ハピネスビジネス

第89日 勝本−西泊

2006年7月28日(金) 参加者:奥田

第89日行程  朝7時からの朝風呂に一番乗りで入浴し、「島の温泉湯めぐり夢気分」の7施設の完全入浴を果たす。壱岐島荘の露天風呂は21時までだったので、昨夜は入浴できなかったのだ。チケットに7施設のスタンプもそろったので、認定書をもらいにフロントへ行くと、そのようなものは知らないという。フロント係もはっきりとしないのであるが、推察するに「湯の本ゆのぼせ」は過去のキャンペーンで、現在のキャンペーンは「島の温泉湯めぐり夢気分」というもの。いずれも1,500円で湯ノ本温泉の入浴施設を利用できるのであるが、「湯の本ゆのぼせ」が8施設に有効期間の3日間入浴し放題であったのに対して、「島の温泉湯めぐり夢気分」は7施設に有効期間の3日間のうちに1回限りしか入浴できない。しかも、キャンペーン参加時にもらえる入浴セットの内容も、「湯の本ゆのぼせ」では竹筒湯呑み、オリジナルタオル、ガイドブックであったのに対して、「島の温泉湯めぐり夢気分」はグレードダウンしたオリジナルタオルのみ。しかも、訪問した入浴施設の数に応じて「ゆのぼせ横綱」や「ゆのぼせ大関」に認定してくれる「ゆのぼせ関取り」制度も廃止されたようだ。このように事実上のキャンペーンの改悪をしたにもかかわらず、いつまでも優遇された過去のキャンペーンをホームページやガイドブックなどで告知を続けている壱岐観光協会や湯ノ本温泉の各施設の対応には極めて遺憾で常識を疑わざるを得ない。昨日は壱岐で観光客をあまり見掛けなかったが、このような対応をしているのであれば観光客離れが加速して当たり前だ。
 朝食の時間も7時30分からと遅く、郷ノ浦港を8時20分に出航するフェリーに乗らなければならないので慌しい。これまでの宿泊先では、朝食は7時からというところが多く、あらかじめ頼んでおけば6時30分ぐらいからでも対応してくれた。知っていれば朝食抜きで予約したものを、今更800円の朝食代金を放棄するのも馬鹿馬鹿しく、のんびりとしている食堂の職員を急かして朝食をかき込む。
 7時45分に壱岐島荘を出発し、まずは標高212.8メートルと壱岐島の最高峰となる岳の辻展望台へ向かう。玄武溶岩流の上に噴出した火砕屑物によって形成された火山砕屑丘で、展望台からは眼下に郷ノ浦の街並みとこれから渡る原島、長島、大島の渡良三島が見えるとのこと。岳の辻展望台は郷ノ浦港から車で10分程度のところなので、8時頃までに到着できればなんとかなると判断した。ところが、実際に岳の辻展望台に到着してみると、展望台の周囲に木が茂っていて視界を遮る。むしろ、岳の辻展望台へ向かって来る途中からの景観の方がよかった。それならば長居は無用なので、すぐに郷ノ浦港を目指して転進。郷ノ浦港に着いたのは出航5分前であったが、昨年の小川島へ渡ったときと比べれば充分に余裕があった。
 昨日の辰ノ島は無人島であったが、これから向かう渡良三島には人々の生活があり、壱岐市営の「フェリーみしま」が1日4往復している。フェリーというからには自動車も運搬できるのであるが、船舶の規模から見て乗用車2台程度が限界のようだ。
 渡良三島のうち、原島は孤島であるが、長島と大島には珊瑚大橋が架橋されており、2島は陸続きになっている。「フェリーみしま」は、渡良浦に寄港した後、原島、長島を経由して大島へ。大島で20分停泊した後、逆ルートで郷ノ浦に戻る。単純に大島へ往復してもいいのであるが、できることなら珊瑚大橋を渡ってみたい。郷ノ浦港の乗船券売り場で相談すると、長島で下船して珊瑚大橋を渡り、大島から乗り込むことを勧めてくれた。長島も大島も比較的平坦な島であるうえ、長島から大島へ向かうルートの方が、下りが多くなるという。同じようなことをする物好きがしばしば訪れるようで、「同じようなことをする方がよくいますよ」とのこと。世の中には間違いなく離島マニアが存在する。
 原島を経由して長島には8時55分に到着。長島港は珊瑚大橋のふもとに位置しており、真っ先に下船して長島港から続く坂道を登るとすぐに珊瑚大橋に出た。船上から眺めた珊瑚大橋はそれほど大きな橋ではないと感じたが、実際に橋の上に立つと意外に大きな橋だ。長島港まで乗って来た「フェリーみしま」が大島港へ向かっているのが確認できる。
 珊瑚大橋を渡って大島上陸を果たしたが、大島港は珊瑚大橋と正反対に位置しているので、これから大島を縦断しなければならない。大島港への道順も定かではなく、大島港に9時30分までに着かなければ対馬行きの高速船にも間に合わなくなってしまう。地図で大島港の方角を確認しながら黙々と歩くと汗が吹き出てくる。せっかくの朝風呂も台無しだが、対馬にも温泉が待っているの我慢する。にわかに民家が増えてきたと思ったら、目の前に「フェリーみしま」が停泊している姿が入りホッとする。長島港からの所要時間は20分少々であった。
 大島から郷ノ浦へ戻る便には先生に引率された保育園へ通う園児が乗り込んで賑やかになる。てっきり、渡良浦か郷ノ浦へ向かうものと思っていたら、原島で下船していく。原島には壱岐市立原島保育所があるそうだ。短時間ながら停泊時間を利用して原島にもこっそり上陸し、これで渡良三島の完全踏破を果たしたことになる。
 郷ノ浦港に戻り、フェリーターミナルで対馬へ渡る高速船「ヴィーナス」の乗船手続きを済ませる。飛行機のように30分前までに乗船手続きを済ませる必要があるが、先に手続きを済ませておけば、出航時刻ぎりぎりまで自由に時間を利用できるからだ。もっとも、残り1時間では遠出をするわけにもいかず、身近な観光スポットを求めて、郷ノ浦港を跨ぐ郷ノ浦大橋を渡って弁天崎公園へ。ところが周辺整備の工事中だったので、そのままUターンして、奥田クンが希望する壱岐郷土資料館へ。「一支國国民証」を提示すると入館料200円が20%割引となった。
 原の辻展示館が弥生時代の展示物が中心であったのに対して、壱岐郷土資料館は古代から現代までの資料が展示されている。元寇のジオラマなどは生々しくて目をそらしたくなる。元寇と聞くと博多湾沖の神風で勝利したことぐらいしか歴史上学ばないが、壱岐・対馬は元・高麗連合軍の占領下に置かれたうえ、男はことごとく虐殺され、女は手に穴を開けられて数珠つなぎにして捕虜にされたという事実があるのだ。
 隣接する壱岐郷土美術館にも入館できるので覗いてみる。郷ノ浦出身の美術家である故小金丸幾久氏の彫刻作品が展示されており、元寇で戦死した少弐資時や明治天皇の彫刻作品があった。今までも様々な彫刻を見てきたが、天皇の彫刻を見るのは初めてで、この作品の製作にあたってはかなり神経を使ったのではなかろうか。
 レンタカーを壱岐ドライブレンタカーの営業所に届けると、郷ノ浦フェリーターミナルまで乗って行って良いとのこと。荷物があるので有り難く、そのままフェリーターミナルに乗りつけると、昨日、印通寺港まで配車をしてくれた同じ係員が待ち構えていた。壱岐島での走行距離は178.5キロ。レンタカー代金も「一支國国民証」の提示で9,300円が900円引きの8,400円になった。1人450円ずつの恩恵に預かれるので、これで1,000円の元は取ったが、収支的にはほとんどトントン。「一支國国民証」の有効期限は2011年3月31日なので、もう1度利用する機会があるかどうか。一方で、「対馬國旅券」の提示で厳原までの運賃4,540円が450円引きの4,090円になった。「対馬國旅券」は、郵送費300円のみの負担なので、「ヴィーナス」利用で対馬上陸前に元がとれた計算になる。
 九州郵船の高速船「ヴィーナス」の入港時刻が近づくと、桟橋に制服警官が3名程待機する。奥田クンは密入国者の上陸がないかをチェックしているのだと分析したが、昨日の印通寺港では警官を見掛けなかったし、博多からの高速船に密入国者が乗船してくるだろうか。可能性があるなら対馬からの便ではなかろうか。
 高速船は国土交通省の通達で乗船中はシートベルトの着用が義務付けられている。今年の4月9日に種子島から鹿児島へ向かう鹿児島商船の高速船「トッピー4」が浮遊物に接触し、乗客110名が負傷した事故が発端となった。当初は鯨が接触したのではないかと推察されていたが、最近では流木説が有力となっている。いずれにしても、対馬海峡では鯨との接触事故が多数報告されており、無事な航海となることを祈る。
 国境の島に近づいているためか、自衛隊の軍艦とすれ違いながら高速船「ヴィーナス」は対馬の厳原港に入港した。定刻よりも10分遅れの12時35分で、当局の要請により時速80キロで走行するところを時速70キロに減速走行したとの案内があった。今日の対馬海峡は極めて穏やかだったので、速度制限も「トッピー4」の事故が影響しているのであろうか。
 厳原港にもジャパレンの職員が出迎えに来ていた。予約時に配車を依頼すると、対馬空港近くの営業所までの送迎対応しかできないと断られたが、現地ではきちんと配車手配がされている。こちらとしては好都合なので文句を言うつもりもないが、配車が可能であるのなら最初から快く引き受けてくれればいいものを、却って不信感を抱いてしまう。壱岐ではトヨタのスターレットであったが、今度はスズキのワゴンRだ。
 さっそく、比田勝に向かって北上するつもりであったが、またもや道に迷って15分程時間をロスしてしまう。どうも壱岐・対馬は道路がわかりにくい。標識がしっかり設置されていないのだ。島の人間だけなら不要であろうが、観光客を誘致したいのであれば、まずはしっかりした案内が必要であろう。
 旅行貯金のために厳原小浦簡易郵便局に立ち寄ると毛越酒店という酒屋を兼ねていたので昼食がてら菓子パンを仕入れる。ところが奥田クンは「まともな飯が食いたい」と浮かぬ顔。今回は旅程の関係で昼食の時間を確保するのが難しい。観光名所の近くなら食堂や土産物屋があるだろうと慰めておく。
 道に迷ったこともあり、厳原港から1時間と標準的な移動時間の倍も時間をかけて万関橋に到着。万関橋は南北に分かれた対馬を結ぶ交通の要所。もともと対馬は南北の島が陸続きになっていたが、日本海軍が1900年(明治33年)に艦船の通り道として人工的に掘削して運河を造ったのだ。確かに対馬を迂回するよりもはるかに時間の節約になろうが、現在の様子からしても難工事であったことは想像に難くない。橋梁の中央部には展望所が設けられているが、潮流は幾重にも渦を巻いている。奥田クンは午前中の珊瑚大橋同様に海面を覗き込みながら、「バンジージャンプにちょうどいい」とつぶやいている。
 外周の旅らしく赤島大橋により陸続きになっている対馬の属島のひとつ赤島を経由してから円通寺へ。円通寺は宗氏の菩提寺で宗氏の墓地もある。そもそも、円通寺のある佐賀(さか)は、1408年(応永15年)に筑前から対馬に渡った7代藩主宗貞茂が屋形を構え、10代藩主宗貞国が府中(厳原)に本拠地を移すまでの78年間、対馬統治の府とされた由緒ある土地である。朝鮮が倭寇の本拠地であるとして対馬を攻撃した1419年(応永26年)の応永の外寇や朝鮮との貿易のあり方を定めた嘉吉条約(癸亥約定)を結んだのもここである。ところが、ここでもはっきりとした道路標識がなく、しばらく行き過ぎてから慌てて引き返す始末。それもそのはずで、現在の円通寺はすっかり民家に溶けこんでしまっているのだ。面影が残っているとすれば、境内にある李朝時代の朝鮮鐘ぐらいであろうか。宗氏の墓地も墓石が崩れかけており、予備知識がなければ見過ごしてしまいそうだ。
 奥田クンの不満も高まりつつあるので、とりあえず比田勝に出て、まともな食事ができるところを探そうと提案する。奥田クンも気を取り直してハンドルを握ってくれたが対馬は大きい。カーブの続く山道を延々と走るが、なかなか比田勝に近づく様子はない。途中、五根緒という集落に出たところで、カーナビにも登録されていない立派な道路があったので、勇んで走り進めば途中で通行止め。まだ完成していない道路で、それならばもっと手前から通行止めにしておけよと言いたくなる。この後もしばしば対馬島内の至るところに道路工事の現場を見掛けた。市役所の職員の話では、戦時中、日本軍は対馬でのゲリラ戦を計画していたために対馬の道路事情は悪く、道路の整備が課題のひとつだそうだ。しかしながら、各地の工事状況を見る限りでは、必要性に疑問を感じる工事も多い。五根緒から比田勝市街へ向かう道路もまたしかり。五根緒に住む人々にとっては悲願の道路かもしれないが、立派な道路を建設するだけの需要が見込めないのは明らかなのだ。民家の路地を抜けて比田勝へ向かう山道へを走っていても対向車は1台もなかった。ちなみに対馬市は全国でもっとも負債の多い地方公共団体で、今年6月20日に財政再建団体申請の方針を決めた北海道夕張市よりも深刻な財政問題を抱えているのだ。
鳴滝  時刻は16時を過ぎてしまい、さすがの奥田クンも諦め状態。今から昼食を食べようものなら夕食が入らなくなる。それならばと、比田勝市街地の4キロ手前にある鳴滝に寄っていこう。雑草の生えた空き地としか思えない駐車場にレンタカーを停めるが、どこに滝があるのか定かではなく周囲をウロウロする。奥田クンが文字が読めないほど汚れた看板を見つけて、ようやく遊歩道の入口を発見。遊歩道は数日前の豪雨の影響で足場が悪く、ゆっくりと歩を進める。やがて水の音が聞こえると木の影から突然滝が現われた。滝の音が周囲の山々を鳴動させることから名が付いたという鳴滝の落差は15メートル。山間のイメージが強い対馬であるが、意外にも対馬では最も大きな滝である。数日前の豪雨の影響もあり、水量は豊富であったが、鳴滝雨乞いの儀礼が行われることもあるそうだ。
 鳴滝から比田勝へ向かう途中、今回の旅で初めて路線バスとすれ違い、市街地が近づいていることを実感する。ところが、上対馬の玄関口となる比田勝も観光色はほとんどない平凡な街並み。奥田クンが比田勝でまともな食事ができると期待していたら大変だった。  まずは比田勝港の外れにある網代の漣痕を見物。通称「さざなみの化石」と呼ばれており、浅い海底にさざなみが立った状態がそのまま化石として残ったとのこと。さざなみは絶えず動きがあるだろうに、化石になってしまうのだから不思議だ。網代の漣痕は日本最大規模で、地質学的にも貴重なものらしい。
 時刻は16時30分をまわっていたが、奥田クンは夕食まで我慢ができなかったとみえ、比田勝港近くのスーパーに消える。ところが10分後に戻って来た奥田クンは不満顔。スーパーに弁当の類は売っておらず、ここでも菓子パンぐらいしかなかったそうだ。
壱岐から奥田クンにハンドルを預けたままであったが、菓子パンをゆっくり賞味できるように運転を交代する。16時を過ぎたので郵便局を見掛けても走る必要がなくなったという私の事情もある。目指すのは上対馬のメインとなる豊砲台跡と韓国展望所であるが、その前に比田勝北東部に細長く突き出た殿崎にも道路が通じていたので立ち寄ってみることにする。ところがここでも道路工事に行く手を阻まれた。メインの道路は五根緒と同様に通行止めとなり、旧道と思われる脇道も工事車両が占拠して先へ進めそうもない。殿崎方面には集落もないので実害はないのであろうが、手前に通行止めの案内をしておかないのは対馬流。やむを得ず今来た道を引き返し、素直に県道182号線を進むことにする。
 豊砲台跡も韓国展望所も比田勝のすぐ近くというイメージであったが、途中に集落を2つも通り抜け、意外に距離があることを実感する。やがて豊砲台跡の案内標識が現われ、これまでの観光ポイントとは別格のようだと思ったのも束の間。軽自動車がやっと通れるかという細い道路に入ったかと思えば、やがて砂利道になる。そして、その砂利道がひどかった。かろうじて轍があるものの、ところどころ砂利道に大きな陥没があり、タイヤがはまってしまったら身動きがとれなくなるのは間違いない。対向車とすれ違うようなスペースもないので、バックで砂利道を戻るようなことになればお手上げだ。対向車が来ないことを祈りつつ、なんとか豊砲台跡に到着。ここにも観光客の姿はなく、対馬の観光地は総じてゴーストスポットか。
 石窟のような建物が残る豊砲台跡は真っ暗で懐中電灯がなければ中に入れそうもない。どうしようかと思案していると奥田クンが入口にあるコイン式の電灯のスイッチを見つけた。100円を入れると30分間建物の電灯が点くとのことであるが、装置が老朽化しているので、本当に作動するのか疑わしい。奥田クンが損失覚悟で100円を投じるとガチャッという音がして電灯が点いた。鉄筋コンクリート製の建物に入っていくと、ここも数日前の豪雨の影響か床面が水浸しになっている。足元に気を付けながら先へ進むと、いくつもの部屋がある。もちろん部屋の中には何もないのであるが、戦時中は兵士の待機場所や弾薬の貯蔵庫であったと思われる。天井や壁の厚みは爆撃に耐えられるよう2メートル以上、砲塔部は3メートル以上の擁壁で保護されているそうだ。さらに奥へ向かうと、砲台が設置されていた砲塔部で、円形の広場を回廊が取り囲んだ中世の遺跡のようだ。回廊部分を歩いていると神秘的な雰囲気が漂ってくる。豊砲台は旧日本陸軍により1934年(昭和9年)に設置され、砲台は砲身18.5メートル、重量103トンの世界最大級の砲台だったとのこと。それだけ日本海軍が対馬を重要な拠点と捉えていたことが伺われる。
海栗島  再び悪路を引き返して韓国展望所へ。こちらは観光地らしく展望所へ向かう道路の入口には韓国風の門が待ち構えていた。今度はしっかりと舗装された道路が通じており、韓国展望所の駐車場へ。駐車場にはワゴン車が1台停まっており、韓国式八角亭の展望所では家族連れが記念写真を撮っていた。対馬に来てようやく対馬で観光客と出会ったが、会話から日本人ではなく韓国人の家族連れであると判明する。ここから韓国までは50キロ足らずの距離で、厳原からよりも近いのだ。それだけに対馬へは韓国からの観光客が多く、島内の至るところにハングル文字が見受けられる。秋から冬にかけては、釜山市の街並みどころか建物の輪郭までも見ることができるという韓国展望所であったが、この日は天気が良いものの、海上は霞んでいて、かろうじて朝鮮半島の影を確認できる程度。代わりに眼下の海栗島を観察の対象とする。良質のウニが採取できることが海栗島と命名された由来であるが、現在は自衛隊のレーダー施設があり、関係者以外は立ち入れない。海栗島も朝鮮戦争後、1959年(昭和34年)まではアメリカ軍の基地になっていたそうだ。
さて、韓国式八角亭の館内をガラス張りのドアから覗き込むと、韓国の夜景の大パノラマや鰐浦地区に自生する天然記念物ヒトツバタゴの紹介パネルなどがある。せっかくだから見学していこうとドアに手を掛けたが、施錠されて入れない。まだまだ日は高いが、時刻はもう17時30分を回っている。特に見学時間などの案内はないが、夜間に開放したままにしておくと、いたずらされる可能性もあるので、17時ぐらいで施錠してしまったのかもしれない。奥田クンはかなり残念そうだ。
 鰐浦の集落を経て循環した格好で比田勝に戻り、本日の予定を消化。宿泊先は比田勝郊外の集落にある民宿西泊だ。このまま宿入りしてもよかったのだが、民宿の近くに2004年(平成16年)2月にオープンした上対馬温泉「渚の湯」が待っている。貴重な温泉を素通りするわけがなく、豊砲台跡を目指した国道182号線を再びたどり、1996年(平成8年)に「美しい日本の渚100選」に選ばれたという三宇田浜へ。キャンプ場に隣接するように建っていた「渚の湯」は、想像以上に立派な施設。500円の入浴料を支払って中に入れば、露天風呂はもちろんのこと、大浴場もガラス張りになっており日本海を眺めながら温泉に浸ることができる。泉質は弱アルカリ性単純泉で、見た目には無色透明のお湯であるが、温泉に浸かっていると肌がヌルヌルしてきた。
 汗を流してさっぱりしたところで、地図を確認すると、「渚の湯」のある三宇田からも先ほど断念した殿崎へ通じる道がるようだ。まだ、日暮れまでに時間の余裕があるので試しに行ってみる。工事中で通れなければ引き返すだけのことだ。海辺に沿った道路をたどって行くと、左手に一面芝生に覆われた景勝地が現われた。その手前にある大きな記念碑が目に入ったので、車から降りて確認すれば、連合艦隊司令官東郷元帥の題字が刻まれた露兵上陸記念碑。かなりボロボロになってはいるが、日本とロシアの国旗も掲げられている。1905年(明治38年)5月に、日本海海戦で沈没したロシア艦船モノマフ号の乗組員143名が漂着したが、敵国の兵士であったにもかかわらず、対馬の島民は温かく接したそうである。昨年5月27日には、日本海海戦から100年の節目を迎えたの機にここで日本とロシア共同の合同慰霊祭が実施されたそうだ。
 殿崎公園から西泊までの道路は、既に今日の工事が終了したためか工事車両は姿を消しており、難なく通り抜けることができた。都会であれば夜中の道路工事が当たり前のようになっているが、対馬では明るい日中のみ工事を実施する。それでもクレームが出ないのが対馬の実情なのであろう。
 民宿西泊は比田勝港に面して建っていたが、どうも人の気配がない。静かな玄関のドアを開けると裏手にある建物を訪ねるようにとの張り紙がある。案内に従って裏手へ回ると立派な民家が構えており、「修行貞」という表札のある戸をガラリと開けると品の良さそうなおじいさんが出迎えてくれた。
 既に夕食が用意されており、刺身や煮物のほか、焼きそばや天婦羅まである。我々の他には工事関係者が1名宿泊しているだけであり、観光客向けというよりも、工事関係者向けのスタミナ料理を兼ねているようだ。変わった名字や立派な建物であることからして、地元の名士に違いないと話を聞けば、修行家はもともと四国の出身で、中国大陸へ渡航を試みて失敗。対馬に漂流したのをきっかけに1320年から宗家の家臣として代々仕えていた士族だという。宗家は明治時代に対馬から東京へ移住してしまったが、修行家は対馬の地をしっかりと守っている。
 海辺に遊歩道があると聞いたので、夕食後に腹ごなしの散歩に出掛ける。西泊港の堤防沿いに歩いていくと、やがて遊歩道とも獣道とも言える山道に入り込む。まだ明るいからと眼下に日本海を眺めながら先へ進めば昭和天皇御製碑が建っている小さな広場に出た。近くには国民宿舎上対馬荘もあり、周囲は西泊園地として整備されていたのだ。広場の一角に設けられた休憩所には、先客がひとり煙草を吸いながらたたずんでいたが、我々を見かけてちょっと驚いた表情を見せた。地元の人か観光客か定かではないが、誰も来ない場所を思い込んでいたのだろう。なんとなく邪魔をしたような感じがしたのでそそくさと退散する。西泊園地をぐるりと一周して再び西泊港へ戻ったところでちょうど日没。周囲は静寂に包まれているが、深夜に博多港から来る九州郵船のフェリーが目の前を横切っていくはずである。夜中に起きて入港の様子を眺めてみたい気もしたが、民宿の布団に入って閉じたまぶたが朝まで開くことはなかった。

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