仕事人間の仕事の話

第95日 平戸−平戸

2007年8月7日(火) 参加者:安藤・奥田

第95日行程  7時過ぎに起床して朝食という外周旅行にしてはゆっくりとした朝が始まる。今日は的山大島(あづちおおしま)を散策して過ごす予定だ。的山大島へ渡るフェリーの桟橋は「井元旅館」の目の前なので乗り遅れる心配はない。平戸観光は時間の都合上、次回に譲らざるを得ないが、それでも平戸に泊まっているのにまったく平戸を素通りしてしまうのも気が引けるので、的山大島へ渡る前にフェリー桟橋近くの観光ポイントに立ち寄ってみることにする。もっとも、フェリーの出航時刻は8時40分なので制約はかなり厳しい。奥田クンが持参した「るるぶ長崎」で調べると、8時から見学可能でフェリー桟橋の近くにある施設は、平戸観光資料館と松浦史料博物館であった。どちらを見学してもよかったのだが、旧藩主松浦氏の邸宅鶴ケ峰を利用した松浦史料博物館の方に趣がありそうだ。
 「井元旅館」で荷物を預かってもらって、歩いて5分の松浦史料博物館へ。桃山様式の石垣の上に、長い白塀を巡らしている。今日初めての訪問者だったようで、500円の入館料を支払って、開館準備中のような状況の館内へ入る。冷房もスイッチを入れたばかりで館内は多少蒸し暑い。
 館内には、鎌倉時代以降の武具、調度品、後醍醐天皇下賜の直垂(ひたたれ)、狩野探幽屏風絵など書画、美術品、南蛮貿易時代のオランダ船首飾像などの文化財が展示されている。平戸港には1550年(天文19年)のポルトガル船の来港を皮切りに、スペイン、オランダ、イギリスが相次ぎ来航。オランダ商館が1641年にオランダ商館が長崎の出島に移されるまで約90年間に渡って交易を続け、平戸は長崎県下で最初の西欧貿易港として繁栄したようだ。
 最初はゆっくりと館内を見学していたが時刻は8時30分になり、そろそろ時間が厳しくなってきた。別棟には外観が純和風の倉造り、内装は一変してアンティークな家具や調度品が並ぶ喫茶店などもあり、安藤クンはもっとゆっくりしたい様子であったが、離島航路のダイヤを中心に行程を組まざるを得ないので先を急ぐ。早発されては困るので、2人よりも一足先にフェリー桟橋へ駆け付けたが、乗船券売り場のおばちゃんはのんびりと電話をしている。同じく的山大島へのフェリーに乗船すると思われる先客もイライラした様子だが、この状況でフェリーを出航させるような愚かなことはするまい。やがて安藤クンと奥田クンが追い付いた。
 的山大島まで640円の乗船券を手にして桟橋に向かうと、車両積み込み用のタラップが上げられているところだったので「乗ります!」と大声で叫ぶ。「こっちから乗れるから」と手招きされた方向に向かえば、乗客用のタラップはまだ船体横に残されており、無事に「第2フェリー大島」に乗り込むことができた。思ったよりも乗船客が多く、船室はかなり混雑していたので甲板へ避難。もっとも、安藤クンと奥田クンは冷房の効いた船室が良いらしく、空いている席を見付けて座り込んだ。
 平戸城と平戸大橋に見送られながら「第2フェリー大島」は出航。昨夜の平戸海上温泉の海望露天風呂も船上から確認できる。男湯だけではなく女湯もバッチリ視界に入ってしまうのだが、距離があり過ぎて人影しか確認できない。空は青々として今日も暑くなりそうだ。乗船客にはやはり釣り客が多いようで、釣竿を抱えている人が多い。
 やがて進行方向左手にキリシタンの島である度島が見える。豊臣秀吉は1587年7月に宣教師追放令を発布し、宣教師に対して、平戸からポルトガル船に乗って帰国するよう命じたが、これに対し、クエリヨ以下全宣教師はナンドサンナンドと呼ばれた度島北側海岸に集合し、協議の結果、中国に帰る者以外は、全員九州に潜伏する決意を固めたという。度島へは次回に訪問する予定だ。
 的山大島の南西部に位置する的山港には定刻の9時25分に入港。的山大島での交通機関については事前情報が乏しく、南東部に位置する神浦桟橋を13時30分に出航するフェリーで戻ることの他は、珍しく詳細な予定を立てていない。たびら平戸口駅で手に入れた観光案内パンフレットが唯一の手掛かりで、まずは的山港近くの朝鮮井戸をのぞいてみる。朝鮮井戸は、豊臣秀吉が朝鮮出兵の際、松浦氏の兵船が水を積み込んだという由緒ある井戸で、現在でも自由に水を汲み上げることができる。3人で順番に水を汲み上げてみるが、海に面しているにもかかわらず、正真正銘の真水が汲み上がり不思議なものだ。
 的山港に戻ると桟橋近くのフェリー待合室に大島産業バスの時刻表が掲示されていたので、これからの予定を考える。最初は時間もあることだし、神浦桟橋へ歩いて向かうことを提案したが安藤クンの猛反対を受けて却下。10時35分に神浦桟橋行きのバスがあったので、バスで神浦集落にあるふるさと資料館へ立ち寄り、神浦の町並みを散策してからタクシーを手配し、的山大島東端にある大賀断崖を往復することで落ち着いた。
 大島産業バスは、車体に「Kライン」と記されたワゴン車で、「大島バス」と貼り紙がされていなければ気が付かない。運賃は100円均一と良心的で、途中の小さな集落に寄りながらフェリー桟橋がある的山と神浦の間を1日10往復している。離島の交通機関としては、運行頻度が高く便利だ。時刻表では10時35分発となっていたが、我々3人と地元のおじいさん1人を乗せるとまだ10時30分だというのにすぐに発車。的山桟橋を10時45分に出航するフェリーの乗船客を運ぶことが目的なので、支障はないのかもしれないが、途中の停留所から乗車する人がいるかもしれず、ダイヤに無頓着過ぎるのではなかろうか。降車ボタンなるものがあるはずもなく、「ふるさと資料館の近くまで」と初老の運転手に声を掛けておく。
的山大島の棚田  バスはしばらく海岸沿いを走ってから山林に囲まれた山道に入る。折角の海が見えなくて残念だなと思っていると、すぐに青々とした棚田が広がり、その向こうには青い海が広がる。桃源郷と呼ぶにふさわしい風景だ。近くには南欧風のオシャレな漁火館があり、宿泊だけでなく、研修や結婚式などにも利用される多目的施設だ。的山大島を代表する宿泊施設であるが、神浦桟橋、的山桟橋のいずれからも距離があり、どうして不便なところに施設をつくったのか疑問であったが、眺望を考慮すれば必然的にこの場所になるわけだ。
 棚田を眺めながらバスは坂道を下り、降ろされた場所は役場前という停留所。的山大島もかつては一島一村体制で大島村を名乗っていたが、田平町と同じく2005年(平成17年)10月1日に平戸市に編入されているので役場前ではなく、正確には平戸市役所大島支所で、停留所も支所前を名乗るべきであろう。
「資料館は鍵がかかっているかもしれないけど、役所の職員に声掛ければすぐに開けてくれるから」
ふるさと資料館に直接行ってみたが、やはり鍵が掛けられていたので、バスの運転手に教えられたとおり、資料館向いの大島村離島開発総合センターの職員に声を掛ける。
 開館準備をしている間に記帳を求められたので、来館者ノートに名前と住所を書く。過去の記帳内容を確認すると、毎日1組程度ではあるがコンスタントに来訪者はある。住所が東京だったりすると島めぐりをする同胞かなとも思うのだが、福岡あたりからやって来る人も意外に多い。海水浴や釣りに来て、時間を持て余すので資料館へやって来るのであろうか。
 ふるさと資料館は1階が収蔵庫で2階が展示室となっている。冷房のスイッチが入ったばかりでまだジメジメする展示室に入ると、所狭しと古代から近代に到るまでの史料が展示されている。的山大島に関係するありとあらゆる史料を陳列している様子。わざわざ鍵を開けてもらったことだし、時間もあるのでゆっくりと見学をする。
 的山大島は奈良時代の「肥前風土記」にも「大家島」として記録されている歴史のある島である。海上の要所として、遣唐使船をはじめ中国大陸へ渡る数多くの船が的山大島に寄港したとのこと。的山大島は壱岐や対馬と同様に大陸への中継地として重要な役割を果たしたようである。そうなると気になるのは元寇の影響であるが、館内の解説には、1281年(弘安4年)の弘安の役において、地頭職であった大島通清が壱岐で蒙古軍と戦った記載しか見当たらない。
「ここは元寇の禍がなかったみたいだね」
安藤クンが結論付けるが、帰宅後に調べてみると弘安の役では、的山大島も戦場と化しており、島内には元寇の犠牲者を祀った千人塚があったことを知る。壱岐、対島そして鷹島のように元寇に関する記述が少ないのは、被害がそれほど甚大ではなかったのかもしれない。何しろ壱岐まで遠征して元軍を迎え撃つ余裕があったのだから。
 近代では捕鯨業が盛んだったようで、館内には捕鯨道具も数多く展示されている。1652年(寛永2年)に藩州(兵庫県)の横山甚五兵衛が的山湾を基地として、鯨突組を創業したのが大島の捕鯨業の始まり。1661年(寛文元年)に大島の三代目政務役の井元弥七左衛門が鯨網組を創業して成功すると、「鯨一頭獲れば七浦にぎわう」と言われるまで島民の生活に潤いをもたらしたという。
 職員にお礼を言って、11時過ぎにふるさと資料館を後にする。神浦桟橋への道路脇には鯨の供養碑と魚の供養碑が奉られており、的山大島が捕鯨業や漁業が盛んであったことを伺わせる。肥前型鳥居を構える天降神社を参拝すると、鯨組の井元氏が奉納したという立派な石灯籠があり、捕鯨業の羽振りの良さが伺える。
 時間を持て余すので、タクシーで的山大島の東端に位置する大賀断崖を見学しようと話し合い、神浦桟橋近くの大島郵便局で旅行貯金がてら情報収集。
「大島の交通機関はバスだけで、タクシーはないのです。的山へ行くならフェリーもあるけれど…ああ、的山から来たのですね」
事前情報では的山大島にはKラインタクシーというものがあると聞いていたのだが、どうやら大島産業バスのことであったようで、そう言えばワゴン車の車体には「Kライン」と記載されていた。いずれにしてもタクシーがなければ10キロ以上も離れた大賀断崖まで行けるはずもなく、フェリーの出航時刻まで神浦で時間を潰さざるを得ない。それでも、神浦には昭和30年代の面影を残す集落が残っていると耳にしたので局員に尋ねてみる。
「神浦の集落は古い町並みが残っているということで話題になっています。郵便局の裏手を入ればすぐです。町並みは数百メートル程度しかありませんけど…」
神浦の町並み  局員に教えられた通り、郵便局の裏手の道を進んでいくと、やがて築百年を経過した木造家屋が軒を連ねる狭い通りに出た。昭和50年代生まれの我々が昭和30年代という時代を知る由もないが、一昨年にヒットし、今年の11月に続編のロードショーが決定した東宝映画「ALWAYS三丁目の夕日」のロケ地ではないかと思われる光景が確かに残っている。目を惹くのは厨子2階建てという軒の低い2階建て木造住宅で、江戸時代の建築物であることが推察される。江戸時代には、武士を2階から見下ろすことになるので、農民や町民が2階建ての住宅に住むことは身分の見地から許されなかったのだ。かろうじて許されたのが、厨子2階という軒の低い2階を物置として使用することであった。
 町並みを歩いていると家の中からテレビの音声が聞こえて来るのも生活感があってよい。ただし、町並みの中にも現代のプレハブ住宅が紛れ込んでいたりもして、島民の生活と両立して木造住宅の町並みを保存するのは容易ではなさそうだ。
 神浦の町並みを往復した後、どこかに食堂でもないかと周囲を探したが、店が閉まっている「赤ちょうちん」という居酒屋ぐらいしか見当たらない。郵便局の近くにあった「ながさき西海農協Aコープ大島店」が開いていたのを幸いに安藤クンと奥田クンは、アイスクリームなどを買い込み、冷房が効いているからと隣のJAながさき西海大島支店のロビーに逃げ込んでしまった。こうなると2人を無理矢理連れ出しても機嫌を損ねるだけだ。だからといって一緒になって厚かましく農協のロビーを占拠する気にもなれず、フェリーの出航時刻までは自由に行動させてもらうことにしよう。
 鯨組の勘定場で使用されていたという井戸を眺め、天降神社の脇にあった階段を登ってみる。金剛院を経て、高台にある道路に出ると、的山から乗ってきた大島産業バスが通り過ぎた。周囲を見回すと確かにバスで通った場所で、西の方角を見上げれば、漁火館が手近に見える。道路はS字上に迂回しているので漁火館から神浦まではかなり距離があったように思えたが、階段をまっすぐ登ればそれほどでもなかったのだ。漁火館にはナトリウム炭酸水素塩泉の大島温泉もあり、ひと浴びする時間ぐらいはありそうだ。
 目前で新しい取り付け道路を迂回させられて漁火館にたどり着いたが、入口のガラスドアの前に「入浴可能時間15:00〜20:00」という無情な貼り紙がされている。温泉に入って2人に自慢できるかと思っていたのに残念だ。その代わりに展望台からバスから眺めた棚田を存分に眺めておく。なんとなく懐かしさを感じさせる風景も、かつての日本の農村を再現しているのかもしれない。夜になれば棚田の代わりに海上に漁り火が灯り、昼間とは違った幻想的な光景が見られるらしい。
 神浦桟橋のフェリー待合室で2人と合流。我々が的山大島を散策している間に平戸へ往復してきた「第2フェリー大島」に乗り込むとさすがに疲れが出てきた。13時10分の出航を待たずに座敷席に倒れ込み昼寝。途中で的山桟橋に寄港したのは船内がにわかに騒々しくなったので確認したが、平戸桟橋が近づくまではほとんど熟睡してしまう。フェリーはが5分遅れの14時50分に平戸桟橋に到着すると今回の外周旅行は打ち止めとなる。次回は平戸からの仕切り直しで、隣の桟橋から度島へ渡ることになるであろう。
 井元旅館で預けた荷物を回収して、慌ただしく平戸桟橋バスターミナルへ。15時の西肥バス特急佐世保バスセンター行きに乗り込む。平戸では時間がなかったので、佐世保バスセンター近くの喫茶店「レストハウスリベラ」で佐世保バーガーを注文して打ち上げ。昼食抜きだったので極上和牛を250g使った「スペシャル」(1,260円)を奮発すると空腹のせいもあってこの上なく美味しい。
「来年こそは有名な観光地を周れそうだな」
「長崎るるぶ」を持参しながら、ほとんど活用されることのなかった奥田クンが恨めしそうにつぶやく。今回の旅は地味な島めぐりが多かったので物足りなかったのであろう。その代わりに小学生の挨拶が印象的な小呂島から昭和30年代にタイムスリップできる的山大島まで、日常の喧騒を忘れさせる世界を垣間見ることができたのも事実だ。来年は佐世保でレンタカーを借りてから…と構想を練るものの、気掛かりなのは所帯を持った安藤クンが再び外周旅行に顔を出してくれるかどうかである。

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