士業で働くパパとママ

第78日 蓋井島−下関

2003年8月2日(土) 参加者:東戸・安藤

第78日行程  蓋井島の民宿「西」で6時過ぎに早めの朝食を済ませる。蓋井島を7時10分に出航する下関市営渡船「蓋井丸」に乗らなければならないからだ。これを逃がすと12時10分まで半日も蓋井島に足止めされることになる。
「折角来たのだから、出航時刻までの間にトラックで島を一周して来るといい」
民宿のお婆さんから思わぬ申し出があり、お言葉に甘えて軽トラックを使わせてもらう。民宿の正面の空き地に停まっていたキーが付いたまま軽トラックにはナンバープレートが付いていない。離島ではしばしば見掛けるが、ナンバープレートのない車両は道路を走行できないはずであるが、蓋井島の道路は道路法で定める道路ではないのであろう。蓋井島には車両が通行できるような道は限られている。唯一、蓋井島の東海岸に通じている道をたどれば5分もしないうちに海辺に着いた。正面には本土の島影が見え、地図によればちょうど本州最西端の毘沙ノ鼻付近である。右手に見えるのは蓋井島の賢女ノ鼻だ。
 軽トラックを民宿に返して「蓋井丸」に乗り込む。土曜日であるが、病院へ向かうお年寄りや下関へ買い物に出掛ける島民が多い。この時間から本土に渡っても、まだ病院もお店も開いておらず、どこで時間を潰すのであろうか。もちろん乗船客には勤め人もいるのであろうが、午前中の唯一の便が7時10分というのはあまりにも不便で、せめてもう1便ぐらい増発してあげたいものだ。
 国道1919号線沿いの吉見駅前停留所から8時08分の下関駅行きサンデン交通バスを捕まえる。乗り継ぎ客には「蓋井丸」で見掛けた顔もチラホラあり、このバスが下関市街地への接続便となっている。利用者もそれなりに多く、外周の旅では珍しく立ち客となる。やがて右手に響灘が広がり、地図で確認するとおたまじゃくしのような形をしている来留見ノ瀬がぽっかりと浮かんでいる。この区間は昨日もレンタカーで通っているのだが、時間が気になっていたので周囲の風景はあまりよく覚えていない。車窓を楽しむのであれば、やはり公共の交通機関を利用するのがいい。
 サンデン交通バスを幡生駅に近い山の田で下車。そのまま乗車していれば下関駅へ運ばれるのにもかかわらず、途中でバスを降りたことに安藤クンは不満そう。しかし、ここまで乗って来たバスは山の田から山陰本線を跨いで内陸部へ入り込むので外周ルートから外れてしまう。山陰本線よりも外周となる国道191号線を行く便に乗り換えるだけだからと促すが、あいにく国道191号線経由の下関駅行きは発車した直後。先ほどのバスが5分程遅れており、定時運転だったら乗り継げたので悔しい。次の便まで30分近くあるので、バス代を節約するためにとりあえず徒歩で先へ進む。山の田から1キロ少々の距離を稼ぎ、武久停留所からサンデン交通バスを捕まえると、バス代が40円の節約となった。安藤クンからは非効率的とお叱りを受けるが、山の田で30分の待ちぼうけをしていても、時間を有効に活用できるわけでもあるまい。
 下関駅のコインロッカーに荷物を預けて竹崎桟橋へ向かう。竹橋桟橋からは、蓋井島渡並ぶ下関市域の離島である六連島へ向かう予定だ。竹橋桟橋は下関駅から徒歩5分と案内されていやが、下関漁港の外れにあり、場所がわからずに右往左往しながら15分ぐらいかかってしまう。観光名所でもない離島航路は、地元の人だけが知っていれば支障がないため、渡船乗り場の桟橋がわかりにくいところが多い。
 竹橋桟橋を10時に出航した下関市営渡船「六連丸」には釣り客の姿多い。六連島の波止場周辺が釣りの好ポイントになっているのだ。釣りならもっと早い時間から始めるのではないかと思ったが、六連島へ向かう便はこれが始発。浜風を浴びながら昨日レンタカーで渡った彦島大橋をくぐる。海上から見上げれば、レンタカーで渡ったときよりも一際スケールの大きさを痛感する。さすがに世界最長のコンクリート橋の称号を有していただけのことはある。やがて船員が乗船券を売りに来たので、往復で購入すると片道券を2枚買うよりも30円安い570円となった。
 竹橋桟橋から20分程の航海で日新タンカー六連油槽所のタンクが目立つ六連島に上陸。六連島は、大型船舶が行き交う国際航路に挟まれた溶岩台地の島で、日本書紀にも「没利(もつり)島」として登場する。古くはその島の形から「かに島」と呼ばれた六連島という島名の由来は、周囲に馬島、金崎島、片島、和合良島など大小6つの島が連なっている様子からこの名が名付けられたという説と、西教寺を開いた麻生与三衛門高房など6名が初めて六連島に渡って土地を分けるために縄で島を6等分したためという説がある。また、六連の語源を韓国語の「モッアール(集落)」に求めている説もあり、韓国までの距離の近さを実感する。
 周囲3.9キロなので一周しても1時間程度であるが、残念ながら蓋井島同様に外周道路は整備されていない。やむを得ず道路が整備されている範囲で散策に出掛けることにする。まずは六連島灯台を目指して、漁港沿いの道路を時計と反対まわりにたどる。案内標識に従って雑木林の中を分け入ってみると、やがて明治天皇行幸の碑が現われる。こんな離島へ明治天皇が訪問したことが不思議であったが、1972年(明治5年)6月12日に九州へ行幸途中で、当時もっとも近代的な洋式灯台の一つであった六連島灯台の視察に立ち寄ったという。明治天皇の来島日に島民が土下座をして迎えたところ、従者の西郷隆盛が「立って奉迎して良い」と申し渡したことから、島民の間で初めて耳にする新政府の思いやりのある言葉として語り継がれたとの逸話もある。
六連島灯台  目指す六連島灯台は、記念碑からさらに登ったところにあった。周囲はブロック塀で覆われており、比較的スマートな灯台と比較すると重厚な雰囲気がある。六連島灯台は、日米和親条約で決まった兵庫開港(神戸港)に備えて、1867年(慶応3年)4月の大阪条約に基づき建設された5つの灯台の一つとして、英国人アルへリン・ブランドンが率いるお雇い外国人により、1971年(明治4年)11月21日に初点灯された。現在は、4万燭光で15秒ごとに1閃光しているが、当初は第4等白色不転レンズで石油灯を使用しており、その後アセチレンガス灯、自家発電による電化と変化し、昭和38年には海底ケーブルによる本土からの電力供給と設備は近代化された。
 さらに坂道を登り続けて行くと下関の市街地から郊外まで見晴らせる視界が広がる。やがて海上自衛隊六連警備所にたどり着き、この辺りが六連島の最高峰で標高106メートル。残りは下りだと励まし合って足を進める。周囲はキクやカーネーション、ガーベラなどのハウス栽培をしており、北九州を中心に出荷されているとのこと。
 島の中央部の小高い丘には、世界でも3ヶ所しかないといわれる天然記念物である雲母玄武岩があった。雲母玄武岩は、火山活動により噴出した高熱の玄武岩が、海水で急激に冷やされることにより無数の小さな穴ができ、その内側に4ミリほどの光を放つ黒雲母と角閃石の結晶が生じた大変珍しいものだという。もっとも、外見は単なる岩に過ぎず、下関市役所が発行しているパンフレットがなければ見過していたかもしれない。
 六連島漁港に戻る途中に、六連島音次郎遺跡へ続く遊歩道があったのでたどってみる。六連島音次郎遺跡は、島の南西部に発達した砂嘴から島すそにかけて広がる縄文時代から平安時代にかけての遺跡である。発掘された遺物には、土器類や石器、骨格器などがあり、そのうち平安時代に使われていた製塩用の丸底円筒形の土器は六連式土器と呼ばれている。ところが、遊歩道はここ数日は雨が降ってもいないにもかかわらず、ぬかるんでおりとても歩けるような状態ではない。やむを得ず途中で断念して引き返す。
 12時を過ぎたので漁港近くの漁村センター「フレッシュマート」で昼食の確保を試みるが空振り。蓋井島と同様に食料品から日用雑貨までを扱っている店であるが、需要のない弁当や菓子パンは見当たらなかった。代わりに下関の名産品として全国的にも有名なウニの瓶詰めが並んでおり、バランスを失しているような気もしたが、実はウニの瓶詰めの加工技術は、もともと六連島が発祥の地であるとのこと。ある日、島を訪れた外国人水先案内人が西教寺の住職と歓談を講じていたとき、杯に注ごうとしていた強い洋酒を誤ってウニの入った小鉢にこぼしてしまい、住職がそのままウニを口に運ぶと意外と美味であったため、六連島の城戸久七に試作させ、独特のアルコール漬けウニの加工法を生み出したそうだ。もっとも、ウニの瓶詰めでお腹を満足させるわけにもいかず、代わりにアイスクリームを舐めながら下関へ戻る「六連丸」の出航時刻を待つ。安藤クンは波止場でくらげ採りに興じており、海には無数のくらげが漂っている。まだ、くらげの時期には早いと思うのだが、この辺りで海水浴をしようものならたちまちくらげに刺されそうだ。
 竹橋桟橋に戻った後、近くの長門市場を冷やかす。長門市場は下関最大の商店街であるグリーンモールと山陽本線を挟んで相対する生鮮品市場だ。戦後、祖国へ帰れなかった朝鮮系市民たちが中心となって市場を起こしたと聞く。数百メートル離れた下関漁港で水揚げした生鮮品を主として扱っており、鮮魚や野菜をはじめ、韓国料理の食材やくじら、うに、フカの湯引きなど、庶民の味覚が格安で並んでいる。周辺にはアパートも立ち並び、なんだか異国に紛れ込んだような雰囲気だ。長門市場はポッタリチャンサと呼ばれる日韓の日用品貿易を手がける商人の活躍の場でもある。かつては免税店で日本の家電製品を仕入れて釜山に渡り、品物を仲介人に引き渡して、代わりに韓国の農産物などを日本へ持ち帰っていたようだ。もっとも、日韓の物価水準や技術較差がなくなった今日では、衰退の一路にあるのだろう。
 下関駅に戻ると駅前の「バスきっぷうりば」で下関駅−唐戸間が1日乗り放題となる「海峡散策きっぷ」(300円)の案内があったので迷わず購入。下関−唐戸間は片道190円なので、往復するだけでも80円お得というすぐれものの切符だ。下関駅前13時10分の石原車庫行きサンデン交通バスで5分揺られ、下関市立しものせき水族館「海響館」近くの西南部停留所で下車する。
 「海響館」は2001年(平成13年)4月1日に21世紀最初の水族館としてオープンしたばかりで、総水量2,400トン、65の水槽に400種15,000点の生物が展示されている。事前に入手した観光協会のパンフレット「おいでませ山口」のクーポン券を利用すると1,800円の入館料が100円引きとなった。
 関門海峡のランドマークとしてクジラとイルカをイメージして設計されたという建物に入ると、まずはスロープエスカレーターで4階へ運ばれる。待っていたのは総トン数900トンの関門海峡潮流水槽で、下関を取り囲む日本海、関門海峡、瀬戸内海の3つの海を再現したものだという。潮の流れが速い関門海峡では、小さな渦があちらこちらで発生するのが特徴で、この水槽でもその渦を再現している。約5分おきに関門海峡水槽の両サイドに交互に渦が現れ、見ていると水槽の魚がときどき渦に引き込まれている。水槽の背後はガラス張りになっており、関門橋がすぐ近くに見える。階段を少しおりて、水槽の水面と関門海峡の水平線を合わせるように眺めると、関門海峡と水槽が一体化して見えて、本当に関門海峡の海の中を覗いているようでもあった。
 4階から3階に向かう途中で、海底の洞窟を思わせる通路を通りすぎると、まるで瀬戸内海の海中に入りこんだような視界が広がる海中トンネルに出る。トンネル水槽の中にいると、頭上では水しぶきとともに波頭が砕けており、なかなか演出も凝っている。3階には下関のシンボル的存在であるフグのコーナーがあり、トラフグの生態や世界50種類のフグの紹介がされている。今回の旅でも当然に下関のフグを食べるつもりだったので、ついつい水槽のフグを生簀と錯覚してしまう。
 14時からはイルカショーが始まるので、会場となるアクアシアターへ移動する。私と東戸クンは昨年も島根県立しまね海洋館「アクアス」で似たようなものを見物しているので少々食傷気味であるが、毎度のことながらイルカの跳躍力には感心する。ここでも最前列のシャワーサービスは健在で、イルカはわざと客席近くで飛び跳ねて水しぶきを客席に跳ばす。ずぶ濡れになった観客もいたが、どうやって帰るつもりなのであろうか。
 イルカショーに続いて14時30分からはアシカショーが開演。武蔵と小次郎のドラマ撮影をするためのリハーサルという設定であったが、アシカの芸に無理矢理ナレーションを加えたという印象は否めない。ただし、少しでも変化に富んだ演出を試みる「海響館」のスタッフの心意気は評価したい。
 フグの次はシロナガスクジラの骨格標本を見学する。シロナガスクジラは地球上で最も大きな生物で、その骨格標本は世界でも数体しかなく、日本ではもちろん「海響館」が唯一という。ノルウェーのトロムソ大学博物館が1886年に入手したものを展示しているとのことで、近代捕鯨発祥の地として栄え、現在も調査捕鯨基地である下関をPRするために展示を実現させたことは容易に察しが付く。
 「海響館」を満喫したので、今度は関門海峡を見下ろせる火の山へ向かう。火の山山頂へ向かうサンデン交通バスは、間違いなく「海響館」近くを通るのであるが、反対車線へ歩道橋を渡ってバス停をさがすのが億劫になり、とりあえず目の前に現れた下関駅行きに乗り込んでしまう。「海峡散策きっぷ」があるから抵抗はない。
火の山山頂  下関駅前のバスターミナルから16時の火の山山頂行きに乗り、再び「海響館」のある唐戸までの道路をたどる。やがて関門橋のたもとをくぐり抜け、幕末の攘夷戦で外国船に砲撃した砲台跡が残るみもすそ川公園から内陸部に入り、有料道路の火の山パークウェイに入る。本来であれば、火の山へはロープウェイで登るところであるが、あいにく2003年(平成15年)4月1日より火の山ロープウェイは運休してしまった。年間1億円近い赤字となっている現状を鑑みれば当然の措置であろうが、数ヶ月の差で乗れなかったのは残念である。
 終点の火の山山頂まで乗り通したのは我々だけ。「海峡散策きっぷ」を提示すると、区間外となる唐戸−火の山山頂間の280円を請求される。下関駅からの運賃は360円で、差額はわずかに80円であった。
 さっそく展望台から関門海峡を望むと目の前には九州が横たわっており、外周の旅もいよいよ九州上陸目前と思うと感慨深い。火の山は瀬戸内海国立公園に含まれ、山頂からの眺望は瀬戸内海、日本海を一望でき、その夜景は1,000万ドルの価値があると言われている。当初の計画では火の山からの夜景を楽しむつもりであったのだが、火の山ロープウェイの代行バスは火の山山頂18時32分が最終便となっており、日暮れ前に終わってしまう。タクシーを利用しようものなら、途中に有料道路の火の山パークウェイがある関係上、メーター運賃の他に往復800円の通行料を負担せねばならないので散財だ。遊歩道で下山することも検討したが、下関市役所観光産業部に照会したところ、夜間は危険なので止めた方がいいという。やむを得ずこの時間帯の訪問となった次第だ。
 展望台からのパノラマを満喫したとことで、回転展望レストラン「ふくの関」に移動。客席のあるホール全体が1時間に360度回転しているため、座るだけで下関の全景が見渡せるように工夫されている。まだ、夕食には時間が早いが、昼食は六連島のアイスクリームだけだったので、お腹は充分に空いている。フグは明日の唐戸市場で食べられるので、今日のメインはクジラに決定。「鯨丼」(1,575円)に「鯨竜田揚」(840円)を注文する。さらに、30食限定で通常1,260円の「ふく刺し」が315円ということなので、迷わず追加注文。下関ではフグのことを幸福の福をかけて「ふく」と発音する。トータル2,730円で、昼食としては贅沢極まりないが、夕食を兼ねていると思えばそれほどでもない。「鯨丼」は、鯨肉のステーキをご飯に盛ったもので、カルビ焼肉丼を思わせる。むしろ、懐かしさを覚えたのが「鯨竜田揚」で、我々が小学生の頃は当たり前のように給食で「鯨竜田揚」が出されていた。「鯨竜田揚」と「ふく刺し」は安藤クンと東戸クンにもお裾分けする。
 お腹も満足したところで火の山山頂17時29分のサンデン交通バスで下山。今度は源平の戦いで有名な壇ノ浦に立ってみることにする。バスの車内放送で「次は壇ノ浦」と流れたので降車ボタンを押す。運賃表示が240円だったので、運賃箱に240円を放り込むと、運転手は慌てて運賃表示を操作し、「ここは赤間神宮だから280円」という。こちらは壇ノ浦で降りるつもりだったので、この態度にはカチンと来る。
「何を言っているのですか。車内アナウンスだって壇ノ浦って流していたじゃないですか。こちらは壇ノ浦で降りるつもりだったのです。自分の怠慢のツケを客に押し付ける気ですか?」
結局、運賃は壇ノ浦までの240円で済んだが、1停留所分歩く羽目になる。もっとも、距離にして250メートルぐらい。ところが壇ノ浦は住宅街に小さな漁港があるだけで、源平の戦いに関する史跡などは一切見当たらない。後で調べれば壇ノ浦古戦場跡は、壇ノ浦ではなく、火の山から下ったところの御裳川にあるとのことだった。壇ノ浦が壇ノ浦町ではなく、御裳川町にあるのだから紛らわしい。
 気を取り直して、鮮やかな朱塗りの水天門が目を引く赤間神宮へ足を向ける。赤間神宮では、壇ノ浦の合戦で敗れ、幼くして入水した安徳天皇を祀っているという。皇族に生まれたにもかかわらず、権力争いに巻き込まれ、自らの意思に反して入水した安徳天皇こそが、壇ノ浦の戦いでの一番の被害者ではなかろうか。境内には安徳天皇阿弥陀寺御陵、平家一門の墓、七盛塚がある。
「耳なし芳一の木像が祀られているよ」
安藤クンに呼ばれて大安殿の脇に足を運ぶと、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の怪談で有名な「耳なし芳一」の木像を祀る芳一堂がある。「耳なし芳一」も壇ノ浦の戦いに由来する。盲目の琵琶法師であった芳一が平家の怨霊に誘われて、安徳天皇の墓前で無数の鬼火に囲まれて琵琶を弾き語っていたのを阿弥陀寺の和尚が見付ける。平家の怨霊が芳一をあの世に連れ去ろうとしているのを悟った和尚は、芳一の全身に般若心境を書き綴り、平家の怨霊から守ろうとした。ところが、芳一の耳に般若心境を書き損じてしまったので、芳一は平家の怨霊に耳だけをもぎ取られてしまったという。隣には平家塚が並んでおり、夕暮れの時間帯も相俟ってなんとなく薄気味悪いので早々に退散。
 「海峡散策きっぷ」のフリー乗降区間である唐戸まで歩き、サンデン交通バスで下関駅へ戻る。着替えがなくなったので調達したいという東戸クンに付き合って、駅前のショッピングセンター「シーモール下関」に付き合う。山口県最大のショッピングセンターで、およそ外周の旅には似合わない場所。東戸クンはジャージを購入する。
 本日のラストは「海峡ゆめタワー」である。火の山の夜景を断念した代わりに、下関駅近くの「海峡ゆめタワー」からの夜景を眺めようというのである。1996年(平成8年)7月に完成した「海峡ゆめタワー」は、高さ143メートルのスマートなビルであるが、頂上部は交流、平和、地球を象徴した直径21メートルの球体になっている。この球体は総ガラス張り展望室になっているとのことだ。600円の入場券を購入しようとすると、門司港レトロ展望室とのセット入場券が720円で販売されている。明日は門司へ渡るのは間違いないし、仮に門司港レトロ展望室へ行けなかったとしても120円程度なら諦めが付くので、門司港レトロ展望室は明日の入場でも問題ないことを確認してからセット入場券を購入する。
 シースルーエレベーターに乗り込み、わずか70秒で展望室へ運ばれる。シースルーエレベーターは毎分120メートルの俊足だ。ところが、展望室に降り立った途端に愕然とする。期待していた関門橋は灯火を落としており、かろうじて道路沿いの外灯のみが点いている。環境省の「CO2削減/ライトダウンキャンペーン」の一環のようで、確かにイルミネーションの類は道楽に過ぎず、二酸化炭素削減のためにはやむを得ないと思うが、楽しみが減るのは残念である。
 下関駅のコインロッカーで荷物を回収して、今宵の宿となる「下関海員会館」を目指す。ところが道を間違えて、下関駅から徒歩15分であったところを延々と30分以上歩く羽目になる。ようやくたどり着いた「下関海員会館」も古びた研修施設のような感じで盛り上がりに欠けるが、素泊り2,700円なのだから文句は言えない。近くには「日の出温泉」という弱アルカリ性単純温泉の公衆浴場があることも確認しており、リフレッシュをするつもりであったが、安藤クンは動きたくないという。「下関海員会館」の職員に確認しても、「日の出温泉も22時までだからね。今から行っても入れないと思うよ」とのこと。それでも行ってみれば入れるかもしれないと東戸クンと一緒に足を向けるが、結局場所がわからずにタイムアップ。やむを得ず、本来は21時までが入浴時間だという「下関海員会館」の浴場を利用させてもらって汗を流す。留守番をしていた安藤クンは早々に入浴を済ませ、体調が悪いと寝込んでしまう。東戸クンは一人で晩酌。なんとも後味の悪い1日になってしまった。

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