第93日 松浦−向島
2007年8月5日(日) 参加者:安藤・奥田・福井
6時過ぎに目覚めて部屋のカーテンを開けると青い空と海が広がっている。今日も暑い1日になりそうだ。朝食を済ませて7時に宿を出発する。フェリー桟橋まで松浦湾沿いの道路を歩いていると御厨郵便局があったが、日曜日なので旅行貯金はできない。御厨には明日戻って来るのだが、16時を過ぎてしまうので、再訪しても叶わない。
フェリー桟橋に着くと鷹島汽船の「フェリーたかしま2」が到着したところ。フェリーからの下船客には学生服を着た高校生の姿が目立つ。今日は日曜日だが部活動か補習でもあるのだろう。
「フェリーたかしま2」は御厨から鷹島の阿翁を片道1時間15分で結ぶ。途中、青島、鷹島の船唐津(ふなとうづ)、黒島に寄港するので、今日から明日に渡って何度も世話になる予定だ。フェリーの待合室には意外に多くの人が集まっていたが、すべてが乗船客というわけではなく、待合室内の乗船券売り場で荷物の運送を頼んでいる人も多い。「フェリーたかしま2」は、貨物船としても重要な役割を果たしているのだ。先客がのんびりと荷物の発送手続きをしているので、出航時刻を気にしながら青島まで440円の乗船券を購入した。
小振りな船体の「フェリーたかしま2」であるが、乗用車なら10台を積載できるというのだから意外。車両甲板の先にはバリアフリー対応の船室が設置されている。一般の船室は車両甲板の上階にあるので階段を登らねばならず、体の不自由なお年寄りには負担であろう。バリアフリー船室なら階段を登らずに済む。上階の甲板に椅子が設置されていたので、私と福井クンは甲板に陣取る。安藤クンと奥田クンはそそくさと冷房の効いた船室に逃げ込んでしまった。
7時50分に御厨桟橋を出航。フェリーが動き出すと心地よい風が甲板に吹き込んでくる。やがて船室から安藤クンと奥田クンも甲板にやって来て、周囲の景色の撮影を始めた。聞けば船室に社団法人日本旅客船協会と国土交通相が主催する「船から見る風景100選大募集!!」のポスターが掲示されていたとのこと。船からの風景を撮影した写真なら携帯電話で撮影したものでも応募でき、ベストショット賞に選ばれると賞金5万円。入選でも賞金1万円とのこと。風景100選を募集しているだけあって、入選作品は100点が選ばれるとのこと。ベストショット賞は無理でもまぐれで入選ぐらいはできるかもしれないと思うのが人情で、私も試しに数枚の風景を撮影してみるが自分で納得できる写真ですら撮影するのはなかなか難しい。御厨桟橋を出航してから、右手には松浦市星鹿地区の陸地が続いていたが、展望台のある城山を回り込むとようやく陸地が途切れ、目指す青島が右手前方に現れた。
青島桟橋には定刻の8時10分に到着。「フェリーたかしま2」は鷹島の阿翁浦までの往復が基本運航パターンであるが、我々の乗船した第1便だけがこの青島で折り返して御厨へ戻る。このまま御厨に戻っても御厨到着は8時32分なので、会社や学校の始業時刻に間に合うのだ。もっとも、今日は日曜日なので折り返し便に乗船する人も少なく、我々が下船するとすぐに青島桟橋を出航した。ダイヤを確認すれば青島出航時刻は8時12分で、停泊時間はわずかに2分。車両の出入りがあれば2分などすぐに経過してしまうのであり、かなり乱暴なダイヤを組んでいる。
桟橋の近くに立派な待合室があったので、荷物を置かせてもらう。安藤クンが乗船券売り場のおばさんに「荷物を置かせて下さい」と一言掛けると、「これから青島を散策するの?」と言いながら、待合室に掲示された地図を使って青島の観光ポイントを教えてくれた。
青島は、御厨から6.5キロの地点に浮かぶ周囲6キロの玄界灘に面した小島である。次の鷹島方面行きのフェリーは10時22分なので、時間的な余裕は十分ある。乗船券売り場のおばさんは、青島を時計回りに案内したけれど、我々は外周の原則に従って時計の反対回りに散策を開始した。
まずは桟橋近くの七郎神社を参拝。港を見下ろせるような場所に神社を建てるのは離島の特徴だ。石段を登って行くと、七郎神社の境内からも青島港を見下ろすことができる。漁業で生活する人々にとって海の安全が第一であることはどこも変わらない。とりあえず、我々は旅の安全を祈願しておく。
桟橋近くの集落を抜けると青島小中学校の校舎があり、その先には砂浜海岸が広がっていた。乗船券売り場のおばさんは青島の景勝地として推奨していた宝の浜(ほうのはま)だ。青島の西海岸は湾状になっており、その湾内に300メートルぐらい白砂の海岸線が続いている。砂浜に立つと正面には青い海と青い空、両側には緑の陸地が海岸を囲むように迫り出している。決して広くはないが、コンパクトにまとめられたリゾートビーチのようだ。まだ誰もいない砂浜に足跡を残していると、やがて浮き輪を抱えた小学生が続々と集まって来た。御厨からのフェリーには小学生の姿はなかったし、青島に住む小学生なのだろうか。静かな海岸がにわかに賑やかになってくる。不審な4人組がうろうろしていたら、小学生達も折角の海水浴を楽しめないだろうから我々は退散することにした。
宝の浜を眺めながら島の北端を目指して歩く。道端には沢蟹がたくさん生息しており、安藤クンや奥田クンは沢蟹と戯れている。青島には川は流れていないが、水路や池を拠点にして生息しているのだろうか。しばらくすると畑が広がり、その先には山の上に灯台がある魚固島(おごのしま)が見えるが、定期航路もない無人島なので遠くから眺めるだけだ。
「そいえば、確かこの島には犬だったか猫だったかが1匹もいないらしい」
奥田クンが豆知識を披露する。外周旅行が離島めぐりの装いを見せ始めたのを機会に、奥田クンは、北海道礼文島から沖縄県与那国島まで、日本の全有人島と主な無人島あわせて1,000島以上の情報を満載した日本の島ガイド「SHIMADAS」(財団法人日本離島センター編集)を購入。外周旅行の前に訪問する島の歴史や文化、習慣等を予習してくるのだから恐れ入る。奥田クンによれば、青島には江戸時代の干拓事業で人柱の代わりに犬柱が立てられたという言い伝えがあり、それ以来、青島では犬を神と崇めて200年に渡って犬は飼われたことが無いそうだ。人柱と聞くと、タコ部屋強制労働作業から逃げ出した囚人を見せしめのために生きたままトンネルの壁に埋め込んだという常紋トンネル(石北本線金華−生田原間)を連想してしまうが、青島での人柱とは、島の安全を神に祈るために人身供養することだとか。人間の代わりに犬を神に差し出したのであれば、青島の島民は犠牲となった犬のおかげで平穏な生活ができたというわけだ。それならば犬を飼って大切に育ててもよさそうな気がしないでもない。
名もない青島の北端には素晴らしい光景が待っていた。岩場から見下ろす海は透明で透きとっており、海中の様子まで伺うことができる。1キロちょっと先には無人島の伊豆島があり、その背後には明日訪問する予定の黒島の島影も見えた。ここで撮影した写真を見せれば、五島列島へ行って来たと言ってもほとんどの人が信じるのではないか。奥田クンは職場で無名の島めぐりをするというのが気恥ずかしくて、「五島列島に行って来る」と言い残してきたとのことだから、ここでの写真はアリバイになろう。
宝の浜まで来た道を戻り、今度は島の南半分に取り掛かる。南部はきちんと海岸線沿いに道路が整備されているので、道なりに歩いて行けば桟橋に戻ることができる。畑の目立った北部に対して南部は山と海の隙間を縫うように道が続いている。やがて前方に青島の子供のような松島が視界に入る。地図上では独立した島なのだが、引き潮のためかどうも陸続きになっているようだ。陸続きなら松島にも足を記しておこうと勇んで歩き始めるが、他の3人は磯辺で遊んでいる方がいいらしい。同調者なく、一人で松島を往復する。浅瀬になっているためか、北端や宝の浜とは対照的に無残に打ち上げられたゴミが目立つ。遠くで眺めているだけの方がよかったかもしれない。
南市神社に立ち寄ると青島散策もお仕舞い。青島漁港をたどっていると見覚えのある立派な待合室が待っていた。乗船券売り場のおばさんに荷物のお礼を述べてから船唐津まで270円の乗船券を求める。船唐津は「ふなとうづ」と発音するようで、地名の呼び方は難しい。
我々が青島を散策している間に御厨へ往復してきた「フェリーたかしま2」に本日2回目の乗船。御厨から鷹島方面への便は青島10時22分発のこの便が始発となる。青島から眺めた伊豆島や魚固島を進行方向左手に見ながら鷹島の西南部に位置する船唐津へ。今度はわずか15分の船旅だ。船唐津で下船したのは意外にも我々の他に地元の人らしきおばさんが1人だけ。船唐津からはバスで鷹島の中心地へ向かう予定であったが、フェリー桟橋は船唐津の集落よりも少し外れているようで、近くにバス停も見当たらない。唯一の下先客であるおばさんにバス停の所在地を訪ねる。
「バスはどこでも手を挙げれば停まってくれるから。その辺で待っていればもうすぐ来るよ」
おばさんはそう言い残すと旦那さんらしき人が運転する迎えの車で桟橋を去って行った。
事前に調べておいたバスの時刻までは10分近くあるので、船唐津の集落まで5分程歩く。船唐津の周辺は最近になって整備されたようで、真新しい公園では地元のお年寄りがゲートボールを楽しんでいる。地図ではフェリー乗り場の位置が公園の辺りになっているので、整備に伴って桟橋は遠くに追いやられたのかもしれない。今日のような利用者の状況ではそれもやむを得ないか。
船唐津からは松浦市営バスの利用となる。もともとは鷹島町営バスであったが、2006年1月1日に鷹島町が松浦市に編入されたことにより、バスの経営主体も松浦市に移管された。鷹島の中心部からやって来たマイクロバスの乗客は皆無で、船唐津で我々4人を乗せるとすぐに折り返す。「お客さんどちらまで?」と運転手から声が掛かり、タクシーにでも乗っているような感覚だ。当初は、殿之浦桟橋から飛島へ向かうフェリーに乗るつもりだったので、殿之浦桟橋に近い殿之浦入口での下車を予定していた。しかし、次のフェリーまで時間に余裕があるので、鷹島の中心部まで乗り通して昼食にしようと予定を変更。このバスの終点である営業所まで乗り通すことにする。途中の停留所を案内するアナウンスなど一切なく、運賃表も運転手の後ろに貼り出されている一覧表で確認すると、船唐津から営業所までの運賃は330円と殿之浦入口までよりも20円高かった。
我々を乗せた松浦市営バスは鷹島の背骨のような県道158号線を走って10分程で営業所へ到着。停留所名が「営業所前」ではなくて「営業所」であるのも納得で、バスが営業所に車庫入れを終えてから降車扱いのドアが開いた。待合室に掲示されていた時刻表を確認すると、12時15分にフェリー桟橋のある殿之浦までのバスがあるようで、時間に余裕がなくなれば、バスで殿之浦へ向かうことにしよう。
時刻はまだ11時になったところだが、飛島へ向かうフェリーが出航する12時30分まで時間を持て余すので早めの昼食にする。旧鷹島町役場に近い営業所には、何軒かの飲食店があったが、まだ時間が早いせいか日曜日のためか定かではないが閉まっている店が多い。営業所の手前でバスの車内から見付けた店は開いていたはずだと足を向けた「味処まつばら」は、ドアは開け放たれているものの店内に灯りはない。それでも人の気配があるので奥田クンが「やってますか?」と声を掛ける。準備中だったようだが、お客が現れたので今から営業を開始するとのこと。開け放たれたドアは閉められ、店内に灯りと冷房が入った。
「味処まつばら」の店頭には「うなぎ蒲焼」の幟が何本も並んでいたので、鰻の専門店かと思ったが、メニューを見れば一般的な食堂であることがわかる。鷹島で鰻の養殖でもしているのかと思ったが、たまたま最近になって鰻を扱うようになったので、宣伝に注力しているだけのようだ。それならばわざわざ鰻を食べる必要もない。手頃な日替定食(600円)を注文しようとしたら、「日曜はない」とぶっきらぼうな返事。それならば折角長崎に来たことだし、「ちゃんぽん」(700円)の大盛りにした。安藤クンと福井クンも「皿うどん」(680円)を注文。奥田クンは大々的に宣伝している「うな重」(1,300円)を試す。そういえば奥田クンは昨年も対馬で鰻を食べていた。かつては「カレーライス」が奥田クンの旅先での定番メニューだったが、自分で稼ぐようになって「うな重」にグレードアップしたようだ。「ちゃんぽん」は可もなく不可もなくといった味であったが、安藤クンと福井クンが注文した「皿うどん」はパリパリの揚げ麺ではなく普通の茹で麺。しかも、金属製の皿がなんとも安っぽく期待外れであったようだ。「うな重」は値段が高いだけあってまずまずとのこと。
バスの時間まで店内で寛いでもよかったのだが、時間があるのにわざわざバスに乗るのも軟弱なので、殿之浦まで歩くことにする。殿之浦までの道路はフェリーが発着する桟橋へ続くだけあって、広々とした立派な舗装道路であるが、かなりの急勾配だ。飛島から戻って来るときにこの急勾配を登る気にもなれず、帰りはバスに乗ろうと話し合う。
しばらく歩くと山肌を削って道路を建設中の箇所が視界に入る。現在でもそれほど交通量の多くない立派な道路があるのに、どうして新しい道路を建設する必要性があるのか理解に苦しむ。地方財政が厳しいのは、経済の活性化という名目で無駄な公共工事を行うことにも大きな要因がありそうだ。
殿之浦桟橋には既に鷹島汽船の「ニューたかしま2」が停泊していた。「ニューたかしま2」は殿之浦と松浦鉄道の鷹島口駅に近い今福を結び、途中で飛島に立ち寄る。これから飛島へ渡り、再び鷹島へ戻って来る予定であるが、仕事の都合で週末参加の福井クンはそのまま今福へ向かうことになる。桟橋の前に「元寇ロマンの島」という石碑があったので、福井クンと最後の記念撮影をする。鷹島では、元寇における激戦地であった歴史を生かし、「元寇ロマンの島」というキャッチフレーズで島の活性化を図っているとのことだ。
待合室で飛島まで220円の乗船券を購入すると、乗船時に飛島で下船することを船員に申告して下さいとのこと。下先客がいないと飛島を通過するのだろうか。昨年の対馬市営渡海船「ニューとよたま」も利用者がいなければ寄港しなかったので、忠告にしたがって桟橋で乗船券を回収していた船員に「飛島まで」と申告する。
「ニューたかしま2」には、サロン室があったので、飛島までの20分足らずを過ごす。安藤クンと奥田クンは出航を待たず早々にソファーで寝転んでしまった。昼寝をするほどの乗船時間でもないのだが、今福まで行ってしまったら、折り返しの便で戻って来ればよい。
飛島が近くなったので、安藤クンと奥田クンを促して早めに車両甲板で待機する。乗船時に「飛島まで」と申告したはずであったが、今度は別の船員から「飛島だよ?」と念を押される。飛島に降り立ったのは我々3人だけで、福井クンを乗せた「ニューたかしま2」を見送る。船内で手を振る福井クンの姿が見えた。
飛島は鷹島と福島の間にあり、周囲6キロの小さな漁業の島である。青島とは違ってフェリーの待合室は無人なので、荷物を残して散策を始める。もっとも、道が通じているのは島の南半分だけなので、行けるところまで行って戻ってくるしかない。堤防沿いの道を歩いていると右手には小飛島が見える。無人島なので交通手段はないが、距離にして200メートル程度しか離れていないので、その気になれば泳いで行くこともできそうだ。
「どこから来たの?民宿に泊まったのかい?」
堤防の近くで海水浴をしていた5〜6人の小学生を引率したおじさんから声が掛かる。佐賀県のボーイスカウトの引率で2日前から飛島に来て民宿に泊まっているとのこと。本当はもう1日早く来る予定だったが、台風の影響で出発を遅らせたとのこと。朝から日が暮れるまで釣りや海水浴を楽しんでいるという。私はボーイスカウトに参加した経験はないが、飛島のような何もないところにもやって来て活動しているとは驚いた。自然豊かな環境での活動は小学生の情操教育には役立つだろう。
ボーイスカウトのメンバーが宿泊しているという民宿の前で舗装道路は途切れるが、その先も轍が残る道が続くので先へ進む。やがて木々に埋もれたコンクリート製の建造物の廃墟が現れる。安藤クンは鷹島で石の採掘加工が盛んであることから、ここも採石場の跡ではないかと予想したが、後で調べると飛島と小飛島は炭鉱の島であったことが判明。昭和30年代半ばの最盛期には、2,000人以上がこの飛島で生活をしていたそうだ。道が続いているのもこの炭鉱跡までだったので、ボタ山や石炭を船積みしていた桟橋跡などを眺めて引き返す。
「ニューたかしま2」で殿之浦に引き返す。福井クンを今福で降ろして引き返してきた便だが、飛島の出航時刻は定刻の13時44分よりも3分の早発。ぎりぎりに桟橋に戻ってきたら積み残されるところで、早発は今後の離島めぐりでは悩みの種になりそうだ。
殿之浦からは松浦市営バスで営業所まで戻る。事前に調べでは、「ニューたかしま2」の殿之浦到着時刻もバスの発車時刻も14時の同時発着で、バスがフェリーに接続せずに出発することはないだろうとは思いながらも、無事に乗り継げるか心配であった。もっとも、今日は飛島での早発をそのまま持ち越して13時57分の早着。桟橋前にはまだバスの姿がなく、余裕をもって乗り継ぐことができた。運転手は船唐津から乗ったバスと同じ人で、今度は行き先を聞かれる前に「営業所まで」と伝える。
営業所からは徒歩で15分の歴史民俗資料館へ。300円の入館料を支払うと、職員の解説が始まった。鷹島の地理や現状について触れた後、メインはやはり元寇となる。1281年(弘安4年)7月30日の夜、当時は神風と呼ばれた台風の影響で総勢約4,400隻の船団と14万の元軍兵士の大半が鷹島の海底に沈み、日本は元軍の侵略から免れたという。1981年(昭和56年)7月から鷹島近海では沈没船の遺物調査と引き揚げ作業が開始され、1993年(平成6年)に神崎沖で発見された元寇船の木製碇を見せてくれた。その他にも多くの遺跡が引き揚げられているが、直ちに展示できるような状態ではなく、数年かけて隣接する埋蔵文化財センターで脱塩処理をしているとのこと。700年以上前の史実が遺跡によって解明されていくのは大変興味深い。
職員の解説が終わると館内を自由に見学する。昨年の壱岐・対馬に続いてここでも元寇について詳細な解説がなされている。壱岐、対馬、そしてこの鷹島に共通するのは、いずれの島も元軍に占領された経緯があることだ。男性はすべて殺され、女性は両手に穴を開けられ、縄を通して船の舳先に数珠つなぎに繋がれて強姦されたという。学校で教える歴史は、単に元軍が台風で壊滅状態になって侵略から免れたことだけが強調されるが、実際に壱岐や対馬、そして鷹島での惨劇はほとんど伝えられていない。
「きっと中国や韓国ではこんな風に日本軍によってもたらされた惨劇が詳細に語り継がれているから反日感情はいつまでたっても治まらないのだろうな」
奥田クンがつぶやくが、確かにその通りだと思う。元寇によって滅ぼされた鷹島は、江戸時代になるまで無人島であったことが、地層から推定されるとのことで、この周辺でも、長期間に渡って元軍の再来を恐れていたのであろう。
歴史民俗資料館を後にして、今度は日比港に向かって歩く。殿之浦への道のりと同様に急勾配の坂道を下って行く。我々を何台もの自家用車が追い越して行き、日比港からフェリーに乗るのであろう。鷹島への航路は御厨と今福からの鷹島汽船のほか、佐賀県の星賀とを結ぶ松尾フェリーがある。この区間に並行するように現在、肥前鷹島大橋を建設中であり、平成21年度中には完成見込みとのことだ。
日比港には既に16時10分のフェリーを待つ乗用車の列ができていたが、桟橋にはまだフェリーの姿はない。ここでも殿之浦と同じ「元寇ロマンの島」という石碑があり、バス停の脇には元寇にまつわる悲劇の物語を記した解説板がある。元寇で鷹島の島民が1人残らず虐殺されたことは歴史民俗資料館で知ったが、島の南部にある開田地区では最後まで元軍に見付からないように隠れていた8人家族の一家があったそうだ。ところが、飼っていた鶏が鳴いたために一家は元軍に発見され、灰溜めに隠れていた婆さまを除いて皆殺しになったという。以来、開田地区では鶏を飼わなくなったそうだ。
時間があるので日比港のすぐ近くにある鷹島ダムへ足を運ぶ。鷹島ダムの建設により、鷹島の水不足が解消されたと歴史資料館の職員から聞かされていたので、どんなものか見ておきたかった。ダムの水門の上から想像以上に大きなダムを見渡す。水門の脇には小さな公園があり、島民の憩いの場になっているのかもしれないが、さすがに炎天下では誰もいない。水門の上から日比港を見下ろすと、フェリー待ちの自動車の数が増えており、すべての車両を積載できるのかと心配になるが、少なくとも乗客は積み残されることはなかろう。やがてこちらに向かって来るフェリーの姿が見えたので港に戻る。
200円の乗船券を待合室で購入して、松尾フェリー「第8だいあん」に乗り込む。船室はすべてテーブルをソファーで囲むサロンタイプだ。自家用車での利用者は10分足らずの乗船時間のためか、船室まで上がって来る人が少なく、2人で1区画をゆったりと利用する。フェリーが動き出すと、やがて進行方向右手には肥前鷹島大橋の橋脚が立ち並んでいるのが見えた。
安藤クンによれば「第8だいあん」は、鉄道・運輸機構との共有船舶とのこと。新規に購入する船舶を担保にした融資制度で、離島の足を確保することが目的だという。もっとも、肥前鷹島大橋が開通すれば、松尾フェリーの存続すら危うくなり、資金の回収もできないのではないかと思うが、フィリピンあたりでそれなりの価格で売却できるらしい。
「第8だいあん」は日比港から10分で星賀港に到着。星賀は一昨年にレンタカーで立ち寄った場所だ。わざわざ鷹島から星賀に立ち寄ったのは、玄界灘に浮かぶ佐賀県の7島のうち、未訪であった向島へ渡るためである。向島への渡船は午前と午後の2便だけしかなく、一昨年は時間の都合で向島へ渡ることができなかったのだ。昨日の小呂島に続く落ち穂拾いとなる。
星賀と向島を結ぶ「向島丸」の乗船場所は、フェリー桟橋から少々離れていたので、急ぎ足で移動する。星賀での乗り継ぎ時間は10分しかない。星賀で「向島丸」を探している間に出航時刻になってしまったら目も当てられないので、「第8だいあん」が桟橋に接岸する前からデッキで目を凝らして「向島丸」を探していたのだ。
「向島行きはこの船ですか?」
白い船体に「MUKUSHIMAMARU」と青いアルファベットの入った小型クルーザーに集まっていた地元の人に尋ねると「向島はこの船」との返事。船室に入ればまだ20代と覆われる若い兄さんが450円の乗船料を徴収。最初は船長の手伝いでもしているのかと思ったら、この兄さんが船長だったので驚く。船内にはパソコンも設置されており、スマートでアルファベットを用いた船体のデザインもどちらかと言えば若者の発想だろう。「向島丸」は島へ帰る数人の地元客の他に荷物を積み込んで星賀を出航した。
やはり一昨年に訪問した玄海原子力発電所を右手に見ながら向島を目指す。小高いクラマ岳を抱える島が目指す向島で、クラマ岳山頂には白い灯台が見える。もちろん向島では灯台に立つ予定だが安藤クンは解っていながら「灯台まで行くの?」と不満そうに声をもらす。海上から眺める灯台までの道のりは果てしなく遠いような気がして安藤クンの気持ちもわからないでもない。
「向島丸」は10分程で向島港に到着。今宵の宿となる「民宿しま」には、夕方の連絡船で到着することを伝えておいたので、民宿の人が港まで迎えに来てくれているかと思ったが、港に出迎えに来ていたのは荷物の受け取り目的の人だけだった。大きな島ではないけれども、案内板のようなものも見当たらず、民宿の場所を探すのも一苦労かなと思っていたら、安藤クンが港の目の前にある「民宿しま」の看板を発見。女将さんがしっかりと民宿の前で出迎えてくれた。
冷たい麦茶で喉を潤し、しばらく休憩してから向島散策に出発する。出掛けに女将さんに向島のお勧めスポットを尋ねてみるが、「灯台以外には東の方に珍しい岩肌があるぐらいで、他には…」とはっきりした返事がない。「とりあえず適当に散策しますので」と民宿を出た。
向島は入野半島の沖合い3.5キロの海上に浮かぶ周囲3.8キロの小さな島。人口は70人程度で、飛島と同じぐらいだ。豊臣秀吉が向こうの島と呼んだことから向島と命名されたという説もある。島名は向島だが、どういうわけか住所表示は唐津市肥前町向嶋と記載されている。
まずは民宿の近くにあった八坂神社で参拝。京都の八坂神社と縁があるのだろうか。島の守護神として漁港を見下ろすような位置に鎮座している。境内には狛犬の代わりに牛の石像があり、なぜ牛なのかは不明。ここで民宿を出て行方不明になった奥田クンに携帯電話で連絡する。携帯電話は圏外だと思っていたのだが、しっかりアンテナマークが3本表示されている。
民宿の裏手にあった自動販売機に寄り道してはぐれた奥田クンと合流して、女将さんが口にした珍しい岩肌を鑑賞する。玄武岩の柱状節理であり、大きな貝殻が組み合わさっているようにもみえる。それはいいのだが、奇岩の前には三角形の反射板が数本立ち並んでおり、その光景がかえって奇妙である。夜間に通行する船に島の位置を知らせるためなのだろう。その他にも向島には奇妙な設備が目に着く。例えば、太陽光をエネルギー源とするソーラー街灯だ。照明器具の上にソーラーパネルが屋根のように付いている。これは環境対策として次第に都市部でも増えていくかもしれない。大きな支柱にアンテナもいくつも取り付けた通信施設も珍しく、向島では有線の代わりに無線で電波を飛ばすルーラル通信を採用しているとのこと。
「近くに玄海原発があるから、向島も電源立地交付金で様々な設備投資をしたに違いない」
安藤クンが分析する。電源立地地域対策交付金は、発電用施設の周辺地域で行われる公共用施設の整備等に対し交付される補助金である。原子力発電所の設置について地元の理解を得るためには、やはり見返りが必要なのである。
行き止まりになっていたので再び港まで引き返し、今度は島の北端にある立岩を目指す。道路は舗装されているものの、集落を抜けると木々に覆われている。普段はほとんど人が通らないのか、我々が足を踏み入れると蝉が驚いて一斉に飛び立つ。その際に蝉がおしっこを撒き散らしていくのでたまらない。蝉のおしっこは樹液でほとんど無害とはいうものの、やはり感じがよろしくない。手を叩きながら歩いて早めに蝉が逃げるように仕向けるが、「怪しい宗教団体みたい」と奥田クンが冷やかす。途中で金山ブツブツという人がブツブツ言っているような音がする怪奇スポットを通過したはずなのだが、蝉の鳴き声でまったく気が付かなかった。
向島港から20分少々歩いてたどり着いた立岩であったが、雑草に覆われたベンチが設置されているものの、ここも周囲は樹木で覆われており視界はきかない。ベンチがあるということは、かつては展望台のように整備されていたのであろうか。かろうじて樹木の隙間から玄界灘を確認する。この辺りには、その昔、海賊が向島を襲った時に島民がこの洞窟に財宝を隠したという洞窟があるはずで、せめて洞窟ぐらいは行ってみたかったのだが、周囲は「立入禁止」の札が掛ったロープが張られているので諦める。無理にロープを越えれば断崖絶壁から玄界灘にドボンであろう。
向島の水子地蔵が迎えてくれる中心地点まで引き返し、今度はメインスポットのクラマ岳を目指す。海上からは果てしなく遠くに見えた灯台も、実際に歩いてみれば舗装された遊歩道も整備されていたので思っていたよりも苦もなくたどり着いた。白亜の肥前向嶋灯台は当然のように無人で、南京錠が掛けられて内部に入ることもできなかったが、灯台脇から眺める景色は素晴しい。目の前には入野半島が横たわり、鷹島や建設中の肥前鷹島大橋が見える。左手にはピカピカと光りを放つ玄海原子力発電所も確認できる。眼下の向島港と集落はおもちゃのようだ。灯台の近くにある向島灯台公園からは、鷹島と明日訪問する黒島が見える。遠くには平戸島や的山大島も確認。視界がよければ壱岐島も見えそうな感じだ。
向島のメインスポットはこれで足を記したことになるのだが、日没までは時間がありそうなので、遊歩道が続いている西海岸の磯の浜にも行ってみる。やはり水子地蔵の地点まで戻り、今度は左方向に下る道を進む。やがて水源地のダムが現れ、離島の水事情を考えさせられる。さらに進むと目的地の磯の浜に出た。静かな海岸であるが、波に打ち上げられたゴミが多いのが残念。一昨日に台風が通過した影響があるのかもしれない。しばらく夕陽を眺めながら波の音を聞き入っていたが、日没までに民宿へ戻らないと大変なことになるので腰を上げる。
民宿に戻れば風呂が準備されていたので食事の前に1日の汗を流す。部屋の向いがすぐ風呂場だったが、驚いたことに風呂場はシャワー室と透明なガラス戸1枚で仕切られているだけ。しかも、シャワー室は海水浴客の便宜を図ってか、通りからそのまま出入りできるようになっている。言い換えれば外から簡単に風呂場をのぞき込むことができるような構造で、我々が利用する分には大した問題ではないのだけれども、女性客はどうするのだろうかと少々気になる。
全員が汗を流し終えたところでいよいよ夕食。事前の情報から今夜は豪勢な食事になることは明らかだったので楽しみである。食事の用意された部屋に入れば刺身の盛り合わせ、サザエの壺焼き、アワビの刺身、鯛の煮つけ、鯛の潮汁、そして向島特産の生ウニ、ウニご飯と盛りだくさん。メインはタコのしゃぶしゃぶだ。
「おじいさんが漁で捕ってきたものを食卓に並べるので、日によって用意できるものが違います。今日は珍しくおじいさんがタコを捕ってきたのでタコしゃぶにしてみました。お皿に並べるまで動いていたので、もしかしたらまだ動くかもしれませんけど。タコしゃぶは初めてお客さんに出すもので…お刺身はクロです。一般的にはメジナと言いますね」
女将さんから一通りの説明を受けて、さっそく箸を動かす。まずは活きのいいタコを湯通ししてパクリ。いつも口にするゴムのような食感とはさすがに違う。ウニご飯も惜しみなくウニが盛られているせいかご飯の一粒一粒までウニのエキスが浸みこんでいる。夢中で海の幸を頬張っていると、今度は女将さんの娘さんがアワビの味噌焼きを運んできてくれた。まだ、高校生ぐらいでなかなかの美人だ。我々が10歳若ければ話し相手になってもらうところだが、さすがに30歳を過ぎたおじさんなので自重する。娘さんが美人だったからというわけでもないが、アワビの味噌焼きは麹味噌の香ばしさがアワビとよく合っていて美味しかった。
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