ビジネスライフの記録と記憶

第86日 馬渡島−福岡

2005年7月30日(土) 参加者:奥田・福井

第86日行程  民宿一福で早めの朝食を済ませて、馬渡島港7時20分の郵正丸で呼子に戻る。昨日は雨で馬渡島の散策を断念してしまったため、結局、馬渡島は宿泊するだけになってしまったが、次の9時20分の便では呼子到着が遅くなり、呼子港を10時に出航する数少ない松島行きの渡船に間に合わないのだ。
 昨日は船内で寝て過ごしたので、今度は甲板席で過ごす。天気予報によれば今日も不安定な天気になりそうであるが、今のところは朝陽が差して穏やかな天気だ。海上に出れば多少は揺れて時折波しぶきが飛んでくるものの風が心地良い。船内を覗けば思いのほか多くの乗船客が乗っている。週末なので呼子に買い出しにでも出掛けるのであろうと思っていると、ほとんどの乗客が途中の名護屋で下船してしまう。馬渡島の島民にとっては、呼子よりも名護屋との結び付きが強いのだろうか。乗船客の多くは名護屋港周辺に駐車してあった自家用車に乗り込んでいたので、もしかしたら目的地は唐津で、呼子よりも名護屋から唐津を目指した方が時間的に早いのかもしれない。
 閑散となった郵正丸は定刻の8時10分に呼子港へ到着。呼子と言えば朝市が名高いので冷やかしていくことにする。郵正丸は発着する海岸通りよりも一筋内陸に入った通りが呼子朝市通り。そもそも、呼子の朝市は大正の初期ごろ始まったとされている。その頃は、魚が取れたときに市ができる程度であったが、呼子港は北側に加部島があり自然の避難港として流通が盛んになるにつれ大きな船が着くようになった。人が集まれば、商業が盛んになり商店街が形成され、商店街には人が集まる。人が集まるところには市が立つようになり、朝市として機能するようになったという。今朝獲れたばかりの新鮮な魚介類が並んでいるのかと思っていたが、リアカーで大根や玉葱、白菜などの農産物を売りに来ているお婆さんの姿もある。干物なども美味しいのであろうが、まだまだ旅を続けなければいけないので手控える。奥田クンはお土産と称してイカの塩辛を買い求めた。
 呼子からは10時の新栄丸で松島へ向かう予定であるが、時間に余裕があるので町営駐車場に停めてあるレンタカーを有効活用し、玄海海中展望塔を備えた波戸岬を目指す。馬渡島からの郵正丸からも眺めた岬で、波戸岬の付け根が名護屋となる。福井クンにハンドルを預けて名護屋浦にかかる名護屋大橋を渡る。名護屋に入ればコンビニエンスストアなどもあり、意外に開けた町である。
 呼子港から15分で波戸岬に到着。波戸岬の先端に近いところまでレンタカーを進めたが、こちらは有料駐車場。200メートル程戻った波戸岬ビジターセンターの駐車場は無料だったので、一旦、ビジターセンターまで戻ってから徒歩で波戸岬へ。玄海海中展望塔は9時開館とのことなので、先に遊歩道をたどって灯台を目指す。にわかに空が暗くなり、雷の閃光とゴロゴロという雷鳴が響くあやしい雲行きになってきた。雨が降るだけなら渡船が欠航することはなかろうが、風が強くなると心配だ。幸いにも波が荒れている様子はなく、雨もまだ降り出していない。
波戸岬  9時の開館と同時に550円を支払って玄海海中展望塔へ入る。沖合に設置された海中展望塔へ続く86メートルの架橋を渡り、螺旋階段を降りたところが海中展望室。先客は皆無であったが、掃除機を抱えたおばちゃんがおり、まだ準備中であった模様。それでも冷房だけは十分に効いており、おばちゃんが掃除を始める前につけたに違いない。この手の施設は何度も経験しており、天候も悪いのであまり期待していなかったが、海中は意外に澄んでいて魚も多い。この地域は日本海と東シナ海とが合流する暖流、還流の接点となっているため、熱帯魚や熱帯海藻など珍しい海洋動植物が見られるという。海上デッキに出ればこれから渡る加唐島、松島、既に訪問した小川島、馬渡島といった玄海灘の島々が確認できる。沖合にあるので波戸岬も見渡せるロケーションだ。
 呼子港へ戻る途中に道の駅桃山天下市へ立ち寄り土産物などを選ぶ。桃山は私の住む京都の地名であるが、豊臣秀吉に縁のある名護屋が拝借したのであろう。「天下市」の名にふさわしく玄海灘で獲れた魚介類や地元の新鮮な野菜やくだものを直売しているが、呼子の朝市同様に鮮度が求められるものはためらわれたので、呼子産の甘夏を利用した「甘夏キャラメル」(210円)などを買い求めておく。その他にも絹糸で作られた色鮮やかな組紐が特徴の名護屋帯など桃山時代ゆかりの特産品なども販売しており、思っていたよりも充実した施設で奥田クンや福井クンも満足そうだ。
 再び呼子港に戻り、レンタカーを町営駐車場に納める。町営駐車場の利用は今回の旅で3回目。まだ出航時刻の10時まで2、3分あったにもかかわらず、呼子港を離れようとしていた「新栄」を大声で呼び止めて乗り込む。小川島の「そよかぜ」や馬渡島の「郵正丸」と比べてもかなり小ぶりの船で、乗船客は他に30〜40代の主婦3名のグループのみ。松島へ何をしに行くのだろうと訝しく思うが、向こうだって我々を得たいの知れないグループだと思っているに違いない。
 「新栄」はゆっくりと松島を目指して動き出したが、やがて雲行きがあやしくなり、どんどん雲が厚くなってくる。「新栄」は突如大きなモーター音を響かせながら疾走。本来は呼子から20分かかるところを5分短縮したものの、雨が降る前に松島へたどり着きたいという「新栄」の思いは叶わず、松島を目前にして滝のような雨が降り出した。
土砂降りの中で松島に上陸。駆け込み乗船であったため、まだ乗船券を購入していない。「新栄」の船長は「帰りに往復分もらうからいいよ」との返事だが、我々は昨日同様、海上タクシー「水星U号」を利用して加唐島へ渡たるつもりなので、450円の乗船料を支払う。引き換えに手渡された領収書には「アンジェラスの鐘響くロザリオの島」と記されている。なんのことやらと首をかしげていると奥田クンが解説。
「松島は長崎のキリシタン弾圧から逃れて移住してきた人が多いカトリック信者の島なんだって。さっきの主婦グループも布教活動じゃないだろうか」
 なるほど。松島港の近くにも周囲に似つかわしくない教会が建っている。主婦グループは教会へは立ち寄らず、松島の集落へ消えて行ったので信者であったかは定かではないが、布教のために各家庭を訪問するのかもしれない。奥田クンと福井クンは豪雨から逃れるために教会へ逃げ込んだが、私は雨が小降りになったのを見計らって松島の探索に出掛ける。松島は周囲3.6キロの小さな島で、「ひょっこりひょうたん島」とそっくりで二つの山が重なりあってその間を縫うように急勾配の道が上へ延びている。その急勾配の道を登って行くが、道の表面を雨水が清流のように流れてくる。靴もズボンも既にびしょ濡れなので、今さら気に留める必要もない。民家は急勾配の道路を挟んで並んでいるが、港までの往復も大変ではなかろうか。坂道を登りきったところで、港とは反対側の海岸の光景を眺めることができたので、満足して引き返す。
 松島港近くの白い松島教会は1981年にイタリア人の神父によって建立されたとのこと。教会内は無人であったが、鍵は掛けられておらず自由に立ち入りができる。私も教会で雨宿りをさせてもらったうえで、海上タクシー「水星U号」に携帯電話で連絡し、11時に松島港へ迎えに来てもらうことになった。
 松島教会の礼拝堂でマリア像などを眺めているといつの間にか雨が止んでいる。外に出てみれば雨をもたらした黒い雲は消え、ところどころ青空が見える。これから天気が崩れる心配はなさそうだ。松島港の防波堤で海を眺めていると、昨日も小川島から呼子まで利用した「水星U号」が近づいて来た。
 「水星U号」に乗り込み、目の前に横たわる加唐島を目指す。松島には中学校がないため、松島の中学生は加唐島にある中学校へ通っているとのこと。それならば、松島−加唐島間の定期航路があってもよさそうであるが、今のところ水上タクシーを利用しなければ一旦呼子に戻るしかない。
 「水星U号」はわずか10分で加唐島へ到着。「水星U号」の船員は相変わらずの無愛想ぶりで、わずか10分で4,000円を支払う上客なのだから「ありがとう」の一言があってもよさそうなものである。競合他社があれば絶対に利用しないが、釣り客の瀬渡し船を除けば玄海灘の島々を渡るには「水星U号」に頼らざるを得ない。
 加唐島は南北3.2キロ,東西1.5キロ、周囲12キロと南北に細長い佐賀県最北端の島である。集落は加唐港のある南側に集中しており、加唐小中学校や保育園、漁協、郵便局などの主要公共施設も南側に集まる。北東部の入り江に大泊港があり、さらにその先には佐賀県最北端のカリオ岬が待っている。加唐港から大泊港までは徒歩40分とあったので、急げばカリオ岬まで往復して呼子行きの定期船が出る加唐港へ戻れるかもしれない。奥田クンと福井クンを促しながらカリオ岬を目指して歩く。島内にタクシーでもあれば迷わず利用するのだけれども、加唐島には公共交通機関が存在しない。先ほどの雨が嘘のように真夏の日差しが容赦なくてり付ける。雨で濡れていた衣服は何時しか汗で濡れてきた。
通りすがりの島民から「どこまで行くの?」と尋ねられる。「カリオ岬まで」と答えるとまだまだ先は長いぞと気勢をそがれた。
 延々と1時間以上歩き続け、大泊港への分岐点を通り過ぎたが時刻は12時15分。
「もう時間がない。諦めよう。戻らないと船に乗り遅れる」
今度は奥田クンに促されて志半ばで断念。カリオ岬には灯台もあり、周辺のユウスゲ群生地には、可憐な花が岬いっぱいに広がっているはずだ。
 加唐港へ戻れば、港近くの島内案内に加唐島が「日本書紀」に「椿の島」として登場することが紹介されている。加唐島は、朝鮮・百済中興の祖といわれる武寧王(在位501〜523年頃)の生誕にまつわる歴史が残る伝説の島だったのだ。「日本書紀」の雄略天皇5年(西暦461年)の条には、「百済の蓋鹵王の王弟昆支が日本に遣わされたとき、筑紫(九州)の各羅島で妃が子を産んだ。その子は嶋君と名付けられた。・・・百済人は、この嶋を主嶋と呼んでいる。」と記録されている。各羅島は加唐島、嶋君は後の武寧王。武寧王は加唐島のオビヤ浦で生まれ、産湯を使ったとする伝承が加唐島に残っている。ところが、韓国の「三国史記」などの歴史書に武寧王が嶋君(斯麻王)と称したことや日本で生まれたとする記録がないなど、韓国には「日本書紀」の記録は受け入れ難いものだった。しかし、1971年に韓国の広州市武寧王陵から墓誌石が発見され、解明が進むうちに状況は一変したという。墓誌の記述から「日本書紀」の記述の正確性が裏付けられ、加えて王棺は韓国に産しない高野槙で造られたものだった。加唐島は、百済、対馬、壱岐、筑紫(九州)の最短コース。古代における日韓の親密な交流や海上交通ルート、雄略紀の実年代等々も武寧王陵の墓誌石や木棺から明確になってきた。武寧王は、阿直岐(あちき)や王仁(わに)博士を日本に派遣して千字文や論語を伝えるなど日韓史に大きな足跡を残した大王だったという。
 加唐港を13時に出航する加唐汽船の「かから丸」に乗り込むと疲れが一気に出る。カリオ岬に到達できなかったことが大きく影響しているのだろう。もっとも、今回の玄海灘の島巡りはこれで一旦打ち止め。佐賀県北部には、東から高島、神集島、小川島、加唐島、松島、馬渡島、向島と7つの島が点在しており、足早ながら6島に上陸を果たしたことになる。残りの向島は日程の都合上、次回以降の旅に譲ることにする。
 呼子までの20分間は冷房の効いた船内で昼寝。さすがに甲板で景色を楽しむ余裕はない。朝市通りに面した「やまぐちストア」で昼食用のパンや飲み物を補給して、レンタカーに乗り込む。何度も行き来した呼子の街ともこれでお別れだが、また壱岐へ渡るときに再訪することになろう。
 今度は自分でハンドルを握り、しばらくは波戸岬へ向かったときと同じ国道204号線を走る。道の駅桃山天下市の先が目指す名護屋城跡となる。カーナビの案内が不徹底で、駐車場の入口を間違えたりしながら到着。名護屋城跡は緑地公園のようになっているが、すぐに炎天下の中を歩く気にならないので隣接する佐賀県立名護屋城博物館を先に見学する。名護屋城博物館は、1592年〜1598年にかけて豊臣秀吉によって指揮された文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)を侵略戦争と位置付け、その反省の上に立って、日本列島と朝鮮半島との長い交流の歴史をたどり、今後の双方の交流・友好の推進拠点となることを目指して、1993年(平成5)年10月30日に開館したという。あまりにも立派な建物なので受付で入館料を尋ねるが無料とのこと。公共施設とは言え、多少の入館料を徴収してもよさそうな施設である。
 常設展では、日本列島と朝鮮半島との交流史を、名護屋城以前、名護屋城、名護屋城以後の3時代に区分して展示している。名護屋城以前のコーナーでは、高麗金板経、金銅如来立像などの大陸からの渡来品が展示されており、地理的に朝鮮半島との交流が盛んであったことが伺われる。名護屋城の時代がやはりメインで展示スペースも多くとられている。豊臣秀吉の画像や書状、朝鮮半島へ渡った船舶の模型も展示されている。真剣な眼差しでこれらの展示物を眺める韓国人観光客もいるが、どのような心境でこれらの展示物を眺めているのであろうか。名護屋城以後の時代では朝鮮通信使、倭館、貿易品などの資料により、朝鮮との国交回復について説明がされていた。最後に名護屋城跡全体のジオラマで名護屋場の概観を掴んで散策に出発する。
名護屋城跡  名護屋城博物館は無料であったが、名護屋城跡の入口で清掃協力金として100円を徴収される。入場料ではなく、清掃協力金と明記されているのは、徴収した費用は名護屋城跡の清掃費用としてしか使用しないという意図であろうか。敷地面積は約17ヘクタールもあり、1人100円ではすべての清掃費用をまかなうことはできないであろう。
 肥前名護屋城は、豊臣秀吉が文禄・慶長の役に際し、その出兵拠点として築いた城である。築城は加藤清正の設計により、1591年(天正19年)後半から始まり、諸大名による割普請によってわずか5ヶ月で完成したという。当時では、大坂城に次ぐ規模であり、天守閣は金箔を施した豪華なものであったようだ。もちろん、現在は石垣のみが残っているだけであるが、東西約145メートル、南北約125メートルの広さを占める天守台跡に登れば、加部島へ続く呼子大橋から小川島、加唐島、松島、馬渡島とこれまで巡ってきた島々を見渡すことができる。天守台跡からの眺望でも見事なのであるから、五層七重の天守閣からの眺めはさぞかし気分が良いものであったに違いない。豪華絢爛の名護屋城の周囲には文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)に際し、名護屋の地に集結した全国130名以上の諸大名が、名護屋城を中心とした半径約3キロ以内に点在する丘陵という丘陵に陣屋を築いたそうだ。加藤清正、小西行長、徳川家康、前田利家などの陣跡は特別史跡に指定されており、現在でもいくつかの陣跡の発掘調査が続けられているようだ。
 名護屋城跡を一周りしてから次なる目的地である玄海エネルギーパークを目指す。玄海原子力発電所に隣接する施設で、九州電力が原子力発電所に対する理解を深めてもらうために公開した施設だ。テニスコートやグラウンドも無料で公開しており、地元に配慮した九州電力の涙ぐましい努力が伺える。
 名護屋城跡から5分程で玄海エネルギー100台を収容できる駐車場は8割程度埋まっており、かなりの盛況ぶりだ。サイエンス館と九州ふるさと館が併設された建物の入口では、綺麗なお姉さんが「ようこそ玄海エネルギーパークへ」と笑顔で迎えてくれ、「フロアガイド」なるものを手渡される。館内案内のパンフレットに過ぎないのであるが、スタンプラリーのスタンプ帳を兼ねている。スタンプラリーと聞いては無視できず、当然にチャレンジだ。
 まずは原子力発電の仕組みについて展示されているサイエンス館へ。サイエンス館は原子力発電所の内部イメージで、中央には実物大の原子炉の模型が展示されており、周囲を圧倒する。その原子炉の模型を取り囲むような螺旋状のスロープを登りながら館内を見学コースが設定されている。原子炉でウランを核分裂させ、その際に発生する強大な熱量で水を水蒸気化してタービンを回し発電するというのが原子力発電所の原理から始まり、原子力発電所は固い岩盤の上に直接固定されているので地震に強いなどの安全性に至るまでシアターやパネル、展示物を踏まえて解説されている。最上階は展望施設となっており、玄海原子力発電所が確認できる。玄海には1号機(1975年)、2号機(1981年)の55万9,000KW原子炉2基、3号機(1994年)、4号機(1997年)の118万KW原子炉の2基の合計4基が稼動しているとのこと。外観が異なるのはタイプが違うからであろうか。いずれにしても火力発電で同規模の発電量を確保しようとすれば数倍の巨大施設になるだろうし、原子力発電がかなり効率的であることはよくわかる。しばらく展望所で玄海原子力発電所の遠景を眺めいると、やがて雨が降り出した。
 各々のペースで見学をしていた奥田クンと福井クンがそろったので、今度は九州ふるさと館へ移動。こちらは原子力発電所とは無関係でむしろ物産館としての意味合いが強い。博多祇園山笠、長崎くんち、高千穂の夜神楽など九州各地の伝統的な祭事や伝統工芸品の展示がされており、「ここには、九州のエネルギーがあふれている。」と無理矢理エネルギーパークと結び付けるキャッチフレーズが滑稽。展示物では有田焼のからくり時計なるものがあり、30分毎に時計の文字盤が左右に分かれ、これまた有田焼で創られた時計のぜんまいなどが動く仕掛けが見事であった。
 さて、スタンプラリーも無事にすべてのスタンプを集めたが、商品などは一切無く、「おめでとう17.7.30またきてね」というスタンプが押されておしまい。商品目当てではないのでいいのだけれど、少なくとも何か景品があった方が小さな子供は喜ぶのではないだろうか。
 玄海エネルギーパークを後にして、東松浦半島を南下する。玄海エネルギーパークを出るときは小雨であったが、やがて雨は上がり夕陽が差してくる。今日は本当に気まぐれな天候だ。国道204号線を伊万里方面へレンタカーを走らせていると奥田クンが温泉へ寄ることを提案する。玄海町の仮屋湾に面した玄海海上温泉パレアで、夕陽を望む露天風呂がメインだという。今日は松島で豪雨の洗礼を受け、加唐島での強行軍があったのだから温泉でさっぱりしたいのは3人とも同じ。満場一致で温泉を目指す。
 玄海海上温泉パレアは2004年(平成16年)4月5日にオープンしたばかりのまだ新しい施設。海上温泉とは大胆なネーミングだなと思っていたら、実は施設の半分以上が海の上に建てられているとのこと。しかも、温泉部分は完全に海上にあり、お風呂から眺める景色が潮の満ち引きの関係で時間帯によって微妙に異なるらしい。500円の入浴料を支払って、さっそく海上にある温泉へ。床が透けて見えるわけではないので、海上かどうかは浴場にいてもわからないが、露天風呂の目の前に海があることは間違いない。夕暮れまでにまだ時間はあるが、少なくとも玄海灘に傾きかけた太陽を眺めながら疲労回復の効能がある天然温泉で旅の疲れを癒す。
 温泉で鋭気を養ってドライブ再開。向島への定期船が発着する星賀港を経てイロハ島に到着すると時刻は17時20分。ガイドブックによればイロハ島の見学時間は17時までとあるので、タッチの差で間に合わなかったようだ。イロハ島の由来は、弘法大師がここを訪れたときに、伊万里湾に48の島々が点在していたことから「いろは」の48文字にちなんで命名したという。その大小48の島々のひとつである島山島は、全体が童話ピーターパンをモチーフにした「花と冒険の島」という公園になっている。島山島へ妖精の橋というゴッホの絵に出てくるような跳橋が架かっている。見学時間を過ぎているので妖精の橋も閉鎖されているかと思ったが、通行は自由にできるようなので渡ってみる。まだ島山島の海水浴場で遊んでいる家族連れの姿もあり、妖精の橋も跳ね上がるようなことはなさそうなので、素知らぬ顔をして島山島散策を開始。奥田クンと福井クンは折角温泉に入ったのに汗をかくのは嫌だと付いて来る様子はない。まあ、すぐに戻るつもりなのでいいだろう。島内は平凡なアスレチックコースがあるだけであったが、ピーターパンやフック船長の人形がところどころに現われるので子供を連れてきたら喜ぶかもしれない。ただし、一部の人形は相当傷んでおり、適度な手入れが必要だ。
 運転を福井クンに代わってもらい先を急ぐ。唐津市から伊万里市へ入り、福島大橋を渡ればイロハ島の対岸に見えていた福島だ。福島は伊万里湾に浮かぶものの行政区画は長崎県北松浦郡福島町。とうとう外周の旅も長崎県に突入した。もっとも、福島を一周した後は再び福島大橋で佐賀県に戻ることになる。
 福島大橋の近くにある玄武岩の採石場を通り抜け、県道103号線を北上すると右手にイロハ島が現われた。対岸がほんの30分程前に訪問したピーターパンの島山島付近である。レンタカーで伊万里湾に沿って迂回してきたわけだ。
 福島町の北端に位置する初崎公園に着いたのは18時15分。伊万里湾に反射する夕陽がまぶしく美しい。このあたりには5万本ものヤブツバキが自生しており、赤い花が咲き乱れる3月には「つばき祭り」が開催される。目の前には初崎海水浴場があり、ここでも海水浴を楽しんだ家族連れが帰り支度をしているところ。その先には海中に建つ白い灯台がある。
 帰りは西側の道路を南下する。「日本の棚田百選」に選ばれた土谷(どや)地区は、海へ向かう斜面に棚田が作られている。雨が比較的少ないため水を有効利用しようと江戸中期ごろから急傾斜地を開いたとのこと。ゴールデンウィークの頃に植えられた稲はそろそろ黄金色になりつつある。田植えシーズンには、あぜ道に写真愛好家が三脚を並べて競い合うようにシャッターを切っていたのであろう。
 福島大橋を渡って束の間の長崎県の旅は終了。佐賀県に戻って伊万里駅を目指す。次回以降のことを考えると、今日は伊万里駅まで行程を進んで行くのがベストだ。国道204号線の右手が伊万里湾から伊万里港、そして伊万里川に変わる。そして、伊万里川に架かる相生橋を渡れば伊万里駅に到着のはずであったが、駅前通りが通行止めになっている。毎年7月下旬から8月上旬の土曜日に伊万里商店街が主催する恒例行事「土曜納涼夜市」とのこと。伊万里駅を目の前に迂回を強いられたが、なんとか19時過ぎに伊万里駅に到着した。伊万里駅は高架になっているものの、おもしろいことに道路を隔てて東側がJR筑肥線の伊万里駅、西側が松浦鉄道の伊万里駅となっている。国鉄やJRから第三セクター線に転換された路線でよく見られる傾向で、ホームは同一であるにもかかわらず、第三セクター化した鉄道が独自の駅舎と改札口を設けるのだ。不経済にも思えるのだが、共用の駅舎や改札口にするとJRから委託料を請求され、採算が合わなくなるらしい。わざわざ駅舎を新築する方が安上がりとは、一体どれだけ高い委託料なのだろうか。
 伊万里から福岡まではアプローチに過ぎないので気楽なもの。国道202号線に沿って進めば福岡にたどり着く。もっとも、明日は福岡湾に浮かぶ小呂島と能古島の落穂広いに当てるため、今日は伊万里に到達した後に福岡まで向かう。22時までに西新営業所にレンタカーを返却しなければならないのだから先は長い。
 再び奥田クンの提案で道の駅伊万里に立ち寄り夕食とする。道の駅伊万里に着くと周囲はすっかり日が暮れて、売店はすべて店仕舞いしているもののレストランは22時まで営業している。 ステーキ&焼肉レストラン「るーらる」は、10年連続で農林水産大臣賞を受賞した伊万里牛を食べさせる店で、奥田クンは伊万里牛に目を付けた。奥田クンは豪勢に「佐賀牛ステーキ」(4,000円)を注文。伊万里牛を目当てにしていたのに佐賀牛でいいのだろうか。もっとも、伊万里市は佐賀県なのだから、佐賀牛に伊万里牛も含まれるのだろうか。いやいや、佐賀牛と伊万里牛を呼び分けているからには違いがあるに決まっている。そんな理由で、私は「和風ステーキ定食」(1,370円)と「伊万里牛タタキ」(860円)を注文した。「和風ステーキ定食」は値段からして輸入牛であることは間違いなく、メインは「伊万里牛タタキ」。加唐島で散々連れ回したお詫びに奥田クンと福井クンにお裾分けをする。お返しに奥田クンから「佐賀牛ステーキ」も一切れもらった。「和風ステーキ定食」とは比較にならないが、伊万里牛との違いはわからない。後で調べれば佐賀牛の中でも伊万里牛が別格であるとのこと。伊万里牛ではなく佐賀牛を名乗ったということは、奥田クンのステーキは伊万里牛ではなかったようだ。
 唐津市街地を通り抜けると2日前にたどってきたルートの逆コース。もっとも左手の唐津湾はまっくらで一人だったら不気味だ。途中で福井クンと運転を交代するつもりであったが、福岡市内に入ると急に渋滞が始まり時間に余裕がなくなった。外周の旅では渋滞なんて無縁なものだったからまったく計算に入れていなかった。福井クンにそのままハンドルを握ってもらい、携帯電話でジャパレン西新営業所に電話を入れる。あらかじめ連絡をしておけば、多少の遅刻は見逃してくれる。
 ガソリンスタンドを探すのに手間取って、22時を多少過ぎたものの無事にレンタカーを返却。西神から地下鉄で2駅の大濠公園まで運ばれ、今宵の宿となる「平和台ホテル荒戸別館」にチェックインすればベッドにそのまま倒れ込む。久しぶりによく動き、疲れた1日であった。

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