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第96日 平戸−生月

2008年8月9日(土) 参加者:奥田・福井

第96日行程  例年であれば旅のアプローチとして快速「ムーンライト九州」を利用するのであるが、今年は発売日当日に自宅最寄りの円町駅のみどりの窓口へ赴いたにもかかわらず、満席で予約ができなかった。やむを得ず長崎県営交通と阪急観光バスが共同運行している長崎行き夜行高速バス「ロマン長崎」を代替手段として確保したのであるが、夜行高速バスにしても、当初は「ロマン長崎」が満席で、西日本鉄道と阪急観光バスが共同運行している福岡行きの「ムーンライト」を仮押さえし、キャンセル待ちで長崎行きが確保できた次第だ。旅行の日程が例年よりもお盆に近くなったこともあるが、それよりも原油高の影響でマイカー組が鉄道やバスに鞍替えしたことが大きな要因で、今年の夏は例年以上に公共交通機関の予約が取りづらくなっている。
 大阪駅近くの司法書士事務所で住宅ローンのための打ち合わせを済ませ、そのまま梅田の三番街高速乗り場へ向かう。バスの発車時刻は21時00分と「ムーンライト九州」よりも1時間近く早くなったので、同行者の福井クンから「間に合わないかもしれない」との連絡をもらっていた。当日になって、ギリギリになりそうだが、何とか間に合うとの連絡があったので安心していたが、発車5分前になっても福井クンの姿がない。幸いにも荷物の預け入れに時間がかかっているようなので、点呼だけ済ませて、列の最後尾に並ぶ。列がどんどん解消して、次は私の順番というところで息を切らせた福井クンが現れた。
 今夜の「ロマン長崎」は長崎県営交通の車両と乗務員が担当する。地方公共団体が運営する夜行高速バスとは珍しく、全国でも長崎県だけではなかろうか。希少価値があるものの、車両は格安ツアーバスに割り当てられるような老朽車両でよく揺れる。かつて福岡行き「ムーンライト」を利用したときは、西日本鉄道の車両であったが、とても快適だったので、福井クンには「今回をぐっすり眠れる」と明言していただけに面目がない。
 新大阪、千里ニュータウン、千里中央と乗客を拾って、中国自動車道へ。西宮名塩、淡河にも立ち寄るが乗客はなく、事前に乗客の有無がわかっているなら通過してもよさそうだが、路線バスならではの制約があるのだろう。
 山陽自動車道に入り、前方のブラウン管で映画が始まる。「踊る大捜査線THE MOVIE2レインボーブリッジを封鎖せよ!」で実写日本映画の興行記録を塗り替えた本広克行監督の「サマータイムマシン・ブルース」だ。原作が同志社大学の演劇サークル内ユニットというので親近感がある。私も福井クンも同志社大学出身だからだ。もっとも、社パーキングエリアでトイレ休憩になった時点で放送は終了。中途半端なところで放送を打ち切られて、ストーリーの続きを気にしながら眠らされる羽目になった。
 翌朝、目を覚ますとバスは既に長崎自動車道に入っており、6時頃に大村湾パーキングエリアで休憩となる。大村湾に面した高台に位置するパーキングエリアで、バスから降りると目の前に青い海が広がる。天気もよく爽やかな朝を迎えることができた。大村湾パーキングエリアを出発すると、「サマータイムマシン・ブルース」の続きが始まったものの、続きをほとんど見ることなく大村インターで下車となる。
 大村インターは市街地から3キロ少々離れており、高速バスに接続するように6時47分に大村ターミナル行き長崎県営交通の路線バスがあるのだが、高速バスが定刻の6時30分より若干早く到着したので時間を持て余す。
「時間もあるし、歩いたらええんやないか」
福井クンの提案に従い、市街地に向かって朝の散歩が始まる。高台にあるバス停から階段を下っていくとすぐに住宅街で思ったよりも開けた場所だ。JR大村線のガード下をくぐって30分も歩けば目的のマツダレンタカー大村店に到着。今回は全行程レンタカー利用の予定だが、開店が8時なので、まだ1時間近く時間がある。地図を見れば比較的近くに吉野家があるようなので朝食を採りに足を運ぶ。リニューアルされたと宣伝されている「豚生姜焼定食」(500円)を初めて食べたが、単純に値上げをしただけであまり新鮮さはない。アンケートがあったのでその旨を記載した。
 コンビニエンスストアで飲み物を補給して、マツダレンタカー大村店に戻る。ところが8時になっても、店員は現れず、8時20分頃になってようやく若い女性店員がやってきた。他に仕事があって遅れたような様子でもなく、明らかに遅刻のようだ。女性店員は遅刻しても悪びれた様子もなく、マイペースで手続きを進めるので次第にイライラしてくる。大らかな土地柄なのかもしれないが、時間単位の商売をしておきながら時間にルーズなのは大いに問題だ。結局、出発は予定よりも30分近く遅れた。
 遅れを回復すべくAZワゴンで国道34号線をひたすら北上する。前回の解散地は平戸だったので、平戸までの道中はアプローチに過ぎない。東側には先ほど「ロマン長崎」でたどった長崎自動車道が並走しているので、時間短縮のための投資も考えたが、長崎自動車道が並走しているのは大村の隣の東彼杵まで。佐世保までは内陸の武雄まで迂回して西九州自動車道を利用しなければならないため、佐世保へ急ぐには利用価値が乏しい。東彼杵からは国道205号線に入り,JR大村線と交錯しながら佐世保を目指す。昨夜、福岡入りして、今朝、福岡から高速バスで佐世保入りした奥田クンから連絡が入るが、佐世保到着は大幅に遅れそうだと福井クンから伝えてもらう。
 出発が遅れた30分をそのまま持ち越して9時30分に佐世保駅前に到着。無事に奥田クンをピックアップして平戸を目指す。佐世保から平戸までは国道204号線利用がベストと考えていたのであるが、カーナビが途中の中里の手前で右折を指示するので、それに従うと県道40号佐世保吉井松浦線に入り、全長1,667メートルの妙観寺トンネルを抜けて吉井町へ出た。国道204号線のバイパスだったようで、大幅に時間が短縮される。
 今日の予定は平戸桟橋から度島(たくしま)へ渡るのであるが、度島行きのフェリーの出航時刻は11時30分。時間に余裕があったので、本州最西端の駅となる松浦鉄道のたびら平戸口駅へ立ち寄る。昨年も松浦鉄道で降り立ったが、営業時間外であったため、併設されている鉄道資料館を見学できなかったのだ。個人的には松浦鉄道の初乗りにやってきた1996年(平成8年)2月26日に見学済みであったが、外周旅行として本州最西端の駅には敬意を表しておきたかった。
 昨年に続いて改めて本州最西端の駅名標の前で記念撮影をし、駅舎の一部を利用した鉄道資料館を見学。展示物は鉄道模型のレイアウトや旧国鉄松浦線の時刻表やサボなど、以前訪問したときと変わり映えしないが、松浦鉄道の歴史を残す写真や資料がわずかに増えていた。鉄道資料館は無料で見学できるが、松浦鉄道の存続そのものが危ういと噂されているだけに、入場料代わりに「日本最西端の駅訪問証明書」(200円)と入場券を購入した。
 たびら平戸口駅からはハンドルを福井クンに預けて平戸に向かう。途中、平戸大橋の手前にある平戸口観光協会の事務所に立ち寄って、平戸大橋の往復通行券を購入する。片道100円の通行料が往復通行券は往復で180円と1割引となる。片道わずかに10円だが、平戸の観光案内図やパンフレットも入手できたので、事務所へ立ち寄った甲斐はある。
 朱塗りの平戸大橋を渡り、1年ぶりに平戸へ戻ってきた。平戸桟橋バスターミナルの隣接する平戸港交流広場にレンタカーを駐車しようとすると、入口前にカラーコーンが並んでいる。無料の駐車場として開放しているはずなのにおかしいなと思いながら、しばらく代わりの駐車場を探し求めて市街地をレンタカーでウロウロ。適当な駐車場が見当たらず、再び平戸港交流広場前に戻ってくるとカラーコーンが撤去されていたので無事にレンタカーを駐車した。
 昨年、的山大島へ渡ったときに、度島へ渡るフェリーも同じ場所から出航していることを確認していたので、バスターミナルから100メートルぐらい離れた桟橋へ。ところが桟橋は使用されている様子はなく、桟橋の向かいにあった待合所も閉鎖されている。待合所の扉に貼られた張り紙を見れば、今年の4月1日から乗船場がバスターミナル前の桟橋に変更になり、乗船券売り場や待合室も平戸桟橋バスターミナル内へ移転したとのこと。バスターミナルへ戻れば、バス乗車券売り場の隣に間借りするようなフェリーの乗船券売り場があり、度島までの片道600円の乗船券を無事に購入した。
 出航まで30分近くあったので、近くにある平戸温泉うで湯・あし湯を試す。近年は全国各地に足湯の施設が多く見受けられるが、腕湯とは珍しい。昨年はバタバタして立ち寄れなかったので、気掛かりになっていた。午前中から数人の観光客で賑わっていたうで湯・あし湯は、一般的な足湯施設の一角にテーブルのような浅い浴槽が設置されている。ベンチに腰掛けて足湯に浸かるとちょうど腕の位置に腕湯の浴槽があるという具合だ。もっとも、腕湯を一緒に楽しむ構造になっているが、奥田クンは「足を濡らすと後が面倒」と言って、腕湯だけを試している。平戸温泉の特徴であるナトリウム炭酸水素塩泉のぬるぬるとした感触があり、次第に肌がすべすべしてきた。
 うで湯・あし湯から上がると、福井クンが向かいの土産物店で「あご焼かまぼこ」を購入。一切れお裾分けに預かる。「あご」とはトビウオのことで平戸の名産だ。普通のかまぼこよりも、濃厚な味わいでおいしい。奥田クンからも「いわし竹輪」を1本もらい、到着早々に平戸の味覚を堪能する。
 11時30分のフェリー度島で平戸桟橋を離れる。昨年の的山大島に続いて天候には恵まれている。奥田クンと福井クンは冷房の効いた船室に避難してしまったが、私は甲板のベンチで過ごす。風がさわやかで心地よく、度島までの約30分間をうたた寝をして過ごす。
 平戸島の北方約4キロに位置する度島は東西に細長く、「フェリー度島」は12時に度島の東側に位置する飯盛港に入港。フェリーはこの後、西側に位置する本村港に立ち寄り、本村港で1時間15分の停泊した後、本村港を13時30分に出航、平戸へ折り返す運用となっている。飯盛港から本村港までは4キロ弱の距離なので、飯盛港から本村港まで歩いても、折り返しとなる「フェリー度島」に乗り込むことが可能だ。奥田クンと福井クンに声を掛けて飯盛港で下船する。
 標高103メートルの飯盛山を望む飯盛港から坂道を登り、本村港を目指す。島内の道路は狭いながらも舗装され、整備もされていた。起伏はあるものの、これなら1時間もあれば十分に本村港にたどり着けそうだ。
 度島は、1587年(天正15年)7月、豊臣秀吉によって宣教師追放令が発布された際に、平戸の宣教師が今後の対応を協議するために集結した場所として知られる。ナンドサンナンド(度島北側海岸)に集まった宣教師は、協議の結果、中国に渡る宣教師を以外は、全員九州に潜伏する決意を固めたという。本村港の近くには、石段の続く立願寺という寺院があったが、もともとは教会で、度島のキリスト教信者も教会に集結して抵抗を続けたが、最終的には改宗を余儀なくされ、現在は浄土宗の信仰者が島民の大半を占めているそうだ。
 樹齢300年の大銀杏を眺めて本村港にたどり着いたのは12時40分。「フェリー度島」の出航時刻まで50分も時間を持て余すので、度島の南側も散策してみることにしたが、これが災難の始まりだった。10分も歩くと度島の西側に出たため、南端沿いの道路を歩けばすぐに本村港に戻れるだろうと高を括った。ところが歩けども本村港は見えてこない。あのカーブを曲がれば本村港だろうと思って歩を進めるが、カーブを曲がれば次のカーブが現れる。ハイキノ鼻を過ぎればようやく本村港が見えたが、意外に遠い。さすがに時間が厳しくなって、早足が小走りになり、やがて全力疾走になる。1台の軽トラックが我々を追い抜いていき、海辺で井戸端会議をしていたお婆さん達から声が掛る。
「フェリーに乗るのかい?だったら、今の軽トラックの荷台に乗せてもらいな!」
有難い話だが、既に我々を追い抜いた軽トラックを追いかけて乗り込むのも至難の業だ。乗船券売り場を探そうとして、フェリーに乗り込むのを躊躇していた奥田クンを促して、今にもタラップを上げようとしていたフェリーになんとか駆け込んだ。無札でも乗船券は船内で売ってもらえるだろう。我々が駆け込むと同時にフェリーは本村港を離れた。
 フェリー度島は再び飯盛港を経由して、定刻よりも5分遅れの14時15分に平戸桟橋に接岸した。周囲は屋台の設置が始まっており、お祭りの準備をしている模様。平戸港交流広場にも屋台が並んでいるので、レンタカーが心配になったが、会場設営の邪魔にはなっていないようなのでもうしばらく駐車させてもらう。
平戸観光資料館  昨年は松浦史料博物館を見学したので、今回は平戸桟橋を見下ろす高台にある平戸観光資料館へ足を運ぶ。館内の冷房が有難い。先客は皆無で、受付で手持ち無沙汰にしていたスタッフが館内の展示物について説明をしてくれる。館内には、平戸焼のマリア観音やクロスが付いた数珠など、隠れキリシタンの信仰の対象となった遺品が陳列されていたが、スタッフがぜひ見ていって欲しいと推奨するのは「ジャガタラ文」である。江戸幕府は1641年に平戸オランダ商館を閉鎖したが、それに先立ち、1639年にオランダ人の父親と日本人の母親との間に生まれた混血児をインドネシアのジャガタラ(現在のジャカルタ)へ追放した。追放された混血児たちが恋しさのあまり日本へ送った手紙を「ジャガタラ文」と呼んだのである。「ジャガタラ文」で現存するものは4通のみで、そのうちの3通がここで展示されているとのこと。中でもジャワ更紗で作られた袱紗に書かれている「ジャガタラ文」がもっとも目を惹いた。
 平戸観光資料館のスタッフによれば、今日は「平戸南風夜風人まつり」が開催されるため、平戸桟橋周辺ではその準備が行われているとのこと。夜には花火も打ち上げられるそうだが、今日は生月島泊まりなので、花火見物はできない。準備の邪魔にならないように平戸港交流広場の駐車場からレンタカーを移動させて平戸桟橋を後にする。
 昨年訪れた平戸温泉「平戸海上ホテル」を右に見て、平戸島の北端の白岳西麓に位置する田の浦へ。田の浦にも温泉があるので入浴を試みたい。田の浦温泉は、804年(延暦23年)7月に空海が中国へ渡るために田の浦へ滞在した折に、「金剛杖にて地を突いて湧出した」と伝えられる由緒ある温泉で、江戸時代には湯治場としても利用されたという。
 平戸桟橋から15分程で到着した田の浦は小さな入り江があり、その入り江に面して1軒宿の「旅館田の浦温泉」があった。玄関で声を上げるが応答がなく、インターホンを押してみるとようやく反応があった。ところが、温泉に入りたい旨を告げると、「今は沸していないから入れない」との返事。田の浦温泉は20℃の単純冷鉱泉を沸しているので、宿泊客が来る時間帯にならないと温泉の準備をしないのだろが、時刻は15時でチェックイン可能な時間でもある。事前の情報収集では800円で日帰り入浴も可能ということであったが、様子からして宿泊客以外の入浴は歓迎しないようだ。
 しばらく今来た道を引き返し、早々に生月島へ渡る。平戸島と生月島の間には、辰ノ瀬戸が控えており、かつてはフェリーで行き来していたのであるが、1991年(平成3年)に生月大橋が開通し、陸続きとなった。普通車で片道200円、軽自動車で片道150円の通行料が必要となるが、2005年(平成17年)10月1日に大幅値下げをするまでは、普通車で片道600円だったというのだから有難い。ライトブルーのトラス橋を渡り、生月島の上陸を果たす。
 まずは生月大橋を渡ってすぐ左手に入ったところにある島の館へ行ってみる。クジラのモニュメントに出迎えられた島の館は、生月島の郷土博物館で、江戸時代に日本最大規模を誇った益冨捕鯨の展示をはじめ、長い迫害に耐えて受け継がれたかくれキリシタンの信仰の様子や豊かな自然の中で営まれてきた漁業や農業の姿を紹介している。かくれキリシタンと言えば、江戸幕府の迫害を受けながらも、キリスト教の信仰を貫き通した信者というイメージを持っていたが、実際はキリスト教と仏教が融合した第三の宗教とも言うべきものであり、キリスト教徒からもかくれキリシタンたちは「はなれ」と呼ばれ、異端扱いされていたのには驚いた。
 田の浦温泉での入浴がなくなったおかげで、生月島で過ごす時間に余裕ができた。明るいうちに生月島の名所をめぐるのは当然のことだが、できれば生月島の名産である「あご」(飛び魚)を出汁にした「あごだしラーメン」を賞味してみたい。時刻はもう16時半近くで、宿での夕食も控えているのだが、昼食を食べていないので、ラーメンの1杯ぐらいはお腹に収まるであろう。奥田クンや福井クンも賛同してくれたので、一路、「あごだしラーメン」が食べられる大氣圏へ。
 生月大橋から館浦方面へ少しは走るとすぐに白字で「TAIKIKEN」と記された黒い建物を発見。ラーメン屋というよりも喫茶店のような雰囲気の店内で「あごだしラーメン」(600円)を注文する。160円増しの大盛やえび・ホタテ・イカなどが入った豪華版の「あごだし海鮮ラーメン」(1,150円)にも惹かれたが、夕食を持て余すことになるので我慢する。醤油ラーメンのような薄茶色のスープに縮れ麺という組み合わせの「あごだしラーメン」は、濃厚な味わいのスープであるが、後味がすっきりとしていて美味しい。スープまでしっかりと飲み干して、まだ物足りなさを感じるけど、「あごだしラーメン」を堪能したことに満足して店を出る。
 日没までにはまだ時間があるので島内観光を続ける。大氣圏のある館浦地区には、生月島の観光スポットが多い。まずは生月島の幹線道路である県道42号線からも見える生月大魚籃観音(いきつきだいぎょらんかんのん)へ。ブロンズ像としては日本最大を誇る観音像は、像高18メートル、基壇3メートル、重量は150トンもある。観音像は、館浦漁港を見下ろす高台に設置されており、館浦地区の家並みの先には生月大橋が横たわっている。1980年(昭和55年)に世界の平和と海難者および魚介類の霊を追悼し漁船の航海安全を祈念して建立されたものとのこと。台座部分は無料で内部拝観ができるようになっており、実物の10分の1の大きさのミニ生月大魚籃観音をはじめ、木彫りの観音像など約70体の観音像が祀られていた。
 次に訪れたのはクルスの丘公園。館浦の集落を抜けたところにあるクルスの丘公園一帯は、生月島のキリシタンの聖地とも言うべき場所である。1558年に生月島で最初にキリスト教の布教を行ったガスパル・ヴィレラ神父は、この地に大きな十字架を建てて、信者達の墓にしたというのだ。その後、1563年にコスメ・デ・トルレス神父により建て直された十字架は、1613年(慶長18年)に江戸幕府が禁教令を出したことを契機に取り払われてしまった。現存する十字架は1992年(平成4年)になって、生月カトリック信徒一同により再建されたものとのこと。十字架はガスパル様と呼ばれ、台座には布教の様子を描いたレリーフが飾られている。
 ここからは、「お中江様」「お迎え様」「サンジュワン様」「御三体様」などと呼ばれ、かくれキリシタン信仰の中でも御神体に匹敵する最高の信仰対象とされている中江ノ島を望むことができる。中江ノ島は、1622年(元和8年)ガスパル籠手田、1624年(寛永元年)ジョアン坂本ら多くの人が殉教した場所だ。現在でも毎年、初夏と晩秋に中江ノ島で聖水を取る「お水取り」の行事が行われていることは島の館で学んだ。
 クルスの丘公園からは県道42号線を一気に北上し、生月島最北端の大バエ灯台で移動する。灯台のかなり手前に駐車場が整備されており、駐車場からは延々と階段が続いている。あの階段を上っていくのは億劫だなと思っていると、駐車場の先へ続く細い道路から対向車がやってきた。
「まだ先へ行けるのと違うか?」
福井クンが思い切って細い道路へレンタカーを進める。こういうときに車体の小さな軽自動車は便利だ。細い道路は灯台近くまで続いており、わずかながらの駐車スペースも確保されていた。さっそくレンタカーを停めて大バエ灯台を目指す。灯台の麓近くまでレンタカーで登れたのはラッキーだった。手前の駐車場から歩いていれば、かなりの体力が消耗されたことは容易に想像できる。
 白亜の灯台には、無人ながらも展望所が設けられていたので上ってみると、灯台は断崖の上に建っていたので、見下ろすと迫力がある。家族連れやライダーの姿も多く、手頃なドライブスポットなのであろう。
塩俵の断崖  県道42号線を少し戻り、今度は生月島の西岸に位置する塩俵の断崖へ。高さが20~30メートル程の柱状節理の断崖が500メートルほど続いている。この辺りも冬の荒波に曝されて、荒々しい地形が形成されるのであろう。そのためか、生月島の西岸には集落がなく、生月大橋へ続く農道が続いている。この農道には、サンセットウェイという別名が付けられており、夕日が素晴らしいとのことであるが、九州の日没は遅くて18時を過ぎてもまだ明るい。時間的にサンセットを楽しむことはできないだろうが、途中にだんじく様という数少ない生月島西岸の観光スポットがあるので立ち寄ってみようということになる。ところが、景色を楽しみながらサンセットウェイを快走してしまったため、気が付けば前方にブルーの生月大橋が現れてしまった。引き返してもよかったのだが、明日、再訪することもできるので、今日はそのまま宿へ向かうことにする。
 生月島には似合わないファミリーマートで飲み物や夜食を仕入れて、生月漁港近くの「御宿えびす屋」へ。生月漁港は、生月島東岸のちょうど中間辺りにあるので、今日は生月島を一周少々したことになった。

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