・神通力とは神の御心によって、神が必要として、起こすものなのである
・神の悟しを、一個人の体験と考えている者はすべて、神の救いはない。具体的には神の必要に応じ、神の使いを果たすべきである。真の神の実在(霊波之光)を一人でも多くの人に知らせ、大いなる集まりとなり、心をもって、世界平和の祈願をすることが必要なのである。
神の必要な人となれる者のみが、『本当の救い』が得られるのである。
・入信早々、神はあるぞと、それぞれの苦しみを取ってもらっても、迷ったりして、神の「法」教えを受け入れようとしない者は、信仰者とはいえない
・神に助けられていながら、神に向かって罪を犯す。しかも、信仰のなかで罪をわびていながら、そのすぐ後に、罪を犯していることすらわからないのが、人間の日常の姿なのである。
・「罪」とは「神の守りから離れる罪」である
・霊波之光の神は「神の都合」でしか救われない、身勝手な神であり、神から守られてこれからも神通力の恩恵に浴すためには、霊波之光の布教などの宗教活動をすることが大切であるが、
それでも人間はそのときの状況で「神の守り」から離れることがあるので救われないことがある、
これまた非常に身勝手な神である。
ガンなどの業病から助けられてもまた再発した場合、そして命を落としてしまった場合でも、急病や事故で突然亡くなったとしても「この人は神の守りから離れたので死んだんだ」ということで片付けられてしまい、このような身勝手な「神」が人類を救うことなどできるはずがない。
・霊波之光では日常生活の中で、悩む、悔やむ、ねたむ、怒る、憎むといった想念の累積を後天性の因縁といい、
自分で後天性の因縁をつくらないことと「神の守りから離れる行為」について述べているが、末法の凡夫には実行不可能なことばかりである。
実現不可能なことを教義として弄んでいる以上、一時的に「神通力」なるもので救われたとしても結局人生の真の幸福を勝ち取っていけるような大きな利益は絶対にない。
・昭和59年3月19日午前5時10分に教祖の長谷義雄は68歳で心筋梗塞で頓死していて。自分すら救えず、自ら神の守りから離れていたということである。
長谷義雄は自分が実践できないことを他人に要求している身勝手な「神」であったということでありその言葉通り、神の守りから離れ頓死していったということである。
以下が法論記録です。
投稿者 :たかぼん | 投稿日時 : 2008/03/02 13:50 |
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名前:たかぼん 日付:2月21日(木) 21時16分 | ||||
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名前:神の御声 日付:2月24日(日) 13時37分 | ||||
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名前:神の御声 日付:2月25日(月) 12時45分 | ||||
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名前:神の御声 日付:2月26日(火) 16時58分 | |||||||||||||||||||
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名前:神の御声 日付:2月29日(金) 15時33分 | |||||||||||||
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投稿者 : たかぼん | 投稿日時 : 2008/03/02 14:05 |
神の御声氏の言動を整理いたしますと
@ 3395より「神通力とは神の御心によって、神が必要として、起こすものなのである。」
A 当方は3396で「神が必要として起こす奇跡とはいかなる基準で決められるのか」と質問したところ
3397により「何千年もの間、神を失っていた人間に、神の実在を教え悟すものが、神通力による奇蹟の現象である」と回答しております。
B
当方は3398で「神の存在を知って更に願い事などがあった場合は救われないということもあるのか?」と質問したところ
3401により「神の悟しを、一個人の体験と考えている者はすべて、神の救いはない。」
と回答しております。
C 3402において「神の悟しを一個人の体験と考えている者というのは具体的にどのような人を言うのでしょうか?
」と質問したところ
3403において「神の必要に応じ、神の使いを果たすべきである。真の神の実在(霊波之光)を一人でも多くの人に知らせ、大いなる集まりとなり、心をもって、世界平和の祈願をすることが必要なのである。神の必要な人となれる者のみが、『本当の救い』が得られるのである。
」と回答しております。
D 3404において当方はこれに対して「不幸にして入信しても救われない人は「神の必要な人」とはみなされないと貴殿は言い切るわけですね。」と訪ねたところ本人は珍論を繰返しました。
ようやく3412において「入信早々、神はあるぞと、それぞれの苦しみを取ってもらっても、迷ったりして、神の「法」教えを受け入れようとしない者は、信仰者とはいえない」と回答いたしました。
E
当方はそれを受けて3413において「その人は導きもしているし、金銭の寄付も労力の奉仕もそこそこやっている人が突然心筋梗塞や心臓発作、脳梗塞等で亡くなった。
そういう人の場合、教団としてはどのように判断されますか?」と質問したところ 3414において「神に助けられていながら、神に向かって罪を犯す。しかも、信仰のなかで罪をわびていながら、そのすぐ後に、罪を犯していることすらわからないのが、人間の日常の姿なのである。
」
と回答いたしました。
F
この時点で自分の言葉で霊波之光の「神通力」なるものがまやかしであることを十分自分の言葉で証明したのですが、仕上げに3415において「罪」とはなんですか?と質問しました。
そうしたところ「神の守りから離れる罪」だと言ってくれたのであります。
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投稿者 :たかぼん | 投稿日時 : 2008/03/02 14:25 |
検証させていただきます。
神の御声氏の言動は、@霊波之光の神は「神の都合」でしか救われない、身勝手な神であるということ、
Aそして神から守られてこれからも神通力の恩恵に浴すためには、霊波之光の布教などの宗教活動をすることが大切であるが、
それでも人間はそのときの状況で「神の守り」から離れることがあるので救われないことがある、これまた非常に身勝手な神であることを証明したのであります。
ガンなどの業病から助けられてもまた再発した場合、そして命を落としてしまった場合でも、急病や事故で突然亡くなったとしても「この人は神の守りから離れたので死んだんだ」ということで片付けられてしまいます。
このような身勝手な「神」が人類を救うことなどできるはずがありません。
また神の御声氏は以前の法論の3360において
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