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第104日 大村−若松

2010年8月7日(土) 参加者:奥田・北川・島雄・福井

第104日行程 2010年8月7日(土)第104日  京阪電鉄中之島線の大江橋駅から東梅田駅前の近鉄高速バス乗り場を目指す。金曜日だというのに御堂筋通には人影は少なく、居酒屋の呼び込み店員のため息が聞こえる。2年前のリーマン・ショック以降、世間は不況に喘ぎ続けているのだ。
 東梅田駅上の日興コーディアル証券大阪支店の前には、2年ぶりに外周旅行に参加する福井クンの姿があった。福井クンは、昨年の外周旅行も参加の予定であったが、急な仕事が入り、直前でやむなく参加を見送っている。
 今回のアプローチは近鉄バスと長崎バスが共同運行する「オランダ号」。九州方面への夜行列車が廃止されてしまったので、アプローチは必然的に高速バス利用となる。今回で3年連続の高速バスによる長崎入りで、一昨年は長崎県交通、昨年は西肥自動車、今年は長崎自動車と、奇しくも3年間で異なるバス路線を試すことになる。
 「オランダ号」は京都駅八条口が始発であるため、わざわざ東梅田まで出向かなくても自宅から近い京都から乗車すれば良さそうなものだが、京都駅八条口の発車時刻が19時40分。発車時刻があまりにも早く、これだと仕事が終わってから自宅に寄る時間がなくなってしまう。ところが、バスは名神大山崎、名神高槻、名神茨木、あべの橋、なんば西口と経由するため、京都から梅田まで1時間55分を要するダイヤとなっている。列車を利用すれば、自宅から梅田まで1時間もかからないので、20時過ぎに自宅を出ても、梅田で「オランダ号」にゆっくり間に合うのだ。
 「オランダ号」の発車時刻のもう一人の参加者である島雄クンの姿が見えない。携帯電話で連絡を取ると、近くの吉野家で腹ごしらえをしているとのこと。昨年、空腹のまま夜行バスに乗り込み、宛てにしていたサービスエリアにも立ち寄らず、朝まで缶詰にされたことに懲りたらしい。しばらくすると島雄クンがひょろりと現れる。
 21時25分に東京行きの「フライングライナー」が発車すると、待ち兼ねていたかのように「オランダ号」が2両続いて現れた。今日の「オランダ号」は長崎自動車の2両体制であり、我々は1号車が指定されている。
 荷物をトランクルームに預けて車内に乗り込む。定刻に発車した「オランダ号」には、昨年の「コーラルエクスプレス」には存在しなかったドリンクサービスがあり、冷蔵庫には紙パックの野菜ジュースが備えられているほか、サービスコーナーでは、カーポットを利用してインスタントコーヒー、ティーパックの紅茶と緑茶が飲めるようになっていた。もちろん使い捨てのおしぼりも備わっている。
「ドリンクは無料ですかね?」
島雄クンが真面目な顔をして尋ねる。夜行バスと言えば、昨年の「コーラルエクスプレス」を除けば格安ツアーバスしか知らないのだから無理もない。もちろん無料のサービスだ。かつての夜行バスと言えば、ドリンクとおしぼりは定番だったが、最近の夜行バスは、経費削減のためにこれらのサービスも省略する傾向にあるのが残念だ。
 「オランダ号」は、阪神高速11号池田線に入った後、中国自動車道を経由して山陽自動車道に入る。昨年の「コーラルエクスプレス」とは異なり、岡山県の福石パーキングエリアで15分間の休憩が与えられた。もっとも、夜間のパーキングエリアの売店はすべて閉まっており、営業しているのはずらりと並んだ自動販売機のみ。どうせなら手前の龍野西サービスエリアかこの先の吉備サービスエリアに立ち寄ってくれれば、24時間営業の売店とフードコートがあるのだが、休憩の目的は就寝前のトイレ休憩であり、サービスエリアに寄って乗客が買い物にうつつを抜かし、発車時刻までに戻って来なくなっては大変だというバス会社の思惑があるのかもしれない。
 福石パーキングエリアを発車すると車内は消灯。多少の揺れを感じて何度か目を覚ますものの、気が付けば早朝の6時前。バスは九州自動車道に入っており、大村湾パーキングエリアで休憩となる。こちらも売店は閉まっているが、大村湾を一望できるビューポイントだ。2年前の「ロマン長崎号」でもこの大村湾パーキングエリアに立ち寄っている。
 6時20分過ぎに大村インターに到着。もともとゆとりのあるダイヤであるにしても、高速バスのダイヤの正確性には感心する。トランクルームに預けた荷物を受け取り、大村の市街地を目指す。2年前にも福井クンと一緒にたどった道なので迷うことはない。
 今回はジャパレン長崎空港前営業所でレンタカーの予約を済ませている。長崎空港前営業所を名乗ってはいるが、営業所の所在地は空港のある箕島ではなく、海上自衛隊大村航空基地の近くである。大村インターからの距離は4キロ弱で、朝から40分程度の散歩となった。
「今回の旅で最も長い歩きになるんやないかぁ?」
福井クンが冷やかす。週末だけの参加となる福井クンにとっては、確かにそうかもしれない。しかし、今回の旅のメインスポットとなる福江島の大瀬崎灯台に立つためには、少なくとも往復で40分の遊歩道をたどる必要がある。平坦な舗装道路を40分歩くのとは大きな違いであろう。
 前夜に大村入りした奥田クンが、ジャパレン長崎空港前営業所に隣接する「ビジネスホテル古賀島」に宿泊しているので、携帯電話で連絡をすると、窓から手を振る奥田クンの姿が確認できた。程無くチェックアウトを終えた奥田クンが現れ、今回の外周旅行は総勢4名でのスタートとなる。
 ジャパレン長崎空港前営業所の営業時間は8時からなので、近くにあった「ジョイフル大村今津店」に移動して朝食とする。「ジョイフル」は九州を中心に全国展開するファミリーレストランで、本社は大分市にある。コンビニエンスストアよりも早く1979年(昭和54年)の開業当初から24時間営業を手掛けていたというのだから驚きである。「モーニングプレートB」(399円)を注文すると、ライ麦パン、ハンバーグ、目玉焼き、サラダにドリンクバーが付き、モーニングコーヒーを飲むことができた。
 8時になったので、開いたばかりのジャパレン長崎空港前営業所に赴く。2年前のマツダレンタカー大村店では、時間になっても職員が現れずに待ちぼうけをさせられたが、今回はしっかりと営業所は開いていた。当たり前のことだが比較の対象がお粗末だったので感心する。
 用意されていたのはスズキのアルト。4人なので軽自動車で間に合う。手続きをしていると免責補償料1,050円の他に525円を追加すると、事故発生時に必要となるノンオペレーションチャージも不要になるというので、思わず追加してしまう。半日だけの利用であるし、冷静に考えれば不要だったかなとも思うが、1人あたり130円の負担で済むのであれば安い安心料であろう。
 ジャパレン長崎営業所を8時05分に出発。とりあえず、最初のハンドルは私が握る。まずは長崎空港のある箕島を往復する。外周旅行としては、一昨年に大村まで足を記したことになっており、実際には長崎空港から帰路に付いているので、今回の外周旅行の実質的な始まりは長崎空港からとも言える。
 一昨年に慌ただしく入浴を済ませた「サンスパおおむら」を目印に、森園町交差点を右折し、大村湾を跨ぐ箕島大橋を快走する。長崎空港への連絡橋である箕島大橋は全長970メートル。自動車専用道ではなく、歩行者のための歩道もしっかりと設けられている。こんな歩道を誰が利用するのかと思ったら、昨夜、長崎空港に到着した奥田クンは、「さんすぱおおむら」まで徒歩で箕島大橋を渡ったそうだ。奥田クンにもすっかり外周根性が染みついているようである。
 長崎空港は1975年(昭和50年)5月1日に世界初の海上空港として開港した。箕島全体が空港として利用されているが、空港建設にあたって島民は立ち退きを強いられたそうである。現在でも毎年5月1日には旧島民によって戦没者の慰霊祭が執り行われているという。
 長崎空港は過去に何度も利用しているし、展望デッキから離陸する航空機を眺めても仕方がない。ターミナル前のロータリーを一周するだけで早々に箕島を後にする。
 箕島大橋を渡って再び九州本土に戻るが、長崎市に近付いてきただけあって交通量が増えて来る。国道34号線に入るとにわかに渋滞に巻き込まれるが、与崎から海岸線沿いの県道37号線に入ると、道路は狭くなるものの、交通量は激減したため、車の流れはスムーズになる。
 実家のある神奈川県を連想させる三浦海水浴場の案内を見て、諫早市の貝津交差点で国道34号線に合流すると、再び渋滞に巻き込まれた。土曜日なので長崎方面への行楽客や買い物客が多いのであろう。喜々津駅東口交差点から国道207号線に入り、長崎方面へ向かう道路をそれると渋滞から逃れることができた。
 喜々津からは長崎本線の旧線沿いをたどることになる。旧線と言っても現役の長崎本線で、非電化区間ではあるが、長崎−諫早間の区間列車の他、大村線からの直通列車も運行されている。現在の喜々津−長与−浦上間の23.5キロが全線開通したのは1989年(明治31年)11月27日のこと。1972年(昭和47年)10月2日に新線と呼ばれる喜々津−市布−浦上間の16.8キロが開通するまでは、特急列車もすべて旧線を経由していた。
 国道207号線をたどっていると、線路に向かってカメラを構えた集団を見掛ける。この周辺が鉄道の撮影名所であるとしても、カメラの数が尋常ではない。国道207号線を外れて大村湾に面した東園駅へ立ち寄ってみる。東園駅にもカメラを構えた人達が何人か待機している。
 東園駅は駅舎すら存在しない無人駅で、駅前ロータリーもない。
「もうすぐ急行『平戸』が通るらしいよ!」
私が狭い路地でレンタカーの方向転換をしている間に、奥田クンがカメラを構えていた鉄道ファンに撮影目的を尋ねてきた。もっとも、「平戸」の運行をすんなり教えてくれたわけではなく、最初は「知って聞いているの?」と絡まれたそうだ。わざわざ車で東園駅へやって来て、何があるのか尋ねているのだから、不審に思われてもやむを得ない。しかし、もう少し常識的な対応ができないものか。これだから鉄道ファンは世間から偏見を持たれるのだ。
 JR九州がこの夏に国鉄時代の特急列車や急行列車を復活運転しているとは耳にしていたが、今日は偶然にも急行「平戸」の運転日だったのだ。国鉄色に塗装し直したキハ65形とキハ58形が急行「平戸」のヘッドマークを付けて走るという。
 急行「平戸」は、1989年(平成元年)3月31日まで唐津−伊万里−平戸口(現在のたびら平戸口)−佐世保−早岐−諫早−長崎間を結んでいた急行列車である。1983年(昭和58年)3月22日に福岡市営地下鉄の開業に伴う筑肥線の博多−姪浜間11.4キロが廃止されるまでは、博多まで運行されていた。JR松浦線が松浦鉄道に移管されたことに伴い、「平戸」は廃止されてしまったうえ、現在は、JR筑肥線と松浦鉄道西九州線のレールが伊万里で分断されてしまっているため、忠実に当時の「平戸」を再現することは不可能だ。JR九州のプレスリリースによると、今回運行される「平戸」は、伊万里からそのまま松浦鉄道西九州線を進み有田へ。有田からJR佐世保線に入って武雄温泉までの運行となっていた。
 せっかくなので、しばらく東園駅で急行「平戸」の通過を待ってみたものの、一向に現れる様子がない。9時20分を過ぎたところで今後の行程に差し障りが出るので、「平戸」の見送りを諦めて先に進む。
 長崎空港への高速船乗り場がある大草を過ぎると、長崎本線は内陸部へと去って行く。途中で急行「平戸」と遭遇するのではないかとも思ったが、残念ながら「平戸」とは出会うことはできなかった。後で確認すると、「平戸」は、長崎を9時頃に発車するダイヤだったので、もう少し待っていれば「平戸」に出会えたかもしれない。
 時津町から西彼杵半島の北上を始める。大村湾に面した西彼杵半島の西側は、リアス式海岸特有の複雑な地形をしており、レンタカー利用となった大きな要因である。
 長崎市域に入ったところにあった「ファミリーマート琴海ニュータウン前店」で小休憩。行政区域としては長崎市であるが、この辺りは2006年(平成18年)1月4日に長崎市に編入された旧琴海町であり、周囲には緑が多い。
 国道206号線を外れて、琴海戸根町にある「オーシャンパレスゴルフクラブ&リゾート」に到着。旧琴海町の大村湾沿岸には、1980年代後半のバブルの時期に、相次いでゴルフ場が建設されているが、いずれも平成不況にも耐えて今日まで経営を続けているのは立派なものだ。日本には海越えコースが乏しいため、大村湾に面した琴海地区のコースは根強い人気があるらしい。
 「オーシャンパレスゴルフクラブ&リゾート」はホテルを併設したリゾート施設で、ホテルの外観は中世の古城を連想させる。海辺の一帯がゴルフコースになっており、コース内には橋で陸続きになった辰島が存在するが、わざわざ辰島に訪問するためにゴルフをプレーするわけにはいかない。
 500メートルほどの沖合には、周囲0.5キロのひょうたん型の小島があり、歌手のさだまさしが個人で所有する詩島である。長崎市出身のさだまさしは、寺島と呼ばれていた島を購入し、1995年(平成7年)4月に詩島と命名。バンガローなどの宿泊施設も整えられているが、定期航路はなく、宿泊客があるときは時津港へ自家用船での送迎があるという。1泊4食付き15,000円で東京のさだ企画が一般予約も受け付けているとのことだが、夏休み期間中はさだまさしファンの予約が殺到しているうえ、詩島で実質2日間をロスするのは行程上かなり厳しい。詩島での宿泊に積極的だった安藤クンがモスクワ赴任中で外周旅行に参加できないこともあり、詩島訪問は別の機会に譲ることにした。
 「オーシャンパレスゴルフクラブ&リゾート」から5分ほど移動したところにあるのが2つ目のゴルフ場を抱える「パサージュ琴海」である。こちらもホテルを併設したリゾート施設だ。こちらもクラブハウスとホテルの外観を眺めただけで素通りする。
 一旦、国道206号線に戻り、形上湾沿いを北上した後、形上交差点から尾戸半島に入る。尾戸半島も琴海町のリアス式海岸を構成する地形のひとつだ。3つ目のゴルフ場である「ペニンシェラオーナーズゴルフクラブ」の前を通り過ぎ、尾戸半島の先端にある小口集落から橋で陸続きになっている鵜瀬島に渡る。
 島の中腹に車1台が通れる程度の舗装道路が続いているが、民家はほとんど見掛けない。ところどころから大口瀬戸が眺めることができるのが救いだ。鵜瀬島の西端近くまで道路は続いていたものの行き止まりで、やむなくUターン。とりあえず鵜瀬島に足を記せたことで満足し、尾戸半島の東側を北上する。
 張岳の峠道を抜けると県道242号線に出る。県道242号線は、概ねリアス式海岸の複雑な海岸線をなぞるようにして通じているので、道なりに車を走らせれば必然的に外周ルートをたどることになる。県道とは思えない狭い道路が続くが、宮浦集落から県道120号線に合流すると、道路幅が広くなった。宮浦までは長崎駅行きの路線バスが通じているのだ。
 当初の予定では、長崎バイオパークに立ち寄った後に母衣崎へ向かうことになっていたが、東園駅で時間を消費してしまったので、先に母衣崎へ向かうことにする。今日は佐世保鯨瀬ターミナルを13時30分に出港する崎戸商船の「フェリーみしま」で中通島へ渡らなければならない。長崎バイオパークから直接佐世保へ向かうことにすれば、長崎バイオパークで見込んでいた1時間程度の見学時間を調整して、時間を有効に使えるのだ。
 母衣崎の東海岸沿いには道路が通じていないので、山道を抜けて母衣崎に到着。大村湾に突き出た母衣崎一帯は、キャンプ場を備えた四本堂公園(しほんどうこうえん)として整備されていた。キャンプ場へ向かう車を何台か見掛けたのとは対照的に、公園の中央部にある展望台に通じる駐車場に先客はない。無人の駐車場にレンタカーを停めて、展望台に続く階段を登る。
母衣崎  階段を登って行くと、すぐに西欧の古城の監視塔を連想させる展望台が視界に入った。展望台の内部には螺旋階段が通じており、頂上まで登ると大村湾を一望できるパノラマが広がった。針尾島の3本の無線塔もはっきりと確認できる。この辺りでは、小型イルカのスナメリの群れを見ることができるらしいが、さすがに展望台からではスナメリの姿は確認できない。
 四本堂公園を散策していると、長崎バイオパークの見学時間が無くなってしまうため、展望台だけで切り上げて長崎バイオパークへ移動する。長崎バイオパークまでの移動時間は10分足らずで、11時45分に到着した。
 長崎バイオパークは閉館した長崎オランダ村よりも早い1980年(昭和55年)11月15日にオープンした動物園である。1994年(平成6年)には日本で初めてカバの人工哺育に成功した功績があるものの、2003年(平成15年)2月26日に2,289億円の初期投資による負債を解消できずに会社更生法の適用を申請したハウステンボスの後を追うように、2004年(平成16年)7月14日に21億7,700万円の負債を抱えて民事再生法の適用を申請した。もっとも、ハウステンボスと同様に今日まで営業は継続している。
 窓口でJTBベネフィットが運営する福利厚生サービス「えらべる倶楽部」の会員証を提示すると、長崎バイオパークの入場料1,600円が1割引の1,440円となる。わずか160円であるが、ジュース1本分の節約になった。
 長崎バイオパークの見学時間は1時間程度を予定していたのであるが、佐世保までの所要時間は50分。高速道路を利用して多少の短縮を図るとしても、給油をしてレンタカーの返却手続きを行うことを考えれば、最低でも1時間は必要だ。12時30分に出発することにして、煉瓦造りのゲートを潜り抜ける。
 昼食時なので、奥田クンが入口近くの売店で足を止める。西海市で獲れた食材にこだわったという「さいかいバーガー」に惹かれていたようが、時間がないので先を促す。どうしても食べたければ、帰りに買って車内で食べればよいだろう。
 まずは「トトーラの池」に架かる橋を渡って、右手に続く「トトーラの坂道」を上って行く。「トトーラ」とは葦のこと。かつて南米のペルーを訪問したとき、葦で編んだトトーラ船に乗って、チチカカ湖に浮かぶウロス島へ渡ったことがある。ウロス島もまた葦で造られた浮島であった。その他にも「インカの石積み」と呼ばれる大階段や「アンデス広場とラマの岩山」が備えられており、長崎バイオパークでは、南米をコンセプトの一つに掲げていることがわかる。
 基本的に屋外の遊歩道を歩くことになるが、ところどころでドライ型ミスト散布を行っており、意外に涼しさを感じる。噴霧されたミストが気化するときに周囲の熱を奪う性質を利用したものであり、2005年(平成17年)に愛知県で開催された日本国際博覧会(愛・地球博)で一般に公開されてから、公共施設などで広く利用されるようになったシステムだ。昨夜、大阪市役所の前でもミスト散布を行っているのを見掛けた。
 「フラワードーム」と「アマゾン館」という温室を通り抜け、フラミンゴやペンギンを眺める。夏場でペンギンを屋外で飼育しても大丈夫なのかと心配になるが、長崎バイオパークで飼育しているペンギンは暑さに強いフンボルトペンギンだった。フンボルトペンギンは、日本で最も飼育数の多いペンギンであるが、本来はフンボルト海流が流れ込む南米の西部沿岸に生息している。しかし、環境破壊やエルニーニョ現象の影響等で、南米では個体数が減少しており、現在では、日本の繁殖技術を南米に移植する動きが出ているというのだから驚きだ。
 「昆虫館」は数少ない屋内施設で、こちらは冷房が効いているので有難い。現在は「世界のカブト・クワガタ展」が開催されており、30種類のカブトムシやクワガタムシの展示の他、標本も数多く陳列されている。
「この1匹が何十万とか何百万で取引されているのだろうなぁ」
島雄クンが溜息を漏らす。かつてはカブトムシやクワガタが黒いダイヤと呼ばれ、個体の大きさによって随分と高値で取引をされていた。最近は養殖の技術が向上して、価格も大幅に下落したというが、それでも珍しい種類であれば、それなりの価格になるようだ。私は幼い頃から昆虫に興味はなかったので、正直なところ価値観がまったく理解できない。
 アンデス広場を抜けると「ザリガニつり体験」の会場に出る。制限時間20分の間に池に生息するザリガニを何匹釣れるかを競うイベントで、子どもよりも大人が熱心になっている。近くでザリガニを釣っていた人のバケツをのぞくと、ザリガニが3匹も入っていた。昔は自宅の近くの川でもザリガニが生息していたが、最近は北海道と東北の限られた地域にしか生息していないという。
 ラマの岩山を望むシャボテンロックガーデンまで来ると時刻は12時20分を過ぎたところ。まだ園内の半分を見学したところで、少々ペースを上げて見学していかなければならない。
 キリンとシマウマの見える坂道でアメミキリンのノブコと遭遇。奥田クンが見たがっていた動物のひとつなので、キリンの前で記念撮影。ほとんど動かないので、暑さのためにキリンも夏バテしているのかと思ったら、長崎バイオパークのホームページでノブコが亡くなったことを知った。我々が訪問した9日後の8月15日のことである。死因は老衰とのことだから、ノブコも体力の限界を悟っていたのかもしれない。享年22歳であった。ノブコの娘であるマリンが横浜の野毛山動物園で飼育されているとのことであるので、実家に戻った際に会いに行ってみよう。
 見学コースの最後に待っていたのは長崎バイオパークでの一番の人気者であるカバのモモである。1994年(平成6年)3月6日に誕生したモモは、人工哺育されたため、水が怖くて泳ぐことができなかった。水泳の訓練を行うモモの様子は、メディアでも頻繁に取り上げられ、泳げないカバとして全国に知れ渡るようになった。幼い頃のモモの姿しか知らないため、巨体を横たえるモモの姿に少々驚く。既に3児を出産した立派な母親だが、子どもたちは既に別の動物園に引き取られている。
 レンタカーに戻ると時刻は12時45分になっていた。長崎バイオパークから佐世保まで移動するだけなら45分もあれば十分だが、レンタカーを返却して鯨瀬ターミナルまで行かなければならないことを考えると、少々時間が厳しい。長崎バイオパークは檻の中の動物を眺めるだけの一般的な動物園とは異なり、動物と触れ合うことを目的にした施設であったため、思わず足を止めてしまうことが多かった。それほど施設が充実していた証拠でもあり、着実に再生が行われているようである。
 国道206号線を北上していると、やがて右手に西洋風の茶色い煉瓦造りの建物が視界に入り、突如、巨大な風車が現れる。現在は西海市役所の西彼総合支所となっているが、かつての「長崎オランダ村」跡地である。
 「長崎オランダ村」は1983年(昭和58年)7月22日に開園。大村湾の入り江に長崎と縁のあるオランダの街並みを再現したテーマパークは、長崎の新しい観光スポットとして成長した。しかし、1992年(平成4年)3月25日に「ハウステンボス」がオープンすると客足は激減。しばらくは「ハウステンボス」のサテライトパークとして営業を継続したものの、「ハウステンボス」の経営も思わしくなかったことから、2001年(平成13年)10月21日に閉園した。その後、2005年(平成17年)3月19日に飲食店や結婚式場を備えた食のテーマパーク「キャスビレッジ」として再建を図ったが、集客が伸びず、わずか半年後の2005年(平成17年)10月3日に経営破綻、即日閉園という事態になった。「長崎オランダ村」跡地に現在の西彼総合支所が移転してきたのは、2010年(平成22年)5月6日とまだ3箇月前のことである。西海市では、跡地を民間企業へ譲渡することも検討していたが、経営破綻による影響を懸念して公的利用に落ち着いた。「長崎バイオパーク」といい、足場の悪い地で観光施設の経営は容易ではなく、無難な判断であったと思うが、テーマパーク向けの既存建物の維持管理費は大きな負担になりそうだ。
 小迎インターチェンジから西海パールラインを利用して時間の短縮を図る。一昨年も利用したルートである。江上インターチェンジまでの通行料金は軽自動車で150円。西海パールラインを走行する自動車はほとんど見掛けず、総事業費57億円を投じた価値があるのかは疑問だが、今回に限っては時間短縮の恩恵に預かる。
 「ハウステンボス」を素通りして針尾橋を渡り、国道205号線に入ると渋滞。再度の時間短縮を図るべく、佐世保大塔インターチェンジから西九州自動車道に入るが、西海パールラインとは対照的に交通量が多い。理由は国土交通省が実施する「高速道路無料化社会実験」で、西九州自動車道の武雄から佐世保中央までの30キロが対象区間となっていたのだ。片側1車線では追い越しをすることもできず、佐世保までの車列に加わるしかない。
 佐世保みなとインターチェンジで降り、近くのガソリンスタンドに掛け込むと、時刻は13時25分。鯨瀬ターミナルまでタクシーを利用しても13時30分の出航時刻には間に合わず、最後の禁じ手を使う。今回は外周旅行の初参加となる北川クンが佐世保から合流の予定であり、既に鯨瀬ターミナルで待機しているはずである。助手席の島雄クンから北川クンに携帯電話で連絡してもらい、我々4人分の乗船券の購入と出港待ちを依頼する。1日1便の航路であるし、乗船券を購入しておけば、多少の融通は効かせてくれるだろうとの目論見だ。
 給油を済ませてオリックスレンタカー佐世保営業所内になるジャパレン佐世保カウンターでレンタカーを返却。時刻は13時30分で、返却手続きをしている間に他のメンバーにタクシーを捕まえるように頼んでおく。しかし、佐世保のメイン通りであるはずの国道35号線にはなかなか空車のタクシーはやって来ない。佐世保駅方面へ走りながら空車のタクシーを探す。島雄クンの携帯電話には北川クンからの催促の電話が架かってくる。
「今、佐世保駅から鯨瀬ターミナルに向かっているところです!」
島雄クンが電話越しの北川クンに向かって叫ぶ。
 佐世保駅近くでようやく「シルバータクシー」を捕まえて、鯨瀬ターミナルへ急ぐ。車内で再び北川クンから電話があり、「フェリーみしま」の船員に直接掛け合って欲しいとのことなので、私が電話に出る。
「申し訳ありません。今、佐世保駅からタクシーで鯨瀬ターミナルに向かっているところです。あと300メートルぐらいのところです」
もう出港するとの最後通告だろうと思ったので、先手を打ってこちらの状況を説明する。
「佐世保駅からだとタクシーよりも歩いた方が早かったのに・・・。とにかく桟橋までタクシーで乗り付けて下さい!」
船員の案内に従って桟橋へタクシーで乗り付けると、北川クンと崎戸商船の職員が待ち構えて手招きをしている。タクシー料金の650円を支払って、「フェリーみしま」に飛び乗ると、すぐにタラップが上げられた。時刻は12時40分になっており、船員や他の乗船客に迷惑を掛けてしまい申し訳ない。結局、この日の「フェリーみしま」は12分遅れで鯨瀬ターミナルを出港した。
第104日行程  船内の桟敷席に落ち着き、まずは北川クンに御礼を述べ、立て替えてもらった乗船券の代金を支払う。北川クンは、島雄クンと同様に私がかつて勤務していた会社の後輩に当たる。島雄クンよりも古い旧知の間柄であるが、一緒に旅をするのは今回が初めてとなる。北川クンが鉄道ファンで、全国各地の鉄道を乗り歩いていることは知っていたが、これまで一緒に旅をする機会には恵まれなかった。昨年の外周旅行のことを島雄クンが北川クンに話したのがきっかけで、今回の参加に至った。
 崎戸商船の「フェリーみしま」は、定員250名、総トン数271トン。途中で蠣浦島(かきのうらしま)、江島、平島に寄港する。1等船室と2等船室があるが、1等船室の利用者は皆無だ。ほとんど設備に差がないにもかかわらず、運賃は佐世保−友住間で2等が2,670円であるのに対して、1等は5,340円と2倍になるのだから当然である。思い切って全室2等にすれば良さそうなものだが、多客時には1等の需要があるのかもしれない。船内には8月12日から15日までのお盆期間中に、通常の「フェリーみしま」に加えて、高速船を運行する旨の案内が掲示されていた。
 「フェリーみしま」は佐世保湾をゆっくりと航行し、高後崎と寄船鼻で形成された自然堤防を抜ける。この場所を通過するのも昨年に続いて2度目だ。行程の関係上、佐世保近郊ばかりをウロウロしているような錯覚に陥る。
 奥田クンが船内の散策に出掛けるが、飲み物の自動販売機が設置されているぐらいで、売店の類は見当たらなかったとのこと。昨年利用した九州商船の「フェリーなるしお」でも売店など存在しなかったのであるから当然ではあるが、これで昼食抜きが確定した。本来は鯨瀬ターミナルへ向かう途中に佐世保の駅弁を購入するか、鯨瀬ターミナルで佐世保バーガーを購入しようと考えていたのだからやむを得ない。
 14時50分に蠣浦島桟橋に接岸。桟橋は蠣浦島にあるのだが、経由地としては崎戸を名乗っている。崎戸は、蠣浦島の南西端に位置する小さな島の名称であるが、2005年(平成17年)4月1日に西海市が誕生するまでは、崎戸町を名乗っていた。蠣浦島が旧崎戸町の中心地であったため、蠣浦島ではなく、崎戸を名乗り続けているのであろう。
 ダイヤでは14時38分なので、佐世保での遅れをそのまま持ち越している。乗船客の3分の1ぐらいは蠣浦島で下船する。蠣浦島は西彼杵半島と寺島、大島を介して架橋されているが、佐世保からのアクセスは遠回りになってしまうため、「フェリーみしま」の利用者が多いのであろう。崎戸桟橋へは陸路から再びやって来る予定だ。
 崎戸では入れ替わりに下船客の倍近い乗船客があったので驚く。もっとも、江島、平島は西海市に属するので、西海市街地に近い崎戸からの乗船客が多いのも当然である。
 ダイヤでは崎戸の停泊時間は7分間であるが、荷物の積み降ろしに時間が掛かり、出港したのは14時59分。「フェリーみしま」の遅れはそのままだ。船内には友住到着時刻が17時05分になるとのアナウンスが流れる。
 崎戸からは本格的な外海になるので、相当の揺れを覚悟して横になっていたが、比較的穏やかな航海が続く。どうやら船酔いの心配はなさそうだ。持参した地図を開いて、中通島での行程を確認する。
 「フェリーみしま」は15時53分に江島に寄港。定刻の15時37分よりも16分の遅れになっている。乗船客の半分近くがここで下船した。
 江島は周囲9.6キロの五島灘に浮かぶ小さな島であるが、桟橋には荷物の受け取りや出迎えの島民が集まっており、活気があるように錯覚する。もっとも、1日1便の「フェリーみしま」が生活物資を運ぶ生命線なのだから当然である。人口は196人、島民の約70パーセントが65歳以上と過疎化と高齢化に悩まされている島である。 2009年(平成21年)には、「江島手作り醤油」が国土交通省都市・地域整備局が公募した「島の宝100景」に選定されている。江島に伝わる昔ながらの製法による添加物を一切使わない幻の醤油とのこと。完成までに10箇月を要するため、数量限定の商品となっている。
 「フェリーみしま」が江島を出港したのは16時ちょうどで、ダイヤよりも17分遅れとなった。当初の遅れを生じさせた原因は我々であるが、寄港するごとに遅れを増幅させている。乗客の乗降はスムーズであるが、クレーンを使用したコンテナの積み下ろしに時間がかかっているようで、当初ダイヤの停泊時間が短すぎるような気もする。お盆前なので、たまたま荷物が多いだけなのかもしれないが。
 西海市の西端である平島には16時43分に到着。依然として17分の遅れである。ここでは我々を除くすべての乗船客が下船し、代わりに工事関係者が数名、トラックと一緒に乗り込んできた。「フェリーみしま」は、江島と平島の連絡船としての性格が強く、上五島へ渡る交通手段としての機能は皆無に等しいようである。
 平島は周囲16.9キロ、人口279名の崎戸諸島では最も大きな島であるが、上五島の頭ヶ島までは5キロ程しか離れておらず、生活圏は西海市よりも上五島町との結び付きが強そうだ。「フェリーみしま」も奇数日は、友住に到着した後、折り返し平島まで就航。平島で停泊して、翌朝に再び友住へ向かうダイヤになっている。これにより、平島の島民は、奇数日に限り、中通島の商店や病院へ通うことが可能になるのだ。
 平島でもコンテナの積み下ろしに時間を要し、出港したのは16時51分であった。本来であれば友住に到着している時刻である。船内では早々に清掃が始まり、なんだか回送しているフェリーに便乗しているような感じである。船内の居心地が悪いので甲板に出てみると、目の前に昨年訪問した頭ヶ島が横たわり、中通島と結ぶ赤い鋼桁アーチ橋が見えた。日本の果てにあるという印象の五島列島であるが、2年も連続でやって来ると身近な場所に思えて来る。
 友住には定刻よりも19分遅れの17時10分に到着した。接続する西肥自動車の路線バスの友住停留所通過時刻が17時14分となっているので急がなければならない。フェリー接続便であれば、フェリーの遅れを待つのが通常である。しかし、「フェリーみしま」に工事関係者以外の乗船客がいないことから、日頃も「フェリーみしま」から西肥バスに乗り継ぐ乗客など皆無であることは明白だ。そんな状況であれば、バスの運転手も乗り継ぎ客が現れなかったとしても、何ら気兼ねなく友住を通過してしまうであろう。
 桟橋は集落から死角になっていたが、事前に確認していた桟橋と集落の位置関係から推測して、右手の小さな入江を回り込む。すぐに友住郷の集落で、友住海岸停留所もあるのだが、有川港行きは16時22分に出たところである。正確には、頭ヶ島教会始発のバスが友住海岸を経て、江ノ浜を往復し、青方港を目指す運行経路で、我々が友住から乗車しようとするバスこそが、友住海岸を16時22分に通過したバスである。どうせなら先に江の浜を往復してから頭ヶ島教会を経由すれば、友住海岸でフェリー接続を図れるのだが、フェリーの利用者が皆無なのだから西肥バスも積極的にダイヤの見直しに着手しないのであろう。
 県道62号線を走って友住停留所へ急ぐ。ちょうど入江の向こう岸にバスの姿が視界に入った。乗り遅れては大変なので、友住停留所まで全員で全力疾走。佐世保に続いて慌ただしい乗り継ぎとなったが、無事に友住郵便局の前にある友住停留所から西肥バスを捕まえることができた。
 バスの先客は皆無で、運転手は我々が乗車して来たことに驚いた様子。「どこまで行きますか?」とタクシーのようなやり取りが交わされる。我々の行き際は有川港フェリーターミナルだ。
 バスは昨年、レンタカーで走った峠道をゆっくりと走る。昨年はハンドルを握っていたため、ほとんど景色を見ることはできなかったが、レンタカーよりも一段高いバスの座席から眺める五島灘の眺めは見事だ。ちょうど太陽が傾きかけて、日光は海面で反射して輝いて見える。
 結局、バスは、我々の貸し切り状態で17時35分に終点の有川港フェリーターミナルに到着。運賃は570円と乗車時間に対して随分と割高だが、過疎地で路線を維持するためにはやむを得ないのだろう。このままでは西肥自動車の撤退も時間の問題である。
 昨年も利用したトヨタレンタカー有川営業所の送迎車が17時50分に迎えに来ることになっていたので、待ち時間を利用して有川港フェリーターミナル近くの海童神社へ足を伸ばすことにしよう。神社へ続く階段を上っていると、「送迎車が来たよ〜!」と福井クンの叫び声がする。予定よりも10分も早く送迎車がやって来たようだ。少し待ってもらって海童神社を見学してしまおうとも思ったが、他のメンバーの足は既に送迎車に向かっていたので、先にレンタカーの手続きを済ませることにする。
 送迎車付きではあるが、トヨタレンタカー有川営業所は有川港フェリーターミナルからわずか800メートルしか離れていない。ワゴン車に乗ったかと思えば、すぐに営業所に到着。昨年も利用しているパッソを予約していたのであるが、バッテリーが上がってしまって貸し出せないということで、代わりにヴィッツが準備されていた。パッソがヴィッツになっても支障はないが、昨年のパッソは新車であったにもかかわらず、今年のヴィッツは傷だらけで随分とくたびれている。現役を退いた予備車両ではなかろうか。動けば支障はないので特に異議を申し立てることもなく承諾したが、これが後に禍根を残す原因となる。
 18時前に有川営業所を出発し、近くの「エレナ有川店」に立ち寄る。「エレナ有川店」は昨年も利用した食品スーパーマーケットで、佐世保を中心に長崎県と佐賀県で店舗を展開している。昼食が抜きになったうえ、夕食は20時頃になる予定であるたるため、各々が小腹を満たすための食料を調達する。私はコーヒーと菓子パンを入手して、一足先にレンタカーに戻り、菓子パンを頬張る。
 有川港フェリーターミナルに戻って、改めて海童神社を目指す。鳥居の背後には、鯨の顎骨が地中から付き出していた。1973年(昭和48年)7月に日東捕鯨が捕獲したナガスクジラの顎の骨を奉納したもので、捕鯨基地であった有川の象徴となっている。有川港フェリーターミナル内には、「鯨賓館ミュージアム」があり、有川での捕鯨の歴史を知るためにも興味のある施設だったのだが、開館時間は17時までなので断念した。
 遊歩道を通り抜けると海童神社の裏手に出た。鳥居を通って境内に入ったにもかかわらず、神社が背中を向けて建てられているとは妙なものだと首を傾げていると、北川クンが解説をしてくれる。
「ここはかつて小島だったのが陸続きになったようだね。社殿は陸地に向かって建てられたから、当時は海だったフェリーターミナル側に背中を向けてしまっているんだよ」 後で調べてみると、海童神社の周辺はもともと離れ小島になっており、神社へは橋が架けられていたという。北川クンの推察力の鋭さにも驚かされる。
 海童神社はこの周辺で海難事故が頻繁に発生したことから、当時の乙名役(おとなやく)高井良福右衛門が、海童神の信託を受けて1620年(元和6年)6月17日に龍神を祀ったことに由来する。もっとも、現在は有川神社に合祀されているため、海童神社には石祠が祀られているのみであり、本殿などは存在しない。
 来た道を引き返そうとすると、北川クンはかつての参道をたどってみたいと言う。確かに行きとは別のルートで戻った方が面白そうであるが、鯨見山方面に出てしまうと、駐車場に戻るまでかなりの遠回りになる。これから若松島まで行かなければならないので時間に余裕はなく、私は駐車場にまっすぐ戻り、参道を下りたところまで北川クンをピックアップに向かうことにする。北川クンには島雄クンが同行した。
 駐車場でレンタカーのエンジンを掛けていると、北川クンと島雄クンがこちらに向かって来る。鯨見山に続いていると思われた参道は、有川港フェリーターミナルのすぐ脇に降りてきてしまったので、駐車場まで戻って来たという。それならば一緒に北川クンに同行してもよかったかなと思うが結果論だ。持参の地図には参道は記されていなかった。
 改めて有川港フェリーターミナルを出発したのは18時15分。日本の西端ある五島列島なので日没は遅いが、それでも残された時間は1時間少々だ。この時間で中通島の東海岸を踏破しようというのだから、いつものことながらタイトな行程である。
 有川大橋を渡って国道384号線に合流。蛤交差点から奈良尾へ続く県道22号線に入り、中通島の東海岸をたどる。西海岸をたどる国道384号線と比較すると交通量は格段と少ない。沿線に大きな集落が存在しないことも影響しているのであろう。
 有川から10分ほどで旧鯛之浦教会に到着する。鯛之浦は、寛政年間に外海の出津から移住してきたキリシタンの子孫に由来する集落である。上五島のキリシタン指導者として活躍したドミンゴ森松次郎もこの地で生まれた。明治時代になっても、当初は江戸幕府の禁教政策が継承されたため、1870年(明治3年)には、「鯛之浦の六人斬り」と呼ばれる残忍な事件が発生した。新しい刀の試し切りと称して鯛之浦の2家族4人が有川村の郷士に殺害されたのである。
 諸外国の反発を招いて1873年(明治6年)に明治政府による禁教政策が取り止められた後、1880年(明治13年)にパリ外国宣教会ブレル師が赴任して、恵まれない子どものために養育院を設立。翌年には教会堂が完成した。現在の旧鯛之浦教会堂は、1903年(明治36年)4月に現在地に移転したものである。1949年(昭和24年)には煉瓦造の鐘塔を正面に付ける増築が行われたが、煉瓦の一部には原子爆弾を被爆した旧浦上天主堂の煉瓦を使用しているという。1979年(昭和54年)に旧教会堂の下に新しい教会堂が建設されたため、現役の教会ではなくなったが、現在でも資料館として保存されており、時間が遅いにもかかわらず、内部の見学ができたのは有難い。
 道路を挟んだ向かいには、洞窟に聖地ルルドがあり、マリア像が祀られていた。ルルドとはフランス南西部の小さな町であるが、難病を治す「ルルドの泉」で知られ、カトリック教会の巡礼地にもなっている。この先も聖地ルルドは五島列島の至るところで目にすることになる。
 旧鯛之浦教会を後にすると、すぐに右手に入江が広がり、やがて長崎行きの高速船乗り場が現れた。中通島へのアクセスは、佐世保−有川間、長崎−奈良尾間の九州商船がメインであるが、五島産業汽船の高速船が長崎−鯛之浦間を1日3往復している。もっとも、運航しているのは旅客船のみなので、桟橋には小さな事務所を構えているだけだ。看板がなければ遊覧船乗り場と間違えてしまいそうな雰囲気である。
 鯛之浦の集落を抜けると県道22号線は峠道になった。ここから先は海岸沿いに道路が通じていないのでやむを得ない。しばらく県道22号線を道なりに走っていると、カーナビの指示するルートと異なっていることに気付く。どこかで道を間違えたのかと慌てて引き返すと、途中で細い地方道が別れていた。持参の地図には記載のない道路であるが、カーナビにははっきりと示されているし、目的地を奈良尾にしているので、行き止まりということはなかろう。旧道なのかもしれないと考えながら細い道路を進む。車両1台が通行するのがやっとの道路で、対向車が現れたらお手上げの状況である。道路脇の雑草が伸び放題で道路を覆っているうえ、崖から落ちて来た石がたくさん転がっている。ほとんど道路の整備も行われていないようだ。
 右へ左へと何度もハンドルを切りながらゆっくりとレンタカーを走らせていると、やがて大きな建物と灯火が目に入る。幽霊屋敷でも現れたのかと思ったが、正体は「新上五島リサイクルセンター」であった。資源ごみの処理施設や汚泥処理施設が集まっていた。住民から嫌われるいわゆる迷惑施設の類であるが、随分と辺鄙なところに追いやられたものである。
 「新上五島リサイクルセンター」から先の道路は状況が改善され、こちらが一般的にリサイクルセンターへのアクセスに利用されているようだ。神之浦集落の入口で無事に県道22号線と合流する。
 神之浦集落を抜けて、船隠入口から再び県道22号線を外れる。今度は道路標識もしっかりあるうえ、西肥自動車の路線バスが千切まで運行されている。バスの路線があるのだからそれなりの集落なのであろう。
 入江に向かって下って行くと、船隠教会の案内標識が目に入り、レンタカーを停める。ところが教会の鐘塔は見えるのに、白い工事用パネルで建物は隠れてしまっている。改装工事でもしているのかと思えば、教会の脇に通じる道路工事のパネルだったようで、船隠教会は手付かずの状態であった。
 船隠教会は、1883年(明治16年)にパリ外国宣教会フレノー師が民家でミサを捧げたことが始まりであると伝えられているが、実際に民家を買い受けて教会が設立されたのは、1927年(昭和2年)のことである。現在の教会堂は2代目で、1931年(1956年)11月29日に完成したものであるが、台風や土砂崩れの影響で、完成までに4年の歳月を費やしたそうだ。
 白亜の教会堂と朱色の屋根というシンプルな色彩の教会堂の入口は施錠されており、内部の見学はできなかった。代わりに教会前にあった「ロザリオの聖母像」を眺めて船隠教会を後にする。
 せっかく、船隠までやって来たので、路線バスの終点である千切にも寄っておきたい。レンタカーを少し走らせて、商人鼻に近い千切(ひぎれ)を往復。こちらも入江に面した小さな集落に過ぎないが、千切停留所のポールを眺めて足を記したことに満足する。
 県道22号線に戻れば時刻は19時を過ぎている。今宵の宿となる「民宿つる屋」に一報を入れておいた方が良さそうなので、助手席の島雄クンに連絡を頼むが、携帯電話は圏外となっている。外周旅行で携帯電話をフル活用する身としては、へき地での通話可能エリアの拡大を望みたいところだ。
希望の聖母像  旧奈良尾町の区域に入り、今度は浜串教会に立ち寄る。浜串も1815年(文化12年)に外海の樫山から迫害を逃れてきたキリシタンが隠れ住んだ集落である。1879年(明治12年)にパリ外国宣教会マルマン師の尽力によって教会設立が計画され、捕鯨による収益金で1899年(明治32年)11月17日に初代の教会を建立している。現在の教会堂は、1967年(昭和42年)に建て替えられた2代目だ。残念ながら浜串教会も施錠されていて内部の様子を伺うことはできないが、浜串港の入口にある「希望の聖母像」の案内があったので、足を運んでみる。
 浜串港の堤防を越えて、ビシャゴ鼻に近い場所に、「希望の聖母像」は建っていた。子ども抱いて海を望む姿は、漁師たちの航海の安全を祈っているようでもある。浜串の生計は大網巻き網漁業によって成り立っているのだ。ちょうど日没の時刻であったが、残念ながら空は霞んでいて夕陽を眺めることはできなかった。
 当初の計画では、浜串から奈良尾に出るまでの間に、芦山の滝と福見教会に立ち寄る予定であったが、日が暮れてしまっては滝など見えないし、赤煉瓦造りの福見教会も全貌を拝むことはできない。外周ルートを繋ぐために、一旦、奈良尾フェリーターミナルまで足を記した後に、若松島へ向かうことにする。奈良尾に近付いたため、携帯電話の通話可能エリア圏内に入ったので、島雄クンが民宿に一報を入れる。
 奈良尾フェリーターミナルに到着したのは19時40分。1時間以上も前に最終便が出港してしまっているため、立派なフェリーターミナルの灯火は消え、駐車場も閑散としている。明日はここからジェットフォイルで福江島に渡る予定だが、今度は時間に余裕をもって到着するように気を付けなければならない。
 奈留尾フェリーターミナルからは、高井旅まで同じ道路を引き返し、そのまま国道384号線で白魚峠を越える。周囲は真っ暗でどこを走っているのかさっぱりわからないが、若松島の案内標識に従って右折すると、確かに昨年もレンタカーで走った若松大橋までの取り付け道路だ。
 夜の若松大橋を快走し、若松島の神部漁港に面した「民宿つる屋」に到着したのはちょうど20時であった。遅い到着であったにもかかわらず、女将さんは愛想よく出迎えてくれる。時間も時間なので先に夕食を頼むと、刺身やサザエなどの魚介類はもちろんのこと、五島牛のステーキまで用意されている。これほど豪華な夕食は、2007年(平成19年)8月5日に宿泊した佐賀県唐津市の向島以来であるが、「民宿つる屋」の1泊2食付き6,500円という料金を考えると「民宿つる屋」に軍配が上がる。本当は、同じ神部にある「民宿えび屋」に宿泊したかったのだけれども、団体の宿泊客があるという理由で断られてしまったのだ。やむを得ず、同じ神部にある「民宿つる屋」を押さえたのであるが、結果的には大当たりであった。しかも、現在は「ウェルカムアイランドキャンペーンin五島」を開催中で、アンケートに回答すると1人あたり500円のクーポン券がもらえるという。もちろん、率先してアンケートに回答し、クーポン券を手にしたことは言うまでもない。トラブルもあった1日ではあるが、「民宿つる屋」に大いに満足して眠りについた。

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