いざという時の金融情報

第106日 岐宿−福江

2010年8月9日(月) 参加者:奥田・島雄

第106日行程  早起きをして早朝の5時30分に「民宿魚津ヶ崎荘」を出発する。今日は岐宿から21キロも離れた富江まで移動し、7時出港の五島市営船で黒島へ渡らなければならない。レンタカーで移動すれば30分少々の距離であるが、事前にいくつかのポイントをまわっておきたいのと、やはり時間に遅れないように余裕をもって出発することにしたのだ。
 富江に向かう前に「民宿魚津ヶ崎荘」から500メートルほど離れた場所にある水ノ浦教会に立ち寄る。眼下に水ノ浦湾を望む小高い丘の上には、真っ白な木造教会が建っている。ロマネスク、ゴシック、和風建築が混合した教会堂は、教会建築で名高い鉄川与助の設計によって、1938年(昭和13年)5月11日に完成した。教会の構造は、長崎市の大浦教会と同型とのこと。教会堂は既に開放されていたが、早朝のミサが始まるためか、シスターや信者が集まっている。神聖な場所に部外者が立ち入るのもためらわれ、ドア越しにこっそりと内部の様子を伺う。リブ・ヴォルト天井を持つ内部は、白と淡いグリーンが配されていた。
 水ノ浦教会を見学した後、福江島を縦断する県道31号線を南下し、一路、富江を目指す。福江島には属島が多く、効率的に島めぐりをするためには、船のダイヤに合わせた行程を組まなければならない。富江から出港する黒島航路も1日2往復のみで、7時の便を逃すと次の便は15時30分になる。黒島へ往復するだけなら15時30分の便でも差し支えないのであるが、15時30分の便では同じ日に嵯峨島へ渡ることができなくなるのだ。それならば、せめて前夜は富江に宿泊すれば良さそうなものだが、富江町の唯一の民宿は満室。「さんさん富江キャンプ村」という宿泊施設もあるのだが、寝具付きのバンガローはやはり満室で、寝袋を持参しなければならないケビンかテントしか空いていなかったのだ。さすがに寝袋を持ち歩くのは難儀であるため却下。外周ルートにある岐宿の民宿に落ち着いた次第である。
 岐宿町から富江町に入り、山道を下って行くと前方に富江湾が広がる。時刻は6時を過ぎたところで、黒島航路の出港まで余裕がある。後半の予定がタイトになることから、富江半島を先に踏破しておくのが良さそうだ。国道384号線で富江半島の根元を横切るように黒瀬まで出て、富江半島の先端にある笠山崎を目指す。
 迷路のような細い道を行ったり来たりしながら笠山崎に到着。一帯は笠山公園として整備されており、小さな白亜の笠山鼻灯台が待っていた。
 昨夜、宮古島の南約140キロの地点で台風4号が発生。徐々に発達をしながら北上しているとの気象情報が流れた。このままであると五島列島を直撃することになるが、今のところ五島灘は穏やかで、富江の溶岩海岸にはほとんど波がない。沖合を航行するフェリーの姿も確認でき、なんとか明日まで台風の影響が出ないように願いたいところだ。
 灯台の近くに笠山台場跡があったので、こちらものぞいてみる。1853年(嘉永6年)6月3日にペリーが浦賀に来航したことをきっかけに、江戸幕府は海防策を強化すべく、全国各地に砲台を整備する。その一環として、笠山にも1856年(安政3年)に大筒が2挺設置されたという。もっとも、現在は雑草に覆われた盛土があるだけだ。  続いて地図にはムシマ鼻と記載されているポイントに立ち寄ってみると、火山礫によって築かれた山崎石塁があった。延長180メートルにも及ぶ蛸壺状の大きな構築物で、迷路のような石積みが巡らされている。13世紀から16世紀にかけて活動していた倭寇という海賊の拠点であったとも伝えられているが真相は不明。勘次という地元の大工が住んでいたことから、勘次ヶ城とも呼ばれている。
 山崎石塁から少し離れたところには、海に向かって2体の銅像が建っている。1体は腰掛けた状態で右手に刀を持ち、左手で海を指差している。もう1体はその背後で右手に槍、左手にロープを持った状態で中腰になり、やはり海を凝視している。倭寇の襲来に驚く島民の姿であろうか。歴史的な解明がなされていない史跡に妙なモニュメントを設置したものだ。
 昨日訪問した黄島まで続く溶岩トンネルの出口があると伝えられているのはこの辺りである。近くに井穴と呼ばれる総延長1,420メートルの溶岩トンネルがあり、洞窟内には学術的にも珍しいドウクツミミズハゼが生息しているという。ドウクツミミズハゼは、体長6センチぐらいの白く透き通った魚で、眼が退化して皮下に埋没してしまった盲目魚である。かつては洞窟内部に入ってドウクツミミズハゼを観察することもできたようだが、数年前に落石があってから進入禁止になってしまったという。せめて洞窟の入口だけでも眺めておこうと思ったが、場所がよくわからずにタイムアップ。全般的に富岡半島の観光名所は道路が複雑なうえ、案内標識も少なく不親切だ。せめて、案内標識だけでももう少し充実させて欲しいところである。
 宿泊を見送った「さんさん富江キャンプ村」の前を通り過ぎ、富江桟橋に到着したのは6時50分。五島市営船「ニューとみえ」の前に人影が見えたので、運航状況を確認する。
「朝の便は間違いなく出港するけど、午後の便は台風で欠航になるかもしれないな。黒島へ行くの?帰れなくなるかもしれないよ」
出航時刻を待っていた船員は台風4号の影響について悲観的な観測を述べる。しかし、我々は当初から黒島はとんぼ返りを計画していたので、とりあえず午前の便が運航されるのであれば支障はない。
「そうですか。でも、せっかくなので黒島へ往復させてもらってもいいですか?折り返しの便ですぐに富江に戻ります」
「天気が良ければ黒島で海水浴ができるのになぁ。まあ、せっかくだからクルージングだけでもしていくといい」
最初からとんぼ返りをすると言うと奇異な目で見られることもしばしばあるのだが、黒島については成り行き上、自然体でとんぼ返りの乗船が認められた。
 「ニューとみえ」は定刻の7時ちょうどに出港。黒島の島民を迎えに行くための事実上の回送便であると思っていたが、地元の乗船客が2名もいた。台風が近付いているのにわざわざ黒島へ渡るのも不自然で、黒島に戻る島民なのであろう。
 最初は船室後方のデッキで過ごしていたが、港湾から海上に出ると風が強くて波しぶきが高く、慌てて船内へ逃げ込む。残念ながら台風4号の影響は確実に出てきている。この様子では、今後の予定も大幅に見直しを迫られるかもしれない。
 台風4号の影響を懸念して急いだわけではなかろうが、定刻よりも3分早い7時12分に黒島港へ入港。限られた上陸時間になるため、先頭を切って桟橋に降り立つ。黒島は、富江町の東海上7.2キロに位置し、面積が1.12平方キロ、周囲5キロの小さな島。黄島と同様に溶岩でできた島で、黒島漁港の沿岸にも長さ5メートルほどの溶岩トンネルがある。
 桟橋にはこれから福江島に渡ろうという島民が数人待ち構えていたが、船員が午後の便は欠航になるかもしれないと注意を促している。乗船を見合わせた人も居たとは思うのだが、ほとんどの人がそのまま「ニューとみえ」に乗り込む。漏れ聞こえる会話によると、定期船が欠航になっても、知り合いの漁船で送ってもらうことができるから大丈夫とのこと。安全を確保する必要が高い公共交通機関の「ニューとみえ」と異なり、多少の荒天であっても、漁船は船長の技量次第で何とでもなるのだろう。
 黒島からの帰りの便は、定刻の7時20分を2分遅れで出港。今度は最初から大人しく船室で過ごす。富江港に入港したのは5分遅れの7時40分であった。行きの所要時間が3分短縮され、帰りの所要時間が3分遅延したのは、潮の流れの影響かもしれない。
 桟橋近くに駐車していたレンタカーに戻り、県道49号線を進む。福江−富江間の幹線道路であるため、交通量も多い。途中、増田トンネルでショートカットされている区間を海岸沿いの旧道でたどったりしながら鎧瀬公園(あぶんぜこうえん)に向かう。
鬼岳  鎧瀬公園には8時ちょうどに到着。「鎧瀬ビジターセンター」の開館時間は9時からなっていたので見学することはできなかったが、展望台に足を向けると、黒い岩肌の溶岩海岸が続く。鬼岳噴火による溶岩が海に流れ込んだもので、海水によって一気に冷やされた溶岩が奇岩、怪石に変身したのだ。その溶岩に打ち付ける白波によって黒と白のコントラストが生まれ、見事な自然美を形成している。鎧瀬海岸には、山陰海岸を連想させるような荒々しさがある。ところが背後には南国の亜熱帯植物の森林が広がり、その先には芝生に覆われた鬼岳がそびえている。一体ここはどこなのだろうかと混乱するような面白い風景だ。
 せっかくなので鎧瀬公園から見えた鬼岳にも立ち寄ってみる。厳密には外周ルートではないが、福江島まで来て鬼岳を無視するのも気が引ける。レンタカーなので気軽に立ち寄れるのも幸いした。
 レンタカーで坂道を5分ほど登り、鬼岳園地に到着。広い駐車場には先客の軽自動車が1台だけ駐車していた。朝が早いため「鬼岳インフォメーションセンター」もまだ閉まっている。
 鬼岳山頂までは往復で50分とあり、これからの予定を考えると山頂まで行く時間はないが、中腹にある展望所までなら無理なく往復ができそうだ。遊歩道をたどって展望所を目指すことにする。
 標高315mの鬼岳は、シンダーコンと呼ばれる珍しい形の火山として知られている。300万年前の噴火によってできた楯状火山の上に、5万年前の噴火によって、臼状火山が重なり合ったものだという。
「すみませんが、シャッターを押してもらえませんか?」
遊歩道を歩いていると一人旅の青年から声が掛かる。カメラを受け取ると、青年は近くにあった直径2メートルぐらいのブロンズ製の球体を2つに割ったモニュメントの間で屈み込み、両手を伸ばして球体を押し広げるようなポーズをとる。歯を食いしばって見せ、臨場感がある作品が撮れたに違いない。このモニュメントは、1994年(平成6年)に旧福江市制施行40周年を記念して作製された「ココロの球」という作品で、球体の間で声を出すと反響するような造りになっているらしい。
 展望所の手前には、簡素な造りの鬼岳神社があったので、台風の進路が五島列島から外れるように祈る。今日は、これから久賀島と嵯峨島、さらには福江島のハイライトとも言うべき大瀬崎を訪問する予定であり、行程が天候に大きく左右されてしまうのだ。 東屋のある展望所に立つと、眼下に福江市街や福江港、さらには周辺に点在する島々を見渡すことができる。すぐ近くには福江五島空港のターミナルビルや管制塔、滑走路も確認できる。辺り一面には緑の芝生が広がり、早朝から芝刈りをしている作業員が何人もいた。鬼岳の美しい姿は、入念な手入れによって維持されていたのだ。
 鬼岳山頂に未練を残しつつも駐車場に戻る。今日はこれから久賀島に渡る予定であるが、台風の影響を考えると早めに久賀島へ渡ってしまうのが無難だ。久賀島航路は木口汽船が受け持っており、福江−田の浦間に4往復、奥浦−田の浦間に2往復を運航している。運航本数だけなら意外と多いが、朝と夕方の運航に集中しており、日中は午後に奥浦−田の浦間を1往復するだけのローカルダイヤだ。このダイヤに付き合っていると、嵯峨島へ渡ることができなくなってしまうため、当初は同じ木口汽船主催している「久賀島巡礼コース」(3,500円)の観光ツアーを組み込む予定であった。木口汽船のホームページによれば、7月20日から8月31日までの期間は、福江を9時30分に出発する約2時間半のツアーとなっていた。12時に福江に戻ることができれば、午後から嵯峨島に渡ることも可能である。ところが、いざ予約しようと木口汽船に電話をすると、ツアーの出発時間は13時40分で福江に戻るのは17時45分であるという。ホームページの記載と違うではないかと抗議をしてみても、電話に応対した職員はホームページの存在すら知らないのだから困ったものだ。ホームページでは、昨日の椛島へ渡るときに利用した「ソレイユ」で久賀島に渡るプランになっていたから、椛島航路に「ソレイユ」を充当することになったため、「久賀島巡礼コース」を定期便利用のツアーに改めたものと察する。所要時間が1時間30分も長くなったのは、ツアーが充実したのではなく、単に定期航路のダイヤの都合であろう。もともと、定期航路のダイヤの都合が悪いのでツアー利用を考えていたのだから、定期船を利用するツアーでは役に立たない。幸いにも久賀島へは奥浦から海上タクシーが運航していたので、今回は奥浦から海上タクシーで久賀島へ渡ることにした。
 道を間違えて右往左往しながら鎧瀬海岸に戻り、県道165号線をたどる。途中、溶岩海岸に突き出た崎山鼻にも立ち寄りたかったのであるが、鬼岳訪問で時間を大幅に消費してしまったので、やむを得ず素通りしてしまう。
 福江市街地に出れば福江島の東半分をちょうど半周したことになる。昨日と同様に県道162号線を北上し、9時過ぎに奥浦桟橋に到着する。昨日、電話予約をした海上タクシー「久栄丸」に連絡をすると、近くに係留されていた1艘の船が桟橋に横付けされた。
 「あんたら久賀島ではタクシーで観光するのだろう。雨が降りそうだから五輪へ先に行った方がいい。タクシーは、浜脇教会ではなくて、田ノ浦へ迎えに来るように伝えておいらから」
「久栄丸」に乗り込むなり船長から声が掛かる。久賀島にはバスもレンタカーも存在しないので、「久賀巡礼コース」の利用ができないことが判明した段階で、久賀島に1台しかないという久賀タクシーを予約していた。当初は田ノ浦に近い浜脇教会まで歩き、浜脇教会を見学してからタクシーで五輪に向かう段取りをしていたのだが、こちらの動きが見透かされているようである。
「地元の人間以外はタクシーを利用するしかないからな。予約の電話をもらった段階で久賀タクシーに連絡をしておいた」
こちらの予定を勝手に変更してしまうのだから余計なお世話とも言えるのだが、船長なりのサービス精神なのであろう。ところが話をしていると、「久栄丸」の船長は観光客が久賀島にやって来ることを本当は歓迎していないようである。
「新しい五輪教会があるのだから、地元の人間にとって旧五輪教会は必要がないものだ。新しい教会堂を建築する際に解体しようとしていたところに、貴重な文化財だからといって多額の税金を投入して保存することになった。最近は観光資源になると五島市が宣伝を始めた。そのおかげであんたらのような観光客がやって来るようになったが、年間の訪問者数なんて限られたものだ。しかも、観光客は久賀島にはまったくお金を落としていかない。数年後には再び改修が必要になって、五島市民の税金が使われる。あんたらはどう思うよ!おかしいと思わないか?」
船長の不満も解らないこともないが、それは旧五輪教会が老朽化し、再び改修が必要になった時点で議論すべきことだ。わずかな観光客でも、興味を示して訪問してくれる人がいれば、多少なりとも五島市の経済に貢献することになる。遠方から旧五輪教会だけを目的に来る人は少ないだろう。久賀島にお金を落とさなかったとしても、五島市全体で考えれば、食事もすれば宿泊もする。お土産も買うだろうし、長崎−福江間のジェットフォイルを利用してくれるだけでも、離島航路の維持に観光客が貢献しているのではないか。現に我々が「久栄丸」を利用することによって、船長には往復4,000円の収益が出るし、これから利用する久賀タクシーにも収益は出る。金額にしてみれば微たるものかもしれないが、これらの積み上げが経済効果になっていくのではないだろうか。そもそも観光客に不満を漏らしていれば、次第に久賀島を訪問する人は減ってしまうであろう。もっとも、それが船長の思惑であるのかもしれない。
 「久栄丸」が昨日訪問した堂崎教会の前を通り過ぎ、奥浦湾から抜け出すと、にわかに揺れがひどくなる。すぐ目の前には久賀島があるのだが、福江島と久賀島の間にある田ノ浦瀬戸には既に台風4号の影響が出始めている。これでは午後の嵯峨島は諦めざるを得ないかもしれない。
 田ノ浦桟橋には、車体に久賀島のシンボルである椿をデザインした久賀タクシーが我々を待ち構えていた。運転手は思ったよりも若く、我々とそれほど世代は変わらないと察する。しばらく久賀島を出て働いていたが、両親から懇願されて久賀島に戻ってきたとのこと。いわゆるUターン組である。「久栄丸」の船長は、タクシーの運転手としばらく会話をした後、「乗船料は帰りに往復分をもらうから」と言い残して去って行った。
 U字型の久賀島を一周する道路はなく、島の中央に通じる県道167号線が蕨まで通じており、その先は五輪の手前まで市道が続く。タクシーが走り出すと小雨が降り始めたが、まずは「久栄丸」の船長の段取りに従って、田ノ浦の反対側にある五輪を目指す。五輪までは12キロほどの距離だ。運転手の携帯電話には、配車を依頼する電話が何度も鳴るが、その度に「今から五輪まで往復しないといけないから、すぐには行けないよ」と返事をしている。久賀島で唯一のタクシーを我々が独占してしまって申し訳ない気もするが、タクシーがなければ近所の人に頼んで車を出してもらうだけのことで、それほど支障はないらしい。
 田ノ浦から5分も走ると五島市久賀出張所や久賀郵便局が集まる中心部に出る。久賀中学校の前に信号機が設置されているのには驚いた。左手には久賀湾が広がる。周囲を陸で囲まれた湖のような姿なので、台風が近付いているというのにほとんど波もない。久賀湾が視界から消えると蕨の集落で、県道167号線はここが終点。蕨集落の路地を抜けると農道のような細い道路が続くが、これも途中の福見までで、その先は遊歩道のような道路になった。タクシーの運転手によれば、「久栄丸」の船長に頼めば、3,000円で軽自動車を貸してくれるそうだが、不慣れな旅行者が福見より先の道路に突っ込んでいくのは少々勇気が要りそうだ。
「対向車が現れたら身動きがとれませんね」
行き違いスペースもない道路を進む運転手に言葉を掛けるが、運転手は笑って答える。
「大丈夫。対向車なんて来ないよ。五輪で自家用車を持っている人は1人だけだし、この時間に出掛けることもないだろう。観光客が来ているとも思えないしね」
 やがて雑木林に囲まれた広場に行き着いた。車で入れるのはここまでで、ここから先、五輪集落までは10分ほど歩かなければならない。広場には乗用車が1台駐車しており、旧五輪教会へ向かった観光客が他にもいるのかと思ったが、これが五輪で唯一の自家用車とのこと。
 タクシーに待機をしてもらい、五輪集落を目指して遊歩道を進む。幸いにも小雨は止んでおり、足元もそれほど悪くはない。遊歩道を下って行くと、奈留瀬戸に面した五輪集落の外れに出た。奈留瀬戸の向こうには奈留島が広がっており、五輪へは奈留島から海上タクシーで訪れる観光客も多いという。
 道路も通じていない五輪集落はひっそりとしており、人影がまったくない。台風が接近している影響もあろう。現在は3世帯8人だけの小さな集落であるが、歌手の五輪真弓の父の出身地であり、五輪真弓自身も1986年(昭和61年)に初めてこの地を訪れて「時の流れに〜鳥になれ〜」を作曲したという。
旧五輪教会  旧五輪教会は、1881年(明治14年)4月に浜脇教会として建築されたものを1931年(昭和6年)3月に現在地へ移築したもので、五島に現存する木造教会としては最古のものと伝えられている。木造瓦葺屋根の平屋建てであるが、窓は教会特有のポインテッドアーチ型である。鍵が開いていたので内部に入ってみると、寄木細工を連想させるリブ・ヴォルト天井が広がり、和風建築の趣を醸し出している。ゴシック式祭壇には、未だにキリスト像やマリア像が祀られていた。
 教会堂から出ると、とうとう雨が降り出した。タクシーを待たせているので、ゆっくりと雨宿りをしているわけにもいかない。折り畳み傘を広げて、隣に建つ五輪教会へ。屋根はオレンジ色で、正面は煉瓦張りと洒落た外観だ。残念ながらこちらには鍵が掛けられており、内部を見学することはできなかった。
 雨の中、再び山道を歩いてタクシーに戻る。基本的には田ノ浦から今来た道を引き返すだけなのであるが、今度は素通りしてしまった観光名所や郵便局に立ち寄ってもらうことになる。蕨簡易郵便局に立ち寄ると、世間話をしていた局員がよく立ち寄ってくれたと歓迎してくれ、昨年のキャンペーンの余り物であるがと断って、丸型ポストをモチーフにした貯金箱をプレゼントしてくれた。
 蕨集落から5分ほど走って久賀島の中心部に戻り、久賀湾を望む高台に位置する牢屋の窄(さこ)殉教記念教会に立ち寄る。牢屋という言葉からキリシタン弾圧の歴史を容易に連想させるが、この教会は牢屋での拷問によって殉教したキリシタンの聖地として保存するために1984年(昭和59年)に設立された教会である。久賀島では、1868年(明治元年)に約200名の信者がこの地にあった6坪の牢屋に8ヵ月間も監禁されたという。6坪に200名を閉じ込めるのであるから当然に鮨詰め状態で、食事も満足に与えられず、飢えと疲労で殉教した者は42名を数える。今日は管理人が福江島に出掛けてしまっているので、内部を見学することはできなかったが、教会堂の中央には、6坪の広さを示す灰色の絨毯が敷かれているという。
 久賀島郵便局にも立ち寄ってもらって旅行貯金を済ませ、久賀島に存在する郵便局は完訪となる。蕨簡易郵便局のように歓迎はされなかったが、貯金を済ませると通帳に飴が添えられた。
 久賀島の中心部を離れて、田ノ浦瀬戸を望む高台にある浜脇教会に立ち寄ると、幸いにも雨は止んだ。浜脇教会は、小ぶりながら白い鉄筋コンクリート製の教会で、近代的な印象を受けるが、1931年(昭和6年)5月3日竣工と歴史がある。鐘塔の上部には緑色の八角形の尖塔、さらに金色の十字架が掲げられている。
 正面の扉は施錠されていたが、教会堂の脇にある扉が開いていたので内部を見学する。8分割のリブ・ヴォルト天井のアーチが続き、柱頭にはコリント式の彫刻が施されている。板張りの床には真っ赤なカーペットが敷かれており、結婚式場のチャペルのような雰囲気がある。ステンドグラスには、久賀島に自生する椿がモチーフにされていた。
 田ノ浦桟橋に戻ると時刻は11時になったところで、当初の予定よりも若干早めに久賀島観光を終えたことになる。タクシー料金は6,440円となっていたが、6,000円にまけてくれた。
 「久栄丸」の船長には浜脇教会から運転手が携帯電話で連絡をしてくれていたのだが、桟橋には「久栄丸」の姿はない。タクシーの運転手の好意により、冷房の効いた車内で待たせてもらう。
 田ノ浦桟橋からは、廃校になった田ノ浦小学校の校舎が見え、現在はフランス在住の画家である松井守男氏がアトリエに使っているとのこと。愛知県豊橋市の出身である松井氏がなぜ久賀島を日本の活動拠点に選んだのかは定かではないが、松井氏だけに感じる魅力が久賀島にはあるのだろう。地元では松井氏の絵画展や絵画教室も開催されているという。
 やがて1艘の船がこちらに向かって来たが、運転手は「あれは違う海上タクシーだ」と一言。運転手の話によれば、奥浦と久賀島の田ノ浦間には、「久栄丸」と「長久丸」の2つの海上タクシーが営業しており、今やって来たのは「長久丸」とのこと。
「以前はどちらも片道2,000円だったのに、いつの間にか『長久丸』は3,000円に値上げをしてしまった。余程のことがない限り『久栄丸』しか使わないけど、役人はなぜか『長久丸』を利用する」
同じ航路であるにもかかわらず、1.5倍も運賃に差があるとは驚きだ。常識的に考えれば「長久丸」の経営が成り立つとは思えないが、役人がいつも利用するということは、五島市が「長久丸」と年間契約をしているのであろう。年間契約があれば収入は安定するし、年間契約者の利用を妨げないために一時利用者の運賃を値上げしたのかもしれない。
 田ノ浦桟橋で10分ほど待って、ようやく「久栄丸」がやって来た。タクシーの運転手に礼を述べて、「久栄丸」に乗り込むが、船長はなかなか出港しようとしない。やがてエアコンを積んだ1台の軽トラックがやって来て、エアコンを「久栄丸」に積み込み、軽トラックの運転手も当たり前のように乗り込んだ。エアコンの取り外しにやって来た電気屋のようである。船長は最初から我々と電気屋の相乗りを目論んでいたようだ。定員に余裕があるので、相乗りすること自体には異論はないのだが、問題なのは船長の態度だ。まず、相乗りをするのであれば、我々に一言断るべきである。片道2,000円の運賃は船の貸し切り料金だからだ。さらに不信感を覚えたのは、運賃を我々だけに請求して、電気屋に対しては運賃を受け取らなかったことだ。相乗りであれば折半にするのが妥当である。船長に言わせてみれば、観光客のために五島市が無駄な税金を負担しているのだから、せめて地元の人々を相乗りさせるのは当然だということなのかもしれないが、裏を返せば観光客に寄生していることに他ならない。我々に断らなかったのは、多少の後ろめたさがあったからであろう。持論を展開するのは結構であるが、それならば正々堂々と我々に相乗りを頼むべきである。船長の姑息な手法が気に入らない。
 台風4号の影響で「久栄丸」は、多少揺れながらも11時25分に奥浦桟橋に戻る。桟橋近くに駐車してあったレンタカーに戻ると、再び雨が降り出した。しばらくはレンタカーで移動するだけなので差し支えないが、嵯峨島へ渡るのは難しいかもしれない。
 奥浦からは、再び赤いアーチ型の戸岐大橋を渡り、県道162号線を進む。岐宿までは昨日と同じルートで、ハンドルを握る奥田クンも慣れたものだ。河務から国道384号線に合流し、早朝に出発した岐宿に戻れば福江島をちょうど半周したことになる。  左手の高台に水ノ浦教会を確認し、ここから先が未訪問の地となる。短いトンネルをいくつか抜けると左手に白良ヶ浜万葉公園があったが、雨模様なので見送り。その先にある道の駅「遣唐使ふるさと館」に入った。
 昼食時なのでレストランに立ち寄るが、夏休み期間中は地元の食材を使った「ふるさとバイキング」(1,050円)のみとのこと。バイキングなら手軽に済ませられると思ったが、団体客が入っているため満員で、しばらく待ち時間が生じるという。係員にどのくらいの待ち時間か尋ねても、はっきりとした回答はなく、嵯峨島への連絡船の時間もあるのでレストラン利用は見送る。弁当でも売っていないかと物産販売コーナーをのぞいてみるが、売っているのは土産品や菓子類ぐらいであった。水産物直売コーナーもその場で食べられるようなものは扱っていない。もっとも、「遣唐使ふるさと館」の周辺は、2004年(平成16年)8月1日に福江市、富江町、玉之浦町、岐宿町、奈留町との合併により五島市となるまでは、三井楽町の中心だったので、食料を調達できる店ぐらいはあるだろう。
「遣唐使ふるさと館」には、遣唐使をテーマにした物語を上映する「万葉シアター」もあったが、時間の都合で見学は割愛し、代わりに展示コーナーで遣唐使船などの模型を眺める。三井楽町は、遣唐使船が日本を出る前に、最後に寄港した地であり、遣唐使とのゆかりの深い場所なのである。
 五島市役所三井楽支所の近くに「ダイキョーバリュー出前ショップ三井楽店」というスーパーを発見し、「唐揚げ弁当」(350円)を調達する。奥田クンと島雄クンも各々食料を確保した。
 雨も上がったので、どこか景色の良いところで昼食にしようと、レンタカーを三井楽時半島の東端にある千々見ノ鼻に向ける。しかし、海沿いに通じる千々見鼻潮騒の路を進むものの、目的である千々見ノ鼻らしきところが見当たらないまま、三井楽半島の幹線道路である県道233号線に戻ってしまう。わざわざ引き返して場所を確認することもないので、そのままレンタカーで北上し、目的を高崎鼻公園に変更する。
 高崎漁港を経て、高崎鼻公園にたどり着いたが、雨上がりの公園の足場は悪く、座って弁当を広げるような場所もない。やむを得ず、高崎鼻近くの海を望める場所にレンタカーを停めて、レンタカーの車内で昼食とする。
柏崎  高崎鼻を後にして、三井楽半島の最北端である柏崎へ移動。柏崎は、「肥前風土記」に「美弥良久の崎」として登場し、遣唐使船の最後の寄港地と伝えられている。776年(宝亀7年)の第14次遣唐使船からは、五島列島を経由して東シナ海を横断する南路が採用されたのだ。柏崎公園には、空海の遺徳を顕彰するために建立された「辞本涯」の石碑がある。「辞本涯」とは、日本最果ての地を去るという意味とのことで、唐に向けて東シナ海を渡ろうとする空海の心境が記されている。その他にも遣唐使として旅立つ我が子の無事を祈る母の歌碑もあった。
 海辺にはスマートな白亜の灯台が建ち、空には厚い雲が広がっているが、沖合にある姫島の姿がはっきり見える。距離的には旧三井楽町に近いが、行政上は旧岐宿町に所属していた。現在は無人島であるが、かつてはキリシタン集落があり、約300人の島民が生活をしていたという。
 柏崎の近くには、遣唐使船の乗組員の飲料水、船舶用水として利用されたと伝えられるふぜん河という大井戸があるとのことで、こちらも立ち寄ってみようとレンタカーを走らせた途端に豪雨になった。ずぶ濡れになるのは明らかなので、ふぜん河の訪問は見合わせる。この調子では嵯峨島航路も欠航の可能性が高そうである。
 嵯峨島航路は、三井楽半島の付け根にあたる貝塚港から出港している。携帯電話のサイトで運航状況を確認しても、嵯峨島旅客船は、「通常運航中。天候により運航状況は急変することがあります。」との表示のままで、13時35分の便が出港するのかはっきりしない。とりあえず、貝塚港へ行ってみるしかなさそうだ。
 強い雨が降り続く貝塚港の桟橋には、嵯峨島旅客船の「嵯峨島丸」が停泊しており、荷物を運ぶトラックが出入りしている。小降りになるのを待ってから、「嵯峨島丸」に駆け付け、船員に確認すると13時35分の便は出港するとのこと。しかし、帰りの足が確保できなければ、嵯峨島へ渡ることはできない。
「今日中に貝塚へ戻らなければならないのですが、嵯峨島を16時に出港する便は運航できそうですか。」
半ば諦めて尋ねてみると、船員からは意外な返事がある。
「大丈夫だよ。この程度であれば、16時の便も運航する」
 かつて、福岡県の小呂島航路で、帰りの便の運航保証はしないと言われて、乗船を見送った経験があるが、「嵯峨島丸」の船員の言葉は頼もしい。レンタカーで待っている奥田クンと島雄クンを呼び、そそくさと「嵯峨島丸」に乗り込み、往復860円の乗船券を購入した。片道であれば450円なので、往復割引が適用されている。
 「嵯峨島丸」は定刻の13時35分に貝塚を出港。総トン数35トン、定員57名の小さな船であるが、船内は地元客を中心にかなりの乗船客があり、桟敷席は満席。おそらく台風4号の接近に備えて、福江島に買い出しに出掛けた帰りなのであろう。乗船客が手にする荷物には食料品が目立つ。我々はかろうじて空いていた椅子席に納まる。
 嵯峨島は、北方の男岳と南方の女岳という2つの火山が裾野で繋がってできた島である。男岳の標高は151メートル、女岳の標高は130メートルとなっているが、海上から眺める限りでは思ったよりも平坦に見える。
 覚悟していたほどの揺れもなく、定刻の13時55分に嵯峨島桟橋に接岸。20分の航海中に雨はすっかり止んでいる。嵯峨島の集落は港の周辺のみであるが、男岳や女岳への登山道や西海岸には遊歩道が整備されている。天候が悪いので、散策は見合わせるつもりであったが、雨が止んでいるので、西海岸にも足を記しておこう。集落を抜けて、嵯峨島千畳敷を目指す。
 嵯峨島の集落をひと回りしてから、男岳と女岳の接合部に通じる道をたどると、10分ほどで東シナ海が広がった。集落のある東海岸とは対照的に、東シナ海の荒波にもまれた西海岸は荒々しさを感じる。雨上がりであったが、遊歩道は思ったよりもしっかりしていたので、そのまま西海岸を南下する。しばらくは海岸沿いの遊歩道であったが、やがて女岳への登山道へと変わる。日頃の運動不足が祟って息切れがする。年齢を重ねるに連れて、まともな運動をする機会が外周旅行ぐらいなのだからやむを得ない。外周旅行を止めてしまったら、本当に運動をしなくなるなと話しながら女岳を越える。
 港へ戻る遊歩道の途中から火口展望所へ続く遊歩道が分岐していた。帰りの船の出航時刻までの時間を見計らいながら火口展望所を目指す。たどり着いた火口展望所からは、火口近くまで荒波に削り取られた海蝕崖が広がる。火山の内部構造が露出しているため、火山の噴出状況が顕著に示されており、学術的にも貴重なものであるとのこと。
 港に戻っても時間が余っていたので、2人を待合室に残して、再び嵯峨島の集落へ。少々迷いながら嵯峨島簡易郵便局を発見し、旅行貯金を果たす。ついでに、集落を見下ろす高台にある嵯峨島教会へ。人口200人程度の嵯峨島も、寛政年間に大村藩の迫害から逃れてきた隠れキリシタンが住み着いた島である。教会堂には鍵が掛けられており、内部を見学することはできなかったが、現在でも月2回、三井楽教会から神父が嵯峨島へやって来て、礼拝が行われているという。
 帰りの「嵯峨島丸」は閑散としていたので、桟敷席に陣取る。船内のテレビでは、高校野球が放送されており、地元である長崎代表の長崎日大が南北海道代表の北照を3対1でリードしながら試合が中断されていた。甲子園の天気も不安定のようだ。
 雲の隙間から微かに薄日が差したので、「嵯峨島丸」のデッキに出てみる。天気が良ければ、船から眺める嵯峨島の姿が素晴らしいと聞いていたのだが、残念ながら感慨の湧くような風景ではない。天候が持ち直し、台風4号はどこかへ行ってしまったのではないかと錯覚したが、船の揺れは行きよりも激しく、大きな波しぶきがデッキを襲ったので船内に逃げ戻る。私は幸運にも災難を逃れることができたが、デッキに出ていた別の男性は直撃を受けてズボンがびしょ濡れになってしまった。
 「嵯峨島丸」は、定刻よりも3分ほど遅れて貝塚桟橋に接岸した。入れ替わりに食料品などを抱えた人々が乗り込む。「嵯峨島丸」は、折り返しで嵯峨島に戻って本日の運航を終える。今から思えば、台風に備えて買い出しに出掛けた島民を迎えに来なければならないので、船員は嵯峨島を16時に出航する便の運航を保証したのであろう。
 嵯峨島への訪問を果たして安心したのも束の間、レンタカーで先を急ぐ。レンタカーの利用時間は19時までなので、それまでに福江に戻らなければならない。戻るだけであれば余裕はあるのだが、福江に戻る前に、福江島の最大の観光スポットである大瀬崎を素通りするわけにはいかない。しかも、大瀬崎に立つためには、片道20分の遊歩道をたどらなければならないのだ。
 荒川温泉に立ち寄りたいのを堪えて、国道384号線を南下。玉之浦湾沿いにレンタカーを飛ばすが、延々と道路は続く。福江島の広さを改めて認識する。
 大瀬崎へ続く県道50号線に入ると、大規模なトンネル工事が行われていた。今年の1月から掘削を開始した玉之浦トンネルで、全長782メートルと福江島で最も長いトンネルとなる。完成は来年の1月の予定で、玉之浦トンネルが開通すれば、大瀬崎へのアクセスも改善されるのであろう。
 大瀬崎に近い井持浦教会に到着したのは17時ちょうど。貝塚から40分ほどの時間を要している。井持浦教会は、大瀬崎とセットで訪れる観光客が多く、素通りはできないポイントだ。
 駐車場から坂道を少し登ると、煉瓦造の立派な教会が現れた。1895年(明治28年)にフランス人宣教師アルベルド・ペルーによって建立されたロマネスク風の聖堂である。しかし、井持浦教会の名を馳せたのは、聖堂ではなく、日本で初めて作られたルルドの洞窟である。井持浦教会の境内にあるルルドは、五島各地から信者が奇岩を持ち寄り、フランスのルルドから取り寄せた聖母像を洞窟に収め、同じくルルドから取り寄せた「ルルドの泉」の霊水を洞窟の脇にある泉に注いだという。日本全国のカトリック教徒が井持浦教会へ巡礼に訪れるそうだ。
 さて、いよいよ大瀬崎だ。標高250メートルの大瀬山に通じる急勾配の道路を登って行くと、途中の展望所から大瀬崎灯台が姿を現す。灯台までは起伏の激しい遊歩道が1キロ少々続いている。
 県道50号線から分岐する市道に入り、標高250メートルの大瀬山をレンタカーで一気に登る。途中で大瀬崎灯台を望む展望所があり、大瀬崎断崖に立つ白亜の大瀬崎灯台が姿を現した。灯台へ続く遊歩道の起伏もかなりのもので、相当な覚悟が必要だ。 大瀬山の頂上付近にある駐車場にレンタカーを停めて、大瀬崎灯台へ続く遊歩道に挑む。ここでも奇跡的に雨は上がり、薄日が差してきた。入口には「大瀬崎灯台へ徒歩往復40分」という環境省と長崎県の連名による看板が設置されていた。展望台から眺めた道のりは険しそうだったので、本当に往復40分で済むのか疑わしい。その疑念は遊歩道を歩き始めると確信へと変わる。最初は比較的平坦な遊歩道が続いたが、やがて急な下り坂や階段が増え始める。大きな荷物はすべてレンタカーの車内に置いてきたので身軽ではあるが、汗が滝のように流れ出し、息が切れる。嵯峨島の女岳の比ではない。
大瀬崎  急勾配のためジグザグに設置されている階段を一気に下り、灯台の建つ小高い丘をゆっくりと登って行く。最後は気力だけで階段を登り切り、灯台の麓にたどり着く。周囲を見回すと前方には東シナ海が広がり、後方には大瀬崎断崖が荒々しい姿を見せる。容易に訪問できる場所でないこともあって、大瀬崎灯台からの眺めは感慨深い。空は、相変わらず厚い雲に覆われているが、その隙間から微かに青空が見える。大瀬崎に立つ我々のために、一時的に台風が活動を停止したかのようだ。
 大瀬崎灯台は、1879年(明治12年)12月15日に初点灯した。大瀬山には、日露戦争における日本海海戦の端緒となる「敵艦見ゆ」の第一報を受信した無線信号所があったことから、太平洋戦争でも米軍の標的となり、1945年(昭和20年)8月7日には米軍の潜水艦による砲撃を受けた。現在の灯台は1971年(昭和46年)に建て替えられた2代目で、砲撃を受けた初代灯台の灯籠は、東京の「船の科学館」に展示されているという。
 灯台の周辺には空き地があり、灯台守がいたことには官舎が建っていたのであろう。灯台の自動化が進み、2006年(平成18年)12月5日、男女群島にあった女島灯台を最後に日本の灯台守は姿を消した。
 しばらく灯台のふもとで休憩し、名残り惜しさを感じながら引き返す。視界には延々と続く階段が伸びており、この階段を登らなければならないと思うと気が滅入る。しかし、時間は刻々と過ぎており、急がなければならない。20代の島雄クンは軽やかに階段を登って行く。遅れをとるまいと努力をするが、息が上がってしまって差は開くばかりだ。一方、最後まで灯台に残り、いつまでも風景をビデオに撮影していた奥田クンはなかなかやって来ない。
 駐車場に戻って来たのは18時前。汗が引かないままレンタカーに乗り込み、大瀬山を一気に下る。時間がなければそのまま福江に向えば良いのだが、玉之浦集落から更に2キロほど先に行けば、1994年(平成6年)4月に架橋された玉之浦大橋を渡れば島山島に上陸できる。外周旅行で架橋されている島を無視するのも悔しく、レンタカーなら数分だからと島山島を目指す。
 島山島は、面積5.53平方メートル、周囲16キロの島であるが、集落は玉之浦大橋の袂にある向小浦のみで、道路も向小浦までしか整備されていない。
 大瀬崎から10分足らずで、全長170メートルの玉之浦大橋を渡り、向小浦に到着。かつては半農半漁の集落であったそうだが、野性の鹿による被害で、島民は農業を止めてしまったという。漁港近くの自動販売機で缶ジュースを購入し、ようやく人心地がついた。
 県道50号線を引き返していると、前方に駐留米軍の車両が走っている。福江島に米軍基地は存在しないので、佐世保からバカンスにやって来たのであろうか。まさか福江島に基地を移転するための下見に来たわけではなかろう。
 国道384号線に入ると峠道が続く。国道ではあるが、大宝−富江間は、地方道のような装いで、交通量も少なくなる。玉之浦町と富江町の境界に当たるので、住民が行き来することも少ないのであろう。
 いくつものカーブを曲がり、随分と走ったように感じるが、カーナビに表示される富江は遠い。キューピーが仰向けに寝ている姿に見えることから、キューピー島とも呼ばれているそうだ。言われてみればそのように見えないこともないが、仰向けに寝ている姿であれば、別にキューピーである必要はない。人間だと水死体になってしまうので、人形に例えたのであろうか。
 丸子集落を抜けると、見覚えのある黒瀬集落にたどり着いた。今朝、富江半島を一周したときに通った集落である。富江半島は既に訪問済みなので、半島の根元を横切る国道384号線をそのまま走行。富江から県道49号線に入る。県道でもこちらは福江を結ぶ幹線道路で、道路の整備状況も国道384号線よりも格段に上である。しかし、交通量も増加し、運が悪いことに前方に路線バスが走っている。時刻は18時40分になっている。路線バスの富江−福江間の所要時間は約40分であるため、このままバスの後ろを走っていては、福江に到着するのは19時20分になってしまう。どこかの停留所に停車してくれれば抜き去ることができるのだが、バスは途中の停留所をことごとく通過してしまう。やむを得ず道路が直線になったところで、一気に抜き去った。
 大浜からは道路地図を凝視して、信号の多い県道49号線を避けて、バイパスのような市道を走る。この選択は正解で、福江までの7キロ近くを快調に走り、19時ちょうどに閉店間際のガソリンスタンドに掛け込む。ガソリンスタンドの隣が観光レンタカーの事務所であったため、携帯電話から隣で給油中である旨の一方を入れた。
 時間は5分ほど超過したものの、今回は問題なくレンタカーを返却。有難いことに、我々が乗って来たレンタカーで、そのまま宿泊先である「五島バスターミナルホテル」まで送ってもらえた。
 ホテルの部屋に荷物を置いて、さっそく福江の繁華街に繰り出す。民宿に泊まっても、魚料理がメインになるので、五島列島最後の夜は五島牛の焼肉を食べようと、「五島バスターミナルホテル」を1泊朝食付き4,095円で予約していたのだ。
 事前に何軒かの焼肉店をリストアップしていたのだが、全日空の機内誌である「翼の王国」でも紹介されていた「焼肉喜楽」がホテルからも近く、値段も良心的なようだ。青い暖簾の掛かる大衆居酒屋のような雰囲気の店内に入る。
 店内に先客はなく、店員のおばさんたちが井戸端会議をしていた。台風4号が近付いているので、観光客やビジネス客も少ないのかもしれない。まずは生ビール(600円)で乾杯する。焼肉は2人前からの注文とのことで、ロース(1,000円)、バラ(1,000円)、野菜(500円)を適当に注文する。1966年(昭和41年)創業の「焼肉喜楽」は、五島牛のみを扱うため、どれを注文しても必ず五島牛が出て来る。肉はすべて秘伝のタレで味付けされており、柔らかくて深みのある味わいの五島牛に良く合う。
「せっかく五島へ来たのだから最高級の五島牛を食べたい」
奥田クンのリクエストで、上ロース(1,500円)も注文した。私はロースやバラでも充分満足できたのだが、外周旅行の途上で、佐賀牛、平戸牛を賞味して来た奥田クンとしては、最高級の五島牛も賞味してみたかったのであろう。実際に食べ比べてみたが、上ロースとロースは値段ほどの差はないように感じた。会計はビール代込みで15,800円。1人あたり5,000円をオーバーしてしまったが、五島牛を充分に堪能できたので満足だ。
 ホテルに戻るついでに、福江フェリーターミナルに近い「エレナFC福江店」に立ち寄る。中通島の有川で何度か利用したスーパーマーケットの系列店である。飲み物とおつまみぐらいを購入するつもりで立ち寄ったのであるが、店内には「五島うどん」や「かんころ餅」も並んでいたので土産に買い求める。嬉しいことに毎週月曜日は全品10パーセント割引とのことで、思わぬ恩恵に預かることができた。
 ホテルに戻り、隣接する「カンパーナホテル」7階の展望大浴場へ出掛ける。ビジネスホテルの「五島バスターミナルホテル」と2002年(平成14年)に天皇皇后両陛下が宿泊した「カンパーナホテル」では、明らかに利用者層が異なるのであるが、同じ五島バスグループの系列ということで、「五島バスターミナルホテル」の宿泊客は、無料で展望大浴場を利用できる。正確には老朽化した「五島バスターミナルホテル」の共同浴場を閉鎖して、「カンパーナホテル」の展望大浴場で代用しているのだ。
 場違いな風貌でそそくさと「カンパーナホテル」のロビーを通り抜け、7階の展望大浴場へエレベーターで運ばれる。大理石浴槽で高級感のある大浴場からは、五島市街地の夜景が広がる。大都市と比較すればもちろん灯火は少ないのであるが、それでも五島列島の中心である旧福江市の中心部は、想像以上に活気があるように感じた。温泉ではないのが唯一残念なところだ。
 ホテルの部屋に戻ると、風が強くなってきた。嵯峨島、大瀬崎と奇跡的に薄日が差したため、台風4号の進路が変わったのではないかとテレビの天気予報に注視したが、確実に台風4号は五島列島に向かっている。我々が長崎に戻るまで、台風4号の接近が遅れるように祈るばかりだ。

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