こっそりガジェットオタク

第81日 戸畑−大島

2004年7月30日(金) 参加者:東戸・奥田

第81日行程  エスカル戸畑の食堂で朝食を摂りながらテレビの天気予報を見る。常識外れの西へ向う台風10号は八丈島の南にあり、非常にゆっくりと西に向かっている模様。週末にはちょうど福岡を直撃しそうなタイミング。せめて直撃は避けて欲しいのであるが、自然現象が相手なのでどうにもならない。幸い今日の北九州地方は天気が良さそうなので、予定通り旅を勧めることになる。
 戸畑渡船場を8時15分に出航する北九州市営渡船「くき丸」で若松へ渡る。若戸航路は昨日の「第十七わかと丸」と「くき丸」がピストン輸送を繰り返している。頭上には赤い若戸大橋が架かっているので渡船など不要と思われがちだが、若戸大橋は自動車専用道路であるうえ、船舶の航行ができるように海面からの高さが42メートルの位置にある。たとえ歩道があったとしても、歩行者が橋に登るだけでも一苦労なのだ。ちなみに若戸大橋は1962年(昭和37年)9月に開通した全長2,068メートルの夢の架け橋。夢の架け橋と呼ばれる所以は、建設当時は東洋一の吊り橋であったからだ。関門橋や本四架橋など日本の長大橋の先駆けとなった貴重な存在なのである。
 若松渡船場に隣接して若松渡場バスターミナルが設けられており、午前と午後に1本ずつしかないかんぽ保養センター行きの北九州市営バスを捕まえる。もっとも、若松とかんぽ保養センターを結ぶ便のうち、午後の便は二島経由と内陸部を縦断する経路であるため、若松半島の外周道路である国道495号線をきちんとたどってくれる便はこの1本である。
 貴重な北九州市営バスは定刻の8時30分に若松渡場に現われて、すぐに発車していく。若松渡場が始発なのだが、バスターミナルがあまり広くないので基本的に長時間停車をしないようにしているのであろう。地元のお年寄り数名も乗り込んだが、ほとんどが短距離利用者で、若松市街地にある赤崎を出るとほとんど我々の他は1人だけになってしまった。バスの本数が少ないのはお客が少ないからであり、この路線もあまり先が長くはなさそうである。響灘に沿って走っていたバスは、途中で内陸に折れてグリーンパークへ立ち寄り、ここで残る1人も下車してしまったので完全な貸し切り状態となった。
 北九州市営バスは9時06分にかんぽ保養センターに到着。若松からの料金は320円で、田舎の長距離路線に乗り慣れた身としては安いと感じてしまうのだが、ここはまだ北九州市内である。バスは保養センターの玄関前に付けられたのだが、我々は保養センターに用事はないので、保養センターから続く舗装された遊歩道をたどって遠見ノ鼻を目指す。遠見ノ鼻という地名は、江戸時代に幕府が福岡藩に密貿易や外敵に備えるための遠見番所を設けさせたことに由来するとのこと。5分も歩かないうちに展望台に到着し、地元のお爺さんが1人で海を眺めながら煙草をふかしている。展望台の近くには北九州ナンバーの原付バイクが停まっており、お爺さんにとっては気分転換のための日常習慣なのであろう。
遠見ノ鼻  展望台の先には錆び付いた白い小さな無人灯台が建っている。海水浴スポットとして有名な脇田海岸と岩屋海岸を隔てる遠見ノ鼻の先端で海の航行を見守る妙見埼灯台だ。1966年(昭和41年)3月30日に建立されて以来、光度8500カンデラの光を漆黒の海へと照射し続けている。展望台はお爺さんに譲り、我々は灯台にたたずんでしばらく海を眺める。風波に侵食された海岸の岩肌が造形美となり青い海と相俟って景勝地を成している。台風がやって来る様子はどこにもない。まだ、太平洋沖にいるのだから当たり前か。岬周辺の波打ち際には鬼の洗濯岩と言われる岩場の侵食地形も見られた。
 灯台から保養センターに戻る途中に鳥居があり、御嵜神社へ続いていたので足早に立ち寄ってみる。御嵜神社は、かつて現在の灯台の場所にあって海に向かって建っていたものを現在の場所に移設したとのこと。その背景にはこんな言い伝えがある。御嵜神社に住んでいた神様夫婦のうち男の神様が日本一美しい遠見ノ鼻の夕日に心を奪われ、それに嫉妬した女の神様のやつ当たりで沖合では遭難事故が続いた。そこで村人たちは、夕日が見えないように、社を現在の位置に移し、陸に向けて建立したのである。これにより神様夫婦は元どおり仲良くなり、現在の御嵜神社は縁結びや夫婦円満のご利益があるそうだ。私も来年は三十路を迎えてしまうので、縁結びをお願いしておく。
 かんぽ保養センターからは9時25分の北九州市営バスに乗ってわずか4分の有毛へ。かんぽ保養センターからは二島駅へ向かう便が1時間に1本の割合で運行されているが、有毛から国道495号線と分かれてバスは内陸部へ進んでしまう。たった4分の乗車であればかんぽ保養センターから歩いても良さそうなものだが、体力を温存するために170円を投資した。
 有毛停留所から国道495号線を黙々と歩く。久しぶりに外周の定番のような旅のスタイルになってきた。10分もしないうちに道路の両脇にゴルフ場が広がる。若松ゴルフ倶楽部で、国道495号線がゴルフ場を通り抜けるように敷設されているのだ。
行政区画が北九州市から遠賀郡芦屋町に入ったところで、不意に携帯電話がなる。知らない電話番号が表示されているが、局番が0940とこの付近であるので応対する。電話の主は今宵の宿となる大島の三好屋旅館の女将さんだった。台風が近づいているので、確認のための電話だったのだ。今日、大島へ渡るのは問題ないが、明日、本州へ戻れるかどうか心配になったのでその旨を告げる。一旦電話を切って、天気予報を確認してくれた女将さんから再度連絡が入る。
「明日の午前中までなら大丈夫みたい。旅館の車を貸しますので、夕方から大島観光を済ませて、明日の早めの便に乗ったらどうですか」
当初の予定では、明日の午前中にレンタカーを借りて大島観光をするつもりであったのだが、台風で大島に閉じ込められては溜まらないので女将さんの提案に従うことにした。
 有毛停留所から1時間近く歩くと遠賀川の河口にたどり着いた。ここから再びバス路線が通じているが、次のバスまで時間があるので近くの小高い丘にある山鹿城跡に行ってみる。山鹿城跡は、筑前の豪族で壇ノ浦の合戦では平氏方の先鋒隊となった山鹿秀遠の城跡で、現在は城山公園として整備されている。民家の脇を抜けて階段を登っていくが、雑草が生い茂っておりあまり整備が行き届いていない。それでも頂上からは芦屋の街並みをはじめ、響灘、玄界灘などが一望できたので満足する。本丸跡には、山鹿秀遠の記念碑が建てられており、山鹿秀遠は、江戸時代の儒学者として名高い山鹿素行の祖先にあたるようだ。
 行政区画は芦屋町であるが山鹿から乗ったのは北九州市営バス。遠賀川よりも東に位置する山鹿はほとんど北九州市の一員であるのかもしれない。バスはすぐに芦屋橋で遠賀川を渡り、航空自衛隊芦屋基地をかすめる。芦屋基地は旧陸軍の戦闘飛行場として1939年(昭和14年)に着工され、3年後に完成。終戦後は米軍が駐留し、朝鮮戦争勃発時には航空作戦基地としても機能したとのこと。もっとも、駐留米軍は1960年(昭和35年)と比較的早い段階で撤退している。
 北九州市営バスは山鹿から約10分で終点の第二粟屋に到着。国道495号線はその先も岡垣町方面に続いており、中途半端なところでバス路線が途切れていると感じたが、第二粟屋の停留所の正面には老人保健施設ひびきがあり、このバスの目的は老人保健施設の利用者を運ぶことなのであろう。もちろん、我々は老人保健施設に用事はないので、再び徒歩で先に進む。やがて遠賀町から岡垣町に入り、行政区画の徒歩越境は本日2回目となる。20分も歩くと糠塚公民館前の交差点にたどり着き、セブンイレブンがあったので昼食を仕入れる。昨日、折尾駅の駅弁「かしわめし」を口にできなかったので、代わりにコンビニ弁当の「かしわ飯」(367円)を購入した。
 糠塚公民館前からは時間の制約上タクシー利用とする。セブンイレブンの公衆電話に設置されていた電話帳を活用して、近くに営業所があるエースタクシーに電話をするとすぐに迎えにやってきた。
 タクシーは国道495号線を芹田で右折して、崖沿いの県道300号線を快走して20分程で鐘崎港に入る。これから鐘崎沖に浮かぶ地島(じのしま)へ渡るつもりだ。運転手は鐘崎港までは快調であったものの、地島への渡船場がわからず、漁港で作業をしている人に窓を開けて大声で所在を確認する。もっとも、「あっちだ」「こっちだ」という大雑把なやりとりで、大丈夫かなと心配したが、案ずることもなく立派な待合所と桟橋に停泊している宗像市営渡船「ニューじのしま」の姿があった。タクシー料金は2,990円とかろうじて3,000円を割った。
 「ニューじのしま」の出航時刻は12時20分。まだ30分近くも時間に余裕があるので、セブンイレブンで仕入れた「かしわ飯」の昼食とする。待合所ではテレビを見ながら地元のお年寄りが談笑しており、少々視線が気になるがやむを得ない。やがて「こんなところでお弁当食べているよ。時間がなかったのかね」というヒソヒソ話が聞こえる。どこにも待合所での飲食を禁止する注意はないし、ゴミを散らかしているわけでもないので放っておいてもらいたい。東戸クンは灼熱の日差しに照らされることを承知のうえで待合所の外に逃げ出した。
 「ニューじのしま」は鐘崎と地島にある泊と豊岡(白浜)の2つの集落を結ぶ。待合所に備えられていた地島マップを見れば、島内にはつばきロードという遊歩道が整備されているようだ。つばきロードはその名の通り、地島に自生する野生種の椿を鑑賞するために整備された遊歩道であるが、椿の見ごろは2月中旬から3月上旬なので、この時期には見られない。それでも遊歩道が整備されていると聞いては無視できず、12時35分の泊で下船して遊歩道をたどり、白浜から15時35分の便で戻って来るというプランがたちまちでき上がる。当初の予定では、白浜から島内に整備されている県道300号線をたどる予定だったのだ。
 地島は周囲9.3キロ、人口230人の小さな島。ワカメ、ウニ、アワビなどの漁業が盛んな島であるが、島内には約6,000本のヤブ椿が自生する。「ニューじのしま」が泊港に入港すると近くに椿油の加工場なる珍しい施設があり、毎年11月頃になると椿の実をしぼって椿油の精製が行われているという。椿油は地島の特産品でもあるのだ。
 泊港からはしばらく県道608号線をたどり、厳島神社の近くからつばきロードに入る。ここからしばらくは地島で一番高い標高186メートルの遠見山を目指して登り坂となる。鐘崎港にコインロッカーが見当たらなかったため、重いリュックを担ぎながらの登山は想像以上に過酷。日頃の運動不足もたたり、10分もしないうちに息が切れ、滝のような汗が流れる。無理をせずに少し登っては休み、休んでは登るという行程を繰り返す。400段も続く階段を登り切ったところが大敷展望台で本格的な休憩。北九州方面を一望できるが、景色に感慨する気力がない。持参していた飲料水を頭からかぶりクールダウンを図る。
 気を取り直して遠見山頂上の沖ノ島展望台を目指す。再び登り坂が続きうんざりするが、遠見山が地島最高峰なので、沖ノ島展望台まで到達すれば後は下りだ。再び登っては休み、休んでは登るを繰り返し、沖ノ島展望台に到着。地島で沖ノ島を名乗ることに違和感を覚えたが、晴れた日には沖ノ島が見えることから名付けられたとのこと。沖ノ島は東経130度06分、北緯34度14分と対馬と同じ緯度に位置する玄海灘の絶海の孤島である。世界遺産候補にもなっているらしいが、定期船の就航は無く、釣り客が瀬渡し船で上陸しているとのこと。ここには黒田藩番所跡もあったが、遊歩道も整備されていない当時に番所まで来るのも過酷な道中であったに違いない。
 遠見山を下山したところで一旦つばきロードは途切れ、県道608号線を歩く。さすがに舗装道路は歩きやすい。やがて左手に豊岡集落と白浜港が見える。帰りはこの白浜港から「ニューじのしま」に乗船すればよいが、出航時刻までまだ2時間近くもあるので、豊岡集落の入口から分かれるつばきロードを進む。地島のつばきロードは事実上2本の遊歩道の総称であり、先に歩いたのが遠見山遊歩道で、これから歩くのが倉瀬遊歩道だ。倉瀬は地島の北端に位置し、沖合の小島に倉瀬灯台が待っている。
 倉瀬遊歩道は起伏も少ないので歩きやすく、遊歩道の入口から20分も歩くと倉瀬展望台に出た。正面にはこれから渡る大島が見える。天気がよければ沖ノ島も見えるそうだが、今日は霞んでいて島影を確認できない。海上から吹き付ける風が心地よく、動く気もなくなったので1時間の大休止。日常とは別世界にいる余韻に浸っていたが、やがて東戸君の携帯電話に会社から連絡が入る。東戸クンは電話越しに仕事の対応に追われる羽目になり、ご苦労なことであるが、こんなところにも携帯電話の電波が届くのが不思議であった。
 余裕をもって白浜港に戻り、既に停泊していや「ニューじのしま」の座敷席に寝転ぶ。船内にはテレビが設置されており、ちょうど3時のニュースが台風情報を伝えている。台風10号はわずかに西へ動いたものの、ほぼ八丈島の南で停滞している様子で、八丈島の島民には申し訳ないがもうしばらくそのまま停滞していてもらいたい。
 鐘崎に戻って奥田クンに連絡をすれば、西日本鉄道の津屋崎駅まで来ているとのこと。奥田クンとは大島へ渡る神湊港で合流する予定になっている。
 鐘崎から神湊までは距離にして10キロ少々であるが、この区間を結ぶバスはなく、一旦宗像駅まで戻らなければならない。あまりにも効率的ではないので、この区間もやむを得ずタクシー利用とする。もっとも、タクシーなら20分もあれば十分な距離なので、慌ててタクシーの世話になる必要もなく、200円の入館料を支払って港近くの宗像市民俗資料館を覗いてみる。
 鐘崎は日本海沿岸の海女の発祥地で、江戸時代に貝原益軒が記した「筑前国続風土記」には、鐘崎の海女の優秀さが称えられている。鐘崎の海女の漁法や昭和初期の用具類の展示を眺めていると、先客を案内していた職員が近づいて来て、我々にも解説をしてくれる。
「宗像は海女だけではなく、伊能忠敬にも縁のある土地なのですよ」
1813年(文化10年)の第二次九州測量の際に博多から小倉への測量をしているときに、これから向かう神湊で宿泊したことを示す記述が伊能忠敬の「測量日記」にあるとのこと。もっとも、伊能忠敬は日本地図を作成するために全国を旅しているのだから、宿泊しただけで縁の土地であれば、日本中が縁の土地になりそうな気もする。もちろん、余計な発言で善意の職員の気分を害してはいけないので口を慎む。職員の話は伊能忠敬の測量方法にまで及び、宗像とは無関係であるが興味深いものであった。
 職員の話をゆっくりと聞いていたら時間が押してきた。宗像民俗資料館まで鐘崎と神湊に営業所を有するみなとタクシーに迎えに来てもらい、神湊港を目指す。右手にはさつき松原が広がり、松原の向こう側には海水浴場が広がっているとのこと。
「17時10分のフェリーに乗りたいのですけど間に合いますかね」
運転手に確認すると大丈夫との太鼓判。道路は空いており、資料館から15分程で神湊のフェリー乗り場に到着した。
 片道500円の乗船券を購入して大島村営渡船「フェリーおおしま」に駆け込む。東戸クンと手分けをして船内を片っ端から奥田クンを探すが姿がない。まさか我々が乗船していないので、待合所で待機しているのではなかろうか。慌てて携帯電話で連絡をすれば、「バスに乗り間違えた」と一言。余裕をもって津屋崎駅にいたはずなのに乗り間違えたとはどういうことか。事情聴取は後々にして現在の状況を確認するとタクシーで神湊を目指しているとのことだが、現在地はまだ福間なので17時10分のフェリーには間に合わない。不幸中の幸いが大島へ向かうフェリーはこれが最終ではなく、神湊発19時の最終便があることだ。選択の余地はなく、19時の最終便で間違いなく大島へ向かうように伝えておく。
 夕日を浴びながら大島までの25分間を甲板で過ごす。後方には北九州の海岸線が広がり、進行方向右側には、過酷な山歩きをした地島が見える。台風の影響で沖合は多少荒れているかとも思ったが、極めて穏やかな航海で台風はまだ八丈島で停滞したままではなかろうか。
 三好屋旅館は大島港から右手の海沿いに10分程歩いたところにあった。玄関で出迎えてくれたのは電話の主の女将さん。
「あれっ2人ですか?3人だと思って港まで迎えに行ったのに…」
さすがにバスに乗り遅れたとは奥田クンの名誉にかかわるので、「仕事の関係で1人は次の便で…」とお茶を濁しておく。荷物を部屋に置いてさっそく旅館の車を拝借する。大型車両や高級車両だったらどうしようかと心配したが、かなり使い込んだ軽トラックだったので安心する。夕食の時間は20時にしてもらった。奥田クンが大島港に到着するのも19時25分だし、観光後に大島の温泉で汗を流すつもりなので、我々にとっても夕食は遅い方が好ましい。
 東戸クンがハンドルを握り、外周の鉄則に従って時計と反対周りに軽トラックを進める。大島は周囲14キロと福岡県内では最大の島であるが、自動車を利用するのであれば2時間もあれば容易に一周できる。
 最初のポイントは大島北東端の加代。村民運動場からしばらく山道を登っていく。大島の北東部は過疎地域で周囲に民家は何もない。目指す加代も地名があるだけで集落は無い。人気のない加代は海岸のある小さな湾になっており、キャンプもできそうだが設置できるテントには限りがありそうだ。海岸の手前にあった解説板には、加代が福岡藩の流刑地であったとの説明がある。流刑地であればここで生活していた人の名残りがあってもよさそうなものだが、周囲には自然の景観以外には何も無く、流罪人はどのように生活をしていたのか気になるところだ。
 加代から大島の北部を東から西へ進み、島内唯一の漁火橋を渡って岩瀬海岸の沖津宮遙拝所へ。遙拝所とは変わった名称であると思ったが、ここは女人禁制である沖ノ島へ渡れない女性が、沖ノ島にある沖津宮を参拝するための場所だという。鳥居が沖に向かって構えているのもそんな理由からなのだ。
村営牧場  大島に3箇所ある村営牧場のうち、もっとも北に位置する牧場へ軽トラックを乗り入れれば、村営牧場の中央に砲台跡が残っている。明治初期の陸軍の創設以来、戦争のたびに北部九州沿岸一帯の要塞では砲台の建設や補強をして、防衛の強化を図っており、大島の砲台も1936年(昭和11年)には完成したという。当時は大砲(十五糎加農砲)が4基備えられていたようだ。近くには敵艦の距離や速度を測るための観測所も残っており、屋根には盛土と牧草でカモフラージュがされている。内部に入ってみようとしたが、入口には牛糞が散乱していたので見合わせる。村営牧場には「大島黒牛」として出荷される肉用牛が放牧されており、かつての観測所も現在は牛の寝床になっているようだ。
 牧場内の遊歩道をたどって砲台跡の近くで回っている風車まで足を運ぶと、展望所になっており、遠く玄海灘を望む最高のロケーション。ちょうど夕暮れ時なので、このまま日が暮れるのを見届けたい気分になるが、大島にはまだポイントがあるので名残惜しいものの先へ進む。
 遊歩道であれば風車から直接たどれる大島灯台まで、軽トラックを迂回させて向かう。1925年(大正15年)に建てられた白亜の大島灯台が待つ神崎は、大島でもっとも景色が良いとされるポイント。付近は自然環境保全地域でハマヒサカキ(イソシバ)が群生している。灯台の西側には、長崎から逃れてきたというキリスト教神父ヨハンが隠れ住んでいたと言われる三浦洞窟があり、さっそく洞窟内を散策する。灯台から200メートルぐらい遊歩道をたどった三浦洞窟には、キリスト教神父の隠れ住まいには似使わず、お地蔵様が並べられていた。
 島の西部の山道をたどって大島港近くの宗像大社中津宮まで戻って来ると19時15分。最終便の「フェリーおおしま」に乗ったであろう奥田クンも間もなく大島に到着するはずだ。高台にある境内から海上を望むがフェリーは確認できない。
 宗像大社中津宮は、宗像三海女のうち湍津姫神(たきづひめのかみ)を祀る神社である。境内の中央にある本殿は伝統的な三間社流造で、柿葺きの屋根には堅魚木(かつおぎ)と置千木(おちぎ)が2組ずつ載せられている。円形と四角形の堅魚木をそれぞれ3本ずつ束ねている造りは全国でも珍しい。境内で20円のおみくじをひいてみると大吉で縁起がよい。中津宮の裏手には天の川という小川があり、天の川伝説発祥の川とは恐れ入る。旧暦の七夕(8月7日)には七夕祭が開催されるそうだ。
 三好屋旅館の前を素通りして大島の中心部に位置する東筑大島温泉「さざなみ館」へ。「さざなみ館」は2001年(平成13年)7月7日にオープンしたばかりの比較的新しい施設だ。600円の入浴料を払って立派な館内に入ると全身浴、半身浴、露天風呂、冷水浴などの男女別浴場が6種類もある。屋外には温泉プールもあったので、さっそく水着に着替えてプールを試す。水着を持参していなかった東戸クンはそのまま露天風呂へ消えた。
 さすがにプールは無人で、泳いでも仕方がないので、箱の中に座り、顔だけ出すユニークな箱蒸し風呂を試してみる。簡単に言えば、個人用サウナであるが、発汗作用と新陳代謝を促し、疲労回復に最適と聞けば無視できない。汗を流して地島の疲れをとる。
 充分に汗をかいたので露天風呂へ移動。泉質はナトリウム・カルシウムー塩化物泉で高血圧症や動脈硬化、外傷などに効果があるとのこと。海が一望できると銘打っているが、既に日が暮れてしまったので外は闇。海と陸の区別も定かではなく景観は楽しめない。
 20時ちょうどに三好屋旅館に戻れば部屋で奥田クンが待っていた。最終のフェリーには間違いなく乗れたようで安心する。
「早く飯にしよう。旅館のおやじがイラついているぞ」
奥田クンが促すので早々に夕食を頼む。それにしても、女将さんと夕食は20時と約束したのにイラつくとはおかしな話だ。我々の夕食の片付けが終らなければ今日の仕事が終らないのかもしれないが、そもそも夕方の島内観光を提案してくれたのも三好屋旅館の女将さんなのである。早々に夕食を済ませ、食器を下げるのを手伝ったりしてご機嫌をとったが、極めて不愉快だ。親切な女将さんの好意が他の従業員によって却って印象を悪くしている。同じことは宿泊料金の精算の段階でも明白になった。女将さんとの話では、基本料金が1泊2食8,400円(税込)のところを、食事を1品減らして1泊2食8,000円(税込)で対応してくれることになっていた。ところが、翌日に中居が持ってきた請求書には1泊2食8,400円(税込)となっている。旅館の食事が間違えて1品減らしていなかったのかは定かではないが、こちらは8,000円(税込)で約束したことを主張すると、しぶしぶ請求書を書き直した。エスカル戸畑といい、今年の外周の旅は宿泊施設にたたられている。

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