人類の進化のカタチ

第102日 小値賀−有川

2009年8月8日(土) 参加者:奥田・島雄

第102日行程  昨夜、野崎島へ渡ることを伝えると、「民宿鈴の屋」の女将さんは6時30分に朝食を用意してくれた。朝食を済ませると大きな荷物は民宿で預かってもらい、まずは笛吹漁港に近い「エイダン」に向かう。「エイダン」は7時から20時まで営業している食料品店で、小値賀島のスーパーマーケット兼コンビニエンスストアのような存在。これから渡る野崎島は無人島であるため、飲料水や食料品の確保が必要だ。多少荷物になることを覚悟しながら2リットル入りのお茶を購入する。昼食用にパンでも購入しようと思ったが、朝が早いためまだ商品が入荷されていない。非常食としてココアピーナッツを持参してきていたので、1食ぐらいは抜いたところで何ともない。奥田クンと島雄クンの各々必要なものを調達した。
 7時15分頃に笛吹桟橋に到着すると、昨日、大島へ渡ったときと同じ「第3はまゆう」が既に早朝の大島往復を終えて船体を休めていた。我々は桟橋で野崎島へ渡るための身支度を整える。野崎島にはヤマビルが生息しているとの情報を事前にキャッチしていたからだ。ヤマビルは環形動物門ヒル綱顎ビル目ヤマビル科に属するミミズの仲間で、体長は2〜5センチ、伸びると5〜7センチになる。体の前後腹面に吸盤があり、尺取り虫のようなほふく運動で人や動物に接近し付着し、吸血するという厄介な生物だ。吸血されたところで人体にほとんど影響はないのだが、吸血するときにヒルジンという血液の凝固を抑制する物質を分泌するため、出血が止まらなくなり、衣服がみるみるうちに真っ赤に染まってしまう。活動期は4月から10月で、特に雨上がりの日には活動が活発になるという。雨上がりではないが、昨日から野崎島は霧に包まれているし、湿度は高く、ヤマビルの活動も活発になっていることだろう。まずはヤマビルが衣服の中に侵入してくるのを防止するために、首にタオルを巻き、上着をズボンの中に入れ、ズボンの裾も靴下の中に入れてしまう。モンペのような姿になり、島雄クンがゲラゲラ笑う。仕上げはディートを含有する虫除けスプレーを全身に噴霧する。虫除けスプレー2〜3時間の効果を発揮するというので、定期的に虫除けスプレーをすればよいだろう。島雄クンはヤマビル対策として、登山店で「ヤマヒルの天敵!ヒル下がりのジョニー」(エコ・トレード)というヒル除けスプレーを準備していた。せっかくなので拝借し、靴や足元を重点的にヒル除けスプレーを噴霧する。
 「第3はまゆう」の出航時刻が迫って来ると、桟橋向かいの離島待合所から船員とおぢかアイランドツーリズム協会のスタッフ2名が乗り込んでくる。おぢかアイランドツーリズム協会は、旧野崎小学校の廃校舎を利用した野崎島ワイルドパーク自然学習村の運営や野崎島のトレッキングツアーなどを主催しているNPO法人だ。今回の旅を計画している段階で、野崎島での宿泊も考えたが、7月から8月の期間は通常料金の5割増しという極端なシーズン料金が設定されているうえ、行程上も野崎島に宿泊するメリットがなかったため、日帰りで訪問することにしたのだ。
 7時25分に「第3はまゆう」は笛吹桟橋を出航し、小黒島をかすめると北上を開始する。船員から1,000円の往復乗船券を購入する。野崎島への片道乗船券は基本的にはあり得ないから、こちらの意向を聞くまでもなく往復乗船券が手渡される。右手には既に野崎島が横たわっているはずなのだが、真っ白な霧に包まれている。
「どこから来た?名前は?」
おぢかアイランドツーリズム協会のスタッフに船内で話し掛けられる。どこから来たのかはともかく、いきなり名前まで尋ねられるのは珍しい。島雄クンが応対する。
「京都から来た島雄です」
「予約していないな。思い付きで野崎島へ行くのか?」
決して思い付きではなく綿密な計画のうえでの行動だが、成り行き上、思い付きでの渡航ということになる。昨日、島雄クンが笛吹フェリーターミナル内で、旧野首天主堂が見学できないこともあるので、野崎島へ行く場合は事前におぢかアイランドツーリズム協会で予約をしておくようにと記載された張り紙を見掛けたと言っていたことを思い出す。野崎島ワイルドパーク自然学習村も8月の週末なら稼ぎ時だろうし、自然学習村にスタッフが誰もいないということはなかろう。自然学習村のスタッフに頼めば天主堂の内部を見学させてもらえることも事前にわかっていし、予約をすると利用してもいない自然学習村の入村料1,000円を徴収されたというトラブルも聞いていたので、あえて予約をしなかったのだ。
 「第3はまゆう」は、途中、野崎島の北側に位置する六島に立ち寄る。六島は小値賀捕鯨発祥の地で、寛永年間(1624年〜1643年)に紀州の藤松半右衛門が小値賀の六島を根拠地に捕鯨を始めたと伝えられる。
 六島からは笛吹に向かう乗船客が多く、にわかに船内が騒がしくなる。
「あれま!今日も野崎島へ行くお客さんがいるねぇ。野崎島は景気がいいね。儲かって仕方がないね」
大声でおばちゃんがおぢかアイランドツーリズム協会のスタッフを冷やかす。1998年(平成10年)10月31日までは、その年の地区会長が交替で船長を務める「平和丸」が笛吹−六島間を結んでいたが、同年11月2日より現在の「第3はまゆう」が六島に立ち寄ることとなったため、「平和丸」は廃止。六島の島民は笛吹に向かうのに必ず野崎島を経由させられることになったのである。対岸の野崎島には造山活動によって生まれたという王位石(おえいし)が見えるはずだが、依然として野崎島は霧に包まれたままだ。
 野崎島の東岸中央部に位置する野崎桟橋には定刻8時に到着。桟橋には軽トラックが待機しており、おぢかアイランドツーリズム協会のスタッフが「第3はまゆう」で運んできた荷物を軽トラックの荷台に積み込み始める。野崎島ワイルドパーク自然学習村への必要物資の運搬が目的なのであろう。
 「これからどうするんだ?」
桟橋を後にしようとするとスタッフから声が掛かる。
「王位石と舟森に行ってみようかと思っています」
「王位石まではきついよ。それにこの霧だからな」
「じゃあ舟森ならどうですか?」
「見ての通り舟森も霧だよ。どこへ行くにしても深入りしないこと。自然学習村の電話番号を教えるから、何かあったらすぐに電話してくれ」
スタッフには思い付きで野崎島へやって来た困った観光客に見えたのかもしれない。しかし、我々は事前に様々な情報を収集して周到な準備をしている。野崎島内の地図や注意事項もインターネットで探していくつか出力してきたが、素直に電話番号を控えておく。
 帰りの出航時刻は15時10分。予定では野崎島の北部にある王位石へ往復した後、野首天主堂を経て舟森へ往復することにしていた。野崎島は南北に6キロ、東西に1.6キロの細長い島で、周囲は15.6キロ、面積は7.32平方キロある。野崎港から王位石までは往復で3時間、舟森までの往復が2時間30分で、移動時間は合計5時間30分。残りの1時間30分が旧野首天主堂と休憩時間という見込みだ。しかし、スタッフの話を聞いて奥田クンが消極的になる。
「王位石は止めた方がいいんじゃない?遭難したら洒落にならないよ」
王位石は、野崎島北部にある鳥居状に組み立てられた巨石で、畳8畳分のテーブル状の岩が高さ24メートルの2本の石柱に支えられている。このテーブル状の岩の上では神楽を舞っていたという伝説も残されているが、人工的に造られたものなのか、自然の偶然の産物であるかは明らかになっていない。野崎島へ来たらかにはぜひとも足を記したいポイントではあるが、王位石のある沖ノ神嶋神社へ行くためには、途中、霧に覆われた標高305メートルの二半岳を越えなければならない。しかも、二半岳を無事に越えたとしても、その先の道にはヤマビルの多発地帯が待ち構えている。霧に覆われた湿度の高い今日の環境は、ヤマビルにとっても格好の活動環境であろう。体力を消耗し、ヤマビルの攻撃に翻弄されては、気力がなくなってしまうのは目に見えている。それならば、まずは比較的に楽な舟森を目指すことにしよう。王位石に行くかどうかは舟森を往復してから決めればいい。
 野崎港からまずは野崎島ワイルドパーク自然学習村に向かって歩き始める。野崎港の周辺には木造家屋が立ち並び、一見するだけでは島民の生活があるようにも錯覚するが、よくみれば屋根や壁が崩れ落ちたり、玄関に板を打ち付けてあったりして、既に廃屋になっていることが伺える。
 野崎の集落跡の出口には鹿除けのフェンスが張り巡らされており、遊歩道には「野崎島ワイルドパーク」と掲げられたゲートがある。野崎島には野性の九州鹿が約500頭生息しているとのことだが、野崎島に住民が暮らしていたときは、このフェンスによって人間と鹿の生活の場を区分けしていたのであろう。
 遊歩道を歩いていると後ろから先程の軽トラックが追い抜いて行く。笛吹から一緒だったスタッフは軽トラックの荷台に乗っていたが、急斜面を登っていくので、今にも荷台から振り落とされそうな状態になり危なっかしい。自然学習村の利用者を送迎することもあるのだろうが、ワゴン車に切り替えないといつか事故が発生するのではなかろうか。
野首海岸  遊歩道は舗装されているとはいえ、整備が決して十分とは言えず、ところどころ崖崩れの痕跡が残っている。のんびりと散策するような場所ではないので、足早に通り抜ける。やがて左手にエメラルド色の海岸と白い砂浜が広がる。少し霧がかかっているのは残念だが見事な眺めだ。海岸には人の姿があり、自然学習村に泊まった人達だろう。さらに進むと赤い屋根の自然学習村の施設と煉瓦造りの旧野首天主堂が視界に入る。
 野崎港から15分も歩けば、自然学習村と旧野首天主堂が残る野首集落跡に到着。野崎集落跡のように木造家屋は残っておらず、段々畑のような跡がかつて住民の生活があったことを物語っている。
 まずは旧野首天主堂に足を向けたが、まだ朝が早いためか天主堂は鍵がかかっており中に入れない。天主堂には舟森を往復してから再度立ち寄ることにして、舟森へ向かうトレッキング道を探す。
 旧野首天主堂から先へ道が続いていたので、舟森へ続く道だと思って歩いて行くと、目の前には野崎ダムが広がった。2003年(平成15年)に完成したとい野崎ダムには、小値賀島の畑地灌漑用水を備蓄している。平坦な地形の小値賀島では雨水を蓄えることが困難なので、野崎島の山々から流れる表土水を導水路で野崎ダムに貯水し、海底パイプラインを使って小値賀島へ送水しているという。野崎ダムの完成により小値賀島の農業用水の不安が解消されたと言うが、もともと野崎島にあったダムを活用したわけでもなく、近年になって莫大な税金を投資してダムを建設したのだから恐れ入る。
 野崎ダム周辺をしばらくさまよったが、ダムの他は野首港が整備されているぐらいで、舟森に通じるような道はない。下調べでは、遊歩道が通じているわけではなく、表土水を野崎ダムへ蓄えるための導水路をたどるとのことだったので、ダムの周辺に導水路が通じているはずだが、どこにも導水路は見当たらない。導水路は自然学習塾のグランドの南側に通じているとの情報もあったので、グランドを見渡せる高台から導水路の所在を確認してみるが、生い茂る樹木が導水路を隠してしまっている。
 「うわぁ」と島雄クンの悲鳴が聞こえ、何事かと思ったら鹿除けの策に触れた途端に電気が流れたという。どこにも電気が流れている旨の注意書きはなく危険だ。ほとんど人が来ない場所なのかもしれないが、人が行き来できるようになっている以上、注意書きぐらいは掲示しておいて欲しい。
 奥田クンと島雄クンが野首海岸へ続く道へ進み、舟森へ抜ける導水路がないかを見に行ったが、首を横に振りながら戻って来る。やはり自然学習村のスタッフを頼りにするしかないようだ。グランドでラグビーの練習をしている小学生達を眺めながら、自然学習村の玄関に向かい、声を上げる。しばらく、誰も出て来なかったが、何度か声を上げているうちにようやくスタッフのひとりが現れた。「第3はまゆう」で一緒だったスタッフとは別人だ。
「すみません。舟森へ行きたいのですが、どこから行けばいいのか教えてもらえますか?」
「ああ、舟森ね。グランドの南側のフェンスに小さな出入り口があるでしょう。道はないけれどもしばらく山を登ってください。そうすれば中腹に導水路があるから、あとは導水路を左手に進んでもらえれば舟森に通じています」
グランドの南側にある導水路には違いないが、野首集落跡から導水路までの道がないのであれば、いくら周辺を探しても導水路が見付かるわけがない。ラグビーの練習が休憩に入り、無人となったグランドを横切り、自然学習村の旧校舎の向かいにある出入り口から山に入る。フェンスを開けたその場から雑草が生い茂り、まったく道らしきものは見当たらない。舟森へのトレッキングを観光資源としてPRするのであれば、まずは自然学習村から導水路までの道を整備することが必要だ。大きな岩や樹木を回避しながら雑草をかき分け、道なき道を黙々と進む。樹木を抜けたところようやく導水路を発見した。
 導水路を頼りに舟森へ向かって歩く。導水路が遊歩道と錯覚しかけるが、所詮は表土水をダムへ流すための排水溝に過ぎず、人が歩くことなど想定していない。鉄製の溝蓋が外れ掛かっていたり、そもそも溝蓋そのものが設置されていない箇所もある。ところどころ土砂崩れで導水路が埋もれているところもあり、これでは導水路としての機能も果たしていないのではなかろうか。
 導水路をたどって15分もすれば、行き止まりになり、ここからがようやくトレッキング道の入口となる。もっとも、ここにも確かな案内があるわけでもなく、事前に調べた電信柱の切り株を頼りにする。電信柱といってもコンクリート製の切り株ではなく、かつて野崎島に生活があった時代の木製の電信柱の切り株だ。トレッキング道に入る前に小休憩をし、虫除けスプレーを再度全身に噴霧する。私が持参した虫除けスプレーは、「サラテクトクール200ml」(アース製薬)というペパーミントオイルを配合したパウダーが入ったタイプのスプレーなので、汗でディートが流されにくいうえ、冷却効果もあるので最適だ。奥田クンや島雄クンにも貸し与えて装備を万全にする。
 樹木に覆われたトレッキング道を延々と歩く。トレッキング道には最近になって打ち込まれたと思われる道標が数メートルごとにあるので、道標さえ見失わないようにすれば遭難する恐れもない。霧が立ち込めるが視界を遮るほどではなく、直射日光を浴びるわけでもないので比較的過ごしやすいが、気になるのはヤマビルの存在だけだ。足元はぬかるんでいるところも多く、ヤマビルの活動が活発になる条件は揃っている。
 トレッキング道を進むと、時折、大きな岩が行く手を阻むように転がっている。王位石と言い、野崎島は大きな岩がごろごろとしているのが特徴だ。2005年(平成17年)3月20日に発生した福岡県西方沖地震では、野崎島も震度4を記録し、島内の各地で巨岩が転がり落ちてきたというのだから恐ろしい。
 大きな岩がごろごろとした地帯を抜けると、樹木が途切れて久しぶりに海が顔を見せる。小値賀島や中通島の津和崎が手近に見え、舟森に到着かと錯覚したのも束の間。再び樹木に覆われたトレッキング道が現れる。
舟森  段々畑が残る舟森集落跡にたどり着いたのは10時45分ごろ。誘導を探し当ててから1時間近くが経過している。もう少し遊歩道が整備されていたであろうが、舟森の小学生達は、毎日現在の自然学習村がある小学校までこの道を登校していたというのだから大したものだ。しばらく、段々畑を眺めながら小休憩とする。沖合には釣り船が停泊しており、チャーター船で舟森へ上陸することも可能であるようだ。
 段々畑を下って行った奥田クンが白い十字架を見付けたという。舟森で生活していたキリシタンのお墓であろうか。気になるので崩れかけた石段をゆっくりと下って行くと、やがて数メートル先にそろりと動く物体を確認する。マムシである。こちらには気付いていないのか、悠々と石段を横切り、繁みの中に姿を消す。ヤマビル対策にばかり気を取られていたが、野崎島にはマムシも生息しているのだ。マムシは人間から近付いたりしなければ攻撃してくることはないというが、繁みの中を歩くときは気を付けなければならない。マムシが立ち去ったのを確認して、急いで石段を駆け下りる。
 十字架の正体は「舟森郷の碑」と記された真新しい記念碑で、2009年(平成21年)5月に建てられたばかりのものである。傍らの解説板には「舟森郷縁起」と題して、舟森集落の歴史が記されている。もともと小値賀島の笛吹で平戸藩御用の廻船問屋を営んでいた田口徳平治は、大村領外海(長崎市神浦)で捕らえられていたキリシタン3名を救出。野崎島の瀬戸脇(舟森)に開拓者として3名を移住させたことが舟森集落の始まりだという。舟森は隠れキリシタンの集落だったのだ。全盛期は150名の住民が生活をした舟森も1966年(昭和41年)には住民が小値賀島へ集団移住したため、舟森は無人となり、終焉を迎えた。現在は木造家屋の名残もないが、屋敷の跡や井戸跡はしっかりと確認できる。信者の拠り所となった瀬戸脇教会は解体され、司祭館は小値賀島に移築、改築されて現在の小値賀教会となっている。
 舟森で1時間近くを過ごし、再び自然学習村に向かって引き返す。同じ道を引き返すのは癪だが、他に道はない。目的地までの距離を把握しているので、目的地までどれぐらいかかるのかわからなかった行きと比較すると、気分的には随分と楽なものだ。霧はいつの間にか晴れ渡り、夏の日差しが降り注ぐようになっていた。
 帰りは導水路がダムに注ぎこむところまで行ってみようと、自然学習村のグランドへ降りる場所を通り越して、導水路の終点まで行ってみたが、導水路は直接ダムに流れ込むのではなく、小さな川に注ぎこむようになっていた。これではダム周辺で導水路を発見できないはずだ。素直に引き返し、道なき山の斜面を下って自然学習村のグランドに降り立つ。ラグビーの練習をしていた小学生たちは昼食の最中だ。時刻は12時40分になっている。奥田クンは自然学習村にジュースの自動販売機が設置されていることを知ると、旧校舎の中へ消えていく。しかし、飲み物はすべて売り切れだったとのこと。ラグビーの合宿でしごかれた小学生が自動販売機に殺到したのであろうか。私は2リットルのお茶のペットボトルを持参しただけあって飲み物には不自由していない。
旧野首天主堂  再び高台にある旧野首天主堂へ向かうと、今度は鍵が開いており、内部を見学できるようになっていた。1908年(明治41年)10月に完成した野首天主堂も教会建築家で有名な鉄川与助氏が手掛けた教会である。煉瓦造りの天主堂の正面には、二連の尖頭アーチ窓が施され、その間には「天主堂」という文字が入った額縁が掲げられている。この野暮な文字がなんとも庶民的な親しみやすい雰囲気を醸し出している。内部には主祭壇と左右脇祭壇を有する三廊式で、4分割のリブ・ヴォールト天井となっていた。フランスで発祥したゴシック建築の装いだ。毎年開催されている「おぢか国際音楽祭」ではコンサート会場になっているらしい。これほど立派な天主堂を建築した野首集落の住民も、1971年(昭和46年)3月31日に全員が福岡や北九州へ移住してしまったため、この地に信仰の灯は消えてしまった。
 旧野首天主堂の脇には「大東亜戦争記念碑」という石碑と十字架を掲げた鐘が残されている。野首天主堂と大東亜戦争の関連性がピンと来なかったが、「豊かな海と野生シカの島」(山下弘文著)によると、戦時中は信者が朝夕にこの天主堂に集まって、「万民の救世主なる天主よ、大東亜建設に邁進するわが国を祝し給え。わが国の聖人たちよ、我らと共に祈り給え」というお祈り文を唱えていたそうだ。
 奥田クンの希望により、野首海岸に立ち寄る。野崎島の東海岸に300メートルほど続く白い砂浜海岸だ。絶好の海水浴場と思われるのだが、自然学習村はラグビー合宿の小学生達で貸し切り状態となっているようで、海岸には誰もいない。奥田クンは裸足になって波打ち際で涼をとっている。入村料を払えば自然学習村でシャワーも利用することができるから、海水浴を楽しむこともできるのだが、着替えや水着はすべて民宿に預けてきてしまった。王位石と舟森の制覇を考えずに、これほどきれいな海岸があるのなら、最初から海水浴を計画に組み込んでおけばよかった。この海岸にはウミガメが産卵にやって来るという。自然学習村に宿泊し、ウミガメの産卵を見学するのも一興であろう。
 野首海岸を後にすると時刻は13時30分をまわっている。さすがに今から王位石まで往復している時間はない。途中の二半岳までなら往復できるだろうか。
「二半岳まで行くなら野崎港で待っている。足が痛くて歩けそうにない」
社会人になっても野球を続けている奥田クンにしては珍しく弱音を吐く。それならば、無理に二半岳を往復せずとも出航時刻まで木造の廃屋が残る野崎集落を見て回るのもよかろう。
 14時前に野崎集落跡に到着。野崎港の周辺一帯は、全盛期には300人以上が生活していたという。廃屋が残っているのは、野首や舟森が昭和40年代前半に集団移住で無人化されたのに対して、野崎集落は2002年(平成14年)まで実際にこの集落で生活していた世帯が残っていたことに影響しているのであろう。もっとも、ほとんどの住民は昭和50年代に野崎を離れてしまっている。崩れかけた廃屋で物音がするのでドキリとするが、やがて九州鹿が廃屋から飛び出してきた。かつては人間と鹿の生活スペースを区分けしていた鹿除けフェンスも現在は役割を終え、野崎集落も九州鹿の生活領域に変わりつつある。
 野崎港の高台には、かつては野崎集落の生活を見守っていたと思われる若宮神社の跡が残っている。野崎島は隠れキリシタンの島というイメージが強いが、野崎集落の住民に関しては野首や舟森とは事情を異にするようだ。野崎集落が隠れキリシタンの集落であれば、神社の代わりに教会が残っているはずだからである。旧野首天主堂と同じように信仰の灯が消えた若宮神社は無残に朽ち果てている。
 時間を持て余したので、二半岳までは無理としても、野崎集落の北側に広がる鹿牧場ぐらいまでは足を伸ばせるだろう。私がどこかへ行こうとしているのを察知したのか、島雄クンと足が痛いと言っていた奥田クンも付いて来た。
 野崎島には野性の九州鹿が生息しているが、この野生の鹿を牧場へ追い込み、人工的に飼育することを試みた鹿牧場の跡が残っている。しかし、野性の九州鹿の飼育は困難を極めたようで、わずか数年で閉鎖したという。フェンスで覆われた鹿牧場を眺めていると、野性の九州鹿が我が物顔でフェンスの外側で走り回っている。まるで鹿牧場を嘲笑っているかのようだ。
 最後は野崎島東側にある軍艦瀬で締めくくる。小値賀諸島はいくつもの小規模な火山の噴火で生まれた火山島であるが、軍艦瀬は野崎火山と呼ばれる噴火跡の一つである。軍艦瀬の土壌は、赤浜海岸と同じような赤い土壌であり、最後に野崎島の素晴らしい光景を目に焼き付けることができた。
 野島桟橋に戻ると時刻は15時ちょうど。「第3はまゆう」の出航時刻の10分前で、いい頃合いだ。軽トラックで朝の便で一緒に野崎島へやって来たおぢかアイランドツーリズム協会のスタッフも野崎港へ戻って来た。
「今日はどうした?」
「舟森まで往復してきました」
「おう。舟森まで行って来たか。そりゃあよかった」
 やがて「第3はまゆう」が野崎港へ入港してきた。桟橋に接岸すると、中年女性が3人も降りて来る。自然学習村で宿泊するのであろうか。中年女性の旅行先としては、随分とマニアックなところへやって来たものだと思っていたら、スタッフとの会話からラグビー合宿中の小学生の保護者であることがわかる。船内からは朝の便よりもたくさんの荷物が降ろされ、軽トラックに積み込まれていく。今夜の晩餐の食材なのであろう。
 「第3はまゆう」は荷物の積み下ろしにとまどって5分遅れで野崎桟橋を出航する。六島からの乗船客は皆無で、我々3人とスタッフ2名の5名だけで笛吹へ向かう。帰りは六島に寄らないので、野崎島南部を迂回する。結果的に「第3はまゆう」で野崎島沿岸を一周したことになる。朝の便のように霧もなく、苦労して訪れた舟森集落を海上から確認する。全容を眺めると想像以上に広い集落で、我々が探索したのは集落の一部に過ぎなかったことに気が付く。
 遅れを取り戻した「第3はまゆう」は、定刻の15時30分に笛吹桟橋に到着。王位石へ行けなかったのは残念だが、無事に野崎島を踏破して笛吹に戻って来た。今日の予定は18時22分の高速船「えれがんと1号」で中通島の有川へ渡るだけなので、まずはどこかで昼食を食べようということになる。昨日の「ふるさと」が手頃だということで再訪するものの、昼の営業時間は14時30分までとなっていた。やむなく周辺の飲食店を探すが、中途半端な時間帯に店を開いているのは喫茶店ぐらいしかない。一昨日に宿泊した「民宿田登美」のおやじが経営する「喫茶タートル」に入って、おやじの漫談に耳を傾けるのも一興かと考えたが、奥田クンや島雄クンは気乗りしないようだ。結局、朝と同じ「エイダン」でパンや飲み物を購入し、笛吹フェリーターミナルでゆっくり過ごすことにする。
 「民宿鈴の屋」で預けた荷物を受け取り、笛吹フェリーターミナルへ向かうと、高速船の出航時刻まで2時間以上もあるので、待合室には誰もいない。「エイダン」で仕入れたパンや飲み物を口にしながら、携帯電話のワンセグ放送で高校野球を見ていたら、フェリーターミナルの一角に事務所を設けているおぢかアイランドツーリズム協会のスタッフが、待合室のテレビをつけてくれた。おぢかアイランドツーリズム協会では、野崎島ワイルドパーク自然学習村の管理や野崎島ツアーの主催だけではなく、笛吹フェリーターミナルの売店や待合室の運営管理なども手掛けているようだ。売店には手作りのビーズストラップやオリジナルTシャツなど、小値賀島オリジナル商品が並んでいる。せっかくなので記念に「ちかまるくんストラップ」(450円)を購入した。ちかまるくんは、九州鹿の着ぐるみを身にまとった妖精とのことで、小値賀町のマスコットキャラクターだ。小値賀町との関係が近まるようにと命名されたらしい。彼女のはなちゃんもキャラクター化されており、「はなちゃんストラップ」(450円)も販売されていた。
 17時30分頃になって、乗船券売り場の窓口が開いたので、予約しておいた高速船「えれがんと1号」の乗船券を購入する。有川までの所要時間は37分間で、乗船料は1,590円。宇久島と同様に短区間はフェリーで済ませたかったのだが、高速船しか移動の手段がない。九州商船の窓口の係員は無愛想で、乗船券を購入するときに一言も口を開かなかった。850円の運賃に対して、急ぐ必要もないのに740円もの高速料金を支払っているのだから少しは愛想ぐらい良くしてもらいたい。
 一昨日と同様に船室後部の桟敷席を陣取ると、「えれがんと1号」は定刻に笛吹フェリーターミナルを出航。丸2日間に渡って旅をした小値賀島ともお別れだ。「えれがんと1号」は野崎島と中通島の津和崎の間の津和崎瀬戸を通り抜け、津和崎の東海岸をたどるように有川を目指す。
 横になってうとうとしていると船内に有川港入港のアナウンスが流れる。窓から外を確認すれば、灯火が多く、随分と都会へやって来たような錯覚に陥る。有川は中通島の東部に位置し、人口約7,000人の南松浦郡有川町を構成していたが、2004年(平成16年)8月1日に若松町、上五島町、新魚目町、奈良尾町と合併して、新上五島町として生まれ変わった。
 鯨のモニュメントが出迎える有川港多目的ターミナルは、佐世保航路が頻繁に発着する中通島の玄関口だけあって、立派なターミナルを構えていた。もっとも、今日は有川を出航する最終便が出た後なので、売店は既に店じまいをしており、ターミナル内は閑散としている。
 今宵の宿は、フェリーターミナル近くの「和風ペンションし喜」を予約してある。海岸沿いの道路から一筋入ると有川の市街地で、居酒屋の2階にあるという「和風ペンションし喜」も迷うことなくたどり着くことができた。
 居酒屋「潦り茶屋し喜」の脇にある階段を登るとフロントがあるが、無人のフロントのカウンターには、私の名前で3人分の鍵が並べられている。「和風ペンションし喜」には、和室と洋室があるが、予約時には和室で3人同室にしてもらうように頼んだはずだ。居酒屋と兼任しているアルバイトらしき女の子がやってきて、チェックインの手続きをしようとするが、やはりシングルルーム3室となっていた。和室で3人同室にするように伝えると、女の子は支配人らしき中年女性を呼んできた。
「予約時に3人同室だなんて言ってませんよね。予約を受けたのは私ですが、そんな話は聞いていません」
開口一番にこちらに非があるような言い方をするのでカチンと来る。
「はっきり言いましたよ。何度も念を押しています。和室でも構わなければ3名同室で泊まれるとも返事をもらっています」
「私はそんな話を聞いた記憶がないから行き違いですね。今日の和室は満室です。シングルですけど2人までなら同室にできますけど」
2人だけ一緒でも仕方がないし、かつて山形のビジネスホテルで狭いシングルの部屋に床に布団を敷いて3人が押し込まれた経験もあったので、中途半端な扱いを受けるぐらいならシングル3部屋に収まった方が無難だ。そもそも、支配人は自分が予約を受けたと言い張るが、私が電話をしたときの応対者は明らかに別人だ。最初にホームページで「和風ペンションし喜」を見付けたときに、料金表には和室ツイン1泊2食付きで5,500円と表示されていたのだ。和室なら多少狭くなっても3人同室で泊まれるだろうし、宿泊料も1泊2食付きで5,500円なら割安だと考えた。ところが、最初に予約の電話をしたときは、和室に3人同室で予約することを受けてもらえたものの、宿泊料金については確認してから折り返し電話をするということであった。数時間後に折り返しの電話をしてきたのが恐らくこの支配人で、6,000円という回答で押し問答をしている。
「和室のツインで5,500円なのに、3人だと6,000円になるのはおかしくないですか?」
「5,500円というのは朝食抜きの料金です」
「ホームページには1泊2食付きの料金になっていますよ」
「すみません。すぐに訂正します」
こんなやり取りで1泊2食付き6,000円で了解したのだが、今思えばこの時点で支配人には和室で3人同室という前提条件が抜け落ちていたのかもしれない。シングルなら500円ぐらい高くなってもおかしくはない。この場は6,000円の正体がシングル3部屋であると理解して、そのまま引き下がったがトラブルは更に続く。
 まずは本館から少し離れた別館の部屋に入って野崎島の汗を流そうとシャワーを使えばお湯が出ない。奥田クンがフロントに確認したところによれば、複数の部屋で一斉にお湯を使うとお湯が一時的に出なくなってしまうので、時間をずらして使って欲しいとのこと。まあこの程度のトラブルは許容範囲だ。
 さらなるトラブルは夕食後の精算である。夕食は居酒屋「潦り茶屋し喜」で提供するとのことだったので、本館1階の居酒屋に赴く。せっかくなので生ビール(500円)を注文したら、消費税法が改正され、同法63条の2の規定により、2004年(平成16年)4月1日から消費税額を含めた支払い総額を表示することが義務付けられているにもかかわらず、メニューに表示していない消費税分を請求してきた。罰則のない義務だし、黙って消費税分を支払ったが、五島灘酒造という税金には敏感であるべきの酒造業者が経営母体であるにもかかわらず、漫然とこのような対応をしているのだから呆れたものだ。
 そして極めつけは宿泊料として6,500円を請求してきたことだ。1泊2食付き6,000円という約束で予約したにもかかわらず、一方的に500円を加算されるのは納得がいかない。抗議をすると先程の支配人が再び登場する。
「シングルは1泊2食付きで6,500円になっています」
「電話で予約したときは6,000円と言いましたよね」
「それは3人同室のときの話で、シングルは6,500円です。シングルで納得されましたよね」
チェックインのときは3人同室の話を聞いていないと言い張ったくせに、今度は一転して3人同室のときの話だと平然と言い切る。
「3人同室の話と言うなら予約時にきちんと同室の希望を伝えていたということですよね。やっぱりそちらのミスじゃないですか!」
結局、本日2度目の押し問答により、宿泊料は1泊2食付き6,000円で落ち着いた。経済的な損失はなかったものの、最終日の一夜は極めて不愉快なものになった。

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