ウキウキライフを目指して

第79日 下関−門司

2003年8月3日(日) 参加者:東戸・安藤

第79日行程  「下関海員会館」の目の前にある東大和町停留所から7時43分のサンデン交通バスで下関駅に出る。徒歩でも15分の距離であったが、昨夜、道に迷って30分以上もかかったうえに、何よりも疲労が溜まっており、体力を温存しなければ1日がもたない。
 下関駅のコインロッカーに東戸クンと安藤クンは荷物を預けて身軽になる。2人は帰りに下関駅へ立ち寄ることができるが、私は九州に渡ると小倉から新幹線利用となるので思いリュックを担いで過ごさなければならない。
 昨日と同様に石原車庫行きのサンデン交通バスで唐戸へ移動。すっかりと観光化された唐戸市場を覗いてみる。毎週金曜日、土曜日、日曜日と祝日には、唐戸市場の1階が海鮮屋台街に衣替えし、まるでお祭りのようなその賑わい。金曜日と土曜日は朝10時からの営業であるが、日曜日と祝日は朝7時から営業を開始しており、既に多くの観光客の姿がある。新鮮な食材を使った握り寿しや味噌汁、から揚げから、ふく刺しが屋台に並んでいる。屋台めぐりも楽しそうだなと思ったが、当初の予定通り唐戸市場の2階にある「市場食堂よし」に向かう。安くて新鮮な魚料理を食べさせてくれる食堂として、かつて日本テレビ系列の「ズームイン!!朝!」(1998年11月5日放送)で紹介されていたのが気になっており、唐戸市場へ行ったら必ず「市場食堂よし」へ行こうと決めていたのだ。実に5年越しの念願達成となる。店内がそれほど広くないこともあり、早朝から大勢のお客で繁盛している。ただ、観光客よりも地元の人の割合が多いようだ。カウンターテーブルに着いてメニューを見れば、天然のトラフグの刺身が付く「ふく刺し定食」(1,100円)や本マグロを使う「ネギトロ丼」(800円)など目移りしてしまうが、結局は初志貫徹で「ズームイン!!朝!」で紹介されていた「よし定食」(1,500円)に決める。「よし定食」は、フグの唐揚げ、刺身、エビフライなどが付いてボリューム満点。朝食から贅沢の極みとも思えるようなご馳走を食べる。昨日の夕食を早めに済ませていたこともあり、朝からでも箸はどんどん進んだ。
 満腹になったところで、食後の腹ごなしに唐戸散策に出発。まずは赤間神宮に近い日清講和記念館へ立ち寄る。世界外交史に残る日清講和会議は、1895年(明治28年)3月20日から4月17日までの29日間に渡って下関の春帆楼で開催された。清国講和全権大臣李鴻章と日本全権弁理大臣伊藤博文を主軸とする両国代表11名が会議に臨み、日本は清国に対して朝鮮の独立、台湾と遼東半島の割譲、賠償金2億両(約3億1,000万円)の支払いを認めさせたのである。日清講和記念館は、その会議で使用された調度品や資料を展示するために春帆楼に隣接して1937年(昭和10年)に建てられた。館内中央には古風の大ランプ2個、フランス製ストーブ1個と大小16脚の椅子を備え付けられており、印肉壺、インキ壺、蒔絵の硯箱、小筆など66点が展示されている。特に椅子は浜離宮の調度品が下賜されたものといわれており、館内でもっとも貴重なものである。周囲には日清講和条約の額物、六曲の屏風、当時の春帆楼の写真などが展示されており、眠れる獅子と呼ばれた清国の李鴻章は苦々しい思いであっただろう。
 日清講和記念館から民家の路地をたどって引接寺へ向かう。引接寺は李鴻章ら清国の全権一行の宿泊場所にあてられた由緒ある寺院で、春帆楼から500メートルもない。ところが、この路地は1895年(明治28年)3月24日午後4時頃に李鴻章が引接寺へ戻る途中、凶漢に狙撃され負傷したといういわく付きの場所だ。これにより日清講和会議は4月10日の再開まで中断されることになった。
 引接寺の三門で、左甚五郎の作といわれる龍の彫刻を眺める。毎夜動き出しては人を襲ったという物騒な伝説が残されているが、それだけ迫力のある彫刻ということであろう。三門は1769年(明和6年)に長府藩9代藩主の毛利匡満により再建されたものであるが、花崗岩四半敷の基壇は、1598年(慶長3年)に移築された当時のままであると伝えられている。
 唐戸市場の向かいに位置する亀山八幡宮まで戻って来ると、国道9号線に面して大鳥居が構えていた。徳山沖の黒髪島産の白御影石造りで、左右の柱には繋ぎ目がないのが特徴。御影石製の鳥居としては日本最大とのこと。「亀山宮」と書かれた額は縦3メートル、横1.5メートルと約畳三畳分の大きさがある。
大鳥居の片隅には床屋発祥の地碑が建っていた。鎌倉時代の中期(1264〜73年)に亀山天皇に仕えていた京都御所の北面の武士であった従五位ノ下北小路蔵人頭藤原基晴は宝刀紛失の責任をとってその職を辞し、三男「采女之亮政之(うねめのすけまさゆき)」を連れて宝刀探索のため、当時蒙古襲来で風雲急を告げていた長門国下関に下った。采女之亮は、新羅人の髪結職からその技術を学び、我が国初の結髪所を開き、往来の武士や金持ちを客として生計を立て宝刀の探索を継続していた。その結髪所の奥には、亀山天皇と藤原家祖先を祀る立派な床の間があり、何時とはなしに「床の間のある店」と呼ばれ、転じて「床場(場は人の集まる場所)」、さらに「床屋」という屋号で呼ばれるようになったという。現在でも毎年11月には下関理容組合と宇部理容組合によって毛髪供養祭が開催されている。
 大鳥居をくぐり抜けて石段を登ったところには亀山砲台跡の解説板が設置されている。江戸末期に開国を迫る諸外国への危機感が高まると、長州藩は全国にさきがけて外敵防禦策をとり、長州藩主毛利元周公は境内をはじめ、下関市内各地に砲台を築き攘夷戦に備えていた。そして1863年(文久3年)5月11日14時に久坂玄瑞の指揮によりアメリカ商船攻撃合図の砲弾が亀山砲台より発射され、アメリカ、フランス、オランダの3ヵ国相手に6回に渡る馬関攘夷戦の火蓋が切られたのだ。現在で考えれば山口県が欧米3ヵ国に戦争を仕掛けたようなものだから恐れ多い。
 859年(貞観元年)に大分の宇佐八幡宮より分霊を勧請し、創建されたと伝えられる亀山神宮の本殿を参拝して境内を一周りする。境内には至るところに記念碑や解説板が立ち並び、なんだか野外美術館にでもいるような気がする。目を惹いたのは「ふくの像」で、ふぐを「ふく」と呼び、幸福を呼び込むとして親しまれている下関らしい。「ふくの像」は、1934年(昭和9年)に「関門ふく交友会」の人々が境内表参道東側に「波のりふくの像」を建立したものの、大東亜戦争末期、1944年(昭和19年)に金属供出により撤去され、台座のみが残った。しかし、1989年(平成元年)に下関のふくを愛してやまない有志により「ふく銅像再建推進委員会」が結成され、総経費2,000万円をかけて46年ぶりに再建されたのが現在の「ふくの像」である。眼下には唐戸市場があり、我々も朝から「ふくの唐揚げ」を賞味したところだ。
 石段を下って国道9号線に戻り、唐戸交差点に面した旧下関英国領事館へ。赤レンガ造りの建物は、長崎の英国領事館の建築を担当したウィリアム・コーワンの設計により、1906年(明治39年)に建築された。現存最古の領事館建築物であることに加え、明治期の外交関連施設の典型を示すものとして歴史的価値が高く、下関を象徴する建造物となっている。そもそも、下関に英国領事館が設置された経緯は、1864年(元治元年)にイギリス、フランス、オランダ、アメリカの4ヵ国連合艦隊が下関を砲撃した下関戦争に遡る。当時、イギリス指揮艦「ユーリアラス号」に通訳として乗り込んでいたアーネスト・サトウは、後に英国駐日公使となり、下関に領事館が必要なことを本国に報告したのである。この報告を受けて、1901年(明治34年)に全国で3番目の英国領事館が下関に開設されたのだ。現在の赤レンガ建物は、その5年後に領事業務の拡大に伴い、新たに建設されており、1941年(昭和16年)まで現役で使用されていた。赤レンガ建物は、領事室や領事の居室などに使用された主屋と使用人室や領事の居室などに使用された附属屋からなっており、現在では主屋が市民ギャラリー、附属屋が喫茶室「異人館」となっている。朝から散々歩き通しなので、「異人館」で休憩。室内はアンティークの調度品が並べられており、高級感が漂っている。「アイスコーヒー」も1杯735円といい値段であったが、施設維持費も含まれていると思えばやむを得ない。735円分の贅沢をしばらく味わうことにする。
 「異人館」で30分近くくつろぎ、名残惜しみながら腰を上げる。同じく唐戸交差点に面している旧秋田商会ビルへ。こちらも化粧タイルを張った本格的な洋館であるが、鉄骨鉄筋コンクリート造。屋根に突出した塔屋がひときわ印象的だ。1915年(大正4年)に秋田商会の事務所兼住居として建設された。秋田商会は、日露戦争末期の1905年(明治38年)4月の創立で、主に木材取引を中心とした商社活動と海運業を営み、台湾、朝鮮半島、満州にも進出していたという。現在は1階が観光情報センターとなっており、純粋な洋風の事務所空間が広がる。許可を受ければ2階と3階も見学できると聞いたので伺いを立てれば、「記帳をして下さい」とのこと。ノートに氏名と住所を書いて2階に上がれば、格調高い書院造住宅に様変わりするので驚く。一般公開はされていなかったが、屋上には日本庭園と茶室が整備されているという。洋風の丈夫さと和風の快適さをもつ建物というところであろうか。また、建築当時は海岸が間近に迫り、屋上の塔屋は灯台の役目も果たしていたとのこと。内部も灯台のように螺旋階段になっていた。かなりユニークな発想にあふれた建築物である。
 次はいよいよ宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘で有名な巌流島であるが、連絡船の出航時刻までに時間があったので、東戸クンのお土産選びに付き合ってカモンワーフへ。カモンワーフは、旧唐戸市場跡地に2002年4月24日にオープンしたレストランや土産品店などを備えた複合商業施設である。カモンワーフ内のファーストフード店で「くじらカツ」(280円)を売っていたので試してみたが、白身魚のような食感で少々物足りない。
 出航時刻が近づいて来たので唐戸桟橋へ移動する。関門海峡に浮かぶ巌流島の正式名称は船島という。1612年(慶長17年)4月13日に宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘したことで有名な島だ。敗れた佐々木小次郎の流儀「巌流」をとって巌流島と呼ばれるようになったという。大正年間に三菱重工業の埋め立て工事により、もともと17,000平方メートル程度の敷地が現在では6倍の10万平方メートルになっている。1973年からは無人島となり、三菱重工業の下関造船所があるだけとなっていたが、今年のNHK大河ドラマ「武蔵」の放映を機会に下関市は観光周遊船が接岸できる浮桟橋をはじめ、決闘の地を連想させる海浜整備、宮本武蔵・佐々木小次郎両雄の像、関門海峡沿いの散策道や休憩所を整備し、観光客の取り込みを図っている。
巌流島  巌流島までの連絡船を就航しているのは、下関−門司間の連絡船を就航している関門汽船。唐戸桟橋の乗船券売り場で巌流島までの往復乗船券800円を購入する。巌流島から門司へ渡ってしまうことも考えたが、九州入りのルートとして面白味がないので見送った。乗船券売り場では、巌流島上陸認定証も100円で販売していたので購入してみる。上陸認定証は郵便ハガキになっており、住所や氏名、上陸日を記入したうえ、乗船券売り場にある専用のポストに投函すると後日、自宅に郵送してくれる。もっとも、専用ポストが唐戸桟橋にあるので、これでは実際に巌流島へ上陸していなくても上陸認定証の交付を受けられてしまう。どうせなら巌流島に専用ポストを設置すればよさそうであるが、手間や費用がかかるので避けられたのであろう。
 唐戸桟橋11時25分の連絡船に乗り込み、いざ巌流島へ。甲板で大小さまざまな船が行き交う関門海峡の雄大な景観を眺めつつ、潮風に吹かれながらの巌流島へ向かう。もっとも、周辺は工業地帯で造船所などが目立ち、宮本武蔵や佐々木小次郎の心境にはとてもなれない。
 唐戸桟橋から約10分の航海で巌流島に上陸。まだ整備されたばかりなので、桟橋から遊歩道まで何もかもが真新しい。乗船客はぞろぞろと決められたように散策道を歩いていく。巌流島は現在も3分の2が三菱重工業の私有地で立ち入りが禁止されているため、観光客が自由に散策できる地域は限定されているからやむを得ない。なぜか散策道でJR西日本の職員がオレンジカードの立ち売りを行っており、鉄道と縁のない地での便乗商売とは商魂たくましい。
「あと1枚で完売です。これを売り切れば帰れるので買って下さい」
呆れるような売り込みだが、苦笑いしつつ巌流島をデザインしたオレンジカードを1枚購入してしまう。これで職員も下関へ帰れるはずだ。
 11時55分から人工海浜で宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘寸劇が始まる。今回はこの寸劇を見物するために、巌流島へ渡る時間を調整したのだ。足早に散策を済ませて、人工海浜へ赴けば、既に多くの観光客が集まっている。我々も残り少ない前列を確保して寸劇の開始を待つ。この決闘寸劇は、「しものせき観光キャンペーン実行委員会」の主催によるもので、一般公募から選ばれた役者2名が武蔵と小次郎に扮する。時間になるとナレーションが始まり、まずは小次郎が登場。武蔵の到着が遅れて小次郎がイライラしたところに武蔵が登場し、小次郎が刀の鞘を投げるお決まりのシーン。役者は言葉を発することなく、すべてナレーション任せであるが、臨場感は溢れている。砂浜という足場の悪さにもかかわらず、見事な立ち振る舞いの縁起で、やがて小次郎が砂浜に倒れる。上演時間はおよそ10分ぐらいであったが、その後に役者の挨拶と記念撮影タイムになった。観光客が一緒に写真を撮影するために2人の役者に群がる。勝った武蔵よりも小次郎に人気があるのは判官びいきの日本人の特性か。
 12時25分の連絡船で唐戸桟橋へ戻り、再びカモンワーフへ。施設2階にあった「筑豊ラーメン山小屋」で「昭和(むかし)ラーメン」(714円)を注文する。筑豊という名を聞くと九州に近いことを実感する。「昭和(むかし)ラーメン」は懐かしい昭和時代の復刻版ラーメンとのことで、のりや煮卵が添えられている。味は可もなく不可もなく。ただし、今日は朝からうまいものをたらふく食べているので客観的な評価はできない。
 腹ごなしに歩いて関門橋のたもとにあるみもすそ川公園へ。長州砲のレプリカ5門も関門海峡をにらんで展示されており、馬関攘夷戦を連想させる。うち1門は音と煙の演出ができるようになっていたが、故障しているのか調子が悪い。
 公園前の海は関門海峡の一番狭まったところで早鞆(はやとも)の瀬戸といわれ、潮流も一番速く、代表的な関門海峡の景色だ。ここはまた、壇ノ浦合戦の古戦場でもある。壇ノ浦の戦いとは、平安時代の後期の1185年(元暦2年)3月25日に行われた治承・寿永の乱における最後の戦いである。屋島の戦いで敗北した平家は彦島に拠って源義経率いる源氏の水軍と戦った。明け方に戦いが始まり、当初は潮流が平家に有利であったうえ、平家はもともと瀬戸内海を本拠としており海戦に長けていたこともあり、平家が優勢に戦いを進めていた。不利を悟った源義経は敵船の舵取り(漕ぎ手)を射るよう命じ、平家の船は身動きが取れなくなる。このため、正午頃には平家が劣勢になり、潮流の変化を機に源氏が攻勢に転じる。やがて平家不利と見た平家水軍の松浦党をはじめ諸将が源氏に寝返り始めたて勝負が決まった。命運尽きた平教経は入水し、二位ノ尼も安徳天皇と共に入水すると、平家一門の諸将などが相次いで入水する。平家方総大将の平宗盛も入水するが泳ぎが上手かったため死に切れず、妹にあたる建礼門院徳子と共に源氏の兵に救い出され生け捕りにされた。しかし、当時の戦法として、武器を持たない舵取りを殺傷することは不文律を破るものであり、悲劇のヒーロー扱いをされている源義経であるが、勝利のためには手段を選ばないという暴挙を犯していたのだ。
関門トンネル  みもすそ川公園で本州を名残惜しみ、国道9号線を挟んで公園の向かいにある関門トンネル人道口へ向かう。外周の旅では、鉄道でもフェリーでもなく、徒歩で九州上陸を果たそうというのだ。下関の御裳川から対岸にある門司の和布刈との間の780メートルが世界的にも珍しい歩行者用海底トンネルになっているのだ。まずは入口のある管理事務所に併設されていた関門プラザを見学。関門トンネルや関門橋に関する資料が展示されており、まずは知識を補う。関門国道トンネルは、国道2号線として1958年(昭和33年)3月9日に開通した。車道と人道の2層構造になっている。
 関門トンネル人道口にはエレベーターが設置されており、エレベーターの前には料金箱が設置されている。関門トンネル人道の通行料は歩行者が無料であるが、50cc以下の原動機付自転車や自転車は20円が必要となる。わずか30秒で地下55.4メートルに運ばれると、目の前には直線のトンネルが続いている。関門トンネル人道はエレベーターのおかげで垂直に地下に降りられるため、純粋に海底部分のみを歩くことができる。ちなみに関門トンネル車道は全長3,461メートル。海底部分は人道と同じく780メートルであるが、海底部分の3.4倍もの長さの陸地部分のトンネルを走行しなければならない。
 しばらくは緩やかな下り坂が続く。関門トンネル人道は自転車でも走行できるが、この下り坂を走ると相当なスピードが出て危険であるため、自転車は手で押して通行するように注意がある。原付自転車もエンジンを切らなければならない。
 真っ直ぐに続く見通しのよいトンネルの壁面には、魚や星のイラストが描かれており、イラストを眺めながら歩く。通行人にはジョギングをしている人もいて、天気に左右されない絶好のジョギングコースになっている。欠点は車道が近くに通じているため、ガード下にでもいるような自動車の走行音が聞こえることぐらいであろうか。  入口から400メートル地点が県境で、路面には「山口県」と「福岡県」の文字が背中合わせになるように記されている。下関から歩いて来た我々にとっては「山口県」の文字が上下逆さまになっている。お約束通り3人で「せーの」と県境を跨いで九州入りを果たした。もっとも、まだ上陸ではないから妙な気分だ。
 県境からは緩やかな上り坂が続いて和布刈側の人道口に到着。ゆっくり歩いたので所要時間は20分程である。エレベーターで地上に運ばれて、正真正銘の九州上陸を果たす。トンネル内は景色が見えないので、対岸の景色を眺めていると瞬間移動をしたかのような錯覚に陥る。
 人道口の前には関門トンネル人道口停留所があり、門司港までは西鉄バスが通じており、次のバスは13時54分。若干時間があったので、近くの和布刈神社に参拝をしておく。地元では旧暦元日の早朝に海でワカメを刈って神前に供える和刈利神事の神社として知られているとのことだが、関門海峡の守り神というのがふさわしいそうだ。
 西鉄バスに乗ってしばらく関門海峡沿いに走り、15分で門司港駅に到着。以前、門司港駅へ来たのは1996年2月23日だったので、実に7年ぶりの訪問だが、1914年(大正3年)に建てられた九州で最も古い木造の駅舎は健在で、駅としては全国で唯一国の重要文化財に指定されている。外観のデザインは、ネオ・ルネッサンス様式といい、左右が対称的になっている造りが特徴だ。駅舎はかつての姿を留めているが、駅前広場は様変わりをして、噴水のあるレトロ広場として整備されている。
 門司港駅の観光案内所で周辺の地図をもらって散策を始める。1889年(明治22年)に開港した門司港は、北九州の工業力と結びついて貿易の基地となり、最盛期には1ヶ月に200隻近い外港客船が入港し、国内航路を含めて年間600万人近い乗降客があったという。北九州市では、当時の面影を偲ばせる古い街並みと新しい都市機能を融合させた都市型観光地を目指した取り組み「門司港レトロ」と名付けている。
 まずは、昨日、下関の「海峡ゆめタワー」で共通券を購入していたので、門司港レトロ展望室へ向かう。門司港に架かる「ブルーウィングもじ」と名付けられた跳ね橋を渡って、周囲の目を惹くモダンな超高層ビルを目指す。レトロと高層建築は不釣合いで、これも古い街並みと新しい都市機能を融合させた都市型観光地創生の一環なのであろうと考えたが、実際は15階建てマンションの建設計画が発表されてから景観論議が盛んになり、最終的にはレトロ地区の景観を配慮したデザインとし、最上階を北九州市が買い取り展望室を作ることで決着をみたといういわく付きの施設だったのだ。
 門司港レトロ展望室は、黒川紀章氏設計の高層マンション「レトロハイマート」の31階部分に設けられている。1階のエレベーターホールにはレトロコラージュという北九州をコラージュ(貼り絵)的なビジュアルと音楽で紹介している。サラウンド効果も十分で、潮騒やカモメの声など本当に波止場に立っているような気分になる。展望室へのエレベーターでもサウンド効果に思考を凝らしており、汽車が門司港駅に着くところからはじまり、それが潮騒に変わっていきます。心なしか上昇するにしたがいカモメの声が大きくなっているようだ。シースルーになっているため、上昇しながらでも門司港の街並みを眺めることができる。
 最上階の門司港レトロ展望室は、思ったよりもシンプルな内装で、テーブルやカウンターが設置されている。情報潜望鏡「アイステア」や17倍率まで拡大できるデジタル望遠鏡などの最新設備が整っている。「アイステア」とは、天井から吊り下げられた液晶パネルの前に立って、パネルを手で上下左右に動かすことによって、自分のまわりの空間的な情報に直接アクセスすることができるという方向感覚を利用した空間ナビゲーションシステムである。折角なので「アイステア」を試してみたが、最初は物珍しさがあったものの、わざわざパネルを左右に回転させることによって情報検索しなくてもいいのではないかという気がしないでもない。むしろ、液晶画面よりも高さ103メートルから見下ろす関門海峡の方が気に入った。
 「ブルーウィングもじ」まで戻り、門司港桟橋を15時に出航する西日本海運の遊覧船「ヴォイジャー」の乗船券を1,000円で購入する。15時発の「ヴォイジャー」は、関門橋の下を通って城下町として名高い長府沖の満珠島と干珠島の手前まで行ってUターンした後、今度は巌流島の手前まで行って門司港に戻って来るという50分間の遊覧コースで、関門海峡の旅の締めにふさわしい。出航時刻まで若干の時間があったので、近くにあった旧門司税関を見学。1909年(明治42年)の門司税関発足を契機に1912年(明治45年)に建てられた煉瓦造り瓦葺平屋構造の庁舎は、昭和初期まで使用されていたという。現在は、1階が展示室と休憩室の他に喫茶店「レトロカフェ」が入り、2階はギャラリーと関門海峡を望める展望室となっている。展示室では税関の業務を解説したものが多く、偽ブランド品や違法薬物の密輸を戒めている。2階の展望室は31階からの眺めを堪能してきた直後なので特別の感慨はなかった。
 門司港桟橋に戻ると既に「ヴォィジャー」への乗船客が列を作っていたので慌てて並ぶ。目の前には客室が土星型をした宇宙的イメージの双胴船が接岸しており、どうやらこれが「ヴォイジャー」のようだ。乗船が始まると1階のメインラウンジは家族連れであっという間に占拠されてしまったので、やむなく2階のスカイラウンジへ。船内はソファーが向かい合わせになっており、一方は窓に向かって配置されているので問題ないが、もう一方は窓に背を向けるようになっているので首をひねらないと景色が見えない。既に窓へ向かったソファーは埋まっており、やむを得ず3人ともバラバラになって窓を背にしたソファーに落ち着く。
 定刻に出航した「ヴォイジャー」は、関門橋を目指して進む。船内では周辺の観光案内が流れているのだが、騒々しくてほとんど聞こえないので、手許の地図を広げて景色と対比していく。右手には先ほど西鉄バスでたどった道路で、関門橋をくぐると和布刈神社が確認できた。
 壇ノ浦の戦いで源氏の兵士が終結した満珠島と干珠島が見えたところで「ヴォイジャー」は旋回を始める。満珠島と干珠島には、朝鮮の新羅軍が攻めてきた時に神功皇后が龍神から授かった2つの珠(潮干る珠・潮満ちる珠)を使って、船で近づこうとする新羅軍を「潮干る珠」で足止めし、船を降り攻めてきた新羅軍を「潮満ちる珠」で滅ぼし、この時の2つの珠が島になったという神話が残っている。現在は双方の島とも長府の忌宮神社の飛地境内となっているそうだ。
 午前中に訪問した巌流島をかすめて「ヴォイジャー」は門司港桟橋に戻ると今回の外周の旅もいよいよ終盤。桟橋に近い1917年(大正6年)に建てられた旧大阪商船へ向かう。洋風2階建の建築物は煉瓦のように見えるオレンジ色のタイルと白い石状の帯が外観を覆い、中央部に八角形をした塔屋が印象的に配置されている。当時は大陸航路の待合室として多くの旅人で賑わっていたのであろう。現在は門司港レトロの「海事・イベントホール」として、1階は多目的に使用できる海峡ロマンホール、2階は「わたせせいぞうと海のギャラリー」になっている。わたせたいぞう氏は北九州出身のイラストレーターで、さわやかな大人のラブストーリーを描いた作品が多く、私自身もわたせたいぞう作品のファンの一人である。100円の入館料を投じてギャラリーに入ると、自然のうつろいに、男女の心のうつろいを重ねた独自の世界が広がった。わたせせいぞう氏の情緒あふれる作品はいつも優しい気持ちにさせてくれる。
 ラストは旧門司三井倶楽部へ。1921年(大正10年)に三井物産の社交倶楽部として門司区谷町に建築され、その後所有者が国鉄に移ってからは門鉄会館と呼ばれていた。現在のレトロ地区と離れていたため、1990年(平成2年)に門司港駅前に移築・復元された。現在は1階は門司生まれの女流作家林芙美子の資料室や「レストラン三井倶楽部」、2階がアインシュタインメモリアルルームとなっている。アインシュタインメモリアルルームへは100円の入館料が必要だったので東戸クンはパス。安藤クンと2人で見学することになる。旧門司三井倶楽部には、相対性理論で有名なノーベル物理学者アインシュタイン博士夫妻が宿泊しており、その部屋も当時の状態のままで保存されている。部屋にはベッドが備えられており、当時の門司は文化水準が高く、ハイカラでモダンな街だったことをうかがい知ることができる。アインシュタイン博士は門司港周辺を散策して、第二の故郷スイスの田舎に帰ったような安らぎを感じ、ここに永住したいとまで言い残したそうだ。
 今日も1日歩き通しで東戸クンも安藤クンも口数が少なくなってきたので打ち上げに門司港地ビール工房へ。盛大な打ち上げとしたかったのであるが、東戸クンと安藤クンは山口宇部空港19時45分のANA700便で東京へ戻らなければならないので時間がない。やむを得ず「地ビール試飲セット」(525円)を注文し、各々が「ヴァイツェン」、「ペールエール」、「ピルスナー」の3種類の地ビールから2種類を選択する。180ミリリットルのグラス2つを一気に飲み干すような感じで、旅の慰労には程遠いが支払いは私が済ませておく。
 門司港駅に戻れば17時00分発の大牟田行き快速列車4363Mの発車時刻が迫っている。改札口近くにある1972年(昭和42年)11月に設置された鹿児島本線の起点を表す「0哩碑」を確認する間もなく列車に駆け込むとドアが閉まった。
 対岸の下関を眺めながら6分で門司に到着。下関へ戻る東戸クンと安藤クンがここで離脱となるため、今回の外周の旅は門司で解散とする。今年は社会人になって初めて5日間の行程を試みたが、後半はお互いにかなり疲れが溜まったようだ。来年は無理をせずにまた4日間の行程に留めるのが無難そうだ。

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