習い事は今が始めどき

第88日 呼子−勝本

2006年7月26日(木) 参加者:奥田

第88日行程  今回の旅は波乱の幕開けとなった。ここ数年は「ムーンライト九州」を旅のアプローチに利用しており、今回も例年通り「ムーンライト九州」で福岡入りする予定であった。ところが、旅立ちの日に出張が重なり、帰宅して身支度もそこそこに駅へ向かう。「ムーンライト九州」へ乗るためには自宅の最寄り駅となる山陰本線の円町を21時15分の京都行き普通列車1268Mに乗れば間に合うはずであった。汗をかきながら円町駅に着くと時刻は21時10分。なんとか間に合ったかに思えたのだが、改札口の電光掲示板には次の京都行きは21時19分と表示されている。後で判明したのであるが、今年の3月18日に実施されたダイヤ改正の影響で1268Mの円町発車時刻が4分繰り下がっていたのだ。ここで気掛かりになったのは京都での乗り継ぎだ。従前のダイヤであれば、京都で7分の待ち合わせ時間があり、21時31分の新快速3533Mに乗り継ぐことができたのであるが、山陰本線のダイヤに手直しがあるということは、東海道本線のダイヤも手直しされている可能性が高い。不安を抱えたまま1268Mが京都に着くなり猛ダッシュで東海道線ホームに向かうが、嫌な予感は的中した。新快速3533Mの京都の発車時刻は2分繰り上がっており、1268Mが京都に到着するわずか1分前に発車してしまっていたのだ。次の列車は21時38分の西明石行き普通列車251Cであるが、普通列車が新快速に追いつくはずもない。外周常連の安藤クンに携帯電話でSOSメールを送信したうえで、自分自身も一旦改札口を出てみどりの窓口で時刻表を睨みながら対策を考える。
最初に思いついたのが、後続の新快速に乗れば新大阪では間に合わなくとも、途中で「ムーンライト九州」に追いつくのではないかという微かな期待。「ムーンライト九州」は客車列車であるのに対して、新快速は電車列車なのでスピードが違う。次の新快速は京都を21時49分に発車する3535M。ところが3535Mは猛然と「ムーンライト九州」を追い上げるものの、姫路到着時刻は23時22分で、わずか3分の差で「ムーンライト九州」に間に合わない。ちなみに従前のダイヤであれば、3535Mの姫路到着時刻は23時18分であり、「ムーンライト九州」の向かいのホームに滑り込んでいたので乗り継ぎが可能であったのだ。JR西日本のゆとりダイヤがつくづく恨めしい。
 やむを得ず新幹線利用を検討する。京都から新大阪まで新幹線を利用するのが無難と考えたのだが、京都発21時35分の「のぞみ73号」が発車した直後で、後続の「のぞみ95号」では、「ムーンライト九州」の新大阪発車時刻である22時01分に間に合わない。だからといって、新大阪から新幹線を利用にすると、次の新神戸は在来線と別の駅であるうえ、その次の西明石には「ムーンライト九州」は停車しない。青春18きっぷを利用しているので、新大阪−姫路間を新幹線利用とすれば持ち出し額があまりにも大きくなってしまう。結局、後続の新快速3535Mで姫路まで行き、最終の新幹線となる「のぞみ97号」に乗り継げば岡山で「ムーンライト九州」に間に合うことが判明した。しかも、「のぞみ97号」には、今回の旅に参加する奥田クンが乗っている。「ムーンライト九州」に乗っているはずの私が「のぞみ97号」に現われたら、奥田クンもさぞかし驚くだろう。
 3535Mは定刻の23時22分に姫路到着。姫路駅は大規模な高架への切り替え工事中で、コンコースは建設現場の装い。乗客のいない真夜中に集中して工事を実施するからであろう。新幹線乗り場へ続く通路など立ち入り禁止ではないかと疑ってしまうような状況であったが、安藤クンからは姫路駅の工事情報についても提供を受けていたので戸惑わずに済んだ。
 「のぞみ97号」には無事に乗り継ぐことができたものの、奥田クンの乗車している車両が判明しなかったため、合流できたのは岡山駅の新幹線ホーム。私の姿を見てもさして驚いた様子を見せず、既に安藤クンから私が「のぞみ97号」に乗っていることを知らされていたようだ。
 深夜の岡山駅から「ムーンライト九州」に乗り込めば、岡山に0時19分に到着する予定の「マリンライナー72号」が遅れているため、乗り継ぎ客を迎えるためにしばらく待ち合わせをするとのこと。どうせなら姫路で時間調整をしてくれていればと思わず愚痴がこぼれた。
 翌朝は下関での機関車交換のための長時間停車を利用して、ホームで歯みがきと洗顔。さっぱりしたところで、早朝から営業している売店に敬意を表して朝食の駅弁を購入。「そぼろ弁当幸福来る」(800円)を試してみる。JR西日本の駅弁キャンペーンに合わせて2004年5月1日登場したばかりの駅弁で、中身はご飯のうえにふく明太子、かつお、からすかれいの3種類のそぼろが敷かれているので見た目も鮮やか。ふくの唐揚や酒粕焼などが添えられており、朝から豪勢な食事となった。
 「ムーンライト九州」は岡山を2分遅れで出発したものの、終点の博多には3分の早着。乗り換え時間が厳しいと思っていた西唐津行き普通列車623Cに余裕を持って乗り継ぐことができた。博多から姪浜までは福岡市営地下鉄空港線で、通勤客や通学客に紛れて肩身が狭くなるが、姪浜からJR筑肥線に入るとローカル色が強くなる。進行方向右側には玄海灘が広がり、にわかに昨年の旅の様子が思い出される。
 唐津で降りようとした奥田クンを制止して、終点の西唐津で下車。駅前から呼子行きの昭和バスを捕まえた。唐津−呼子間は、内陸を走るルートと海岸沿いを走るルートの2系統があるが、運良く海岸沿いを走るルートで外周向き。もっとも、この区間も昨年、レンタカーで走り抜けた区間なので、今回は単なるアプローチに過ぎず、バスが9時39分に呼子バスターミナルに到着してからがようやく今回の旅のスタートだ。
 呼子からはフェリーで壱岐に渡る段取りであるが、バスターミナルからフェリーターミナルへは1キロ程の距離がある。次のフェリーは10時40分なので1時間の余裕がある。バスターミナルの近くには呼子の朝市もあるので、ちょうどよい暇潰しになると思っていたが、奥田クンは一刻も早くフェリーターミナルへ行きたいという。それならばフェリーの時間まで自由行動ということにして奥田クンと別れる。まずは昨年、時間に追われて行きそびれた呼子郵便局で旅行貯金を済ませてから朝市へ。昨年は時間が遅かったせいか、あまり活気のない朝市という印象を受けたが、今日は観光客の姿も多く活気がある。日本三大朝市として有名なだけのことはある。朝市通りの入口近くのお店が「クジラカツ」を店頭で売っていた。このあたりはかつて捕鯨が盛んだったこともあり、時代が時代なら鯨料理が存分に楽しめたのであろう。駅弁を食べたばかりだったが、ついつい手を出してしまう。1串150円というお手頃価格であったが、鯨の肉は締まりがなく、白身魚のようで期待したほどの味ではなかった。冷凍鯨を利用しているのだろうしやむを得ないか。小学校の給食で鯨の唐揚が出ていたのが懐かしい。
 呼子フェリーターミナルで奥田クンと無事に合流。呼子から壱岐島の印通寺までは九州郵船の2隻のフェリーが1日6往復している。印通寺は「いんどうじ」と読むことを乗船券売り場のお姉さんに教えてもらう。あらかじめ壱岐観光協会で発行を受けた「一支國国民証」を窓口で提示すると、フェリーの2等料金が正規の1,310円から10%の130円割引となった。もっとも、「一支國国民証」の発行手数料は1,000円なので、あと870円分の特典を受けなければ赤字になる。ちなみに「一支國」とは、「魏志」倭人伝で壱岐が一支國と紹介されていたことに由来する。
 待合室のすぐ目の前に停泊している「フェリーげんかい」の船体側面には、「壱岐−呼子・国道フェリー」の文字がある。これからフェリーでたどる呼子−印通寺間は国道382号線の海上区間なのだ。国道382号線は比田勝港近くの対馬市上対馬町を起点とし、壱岐を経て唐津に至っているが、対馬市厳原町−壱岐市勝本町、壱岐市石田町−唐津市呼子の2区間が海上区間になっている。今年の外周は概ね国道382号線に沿った旅をすることになるのであるが、対馬市厳原町−壱岐市勝本町の区間は航路が存在しないので、忠実に国道382号線をたどることは不可能だ。
 出航時刻の15分前になると乗用車の乗船案内が流れる。一般旅客は待合室で待機するようにとの案内もあったのであるが、ほとんどのお客がぞろぞろと乗船を始めるので、遅れてはならぬと我々も船内へ。船内では出航のアナウンスなどは一切なく、「フェリーげんかい」は定刻よりも5分遅れの10時45分に出航。昨年訪問した小川島や加唐島をかすめて壱岐水道に出るが極めて穏やかな航海だ。九州地方は外周の旅に合わせて梅雨明けを迎えたのだ。
 「フェリーげんかい」はすべて2等船室であるが、椅子席の他に和室が5区画あったので、迷わず和室で横になった。壱岐ではレンタカー利用としているので、「ムーンライト九州」での睡眠不足を補っておくためだ。奥田クンは「ムーンライト九州」で眠れないとこぼしていたにもかかわらず、元気に甲板へ行き来している。
 うたた寝をして気が付けば「フェリーげんかい」は印通寺の港湾に入っている。ところが、接岸するために旋回をするなどして大幅に時間をロス。ようやく壱岐に上陸できたのは定刻よりも15分遅れとなる12時過ぎ。印通寺港までレンタカーを配車してくれた壱岐ドライブレンタカーの職員からトヨタのスターレットを引き取って、慌しく壱岐観光に出発した。ハンドルは元気な奥田クンに預けて私はナビゲーターに徹する。最近のレンタカーにはカーナビ装着が一般化しているが、壱岐はそれほど大きな島ではないのでカーナビの世話になる必要はないのだろう。レンタカーの職員も「迷ってもアスファルトの道路を前に進んでいればどこかの町に出るので大丈夫です」と言い残していた。
 予定では印通寺港から車で5分程のところにある万葉公園に行くことになっていたが、出発早々迷ってしまい、2番目に訪問する予定であった県道23号線沿いの原の辻展示館にたどりつく。それならば順序を入れ替えて先に原の辻展示館を見学してしまおう。原の辻展示館は、一支國の中心地であった原の辻遺跡の一角にある博物館。ちょうどお昼時で弁当を食べていた職員に「一支國国民証」を提示すると、長崎県教育委員会作成のパンフレットを手渡された。入館料を尋ねると無料のこと。館内には「一支國国民証」のデザインにも採用された人面石など、原の辻遺跡で発掘された生活品が数多く展示された立派な施設であるのに良心的だ。屋外には、原寸大の竪穴住居や高床式倉庫が復元されており、実際に中に入ることもできる。奥田クンは高床式倉庫が気に入った模様だ。
 さて、今度こそ万葉公園に向かおうと印通寺港方面へ引き返すが、県道23号線沿いには標識などは見当たらない。地図と見比べて周辺地域を徘徊するものの、一向に万葉公園にはたどり着かない。時間のロスも大きくなるばかりなので万葉公園は潔く諦める。
 観光ポイントではないが、南東部の海岸線沿いに壱岐空港があるので立ち寄ってみる。かつては壱岐国際航空が福岡までの路線を就航していたが、経営難から撤退し、現在はオリエンタルエアブリッジが長崎まで朝夕の1日2往復している。現在は発着時間ではないので、壱岐空港に人影はなく、滑走路には小型のプロペラ機の姿があるだけだった。
 再び県道23号線に戻って安国寺へ。県道23号線沿いにあるので見落とすことはないだろうと思っていたが、これまた案内が不十分で、しばらく行き過ぎてから引き返す。壱岐の観光施設は極めてわかりにくく、観光客にわかりやすい案内標識の設置など根本的な対応が必要だ。  安国寺は1339年(暦応2年)に足利尊氏が平和祈願と元寇以来の戦死者の冥福を弔うため、全国に安国寺建立を命じた際、従来からあった海印寺を安国寺としたのが始まりで、650年あまりの歴史を有する名刹であるが、かなりくたびれた寺院であり、落ちぶれた感じがしないでもない。併設されている宝物展示館では、「一支國国民証」を提示すると入館料200円が1割引となった。展示館には先客はなく、私が入館すると同時に入口近くに置いてあったラジカセから開設が流れてくる。安国寺は官寺として扱われてきたため、室町幕府の第3代将軍足利義満からの住職への任命書である「足利義満花押入古文書」などが展示されていた。
 次に向かったのは壱岐島の東部に位置する青島。青島大橋により壱岐島と陸続きになっている青島には、九州電力壱岐火力発電所と多目的グランドを備えた運動公園が同居している。野球場にはダッグアウトはもちろん、観戦スタンドまで整備されており、芝生の整備も行き届いている。学生時代にサークルで利用していた野球場よりもはるかに優れているが、どれほどの需要があるのか定かではない。公園の中央にある展望台に登って、周囲を見渡せば、青々とした空と海が広がり、北東方向には昨年行きそびれた小呂島の島影が微かに確認できる。小呂島が壱岐島からも北に見えることが意外であった。
 再び青島大橋を渡って壱岐島に戻り、海女で有名な八幡浦の海中に祀られているはらほげ地蔵へ。六地蔵とは、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)において衆生を苦しみから救うとされている6種の地蔵のことをいう。はらほげ地蔵の周辺は、パンフレットの写真とは異なり、最近になってきれいに整備された模様。地蔵の腹部はなぜか自然石で丸くえぐられており、はらほげ地蔵と名付けられたの由来になっている。現在は地蔵の全身が姿を現わしているが、満潮時になると半分は海中に隠れてしまうらしい。
 八幡半島の先端に位置する左京鼻に立ち寄ると時刻はもう14時過ぎ。勝本港15時のグラスボートに乗るつもりであったが、時間が少々厳しくなってきたので16時のグラスボートに変更する。時間に余裕ができたと知るやハンドルを握っていた奥田クンがレンタカーを芦辺港近くにあったダイエーに運ぶ。携帯電話の充電器を持ってくるのを忘れたので、ダイエーで調達したいそうだ。あまり時間に余裕があるわけではないが、旅行貯金に付き合せている手前文句は言えない。
 奥田クンは無事に携帯電話の充電器を手にすることができたので先を急ぐ。もっとも、次の目的地はダイエーから5分とかからない小弐公園。少弐公園の由来は1281年(弘安4年)の弘安の役で、壱岐島を守るために蒙古軍と戦い、若干19歳で戦死した少弐資時である。隣接する壱岐神社も少弐資時を祀った神社であり、壱岐島のために命を投げ出した若き英雄が今でも島民の信仰の対象になっているようだ。
 壱岐島の北東に位置する魚釣埼灯台を望む赤瀬鼻、3枚の歩零度をもつ2基の白い風車が丘の上で回っている壱岐芦部風力発電所を足早に周って、ようやく壱岐島の北端に位置するイルカパークへ。200円の入場料が「一支國国民証」で20%割引となったが、園内は閑散としており誰もない。6頭のメスのバンドウイルカが入り江を利用した園内のプールで泳いでいるだけなので無理もないか。かつてはイルカのトレーニングショーや餌やり体験ができた施設であったのだが、イルカの老齢化から昨年より中止になったそうで、もはや観光施設としての役目も終るのであろう。16時から職員による餌付けがあるとのことだったが、長居するだけの価値もなさそうなので早々に退散した。
 勝本港に到着したものの、16時のグラスボートの出航まで30分近く時間を持て余したので、レンタカーをフル活用して内陸部の壱岐風土記の丘まで足を伸ばす。これまた閑散とした駐車場の脇には6世紀末から7世紀前半に造られたとされる掛木古墳があり、石棺の中に入れてしまうのが面白い。奥田クンは掛木古墳が気に入ったようなので、一人で入園料を支払って古民家園に入る。古民家園は、壱岐風土記の丘を整備する際に移築されてきたもので、代表格の旧冨岩家住宅は草葺の寄棟造りで江戸時代中期の建物とのこと。なんとなく閉園してしまった金沢の江戸村に似た雰囲気があるが、こちらは監理棟を含めて5棟の古民家がこぢんまりとしている。
 レンタカーに戻ると奥田クンから「もう間に合わないよ」との声。時刻を確認すれば15時55分になろうかというところで、勝本港まで10分はかかりそうだ。ただし、ここまであまり観光客を見掛けていないため、16時のグラスボートもお客がいなければ出航していない可能性が高い。かつて四万十川の川下りで他にお客がおらず、1人で貸し切り状態になった経験もあるのでダメ元で勝本港へ。時刻は16時を5分程回っていたが、券売所の窓口でお伺いをたてると案の定、16時のグラスボートは出航しておらず、今から船を出しても良いとの返事がもらえた。
辰ノ島  残念ながら「一支國国民証」は利用できなかったものの、16時のグラスボートは10分遅れで出航。もちろん我々の貸し切り状態である。1人1,500円の乗船料ではとても採算が合うまい。運営母体は漁協組合のようなので、観光は副業に過ぎず、もしかしたら壱岐市から補助金でも出ているのかもしれない。勝本沖には東から名鳥島、若宮島、辰ノ島という無人島が待ち構えているが、夏場だけ勝本港から海水浴場のある辰ノ島へ渡船が運行されている。我々のグラスボートは、まず名鳥島と若宮島の間の中瀬戸を通過して外洋へ出る。さすがに外洋へ出ると対馬海峡から吹きつける風が強く、波も荒い。それでも船長に言わせれば、凪の状態で、普段はお客が来ても外洋へ出られずに欠航することも多いという。名鳥島も辰ノ島も島の北側は断崖絶壁になっており、冬の荒波の仕業による地形だという。現在は干潮なので、断崖の高さは海面から50メートル以上もあるが、冬場は断崖の頂上まで波が届くそうだ。
 グラスボートは約30分少々で辰ノ島へ到着。本来であれば辰ノ島探索に出掛けるつもりであったが、グラスボートの時間を繰り下げた関係上、辰ノ島の滞在時間はなくなってしまった。辰ノ島から勝本港への最終便は17時であり、我々の乗ったグラスボートがその最終便を兼ねるという。それでも、10分以上は辰ノ島で停泊するにもかかわらず、ずっと船内に留まっているのももったいなく、船長の許可を受けて辰ノ島への上陸を果たす。遠方に最終の渡船に乗るために海水浴から引き上げてくる若い女性の2人連れの姿もあり、彼女達が渡船場へ戻って来るまで船が出航することはない。待ち時間を利用して、渡船場の近くだけでも散策しておく。
 海水浴客が乗り込むと17時を待たずにグラスボートは勝本港へ向けて出航。海水浴場で売店を開いていた漁協の職員も一緒に引き上げるため、その際に海水浴場に残っているお客がいないかを確認しているのだ。まっすぐ勝本港へ戻れば約8分。勝本港を見下ろせる高台には、周辺の住宅と似つかない豪邸がそびえており、船長がレオパレス21の社長の邸宅だと教えてくれる。レオパレス21と言えば不動産賃貸業を営む会社であり、あまり住宅事情に苦労することはないと思われる壱岐という土地柄で不動産賃貸業の成功者が生まれたのが不思議でならない。
 さて、勝本港に戻るとちょうど17時であるが、まだ壱岐島を半周したところ。残り半周を日没までに片付けなければいけなくなった。今後の予定をどのように組み立て直すか考えている時間がもったいないので、とりあえずレンタカーを走らせる。壱岐を代表する景勝地は絶対に外せないポイントなので、その他のポイントは思い切って省略する。
猿岩  夕暮れの景勝地としてまず訪れたのは壱岐島西部の黒崎半島の先端に位置する猿岩。高さ45メートルの海蝕崖の玄武岩が遠方を眺めた猿ともゴリラとも言えるような形をしている。写真に収めようとするが、夕陽が逆光になってうまく撮影できないので諦める。猿岩は、季節に応じて顔の表情が変わるとのことだが、次回まで今日の表情を覚えているか定かではない。
 猿岩から目と鼻の先にあるのが黒崎砲台跡。巨大な地下要塞の雰囲気で、恐る恐る中に入って見たが、すぐに「立入禁止」の看板に出くわす。2005年(平成17年)3月20日に発生した福岡県西部沖地震の影響で、砲台跡にヒビが入り、崩落する危険があるとのことだ。修復する様子もなさそうなので、黒崎砲台跡が観光案内から消え去る日も近いのだろう。
 黒崎半島から半城湾をぐるりと迂回して牧崎の先端にある鬼の足跡へ。こちらも猿岩と同様に海蝕崖の玄武岩が演出する芸術。波の侵蝕でできた海蝕洞の先端部が陥没したことにより、断崖に周囲110メートルの大穴ができている。転落防止の柵など余計なものはほとんどないので、自由に断崖を行き来できるが、足を滑らせて落ちたら誰も気がつきそうにない。
 無事にメインスポット2箇所を踏破したので、残るは印通寺港まで海岸線沿いにドライブをすれば壱岐島1周が完了だ。県道175号線をひたすら走り、壱岐市の中心部となる郷ノ浦を通り抜ける。想像していたよりも小さな街で、明日は郷ノ浦から対馬へ渡る予定だ。
 壱岐島の最南端となる海豚鼻の停留所はなぜか住宅前という風情のないネーミング。もっとも、海豚鼻そのものが観光スポットとして注目されておらず、せめて壱岐島最南端とでも標識を立てておけば有り難がって訪ねる人もいるのではないかと思ってしまう。海豚鼻から更に走り続けること15分。ようやく民家が増えだしたと思えば、見慣れた光景が目の前に広がり、18時40分に印通寺港に到着。約6時間30分で壱岐島を1周してきた計算になる。お疲れ様と言いたいところであるが、今日の宿は勝本町の湯ノ本温泉。経路的には郷ノ浦か印通寺港のあるここ石田泊りでもよかったのであるが、せっかくだからと壱岐の温泉郷である湯ノ本にある国民宿舎壱岐島荘を予約したのだ。あいにく湯ノ本温泉は、印通寺港の正反対に位置している。もう半周なんて言い出せば、ハンドルを握る奥田クンが発狂しかねないので、国道382号線を利用してショートカットを図る。もっとも、壱岐まで来るとかなり日が延びるので、明るいうちに壱岐島荘へ着けそうだ。
 19時過ぎにようやく壱岐島荘にチェックイン。ここでも「一支國国民証」が利用でき、1泊2食付き6,660円の宿泊料から340円引きとなる。340円という中途半端な金額は、素泊まり料金3,400円の10%引きという計算だ。本日の割引総額は570円となり、まだ430円の赤字だ。
夕食の段取りになると、ちょうど夕陽が沈む時間帯で、玄海灘の海の幸や壱岐牛の焼肉が並ぶ食卓に、最高の演出を添えてくれる。きれいな夕焼けなので、明日の天気も安心できそうだ。
お腹が満足するとさっそくメインの温泉へ向かう。湯ノ本温泉の歴史は意外に古く、神功皇后が三韓出兵の帰路に立ち寄り、自噴している温泉を見付けたのが始まりと伝えられる。神功皇后はここで応神天皇の産湯をつかわせたとの伝説もあり、子宝の湯としても親しまれているそうだ。かつては温海(あたみ)と呼ばれていたが、1662年(寛文2年)に温泉場として開発されたとのことだ。壱岐観光協会のホームページやガイドブックでは、1,500円で湯ノ本温泉郷の8湯に入浴できる「湯の本ゆのぼせ」企画の宣伝をしていたので壱岐島荘のフロントで尋ねてみる。ところが、フロント係は「湯の本ゆのぼせ」企画を知らないようで、しばらくしてから「島の温泉湯めぐり夢気分」というチケットを持ってきた。手渡されたチケットの整理番号は、3と4であり、まだ2枚しか売れていなかったことになる。奥田クンがチケットの販売台帳を覗き込んだら、整理番号の1と2が売れたのはゴールデンウィークの時期だったそうだ。
 まずは、入浴時間が7施設中で最も早い21時までとなっているサンドーム壱岐へ。壱岐市の公営施設であるが、露天風呂やプールも備えた立派な施設だ。時間帯が遅いためか他の入浴客の姿は少なく、湯本湾を一望できる露天風呂を奥田クンと2人で占拠する。湯ノ本温泉のお湯は赤茶色で、海水が混ざっているためかしょっぱい。泉質はナトリウム塩化物温泉で、神経痛、リューマチ、婦人病をはじめ皮膚病、火傷、切り傷などにも効果があるそうだ。あまりにも居心地が良かったので長居をしたくなったが、残り6施設の入浴も果たしたい。「湯の本ゆのぼせ」企画では、入浴施設1箇所毎に1ポイントが加算され、ポイント数に応じて「ゆのぼせ横綱」や「ゆのぼせ大関」に認定してくれる「ゆのぼせ関取り」制度があるのだ。
 次に向かったのは旅館長山。こちらも入浴時間が21時までとなっていた。玄関前のロビーでは、中年女性が電話中で、帳場には誰も居ない。声をあげるが反応が無く、諦めて帰ろうとすると電話を切った中年女性が「すみませんね」と電話を置いて帳場へ回った。普段着で電話をしているので気が付かなかったのだが、旅館長山の女将さんだったようだ。3代100年の歴史がある老舗旅館とのことであるが、どうも学生の合宿に利用するような雰囲気で、実際にそれらしき宿泊客の姿もある。案内された浴場だけは歴史を感じさせるが、かなり老朽化しており、清潔感に欠ける。
 気分直しに3軒目となる旅館海老館へ。旅館海老館の露天風呂はサンドーム壱岐と同様に湯本湾を眺めることができるので、それなりに期待をした。ところが、案内された露天風呂は公衆便所のような雰囲気で、フナムシが這っていたりするので早々に退散する。
 さすがに入浴施設に疑問を感じるようになりつつも、4軒目のあづまや旅館を訪ねる。民宿のような雰囲気だったので、期待をしないで浴場へ向かうと、小ぶりのくたびれた公衆浴場のようだ。温泉が赤茶色でなければ、にわかに温泉とは信じられなかったかもしれない。奥田クンはとうとうあづまや旅館での入浴を見合わせたが、私は完全入浴を果たすためにからすの行水。
 あづまや旅館の数軒隣りに位置する千石荘は、フロントに従業員が待機しており、これまでの施設と様子が異なる。湯船も幾分広めで清潔感も維持されていたが、石鹸やシャンプーが一切備え付けられていない。脱衣場には無駄遣いをする人が多いので、温泉の採算が合わないとの弁明があった。気持ちはわからないでもないが、あまり気分のいいものではなく、奥田クンは千石荘も入浴せず。
 最後に訪れたのは壱岐島荘からも近い平山旅館。「旧湯」といわれるかつての元湯旅館で、湯布院「玉の湯」を手がけたデザイナーによる設計をあっては、期待も高くなる。湯ノ本温泉では最高級にランクされる旅館なので、これまでの入浴施設よりはグレードが高そうだ。平山旅館は斜面に沿って建てられているため、フロントが2階になり、階段を下りて1階の浴場へ向かう。浴場までの廊下も調度品が飾られていたりして格調が高く、脱衣場にも冷房が充分に効いているのが有り難い。湯本湾こそ眺めることはできないが、静かな露天風呂や丸太をモチーフにした内風呂も赴きがある。2施設の入浴を見合わせた奥田クンもここではゆっくりと入浴した。
 平山旅館で壱岐島荘を除く6施設の入浴を果たしたが、「島の温泉湯めぐり夢気分」キャンペーンの参加者が少ない理由がはっきりした。湯ノ本温泉に入浴したいのであれば、サンドーム壱岐で充分に魅力を楽しめるのであり、静かな秘湯にこだわるのであれば平山旅館で入浴すれば足りる。その他の施設は宿泊客のための浴場を希望者に便宜的に開放しているに過ぎないのだ。もっと各施設が個性のある温泉施設にしなければ、キャンペーンは遅かれ早かれ中止になるのは目に見えている。
 旅立ちから温泉めぐりまで終日バタバタしていたが、平山旅館からの帰り道に空を見上げれば満天の星。慌しく過ぎ去った1日を忘れさせてくれるひとときであった。

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