅近くで警官隊400人と衝突、学生131人(うち女子15人)が凶器準備集合罪、公務執行妨害現行犯で警視庁に逮捕された。また警官10人、学生13人が頭などに軽傷を負った」(『佐世保行き学生に先制─三派系の131人逮捕』「京都新聞(夕刊)昭和43年1月15日」(京都新聞社、1968年))

 マル学同中核派
☞1969年2月17日「十数人の中核が雨にぬれ意気消沈した様子でデモッており」

1968年1月16日(火)
 エンタープライズ寄港に関するビラ、討議資料、新聞をよんだ。
 エンタープライズはアメリカ海軍の当時世界最大だった原子力空母。「エンタープライズを中心とする米原子力艦艇は19日朝、佐世保港に入港した」「昨年11月2日、政府がエンタープライズの寄港を承認してから2カ月半ぶり。また39年11月、佐世保に原子力潜水艦が初寄港してから3年2カ月ぶり」(『米原子力空母、佐世保に入港』「朝日新聞(夕刊)1968年1月19日」(朝日新聞社、1968年))
 民青系府学連は1月16日(火)に立命館大学広小路キャンパスで抗議行動の決起集会を開き、約300人が参加した。

 〝分裂主義者〟の方法がまちがっているように思う
 分裂主義者☞1967年5月13日
 このビラ、討議資料等は共産党・民青系のものということになる。
高野悦子「二十歳の原点」案内