パソコンがお友達

第92日 福岡−松浦

2007年8月4日(土) 参加者:安藤・奥田・福井

第92日行程  新大阪駅東改札口前で2年ぶりの参加となる福井クンと落ち合う。ここ数年は外周旅行のアプローチとして定着している新大阪21時59分発の快速「ムーンライト九州」に乗るためだ。「青春18きっぷ」を福井クンと共同利用する関係で、列車内ではなく改札の外で待ち合わせとなった。昨年は「ムーンライト九州」に乗り遅れて、新幹線で岡山まで追跡する失態を演じたが、今年はしっかりと余裕をもって自宅を出てきたから安心だ。
 挨拶もそこそこで長距離列車が発着する17番線ホームに移動。発車時刻の10分前であるのにまだ「ムーンライト九州」の姿はなく、ホームには週末ということもあって、家族連れや鉄道ファンの姿が多い。最近は鉄子と呼ばれる女性の鉄道ファンが多くなったと聞くが、この日もホームで時刻表をめくっていたり、カメラを抱えた女性の姿が見受けられる。数年前までは考えられない状況だが、TVアニメ化された「鉄子の旅」や今年の4月から6月までTBS系列で放送されていたドラマ「特急田中3号」などの影響もあるようだ。
 21時50分を過ぎてようやく「ムーンライト九州」が入線してきた。久しぶりの再会を祝してラウンジで乾杯とも思ったのだが、昨年までは連結されていたはずのラウンジカーが連結されていない。聞けば2006年12月の運転からラウンジカーの連結がなくなったそうだ。3月にも「ムーンライト九州」を利用したのだが、まったく気が付かなかった。「ムーンライト九州」には学生時代から何度も乗っているが、ラウンジカーは1度も利用することがなかった。廃止になる前に1度ぐらい利用しておけばよかったと悔まれる。
 昨年までは水曜日に出発することが多かったので、「ムーンライト九州」は概ね空いており、座席を向い合せにして4席を占拠して過ごすことも可能だったのだが、今年は週末ということもあって満席。車内放送でも「本日は満席となっております。指定券をお持ちでない方はご利用できません」と繰り返している。今年は窮屈な思いをして一夜を過ごさなければならないようだ。リクライニングシートが思ったよりも深く倒れるのが唯一の救いだ。
 姫路を過ぎてから意識がなくなり、広島で運転停車をしているのを確認。やがて厚狭到着を知らせる車内放送で起こされたが、厚狭に到着する前に眠ってしまう。気が付けば下関到着を知らせる車内放送で、これだけ夜行列車で眠れたのは久しぶりだ。それほど疲れが溜まっているのだろうか。下関では機関車の付け替えのため12分間停車する。ここでも鉄子が顕在で、機関車の付け替えの様子を熱心にカメラに収めている。そんな様子を横目に下関駅ホームで顔を洗ってさっぱりする。早朝から営業している売店で朝食の駅弁を買うのも例年通りだが、下関駅弁もそろそろ全種類食べ尽しそうな勢いだ。福井クンは名物「ふく寿司」(830円)を選択したが、私は「晋作弁当」(500円)を購入した。中身は単なる幕の内弁当であるが、500円という破格の駅弁に感激した。
 関門トンネルを抜けて無事に九州入り。携帯電話に安藤クンから羽田を出発する旨のメールが届く。3時間後にはまだ東京に居る安藤クンと福岡で合流できてしまうのだから飛行機は速い。車内放送では、博多までの停車駅と到着時刻を案内しているが、「博多到着は7時47分です」というアナウンスに耳を疑う。博多到着は7時18分のはずではなかったか。後で調べてみると、新大阪を金曜日と土曜日に発車する「ムーンライト九州」は、博多到着時刻が30分近くも繰り下げられていることが判明。もともと時間に余裕があったのでその後の行程に支障はないが、プランニングの段階では全く気が付かなかった。最近は時刻表の値段が高くなったので、私もインターネットだけを利用して行程を組むようにしているが、この手の一時的な時刻変更はインターネットに反映されていないことも多い。綿密な計画を立てるときは、やはり時刻表が必要だなと痛感した。
 博多駅からは7時55分の西鉄バスで能古島渡船場を目指す。博多駅−能古島渡船場を結ぶ西鉄バスには、一昨年の帰りに逆コースで利用したので安心していたが、どうも走っているルートが違う。一昨年は都市高速から天神を経由して博多駅に運ばれたが、現在のっているバスは天神の代わりに薬院を経て、しばらく地下鉄七隈線に沿って走っている。「ムーンライト九州」の到着時刻が遅くなった影響で、当初の予定していたバスに乗れなかったこともあり、一瞬、乗り間違えたのではないかと不安を感じたが、見慣れた西新の交差点に出て胸をなでおろす。能古島渡船場までのルートは複数あるようだ。変わったルートも面白かったなと思うものの運賃は460円と都市高速経由の420円よりも40円高い。目的地が同じなのだから運賃は同一にして欲しいところだ。
 姪浜港の待合室には既に昨日から九州入りしている奥田クンの姿を発見。昨夜は「平和台ホテル荒戸別館」に泊まったとのことで、一昨年の外周ルートを忠実に再現した格好だ。間もなく、朝一番のANA981便で福岡に飛んできた安藤クンもタクシーで乗り付けて今回のメンバーが無事に揃った。
 今回、姪浜港を集合場所としたのは、玄界灘に浮かぶ島で唯一未訪となっていた小呂島(おろのしま)へのリベンジを果たすためだ。一昨年の最終日に小呂島へ渡ろうとしたところ、福岡市営渡船の職員に「帰りの便は保証しない」と散々脅されて断念した経緯がある。今回も昨日、九州地方を通過した台風5号がまた日本海沖に留まっているため、同じような対応を受ける可能性があるが、波は時間と共に穏やかになることは気象庁のホームページで確認してきたし、何を言われても小呂島へ渡ろうとの決意を改めてする。ところが今回は何ら咎められることなく小呂島までの往復乗船券を売ってくれた。少々拍子抜けしたが、「2006年10月1日より、定期航路の欠航時には小呂島待合室を開放します。」との張り紙を見付けて納得する。小呂島には宿泊施設がなく、帰りの便が欠航したときに今までは野宿する場所すらなかったのだ。それが待合室の解放により、野宿をする場所を提供することになったので、市営渡船の職員もあまりとやかく言わなくなったわけだ。
 小呂島には漁協の購買があるが、週末は休みと聞いていたので、待合室の売店で各自食料を確保する。最初はパンかおにぎりで十分と考えていたが、いささかコンビニエンスストアよりも高い。パンやおにぎりを2、3個買うのと大して値段の違いはないので、「唐揚弁当」(500円)を手にした。「WEST ILAND」という文字が入っているので、なんとなく島で食べる弁当としてはふさわしいような気がした。
 売店で買い物をしている我々に職員が乗船を促す。また、出航時刻の5分前だが早々に出航したい様子だ。足早に桟橋へ向かう我々にまた別の職員が追いかけてくる。今度は何事かと思ったら、往復乗船券の復路券を利用するときは、事前に小呂島渡船場の待合室で確認印を押してもらって欲しいとのこと。往復乗船券は4日間有効だから、不正に使用されないように入鋏したいのであろう。大騒ぎするほどのことでもない。
 一昨年は姪浜港の待合室から苦々しく出航を眺めた「ニューおろしま」に無事に乗船。我々が乗り込むとタラップが上げられ、約2分の早発だ。離島航路がしばしば早発するのは承知のうえだが、福岡市営渡船までもがこのような状況でいいのかと疑問に思う。船内には既に島民と釣り客とおぼしき乗船客が20名程と予想外の乗船率だ。現在の「ニューおろしま」の定員は60名であるのでまだまだ余裕はあるが、旧型船の定員は35名であったので、乗船客を積み残すことも多かったらしい。小呂島は離島といってもさすがは福岡市の一部である。
 船内に閉じ込められていると船酔いする可能性が高いため、甲板への脱出を試みたが、「荒天時開放厳禁」の札が掛ったドアに遮られて断念。仕方がないので船内の窓から玄海島を確認したところで、小呂島までの約1時間を睡眠にあてることにした。朝一番のフライトに乗り遅れまいと徹夜をした安藤クンは早々に寝息を立てていた。
 10時05分に「ニューおろしま」は小呂島港に入港した。驚いたことに船内で英語のアナウンスが始まる。こんなところに外国人がやって来るとも思えないが、志賀島や能古島といった観光航路とあわせて収録したのであろう。
 帰りの出航時刻を確認するために待合室に立ち寄ると、小ぶりながらきれいな建物で冷房まで効いているのだから驚く。日中はほとんど利用者もいないと思われる待合室に余計な光熱費を使っているのだから税金の無駄遣いも甚だしい。まあ、おかげで我々も恩恵に預かることができるのだから文句ばかりも言っていられない。乗船券売り場のおばちゃんに断って荷物を待合室に置かせてもらう。最近はテロ警戒の影響で、ちょっと荷物を置いておくだけで警察に通報されてしまうので気をつけなければならない。
 身軽になって小呂島の散策を開始する。玄界灘に浮かぶ小呂島は南北1.5キロ、東西0.5キロ、周囲3キロの小島だ。人口は約230人で、男性は旋網船団(まきあみせんだん)で活躍し、女性は海女が多い漁業の島だ。民家も漁港近くに集まっている。その集落の路地を歩いているとやたらと猫が多い。魚が豊富で外敵も少ない小呂島は猫にとっても天国でなかろうか。
 最初のポイントは漁港のすぐ近くにある七社神社だ。小さな神社であるが、島民はここで海の安全と豊漁を祈っているのではなかろうか。境内には樹齢300年を超すと言われる蘇鉄がそびえている。小呂島は対馬海流の影響で冬でも雪が降ることはなく、蘇鉄が成長するのには適した気候なのであろう。七社神社の蘇鉄は「小呂祝いめでた」という島唄にも登場する。拝殿の背後にはビロウ樹が自生していた。
 七社神社の裏手には離島では珍しいアパートが建っていた。わざわざ小呂島でアパートを借りる人がいるとは思えないが、公務員の社宅が工事関係者の宿舎ではないかと推測する。民宿が皆無とはいえ、宿泊施設の需要が皆無ということはなかろう。
 坂道を登りながら集落を抜けると、今度は段々畑が広がる。スイカや芋、玉ねぎなどが栽培されているようだ。段々畑の脇には農業用水を備蓄するためなのか大きな甕が置いてある。かつては生活用の水甕や醤油甕として使っていたものを農業用に転用しているらしい。
 小呂島の生命線とも言えるダムを眺めて小呂島の中心地に位置する小呂小中学校に到着。赤い屋根と白い壁の校舎と青々とした芝がきれいに整備されたグランドが印象的だ。青い玄界灘とのコントラストも見事で、これほど恵まれた環境の学校はなかなか見掛けることはできない。もっとも、集落のある港からはまっすぐ歩いても20分ぐらいかかる距離で、もう少し通学に便利な場所に建設できなかったものだろうか。もしかしたら、児童の体力づくりのためにわざと集落から遠い場所に建設したのかもしれない。
 舗装された道路は小学校までで、ここから先は獣道を進まなければならない。小学校のグランド沿いの脇道を進む。この先には防空壕や砲台跡、海軍望楼などの戦時中の軍事施設が残っているはずだ。昨日の台風5号の影響で、ぬかるんでいる場所やしばらく誰も通っていないのか蜘蛛の巣が張られている箇所があり、先へ進むのも容易ではない。だからと言って引き返しても時間を持て余すだけだし、壱岐が見渡せるという海軍望楼にはぜひ足を記したい。足元を確かめながらゆっくりと獣道を登っていくと、やがてコンクリート製の建物が現れた。
 場所的には海軍望楼のはずであるが、周囲は木々に囲まれていて望楼と呼べる様子ではない。
「ここは防空壕か砲台跡かもしれない」
自信なさげの言葉を口にすると安藤クンから指摘を受ける。
「防空壕というのは敵から見付からないように地面に穴を掘って造るのだから、ここは防空壕ではないよ」
確かにその通りだ。安藤クンはここを灯台の跡ではないかと推察したが、後で調べるとやはり海軍望楼で間違いなかった。
 薄暗い建物の中に入ると台風の影響でまだ雨水が残ってじめじめしている。階段があったので2階に登ってみたが、視界は樹木で遮られており、壱岐を見渡すところではない。屋上に出れば障害物もなくなるのであろうが、階段は見当たらない。その代わりになぜか三脚が置いてあり、これで屋上に行くのだろうか。もっとも、室内から屋上へ出るには小さな天井窓のようなところを通り抜けなければならず、衣服が汚れるのは確実なので見合わせる。結局、海軍望楼から壱岐を見渡すことはできなかった。
 帰りは弾薬庫の跡に立ち寄ったりしながら小学校へ戻る。防空壕や砲台跡も近くにあるはずだが、どの道を進めばよいのかわからなかったので諦める。脇道から舗装道路へ飛び出すと、夏休み中にもかかわらず、学校へ登校する児童がぞろぞろとやって来る。楽器を手にしており、部活動の練習でもあるのだろう。見慣れない怪しい4人組に対しても「こんにちは」とどの子も挨拶してくれるので気持ちがいい。こちらも負けずに「こんにちは」と返事をする。
 港に戻る途中で完成したばかりと思われる新しい公園があったので立ち寄ってみる。昨年完成したばかりの小呂島公園で、段々畑を公園したのか2段構えの公園となっている。下段は広場で、上段は遊具が整備されていた。我々は港を見下ろすことができる上段のベンチで昼食とする。時刻はまだ11時過ぎでいささか昼食には早い時間なのだが、朝食が6時前の下関駅弁だったからお腹は十分に空いている。早朝に東京を発った安藤クンも同じであろう。
「あっ弁当を待合室に置いてきちゃった」
奥田クンがとぼけた声をあげる。時間があるので待合室に弁当を取りに行ってもらってもよいのだが、奥田クンは福岡泊まりで普通の時間に朝食を食べてきているのだから、待合室に戻るまで我慢してもらっても支障はないだろう。
 ベンチに腰掛けて夏の日差しを浴びながら箸を動かす。気温も上昇しており、持参した食糧も早く食べてしまわなければ傷んでしまいそうだ。小呂島公園は見晴らしが良いものの夏の日差しを遮るような箇所はほとんどなく、折角の公園も日中の利用者は皆無だ。ベンチに日よけでも設ければ、島民の憩いの場にでもなるのではなかろうか。
 食事を終えて港の待合室に戻るがまだ12時をまわったところ。出航まではまだ1時間以上もあるので、冷房の効いた室内でしばらく休憩した後、漁協の購買部をのぞいてみることにする。小呂島唯一のお店で、土・日は閉まっていると聞いていたのだが、奥田クンが島内散策に出掛けているときには営業していたとのこと。品揃えに期待はしていないが、暇つぶしになるし、アイスクリームぐらいは買えるかもしれない。ところが店にはカーテンがかかっており、張り紙を見れば第1土曜日、第3土曜日、第5土曜日は開店しているが、12時から13時までは昼休みとなっていた。仕方がないので、店の前にあった自動販売機でジュースを買って喉を潤す。
 待合室に戻ると朝のおばちゃんの姿があったので、復路券に日付印を押印してもらって「ニューおろしま」の船内へ。荒天時とも思えないが、やはり甲板は開放されていなかったので、早々に座敷席で寝ころび、昼寝に決め込む。台風の影響もなく穏やかな航海で、姪浜港までの約1時間はぐっすりと休むことができた。
小呂島港  「ニューおろしま」は定刻よりも5分遅れの14時25分に姪浜港へ到着。ここからはタクシーで姪浜駅へ移動する。路線バスも走っているし、歩けない距離でもないのだけれど、姪浜14時43分の筑前前原行き普通列車473Cに乗らなければ、今宵の宿がある御厨の到着時刻が遅くなってしまうのでタクシー利用とした。
 待合室の前で客待ちをしていた姪浜タクシーに乗り込むと、初乗り料金が350円と驚くほど安い。タクシー業界の価格競争も大変だなと思っていたが、メーターはすぐに上昇し、姪浜駅に着いたときは5分足らずの乗車で830円となった。通常のタクシーであれば、初乗り料金590円で1,600メートルの乗車が可能なところ、姪浜タクシーは初乗り料金を350円に設定する代わりに乗車可能距離は850メートル。その後、1,100メートルまで430円、1,350メートルまで510円となるが、それ以上乗車してしまうと通常のタクシーと同一の料金体系となる。近距離客を取り込むための営業戦略であるが、1,600メートル以上乗車する場合には恩恵がない。
 姪浜からはJR築肥線を乗り継いで伊万里へ向かう。外周旅行は既に伊万里まで進んでおり、小呂島は落ち穂拾いの位置付けだ。私と福井クンは「青春18きっぷ」を持っているので伊万里までの切符を買う必要がないが、安藤クンと奥田クンは別途伊万里までの切符が必要になる。自動券売機の上に掲げられた料金表には、西唐津までの料金記載しかなかったため、伊万里までは100キロを超えるのだろうか。それならば松浦鉄道の連絡乗車券として購入してしまえば、松浦鉄道線内でも途中下車ができるのではなかろうか。連絡乗車券は精算事務の煩雑さから縮小傾向にあるとは耳にしていたが、松浦鉄道はJR松浦線を引き継いだのだし、連絡乗車券がまだ存在するかもしれない。安藤クンと奥田クンは、ジョイロードへ切符を買い求めに行った。
 すぐに切符を手にして戻って来ると思ったのだが、安藤クンと奥田クンはなかなかジョイロードから戻って来ない。ようやく切符を手にして出てきたのは473Cの発車間際。急いでホームへ駆け上がり、なんとか車内に滑り込む。この列車に乗り遅れたら、タクシーを奮発した意味がなくなってしまう。安藤クンに経緯を聞けば、最初に乗車券購入の申込書を書かされたうえ、松浦鉄道の御厨までの切符を頼んだにもかかわらず、山陰本線の御来屋と勘違いされたそうだ。しばらくすると、松浦鉄道との連絡乗車券は取り扱っていないとの返事で、目的地を伊万里に変更。やっと発券された乗車券は博多−伊万里という頓珍漢な切符だったとか。
「若いおねえちゃんで多分新入社員じゃないかな。それにしても近郊の駅名ぐらいは把握しておいてもらわないと困るね」
松浦鉄道の連絡切符を扱っていないのであれば、松浦鉄道の駅を知らなくてもやむを得ないのかもしれないが、多少の機転は働かせて欲しいところ。よくよく安藤クンの切符を確認すれば「下車前途無効」とあり、これは100キロ以内の乗車券ではないか。後で調べてみると姪浜−伊万里は75.7キロ。だったらジョイロードで購入しなくても、自動券売機で切符は買えたはずだ。姪浜駅の運賃表に西唐津までの料金表示しかないのはいささか不親切であると感じた。
 姪浜から10分程で2005年9月23日開業の九大学研都市に到着。高架化されている今宿−周船寺間にある九大学研都市は、九州大学の伊都キャンパス開校に合せて開業したが、肝心の九州大学は駅から4キロも離れており、駅名に九大を冠するのはいささか誇大だ。それでも駅前にはイオン福岡伊都ショッピングセンターが開店しており、乗降客もまずまず見受けられる。福岡市街地へのアクセスもよく、これから急速に発展していく地域に違いない。
 筑前前原で唐津行き339Cに乗り換え。乗り換え時間が1分しかなく、かつては跨線橋を走らされたこともあり、事前に警戒していたのだが、今日は向かいのホームに接続列車が待ち構えていた。さすがにJR九州もそのあたりの配慮はするようになったか。
 筑前深江付近から右手に唐津湾が広がる。しばらく国道202号線と並走する区間が続くので、一昨年の外周旅行でドライバーとして活躍した福井クンに「懐かしいだろう」と声を掛けるが、本人は「こんなところ走ったかなぁ」と首を傾げる。運転に集中して景色を眺める余裕がなかったのだろうか。筑肥線は国道202号線よりも一段高いところを走っているので、視点が高くなったことによる印象の違いがあるのかもしれない。思い出せないなら改めて景色を堪能してもらえばいいだけのことだ。
 虹の松原の松林を抜けると唐津城が姿を現した。外周旅行では3年連続の唐津入りだ。筑肥線は再び高架区間に入り、定刻の15時45分に終点の唐津に到着した。線路はこの先西唐津まで伸びているので、安藤クンは西唐津まで往復したい様子であるが、次の西唐津行きは16時02分の5837Dまでなく、これに乗って西唐津を往復してくると、唐津に戻って来る時刻は16時18分。これから我々が乗るべき伊万里行き2533Dは唐津を16時13分に発車してしまうので間に合わない。もっとも、西唐津到着後にタクシーでとんぼ返りをしてくれば間に合いそうな気もするが、安藤クンもそこまでの未練はなさそうである。そもそも安藤クンが手にしている切符は伊万里までの片道乗車券なので、西唐津に到着した時点で無効になってしまうのだ。
 改札口から出られない安藤クンと奥田クンは駅の待合室に残り、「青春18きっぷ」組の福井クンと一緒に改札口の外へ出る。もっとも、時間的な余裕はわずかに30分足らずなので駅前を散策する程度。一昨年は駅前の「ビジネスホテル宙(そら)」に宿泊しており、ホテルの前を流れていた町田川沿いまで行くと福井クンの記憶もよみがえったようだ。
 福井クンは駅前の唐津市近代図書館に興味を持ったようなので、西洋調の荘厳な建物の図書館に立ち入ってみる。外観だけではなくエントランスホールもシャンデリアが飾ってあり、正面階段は映画の撮影にでも使われそうな感じだ。税金の無駄遣いという印象をぬぐえきれないまま階段を上がっていくと、2階はどこにでもある一般的な図書館の光景であった。夏休み期間中なので小学生の利用者が多い。リュックを背負った怪しい2人連れがやってきたので、図書館の職員はやたらとこちらを気にしている。居心地もよろしくないし、時間もないので早々に退散した。
 待合室に取り残された安藤クンと奥田クンのご機嫌をとるため、駅構内の土産物屋で見付けた「佐賀牛せんべい」(525円)をおやつに仕入れる。青森で買った「青森のにんにくせんべい」に似ていたので、姉妹品ではないかと見当を付けた。案の定、せんべいと名乗っていても、ポテトチップスとえびせんの合いの子のような商品で、にんにくの香ばしさが食欲をそそる。正に「青森のにんにくせんべい」の姉妹品だ。どこで作っているのか製造元を確認したが、長崎の販売元が記載されているだけだった。青森と佐賀で販売されているのだから、他のシリーズにもどこかで遭遇するかもしれない。「佐賀牛せんべい」は2533Dの車内できれいに平らげられた。
 唐津16時13分発の2533Dは1両編成のワンマンカー。それでも2人でワンボックスを占拠できてしまうほどの乗客しかいない。ボディは全体が黄色の塗装でJR九州らしい派手な色彩だ。隣の島のホームに姪浜方面からやって来た西唐津行き645Cが入線して来ると入れ替わるように2533Dが発車する。平日ダイヤであれば、645Cは唐津到着が16時10分なので、この2533Dに乗り継ぐことができるのであるが、土曜・休日ダイヤでは645Cの唐津到着時刻は16時14分となっている。2533Dは曜日に関係なく常に16時13分発なので、土曜・休日ダイヤでは645Cから2533Dに乗り継ぐことができないのである。2533Dの発車時刻を数分遅らせてくれるぐらいの配慮があれば、我々も姪浜でタクシーの世話になる必要がなかったのだが、なんとなく利用者不在のダイヤの片鱗が伺える。もっとも、姪浜の運賃掲示板に象徴されるように、唐津で伊万里行きに乗り継ぐ利用者など物好きの旅行者ぐらいなのかもしれない。
 2533Dは唐津から2駅の山本までは唐津線を走り、山本から先は再び筑肥線に入る。路線図を見れば一目瞭然であるが、筑肥線は姪浜−唐津間、山本−伊万里間の2路線に分断されている。元々の筑肥線は博多−伊万里間を結ぶ1本の路線であり、列車は唐津から2駅姪浜寄りの東唐津まで来ると進行方向を変えて山本まで迂回する経路をたどっていた。ところが1983年3月22日に福岡市営地下鉄が姪浜まで路線を伸ばすと、旧国鉄筑肥線との相互乗り入れを開始すると同時に博多−姪浜間を廃止。同時に東唐津−唐津間を開業させて唐津線との接続を図ると同時に東唐津−山本間の迂回ルートを廃止したのだ。それでも国鉄時代は唐津−山本間は筑肥線と唐津線の二重戸籍区間となっていたため、建前上筑肥線は1路線の体裁を保っていた。ところが1987年4月1日のJR発足と同時に二重戸籍が解消され、唐津−山本間は唐津線が唯一の戸籍となった。最初の頃は奇妙な路線と思ったが、最近では信越本線も横川−軽井沢間の廃止により、筑肥線と同じような扱いになっている。
 唐津郊外の住宅街といったような山本を発車し、2533Dは再び筑肥線に入る。唐津線のレールが分かれていく様子を見ようと進行方向左側の車窓に目を凝らすが、いつまでたっても松浦川が寄り添っており、線路が分岐する様子はない。気が付けば唐津線の次の駅である本牟田部を通過。やがて唐津線が右側に分岐したと思ったら、すぐに筑肥線が右にカーブして唐津線を跨ぐ。ローカル線にしては複雑な配線だ。唐津線と分岐したと思ったら肥前久保に到着。唐津線の線路も近くにあるのだが、今度は唐津線の駅がない。本牟田部、肥前久保の両駅は筑肥線と唐津線の双方を停車させてやればよさそうだが、わずかな利用者のために駅の移転やホームの新設がされるはずもなく、不便を被る利用者は鉄道を利用しなくなるといった悪循環か。
 筑肥線に並走する道路の標識に温泉の文字が目に入ったので周囲を見回す。やがて列車は佐里に到着し、おばあちゃんのグループが数名乗車する。荷物の様子からして温泉帰りのようで、佐里駅の近くに温泉があるに違いない。佐里を発車すると、やがて山あいに佐里温泉登栄荘を発見。こんなところに温泉があるとは知らなかった。登栄荘の駐車場には自家用車が数台停まっていたので、地元の人たちには馴染みの温泉なのであろう。今日は無理だがいずれ立ち寄ってみたいと思う。
 2533Dは17時05分に伊万里に到着。これでようやく外周旅行の本編が開始となる。ホームに降り立つとJR伊万里駅は頭端式1面1線の構造となっており、おやっと思う。確か一昨年にレンタカーから伊万里駅を眺めたときは、高架式だったような記憶があったからだ。国鉄時代は、急行「平戸」が博多から筑肥線、松浦線(現在の松浦鉄道西九州線)、大村線を経て長崎まで運行されていた経緯があり、学生時代の1996年2月28日に初めて伊万里へやって来た時も筑肥線と松浦鉄道のレールは確かに繋がっていた。どうなっているのかと改札口を抜けると目の前には一昨年にレンタカーで走り抜けた道路を挟んで向かいに松浦鉄道の伊万里駅の入口がある。目の前には横断歩道がないので、少々迂回して松浦鉄道の伊万里駅にたどり着くと、松浦鉄道も頭端式2面3線の構造となっていた。だったら一昨年に見た幻の高架橋はなんだったのだろうかと駅舎の2階に上がれば、ペデストリアンデッキで双方の駅舎が行き来できるようになっていた。つまり高架橋は鉄道橋ではなく歩道橋だったのである。2002年3月1日に現在の新駅舎が完成したのを機会にJR筑肥線と松浦鉄道西九州線が分断されてしまったのだ。なんだか修復不可能な絶縁状態になってしまったようで悲しい。
 松浦鉄道の伊万里駅舎の2階には、「伊万里・鍋島ギャラリー」が開いていたので覗いてみる。普段は17時が閉館時間であるが、7〜9月の土曜日だけは19時まで延長されていたので運良く見学が可能となった。300円の入館料を支払うと、窓口の係員は慌てて館内の冷房を付けた。開館時間を延長したものの利用者は数えるだけのようだ。
 「伊万里・鍋島ギャラリー」は、伊万里市が収蔵する貴重な古陶磁コレクションのなかからおよそ40点を展示している。私は残念ながら陶芸の心得はないが、伊万里焼ぐらいは耳にしたことがあるので、この機会に少しぐらいは教養を身につけておくことにしよう。一口に伊万里焼と言っても白磁、青磁の他、白磁に呉須絵の具だけで絵を描いた染付、透明釉に呉須絵の具を混ぜた釉薬をかけた琉璃釉、白磁や染付に赤や金などの上絵を描いた色絵など様々な種類がある。しかも、伊万里焼というからには当然伊万里で焼かれた磁器だろうと思っていたのだが、産地は有田焼で有名な佐賀県の有田や塩田、長崎県の波佐見、三川内などであり、伊万里港から船で積み出されたから伊万里焼と呼ばれるとのことだ。
 伊万里からは松浦鉄道の旅となるので「青春18きっぷ」は使えない。自動券売機で今宵の宿泊地である御厨まで790円の切符を購入。どこにでもある軟券であるが、裏面は磁気テープでも白字でもなく、表面と同様の印字がなされていた。無駄なようにも思えるが、ワンマン運転で無人駅の多い松浦鉄道ならではの工夫で、運賃箱に切符を入れたときに裏面が表になっても運転士がきちんと切符を確認できるわけだ。
 伊万里17時40分発の松浦鉄道375Dも1両だけのワンマンカーであったが、すべてのボックスに先客がおり、まずまずの乗車率。安藤クンと奥田クンは先客が1人だけだったボックスに合い席したので、私と福井クンは前方ドア近くのロングシートに落ち着いた。ところが、列車が東山代、里、楠久、鳴石と停車していく度に乗客は減っていく。伊万里市内の短距離利用者が多いようだ。松浦鉄道では、駅数をJR松浦線時代の32駅から57駅に増やし、短距離利用者の開拓に成功した経緯がある。列車の本数も20分間隔の佐世保−佐々間を中心に大幅に増発し、経営努力の甲斐があって2000年度までは黒字経営を維持していた。ところが、沿線の過疎化が進み、2001年度以降は赤字に転落。現在は佐賀県、長崎県をはじめとする沿線自治体から2006年からの8年間で約23億円の支援を受けることになった。しかし、経営状態は依然として厳しい状況で、支援が打ち切られる2014年までに再建の目途が立たなければ廃止される可能性も高い。運転席の脇に立って眺める線路は雑草が生い茂り、既に廃線跡かのような錯覚にまで陥る。
 松浦鉄道沿線の中心都市である松浦では、対向列車行き違いのために3分停車。既に松浦で待機していた伊万里行き358Dがこちらの到着を確認するとゆっくりと走り去って行く。車内から駅前の様子を伺うが、人口約27,000人の松浦市の玄関口である駅前にしてはベスト電器の小さな店舗が目に入るぐらいで寂しい。この357Dも下車客6名、乗車客5名という具合で、松浦鉄道の先行きを危惧するばかりだ。
 松浦火力発電所の脇をかすめて18時31分に御厨到着。明日は御厨港から出るフェリーに乗る予定なので、今宵は御厨泊まりとした。国道204号線を松浦方面へ10分程引き返すと、国道沿いに灯りのともった「片山旅館」の看板が目に入った。
片山旅館  人の気配はあるものの玄関先で声を上げても誰も出てこない。福井クンが恐る恐るテレビのある襖を開けるとやって気が付いてもらえた。耳が遠いのかテレビに集中していたのかは定かではない。「片山旅館」は老夫婦2人で経営している割には部屋数も多い。駅から歩いて来る途中にも民宿や旅館を何軒か目にしており、火力発電所への出張者や工事関係者の需要がある模様。したがって、土曜日の今日は閑散期で、好きな部屋を自由に使って良いとのこと。最初は10畳の部屋を用意してくれていたのだが、広いと冷房の効きも悪くなるし、何よりも窓から松浦湾が一面に広がるロケーションが気に入り、8畳部屋に落ち着いた。
 この日の夕食後には、安藤クンから婚約発表があり、大いに盛り上がる。私も含めてメンバーは三十路を超え、そろそろいい歳になってきった。今まで誰も結婚しなかったのが不思議なぐらいであるが、とうとう安藤クンが先手を切った。家庭を持ってしまうと外周旅行への参加も難しくなるだろうが、年に1度の同窓会だと奥さんになる人の理解を得たいところ。「結婚しても参加するよ」と言ってくれる安藤クンの言葉が心強い。

第91日目<< 第92日目 >>第93日目