高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 1月 2日(水)
 三十一日午後、西那須野を出発し三時間余りで飯坂温泉に着く。家族五人で正月を温泉とスキーで過そうという訳である。

高野悦子の実家

 高野悦子の実家は、国鉄(現・JR東日本)東北本線・西那須野駅からほど近い栃木県西那須野町(現・那須塩原市)扇町にあった。
高野悦子の実家高野悦子の実家地図
 現在はマンションが建っている。なお現在のJR東北新幹線の用地には以前アパートがあったため、実家の建物が1969年当時、国鉄東北本線に直接面していたわけではない。
高野悦子実家跡
 栃木県西那須野町(現・那須塩原市)─国道4号─福島市。
 飯坂温泉は福島市北東部の飯坂地区にある温泉である。旅館・ホテルなどで温泉街を形成している。
温泉スキー場地図飯坂温泉

 一日はバスで三十分の栗子スキー場で初すべり。
栗子国際スキー場
当時のゲレンデ 栗子国際スキー場は、山形県米沢市板谷にあるスキー場である(地図上)。1967年12月にオープンした。
 1966年の国道13号栗子峠新道(当時の通称・栗子ハイウェー)開通にあわせ、「自家用車でスキー場へ」をキャッチフレーズに、地元中心に設立された板谷観光開発が開発した。用地には福島側からみると東栗子トンネルを過ぎて南側の鉢森山の北斜面一帯の約20haがあてられた。
 スキー場は国道沿いの立地で、雪質が良く、北斜面で雪どけが遅く春スキーも楽しめることが売りだった。
 1969年1月当時には、ロッヂ栗子(旅館・食堂・売店)とリフト3基、夜間照明などの施設とともに「グランプリ」「エコー」「バレーライン」と名付けられた初・中級向き3コースを擁していた。

 「飯坂温泉入口を左手に折れると、道は次第に上り坂になって、白い山波の奥羽山脈へと曲折が続く─。
 けわしい峡谷も赤い巨大なアーチ橋で難なく越える。やがて、新栗子トンネルである。だが、路面に雪がないのに驚かされる。よほどの豪雪でもない限り、チェーンの装着はいらない。雪崩防止のための独特の設計がしてある栗子トンネルの黒い入口は、実にダイナミックな形で自動車をのみ込む。このトンネルは、2,675m(日本第3位)の東栗子トンネルと2,375m(同5位)の西栗子トンネルが並んでいる。二つのトンネルの間に最近できた栗子国際スキー場があって、その雄大なゲレンデと道路直結の便利さが受けて人気も急上昇中。たしかに福島市から30分と便利な上に、しゃれたロッジが1800円と宿泊代も安い。ロッジの裏手から銀色に輝く奥羽山脈のうねりに向かって、2本のリフトがV字形にのびて、スカイブルーの空に消える雄大さは、胸はずませて訪れるスキーヤーの期待を裏切らない景観といえよう」(『国道13号ドライブ』「SKI journal1968年11月号」(冬樹社、1968年))

 板谷観光開発は1976年に東日本フェリーへ経営権が譲渡されたが、キャンプ場や温泉施設などの積極拡大が裏目に出て赤字が膨らむ中で東日本フェリーが倒産したことにより2003年に倒産した。
 しかしスキー場は元従業員で設立された新会社が継続して営業を行っている。現在は初級から上級までの6コースになっている。
高野悦子のスキー道具(実物)

 けれども、母は、父は、昌之は、ヒロ子ちゃんは、どれだけ私を知っているのであろうか。
 高野悦子の両親は、高野三郎と高野アイ。昌之は弟、ヒロ子は姉である。この4人は実名で登場している。
 「父親の三郎も母親のアイも、品の良い落ち着いた人柄で、高野悦子の本を読んだ読者のイメージを裏切らない」(桐山秀樹『夭折伝説』「Views1995年9月号」(講談社、1995年))とされる。
 高野悦子は外見的には母親に似ているとされている。
母・高野アイさんと会って
☞二十歳の原点ノート1963年11月3日「おとうさんとおかあさんについて」
☞巻末高野悦子略歴「七人家族」

 父は、東大問題にしろ自衛隊にしろ、元地主の反共主義と僅かのインテリぶりと県庁の管理職からくるものとが混じりあって、その思想が作られている。
高野三郎氏肖像 高野悦子の父である高野三郎は45歳、栃木県庁勤務。
 高野三郎は、1923年9月7日栃木県西那須野村(現・那須塩原市)生まれ。1946年京都帝国大学農学部卒業。神奈川県庁勤務後、1947年栃木県庁に入り、教育次長、民生部長をへて、1981年退職。
 1982年7月から西那須野町(現・那須塩原市)の町長を2期・8年間務めた(「西那須野町の行政史─西那須野町史双書4」(西那須野町、2001年)参考、写真右は同248頁引用)
 2001年6月10日午前、脳こうそくのため西那須野町(現・那須塩原市)の自宅で死去、77歳だった。

 高野「悦子さんの幼年時代はご先代の初蔵さんがすでに一代で巨万の富を築きあげていたときでした。それほど素封家になってもご先代はいわゆる不労所得の上に坐して食うという人ではなかったのです。元東小学校の前に小さな文房具店を出すかたわら、投資先に木材製造業者があれば、そこからバタ薪を引取ってきてそれを小売しました。
 それでも、さすがに行楽旅行に出れば一流の旅館旗亭にのぼるので、客の風格に好奇心をもった女中や仲居が「お嬢ちゃんのおうちは何のごしょうばい?」などと聞きますと、「うちは図画がみ屋さんよ」と答えるのを常としました。ご家族はその答え方に興じられたものでした。…(中略)…
 悦子さんのからだには、このご先代の気風をどこかに受け継いでいたからにちがいありません。もしかしたら、そのご気性が社会問題の方へ向ったのではないでしょうか。…」談話(西那須野町・映画館主)(『高野悦子さんを囲んで』「那須文学第10号」(那須文学社、1971年))
 なお先代の高野初蔵は、西那須野町議会議員を3期(1936~1947年)務め、西那須野町議会副議長の時期(1946~1947年)もあった。
☞二十歳の原点ノート1963年11月3日「山とか土地代とか、家賃がはいってくるからです」
 高野家は、いわゆる〝地元の名士〟にあたる。

 山小舎のコンパのとき増田さんが言っていた。
立命館大学ワンダーフォーゲル会山小屋 山小舎は、高野悦子が所属している立命館大学ワンダーフォーゲル会が京都府京北町(現京都市右京区)で管理・運営する山小屋。同会では山小舎(やまごや)という表記も使っていた。
 高野悦子は同会のメンバーとともに1968年12月13日(金)から3連泊している。コンパは、12月15日(日)夜に開かれた。
☞二十歳の原点序章1968年12月16日 「山小屋コンパ」
高野悦子「二十歳の原点」案内