機械の進化は止まらない

第85日 唐津−馬渡島

2005年7月29日(金) 参加者:奥田・福井

第85日行程  唐津駅前の「ホテル宙(そら)」の食堂スバルで福井クンと顔を合わせる。税・サービス料込みのシングルルームで4,900円にもかかわらず、朝食付きで洋食と和食を選択できる。しかも、モーニングコーヒーがセルフサービスながら飲み放題なのも嬉しい。今日もレンタカーを運転しなければならないので、目覚ましがてらホットコーヒーを2杯飲み干す。
 雲行きはあやしいが、とりあえず雨は降っていない。今日から佐賀県北部の島めぐりが始まるので、なんとか船が欠航しない程度の天気が維持されるように祈りながら7時30分にホテルを出発。最初のポイントは唐津湾に浮かぶ高島である。ホテルからレンタカーで5分の高島行きの定期船乗り場がある高島桟橋へ向かい、乗船券売り場で高島行きの定期船が欠航していないことを確認する。高島航路は予定通り運航されるというので安心したものの、近くに駐車場が見当たらない。町田川に架かる城内橋を渡ったところに唐津市営の東城内駐車場があるのだが、城内橋は歩道橋なのでレンタカーは迂回しなければならない。
 東城内駐車場にレンタカーを駐車して、高島桟橋へ駆けつければ、7時50分の高島行きの「ニューたかしま」の出航5分前。200円の乗船券を購入して船内に入れば意外に乗客が多い。高島は周囲3キロの小さな島であるが、127世帯365人が生活している。唐津城から2キロ、定期船で10分足らずの距離なので、唐津市街への行き来も頻繁にあるようだ。定期船は「ニューたかしま」が1日6往復しているだけであるが、その他に海上タクシーが7隻も活躍している。海上タクシーの料金は片道500円、往復なら900円で利用できる。
 高島に上陸すると宝当神社の看板やのぼりが目立つ。ここ高島は知る人ぞ知る宝くじファンの聖地で、宝当神社というネーミングの縁起のよさから全国の宝くじファンが高島を訪れるという。もっとも、宝当神社は高島のメインスポットなので最後のお楽しみにとっておき、まずは海岸線沿いの島を一周する道路を歩いてみる。高島の集落は唐津に面した南側に集まっており、北側は無人になっている。それでも道路が通じているのは釣り客への便宜なのであろうか。いずれにしても外周の旅にはおあつらえ向きの道路である。「ニューたかしま」から一緒に降り立った乗客の何人かと前後しながら時計と反対回りに島歩きを始める。10分も歩くとドラマの撮影に使えそうな木造のおしゃれな校舎が現われ、唐津市立高島小学校と判明。もともとは高島中学校も併設されていたのだが、2004年(平成16年)3月をもって中学校は閉校してしまったとのこと。「ニューたかしま」から一緒だった乗客は校舎に吸い込まれていった。
 高島小学校を通り過ぎると周囲から民家がなくなり、高島の無人地区に入り込む。ところが小学校から100メートルもしないうちに「崖崩れ通行止」の看板に出くわす。高島の北側は断崖絶壁になっているので、崖崩れも発生しやすいのであろう。通行止めの看板はかなりくたびれており、崖崩れはかなり前に発生したものと推察される。誰も困らないから急いで復旧させる必要もないのだろう。このまま道路が廃止されてしまうような気さえする。仕方が無いので小高い山の麓の道を歩いて港方面に戻る。途中で宝当神社の陰に隠れた存在の塩屋神社へ立ち寄れば、塩屋神社が高島の産土神社で、宝当神社は塩屋神社の境内社とのこと。なんと塩屋神社が宝当神社の本家にあたるのだ。こちらへ参拝した方が宝当神社よりも宝くじに当選するご利益がありそうな気がする。塩屋神社には観光客らしき若い男女が参拝しており、我々を見掛けるとそそくさと境内の脇にある山道を登って行った。高島の中心部には標高170メートルの小高い山があり、塩屋神社から山頂まで登山道がある。山頂にある展望所までの所要時間は50分で、展望所からは崖崩れで断念した北部の断崖絶壁が見えるかもしれない。しかし、我々は高島を9時に出航する定期船で唐津へ戻る予定だし、カップルの邪魔をするのも気が引けたので予定通り宝当神社へ向かう。
宝当神社  まだ朝早いためか、宝当神社の境内に他の参拝客は見当たらない。それでも本殿に上がれば、至るところに宝くじに当選した御礼参りの報告があり、宝当神社のご利益は健在のようだ。おみくじを引いてみると「大吉」で縁起がいい。
 そもそも、宝当神社は、野崎隠岐守綱吉を祀った神社である。野崎綱吉は、安土桃山時代に肥後国豊後の大友義鎮に仕えていた武将であったが、島民を悩ませていた筑前国吉井の海賊を退治するために高島へ移り住んだ。その後、見事に海賊を退治したものの、1586年(天正13年)8月23日に32歳という若さで病死。島民は海賊退治の功績を称えて島の守り神として野崎綱吉を祀ったが、1901年(明治34年)に当島の宝として、「寳當」と記された鳥居を奉納したことをきっかけに宝当神社と呼ばれるようになったという。ちなみに高島の住民の99%が野崎姓であるとのこと。
 宝当神社が宝くじのご利益がある神社として全国的に有名になったのは比較的最近のことである。1992年(平成4年)に島おこしの一貫として、宝当神社を宝くじが当たる神社としてPRしたことに始まる。島民が宝当袋を作って販売したところ、宝当袋を買った人の中から宝くじの1等当選者が出たことから、徐々に注目を集め始めた。そして2001年(平成13年)に所ジョージが司会を務める日本テレビ系列の人気情報バラエティ番組「1億人の大質問!?笑ってコラえて!」のダーツの旅でスタッフが宝当神社のご利益を検証するため、宝当袋を購入し、100円券の宝くじ10枚を入れておいたところ、そのうちの1枚が10,000円に当選した。番組終了後は全国から宝当袋の注文が殺到し、宝当神社にも全国の宝くじファンが押しかけるようになったという。
 せっかく宝当神社にお参りしたからには、宝当袋を買いたい。ところが社務所にはお札や御守りの類しか見当たらない。宝当袋は島おこしのために島民が独自に売り出したものなので、本来的に宝当神社とは無関係なのだ。それならば宝当袋と宝当神社のご利益は無関係ではないかと思うのだが、あまり難しいことを言う人はいないらしい。宝当袋は港に近い宝当刀館という土産物屋で販売していた。店内には宝当袋以外にも様々な宝くじグッズが販売されている。私自身は宝くじを購入する習慣はないが、実家の両親がよく宝くじを購入しているため、お土産に「スーパー宝当袋玉光3000」(3,150円)を購入する。福井クンはロトくじの当選番号を占う「大開転宝当6ペン」(840円)を購入した。果たして宝くじグッズのご利益は如何に。  「ニューたかしま」で唐津に戻り、レンタカーはそのままにしてしばらく徒歩で市内観光に出掛ける。最初に訪れたのは唐津市民会館に併設されている曳山展示場。ここには豊穣の秋祭「唐津くんち」の曳山が展示されている。曳山は漆の一閑張という工法で作られ、本体を木組みし粘土の原型や木型の上に和紙を数百枚貼り重ね、麻布等を張り、幾種類もの漆で塗り上げ、金銀を施して仕上げたもの。2〜4トンもある曳山は、毎年11月3〜4日になると展示場から搬出され、唐津市街を練り歩く。代表的な曳山としては魚屋町の五番曳山の鯛だろう。魚屋町が魚屋の町だったので、神へのお供物として魚の代表である鯛が選ばれたとのこと。おおよそ唐津とは無縁と思われる武田信玄の兜が九番曳山、上杉謙信の兜が十番曳山として展示されていた。  曳山展示場の向かいにある唐津神社で参拝し、市街地に残る城壁の跡を眺めたりしながら唐津城へ。唐津城の歴史は意外に新しく唐津領主の寺沢志摩守広高が九州諸大名の強力を得て、7年の歳月を費やして1608年(慶長13年)に完成させた。築城には名護屋城の解体資材を用いたうえ、当時は満島と陸続きであった満島山を人工河川で切り離し、外敵に備えたという。もっとも、現在の唐津城は1966年(昭和41年)10月に建設された観光施設に過ぎない。それでも当時を再現した慶長様式を取り入れ、五層五階地下一階の堂々とした天守閣で、天守閣を鶴の頭に見立て、左右に広がる松原が鶴の翼の形に似ていることから、舞鶴城とも呼ばれている。天守閣へ続く176段の石段を登ろうとすると福井クンがエレベータを発見。さすがは近代的なお城だとエレベータ乗り場に向かえば100円とあったので回れ右。やはり周囲の景観を楽しみながら石段を登るのが風流だ。
 唐津城の内部は唐津藩の民俗資料や唐津焼を展示する郷土資料館となっていた。明智光秀の三羽烏といわれた安田作兵衛の槍が興味深い。本能寺の変で織田信長に負傷させたと言い伝えられる槍であると言い伝えられている。
 最上階へ上がれば展望室になっており、ここからの眺めは素晴らしい。東を見れば昨日たどった虹の松原が広がり、北を見れば唐津湾に浮かぶ高島がある。南を見れば唐津市街が一望でき、西から北に向かっては国道204号線が続いている。これからレンタカーで呼子へ向かう道だ。天気はかろうじて平静を装っている。
 東城内駐車場へ戻れば高島桟橋へ続く歩道橋でテレビ撮影が行われている。
「あの女優、何度かテレビで見たことあるけど、名前が出てけぇへんなぁ」
福井クンがカメラの被写体となっている女性を見ながらつぶやく。私は芸能人には疎いので、女優の顔を見てもさっぱり名前が出てこないが、福井クンがテレビで見たことがあるくらいなら有名人なのであろう。情報番組という雰囲気ではなかったので、差し詰め安藤クンの好きなサスペンスドラマの撮影であろうか。
 レンタカーで唐津湾沿いの国道204号線を15分程北上した湊へ移動する。湊からは唐津市営旅客船「からつ丸」が片道8分で神集島(かしわじま)を結んでいる。定期船乗り場の駐車場へレンタカーを停めると、お婆さんが近づいてきて駐車料金300円を徴収された。領収書には「土地使用券」と記されており、唐津市漁協共同組合湊浜支所の管理とのこと。神集島へ渡るために駐車場を利用する人がどれだけいるのか定かではないが、人件費の方が高く付きそうな気もする。周囲では盆踊りの会場設営の準備がなされており、駐車場の一部は閉鎖されていた。
 湊を11時30分に出航した「からつ丸」で神集島へ上陸。神集島は周囲6.8キロで、人口は約500人の小さな島だ。島名は神功皇后の新羅出兵に際して行われた儀式に由来する。唐津市街地から見た島の形が台形であり、その形から軍艦島とも呼ばれている。神集島の碑文によれば、友好関係にあった朝鮮半島の百済が新羅に滅ぼされた後に遣新羅使の一行がこの神集島に立寄ったとある。736年(天平8年)年2月、阿倍継麻呂が遣新羅大使に任命され、畿内を出立した船は秋風が吹く頃に神集島に到着したとのこと。
 島内散策の途中で、神集島簡易郵便局で旅行貯金をすると、窓口のお婆さんはゴム印を自分で押して欲しいという。
「うちのゴム印は大きいので欄外にはみ出してしまうのだけれど、以前、通帳が汚れたとひどく怒った人がいてね。それからゴム印は自分で押してもらうことにしている」
万葉集には140余首の遣新羅使関係者の歌が撰定されているが、神集島で歌われたものが7首ある。うち6首までが家族との別れを詠んだものであり、別れの悲しみと航海の不安をにじませている。島内7ヵ所にはそれぞれの歌を紹介した万葉歌碑が建っている。それらの万葉歌碑を眺めたりしながら過ごす。
 港からつらなる砂州の先端にある住吉神社へ足を運ぶと海中に鳥居が建っており、安芸の宮島を連想する。神功皇后が戦勝を祈願したと伝えられる住吉神社には漁業と縁結びのご利益もあるというので、良縁があるように参拝する。今年で三十路に達したが、未だに春は遠い。
 神集島は「かしわ」という島名に反してしばらく鶏を飼うことが禁忌とされていた。住吉神社の御祀神が対岸の湊まで一晩で地続きにしようと埋め立てをしていたところ、鶏が鳴いたために夜明けになったと勘違いをし、途中で埋め立てを断念したという。このため住吉神社の御祀神は鶏を嫌い、鶏を飼った島民は住吉神社の怒りを買って不幸に見舞われたそうだ。
 港に戻って13時出航の「からつ丸」に乗り込むと急に大粒の雨が降り出した。これからの行程を心配したものの、幸いにも一時的な通り雨。「からつ丸」が湊に戻るまでにすっかり天気は回復する。
 再びレンタカーで湊支所前停留所近くにあるファミリーマートへ。ここで奥田クンと合流する約束であったのだが、店内に奥田クンの姿はない。唐津からの昭和バスの到着予定時刻は13時02分、「からつ丸」が湊へ戻って来たのは13時08分だったので、てっきり我々よりも先に着いていると思ったのだ。バスが遅れているのかもしれないと菓子パンとお茶を買って、レンタカー車内で昼食を摂りながら奥田クンを待つ。携帯電話で連絡をしても応答がないため、時間つぶしに近くの立神岩に寄ってみる。駐車場が有料だったため、レンタカーからは降りずに高さ40メートルの岩板を車窓から眺める。断崖が波に侵食されてできた自然の芸術であるが、冬の荒波に曝される日本海側ではよく見られる光景だ。
 再びファミリーマートに戻ったものの、やはり奥田クンの姿はない。携帯電話もつながらず、どうしようかと思案していると、湊で折り返し運転となるバスが唐津方面へ走り去っていくではないか。既に唐津からのバスは湊に到着しているにもかかわらず、奥田クンが現われないということは、予定のバスに乗り遅れたに違いない。昨年もバスを乗り間違えた奥田クンならあり得ることだと納得して先へ進む。後続のバスに乗るのであれば、呼子まで乗り通してもらえばいいだろう。
 レンタカーがなければ絶対に訪れなかったと思われる屋形石の七ツ釜へ。ここも立神岩と同様に玄海の荒波が長い年月をかけて玄武岩の断崖を侵食し、七つの海食洞を創り出した。かまどを並べたような景色は絶景で、日本最初の海中公園に指定されたことを知る。最大の洞は間口、高さとも5メートル、奥行き100メートルもあるという。満潮時には遊覧船で洞窟内の観覧もできるとのことであったが、今後の予定が押しているので断念。七ツ釜の上に広がる芝生の緑色公園を散策して先へ進む。
 レンタカーを呼子方面へ走らせようとすると奥田クンから電話が入る。
「今、ファミリーマートに居るのだけど…」
この時間帯にバスの発着はなかったと思うが、バスに乗り遅れたのでタクシーで駆けつけたのであろうか。いずれにしてもファミリーマートに居るのに呼子まで来いというのは酷なので、約5キロの道のりを湊まで引き返す。ファミリーマートで奥田クンと無事に合流できたが、レンタカーとはいえ往復10キロのロスタイムは大きい。呼子からは14時40分の川口汽船「そよかぜ」で小川島に渡る予定なのだ。奥田クンに遅刻の原因を問いただせば、湊支所前で降りるはずのバスを手前の湊入口で降りてしまったとのこと。たまたま「からつ丸」の渡船場に近い停留所であったため、渡船場で我々を待っていたとのことであるが、こちらは奥田クンが渡船場で待っているとは思わなかったので気にも留めなかった。
 時間が危うくなって来たので助手席の福井クンに携帯電話で川口汽船に連絡してもらい、3人乗船する旨を伝えてもらうが、電話に出たのはお婆さんでさっぱり要領を得ない様子。
 奥田クンが回復運転と酷評する我ながら乱暴な運転で呼子港へ到着。平成の大合併で今年1月1日より唐津市に編入されたにもかかわらず、未だ町営を名乗る駐車場にレンタカーを入れ、奥田クンと福井クンが先に降りて「そよかぜ」へ走る。レンタカーを駐車してから2人を追って走ると「そよかぜ」の船員が大丈夫だと手を振ってくれる。なんとか「そよかぜ」には間に合ったものの、レンタカーの車内に携帯電話を忘れてきた。
 白にエメラルドグリーンという船体の「そよかぜ」は我々が乗り込むとすぐに呼子港を離れる。総トン数85トン、定員95名と思ったよりも大きな船だ。左手に呼子大橋を見ながらしばらくは呼子港内をゆっくりと進む。やがて船体に「国道フェリー」と記された壱岐からの九州郵船フェリーとすれ違う。次回の旅でお世話になるのは間違いない。
 呼子から約20分の船旅で呼子港から北へ約5キロの位置に浮かぶ小川島に到着。人口約540人の漁業の島かつては捕鯨基地として栄え、現在もその当時のままの鯨見張り所が小高い丘の上に残っている。小川島を基地とする玄海の捕鯨は、1594年(文禄3年)に当時の唐津藩主寺沢志摩守が紀州・熊野灘から漁夫を雇い、突取法による捕鯨を行わせたのが始まり。その後、唐津藩の保護の下、網による捕鯨が盛んに行われたが、明治維新後は藩の保護が解かれたことにより、鯨組を中心とする捕鯨は衰退の一路をたどっていく。小川島捕鯨株式会社を創設して再興を図ったものの、明治初期に始まった南氷洋での母船式捕鯨は日本各地の近海捕鯨を圧倒し、玄海の捕鯨も1971年(昭和36年)をもって終わりを告げたのである。
 小川島の周囲はおよそ4キロあるが、南東の角に標高60メートルの山が円錐状に突き出ていることを除けば、小川島の大部分は標高20メートル以下と平坦な地形なので歩きやすそうだ。さっそく、時計と反対回りに島内一周を試みる。
 小川島港から10分も歩くと民家の脇に鯨の胎児を供養するための鯨鯢供養塔を見付ける。鯨鯢は「げいげい」と読み、雄鯨と雌鯨のことで呼子の石上山龍昌院にも鯨鯢供養塔と鯨鯢千本供養塔がある。鯨鯢供養塔は、1863年(文久3年)建立され。佐賀県の重要文化財に指定されているのであるが、現地には何の案内もないので、予備知識がなければ見過していたに違いない。
 更に歩き進むと、やがて民家が途切れて前方に立派な鉄筋コンクリート製の建物が現われる。唐津市立小川小中学校で、小学校の児童が23人、中学校の生徒が13人の小規模校にしては立派である。過去の栄華の名残りかとも思ったが1990年(平成2年)5月に落成した新校舎とのこと。その小中学校の北隣には1992年(平成4年)に完成した滞在型農園施設「めぐりあいらんどおがわ」があった。各部屋ともオーシャンビューになっており、水平線のゆるやかな曲線を眺めることができる。ダイナミックな活造りも魅力で、最近は口コミで宿泊客も増えているという。今回の旅でも宿泊候補に考えていた施設である。小川島を再訪する機会があれば泊ってみたい施設だ。  島の西側は周囲の様子が一変し、荒地に舗装された一本道が続く。民家は小川港に近い南部から東部にかけて集まっており、西部は完全な過疎地域になっている。右手に加唐島を眺めながら、小川港へ降りる道を歩いていると、小川島を15時20分に出航する「そよかぜ」が呼子に向けて去っていく様子が見えた。
 小川島港に戻れば次の呼子行き「そよかぜ」は17時までないが、外周の旅では初となる海上タクシーを利用して先に進む。福井クンが携帯電話で海上タクシー「水星U号」へ連絡すると迎えに来るまで少々時間がかかり、30分待ちの16時頃になるとのこと。今日は小川島から加唐島へ渡り、加唐島を16時30分に出航する加唐島汽船「加唐丸」で呼子に戻るつもりであったが、小川島から加唐島までは10分はかかるであろう。加唐島の滞在時間が20分程度ではほとんど散策ができなくなる。時間の節約を図るため、小川島を拠点として営業している海上タクシー「進祥丸」へ電話をしてみるが、こちらは更に時間がかかり、16時30分頃になるという。それならば少しでも早い「水星U号」に決まりだ。「水星U号」に再び電話をして16時に迎えに来てもらう。
 小川島港の待合室で今後の予定を検討する。今日の宿泊地となる馬渡島へ定期船「郵正丸」で渡るには17時20分までに呼子に戻らなければならない。今から加唐島へ渡っても20分しかなく、それなら加唐島の属島のような存在の松島へ渡ってみようかとも考えたが、なんと松島から呼子へ戻る定期船「新栄丸」は16時が最終便であった。もちろん、海上タクシーをフル活用すれば良いのであるが、海上タクシー「水星U号」の料金体系は、基本料金1,000円+乗車人数×1,000円である。我々は3名なので1乗船あたり4,000円では気軽に利用はできない。結局、「水星U号」で呼子へ戻り、レンタカーを利用して呼子大橋の架かる加部島へ。再び呼子に戻って17時20分の馬渡島行きに乗ることにした。
 今後の予定の目途が立ったからには残りの小川島滞在時間も有効に活用したい。捕鯨基地として栄えた当時のままの鯨見張所が港近くにある小高い丘の上に残っているというのでさっそく出掛けてみる。奥田クンと福井クンを誘ったが、待合室で待っているというので荷物番を頼んだ。
 小川島の裏手の坂道を5分も登ると1931年(昭和6年)に建てられた鯨見張所にたどり着く。小川島鯨見張所は、山見小屋とも呼ばれる瓦葺木造平家建で、広さは約7坪程度だ。小屋組は洋風様式を取り入れた大正初期の和小屋であり、窓は沖合を往来する鯨を監視するために上釣り回転扉が南側に3門、北側に4門取り付けられ、風雨の強い時にも監視できるよう設計されている。現在の鯨見張所の周辺はよく整備されていて、鯨の種類や鯨骨切唄の解説板もあるので勉強になる。「小川島鯨骨切唄」は保存会によって今も歌い継がれていて、捕鯨の情景や大漁を喜ぶ漁師たちの姿が素朴な方言で描かれていた。
 16時ちょうどに「水星U号」が小川港に到着。携帯電話では加唐島と伝えていたのだが、呼子に変更して欲しいと「水星U号」の操縦士に頼むが返事が無い。思わず大声を上げると「ああ」との返事。まだ20代と思われる若い操縦士だが、なんとも無愛想で接客に向いていない典型的なタイプだ。呼子にきちんと向うのか少々心配をしたものの、とりあえず見慣れた街並みが目の前に近づいて来たので安心する。下船時に料金を支払うときも無言で最後まで感じの悪い「水星U号」である。
呼子大橋  馬渡島行きの「郵正丸」までの1時間を活用して加部島観光に当てる。全長727.8メートルの呼子大橋を渡り、まずは加部島漁港に向かって鎮座する佐賀県最古の田島神社へ。海上安全や商売繁盛の神として親しまれている。創建時代は明らかではないが、平安時代の「延喜式神名帳」にすでにその名が登場していたという。境内には恋愛成就の神として人気がある佐用姫神社もあったので、神集島の住吉神社に続き、良縁を求めて参拝。
 加部島には島を一周する道路がないので、島の中央を縦断する道路で呼子方面に戻り、呼子大橋近くの風の見える丘公園へ。スペイン風の白い風車がシンボルになっている呼子の名所であるが、駐車場にはライダーの姿が多い。玄界灘からはるか壱岐まで一望できるビュースポットで、九州を旅するライダーにも人気の場所なのである。展望台へ足を運べば、北は玄界灘が青く広く広がり、南は呼子湾と眼下に呼子大橋、遠方には名護屋城跡、西に玄海原子力発電所と360度の眺めだ。シンボルとなっている風車はプロペラ型風力発電機として実動中で、館内の照明などに利用されている。
 呼子港に戻り、今度はゆっくりとレンタカーを町営駐車場に預けて「郵正丸」乗り場へ。船内に入れば買い物袋を下げた乗客が多く、予想外に盛況だ。船内の冷房がありがたく、座敷席にスペースを見つけて寝転ぶ。17時20分に呼子を出航した「郵正丸」は、途中で名護屋港に寄港し、部活帰りの中学生が大量に乗り込んだので、座敷席にスペースはなくなった。もっとも、座敷席のほとんどの人が寝転がっており、出航時点で確保したスペースが自分の領域という全国で見られる風習はここでも健在の様子。混雑したからと体を起す人は皆無なのでそれに倣う。奥田クンと福井クンは元気が余っており、甲板で夕日を浴びながら馬渡島までの1時間あまりを過ごしたようだ。
 18時10分に馬渡島に着岸すると周囲は薄暗くなっている。日没というよりも、天候が崩れて雲が増えてきたようだ。港には民宿「一福」の迎えが待っていることになっていたはずであるが、それらしき人の姿は無い。行き違いがあるといけないのでしばらく桟橋で待っていたが、やがて乗船客はそれぞれの家路に着き、我々だけが港に取り残される。仕方がないので、携帯電話で民宿「一福」に電話をすると、手違いで迎えは不要と伝わっていたようだ。もっとも、港からは徒歩10分もかからないというので、道順を確認して民宿へ向かった。
 部屋に荷物を置いたものの、明日は7時20分の「郵正丸」で呼子に戻ることになるため、馬渡島を散策するのであれば今日しかない。馬渡島は周囲14キロと玄海国定公園の中に浮かぶ佐賀県で一番大きな島で人口は約600人。大陸交通の中継地としての歴史を持ち、遣隋使や遣唐使が風待ちや風よけとして避難港としてこの島に立ち寄ったそうだ。馬渡島は「まだらしま」と読み、本土から最初に渡ったのが馬だったので馬渡島との名付けられたという。1789年から1801年の寛政年間に長崎から7人のキリシタンが移住してきた歴史があることから今も島民の約半数はカトリック教徒。港周辺は仏教徒が住む本村地区で、島の北東部にカトリック教徒が住む新村地区があるという。港から15分も歩けば新村地区で、島のシンボルでもある白亜のカトリック教会の天主堂もあるというので出掛けてみる。まずは本村地区を一周りしてから新村地区を目指す。港から15分という言葉を信じて歩き出したものの、港から新村地区へは急坂が続く。迫害から逃れるために馬渡島にたどり着いたキリシタンは、山を登った僻地を開墾して住み着いたようだ。
 やがて民家が途切れ、周囲が寂しくなったところでとうとう雨が降り出した。
「こんな街灯もないところでの夜歩きは危険だ。雨も降って来たから引き返そう」
奥田クンが撤退を促す。天主堂までもう少しだと思うのだが、視界には薄暗い道が続いているだけなので引き返したくなる気持ちはわかる。ただ、天主堂は馬渡島唯一のスポットでもあり、放棄するのは惜しい。あと5分だけ歩いてみようという妥協案で先へ進んだが天主堂にはたどり着けず、雨でビショビショになって民宿へ戻る。
 着替えるぐらいなら先に風呂に入った方がいい。民宿一福の浴場はおもしろいことに離れの2階にある。浴場の窓からは海が見え、展望浴場になっている。もっとも、湯船に浸かってしまうと壁に視界は遮られてしまう。
 さっぱりして夕食になれば久しぶりに豪勢な料理が並んだ。サザエ、アワビ、刺身、鯛の塩焼き、そして身がぎっしり詰まった大きなウニが2個もある。外周の旅では毎度のようにウニを食べたいと騒ぎ出す安藤クンが今回に限って参加見合せたのは因果だ。せっかくなので携帯電話でウニの写真を撮影して送信しておく。豪勢な夕食に天主堂を断念した悔しさなどはすっかり忘れて眠りについた。

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