あのビジネスどうなってるの

第105日 若松−岐宿

2010年8月8日(日) 参加者:奥田・北川・島雄・福井

第105日行程  北川クンと島雄クンを伴って、7時前に「民宿つる屋」をレンタカーで抜け出す。目的は若松島に残る新上五島町営船に乗るためだ。複雑に入り組んだ海岸線の若松島では、交通機関と言えば町営船が当たり前であった。しかし、現在、コストの高い町営船は、道路整備と引き換えに、陸路輸送への切り替えが行われている。2008年(平成20年)までは、若松−郷の首−白魚−宿の浦間の郷の首航路、若松−大平間の大平航路が就航していたが、現在では鵜ノ瀬−月ノ浦間の鵜ノ瀬航路を残すのみとなった。鵜ノ瀬航路も平成22年度中に完成する町道月ノ浦線の拡幅工事が完了すれば廃止になるという。道路が整備されても、毛細血管のような道路では、海上を移動した方が大幅な時間の節約になるのだが、コストを考えればやむを得ない選択である。廃止目前に若松島へやって来たのも何かの縁。余命わずかとなった鵜ノ瀬航路の姿を記憶に留めておこう。
 時刻表を確認すると、神部に近い鵜ノ瀬を7時15分に出港する始発便が、月ノ浦まで20分で往復してくれる。朝食前のミニツアーを計画したが、奥田クンと福井クンはパスした。貴重な睡眠時間を優先したのであろう。
 さて、鵜ノ瀬の地名は地図で確認できたものの、桟橋の位置が表示されていない。幸いにもカーナビに鵜ノ瀬乗船場が表示されていたので、カーナビの情報に従って、乗船場へ向かう。ところが、現地には桟橋はあるものの、漁船が停泊しているのみで、町営船の姿は見当たらない。誰かに場所を尋ねようと思っても、人影がないのだからどうしようもない。周囲を注意深く見回していると、対岸に町営船らしき船舶と人影を確認する。急いでレンタカーを対岸まで走らせ、若松中央小学校に近い桟橋で出港の準備をしていた船員に確認すると、間違いなく新上五島町営船「第二わかしお」であった。若松中央小学校や若松総合運動公園の周辺も最近になってから整備された様子である。もしかすると、かつては対岸の桟橋から発着していた町営船の桟橋を、整備を機会に移転したのかもしれない。こちらの方が小学校にも近く、道路事情も良いので便利なことは間違いない。それならば、乗船場も鵜ノ瀬ではなく、若松中央小学校前にしてくれれば迷うこともないのだが、旅行者が利用する航路とも思えず、現状のままで誰も困らないのであろう。
 「第二わかしお」は、総トン数19トン、定員99名の立派な船舶であったが、先客はお婆さんが一人だけ。我々が乗り込むと、まだ出航時刻よりも2分も早い7時13分であるというのに桟橋を離れてしまった。基本的に月ノ浦へ乗客を迎えに行く性格のダイヤであろうし、普段は利用者が皆無なのかもしれない。一般的なダイヤが往復とも途中の間伏、榊ノ浦へ立ち寄って行くのに対して、始発便だけは月ノ浦へ直行するダイヤとなっている。
 右手にこれから渡る予定の日島や有福島が現れたかと思うと、すぐに月ノ浦に到着した。
「月ノ浦だよ。降りないの?」
お婆さんは怪訝な顔をしながら桟橋へ降り立って行った。せっかくなので、我々も月ノ浦に降り立ってみようと思ったら、「第二わかしお」は、お婆さんを降ろすと、すぐに月ノ浦桟橋を離れてしまった。今日は日曜日なので、常連客の小学生や中学生は皆無なのである。
 帰りは間伏を経由するダイヤであるが、結局、間伏に寄ることなく、鵜ノ瀬に戻って来た。4年前に対馬で市営船に乗ったときは、桟橋にポールがあって、乗船するときはポールに備え付けられた旗を上げなければ市営船は通過してしまうシステムだった。おそらく、この町営船にも同じようなシステムが採用されているのだろう。請求された運賃は200円で、鵜ノ瀬から月ノ浦までの片道の運賃であった。往復したのだから400円だと思うのだが、1回の乗船で200円とみなしてくれたのであろう。次の便まで2時間近くもあるので、船員たちは我々を降ろすと、桟橋の近くに停めてあった車で、どこかへ行ってしまった。
 「民宿つる屋」に戻ると既に朝食の準備が整っていた。昨夜のような豪華さはなく、一般的な民宿の朝食で少々がっかりするが、料金的には昨夜の夕食だけで大満足だ。まともな昼食は食べられそうもないので、朝食はしっかりと食べておく。お櫃の御飯はきれいに空になった。
 8時過ぎに改めて「民宿つる屋」を出発。午前中は若松島と中通島の南部を周る予定である。まずは昨年の外周旅行で迷ってたどり着けなかった瀧観山展望台を目指す。若松港ターミナルまでは順調で、問題はその先である。地図では県道169号線を道なりに進めば良さそうなのだが、昨年同様に若松漁港のところで行き止まりになってしまう。地図とカーナビをじっくりと照合し、漁港に入る手前に分岐路があるはずだと、ゆっくりとレンタカーを進めていくと、ガソリンスタンドの近くに生活道路のような道が続いている。どうやらこれが県道169号線のようだ。道路標識もあったが、少々判りづらい場所にあり、観光客を誘致するならもう少し改善して欲しいところである。
 しばらく坂道を登って行くと、無事に瀧観山園地にたどり着く。駐車場からも中通島を望むことができるが、展望台まではしばらく遊歩道を歩く。轍もあるので、レンタカーで展望台の近くまで行くこともできそうであるが、方向転換する場所がないと困るので止めておく。やがて遊歩道が上下に分かれ、私と奥田クン、福井クンは素直に道なりになっている下の道を選択したが、北川クンと島雄クンは上の道を進む。
 やがて小さな広場が現れ、その一角に展望台が設置してあった。展望台に立つと、青い若松瀬戸と緑に覆われた中通島が広がる。手前には瓢子鼻が横たわり、その奥には昨年通り過ぎた郷の首が確認できた。若松瀬戸には、ヤク丸島、コデ島という無人島が浮かび、島を取り囲むように潮流が確認できる。展望台から眺めている限りでは湖のように穏やかだが、実際はかなり潮の流れが早いのかもしれない。
瀧観山  展望台でしばらく北川クンと島雄クンの到着を待つが、一向に現れる気配がない。その代わりに1台の乗用車が広場にやってきた。乗っているのは若い男女であるが、車から降りずにずっと車内に留まっている。観光客ではなく、地元の若者が2人きりになれる場所を求めてやってきたようだ。北川クンと島雄クンは現れないが、2人の邪魔をしないようにその場を立ち去る。
 展望台の広場には我々がたどって来た道の他に上へ登る階段が続いていた。北川クンと島雄クンがやって来るならこちらの道だろう。階段を上り切ったところにも展望台が設置されており、北川クンの姿があった。北川クンと島雄クンも我々がやって来るだろうと、こちらの展望台で待ち続けていたようだ。もっとも、島雄クンはいつまでたっても我々が現れないので、先に駐車場へ戻ってしまったという。
 最初の展望台と異なり、こちらの展望台からはトラス橋の若松大橋を望むことができる。中通島側のアプローチが長いので、感覚的にはもっと長い橋だと思っていたが、全長は522メートルに過ぎない。
 瀧観山園地から県道169号線を更に北上する。県道169号線は途中の西神ノ浦郷までしか通じていないが、地図を見ると、その先も町道が続いており、若松島の北東部をぐるりと周ることができそうだ。
 地図のうえでは若松瀬戸沿いの道路であるが、実際は樹木に囲まれた山道である。蛇行する地方道を20分ほど走り続けると、鉄筋コンクリートの3階建ての建物が現れた。2003年(平成15年)に廃校になった旧若松町立大平小学校の校舎であり、現在は静かな大平集落も、かつては賑わいを見せたに違いない。
 目指す大平教会は、旧大平小学校の道路を挟んだ向かいの高台に建っていた。隠れキリシタンが生活していた大平にも1892年(明治25年)に教会が建設された。その後、老朽化のため1958年(昭和33年)に現在の教会に建て替えられた。既に建て替えからも50年以上が経過しているが、白亜の教会堂は最近になって改修されたためか時代を感じさせない。内部見学ができるだろうかと扉のノブに手をやると、教会の中から話し声が聞こえる。今日は日曜日なのでミサでも行われているのだろうか。部外者がミサの邪魔をしては申し訳ないので、ノブからそっと手を離す。
 教会の前には海に向かって聖母マリア像が建っている。聖母マリア像の足下には雲がモチーフされており、雲の間から3人の天使が顔を出している。聖母マリアが神に召されて昇天するシーンを再現したのであろう。
 レンタカーに戻って出発をしようとしたところ、やがて地元のおばさんたちが教会から出て来る。
「観光ですか?どうぞ。教会の中も自由に見学していってください」
ミサを終えたおばさんから声を掛けてもらえたので、レンタカーのエンジンを停めて、再び教会へ戻る。祭壇まで赤い絨毯が敷かれた教会内部もきれいに整備されている。維持管理も行き届いているのであろう。辺鄙な場所であるが、備え付けのノートには東京からの訪問者の記帳もある。
 大平教会を後にして、再び蛇行した町道を進む。大平から先の町道はさらに整備状態が悪くなった。大平の住民が若松に向かうことはあっても、わざわざ月ノ浦方面へ向かう必要はないのだから当然だ。悪路を30分以上走り続けていると、ようやく海辺の道路に出る。右手に見覚えのある風景が広がるなと思えば、程なく鵜ノ瀬桟橋に到着した。
 鵜ノ瀬桟橋からは2時間前に通ったばかりの道路だ。若松総合運動公園の脇を通り抜けて、県道169号線に復帰する。全長112メートルの漁生浦橋が1979年(昭和54年)3月に架橋されたことにより、陸続きになった漁生浦島(りょうぜがうらしま)へ。次いで堤防で陸続きになった有福島を経て、やはり堤防で繋がった日島(ひのしま)に渡る。当初は架橋よりも安上がりだから堤防道路にしたのかとも思ったが、よくよく地形を見ると、漁生浦島と有福島、有福島と日島の間に堤防を築くことにより、漁生浦島、有福島、日島の3島で人工湾を形成していることに気付く。日島と有福島の漁港は、この人工湾内に位置していた。
 日島は総面積1.39平方キロ、周囲7キロの小さな島であるが、道路は日島の南部にしか通じていない。行き止まりになっていた日島漁港の片隅に釜崎宝篋印塔(かまざきほうきょういんとう)へ続く遊歩道があったので足を向けてみる。遊歩道には鹿の糞が転がっているが、周囲を見回しても鹿の姿はない。
 海上を見下ろす丘に位置する釜崎宝篋印塔は、1367年(正平22年/貞治6年)の建立と歴史がある。雨風に曝されながら、ここまで原型をしっかりと留めているのでは珍しいなと思ったら、1998年(平成10年)に大部分が復元されていた。海上航行の安全と供養のために建てられたものであろうが、神社ではなく、宝篋印塔が建てられた背景には、この地が海上交易で重視されていたからに違いない。
 レンタカーで少し戻り、日島の南西部に広がる日島曲石塔群を眺める。釜崎が経典を収めた供養塔である宝篋印塔であったのに対して、日島曲石塔群は五輪塔となっている。五輪塔は、この世の物質が地・水・火・風・空の五大によって構成されると説く五大思想と、インドに始まったと伝えられる五輪図形が結びついて石塔化されたものとのこと。大きく2つのグループに分けられ、第一グループは鎌倉時代後半の1300年前後に製作された約13基。第二グループは室町時代前半の1400年前後に製作された約45基であるとのこと。大量の石塔が建立されたことは、やはり日島の繁栄を裏付ける証拠となるようだが、第二グループ以降に石塔が建てられなくなったことから、室町時代に入ってから日島の衰退が始まったことが伺える。海賊によって滅ぼされたのか、自然災害によって滅ぼされたのか、日島に関する史実は明らかになっていないようだ。
 宮ノ瀬戸を埋め立てた堤防道路で有福島に戻り、島の南部に位置する有福教会を訪問。施錠されており、残念ながら内部の見学はできなかったが、1927年(昭和2年)に建築された木造教会も随分ときれいに整備されている。東シナ海からの潮風を受けながら、何度も改修されたのであろうが、大江教会といい、教会堂の維持管理が徹底しているのは、この地域の人々の信仰心の現れであろう。
 漁生浦島を通って若松島に戻り、今度は土井ノ浦教会を訪問する。土井ノ浦に仮の教会が建てられたのは1892年(明治25年)のこと。1915年(大正4年)に昨年訪問した大曾教会が新築されたことに伴い、1918年(大正7年)に大曾教会の木造教会堂を移築した。土井ノ浦集落を望む外観は立派な鉄筋コンクリート製の境界に見えるが、1997年(平成9)年の大改築によるものであり、内部はリブ・ヴォルト天井で、木造教会の面影が残っている。
 五島旅客船が発着する土井ノ浦桟橋に挨拶して若松島に別れを告げる。若松大橋を渡って中通島へ戻り、桐入口から海岸沿いの町道を進む。海岸沿いと言っても、この町道も崖沿いの山道だ。前方を走る車が右方向の指示器を出し、大きく左端に寄る。しばらく一本道であるので、先へ行けという合図かなと思い、追い越しを掛けようとしたところ、突然、右折したのでひやりとする。地図には記載されていない海辺へ下る細い道が続いたのだ。
「先に行けなら指示器は左やで!」
福井クンから冷やかしが入る。
 昨日から続いた中通島の教会めぐりの締め括りは、若松瀬戸を望む小高い丘に建つ桐教会。1897年(明治30年)にパリ外国宣教会のフューゼ師によって設立されたという。鯛ノ浦教会、船隠教会、浜串教会の設立もパリ外国宣教会によるものであったし、パリ外国宣教会は中通島での布教に随分と熱心であったものだ。現在の教会堂は、1958年(昭和33年)に改築されたものとのこと。教会堂の脇には、桐教会復活期の指導者であった下村善七・ガスパル与作親子と清川沢次郎を顕彰する「信仰之先駆者顕彰碑」が建っていた。ガスパル与作は、長崎でプチジャン神父の教えを受けた後、1877年(明治10年)には、自宅に仮の教会と伝道学校を開設し、五島各地から集まった若者の教育にあたったという。顕彰碑では3人ともちょんまげを結っているので違和感を覚えたが、1871年(明治4年)に発令された散発脱刀令も五島には浸透していなかったのかもしれない。
 米山展望台に立ち寄ることも考えていたが、時間的に米山展望台に立ち寄ってしまうと奈良尾温泉に入浴する時間がなくなるので今回は見送り。瀧観山展望台や桐教会からも若松瀬戸は眺めたし、眺望よりも貴重な温泉を優先した。
 中通島の最南端は佐尾鼻であるが、道路が通じていない。代わりに佐尾漁港に足を記して敬意を表し、県道203号線で奈良尾を目指す。昨夜も立ち寄った奈良尾であるが、ひっそりとした印象の昨夜とは変わって行き交う人も多い。かつての奈良尾町の中心街だけのことはある。
 奈良尾温泉に向かう前に、奈良尾神社に立ち寄る。狭い路地のような参道を通り抜けると、石鳥居の背後に巨大なアコウ樹の天然鳥居が構えていた。日本有数のアコウ樹で、2000年(平成12年)現在で樹齢650年とのことであるから、現在は樹齢660年ということになる。1961年(昭和36年)4月27日に国の天然記念物に指定されている。アコウは琉球系の暖地性植物であるため、これからアコウ樹に出会う機会はますます増えていくことであろう。
 巨大なアコウ樹が出迎えに対して、簡素な造りの奈良尾神社で旅の平穏無事を祈って奈良尾温泉へ移動。奈良尾温泉への行き方が判らずに、街中を右往左往しながら煉瓦造りの「奈良尾温泉センター」に到着したときは、ちょうど12時になったところであった。
 入口の受付で250円の入浴料を支払い、浴場へ向かう。脱衣場には鍵付きのロッカーが備えられているが、木製の扉のロッカーのほとんどは鍵が壊れている。地元の入浴客が2、3名いるだけなので、あまり神経質になる必要もないだろう。
 浴場はガラス張りになっており、奈良尾港や五島灘が見渡せるロケーションになっていた。泉質は無色透明の塩化土類泉で、神経痛、リュウマチ、胃腸病などに効くという。景色を眺めながら、のんびりと温泉を楽しみたいところであるが、昨日に続いて遅刻するわけにはいかないので、20分そこそこで切り上げ。汗をかきながらレンタカーに戻る。
 奈良尾港フェリーターミナルで奥田クン、北川クン、福井クンと荷物を降ろし、島雄クンと2人でフェリーターミナルから700メートル離れたトヨタレンタカー奈良尾営業所へヴィッツの返却に向かう。
 すぐ近くにガソリンスタンドがあるのだが、中通島のガソリンスタンドは日曜日に営業をしていないので、レンタカー代はガソリン代を含めて返却時に精算という約束になっていた。車両代が7,875円、ガソリン代が1リットル168円で151キロの走行で11リットル換算ということで1,848円、合計9,723円まではよかったのだが、左後部のホイルキャップが紛失しているということで6,300円の追加請求があった。走行中にホイルキャップが外れたことには気が付かなかった。一般的には借受人の過失で素直に支払うところだが、今回は事情が異なる。予約したパッソが手配できずに、現役を退いたような老朽車両を押しつけられたのだ。借り受け時の確認書類にもホイルキャップに大きなキズが示されており、当初からきちんとホイルキャップが装着されていなかった可能性もある。
「何も一切を弁償しないとは言っていない。ただ、自分たちのミスはお詫びの一言だけで済ませて終わりですか?」
「事前にお客様の了解も得ていますし、整備もきちんとしてお貸ししておりますので・・・」
「事前の了解って当日に連絡されても選択の余地がないじゃないですか。確認書類にもホイルキャップにキズが示されています。キズが付いたときにホイルキャップが歪んだ可能性もあるでしょう?」
このようなやり取りの末、最終的には、ホイルキャップ代を割引することはできないが、車両代は手配ミスもあるので、最低料金の6,300円に引き下げたうえ、「民宿つる屋」でもらった「ウェルカムアイランドキャンペーンin五島」のクーポン券2,500円分を充当することで決着した。実質的な持ち出しは2,225円に留めることができたのでよしとしよう。
 奈良尾港フェリーターミナルまで送迎車で送ってもらい、待合室で奥田クンたちと合流。乗船券売り場に赴くと、インターネットで予約した乗船券は出港30分前までに購入しなければならないので、予約は取り消されてしまっていると思ったが、出航時刻の10分前であったにもかかわらず、予約はキャンセルされずに残されていた。福江まで2,050円の乗船券を購入する。
 12時45分に乗船案内のアナウンスが流れ、桟橋に移動する。九州商船のジェットフォイル「ぺがさす2」は接岸しており、乗船客の下船が始まっていた。タラップの前に女性客室乗務員が立ち、航空機のような雰囲気だ。ジェットフォイルは、航空機で知られるアメリカのボーイング社によって開発された船舶で、大気の代わりに海水から揚力を得て飛ぶ海の飛行機なのである。五島航路にジェットフォイル「ぺがさす」が就航したのは1990年(平成2年)4月2日のこと。従来はフェリーで3時間30分を要していた長崎−福江間が1時間25分と2時間以上も短縮したのであるから、所要時間についても飛行機並みの偉業を成し遂げた。
 奈良尾を12時50分に出港する便は、初代の「ぺがさす」ではなく、2003年(平成15年)6月29日に会社更生法の申請により倒産した旧東日本フェリーの初代「ゆにこん」から譲渡を受け、1997年(平成9年)2月から就航を開始した「ぺがさす2」であった。かつては青森−函館間に就航していたジェットフォイルが九州で第2の人生を送っているのも不思議なものである。
 「ぺがさす2」は全席指定であるが、奈良尾での下船客が多かったため、船内は比較的空いている。別々に予約したため、北川クンの席だけが離れていたが、空いているのを幸い、我々の席の隣に移動してきた。
 静かに出港した「ぺがさす2」は、揺れも少なく平穏な航海を続ける。船体が浮くので、波の影響を受けにくく、3.5メートルまでの波であればまったく影響を受けないというのだから頼もしい。奈良尾−福江間もフェリーであれば1時間10分を要するところを半分以下の30分で就航してしまう。佐尾鼻を迂回すると、左手前方に椛島、やがて右手に奈留島、久賀島が現れる。本来であれば、奈留島、久賀島をまわって福江島に向かうのが筋であるが、五島列島の島めぐりをするためには、下五島の中心である福江を拠点にすることが最も効率的であったのだ。
 海上保安庁の巡視船「ふくえ」が係留されている福江港フェリーターミナルには、定刻の13時20分に到着。2005年(平成17年)3月に共用が開始されたターミナルビルは近代的で、多くの利用者で賑わっていた。コインロッカーに荷物を預けて身軽になる。予定では14時出港の黄島海運「おうしま」で黄島に渡ることにしているが、30分ほどの待ち合わせ時間を利用して、フェリーターミナルに近い「五島観光歴史資料館」へ足を運ぶ。
五島観光歴史資料館  「五島観光歴史資料館」は、旧福江市の市制施行35周年を記念して、1989年(平成元年)11月12日に石田城二の丸跡地に開館した。外観は石田城をモチーフにしているが、それほど大きな建物ではない。220円の入館料を支払って館内に入ると、五島の観光名所や祭りの紹介、郷土の歴史や文化遺産等が展示されている郷土資料館であった。十字架地蔵尊や踏み絵板など、キリシタン関係の展示品に興味が惹かれる。教会をいくつもはしごした影響もあろうが、やはり五島列島の文化とキリシタンは切り離せない。「古代の海の生き物」という企画展も開催中で、アンモナイトやシーラカンスの化石を眺める。地元の小学生が熱心に眺めており、夏休みの自由研究のテーマなのかもしれない。
 黄島海運の出航時刻が迫り、慌ただしく「五島観光歴史資料館」を後にする。週末のみの参加の北川クンと福井クンとはここでお別れ。2人とも夏期のみ就航している関西空港への直行便で帰路に付くとのこと。五島福江空港の出発時刻まで2時間30分の時間があるので、それまでこの辺りを散策していくのであろう。
 福江港フェリーターミナルに戻るが、フェリーターミナル内には黄島海運の窓口は見当たらない。やむを得ず桟橋に向かい、出港の準備をしていた「おうしま」の船員に尋ねると、乗船券は船内で販売しているとのこと。同じ福江港フェリーターミナルを共用しているが、近隣の属島への航路は居候のような扱いだ。
 白い船体に緑、青、赤、黄とカラフルなラインが入った黄島海運の「おうしま」は、1996年(平成8年)3月に就航した総トン数42トンの小型船。定員54名の船内には、先客が20名ほど乗船していた。黄島航路は1日2往復で、島民は午前中の便で福江島に渡り、買い物などを済ませた後、この便で赤島や黄島に戻って行くのであろう。荷物置き場と化していた桟敷席の一角に陣取る。
 14時に福江港フェリーターミナルを出港すると、船員が集金にやって来る。黄島まで片道760円の乗船券を往復分購入し、折り返しの便で福江に戻ることを伝えておく。往復割引があるわけではないので、その都度片道乗船券を購入することも可能であるが、往復であることを伝えておけば、黄島に取り残される心配はないであろう。我々が観光でやって来ていることを知ると、操舵室の後方にあるデッキに案内してくれた。
 降り注ぐ夏の日差しは強いが、デッキからの眺めは素晴らしい。周囲に青い海が広がり、右手には福江島のシンボルでもある鬼岳が貫禄ある姿を見せている。鬼岳を眺めながら崎山鼻沖を通り過ぎると、前方に緑で覆われた小島が点在している。最初の寄港地である赤島と無人島の小板部島と大板部島だ。その背後には黄島の島影も現れる。
 14時25分に赤島に到着。桟橋には荷物の受け取りにやって来た島民が集まっているが、周囲に民家は見当たらない。かつては460人が生活していたという赤島も現在の人口は8人で、すべて65歳以上の男性だという。赤島の出身者が無人島にしないために出戻りで生活をしているらしい。五島列島には、島民が引き上げて無人島になってしまった島が多い。赤島が無人島になるのも時間の問題であろう。ただ、電力を供給するための海底ケーブルが通じているということなので、キャンプ場などを整備して、季節営業で観光客の誘致を図る余地もある。
 赤島で5分停泊した「おうしま」は、10分足らずで目的地の黄島に入港した。黄島での滞在時間は1時間足らずなので、さっそく島内散策に出掛ける。黄島は総面積1.47平方キロ、周囲6.5キロの小さな島で、赤島と同様に溶岩でできた島である。海辺の岩場も溶岩石で形成されており、紫色に無数の気泡によってできた小さな穴がある。民家の石垣にも溶岩石が活用されているが、石垣だけが残されて、敷地には雑草が覆い茂っている箇所が多い。赤島と同様に過疎化が進んでいる証拠だが、黄島の人口は60人ぐらいとのこと。
 まずは黄島漁港を取り囲むような地形をしている宮ノ鼻へ。先端には黄嶋神社があり、立派な石鳥居が構えている。しかし、社殿は雨戸で閉め切られており、内部の様子を伺うことはできない。日常的に参拝する者はいないのであろう。
 黄島の集落には、至る所に道祖神が祀られており、お供え物が添えられている。道祖神がガラス戸の付いた石堂で覆われており、管理も行き届いている。
「お祈りしたら、供養品をもらえるんじゃないのかなぁ」
奥田クンが冗談めかして言う。地蔵盆でもあるまいが、お盆に備えて供養品を改めたのかもしれない。
 集落の端に延命院という真言宗の寺院があり、境内には空海の作と言われる弁財天の像が祀られている。五島列島は、値嘉島(ちかのしま)と呼ばれ、遣唐使船の最後の寄港地であったことから、福江島には遣唐使の留学僧であった空海に縁のある札所が多い。1886年(明治19年)には、五島八十八箇所霊場が制定され、延命院も2005年(平成17年)に五島八十八箇所霊場の15番札所として指定を受けている。1世紀以上も前に制定された霊場の指定をわずか5年前に受けるというのは奇妙な話であるが、本来の15番札所であった法養山国分寺唐人町明神堂を新築する際に、本尊が16番札所であった光燿山観音寺唐人町地蔵堂に移されてしまったために、15番札所が欠番となってしまった。そこで、本来は番外扱いであった延命院が15番札所に昇格したのである。
 持参の地図では、番岳を囲むように黄島を一周する道路が続いているが、延命院の境内から先へ進む道路が見当たらない。延命院の先には、黄島溶岩トンネルという長崎県天然記念物に指定された名所があるのだ。観音像が祀られている洞窟は、奥行き132メートルで、福江島の富江町まで続いているという伝説まである。数少ない黄島の名所なのでぜひ見物しておきたい。
 やむを得ず、一旦、集落に戻り、反対側の道路から黄島溶岩トンネルを目指す。島雄クンは、途中ではぐれてしまったので、奥田クンと2人で溶岩トンネルを目指す。番岳を望みながら遊歩道を黙々と歩くが、一向に溶岩トンネルにたどり着かない。やがて遊歩道も雑草に覆われて、道なき道を進むことになる。しかし、周囲には溶岩トンネルの案内すら見当たらない。番岳の位置関係から溶岩トンネルの近くであることは間違いないのであるが、出航時刻が迫って来たので捜索を断念。溶岩トンネルに未練を残しつつ桟橋へ戻る。
 先に乗船を済ませていた島雄クンとも無事に合流し、15時30分の「おうしま」で黄島を後にする。今度はデッキではなく、冷房の効いた船室で涼をとる。帰りの便は福江へ戻る工事業者らしき乗船客が数名乗船。黄島での仕事を終えて福江に戻るのであろう。再び赤島を経由して、16時05分に福江に到着。
 離島めぐりはまだまだ続く。今度は隣の桟橋に停泊していた木口汽船の「ソレイユ」に乗り込む。紫色をベースに黄色のラインが入った派手な船体は福江港フェリーターミナルでも一際目立つ。総トン数は19トン、定員は70人の「ソレイユ」は、本来、観光用のクルージング船なのだ。
 クルージング船が椛島への定期航路を受け持つことになったのには理由がある。もともと椛島航路は、桑原海運の「ニュー椛島」が就航していた。ところが、2009年(平成21年)9月1日になって、突然、資金繰りの悪化を理由に桑原海運が同日からの椛島航路の運休を発表した。事実上の運航放棄である。五島市は緊急措置として、同年9月3日から海上タクシーをチャーターして生活航路を維持。同年10月1日より久賀島航路を就航していた木口汽船が椛島航路を引き継ぐことになった。木口汽船としても、計画性をもって椛島航路に参入したわけではないので船舶の手配が間に合わず、クルージング船を代用せざるを得なかったのであろう。桑原海運は2010年(平成22)2月に経営破綻した。
 「ソレイユ」は、となっていた。船室は既に地元の乗船客で賑わっていたので、我々はデッキに陣取る。本来はクルージング船であるため、ベンチも備えられ、乗船客がデッキに出ることを想定した構造になっている。夏の日差しを浴びながら、デッキで出港を待っていると、長崎からのジェットフォイル「ぺがさす」が入港してきた。長崎からの直行便であるため、瞬く間に桟橋は大勢の上陸客で埋め尽くされる。
 定刻の16時35分に「ソレイユ」は出港。ほとんど同じ航路を3時間前にジェットフォイル「ぺがさす2」でたどったばかりだが、ジェットフォイルから眺める景色とクルージング船から眺める景色とでは趣きが異なる。潮風が強く、島雄クンの帽子が吹き飛ばされそうになる。本当に飛ばされてしまう前にバッグに仕舞ってしまえばよさそうなものだが、本人は日焼けするから嫌だと言って、帽子を押さえながらデッキで頑張る。
 しばらくすると船員が集金にやってきた。時間の都合から今回は椛島へ渡ってもとんぼ返りをしなければならない。「ソレイユ」は、椛島の伊福貴(いふき)と本窯(もとがま)に寄港するが、伊福貴までの往復乗船券の購入を申し出る。福江−伊福貴間は片道780円、福江−本窯間は片道800円なので、伊福貴までの往復にした方が40円の節約になるからである。船員はしばらく思案した挙句、「帰りの分は後でまた来ます」と片道分の運賃だけ受け取った。乗船券の整理番号がずれると具合が悪いらしい。
 遠方に見えた島影が段々と大きくなり、16時54分の定刻よりも若干早めに「ソレイユ」は伊福貴に到着した。わずかな時間であるが折角なので椛島に降り立つ。福江島の北東約16キロに位置し、面積は8.75平方キロ。平家の落人が定着したのが始まりとされる。漁場に恵まれていることから、1950年(昭和25年)には約3,300人の島民が生活していたが、現在は230人と過疎化が進んでいる。防波堤の先には無人島のツブラ島が横たわっているが、かつてはツブラ島で生活する人々もいたという。
 本当は本窯まで歩いて行きたかったのであるが、起伏のある道路が4キロ以上も続いており、最低でも1時間はかかる。「ソレイユ」の本窯の出航時刻は17時10分なので、走っても間に合うはずもなく、そそくさと船内に戻る。我々が乗船すると、出航時刻の17時よりも3分も早かったが、「ソレイユ」は伊福貴港を離れた。
 海上から椛島の西海岸を眺めながら本窯港へ入港。伊福貴を3分早発した貯金をそのまま持ち越して本窯にも3分装着した。本窯でもかなりの下船客があり、集落へと消えていく。本窯にも降り立ってみたい衝動に駆られたが、我々にとっては、伊福貴から福江に向かう途中の区間外乗船になるので、本窯では下船することはできない。そんな我々を挑発するように「ソレイユ」は定刻の17時10分になっても出港する気配を見せない。結局、「ソレイユ」は本窯に13分も停泊し、5分遅れで出港した。ダイヤ上は伊福貴、本窯とも5分の停泊だったので、伊福貴で下船してみたのだが、13分も時間があるのであれば、本窯で降りるべきだった。本窯港の近くには椛島神社もあり、参拝ぐらいできそうであった。
 ツブラ島を手近に眺めながら福江に向かう。椛島上陸という点では物足りなさを感じるが、五島灘のクルージングとしては天気にも恵まれて申し分ない。奥田クンは熱心に船上からの様子をビデオカメラに収めている。旅先でもほとんど写真を撮らない奥田クンだが、最近はビデオ撮影に凝りだしたようである。最近は、旅先の風景を撮影して、インターネット上の動画で公開する人も多いそうだ。
 福江港が近付くと、我々の上空を航空機が通過する。時間的に北川クンと福井クンが搭乗した全日空1800便に違いない。天気が良いので、上空から眺める五島列島の姿もまた一興であろう。
 福江港フェリーターミナルの桟橋では、予約していた観光レンタカーの女性スタッフが我々を待ち構えていた。コインロッカーに預けた荷物を回収して、送迎用のワゴン車で5分ほど離れた観光レンタカー営業所まで運ばれる。福江島には大手レンタカー会社も営業所を構えているのであるが、観光レンタカーは、インターネットで予約をすれば料金を15パーセントも割り引いてくれる。しかも、今回は25時間という中途半端な予約であったが、大手レンタカー各社では24時間以降は1日単位の加算であるのに対して、観光レンタカーは24時間料金に1時間分の延長料金のみという良心的な対応で申し分ない。カーナビも標準装備であるのも魅力だ。ダイハツのミラを25時間借り受けて、免責補償料込みで7,991円であった。
 観光レンタカーの営業所を17時50分に出発。今度は奥田クンがハンドルを握る。福江市街地を抜けて、県道162号線を北上。途中、浦頭教会があったが、奥田クン、島雄クンとも教会巡りはうんざりだという顔をするので素通り。
堂崎教会  奥浦湾の入口に佇む堂崎教会に到着したのは18時。教会巡りがうんざりだと言っても、五島観光のメインはやはり教会である。赤煉瓦の堂崎教会は、1908年(明治41年)にペルー神父が建設した五島最古の洋風教会である。教会は資料館になっており、キリシタン迫害の際の攻具や、密かに信仰を守ったマリア観音、オラショなどが展示されているというが、見学時間は17時までで到着が1時間遅かった。
 扉に小窓が付いていたので、内部の様子を伺い、敷地内にあるマルマン神父や布教に尽くした人々の遺徳を讃える記念碑、レリーフ、聖ヨハネ五島の像などを眺める。ヨハネ五島は、1597年(慶長2年)2月5日に豊臣秀吉の命令によって長崎の西坂の丘で処刑された日本二十六聖人の一人である。十字架に貼り付けされた姿がイエス・キリストを連想させる。
 堂崎教会を後にし、引き続き県道162号線をたどる。戸岐湾に架かる赤いアーチ型の戸岐大橋を渡ると、左手に湖のように穏やかな戸岐湾が続く。奥浦から先の福江島北東部は道路事情も悪く、観光資源も乏しいため、基本的に観光客が立ち入らない地域であるが、福江島最北端の糸串鼻があるため、外周旅行としては無視できない地域である。もっとも、糸串鼻へ通じる道路はなく、手前にある間伏の集落までしか立ち入ることはできない。
 観音平から間伏へ続く市道に入る。車1台が通るのがやっとの狭い道路だ。対向車が来たら身動きが取れなくなるが、夕方のこの時間から出掛ける住民などほとんどいないであろう。
 途中に半泊という集落があり、この集落も大村藩の迫害を逃れて来た隠れキリシタンによって形成された集落とのこと。小さな入江で五島へ逃れて来た一行の半分しかこの地に滞在できなかったので、半泊と呼ばれるようになったという。
 半泊から更に進むと、左手に海が広がり、沖合に岩山が2つ並んでいる。左の岩場には中央にぽっかりと穴が開いている。何か名のある岩場だとうと思ったら、ホゲ島という立派な島であった。
 間伏の手前で対向車が現れて冷やりとしたものの、運良く行き違いスペースのある場所で事なきを得る。こちらも驚いたが、相手の運転手もこんなところで対向車に出会うとは思っていなかったようで、大層驚いた顔をしていた。
 間伏も半泊と同様に小さな入江を抱える静かな集落であった。民家はあるが人の気配は伺えない。それでも家屋の手入れが行き届いており、そこに人々の生活があることを伺わせる。田ノ浦瀬戸に向かって立派な堤防もあり、釣り客が1人だけ竿を降ろしている。反対側の東シナ海に面した入江からは、車内から眺めたホゲ島や鴨島のシルエットが、傾きかけた日差しによってはっきりと映し出されている。間伏は隠れた景勝地と呼ぶにふさわしい場所だ。糸串鼻は間伏からさらに500メートルほど北上しなければならないが、間伏に足を記したことで満足する。
 観音平まで引き返し、再び県道162号線に合流する。左手に見えていた戸岐湾が姿を消すと、今度は右手に岐宿湾が姿を見せる。この辺りも複雑な地形を構成している。第二河務橋を渡ったところで福江島の幹線道路である国道384号線に合流した。
 程なく岐宿の中心部に入り、福江以来の信号機を見掛ける。今宵は岐宿町の「民宿魚津ヶ崎荘」を予約しているが、宿に入る前に八朔鼻(はっさくはな)と魚津ヶ崎公園(ぎょうがさきこうえん)には訪問しておきたい。
 岐宿の集落を抜けて、畑の中に真っ直ぐに続く市道を走っていると、突然、畑のスプリンクラーの水がレンタカーに降り注いだ。八朔鼻へ続くだけの道路であるため、地元の人はほとんど利用しないのかもしれないが、随分と無神経なスプリンクラーの設置をしたものだ。レンタカーだったので実害はないものの、歩いていたらとんだ災難である。
 八朔鼻は、五島岐宿風力発電所になっており、白い巨大風車が3基並んでいる。岐宿は年中強い風が吹く地域であり、風車1基当たりの年間発電量は岐宿町で1年間に消費する電力の約6割にあたるという。2基で岐宿町の年間発電量をカバーできてしまうのだから立派なものだ。
 八朔鼻から海上を眺めれば、西の空が茜色に染まり、ちょうど姫島と柏崎の間に日が沈むところであった。時刻は19時12分で、日本の西端にある五島列島の1日は長い。間伏と同様に八朔鼻も優れた景勝地だ。明日は、福江島で最も素晴らしいと称賛される大瀬崎を訪問する予定だが、必然的に期待は高まる。
魚津ヶ崎  周囲が暗くならないうちに水之浦湾の入口に横たわる魚津ヶ崎へ移動する。西海国立公園にも指定されている魚津ヶ崎には、キャンプ場も併設され、夕食の準備をしている家族連れの姿も多い。公園内は芝生が整備されており、水之浦湾と相俟って、風光明媚な庭園のような風景が広がる。公園内には、「遣唐使船寄泊地の碑」があり、この地は遣唐使船が日本で最後に寄港した場所として「肥前風土記」に記載があるとのこと。自然堤防を形成している魚津ヶ崎は、厳しい航海に挑む遣唐使船にとって、束の間の安息の地であったに違いない。
 「民宿魚津ヶ崎荘」は、魚津ヶ崎公園から1キロほど離れた場所にあった。「民宿魚津ヶ崎荘」も海辺に面した場所にあるが、魚津ヶ崎公園よりも入江の奥深くに位置するため、東シナ海を見渡すような風情はない。
 明日は早朝に出発するため、「民宿魚津ヶ崎荘」は1泊夕食付き6,300円で予約した。案内された部屋の冷房は、コイン方式で2時間100円。冷房代を節約するために早々に食堂で夕食とする。昨夜の「民宿つる屋」が豪勢過ぎたため見劣りがするが、昨年の小値賀島で賞味したイサキの刺身に対面することができた。他にもサザエの刺身やメジナの煮付けなどが並ぶ。
 明日は早朝の出発となるので、先に支払いを済ませるが、「民宿魚津ヶ崎荘」では「ウェルカムアイランドキャンペーンin五島」のクーポン券をもらうことができなかった。パンフレットには「民宿魚津ヶ崎荘」もクーポンがもらえる提携宿泊施設に含まれていたが、配布枚数には限りがあるとのこと。キャンペーン期間は7月17日から8月23日までなので、お盆を前にして在庫が底を付いたとは思えず、1泊2食付きの宿泊客にしか配布しない方針なのかもしれない。いずれにしても中途半端なキャンペーンは、却って参加者に不信感を招くことは、主催者である五島観光連盟も肝に銘じて欲しいところだ。

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