スーパービジネスマンに向けた最新ニュース

第97日 生月−鹿町

2008年8月10日(日) 参加者:奥田・福井

第97日行程  生月島の壱部浦にある「御宿えびす屋」に1泊2食付き税込み7,000円で予約したはずであったが、請求金額は1人あたり7,350円となっている。オール込み7,000円のはずではなかったかと抗議するが、5パーセント分は消費税ではなく、サービス料とのこと。7,000円というのはオール込みではなく、税込み料金のことだという。別に350円が惜しいわけではないが、宿のホームページにもサービス料のことには一切記述がなく、騙されたようで気分が悪い。「予約時にオール込みですね」と念押しをしていたのだから尚更だ。生月島を再訪してもこの宿に二度と泊まることはあるまい。
 今日は平戸島の根獅子地区にある切支丹資料館を見学したいので、開館時刻の9時までに資料館へ到着すればよい。それまで生月島でも平戸島でも適当なところへドライブして時間を調整すればよいが、まずは昨日見落としただんじく様へ行ってみることにする。福井クンにハンドルを預け、旅館から県道42号線を北上して、再びサンセットウェイという農道へ入る。今度は慎重に地図をチェックしながら進む。唯一のトンネルを抜けて、しばらくすると「だんじく様」と記された標識を見付けて、細い脇道へ入る。だんじく様へ続く遊歩道の入口にレンタカーを停めて、しばらく誰も歩いていないのではないだろうかと思われる遊歩道を進むと岩場の海岸へ降り立った。
 ここも昨日のガスパル様と同様にキリシタンの殉教地ではないだとうかという察しは付く。旧生月町教育委員会の解説によれば、1645年(正保2年)に平戸藩の押役というキリシタンを取り締まる役人に追われた弥市兵衛と妻マリア、子ジュアンが、断崖の下のだんじく(だん竹)の繁みに身を隠していたが、子ジュアンが磯に遊びに出たところを海上から監視していた役人に発見され、一家3人が殉教したという。現在でも旧歴1月16日の命日には、信者が集まって祈りを捧げているとのことだ。旧暦の1月16日と言えば現在の2月10日にあたる。一家が潜伏していたのは真冬であったろうし、この場で冬の波風をしのぐことですら大変な境遇であっただろう。
 だんじく様で生月島観光を打ち切り、平戸島へ戻る。カーラジオで高校野球の実況中継を聞こうとするが、ハングル語の雑音が邪魔をする。対馬や五島列島ほどではないが、ここも韓国に近い。しばらくカーラジオと格闘したが、諦めてスイッチを切る。
 切支丹資料館には開館時刻の15分前に到着。職員がいれば、多少早めでも見学させてもらえるのではないかと期待したが、資料館に人の気配はない。やむを得ず、周辺を散策して9時まで時間を潰す。
 この根獅子地区においても1635年(寛永12年)に70余名が根獅子の海岸で処刑されている。遺体は資料館の隣の林に葬り、「うちわきさま(おろくにんさま)」と称して聖地化しているのは生月島と同じだ。殉教者の祠や旧根獅子小学校の跡地を利用したキャンプ場などをぶらぶらして、9時に資料館前へ戻る。ところが5分を過ぎても資料館には誰も現れない。定休日は水曜日となっているので、木曜日の今日は開館日のはずであるが、臨時休館なのだろうか。資料館には特段の張り紙もなく、既に施設営業を取りやめてしまったのかもしれない。時間の都合でいつまでも待つわけにはいかないので、やむを得ず先に進むことにする。
 再びレンタカーで平戸島を南下。飯良、堤といった観光とは無縁な小さな集落を経由していく。集落のある場所は決まって入り江と小さな漁港があるのが特徴だ。畑もあるが、やはり漁業が中心の島である。中津良町で国道383号線に出て、道路事情が良くなったのも束の間、標高394メートルの屏風岳を取り巻く細い農道に入り込む。屏風岳の山頂には、太平洋戦争中に敵機の襲来を見張るための防空監視哨が設置されていたらしい。陸の孤島のような早福の集落を経て屏風岳の周囲を一周。志々伎湾を右手に望みながら平戸島の最南端に位置する宮ノ浦に到着した。
宮ノ浦  宮ノ浦は橋で結ばれた日本最西端の地に当たる。宮ノ浦漁港には「橋で結ばれた日本最西端の港」というキャッチフレーズが付けられている。漁港のすぐ向かいには、沖ノ島とオイトク島という2つの小島がぽっかり浮かんでおり、いずれの島も波止で結ばれて陸続きになっている。せっかくなので、レンタカーから降りて、鳥居が見えた沖ノ島へ渡ってみた。鳥居の正体は、志自岐神社の沖の宮で、沖の宮社叢は1974年(昭和49年)3月5日に長崎県の天然記念物に指定されている。昔から神域として人の手が入らなかったため、平戸南部の低地の自然林の原型が残っているようだ。
 さて、沖ノ島のさらに沖合1.5キロ程のところに高島という人口40人程度の島がある。野子小中学校高島分校という学校もある立派な島だが、外周の旅での扱いは少々厄介だ。高島は2002年(平成14年)に島民が集団移住を平戸市に談判した島でもあり、島民は平戸本土に居住地の確保と移住に伴う補償を平戸市に求めた。しかし、平戸市は定期船の就航を条件に島民の要求を拒絶。平戸市は宮ノ浦の瀬渡し業者と定期航路の委託契約を締結したが、平日の朝夕2往復というローカルダイヤに加えて、わずか5分の距離の乗船料が片道2,000円という法外な設定。しかも、宮ノ浦には乗船場があるわけでもなく、毎月業務委託を受けた瀬渡し業者の船が係留されている場所へ直接出向かなければならない。事実上の瀬渡し船に過ぎないし、往復4,000円の乗船料と1日という時間を高島に費やす気にもなれず、高島訪問は見合わせることにした。
 宮ノ浦でドライバーは福井クンから奥田クンに交替。しばらくは宮ノ浦へたどった道をひたすら引き返す。今度は左手に志々伎湾が広がる。志々伎湾は大きな入江になっているので波も穏やかだ。
 津吉で国道383号線と別れ、平戸島東岸で最も大きな漁港である前津吉港へ。前津吉からは佐世保への連絡船が1日4往復就航している。連絡船の待合所を兼ねる前津吉インフォメーションをのぞいてみると、佐世保からの連絡船が到着したばかりのようで活気がある。津吉商船の「コバルト21」は、総トン数19トンと思ったより小ぶりな連絡船だが、集落の規模を考えれば十分な大きさであろう。
 前津吉からは平戸島の東岸を北上する。前津吉から隣の船木までは道路幅も広く、快調であったが、やがて蛇行した細い山道になる。次の大川原の集落に入ると道路は広くなるが、集落を抜けてしまうと次の集落まではまた蛇行した山道となる。しばらく同じような状況が続き、平戸島の中部に位置する紐差で再び国道383号線と合流した。
 紐差では平戸島で最大の信徒を抱える紐差教会へ。白亜のロマネスク様式の教会堂は、教会設計で有名な鉄川与助によって1929年(昭和4年)に竣工した。鉄筋コンクリート製の大きな教会堂で、長崎の旧浦上天主堂が原子爆弾で破壊された後の一時期は、この教会堂が日本最大規模のものであったという。22段の階段を登り、教会内部へ入ってみれば、ステンドグラス越しに入って来る光が幻想的な世界を演出する。礼拝空間が2階に設けられているのも珍しい。
 紐差教会は、1880年(明治13年)に布教目的で平戸にやって来たペルー神父が、紐差近くの田崎に聖堂を建てたのが始まりという。その後、1885年(明治18年)に着任したラゲ神父が会と司祭館を紐差に移転し、マタラ神父によって1888年(明治21年)に初代の紐差教会堂が完成したという。現在の教会堂は2代目となるが、初代の教会堂は、馬渡島に移築されている。一昨年に馬渡島へ泊まった際、あいにくの雨で訪問を断念してしまった教会だ。
 教会の敷地内にあるファチマの聖母や十字架山を眺めて、紐差教会を後にする。ここからは国道383号線が東海岸をたどってくれるので、レンタカーでの移動がスムーズになる。この辺りまで来ると交通量もにわかに多くなってくる。
 千里ヶ浜を望む「ホテル蘭風」に到着したのはちょうど正午。ホテルで平戸の幸を楽しむというのであれば優雅であるが、我々が向かったのは西九州最大の露天風呂と宣伝する千里ヶ浜温泉だ。昨日は、田の浦温泉に振られたので、今日はしっかりと温泉に入りたい。意外に広いホテルで、フロントで場所を確認して、延々と廊下を歩かされる。浴場前のカウンターで入浴料を支払う。本来ならフェイスタオル付き800円であるが、職場の福利厚生でJTBえらべる倶楽部に入会していたため、200円割引となった。
 千里ヶ浜温泉の泉質は、ナトリウム−炭酸水素塩泉で、濁り湯の露天風呂なので温泉の雰囲気が醸し出されている。体を洗ってさっぱりしてから露天風呂で旅の疲れを癒す。少々曇っているが、夏の日差しを和らげてくれるので有難い。奥田クンが階段を登って行く姿が見えたので、付いて行ってみると、2階にはガラス越しに千里ヶ浜が一望できる展望大浴場があった。
 温泉でさっぱりすると平戸島観光もいよいよ終盤に差し掛かる。次に訪れたのは35代平戸藩主松浦熈の別邸であった梅ヶ谷津偕楽園へ。ガイドブックによれば、当時の建物や庭園、熈直筆の書、茶道具などを展示してあるとのこと。ところがこれらを展示しているであろう当時の建物は無人で、何よりも保存状態が悪い。朽ち果てた木造建物は、藩主の別邸というよりも、民家の物置のようでもある。庭園も手入れがまったくされていないようで、雑草も生え放題の状態だ。見学を希望する場合は、隣接する「青柳別館梅やしき偕楽園」へ申し出るシステムのようだが、わざわざ400円の入園料を支払う価値があるとも思えず、早々に退散する。国の登録文化財とのことであるが、文化財登録制度もいい加減なものである。
 やがて平戸大橋が現れて、無事に平戸島を一周。平戸市街地にあるコスモ石油新平戸サービスステーションで今回の旅で初めて給油をする。レギュラーガソリンが21リットルで4,074円。単価は1リットルあたり194円と恐ろしく高い。軽自動車なので、それほど大きな負担とはならないが、それでも従来よりもガソリン代の負担が大きくなるのは避けられない。一刻も早く原油価格が落ち着くことを願う次第である。
 梅ヶ谷津偕楽園でしらけた気分を一転させるべく、平戸城へ向かう。昨年から何度となく眺めた平戸城は、平戸のシンボル的な存在だ。平戸城は、亀岡山という海に突き出た円い山を利用して築かれた平山城で、別名亀岡城とも呼ばれる。この地には、1599年(慶長4年)に朝鮮出兵から帰国した松浦鎮信が日ノ岳城の築城に着手したが、徳川家康への恭順を示すために1613年(慶長18年)に焼却。これにより江戸幕府から所領安堵され、松浦鎮信は平戸藩初代藩主となったが、日ノ岳城が再建されることはなかった。豊臣秀吉との親交が深かった松浦鎮信が平戸を守るための苦渋の選択だったに違いない。
 平戸に築城が再開されたのは、91年後の1704年(元禄17年)になってからである。兵学者山鹿素行の設計により1707年(宝永4年)に再建された平戸城は、平戸藩主の居城として存続したが、明治維新後の1875年(明治8年)に取り壊されてしまい、現存する平戸城は1962年(昭和37年)に復元されたものである。
 駐車場に近い北虎口門で500円の入館料を支払い、狸櫓、地蔵坂櫓を見学して天守閣へ。天守閣内部には4世紀頃に朝鮮半島から伝えられたという「環頭の太刀」や松浦藩資料や武具、隠れキリシタン資料などが展示されている。歴史に興味のある奥田クンや福井クンは熱心に展示物や資料を見入っている。天守閣の最上階からは平戸大橋や平戸市街地が一望でき、すこぶる眺めがよい。平城とはいえ、小高い山の上に建っているので、眺望がきくのだ。
 その後、見奏櫓、懐柔櫓を足早にまわり、亀岡神社で参拝を済ませると時刻は14時前。福井クンは仕事の都合でたびら平戸口14時48分発の佐世保行き松浦鉄道353Dで帰路に付くので時間が気になって来るが、欲張ってもう1箇所だけ平戸観光を盛り込みたい。レンタカーに乗り込むなり、カーナビをセットする間も惜しんで発進。目指すは天守閣からも見えた聖フランシスコ・ザビエル記念教会である。市街地の細い路地を多少右往左往しながらも、10分で教会に到着。地元の住民が聖歌の練習をしていた教会内部を見学する。
 聖フランシスコ・ザビエル記念教会は、1931年(昭和6年)に早坂久之助司教によって建てられた鉄筋コンクリート造りの教会である。その名のとおり、日本における最初のキリスト教の布教者であるイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが、鹿児島に上陸した翌年にあたる1550年(天文19年)に平戸を訪問したことに由来する。こちらも平戸の高台にあるため、平戸城と共に平戸のシンボル的な建物だ。教会の前にある聖フランシスコ・ザビエル像と一緒に写真を撮っていると、ポツリと雨が落ち始めた。
 レンタカーに戻れば雨足は強くなり、フロントガラスにも大粒の雨が叩きつける。平戸城の散策中に降られなくてよかったと話し合いながら、平戸大橋を渡り、昨年来の平戸の旅を打ち上げ。もっとも、教会から15分程のたびら平戸口駅へ着いたときには、既に雨は止み、代わりに夏の日差しが降り注いでいた。
 たびら平戸口のホームで福井クンを見送ると、奥田クンとの2人旅となる。引き続き奥田クンの運転で、国道204号線を南下する。右手に再び赤い平戸大橋の姿が現れ、我々を再び平戸へ誘うかごとくであったが、もちろん今度は平戸島へは渡らない。
 九州本土に戻って最初に訪れたのは、平戸大橋から2キロほど南に下ったところにある田平教会へ。所在地にちなんで瀬戸山天主堂とも呼ばれる。1916年(大正5年)から1918年(大正7年)にかけて建設された赤煉瓦造りの風格のある天主堂で、ロマネスク様式の教会ではあるが、紐差教会とはまた赴きが違う。しかし、天主堂の内部は色鮮やかなステンドグラスにより、幻想的な世界が広がっており、似たような風景を見たばかりだと思ったら、午前中に訪れた紐差天主堂と同じ鉄川与助による設計であった。
 次に向かったのは平戸市営のたびら昆虫自然園。前回の旅の帰りに平戸から佐世保へ向かうバスの車内から国道204号線沿いにあった「たびら昆虫自然園」の大きな看板を見掛け、如何なる施設か少々気になっていた。田平教会から細い路地を抜けるとすぐにたびら昆虫自然園である。路地に面したあまり広くはない駐車場はほぼ満車状態で、運良く入れ違いで駐車することができた。
 400円の入園料を支払うと、窓口の職員が「今、解説員が前のお客さんの案内を始めたところだから、すぐに追いかけて」と言う。
「自分たちで自由に見学するから、いいですよ」
奥田クンが解説を断るが、窓口の職員はわざわざ席を立って、解説員のところまで案内してくれる。
「専門の研究員ですか?昆虫は小さくて隠れているものが多いので、専門家でなければなかなか見付けることができないのです。だから、一般の方には解説員が園内を案内するようにしています」
 我々を案内してくれる解説員は初老の女性で小倉さん。小さな子供連れの家族3組と合流したので、少々場違いなところへ来てしまったような気がする。小倉さんは雑然とした藪のような観察ゾーンの中で昆虫を見付けては説明をしてくれる。葉や石を裏返し、小さな虫を見付けだしては、名称や特徴を説明してくれる。私は昆虫に関する知識は皆無なので、解説員が同行してくれなければ、藪の中を足早に歩いて、昆虫なんてほとんどいなかったと腹を立てて施設を後にしていただろう。カブトムシの交尾の様子などを見て、40分間の野外授業は終了した。一緒になった小学生は、昆虫の種類をいろいろ知っており、満足気な様子。将来有望な解説員になりそうだ。
 「腹が減ったので何か食べたい」という奥田クンのリクエストを受けて、「道の駅昆虫の里たびら」へ寄ってみる。道の駅ならレストランがあるかもしれない。ところが、巨大なカブトムシのモニュメントが待つ道の駅にレストランはなく、売店では、野菜や魚などが売られているものの、弁当の類は見当たらない。平戸大橋の近くにレストランがあったことは覚えているが、逆戻りするよりは先に進みたい。もう少しで江迎町の中心に入るので、コンビニエンスストアぐらいはあるだろう。奥田クンも納得したので先へ進む。5分も走れば末橘駅の近くにファミリーマートがあった。
 ファミリーマートでパンやおにぎりを購入し、駐車場に停めたレンタカーの中で昼食。時刻はもう夕方なので食べ過ぎると夕食に差し支えるので控え目にする。奥田クンはしっかり食べていたが、夕食を残すことのないよう釘を差す。今宵の宿は鹿町の海辺の民宿「海の幸」を1泊2食付き6,300円で予約している。九十九島を眺めることができる海辺の民宿で、「海の幸」というからには夕食も期待できそうだ。
 時刻は16時を過ぎている。今日の行程はすべて消化してしまったので、このまま民宿へ直行してもよかったのだが、夏の九州の日はまだ高い。明日は佐世保の相浦から10時のフェリーで九十九島の高島へ渡る予定なので、今日のうちに少しでも余計に明日の行程をこなしていた方がよさそうだ。
 民宿のある鹿町を通り抜け、佐世保市小佐々町へ入る。かつての小佐々町が平成の大合併の動きのなかで、平成18年3月31日に五島列島の宇久町と一緒に佐世保市へ編入された。もっとも、小佐々町と佐世保市の間に位置する佐々町は合併に応じなかったので、小佐々町が佐世保市の飛び地のようになっている。現在でも佐世保市は、佐々町、江迎町、鹿町との1市3町の合併に積極的で、1ヶ月前の7月4日には佐世保市・江迎町・鹿町町合併協議会を設置したが、佐々町は佐世保市への編入に抵抗を続けている。佐々町の財政が健全であるため、合併によって佐世保市の借金を負わされるのを嫌っているのであろう。
 本日最後の目的地は神崎にある日本本土最西端の地である。この地には日本本土最西端の碑なるものがあるらしい。2003年(平成15年)8月1日に訪れた下関市の毘沙ノ鼻のようなものであろうか。鉄道では平戸市のたびら平戸口がモノレールを除くと日本最西端の駅となるが、平戸市田平町よりも佐世保市小佐々町の方がわずかながら西に位置する。ちなみに松浦鉄道は内陸の吉井を経由しているため、この付近にはレールがない。
 少々迷いながら神崎漁港に到着したが、周囲を見回しても日本本土最西端の碑らしいものは見当たらない。地図をよくよく確認すると、神崎漁港からさらに南へ下ったところに日本本土最西端の碑のマークがある。漁港の手前から細い道路が南へ分かれているので、ゆっくりとレンタカーを進めると小さな駐車場に行き着いた。
日本本土最西端の碑  駐車場の先は神崎鼻公園と整備されており、まずは目的の日本本土最西端の碑を目指す。日本本土最西端の碑までの道はきちんと舗装されており、駐車場から10分とかからないうちに「日本本土最西端の地」と刻まれたモニュメントが現れた。あまりにも呆気なく到着してしまったので少々有難味に欠ける。
 神崎鼻は東経129度33分18秒、北緯33度12分51秒にあり、日本本土最西端の地を名乗っている。ところで、「日本本土」とは、どういうことであろうか。もちろん、日本を構成する北海道、本州、四国、九州の総称として「日本本土」という言葉が使われていることは理解できるが、これでは沖縄県民から「沖縄は日本本土ではないのか」とお叱りを受けそうだ。正確には九州本土最西端なのであろうが、スケールを大きく見せたいがために「日本本土」を冠記したのであろう。ちなみに本州と橋で陸続きという定義であれば、午前中に訪れた平戸島の宮ノ浦が本土最西端ということになる。  時刻は17時を過ぎた頃なので、海からの西日が容赦なく照りつける。モニュメントは岩場の海岸に設置されているため、岩場を渡りながら波打ち際まで行き、紛いものでも何でも最西端の地に足を記しておく。
 神崎鼻公園を散策していると、広場に日本列島の地図がモチーフされており、北端の稚内市宗谷岬、東端の根室市納沙布岬、南端の鹿児島県佐多町佐多岬、そして西端のここ旧小佐々町神崎鼻の位置が記されている。そして、日本地図の余白部分には、「四極交流盟約書」のレリーフがあった。四極の位置する2市2町は、1992年(平成3年)5月3日に「四極交流盟約書」を締結し、文化産業等の各分野の交流を通じて相互の友好親善を図っているとのこと。旧小佐々町が盟約書の当事者だが、佐世保市に引き継がれているのかは定かではない。旧小佐々町役場であった小佐々行政センターへ行けば、「日本本土最西端訪問証明書」を発行してもらえることを旅の後で知り、悔しい思いをした。
 民宿へ向かう前に松浦鉄道小浦駅に近いデイリーヤマザキまで遠征して飲み物や菓子類を確保。神崎鼻で外周旅行は終わりだからと明星峠越えで鹿町にある民宿「海の幸」へ向かった。

第96日目<< 第97日目 >>第98日目