走り続けるIT業界

第103日 有川−佐世保

2009年8月9日(日) 参加者:奥田・島雄

第103日行程  昨日の夕食と同様に居酒屋「潦り茶屋し喜」で朝食を済ませる。店内には日曜日であるにもかかわらず、出勤前の作業員の姿が目立つ。有川では、先にフェリーターミナルに近い「民宿有川」に予約を試みたのだが、ビジネス利用の常連客を優先するので、観光客の予約には応じられないと断られた。「和風ペンションし喜」もビジネス利用の常連客が多いようで、朝食の準備をしている店員とは顔見知りであるようだ。上五島の玄関口である有川であるが、観光よりもビジネス色が強い印象を受ける。この不況下において、新上五島町に土木産業の需要があるとは思い難く、青方湾沖にある世界初の洋上石油備蓄基地に関連する産業に携わる作業員が多いのであろうか。
 8時前に「和風ペンションし喜」を後にし、有川湾に面したトヨタレンタカー有川店に向かう。今日は有川フェリーターミナルを14時35分に出港する高速船「えれがんと1号」に乗船する予定なので実質的な観光時間は半日しかない。レンタカーで効率的に中通島を周遊しようという目論見であるが、半日で一周するには中通島は広すぎる。中通島は周囲278.8キロ、面積168.34平方キロで、五島列島では福江島に次いで2番目に大きな島なのだ。
 トヨタレンタカー有川店では、たった1人の職員が先客の応対に追われており、しばらく待たされる。地方のレンタカーの営業所は職員の常駐が少なく、スムーズに借り受けできないことがしばしばある。パッソを借り受けて有川を出発できたのは予定よりも10分遅れの8時10分であった。
 中通島は南北に長い十字架のような形をしており、地形からしてキリシタンの島であることが連想される。小値賀島ではほとんど見掛けなかった教会が中通島には25もあるという。橋で陸続きになっている頭ヶ島や若松島、有福島を加えればその数はさらに多くなる。小値賀島のキリスト教徒が弾圧により、壊滅状態となったのとは対象的に、ここは根強く信仰を守ってきた島なのだ。もちろん小値賀島から中通島へ逃れて来た信者も少なからずはいるのであろう。
 まずは十字架の東側から順次走破して行くことにする。最初のポイントは有川から南に下ったところにある蝙蝠鼻だ。観光地としてほとんど取り上げられることのないポイントだが、せっかくのレンタカー利用なので道があるところへはできる限り足を伸ばしたい。今回の旅では3回目のレンタカー利用であるが、ようやくまともな車両とめぐりあり、快調に走り出す。
 一旦、有川湾に背を向けて県道187号線で標高329.7メートルの桜ヶ岳と標高187.7メートルの旭岳の山間の道を走る。途中の太田までは、バス路線もあり、対向車も思っていたよりも多い。10分も走れば太田集落で、狭い路地に容赦なく路上駐車がされている。車両1台分の隙間を恐る恐る通り抜ける。
 太田から先へは蝙蝠鼻へ続く道があり、沿道には小さな畑がところどころにあり、日曜日でも普段と変わらず農業にいそしむお年寄りの姿がある。堤防には釣り人の姿もあり、のどかな場所だ。
 蝙蝠鼻へ向かう道路は、入江のようなところで行き止まりになっており、道路脇に2台の乗用車が停まっている。入江からは海辺に降りられるようになっており、釣り人が早朝からやって来ているようだ。蝙蝠鼻に関する案内は一切なく、遊歩道が続いている様子もなかったので、終点までやって来たことに満足してUターンした。
 再び太田集落を抜けて、今度は林道太田線に入って江ノ浜を目指す。林道太田線も急勾配が続くが、老朽化した軽自動車とは違って、比較的スムーズに登っていく。崖崩れの予兆なのか、舗装道路には小さな石が転がっており、跳ねた石が車体の底に当たりバンバンと音がする。アスファルトが割れて、窪みになっているところもあり、かなりの悪路だ。太田と江ノ浜を行き来する人は皆無で、普段は車が通行することもないのであろう。途中で林道の伐採作業をしていた業者が、林道に伐採した樹木を放置しており、通行に難儀する。我々が通り掛かったことに驚いて、慌てて林道上の樹木を片付けた。
 リアス式海岸独特の地形を忠実にたどりながら太田林道を30分近く走り続けて、ようやく右手前方に相崎瀬戸が広がり、やがて江ノ浜集落に入る。海岸沿いを高校生の2人組がトレーナーを着て、海沿いの道路をジョギングが、江ノ浜集落を素通りして行ったので、どこからどこまで走っているのか気になるところ。起伏もあり、かなりハードなジョギングコースだ。
 「龍馬ゆかりの墓」という案内標識が目に入ったのでレンタカーを停める。坂本龍馬の墓は、中岡慎太郎の墓と共に京都霊山護国神社にあるのではなかったか。案内標識に従って歩いて行くと、共同墓地の一角に白いコンクリート造りの建物の中に、風化して文字の判読もままならない石碑がある。解説文に目を通せば、1865年(慶応元年)9月に薩摩藩の支援を受けて、坂本龍馬が中心となって結成した貿易結社「亀山社中」(海援隊の前身)の同志の墓であることが判る。薩摩藩がトーマス・ブレイク・グラバーから購入した木造帆船「ワイル・ウエフ号」は、勝海舟の下で航海術の修業にも励んだ黒木小太郎を船長とし、1866年(慶応2年)4月28日に長崎を出港し、鹿児島へ向かっていた。ところが、同年5月1日に甑島付近で暴風に見舞われ、五島列島沖まで漂流した挙句、翌2日に潮合崎の沖合で沈没。乗船員16名中12名が命を落とした。亡くなった乗船員には、坂本龍馬が海援隊の後継者と考えていた池内蔵太(いけくらた)も含まれていた。福江藩によって収容された遺体は有川専念寺の住職を迎えてこの地に埋葬され、同年6月14日に駆け付けた坂本龍馬は、地元の庄屋に資金を添えて建碑を頼み、同志の冥福を祈ったという。他の墓石が海に背を向けているのに対して、この墓碑だけが海に向かって建てられているのも偶然ではなかろう。
龍馬ゆかりの地  「龍馬ゆかりの墓」から少しレンタカーを走らせると、今度は「龍馬ゆかりの広場」に到着した。こちらにも「龍馬ゆかりの地」と記された立派な石碑が建てられており、背後には「ワイル・ウエフ号」が沈没した潮合崎を望むようになっている。今日の潮合崎は霧がかかっているものの、海上は穏やかで、にわかに沈没時の惨状は連想できない。石碑の近くには「ワイル・ウエフ号」の舵取り棒をモチーフにしたベンチが設けられている。実物は近くの「民宿潮騒」で保管されているそうだ。
 「龍馬ゆかりの広場」を後にするとすぐに住友集落に入る。佐世保からやって来るフェリーは原則として有川に到着するが、1日1往復の崎戸商船「フェリーみしま」が住友に発着する。途中で蠣浦島、江島、平島を経由する唯一の航路であるため、次回、中通島へ上陸する際には「フェリーみしま」を利用することは、今回の旅の出発前から決めていた。
「こんな何にもないところに到着したら、また後が大変そうだな」
早くも奥田クンが来年の心配を始めるが、路線バスもフェリーの到着時刻に合わせたダイヤで走っているし、無用な心配だ。
 全長300メートルの赤いアーチ橋である頭ヶ島大橋を渡り、まずは頭ヶ島東端にある上五島空港へ。しかし、この上五島空港も小値賀空港と同様、全盛期にはオリエンタルエアブリッジが福岡空港便と長崎空港便を就航していたが、船便との競合もあって、2004年(平成16年)3月に福岡空港便を廃止。次いで2006年(平成18年)3月の長崎空港便の廃止をもって上五島空港を発着する旅客機はなくなり、上五島空港も閉鎖されてしまった。リアス式海岸に沿う山の頂を切り開いて建設され、海上空港と山岳空港両方の要素を備えた着陸の難しい空港として知られていたのも過去の話。1986年(昭和56年)4月の開港からわずか20年という短命の空港であった。閉鎖された教会風の洒落た空港ターミナルが却って痛々しい。このような惨状を目の当たりにすると、近年の相次ぐ地方空港の開港に疑問を感じざるを得ない。
 気分を取り直して頭ヶ島天主堂を目指す。県道62号線から外れて白浜集落に入ると、多少迷いながら石造りの天主堂にたどり着く。駐車場には、民宿名が入った軽ワゴンが駐車されており、観光客らしき男性2人組の姿があった。今回の旅ではほとんど観光客の姿を見掛けず、ようやく同志に会えた気分になる。
 頭ヶ島天主堂も鉄川与助の設計によるものであるが、外装はもちろんのこと、内装も天井は二重の持送りハンマー・ビーム架橋で折り上げられている。ベルトから天井にかけては花模様が刻まれていて、華やかな雰囲気を醸し出している。野崎島の旧野首天主堂とも趣を異にしており、これまで目にした鉄川与助の設計した天主堂の造りとも一線を画している。もしかしたら鉄川与助にとって、頭ヶ島天主堂には何か特別な思い入れがあったのかもしれない。もっとも、鉄川与助は生涯仏教徒であったというのだから、彼に影響を与えたものがあったとしても、信仰上の影響ではなく、あくまでも西洋建築に対する思い入れであろう。現在も創建時の原形を完全に留めているという。
 天主堂の裏手には、1867年(慶応3年)4月に開設した頭ヶ島伝道士養成所跡の解説板が掲げてある。1797年(寛政9年)の大村藩外海地方からのキリシタンの移民の一人であるドミンゴ森松次郎がグゼン師を迎えて開設した養成所には、五島列島の各地から選抜された人材がこの地に集まり、伝道士養成のための教育を受けたそうだ。
 我々が頭ヶ島天主堂を出発しようとすると、入れ替わりに一人旅の女性ライダーがやって来た。頭ヶ島天主堂は中通島の主要観光ポイントだけあって、日が高くなるにつれてここを訪問する観光客も次第に増えて来るのであろう。
 再び頭ヶ島大橋を渡り、今度は県道62号線で有川へ一旦戻ることになる。有川までは黒崎峠、立石峠と峠道が続くが、道路事情は太田林道とは比較にならない。途中、黒崎峠にある黒崎園地には展望台もあるようだが、朝からの霧で視界があまりよろしくないので素通りする。
 有川に戻って来ると時刻は9時30分。ちょうどスーパーマーケット「エレナ有川店」の開店時刻だったので、食料調達のために立ち寄ることにする。今日は時間の制約上、途中で昼食をとる時間がないうえ、「潦り茶屋し喜」の朝食がご飯のお替りもできずに物足りないものだったので小腹が空く。幸いにも見切り品のパンが半額で山積みになっていたので迷わず確保。紙パックのコーヒー牛乳を付けても287円とリーズナブルな食生活に、学生時代の外周旅行の模様をにわかに思い出す。当時は旅の要素にグルメという発想はなく、いつもこんな食事で空腹を凌いでいたものだ。
 次に目指すのは中通島最北端の津和崎である。有川から津和崎までは、距離にして30キロ少々であるが、その間、延々とカーブの峠道が続くのである。一般的な所要時間は片道1時間程度であり、往復2時間は今日の行程でネックになっている。津和崎までの所要時間を如何に短縮できるかで今日の行程は決まると言っても過言ではない。
 9時45分に有川を出発。快調に走り出したのも束の間、国道384号線に入ると渋滞に巻き込まれる。上五島高校の手前で右に折れ、県道32号線に入れば、前方を軽自動車がのんびりと走っており、気勢をそがれる。そのまま峠道に入ってしまえば、道路幅も狭くなり、スピードを出せるような状況ではない。車両は絶えず右へ左へと振り回されるので、奥田クンも島雄クンもすっかり車酔いしてしまった。
 津和崎灯台に到着したのは有川を出発して45分後の10時30分。津和崎灯台の見学時間ぐらいは時間の節約ができたが、その代償は大きく、車を運転していた私でさえすっかり車酔いしてしまった。
津和崎  ふらふらしながら樹木に覆われた遊歩道を歩いて津和崎灯台を目指す。延々と遊歩道が続くと厄介だと思ったが、5分も歩かないうちに小さな白い灯台と東屋が現れた。灯台下の駐車場には他の車は見当たらなかったのだが、東屋には年配の男性2人組みの先客があり、一体どこからやって来たのであろうか。観光客のような雰囲気でもなかったので、津和崎集落の住人の散歩コースになっているのかもしれない。
 1962年(昭和37年)に建設された津和崎灯台は、何度かお色直しをしているとは思われるが、かなりの年期を感じさせる。現在でも現役の灯台で、夜になると西海を航海する船舶の拠り所となる。
 展望台に立つと、すぐ目の前には野崎島が迫り、小値賀島もはっきりと確認できる。天候次第では宇久島も見渡せるようだが、今日は霞んでしまって宇久島の姿ははっきりしない。野崎島までは、近いところでは1キロも離れておらず、舟森集落が現在も残っていれば、野崎島と津和崎の間に橋が架かったのではないかとも考えてしまう。1キロ程度なら泳いで渡れそうな気もするが、野崎島と中通島の間にある津和崎瀬戸は潮の流れが速く、対岸にたどり着く前にどこかへ流されてしまう危険が高そうだ。
 津和崎灯台の周辺は椿公園として整備されており、冬になると天然のヤブツバキが赤い鼻を咲かせて彩りを添えてくれるらしいが、夏場は青々とした樹木だけが残る。緑地ではキャンプもできるようで、ここで一夜を明かすライダーもいるのではなかろうか。
 津和崎からはハンドルを奥田クンに預ける。津和崎までの運転に神経を使い過ぎて少々疲れたのと、運転していた方が酔いにくいと判断した奥田クンの思惑が一致したからだ。宇久島、小値賀島と老朽化した車両は運転したがらなかった奥田クンだが、カーナビ装備の車両となれば気分が変わるらしい。島雄クンは車酔いが治まらないと後部座席で横になってしまった。
 県道218号線を再び南下。今度はドライバーではないので、助手席のシートを深めに倒して少し休ませてもらう。先を急いだ行きにはあまり気に留めていなかったのだが、県道218号線沿いにも、米山天主堂、仲知天主堂、小瀬良天主堂と集落ごとに天主堂が目に付く。最初はそのひとつひとつに立ち寄ることも一興と考えたが、限られた時間ではとても足を記せるものではない。
 津和崎から30分少々で「しんうおのめふれ愛らんど」に到着。遊園地のようなネーミングだが、ログハウスやテントサイトのあるキャンプ場だ。パターゴルフ場やテニスコートのほか、海辺を岩とコンクリートの護岸で仕切った磯牧場がユニークだ。海水を利用したプールは見掛けたことはあるが、こちらは護岸を超えてさざ波が流れ込んでくる。護岸の内側にも魚が泳いでおり、母親に連れられた小さな子供が磯牧場で遊んでいる。ここなら波にさらわれる危険もなく、安心して遊ばせることができそうだ。
 我々の目的は磯牧場ではなく、隣接した漁港の向かいにある赤ダキ断崖だ。標高442メートルの番岳と標高332メートルの小番岳に挟まれた玄武岩質の噴火丘が海蝕によって削り取られて形成されたのが赤ダキ断崖で、上層部は火山弾を含んだ赤い土の断面が姿を現している。下層部は黄色の土で、2色のコントラストを成していた。
 「しんうおのめふれ愛らんど」には、灯台をイメージした高さ19メートルの塔がシンボルになっている「海のふるさと館」もあったのだが、夏休み中の日曜日だというのに人の気配はない。漁業道具や定置網で取れた約30種類の近海の魚が泳ぐ水槽を展示しているらしいが、既に閉館している施設なのだろうか。無理に見学するほどの施設でもなさそうなので、先を急ぐことにする。
 ここまで頭ヶ島天主堂を除いて、天主堂をすべて素通りしてきてしまったが、中通島観光のメインはやはり天主堂である。津和崎の付け根に位置する青砂ヶ浦天主堂も頭ヶ島天主堂と同様に鉄川与助の設計によるもので、国指定重要文化財にもなっているというのだから立ち寄っておくべきであろう。
 「しんうおのめふれ愛らんど」から5分ほどで青砂ヶ浦天主堂に到着するが、改装工事中で、煉瓦造りの天主堂が工事用の足場で覆われてしまっている。レンタカーから降りて様子を伺うが、日曜日なので工事は休みのようだ。天主堂の扉の鍵が掛かっていなかったので内部をのぞいてみたが、内部にも足場が組まれており、教会独特の神秘的な雰囲気は感じられない。青砂ヶ浦天主堂は、本格的な天主堂建築の基本である重層屋根構造にもとづく外観や内部空間が形成されるようになった初めての例で、この後の多数建築された煉瓦造教会堂の構造、意匠の起点となったという由緒ある天主堂だけに残念だ。
 奈摩湾沿いの道路を迂回して、「しんうおのめふれ愛らんど」の向かいに位置していた矢堅目崎へ向かう。奈摩湾の入口に位置する矢堅目は、古くから奈摩湾に侵入する外敵の見張りのために矢で堅めたことに由来する。矢で堅めるというのは、矢を構えた兵士を数多く配備するということ。奈摩湾は室町時代における勘合貿易の避難港としても知られ、貿易船の海賊からの警備を担っていたようだ。
矢堅目崎  小さな駐車場にレンタカーを停めて、遊歩道をたどると、やがて目の前に円錐形の大きな奇岩が現れる。奇岩の反対側には、1954年(昭和29年)11月5日設置された白い矢堅目埼灯台があるはずだが、奇岩に遮られていて確認できない。
 周辺は鬼ユリの群生地で、オレンジ色の鬼ユリがところどころに顔を出す。夏の日差しは強いが、潮風が心地よく、しばらくベンチに寝転がって過ごす。かつては海賊の見張り場所であった矢堅目も、現在は、複雑な海岸線が描く自然美を鑑賞する場所となり、レンタカーであくせく中通島を掛け回ろうとしていた当初の意欲はもはや消え失せ、雄大な景色をしばらく堪能する。我々に残された中通島の滞在時間も残すところ3時間を切った。
 新上五島町の中心となった青方市街地を抜けて、青方港沿いにレンタカーを走らせる。青方港は沖合に上五島石油備蓄基地を望む工業港の装いである。上五島石油備蓄基地は、1984年(昭和59年)10月から4年の歳月と2,000億円の投資によって、1988年(昭和63年)9月に完成した世界初の洋上石油備蓄基地である。折島と柏島を結ぶ防波堤に長さ390メートル、幅97メートルの貯蔵船5隻を配置し、国内で消費される全石油量の約7日分に値する440万キロリットルの石油が備蓄されているとのこと。1箇所の備蓄基地として、約7日分の備蓄量が多いのか少ないのかは判然としない。
 青方郊外の大曾集落に到着したのは正午過ぎ。大曾も外海地方からの移住者が多かったことから、この地域のほとんどがカトリック信者であるという。住宅が並ぶ高台のうえには、煉瓦造りの大曾天主堂があり、こちらも鉄川与助の設計により1916年(大正5年)8月6日に竣工した天主堂だ。駐車場はなく、レンタカーを道路脇に駐車し、民家の裏手に通じる階段を登って大曾天主堂を目指す。
 珍しく中年女性3名の観光客に出会った大曾天主堂は、煉瓦造、重層屋根構成、桟瓦葺きで会堂正面に方形の鐘塔を高く立ち上げているのが特徴。鐘塔の上部には八角のドーム屋根を乗せ、その頂部には十字架が掲げられている。昨年訪問した田平天主堂と似ているが、田平天主堂よりも幾分簡素化されている。田平天主堂よりも、大曾天主堂が2年早く完成したというのだから、簡素化しというよりも、大曾天主堂を発展させて田平天主堂が設計されたというべきか。
 一旦、青方へ戻り、国道384号線を南下。今里からはリアス式海岸を行く細い道路に入る。朝の太田林道といい勝負だが、今度は奥田クンが運転をしているので気楽だ。地図では海岸近くを走っているはずだが、ほとんど海は姿を見せず、山道をドライブしているような状況になる。
 若松瀬戸の北側入口近くに位置し、焼崎浦に面している焼崎天主堂に到着したのは12時45分。リアス式海岸に翻弄されて、大曾から思ったよりも時間が掛かってしまった。この焼崎も江戸時代のキリシタンの迫害に耐えてきた隠れキリシタンの集落である。1950年(昭和25年)に焼崎にも待望の天主堂が完成。現在の天主堂は1969年(昭和44年)に改築されたものである。構造は鉄筋コンクリート造、屋根構成は単層とシンプルな造りである。天主堂内部には当番表が掲示されており、町内会の集会場のような雰囲気だ。聖堂に向かって右端には、赦しの秘跡と言われる罪を告白するスペースが設けられている。いわゆる懺悔と呼ばれるもので、洗礼を受けたものだけが司祭を通じて神に告白できるのである。
 静かな焼崎集落を後にするとさすがに時間が押してきた。当初の見通しでは若松島ぐらいは周れるだろうと考えていたが、かなり甘かったようだ。奥田クンはこのまま有川に戻ろうと言うが、あまりにも積み残しが多い。このままだと来年以降の行程に支障を来す可能性があり、せめて若松港まで足を記しておきたい。
 道土井から国道384号線に合流するとさすがに国道の走り心地は違う。途中、若松までの連絡船が出ている郷ノ首を経て、白魚から県道46号線へ。上中島を経由してライトグレーの全長522メートルのトラス橋に挑む。1991年(平成3年)9月に開通した若松大橋であり、この架橋によって離島の離島という若松島の地理的条件が改善された。
 若松フェリーターミナルへ出た後、今回の旅の締めくくりとして若松大橋や若松瀬戸を一望できる瀧観山展望台と考えていたのであるが、道に迷って時間がなくなり、やむを得ず若松大橋の袂に位置する潮の薫公園で代用する。穏やかな入り江には、オレンジ色の養殖いかだや真珠いかだが浮かび、若松瀬戸の自然美と漁業の営みとのコントラストが瀬戸の景観を一段と際だたせている。周囲は西海国立公園にも指定されているのだ。海岸沿いの遊歩道も整備されていたが、時間切れで散策している余裕はない。
 慌ただしく国道384号線を北上して有川に戻る。結局、中通島は半周できた程度で、次回、改めて時間を割いて周遊する必要がありそうだ。青方から先は渋滞しており、昨年の大村での二の舞となるのではないかと気掛かりになったが、14時10分にはトヨタレンタカー有川店に無事に到着。中通島のガソリンスタンドはすべて日曜日休業なので、ガソリンが営業所で精算することになる。請求されたガソリン代は15リットルで2,394円。上五島石油備蓄基地の恩恵は皆無で、1リットルあたり消費税抜きで152円だ。1リットルあたり126円の全国平均価格と比較しても30円近く高い。もっとも、昨年は1リットル200円近いガソリン代を支払っていたのだから原油高は一服している。
 トヨタレンタカー有川店から有川フェリーターミナルまでは少々離れていたものの、送迎用のワゴン車が用意されていた。
「お客さんはもともと14時35分のフェリーの予定でしたか?」
送迎車の運転手が尋ねる。
「本当は16時出港の高速船に乗るつもりだったのですけど、船が小さくて欠航する可能性が高いので、1本早い便にしました」
有川から佐世保へ向かう便は14時35分発の九州商船の高速船「えれがんと1号」のほか、15時40分発の美咲海送「フェリー美咲」と16時発の五島産業汽船の高速船「ありかわ」がある。「フェリー美咲」は佐世保到着が18時25分と遅すぎるので利用できないが、「ありかわ」であれば佐世保到着が17時25分。佐世保18時09分発の特急「みどり26号」に乗れば、博多到着は19時53分。博多20時発の「のぞみ98号」に乗り継いで今日中に京都へ戻ることができる。しかし、「ありかわ」には、総トン数19トン、定員30名の小型船「フレッシュありかわ」が運用されており、時化になるとすぐに欠航するという評判だった。今日の五島列島沖は波が高いという予報だったので、「ありかわ」は運休になる可能性が高い。中通島に足止めされることを懸念して、「えれがんと1号」利用としたのだ。
「天気予報はあてにならないからな。この前も波の高さが5メートル超の時化になるからと慌てて帰ったお客さんがいたけれど、後で高速船の船長に聞いてみたら全然波はなかったって言ってたしね」
出航港時刻の15分前にはフェリーターミナルへ到着した。乗船券売り場には、研修中という名札を付けた若い女性が担当しており、笛吹フェリーターミナルの無愛想な職員とは対照的に笑顔を絶やさない。行きと同じように高速船の回数券もあるのではないかと尋ねてみれば、やはり高速船用の「2回回数券」があり、1セット8,000円。今回は3人なので、2人分を「2回回数券」で充当し、1人分のみを正規運賃の4,420円で購入した。それでも1人あたり4,140円なので280円の割引となる。
 慌ただしくフェリーターミナル内の売店で名物の「五島うどん」を買い込み、今回の旅で3度目となる「えれがんと1号」に乗り込めば、さすがに混雑している。それでもかろうじて、船室後部の桟敷席の中央付近を陣取り、横になるスペースを確保した。奥田クンは窮屈に感じたのか、一旦は桟敷席に落ち着いたものの、すぐに前方の座席へ移動してしまった。
 「えれがんと1号」はゆっくりと有川フェリーターミナルを出港。14時35分の便は、小値賀島や宇久島には寄港せずに、直接佐世保を目指す。
「本日は海上が時化ておりますので、航行中の船室内の移動はお止めください。お座席のお客様はシートベルトの着用をお願いします」
お決まりのアナウンスが流れ、平穏な航海を願ったが、海上に出ると高速船は容赦なく上下に揺れ出した。今日は波が高いという天気予報が的中しているようだ。海上に出てしまうと船内には逃げ場がなく、ただ一刻でも早く佐世保に到着することを祈り続ける。
 激しく上下に体を揺さぶられ、ほとんど眠ることはできなかったが、幸いにも船酔いの症状は出ていない。揺れがなくなったので、体を起してみれば、既に佐世保湾内を航行しているようだ。桟敷席の中央を陣取っている関係上、早めに荷物をまとめて下船の準備をする。日頃から船旅を語っていた島雄クンが船酔いで弱っているのは意外だった。
 鯨瀬フェリーターミナルに降り立つと苦行から解放された気分になる。また、来年もここから中通島を目指すことになるので、今回の旅は若松島まで足を記したものの、佐世保解散とするのが良さそうだ。鯨瀬フェリーターミナルは、折り返しの便で上五島へ向かう乗船客の姿が多く、お盆休みの帰省客らしき姿もある。1年で上五島航路がもっとも盛況となる時期がこれからの1週間だ。
 あまり時間はないが、島雄クンが佐世保バーガーを食べてみたいというので、鯨瀬フェリーターミナルの近くにある新みなとターミナルへ移動。旅の打ち上げとして、ターミナルビル1階にある「Pier Cafe」に入り、「佐世保バーガー」(500円)を注文する。佐世保バーガーは、店舗によって味もサイズも異なり特徴がある。かつては、佐世保駅近くの「喫茶リベラ」で極上和牛100パーセントの高級バーガーを味わったが、こちらは庶民的な雰囲気だ。この時間帯は利用者も少ないためか、女性店員が1人で切り盛りしているが、のんびりとした様子で調理を始める。ハンバーガーなら5分ぐらいで出来上がるだろうと思っていたのは失敗で、10分以上待たされたため、「佐世保バーガー」を受け取ると、かじりながら佐世保バスセンターを目指す羽目になる。大きさは「喫茶リベラ」の「佐世保バーガー」と同じぐらい。トマトやレタス、卵がサンドされたオーソドックスな「佐世保バーガー」で、パティは極上和牛には劣るけど、ジューシーで美味しい。バンズももちもちとした食感で、ゆっくり賞味できなかったのが残念だ。
 佐世保バスセンターで予約をしていた16時40分発の博多駅バスセンター行きの西鉄高速バス「スーパーノンストップさせぼ号」のチケットを購入しようとしたら、「発車10分前に予約はすべて取り消されます」の冷たい返事。もっとも、座席は充分に余裕があり、予約なしでもチケットを入手することができた。しかも、島雄クンと2人分だったので、「ペアきっぷ」(4,000円)の利用が可能となり、片道2,200円が2,000円で済む。奥田クンは私がチケットを購入している間に、長崎空港行きのバスに飛び乗ったそうで、最後にバタバタするのも外周の宿命か。たまにはゆとりをもって家路に着きたいものである。

第102日目<< 第103日目 >>第104日目