霊波之光先祖浄霊祈願の申込用紙を入手



破折


低級霊は存在しません

霊魂などというものは存在しません


霊波之光の定義する低級霊とは
@ もとよりこの世に肉体あるいは他の物体をもって存在したものではなく、初めから神と同じように霊体であり、神と同じように元より存在しているものである。
A 人間のみしかも神に守っていただけない低級霊と同じ波長の持ち主だけに近づく。
B 意思を持って主体的な活動をし、単に霊魂をもてあそぶだけではなく、ときには、生きていたときの姿や名前を利用して、物質化現象を起こすこともできるのである。
としており、 C自然災害などは低級霊の仕業である。とあります。

しかしよく考えて下さい。
物事にはすべての事柄には原因があって結果が存在いたします。原因があるから結果が出てくるのであり、原因なくして結果だけが出てくるなどという事は1つとしてありません。
従って元より存在しているなどということが道理に反しています。
天地・宇宙を創造する前に神はどこにいたのでしょうか?
天地・宇宙が存在しないと神が存在する状況も存在しません。
従ってこのような道理に反している霊波之光の神も低級霊も実は存在しないのです。

また精神のあるところには必ず肉体があり、肉体があるところには必ず精神が具わるというのが宇宙森羅万象を貫く道理であります。精神だけが存在するなどということは絶対にありえないのです。
従ってそのような影形もなく意思を持っているという低級霊など道理の上で存在いたしません。


先祖からの因縁などというものは存在しません


霊波之光では先祖からの因縁について以下のように定義しています。
@ 人間は死によって全ての罪は清算される。生きているときに作った罪は全てこの世において行き、子孫に浮き出ることになる。 
A 霊波之光では全ての人は「神の守りを受けていない」「宇宙の法則を犯している」ので善人だろうと悪人だろうと全て「悪人」として処理されている。
B 日常生活の中で、悩む、悔やむ、ねたむ、怒る、憎むといった想念の累積を後天性の因縁という。自分で後天性の因縁をつくる人は、絶対というほど先天性の因縁を引き出しているものである。
C  宇宙の法則を守り、神の守護のもとに生きている場合は、罪による苦しみとか、宿命的な不幸なこと(先天性の因縁によるもの)は起こらないのであって、すべて天命である。
D 霊波之光に入信、神通力をもって宿命的な苦しみから助けてもらえる。
そして、神の教えを学び、神の目的(地球上に、真の平和をつくり上げる)の前にひれ伏し、神の目的(地球全部の人類を救う)に従って進むことによって救済されていく。
E 宇宙の法則を犯し、神に守られていない、祖先の人間がつくった宿命的な苦しみは、三代の因縁といって、寿命でいけば顔を合わせるようにできている三代の人、つまり、祖父、祖母、自分、妻、子供、孫、この中に必ず浮き出るのである。
としていますが、


しかし考えて下さい。
@ 個々の行為により、善悪・苦楽の業が生じるというのが因縁というものであり、自らの作った業因の果報は他人が変わりに受けることなどありえないのです。子供の病気や怪我を親が代わることはできません。
まして会った事のない先祖の果報を子孫が身代わりになることもありません。

A 先祖の因縁なるもので霊波之光では一括りにしているが天文学的数字の先祖を一括りにすること自体に無理があるのではないでしょうか?
人間の体は、親子、兄弟、夫婦といえども、それぞれ別々。生まれるときも別々、死ぬときも別々である。それは何千人何万人いる先祖も然りであります。何千人何万人いる先祖の身代わりになどなれる道理など全くありません。

B 両親が霊波之光の信者の子供でも障害を持って生まれてきている者もおり、先天性の因縁なるものは、霊波之光の信者でも逃れようがないというのが現実です。
そしてそれに対する救済の方法が霊波之光の信者になることだけならまだしも、日常生活の中で、悩む、悔やむ、ねたむ、怒る、憎むといった想念の累積を後天性の因縁といい、自分で後天性の因縁をつくらないこととあり末法の凡夫には実現不可能なことです。
両親が霊波信者である生まれながらの信者にも障害などの差別が存在している状況は現実に存在している以上、霊波之光を信じていようといまいと苦しみは立て続けに起こってくるということであり、
つまり先祖からの因縁なるものがあろうとなかろうと我々の生活には全く関係ありません。


神通力などまやかしです


霊波之光の定義している「霊波」とは
@ 神通力とは神の御心によって、神が必要として、起こすものであり、
A 神の悟しを、一個人の体験と考えている者はすべて、神の救いはなく、神の必要に応じ、神の使いを果たさなければならない。
B 入信早々、神はあるぞと、それぞれの苦しみを取ってもらっても、迷ったりして、神の「法」教えを受け入れようとしない者は、信仰者とはいえない。
としています。
そして、C 神に助けられていながら、神に向かって罪を犯す。しかも、信仰のなかで罪をわびていながら、そのすぐ後に、罪を犯していることすらわからないのが、人間の日常の姿なのである、罪とは「神の守りから離れる罪」であるとしています。


しかし考えて下さい。
これでは霊波之光の神は「神の都合」でしか救わない、身勝手な神であり、神から守られてこれからも神通力の恩恵に浴すためには、霊波之光の宗教活動をすることであるが、それでも人間はそのときの状況で「神の守り」から離れることがあるので救われないことがあるということです。
このような身勝手で不安定な神が本当に人類を救えるのでしょうか?
望むべくもありません。


ガンなどの業病から助けられてもまた再発した場合、そして命を落としてしまった場合でも、急病や事故で突然亡くなったとしても「この人は神の守りから離れたので死んだんだ」ということで片付けられてしまいます。

元プロ野球選手で御大神後援会員故大杉勝男さんもこのような言い草で片づけられたのです。
不幸にして入信しても救われない人は「神の必要な人」とはみなされないと霊波之光では実は言い切っています。


「神の守りから離れる行為」について霊波之光では日常生活の中で、悩む、悔やむ、ねたむ、怒る、憎むといった想念の累積を後天性の因縁といい、自分で後天性の因縁をつくらないこと、などと述べておりますが、
現実には末法の凡夫には実行不可能なことばかりであります。

実現不可能なことを教義として弄んでいる以上、一時的に「神通力」なるもので救われたとしても結局人生の真の幸福を勝ち取っていけるような大きな利益は絶対にないということです。

結論として霊波などまやかしです。
信じるには値いいたしません。