暮らしの気付き

第101日 小値賀−小値賀

2009年8月7日(金) 参加者:奥田・島雄・横井

第101日行程  「民宿田登美」で6時30分に用意してもらった朝食を食べ終えると、荷物を預けたまま笛吹港へ向かう。小値賀諸島は、平戸諸島に属し、大小17の島と2つの石礁から構成されているが、そのうち数少ない有人島である大島が本日最初の目的地。大島へは笛吹港から町営船「第3はまゆう」が1日4往復しているが、朝2往復、昼1往復、夕方1往復というダイヤになっているため、効率的に大島を訪問しようとすれば、必然的に朝2往復を利用するしかない。
 高速船やフェリーが発着する小値賀フェリーターミナルとは異なり、町営船は笛吹漁港の外れにある桟橋から発着している。桟橋の前には立派な離島待合所があり、地元の人達の社交場と化しているよう。我々は早々に桟橋に係留されていた「第3はまゆう」に乗り込み出航を待つ。総トン数19トン、定員60名の小型船ながらも、「第3はまゆう」には桟敷席が設けられており、私と横井クンは桟敷席に陣取る。横井クンは朝が早いこともあってか、早々に横になって眠ってしまった。
 「第3はまゆう」は6時50分に笛吹港を出航。船員から往復乗船券を購入すると540円。大島から往復乗船券を購入すると往復割引が適用されて520円となる。離島航路ではよくあるパターンだが、片道10円の恩恵では島民への還元も限られている。
 小値賀島の南西には小島が点在しており、船内から乙子島(おとごじま)、古路島(ころじま)、藪路木島(やぶろぎじま)、宇々島(ううじま)といった難読島名の無人島を眺める。もっとも、藪路木島は、昭和30年代には人口150人を超える島であったが、高度経済成長の波により人口が減り続け、1972年(昭和47年)に無人島になった。藪路木島には、天保年間(1830年〜1844年)に小値賀諸島の西部に位置する美良島と倉島を没収するという役人の通達に対して、命を賭して異議を唱えて島を守ったという中山四右衛門の碑が残されているというが、誰も訪れなくなった記念碑はどのような状態になっているのだろうか。
 大島へは笛吹から10分ほどで到着。面積0.71平方キロ、周囲7.8キロの大島には、島内の至るところに巨大火山弾が散見され、県天然記念物になっているとのこと。火山弾とは、流動性に富んだ玄武岩質のマグマが火口から空中に飛ばされ、飛行中に様々な形になって固まったものである。大島では、火山弾が唯一の観光資源であるようだ。桟橋の近くにも大きめの火山弾が2個並んでいる。
 「第3はまゆう」はすぐに笛吹に戻った後、野崎島を往復してから再び大島へやって来る。第3便の出航時刻が8時50分であることを船員に確認してから大島散策に出掛ける。
 大島の玄関口である大島桟橋の前には「自力更生」という石碑が建っている。大島では、1732年(享保17年)に発生した享保の大飢饉をきっかけに島内の貧困な家族を近くの宇々島へ移住させ、税金や賦役をすべて免除して生活の更正を図らせたる制度が確立していたという。宇々島へ移住させられた家族は概ね2〜3年で立ち直り、大島へ戻って来たとのことから、自立更正の島を名乗っているのだ。この制度は、1963年(昭和38年)まで続いていたとのことで、戦後、高度経済成長期の傍らでこのような制度が行われていたとは驚きだ。
 大島の集落の外れにある神嶋神社を経て、小値賀小学校大島分校にたどり着くと、こちらも正門の脇に大きな火山弾が置いてある。夏休み中なので小学校には人気がないが、小値賀諸島の属島で唯一残る小学校だ。わずかに人口100人程度の大島だが、小学校が残っているということは、それだけ若い世代が大島に定着しているということだろう。小学校に設置してあるスピーカーから島内放送が流れるが、方言混じりの日常会話のようなアナウンスなので、さっぱり内容が理解できない。
 宇々島を左手に眺めながら大島南部へと続く道をたどる。道端には沢蟹の姿があり、珍しい人間の姿に驚いている様子。沢蟹はきれいな水の指標生物となっているので、大島の水質環境が恵まれていることがわかる。
 大島南部には一面に畑が広がり、漁業だけではなく、農業も盛んな島であることがわかる。もっとも、この周辺は、国内農業の体質強化のために実施されたウルグアイ・ラウンド農業合意関連対策の農業農村整備事業の一環として、巨額の税金を投資して整備された地域であるらしい。畑の前には、その旨を紹介する解説板が掲げられていたが、どれだけの人がこの解説に目を通すのであろうか。
 8時40分過ぎに「第3はまゆう」が大島桟橋に戻って来た。我々が大島へやって来た第1便とは異なり、かなりの下船客がある。驚いたのは法衣をまとった僧侶が大島に降り立ったとことで、大島は仏教の島であったのかと気付く。平戸諸島や五島列島は、隠れキリシタンのイメージが強いので、この地域に住む人はほとんどがキリスト教徒かと思っていたが、今回の旅ではまだ天主堂を眺めていない。小値賀諸島は意外にも仏教が盛んな島であるようだ。
 笛吹桟橋に戻ると福崎モータースの職員2人が待っていた。昨日、「民宿田登美」で小値賀島にもレンタカーがあることを教えてもらい、大島で「第3はまゆう」を待っている間に電話予約をすると、桟橋まで配車してもらえるとの返事だったのだ。その場で1日ガソリン代込み3,000円という破格の料金を支払い、ダイハツのムーヴを借り受ける。
「返却するときは、この場所に停めておいてもらえれば結構です」
宇久島と同様にのどかな土地柄だ。
 レンタカーで笛吹本通りを進み、「民宿田登美」に立ち寄って預けておいた荷物を回収する。島雄クンは持参した水筒にお茶をもらってきた。その都度、飲み物を購入していては不経済だし、なかなかしっかりとしている。
 小値賀郵便局の向かいに無料の駐車場があったので、レンタカーを駐車してまずは旅行貯金。小値賀には郵便局がひとつしかないので、必然的に本日最初で最後の旅行貯金となる。そのままの足で9時に開館したばかりの小値賀町歴史民俗資料館へ向かう。
 小値賀町歴史民俗資料館は、小値賀の実業家である小田家の屋敷跡を利用して、1989年(平成元年)に開館した。小田家はもともと壱岐の八幡浦から捕鯨業を営むために小値賀に移住したが、その後、酒造業や廻船業などへ事業を拡大し、豪商として小値賀の発展に貢献したという。玄関で100円の入館料を支払って母屋へ。小田家の歴代当主のパネルが並んでおり、歴史民俗資料館となった屋敷も小田家が小値賀町を去るときに、小値賀町に寄付したものであるとの解説があり、小田家が退去の際にそのまま残したのではないかと思われる調度品などもそのまま展示品になっているようであった。屋敷に隣接して新館も整備されており、こちらは一般的な博物館のような装いだ。明日訪問する予定の野崎島のプロモーションビデオも流れていたのでしばらく見入る。足が頼りの健脚コースであることは覚悟のうえだが、なかなか標高差があって大変そうだ。 奥田クンが「島ばたけ」という歴史民俗資料館発行の小値賀島ガイドブックを300円で購入。試しに見せてもらったら、全22頁のカラー刷りだが、原稿は手書きという手作り感のある冊子。地図やお店の情報なども充実していたので、私も1冊購入した。
 駐車場に戻ると10時で、ようやく本格的な小値賀島めぐりが始まる。小値賀町役場前から小値賀島循環の県道161号線に入り、海沿いをしばらく走る。笛吹集落を抜けると道幅も広がり走りやすい。右手には船瀬海水浴場が広がるが、夏休みだというのに海水浴客の姿はない。シャワー、トイレ、ビーチバレーコートも整備されているというのにもったいないことだ。
 笛吹から10分ほどレンタカーを走らせて、最初のポイントである赤浜海岸公園に到着。ここにも先客は誰もおらず、「蒼い海 紅い砂 緑の松 赤浜海岸公園」という看板が侘しい。駐車場は高台にあり、展望所からは海を見渡せるが、肝心の赤浜海岸の姿は見えない。雑草に覆われた海岸へ下る遊歩道があり、その脇には草スキー場があった。島雄クンが傍らにあったソリを使って滑走を試みるが、芝生の手入れが悪いのでちっとも滑走できない。諦めて歩いて下る島雄クンを横目に、奥田クンを乗せたソリを引っ張りながら横井クンが勢いよく駆け降りていく。
 草スキー場のゲレンデが途切れたところで赤浜海岸がようやく顔を出し、赤茶色の砂浜が確認できる。
「どうして赤い砂浜なのだろう」
島雄クンの疑問に奥田クンが明快に答える。
「小値賀も火山島だからでしょう」
確かに赤浜海岸の砂浜は、火山活動の影響で、酸化鉄を多く含んでいるため赤色になっているのだ。かつては「あずき浜」と呼ばれていたとか。
 赤浜海岸公園を後にし、小値賀島の南東に位置する殿崎を目指す。殿崎には1985年(昭和60年)に開港した小値賀空港があり、全盛期にはオリエンタルエアブリッジが福岡空港便と長崎空港便を就航していたが、船便との競合もあって、2004年(平成16年)3月に福岡空港便を廃止。次いで2006年(平成18年)3月の長崎空港便の廃止をもって小値賀空港を発着する旅客機はなくなり、小値賀空港も閉鎖されてしまった。滑走路を確保するために海上の一部を埋め立てて完成した念願の空港であったはずだが、わずか21年で歴史に幕を閉じた。
 閉鎖された空港の滑走路をトンネルで潜り抜け、しばらく滑走路沿いの道を進む。やがて殿崎鼻らしき場所に出たが、工事用資材の置き場になっていたのですぐにUターン。空港ターミナルを眺めて殿崎を後にする。
 予定では小値賀島北東に位置する唐見崎へ向かう予定であったが、道を間違えてしまったため、前後の行程を入れ替えて先に愛宕岳を目指す。県道161号線沿いの牛渡集落で愛宕園地の標識を見付け、車1台がやっと通れる細い道路を北上する。やがて急勾配となり、ダイハツのムーヴも悲鳴を上げる。大人4人を乗せて坂道を登るには、軽自動車では馬力不足になる。それでもモーター音をうならせながら、なんとか標高89.7メートルの愛宕園地に到着する。全体的に平らで窪地が多い小値賀島では、標高89.7メートルでも視界を遮るものはなく、小値賀島周辺を一望できるとのことだったが、昨日の宇久島の城ヶ岳に引き続き濃霧に視界を遮られる。
 小値賀島で最も高い標高111.3メートルの本城岳の裾野を通って唐見崎へ。愛宕岳に登って本城岳を無視するのは、単に本城岳に道路どころか遊歩道すら整備されていないという理由に過ぎない。本城岳には松浦水軍の城跡が残っているらしいが、本格的な調査は行われていないので、素人調査でも何か歴史的な発見ができるかもしれない。
 大和朝廷の時代(3世紀から6世紀中頃)に朝鮮半島南部にあった加羅を見張っていた場所であったことから名付けられた唐見崎は静かな漁村で、かつての軍事的な要所であった面影はない。ぐるりと集落を一周して唐見崎を後にする。
 再び牛渡集落を通り過ぎ、かつて小値賀島が東西に分かれていた名残りである用水路を渡る。もともと小値賀島は相津を中心とする東島と笛吹を中心とする西島に分かれていたが、鎌倉時代に平戸の松浦氏が海峡の埋め立て工事を開始。1334年(建武元年)に埋め立て工事は完了し、海峡は水田と化したことから一帯は建武水田と呼ばれている。
長崎鼻  納島への連絡船が発着する柳を経て長崎鼻へ。長崎鼻一帯は放牧が行われており、牛が逃げないようにゲートが設けられていた。ゲートを通り抜けて牧草地帯に足を踏み入れる。牧草をむさぼっている牛が胡散臭そうにこちらを眺めている。こちらへ向かってくるのではないかと身構えたが、我々が危害を加えることがないと判断してもらえたのか、再び牧草を食べ始めた。
 牛の落し物が散乱しているので足元に注意をしながら歩を進め、岩場の断崖に立つ。愛宕園地での霧はすっかり晴れて、遠浅の海原が目の前に広がる。小値賀島では一番の眺めと言っていいだろう。午後から渡る予定の納島もはっきりと確認できる。夏の日差しは強いが爽やかな風が心地良い。慌ただしく小値賀島をまわって来たが、しばらく時が流れるのを忘れてのんびりと過ごす。
 長崎鼻で30分近く過ごして斑島へ。小値賀島は標識がわかりにくく、今度も斑島へ続く県道225号線との分岐路を見落として笛吹方面へ行き過ぎたりしてしまう。県道225号線に入ってしばらく走ると速度制限25キロの表示があり、斑島へ渡るための斑大橋で大規模な塗装工事のため片側通行の規制が行われていた。斑大橋は1978年(昭和53年)10月に開通し、既に30年以上の年月が経過している。潮風にさらされているため、メンテナンスも大変であろう。
 斑島は、面積1.57平方キロ、周囲5.6キロの海底火山によって誕生した島である。島内のあちらこちらに窪地があるから斑島と名付けられたとの説もある。約250人の島民が生活しており、2007年(平成19年)3月までは、島内に斑小学校が存在していたが、児童数の減少により小値賀小学校に統合されてしまった。
 斑漁港を通り抜けて、たどり着いたのは王石鼻。ここには日本で最大、世界でも2番目の大きさと言われる巨大な玉石甌穴(おうけつ)があるのだ。別名、ポットポールとも呼ばれており、国の天然記念物にも指定されている。
玉石甌穴  海辺の岩場に「天然記念物玉石甌穴」という石碑が建っており、どこに玉石甌穴があるのかと見回せば、玉石甌穴がある場所に矢印が付いている。玄武岩の裂け目をのぞき込めば、直径50センチほどの玉石が収まっていた。岩場に流れ込む海水によって玉石が回転し、摩耗によって球状を形成したものである。もっとも、想像していたほど厳密な球状ではなかったので、少々拍子抜けしたが、自然の摂理で形成されたことを鑑みればやはり神秘的である。斑島では黒光りする玉石甌穴を「玉石様」と呼び、信仰の対象にしているそうだ。
 「まだら夕やけロード」と呼ばれる斑島の循環道路で一周。斑灯台を眺めてから、最後に標高126.3メートルの金比羅岳にある斑園地に立ち寄る。斑園地からは眼下に大島や藪路木島が広がると歴史民俗資料館で買い求めた「島ばたけ」には紹介されていたが、実際には樹木が生い茂り視界を遮る。芝生広場などは丁寧に手入れがされているのにもったいない。景色が楽しめなければ長居は無用だ。
 斑園地からの帰路もやはり道に迷い、斑集落の狭い路地に迷い込む。電動車椅子のおじいさんとの行き違いに苦慮したりしながら、なんとか漁港に出ることができた。再び斑大橋を渡って小値賀島に戻る。
 このまま笛吹に戻ればめでたく小値賀島一周だが、時間に余裕があるので中央部にある番岳にも立ち寄ってみる。愛宕岳と同じように急勾配の坂道を登っていくと番岳園地で、戦没者慰霊碑が建っている。慰霊碑の石板には、小値賀出身の戦没者名が刻まれており、毎年4月5日に慰霊祭が行われているらしい。慰霊碑前にある広場からは、笛吹集落を見下ろすようになっている。いつまでも戦没者が故郷を見渡せる場所を選んで慰霊碑を建てたのであろう。さすがに視界を遮るような樹木はなかった。
 笛吹に戻り、朝と同じ郵便局向かいの駐車場にレンタカーを駐車する。時刻は12時をまわっており昼食時だ。普段なら手軽に済ませてしまうのだが、横井クンは小値賀フェリーターミナルを13時40分に出航する野母商船の「フェリー太古」で帰路に付く。わざわざ1泊2日の外周旅行に参加するために東京からやって来てくれたのだから、最後ぐらいは地元の名産を食べられる店に案内したい。事前の下調べでチェックをしておいた「ふるさと」に向かう。
 「ふるさと」は笛吹本通りから西へ入った路地に位置していたので、あらかじめ場所を確認しておかなければ気が付かない。それでも店内には座敷からカウンターまで大勢の常連客が占めており大盛況。かろうじて空いていた座敷の片隅に落ち着く。私と奥田クン、島雄クンが注文したのは地元の新鮮な魚を使った「刺身定食」(1,050円)だ。その日に入手できた旬の地魚をさばくので、ネタはその日によって異なるという。今日の刺身はイサキとのこと。昨夜の「民宿田登美」でもイサキの刺身が出たし、小値賀島ではイサキが特産品なのであろう。注文して5分も経たないうちに「刺身定食」が運ばれてくる。料亭のように繊細な盛り付けではなく、漁師が料理したような大雑把にさばかれた刺身が無造作に盛り付けられているが、ボリュームはありそうだ。ご飯の炊き方も少々ベタベタしておりいまいちだけど、濃厚な出汁の味噌汁は文句なく美味く、地魚を安くたくさん食べさせてくれる店としては申し分ない。横井クンは、五島牛を食べたいと言って、「ステーキ定食」(1,350円)と単品で「刺身」(800円)を注文した。「刺身」は定食と同じイサキだったけど、さすがに五島牛のステーキはボリューム的には物足りなさを感じる。それでも横井クンはとろけるような舌触りが何とも言えないと大絶賛していた。横井クンに小値賀の味覚を堪能してもらえて何よりだ。
 「ふるさと」で素早く食事が提供されたので時間に余裕が生まれ、フェリーターミナルへ向かう前にアワビ館に寄り道することができた。小値賀はかつてアワビの漁獲高が日本一になったことがあり、アワビ館はそれを記念して建設されたという。1階は売店とミニ水族館、2階はアワビの歴史展示館になっており、入館料は無料。2階の歴史展示館では、アワビを利用した料理のサンプルが並べられており、食欲をそそられる。これを見せられて売店でアワビを手にした観光客も多いのではなかろうか。館内には至る所にプロレスラーの佐々木健介と北斗晶一家の写真が飾られている。2005年(平成17年)11月3日に小値賀町総合体育館で「燃えよ島魂!Theおぢか祭り2005」と題してプロレスを開催。特別ゲストとして佐々木健介と北斗晶を招いたそうだ。
 昨日、高速船「えれがんと1号」で到着した小値賀フェリーターミナルへ横井クンを送り届ける。フェリーターミナルは、博多港行きの「フェリー太古」を待つ乗船客で賑わっている。「フェリー太古」は13時40分に小値賀を出航し、宇久平に立ち寄った後、博多に18時55分に到着する予定だ。「フェリー太古」は総トン数1,272トン、定員350名の大型船で、船内にはラウンジやゲームコーナー、シャワールームなども完備されている。貨物船上がりのような「フェリーなるしお」とは比較にならず、博多港までの航海は快適なものになろう。
 総勢3名となって小値賀フェリーターミナルを後にし、小値賀島北部にある柳へ向かう。柳桟橋から小値賀島の北側に浮かぶ納島への連絡船が発着しているのだ。笛吹本通りを走り抜けると、南から北松西高校、小値賀小学校、小値賀中学校という順序で学校が並んでいる。島内のすべての集落からの通学の利便性を考えれば、島の中央部に学校を設置するのが当然の道理となるのであろう。
 学校街を抜けると道路の左右には立派なクロマツが並ぶ。1675年(延宝3年)に植林されたと伝えられる姫の松原だ。わずか450メートルに過ぎないが、松林の中にまっすぐ続く道路を走るドライブは爽快。松林の中に突如、「牛に注意」という牛のマークの標識が現れる。放牧されている牛が松林に迷い込み、道路に飛び出して来ることがあるのだろう。
 柳桟橋は集落から外れたひっそりとした場所に位置していた。集落は漁港に面して形成されるのが一般的だが、柳に関しては集落の裏手のような場所にあり、柳は漁業よりも農業が産業の中心なのかもしれない。桟橋の時刻表には、これから乗船する小値賀町営船「さいかい」の他に佐世保市営船「第3みつしま」の記載もあり、昨日、宇久島の神浦から寺島を往復した「第3みつしま」が1日4往復、柳まで遠征していることがわかる。
 柳桟橋に停泊していた「さいかい」は総トン数14トン、定員30名と「第3はまゆう」よりも更にひとまわり小さい。天候は良いが、風が強いので予定通り出航するのか不安があったが、14時過ぎにどこからともなく船員が現れてエンジンを掛けた。買い物を済ませて納島へ戻る島民の姿もちらほら。納島までの所要時間はわずかに7分なので、我々は船室には入らず、後部デッキで過ごすことにする。島へ運ぶ荷物が積み込まれているが、ビールや日本酒の類が多いのは気のせいか。
 定刻の14時20分に「さいかい」は柳桟橋を出航したものの、直後に原付バイクのおばちゃんが桟橋に現れたので引き返す。
「あれ〜これ20分発?誰かが40分発って言うもんだからさ。これ持ってって」
おばちゃんはそう言うと日本酒の一升瓶2本を船員に差し出す。注文を受けた酒屋が連絡船の時刻に合わせて桟橋に商品を届けているようだ。
 船内で片道210円の乗船券を購入するともう納島が目の前に迫っている。一旦、桟橋に引き返したにもかかわらず、納島には定刻の14時27分に到着。遅れが目立った「第3みつしま」とは対照的だ。
 納島桟橋ではアコウの大樹が出迎えてくれた。納島はアコウ自生北限のひとつとのこと。大きく傾いた幹を支えるためにわざわざ石垣を築いている。それだけ島民がこのアコウの大樹を大切にしているということであろう。せっかくだから写真に収めようと肩掛けカバンを探ればカメラが見当たらない。柳桟橋に駐車したレンタカーの中に置き忘れたようで大失敗。島雄クンの携帯電話のカメラを代用して撮影を済ませる。
 納島は、面積5.2平方キロ、周囲0.60キロの小さな島で、平家落人伝承があり、小値賀島の本城岳まで海底トンネルが通じていたなどという噂まであるが信憑性に欠ける。島内を一周する道路はなく、納島漁港から放射状に島内各地へ道路が延びている。納島北部の海底からは、元寇の時、元軍が使用した碇石が発見されたこともあり、とりあえず納島北岸に挨拶しておこう。
 納島集落を抜けると一面には落花生畑が広がる。納島は落花生の産地で、味は千葉県産に勝るとも劣らないと奥田クンが解説してくれる。落花生が売っていれば手にしてみたいところだが、残念ながら納島には商店が1軒も存在しない。小値賀島の食料品店でも入手できるらしいのだが、落花生の収穫時期である8月下旬にはまだ早いためか店頭で見掛けた記憶はない。
 落花生畑を抜けると城壁のような石垣があり、ゲートを抜けると雑草が生い茂っている。まるで古代ヨーロッパの要塞のような造りだ。潮風による煙害から畑を守るために築造したのだろうか。それにしては大掛かりで、この近く元軍の碇石が発見されたことを鑑みると、納島にも元寇防塁が築かれていたのではなかろうか。防塁と言えば博多湾沿岸が有名であるが、長崎県内でも数多くの防塁が発見されているという。
納島  雑草地帯を進むのはためらわれ、少し引き返してから別の道を進むと岩場の海岸に出ることができた。かつては岩場をコンクリートで整備して遊歩道が設けられていたと思うが、荒波でコンクリートは打ち砕かれ、現在は無残な姿になっている。目の前にはハダカ瀬が広がり、元軍の碇石が発見されたのもハダカ瀬の辺りだという。その先には宇久島が横たわり、寺島も確認することができた。東側に明日訪問する野崎島も姿を見せたが、野崎島最高峰の二半岳付近には霧がかかっている。
「あの霧だと野崎島は雨だよ。山登りなんてできる環境じゃない」
奥田クンが仕切りに予防線を張る。午前中の歴史民俗博物館で野崎島のプロモーションビデオを見て、野崎島のトレッキングコースに恐れをなしたようだ。
 桟橋に戻ると16時の出航時刻まで時間があるので、アコウの大樹の木陰で休憩。風があるので日陰なら過ごしやすい。島雄クンが「民宿田登美」のおやじに聞いた話を聞かせてくれる。納島には強欲な地主がいて、悪政を尽くしたので、島民のまとまりがなく、怠け者が多いという。しかし、納島の人口はここ20年間で3分の1に減少し、現在は30人程度。丹念に手入れのされている落花生畑を眺める限りでは、納島に残る島民に怠け者はいないと感じた。
 16時発の「さいかい」で柳に戻り、レンタカーの車内で無事にカメラを発見。しっかりとカバンに収めてから出発する。再び姫の松原を通り抜けて笛吹へ。斑島同様に小値賀島と陸続きになっている黒島が本日最後のポイントだ。
 金比羅大橋を渡れば、本日4島目となる黒島に上陸。坂道を登って黒島中央部にある黒島園地に足を記す。小値賀では至る所に「園地」と名付けられた広場を見掛けるが、管理が十分に行き届いていないのが問題。黒島園地もしばらく人が足を踏み入れたことがないのではないかと疑いたくなる状況で、雑草も伸び放題で、蜘蛛の巣が行く手を阻んだりする。それでも階段を登り切り、石垣で造られた展望台に到着。笛吹漁港を眼下に見下ろすことができる。
 金比羅神社の小さな社に挨拶してからレンタカーに戻り、島雄クンに車のキーを手渡す。ペーパードライバーで3年はハンドルを握っていないという島雄クンだが、せっかくのオートマチック車両なので、練習がてら少しは運転してもらおう。島雄クンは慎重にアクセルを踏み、ゆっくりと坂道を下っていく。
 黒島漁港に面した若宮神社に立ち寄り、奥田クンの案内で神ノ崎遺跡を目指す。「島はばたけ」で紹介されている遺跡で、弥生時代前期から古墳時代にかけて造られた古墳時代の墳墓群が黒島には存在し、小値賀の西島を支配していた女王の墓が残っているという。しかしながら、地図に神ノ崎遺跡と示された付近を訪ね歩くが、さっぱり遺跡らしき場所にたどり着かない。1982年(昭和57年)の道路工事の際に発掘された神ノ崎遺跡は、まだ発掘調査が進んでいないというし、観光客に公開するような状況でないのかもしれない。次第に億劫になって、笛吹に戻ることにする。
 笛吹桟橋にレンタカーを駐車して、今宵の宿となる「民宿鈴の屋」へ向かう。時刻は17時過ぎで、外周旅行としては珍しく早い宿入りだ。島雄クンは近くに泳げるところがあれば海水浴に挑むつもりだったようだが、あいにく笛吹には海水浴場がない。
 ピンクとグリーンの奇抜な塗装の「民宿鈴の屋」は、笛吹桟橋から徒歩5分の距離。笛吹本通りから外れた路地に位置するので、誰でも目に付くように奇抜な塗装にしたらしい。到着すると既に食事の準備ができているとのことだったが、さすがに早過ぎるので先に風呂で汗を流す。夕食には定番のイサキの刺身にサザエの壺焼き、煮込みハンバーグが並ぶ。
「ここ数日は時化で漁が全然できないから申し訳ない。よかったらこれもどうぞ」
民宿の女将さんは、夕食にアワビの肝の塩辛をおまけしてくれたうえ、予約時には必要と言っていた500円の冷房代は請求されず、1泊2食付きで6,300円。昨日の「民宿田登美」は税込み6,000円だったので、消費税分だけ高いが、食事はそれ以上に充実していた。

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