旅行のお土産が楽しみです

第91日 豆酘−福岡

2006年7月30日(日) 参加者:安藤・奥田

第91日行程  対馬の最終日の朝も快晴。美女塚山荘を8時前に出発し、まずは山荘の名前にもなっている美女塚に挨拶せねばなるまい。目指す美女塚は山荘からレンタカーで5分程の旧道沿いに立っていた。駐車場も整備されており、周囲は緑地公園として整備されている。対馬南部の数少ない観光スポットで、観光バスもやって来るようだが、早朝のためか先客はいない。大きな岩に「美女塚」と記された石碑の近くに美女塚の由来を記した案内板があった。昔、この豆酘の里に鶴王御前という才媛で親孝行と村中で評判の娘がいた。鶴王の噂はお上に届き、お上から采女として奉公にあがるよう求められる。鶴王は老いた母を残して都に上ることを悲しみ、内山越えで府中に向かうとき、豆酘の里が見えなくなったのを見計らって馬の背で舌を噛み自殺を図った。鶴王は死に際に「私は美しく生まれたためこの悲しみに遭った。 これからは豆酘の里に美女が生まれないように」と言い残したとのことだ。そして、鶴王が自ら若い命を絶った峠道に村人たちが供養の碑を建てたのが美女塚であるという。自分が美人だから悲劇のヒロインになったと思って死んだ鶴王は随分なナルシストであったようだが、豆酘には美人が多いという噂には信憑性がありそうだ。この豆酘は倭寇の拠点であり、20〜60隻の船団を組んでは、朝鮮半島やロシアの沿岸地域へ乗り込み奪取を繰り返していたようだ。奪取の対象は食糧や財宝はもちろんのこと、美人の女性も含まれる。倭寇は美女を拉致して豆酘に連れ帰り、自分の妻にしていたそうだ。そして、美女の血統が豆酘で代々受け継がれて来たために美人が多い地域になったというのである。もっとも、豆酘に住む女性をほとんど見掛けていないので、その信憑性は確認できていない。
 美女塚から旧道を進み豆酘の集落に入ると、国の重要文化財にも指定されている主藤家住宅の案内が目に入る。主藤家住宅は、19世紀中頃に建てられた農家家屋で、土間、居間、座敷、寝室からなる間取りで、二方に縁を設けた対馬独特の構造を残しているという。椎根の石屋根倉庫に続く対馬の伝統的な建物を見物できると思っていたら、主藤家住宅には現在も住居として使用されているため、内部の見学はできないとのこと。それならば大々的に案内するのも如何なものかと思ってしまう。
 気を取り直して対馬南部の豆酘崎へ。対馬最南端は豆酘崎ではなく、豆酘湾を挟んで豆酘崎から東に5キロほどに位置する神崎であるが、神崎には道路が通じていないため、レンタカーで訪問できる対馬の最南端は豆酘崎だ。豆酘崎の一帯は尾崎公園となっており、海に面した広場近くの駐車場にレンタカーを停めたものの、さらに奥まで道路が続いているようなので、再びレンタカーで進む。対向車が現われたら身動きがとれないような細い舗装道路を進むと小さな駐車場があり、こちらが正真正銘の豆酘崎への入口。駐車場から続く遊歩道を歩いて行くと弾薬倉庫などが残っており、ここもまた戦時中の主要拠点であったようだ。展望台にたどり着けば、沖合に小さな灯台が建っている。豆酘崎の沖合には浅瀬が続いているので、船が座礁しないように注意するためであろう。背後にも立派な灯台があり、こちらが本家の豆酘埼灯台だ。戦時中は現在の灯台が建っている場所に砲台が設置されていたとのこと。現在は砲台の跡形も残っていないが、代わりに鬼の石像が海を睨んでいる。金棒を抱えた恐ろしい形相をした鬼で、砲台よりも威嚇になっていそうだ。
 対馬の南端部には豆酘崎以外にポイントはないため、県道24号線を一気に厳原市街まで走り抜ける。交通量の乏しい対馬南部でもところどころで工事を実施しているが、全般的に対馬は過剰な工事が目立つ。対馬の財政状況を考えれば、見直しが必要な公共工事は多そうだ。
 次の目的地は厳原町南部のお船江跡。ここも対馬を代表する観光スポットのはずであるが、案内標識などは見当たらず、厳原港まで行き過ぎてしまう。どうも対馬の観光産業への取組みは中途半端で、無駄な道路工事をする予算があれば、しっかりとした案内標識ぐらい設置したらよさそうだ。場所が判然としないのだが、対馬観光物産協会のパンフレットによれば、日本近代史上貴重な遺構などと解説してあるので素通りは悔しい。お船江跡付近とおぼしき久田川の河口近くにあったスーパー丸和の駐車場にレンタカーを停めさせてもらって付近を捜索。やがてスーパーのすぐ近くの久田浦の一角がお船江跡と判明する。お船江跡に降りるには、久田浦に架かる橋の中央に設置された階段を降りねばならず、橋の中央には2台の自動車が駐車していた。県道24号線から外れているうえ、ここにも案内標識は見当たらず、知らなけば素通りしてもやむを得ない。
 階段を降りると右手にプラットホームのような5基の石積みが現われる。1663年(寛文3年)に造成された対馬藩のお船屋跡で、江戸時代、水辺の藩はその藩船を格納するお船屋を設けていたとのことだ。奥田クンにデジカメのシャッターを押してもらったが、肝心のお船江が写っていなかったため取り直し。昨日、島左近の墓に興味を示した奥田クンであるが、無名の遺構にはあまり興味がないらしい。
 レンタカーを停めさせてもらった代償にスーパー丸和で飲料水などの補給。スーパーの入口では、ワゴン車を利用してたこ焼を売っているおばちゃんがいたので1パック購入する。「焼きたてがいいよね」と作り置きのパックが残っていたにもかかわらず、たこ焼きプレートから串を使ってパックに出来たてのたこ焼を詰めていく。8個くらいかなと思っていると、おばちゃんはたこ焼きをパックにギュウギュウに詰めて合計12個入り。値段は300円と良心的だ。レンタカーの車内で安藤クンと奥田クンにお裾分けする。
 再びレンタカーで厳原中心部に戻り、めでたく対馬一周を達成。もっとも、帰りは対馬空港19時発のANAを予約しているので時間はあり、午前中は厳原の町歩きに当てる。最初に訪問したのは対馬藩主宗家の菩提寺である万松院。1615年(元和元年)に宗家第20代義成によって創建された。対馬観光パスポートの提示で300円の拝観料が30円引きになる。安藤クンは御朱印をと考えていたようであるが、万松院では受け付けていなかった模様。本殿を参拝した後、無料で貸し出している杖をつきながら静けさに包まれた132段の石段を登る。今回の外周の旅はレンタカーに頼りきりの行程であるため、少しぐらい動かなければ体がなまってしまう。汗をかきながら石段を登りきると宗家歴代の墓が並ぶ墓所にたどり着いた。墓地の手前には樹齢1200年と言われる大杉がそびえている。
「萩でも似たような光景を目にしたな」と奥田クンがつぶやく。今から約4年前の2002年8月4日、外周の旅の第74日目に萩の東光寺を訪問しているが、確かに東光寺にも毛利家歴代の墓が並んでおり、万松寺と似たような雰囲気であった。墓所なのだから雰囲気が似ているのは当たり前かもしれないが、後で金沢の前田家、萩の毛利家と共に万松寺は日本三大墓所の1つに数えられることを知った。金沢も1998年8月5日、外周の旅の第57日目に訪問しているが、前田家の墓がある野田山墓地は内陸部にあったこともあり、特に意識せず素通りしてしまっていた。
 万松院から1キロ程離れた対馬歴史民俗資料館に足を向けると、ここでも韓国人の観光客に出会う。昨日までに出会った団体は中年以上の年齢層であったが、今回は学生と思しき年代のグループだ。驚いたことにローラーブレードを履いて動き回っており危険だ。対馬での韓国人観光客のマナーの悪さがしばしば叫ばれるが、その一端を見たような気がする。
 対馬歴史民俗資料館には、宗家文庫史料をはじめとする古文書や遺跡など歴史的文化遺産が数多く展示されており、「朝鮮国信使絵巻」など朝鮮通信使がらみの資料が目を引く。宗家が国書を偽造するために用いた印鑑が展示されており、小国の対馬が大陸との架け橋として生き残るための苦肉の策を講じていたことも伺われた。
 対馬歴史民俗資料館に隣接する郷土資料館は建物にアスベストが使用されていたために閉館されたというので見学を断念し、本格的な町歩きに出掛ける。厳原町は10万石の城下町で、かつては李氏朝鮮との貿易窓口として繁栄した町なので、意外な発見があるのではないかと期待した。ところが、宗氏の対朝鮮外交機関として機能した以酊庵があったとされる西山寺へ足を運べばユースホステルを兼用した施設で、一般の観光客が訪問するような雰囲気ではない。朝鮮からの漂流民を救出するための施設であったという漂民屋跡へ足を向ければ、自衛隊の事務所の一角にそれらしき案内板が立っているだけで、当時に思いを馳せるような雰囲気ではない。朝鮮通信使客館跡の国分寺も、現在は立派な山門がかろうじて残っているだけで、客館は明治に解体され、本堂は大正時代の火災で焼失したとのこと。もちろん本殿は新築されているが、歴史的な意義はすっかり失われてしまっていた。
 盛り上がりに欠けたまま厳原の官庁街にある八幡宮神社へ向かう。神社の前には大きな駐車場が整備されているが、参拝客のための駐車場というよりは、官庁街に用事がある人のための駐車場というのが実態だ。駐車場から鳥居と石段が複数あり、厳原八幡宮神社の他にも宇努刀神社、天神神社、若宮神社が並んでいる。若宮神社は、キリシタン大名・小西行長の娘で小西マリア夫人とその子供が祀られている。小西マリアは、豊臣秀吉が朝鮮征伐のための戦略として、朝鮮の事情と地理に詳しい第19代の宗義智の力を借りるため、1590年(天正18年)に小西行長の娘を宗義智の妻として嫁がせたのだ。ところが、関ヶ原の戦いで小西行長が敗れると、宗義智は対馬の所領安堵を図るために小西マリアと離別する。小西マリアは対馬を追われて長崎へ渡ったが、その後の消息は定かではない。その後、小西マリアの祟りを恐れた対馬藩は若宮神社に小西マリアが産んだ子供と共に合祀したという。美女塚に続いて悲劇のヒロイン縁の地にたどり着いたが、個人的には鶴王よりも小西マリアの境遇に同情する。
 お昼になったので今日は厳原でしっかりとしたランチタイムを確保する。昨夜から安藤クンと奥田クンには、厳原で時間があるのでガイドブックで行きたいお店を選んでおくように伝えておいた。2人が選んだのは対馬観光パスポートで飲食代金が10%割引となる「御食事処八丁」だ。郷土料理がお勧めの店と聞いていたので、対馬の特産品である対州そばか対馬の保存食として名高い六兵衛を賞味したいと考えていた。ところが「御食事処八丁」には麺類の類はメニューに一切なく、郷土料理よりも平凡なメニューが目に付く。「うな丼」の舌代が目に付くが、対馬産の鰻など聞いたことがなく、熊本からの取り寄せのようなので見送り、「カツ丼」(700円)で済ませる。「ウニを食べたい」と漏らしていた安藤クンもすっかり意気消沈してしまったようで「天丼」(750円)を注文。奥田クンは豪勢に「うな丼」(1,500円)を注文した。
上見坂展望台  気を取り直して対馬の旅を続ける。レンタカーで厳原を後にし、外周ルートからは外れるが、眺めがよいとされる上見坂展望台に向かう。厳原中学校が目印となる桟原交差点を左折して山道となる県道44号線へ。厳原から15分程で浅茅湾を望む上見坂展望台に到着した。浅茅湾を望むのは烏帽子岳からの展望と同じであるが、眼下に浅茅湾が広がる烏帽子岳に対して、上見坂からの展望は遠方に浅茅湾が広がる。少々霞みがかっていたものの、ブルーの空と浅茅湾とグリーンの木々のコントラストは見事だった。
 浅茅湾には市営渡海船「ニューとよたま」が対馬空港に近い樽ヶ浜港と和多都美神社に近い仁位港を1日2往復しているので、対馬での旅の締めくくりに1往復を試みる。樽ヶ浜港に着けば出航時刻となる13時の2分前で、安藤クンがエンジンを切る前にレンタカーから飛び降りて、出航の準備をしていた船員に乗船を伝える。慌てている我々とは裏腹に「ニューとよたま」は急いで出航する様子もなく、定刻よりも数分遅れで樽ヶ浜港を出航した。
 「ニューとよたま」の先客は中年夫婦の2名だけで、後方のデッキにたたずんでいる。地元の客であればわざわざ暑いデッキで見慣れた風景を眺めるはずもなく、冷房の効いた船内でくつろぐだろうから、我々と同じ観光客なのであろう。「ニューとよたま」はそれほど大きな船舶ではないが、船内には座席のほかに畳席が設けられており、誰もいないのを幸い足を投げ出して占拠する。やがて船員が乗船券を売りに来たので樽ヶ浜−仁位間の往復を求めると、片道ずつの発券になるという。樽ヶ浜−仁位間の片道運賃は940円。往復で1,880円もするが、浅茅湾に定期観光船はなく、この「ニューとよたま」を観光用に貸し切れば60分で27,000円もするのだ。定期便を利用すれば約2時間20分の船旅となる。
 「観光でしたらデッキに出てみますか。若いから誤って海に落ちることもないだろう」
船員の言葉を聞いて後方のデッキに出ようとしたら店員は前方で手招きをしている。どうやら船舶の前方デッキに案内してくれるようだ。冷房の効いていないデッキはさぞかし暑いだろうなと思っていたが、海上の風がさわやかで心地良い。単なる定期路線と割り切って乗船したのであるが、やがて船員による観光案内が始まった。
樽ヶ浜港のある長板浦を抜けると、左手に1861年(万延元年)にロシアの軍艦ポサドニック号が対馬を植民地にするために約6箇月間占拠したという芋崎が現われる。芋崎には占拠時にロシア人が建設した井戸跡や波止場跡が残っているとのことだ。
 芋崎の沖合を通り過ぎ、複雑な入り江が途絶えて対馬海峡へ続く大口瀬戸が近づくとにわかに揺れが大きくなる。対馬海峡から吹き付ける風の影響で波も荒くなる。ときどき水しぶきがかかるが、霧吹きのようで涼しさが増す。海水なので後でベトベトになるのは間違いないが、すぐに温泉へ行く予定なので気にしない。
 時刻表によれば、「ニューとよたま」は、加志々、水崎、貝鮒、嵯峨、佐志賀、卯麦と寄港していく予定であるが、いずれも船着場の近くまで行くものの素通りする。お客の有無を確認して通過しているのだろうけど、着岸するのを近所で待っているお客がいるのではないかと気掛かりになったが、船員の説明に納得。
「大丈夫ですよ。船着場の近くにポールがあるでしょう。船に乗りたいときは、ポールに付いている浮きを上げて合図するのです。浮きが上がっていなければお客はいません。普段は病院通いのお年寄りが利用するので、病院が休みの日曜日の利用者はたまに買い物客がいるぐらいです」 もっとも、船着場にポールによる合図の説明があるわけでもないので、我々のような旅行者が事前の予備知識無く途中の港から乗船しようとすれば置いていかれる可能性も否定できない。やはり寄港するべきではないかと進言したが、港の近くでは養殖をしているため、船が頻繁に出入りすると影響が出てくるとのことだ。
和多都美神社  仁位港で20分少々の小休止。仁位の集落は昨日もレンタカーで通っているが、仁位港は集落の外れにあるので不便。もっと、集落の近くに寄港すればよさそうなものであるが、水深の関係で現在の場所に落ち着いたようだ。
「一般のお客さんはいないので帰りは寄り道をして行きましょう。仁位で給油したので多少の余裕があります」
船員の嬉しい言葉と同時に「ニューとよたま」は14時30分に仁位港を出航。樽ヶ浜から乗船していた中年夫婦も仁位で下船せずに、そのまま樽ヶ浜へ戻るとのことだ。やがて「ニューとよたま」は和多都美神社の海中に建つ鳥居の前で停船。昨日、陸地から眺めた5連の鳥居を海上から眺めることができるとは思わなかった。
 再び大口瀬戸へ出るが、心なしか今度は先程よりも揺れが少ない。韓国へ向かって「ニューとよたま」を走らせれば約2時間で釜山に到着するとのことであるが、対馬海峡の荒波に耐えられるのであろうか。
 今度は右手に芋崎、左手に島山島を見て「ニューとよたま」は樽ヶ浜を目指す。昨日、あそうパールブリッジを渡って訪問した島山の集落も確認できた。島山に限らないが、昨日、陸路で訪問した土地を海路で再訪しているのが不思議な気分だ。
樽ヶ浜が近づくと右手に竹敷の海上自衛隊の施設が見えてきた。竹敷は、1893年(明治26年)に海軍防備隊、1896年(明治29年)に海軍要港部が設置され、日韓併合後の1912年(明治45年)まで繁栄が続いたと海軍の要所。当時に建設された石積みの岸壁が残っているだけでなく、現在も海上自衛隊の戦艦が竹敷で停泊することもあるという。
 「ニューとよたま」は寄り道をした影響で帝国よりも5分程遅れて樽ヶ浜港に入港。お世話になった船員に別れを告げて、再びレンタカーに乗り込む。対馬滞在時間も残りわずかであるが、時間の都合で昨日割愛した金田城跡に挨拶しておきたい。金田城の歴史は古く、663年(天智2年)の白村江の戦いに遡る。660年(斉明6年)に滅亡した百済の再興を目的とした日本・百済連合軍が白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗。その結果、国防の最前線となる軍事拠点として金田城が強化されたのである。枯葉に覆われた未舗装の山道を進むとやがて車止めが現われたので、レンタカーを降りて徒歩で先へ進む。自然の断崖で外的を寄せ付けない金田城跡は、日露戦争においても軍事拠点として砲台が設置されたとのこと。もっとも、そこまで武器や弾薬、食糧を運ぶのも苦難であったことは容易に想像できる。金田城跡の周辺は遊歩道が整備されており、時間が許せば頂上まで登り切りたいところであるが、温泉へ立ち寄ることを考えると時間が窮屈になってきた。やむを得ず15分程でたどり着いた浅茅湾を見下ろせるポイントで回れ右。安藤クンと奥田クンは私が登山を諦めたことにホッとしたようでもある。
 外周の旅の汗を流すために立ち寄ったのは、対馬空港と同じ美津島町に位置する真珠の湯温泉。一昨日の上対馬温泉渚の湯が豪華な施設だったので、真珠の湯温泉も同じような施設を想像していたのであるが、実態は対馬グランドホテルの敷地内にプレハブ小屋を連想させる簡素な附属施設だ。入口で名簿に名前を書いて入浴するのも奇妙なシステム。昨年4月1日からの個人情報保護法の施行により、至るところで個人情報の収集に神経質になっているが、真珠の湯温泉に限らず対馬ではそのようなことを気に留める様子もない。入浴料は渚の湯よりも100円安い400円であった。
 無色透明のアルカリ性単純温泉で汗を流していると、浴場内では地元のお年寄りが集まって井戸端会議が行われている。どんな話をしているのかと聞き耳を立てるが、方言がさっぱり理解できない。思わず「日本語だよね」と安藤クンに真顔で確認してしまう。
 レンタカーの返却前にガソリンスタンドで給油をすれば、現金払いであるにもかかわらず、1リッターあたりのガソリン代は消費税込みで約164円と恐ろしく高い。原油高とはいえ、全国平均でもまだ1リッターあたり130円代で推移しており、対馬のガソリンには輸送費が加算されるのであろう。8月からは更に5円の値上げを予告しており、ますます対馬の観光客が減ってしまうのではなかろうか。
 福岡行きANA4936便が出発する1時間前の18時に対馬空港へ入る。カウンターでチェックインを済ませると、4936便は20分の遅れを予定しているとのこと。1便前の4934便が機材故障で欠航したため、4936便は4934便の乗客を一緒に運ぶための代替機を手配しているとのことだ。当初は対馬空港を16時40分に発つ4934便で帰路に付く予定であったが、あいにく4934便が満席であったため、4936便を手配した次第。予定通りに4934便が手配できていれば、結果的に対馬空港で2時間以上も待ちぼうけになっていたことになり、不幸中の幸いではある。
時間に余裕ができたので、ターミナル2階にあるレストラン「ロワール」で夕食。ここで念願の「六兵衛」(780円)を賞味することができた。美女塚山荘の夕食でも付け合せ程度に「六兵衛」が出されたが、やはりしっかりと味わいたい。「六兵衛」とは、さつまいもを細かく切ってから発酵させ、でんぷん質を取り除いた保存食である「せんだんご」を原料とした料理だ。「せんだんご」を水で戻してから六兵衛突きと呼ばれる大きな羽子板のような形で穴の開いた鉄板に生地を押し付けて麺をつくり、湯を沸かした釜で茹で上げたのが六兵衛である。麺は太くて短く、ボロボロとした出来損ないのうどんのようでもあるが、地鶏の出し汁との相性が良く気に入った。安藤クンと奥田クンは「六兵衛なんて腹の足しにならない」と言って「カツカレー」(850円)を注文していたが、せっかくなのだからご当地の名物を注文すればよいものをと思ってしまう。
 4936便は定刻の19時を35分遅れで離陸。対馬の街灯が視界から消えたと思えばすぐに壱岐島が眼下に広がり、やがて未訪の小呂島が姿を現わす。いずれも遠くの島という印象が強いが、上空から見下ろすと呆気ない。海上にはイカ釣り漁船の灯火もあり、漁船が何隻も集まっているとどこかの島であるかのような錯覚に陥る。
福岡空港から20時40分の羽田行きANA272便に乗り継ぐ安藤クンと奥田クンは時間に余裕があるが、新幹線利用で京都に戻る私は時間が厳しくなってきた。最終の新大阪行き「のぞみ500号」は博多21時16分なので、新大阪まで戻れるのは間違いないが、これだと自宅へ向かう阪急電鉄の最終に間に合わない。博多20時35分の「ひかり486号」でも、阪急電鉄への乗り換えにギリギリの時間となる。座席が出入口に近い先頭の1列であったことを幸い、福岡空港でドアが開くと同時に地下鉄乗り場へダッシュ。安藤クンと奥田クンへの別れの挨拶もそこそこに家路を急いだのであった。

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