投稿者 : たかぼん (元のメッセージ) | 投稿日時 : 2008/04/17 5:53 |
世の中の全てのことは原因があって結果が存在いたします。
日蓮大聖人も御両親があってその下に貞応元年(1221年)にお生まれになっているわけです。
そして修行するという原因があって、仏になるという結果が生じました。
神の御声は肉体は両親からもらい、霊魂は神から生じるという邪説を立てておりましたが、
肉体自体は両親の生殖行為によって発生するという事は分かるが、
なぜ神からAという人の霊魂が発生して両親の生殖行為によって受胎した時に
霊魂と結びつくのかのメカニズムを当方は質問いたしましたが回答できませんでした。
最終的には遁走するであろうとおおよそ察しはついていた。まさに予想通りであります。
即ち「教義など何もない根っからの作り話とでっち上げ」の教団の説明など「神の御声氏の信ずる教祖」すら出来るはずがないのであります。 神の御声氏は、ただ洗脳されて「正しい」と思い込んでいるだけという事です。 従っていずれは返答不能となり遁走してしまうこととなります。 「法論」とは「文証を明示し、理屈が通るのかを検証し、自分の教団の正当性を証明すること」であります。 教団の出している文書を書きなぐるだけでは正当性の証明をしたことにはならないということを知らなければなりません。 はっきり閲覧者にお話させていただきます。 「低級霊」なるものも、「霊魂」なるものも、「大宇宙神」なるものも、「先祖からの因縁」なるものも、そして「宇宙の法則」なるものも教団や教祖のデッチアゲであるということです。 これを神の御声氏は自分の言葉やふるまいで証明したということです。 以上 以下は法論記録です。 |
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名前:たかぼん 日付:2008年3月7日(金) 0時12分 | |||||||
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名前:たかぼん 日付:3月7日(金) 19時35分 | ||||
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名前:たかぼん 日付:3月7日(金) 19時48分 | ||||||||||||||||
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名前:たかぼん 日付:3月11日(火) 16時30分 | ||||||||||||||||||||||
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名前:たかぼん 日付:3月14日(金) 5時16分 | ||||||||||
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名前:たかぼん 日付:3月15日(土) 17時35分 | ||||
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名前:たかぼん 日付:3月16日(日) 16時17分 | ||||
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神の御声氏回答不能により敗北が確定いたしました。
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名前:たかぼん 日付:3月24日(月) 2時58分 | ||
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追伸
平成24年7月29日、霊波之光札幌支部を折伏のため訪問、体験相談員さんにお伺いしたところ、霊魂は母体に着床したときに神から霊魂が与えられる、分娩したときではないという話を聞きましたが、
御書その他の霊波之光の文献からの文証は証明することができませんでした。
私はその体験相談員さんに対して、「あなたや教団の方の体験談は否定しないけれども、これは他の教団の方にも同じような体験をされた方もいて霊波之光の人だけがそういう体験をしているわけでない。
教団の教えが正しいかどうかは、文献上の証拠「文証」、道理に適っているかいるかどうか「理証」が揃って初めて正しいと言えるのであって、それがないのならば「盲信」と言うのですよ、とお話させていただきました。
参考資料:諸宗破折ガイド428頁 霊魂破折
概説
霊魂に関する概念は死霊や祖霊と結びついた考え方として、古代から世界各地に存在していますが、地域や時代、文化や宗教によって異なっています。
俗信における霊魂とは身体に宿ってその精神や生命をつかさどり、死を迎えると肉体を離れて浮遊したり、どこかに存在するものと考えられているものであり、「たましい」などとも表現されているが、仏教で「生命」を指していう「たましい」とはまったく別のものです。
霊魂について、古代ギリシャでは気息・呼吸を意味する語とされ、これは肉体が滅ぶと独立した自由な存在となり不滅であるとされていました。
この観念は次第に発展して、霊魂こそが人格や精神の根元であると考えられるようになり、キリスト教ではこれを「アニマ」と表現するようになりました。
また、インドのバラモン教では、身体は単なる器であり、これに宿った霊魂こそが常住不変の実体「我」であると主張しました。
これに対して釈尊は、仏教の初歩段階の小乗の法門において「苦・空・無常・無我」の四念処を説き、バラモン教が主張する「我」という固体的な霊魂の存在を否定しています。
日本での「霊魂説」は祖先崇拝を基盤としています。
古代においては、亡くなった人の死霊(霊魂)は生きている者に障りをなす恐怖の対象と考えられ、精霊信仰(アニミズム)をもととする俗信や神道によって、盛んに死霊に対して鎮魂の儀礼が行われていました。
そして、この鎮魂祭祀を一定期間行うことにより、悪霊である死霊は子孫を守る「祖霊」へと変化し、更に信仰崇拝の対象である「神霊」に昇華すると考えられるようになりました。
以来、この原始信仰の祖霊崇拝が、日本の霊魂説の主流をなすようになります。
奈良・平安時代になると、強い怨念をもって非業の死を遂げた人の霊魂は、一般の鎮魂儀礼では鎮めることができない「怨霊」として恐れられるようになり、「たたり」の考え方や、「御霊信仰」が発生した。北野天神の菅原道真などは当初、怨霊として祀られたものです。
その後、この霊魂の観念は、時代の変化に伴って、神主・巫女・修験者などに様々に意義付けされ、多くの宗教を生む元となりました。
現在では、神道や俗信のみならず新興宗教や新新宗教でも、善と悪の霊魂が存在するという考え方や、祖先崇拝の感情を「たましい」や「霊」などの言葉にすり替えてその教団の教えや儀式の拠り所とするものが多く見られます。
破折
仏法においては、三世(過去世・現世・未来世)にわたる永遠の生命観と、色心は一如である(色とは物質或は身体を云い、心とは精神のことである。物事の一切は皆色と心との二法に帰するのである。)ことが明かされて、特別な霊魂等が存在しないことが明かされています。
すなわち、不幸や災害は。霊魂(悪霊)によってもたらされるのではなく、自らの心身両面に渡る行為の因果によって起こるものです。
従って、「霊魂」が独立した形をもって、人に災いをもたらしたり、子孫を守るなどの特別なはたらきをすると説く「御霊信仰」や新興宗教などの霊魂説は真実の生命論とかけ離れた迷信であります。