サラブレッド士業

第77日 油谷−蓋井島

2003年8月1日(金) 参加者:東戸・安藤

第77日行程  「ホテル楊貴館」で油谷湾を眺めながら朝風呂を浴びる。期待した展望露窓風呂は湯気で少々曇り気味だったのは残念であったが、朝から温泉でさっぱりして外周の旅をスタートする。「ホテル楊貴館」を8時30分にチェックアウトし、安藤クンの運転で油谷湾沿いの国道191号線を快走。やがて目の前に白い砂浜とエメラルドグリーンの海士ヶ瀬戸をまたぐ角島大橋が表われた。2000年(平成12年)11月3日に完成した角島大橋は、離島に架かる通行無料の橋としては日本最長の1,780メートルの長さを誇る。
 角島(つのしま)は、北長門海岸国定公園に属し、豊北町の沖約2キロメートルの響灘に浮かぶ周囲約17キロの島。日本海に突き出た牛の角のような形状から角島と呼ばれている。
 角島大橋を渡ったところにある潮崎陽(あかり)の公園に立ち寄ると、滑らかな角島大橋の雄姿を一望できる。すぐ目の前には鳩島という小島があり、普通ならこの小島に橋脚を設けているところであろうが、角島大橋は景観との調和を図るため、わざわざ鳩島を迂回して道路が敷かれている。通常は橋梁の建設により景観を台無しにしてしまうことが多いのであるが、角島大橋は西長門海岸の景勝を演出する一役を担っている。
 かつて角島の岬にあった燈明台のあかり(陽)が、付近を航行する船の安全を守ったという伝説から名付けられたという潮崎陽の公園の片隅には、「角島の迫門(せと)の稚海藻(わかめ)は人のむた荒かりしかどわがむたは和海藻(にぎめ)」という詠人知らずの「万葉集巻十六」の歌碑があり、歴史を伺わせる。
 角島北端に位置する牧崎風の公園に赴けば、牛の放牧が行われている。角島には牧崎と夢ヶ崎という放牧の適地があったため、牧畜が奈良時代より盛んに行われており、牛皮8枚を朝廷に貢進して以来、牧場の島として名を馳せている。潮風を気持ちよさそうに浴びている牛を眺めながら、遊歩道を進むと周辺には北長門海岸国定公園指定植物のダルマギクなどの多彩な花が自生している。残念ながら開花の時期には少々早く、秋になれば淡紫桃色と黄色のコントラストが美しい花が咲き乱れるはずだ。
 コバルトブルービーチを右手に眺めながら県道275号線を東へ進み、角島灯台の待つ夢ヶ崎へ移動する。周辺は観光地化されており、広大な駐車場も整備されているが、しっかりと駐車料金300円を徴収されるが、夏休み期間中であるにもかかわらずほとんど駐車車両はない
 メインの角島灯台は後回しにして、まずは灯台公園の北側に隣接した夢崎波の公園を散策。波をテーマにした園内には、花で波をイメージした花壇が造られ、ハマユウが咲いている。ダルマギク、スイセンハマヒルガオなど角島自生の草花も植栽されており、1年を通して花が咲いているように工夫されている。
 夢崎波の公園をひとまわりしてから角島灯台公園へ。角島の最西端に立つ角島灯台は、英国人ブラントンが設計した日本海側初の洋式灯台で、明治9年の初点灯以来、今でも現役で活躍している。その高さは29.6メートルもあり、どの角度から見ても美しい御影石造りの円形灯台だ。灯台の入口で150円の入場料ならぬ寄付金を支払う。入場料ではなくて寄付金と断っているのは会計上の問題であろうか。105段のらせん階段を上ると、屋上の踊り場からは360度のパノラマが広がる。灯台のレンズは、正八角形のフレネルレンズで、1874年のイギリス製。光度は100万カンデラ、光達距離は18.5海里(1海里は1,852m)、灯質は単閃白色とのこと。
 灯台のある夢崎は遠くまで浅瀬が続き、くす瀬、国石などの難所があって、昔から遭難が絶えず、江戸時代の北前船など沖を通る船や漁船に恐れられてきたという。近年になってもこの海域では貨物船の事故が後を絶たず、2001年(平成13年)10月6日には北朝鮮の貨物船「チョン・リュー2」が舞鶴港を出向して下関に向かう途中で角島の沖、約800mのところで座礁した。保険に入っていないため撤去することができず、しばらく角島の沖に放置されたままであったが、今年になってようやく撤去されたという。
 灯台の隣には、旧吏員退息所を復元した角島灯台記念館があった。入館券は灯台と共通なので、別途料金は要らない。角島灯台と一緒にできた赤煉瓦造りの洋館で、5つの部屋すべてにマントルピースが備え付けで、隣接する倉庫も当時の姿を完全に残す貴重なものである。角島灯台をはじめ、日本各地の灯台についての展示があり、日本全国の灯台をにわかに踏破してみたくなる。
 角島の南側は集落のある旧道をたどる。途中でドライブイン「しおかぜの里角島」に立ち寄る。レストランでは、地元の特産品を利用したメニューが用意されていたが、昼食にはまだ早い。同じく地元の特産品として「わかめソフトクリーム」(250円)を賞味する。薄い緑色をしているソフトクリームであったが、ワカメの風味はほとんどない。併設されている特産品販売所内は、暖かみのある木造で仕上げられ、天井には魚網やウキなどが張り巡らされているため、まるで漁港のようだ。
角島大橋  再び角島大橋を渡って本土に戻り、国道191号線を南下。難読地名の特牛(こっとい)を経て土井ヶ浜遺跡に立ち寄る。土井ヶ浜遺跡は響灘に面する西海岸沿いにある弥生時代の埋葬跡である。1948年(昭和28年)から1952年(昭和32年)まで5次に渡る発掘調査がおこなわれ、当時としてはまだ出土が珍しかった弥生時代人骨が多数出土し、初めて弥生人の顔や形が判明した。弥生人の顔や形は、面長で、鼻根部が扁平で、高身長という、縄文人とは異なる容貌をしていることが明らかとなり、日本人の形質変化の研究や日本人の起源論争に大きな一石を投じることになった。その後も1988年(昭和63年)まで発掘調査は継続され、保存良好な弥生人骨が300体以上も装身具や土器を伴って出土している。
 土井ヶ浜遺跡一帯は大賀ハスと赤米を植え、弥生時代の環境を再現している土井ヶ浜弥生パークとして整備されている。園内の散策は後回しにして、まずはこの地から発掘された人骨が腕にはめていた貝の腕輪をモチーフにしている建物の土井ヶ浜人類学ミュージアムに入る。500円の入場料を支払うと、3Dめがねが手渡された。弥生シアターで毎時15分と45分から開演される「よみがえる弥生人−日本人のルーツを追って−」を鑑賞するためのアイテムだが、ちょうど10時45分が始まったばかりだったので、先に展示室を見学する。出土品を陳列するだけではなく、ゴホウラ腕輪の体験コーナーや自分の顔を縄文人や弥生人にデフォルメして楽しむカオカオ倶楽部など志向を凝らしている。
 弥生シアターでは、船尾を模した観客席に座り、11時15分開演の「よみがえる弥生人−日本人のルーツを追って−」を鑑賞する。土井ヶ浜遺跡のマスコットキャラクターである子供の人骨「ボニー君」が登場して、遺跡から推測される弥生時代の生活の様子を解説してくれる。もっとも、内容は3Dめがねを必要とするほどのものではないが、興味をもってもらうための努力は伺える。
 隣接する土井ヶ浜ドームへ足を向けると防空壕のような入口が待っていた。こちらも有料施設であるが、土井ヶ浜人類学ミュージアムと共通券になっているのでフリーパス。薄暗い室内は発掘現場に人骨のレプリカを用いて人骨が埋葬されていた様子を忠実に再現している。正直なところ、遺跡とドームの関係が謎であったのだが、ドームは発掘現場を風化から保護するために設けられたのだ。ドーム内からは約80体の人骨が出土したとのことで、土井ヶ浜遺跡でも出土された人骨の密度が高いところ。約2,100年前頃からこの付近に居住していた弥生人は、土井ヶ浜海岸へ向かって東から西に緩やかに伸びる丘陵を墓地とし、埋葬するときには頭をやや高くし、海岸の方向へ顔を向けていたそうだ。宗教的な意味合いがありそうであるが、はっきりとはわからない。
 メインの施設2箇所を見学した後は公園内を散策。内部には何も無い竪穴式住居の吹く現などを眺めて「ほねやすめ」というウィットなネーミングの休憩所へ。米の古代種である赤米を使った軽食も採れるようであるが、今日の昼食は川棚温泉の名物「瓦そば」に決めているので見送り。代わりに「赤米もち」(130円)を購入して賞味する。プリプリした食感があるが、味は福井名物の「羽二重餅」に似ている。製造元は同じ豊北町にある「だるま堂」となっていた。
 響灘に面した国道191号線を南下していると長門二見で山陰本線が左手から寄り添ってきた。やがて国道191号線が線路を跨いで内陸部に移り、外周ルートを山陰本線に譲ってしまう。この区間を山陰本線でたどれないのは悔しいが、アプローチでたどっているので大目に見ておく。
 湯玉駅を過ぎたところで左手に大きな鳥居と福徳稲荷神社の大看板があったので立ち寄ってみる。急坂を登ったところに荘厳な本殿があり、本殿からは青々とした日本海がどこまでもどこまでも広がる雄大な景色が広がる。福徳稲荷神社は、商売繁盛、家内安全、そして豊漁のお稲荷様として信仰を集めている。本殿で参拝をして境内をひとまわりすると、千本鳥居が続いている。我々はレンタカーで一気に本殿まで上がって来てしまったが、国道191号線付近から続く千本鳥居の歩道を登ってくるのが本来の参拝方法のようだ。途中まで千本鳥居をたどったものの、本殿前の駐車場にレンタカーを駐車しているので引き返した。
 川棚温泉駅前を左折し、内陸部へ入ったところにある温泉街へ。川棚温泉は室町時代に三恵寺の恰雲和尚が掘り当てたといわれる霊泉。その昔、一大沼地だったこの地に清らかな水を与えていた青龍が大地震による山崩れで死んでしまい、悲しんだ村人たちが青龍権現として祀ったところ、湯が噴き出したとの伝説がある。江戸時代には毛利藩主の御殿湯が設けられて栄えたそうだ。漂泊の俳人種田山頭火がしばらく滞在したことでも知られ、温泉街の奥にある妙青寺の境内に「湧いてあふれる中にねている」と詠んだ句碑が立っている。
 時刻は12時半を回っており、まずは腹ごしらえだ。温泉街にある元祖瓦そば「たかせ本館」に入る。現在では川棚温泉の名物となった「瓦そば」であるが、「たかせ」が発祥の店である。創立者の高瀬慎一氏は、1877年(明治10年)の西南戦争で熊本城を囲む薩摩軍の兵士たちが長い野戦の合間に瓦を用いて野草、肉などを焼いて食べていたという古老の話にヒントを得て、数十年を経過した日本瓦を用い、雅味豊かな茶そばに牛肉、錦糸卵、海苔、もみじおろし、レモンなどを配し、そばつゆを添えて「瓦そば」と名付け供したのが始まりだという。店内は平日の昼間だというのに大盛況で、しばらく待たされて民家の一室のような畳の和室に通された。もちろん3人とも「元祖瓦そば」(1,050円)を注文する。京都の高級宇治茶を使用していることから、抹茶の香りが際立つものの、味よりも物珍しさが先行してしまう。熱い瓦に面した部分はパリパリとなり、焼そばのようでもある。分量も少なめで1人前では物足りない。だからと言ってもう1人前を追加するのもためらわれて店を出る。
 「たかせ」には本館の他にも新館と別館があり、別館では宿泊もできる。そして、宿泊客のための露天風呂が一般にも開放されており、「たかせ」で食事をした場合は100円で入浴できるというシステムになっている。さっそく3人で別館へ赴くが、こちらも大盛況の様子で、玄関で声を上げてもなかなか店員が来ない。100円を支払って案内された露天風呂は、先客でしばらく順番待ち。脱衣場も浴場も家庭風呂をひとまわり大きくした程度のスペースで、3人ぐらいがせいぜいの浴場なのだ。湯船には枯葉などが浮いている上、浴場の足場も砂混じりでお世辞にも清潔とは言えない。近くには「元湯ぴーすふる青竜泉」という公衆浴場もあったので、100円に釣られて失敗したなと思う。公衆浴場に足を運びたいところであったが、時間がないので断念し、次回訪問したときの楽しみにしておく。
 近所のローソンで菓子パンを買って物足りない胃袋を満足させて本日のメインスポットである本州西端の毘沙ノ鼻へ。毘沙ノ鼻は豊浦町と下関市の境界近くの下関市域側にある。バス路線はなく、最寄りとなる梅ヶ峠や吉見からはかなりの距離がある。やむを得ず山陰本線よりも内陸部を走りながらもレンタカーを利用した最大の理由なのだ。
 吉母集落から案内標識に従って10分程山道を進むと展望広場に行き着いた。「本州最西端の地毘沙ノ鼻」という下関市の看板の前に小さな展望所が設置されており、目の前にはこれから訪問する蓋井島が浮かんでいる。景色はいいのだが周囲には他に何も無い。下関市としても本州最西端の地をPRしたいものの、交通の便があまりにも悪いので手が打てないのであろう。
 展望所から吉母集落へ少し戻ったところに下関市環境センター吉母管理場がある。展望書は毘沙ノ鼻の断崖上にあり、本来の本州最西端の地は吉母管理場の敷地内にある。事前に下関市に確認をしたところ、入口で申告すれば敷地内での見学が可能で、本州最西端の地の到達証明書も発行してもらえるという。事前に確認をしていなければ素通りをしてしまうところであった。
 守衛所で名簿に住所と氏名を記入し、地図で本州最西端の碑の所在地を教えてもらう。敷地内は想像していたよりも広く、入口から海辺に向かってレンタカーで5分程下る。大型のダンプカーが時折行き来しており、吉母管理場としてはあまり観光客に立ち入りして欲しくないのが本音ではなかろうか。堤防の手前にレンタカーを駐車し、しばらく岩場の海岸をたどって行くと、やがて岬の先端で日本海の荒波にさらされる本州最西端の碑を確認することができた。外周の旅では、1994年(平成6年)3月28日に本州最東端の魹ヶ崎(岩手県)、1995年(平成7年)3月15日に本州最北端の大間崎(青森県)に到達しており、残るのは本州最南端の潮岬(和歌山県)となるが、こちらは到達の目途はまったくない。
 守衛所に戻れば、入場時に発行を依頼しておいた「本州最西端到着証明書」が用意されており、北緯34度6分27秒、東経130度51分45秒という所在地が記され、下関市環境センター吉母管理場の受付印が押されている。無料の証明書なのであまり期待をしていなかったが。日本地図や毘沙ノ鼻から望む響灘の風景画が入っており、なかなか凝った証明書であった。
 下関市街地に入るとさすがに交通量が増えて、しばしば渋滞に巻き込まれる。時間の短縮を図るために、150円を投資して彦島有料道路に入り、小瀬戸に架かる全長710メートルの彦島大橋を渡る。1975年(昭和50年)9月30日の開通当時は世界最長のコンクリート橋であったというが、現在のランキングは世界15位。日本国内でも1976年(昭和51年)に開通した浜名大橋に首位を譲り、現在は2位となっている。
 彦島は関門鉄道トンネルの本州側の入口があり、関門海峡フェリーの発着場があるなど、本州の玄関口として位置付けられているが歴史は古い。彦島は平家の里と言われるように平知盛の所領地で、屋島の戦いで敗れて彦島に逃れた平家軍が砦を築いた地で知られる。また、幕末の1864年(元治元年)8月には、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの四ヶ国連合艦隊の攻撃を受けた際に、イギリス提督クーパーが租借を申し出た経緯もある。租借問題は長州藩の全権大使であった高杉晋作が拒絶したものの、もしもイギリスの要求を受け入れていれば彦島は99年間の租借地となり、香港のような状況になっていたことであろう。
 彦島の北西端にある竹ノ子島へ渡ってみる。ところがレンタカーで通れるのは関門造船の入口のところまでで、残りは徒歩が頼りの細い路地ばかり。西岸の台場鼻潮流信号所ぐらいは見学してみたかったのであるが、時間の制約上レンタカーで周れないのであれば断念せざるを得ない。対岸の彦島側にあるふぐの水揚げ日本一の南風泊(はえどまり)市場を眺めて竹ノ子島を後にする。
 彦島をレンタカーで一周してから関彦橋を渡って本土に戻る。マツダレンタカー下関店で慌しくレンタカーを返却し、下関駅へ猛然とダッシュする。今日は毘沙ノ鼻から眺めた蓋井島の民宿に泊る予定をしていたのだが、蓋井島へ渡るためには下関16時19分の878D普通列車で吉見まで戻らなければならない。時刻は既に16時10分で、マツダレンタカー下関店は下関駅前にあるとはいえ、500メートル近く離れており、切符を買う時間を勘案すると時間が厳しい。返却手続きは私が引き受け、東戸クンと安藤クンが先行して駅に走る。山陰本線のようなローカル線であれば、車掌に頼めば多少の猶予は認められる可能性もあるからだ。幸いにもレンタカーの職員も我々が急いでいるのを見越してか、ガソリンの満タン証明と車体の傷の有無を確認するとすぐに開放してくれた。
 駆け込み乗車で878Dに間に合いホッとする。車内は部活動帰りの高校生で混雑していたが、列車が停車する度に車内は空いてくる。車窓の左手には国道191号線が並走しており、ほんの1時間程前に下関へ向かってレンタカーで逆行していたのが不思議な気分だ。吉見には16時42分に到着した。
 吉見駅から徒歩10分の吉見港へ行くと、吉見漁港の一角で下関市営渡船「蓋井丸」への荷積み作業が行われている。積み込まれているのは主として食料品で、離島航路が貨物船を兼ねているのはよくある光景だ。船内で2日間有効であることを確認して990円の往復乗船券を購入する。
蓋井島  「蓋井丸」は17時に吉見港を出航した。「蓋井丸」は吉見−蓋井島間を3往復しているが、この便が本日の最終便となる。しばらくすると右手に本州最西端の毘沙ノ鼻が確認できる。海辺の記念碑もかろうじて確認できた。
 響灘にぽっかり浮かぶ蓋井島は、周囲10.4キロが険しい断崖に囲まれた緑と神話の島である。島名の由来は、神功皇后が三韓征伐のときに、蓋井島の水の池と火の池という2つの井戸を蓋で覆ったことに由来している。まずは、蓋井島漁港に近い民宿「西」へ赴き、まずは荷物を置かしてもらう。
「まだ、夕食の準備できていないからしばらく散歩でもしてきな」
出迎えてくれたお婆さんに追い出されるように島内散策へ出発する。残念ながら蓋井島を一周する道路は整備されていないので、ポイントを拾っていくことになる。
 事前に下関市役所から送付してもらったパンフレットによれば、蓋井島には「やまどりの散歩道」という遊歩道が整備されており、全長は約1,500メートル。途中には響灘を見渡せる高台や蓋井島灯台があるので、外周向きの遊歩道ということになる。ところが「やまどりの散歩道」は、そのネーミングに反して標高145メートルの金比羅山を一気に登って行くハードなコース。お世辞にも整備が行き届いているとは言えず、ところどころに木々が倒れて遊歩道をふさいでしまっている。安藤クンは早々に「やまどりの散歩道」を放棄して引き返してしまった。一方の東戸クンは「とりあえず行ってみよう」と先へ進んでしまうので、私も後を追うことにする。
 30分以上かけて金毘羅山頂にある蓋井島灯台にたどり着く。眼下に蓋井島漁港を見下ろすことができ、随分と登ったものだと我ながら感心する。向かいには蓋井島の玄関口にそびえる標高140.8メートルのお椀をかぶせたような乞月山(こいづきやま)があり、神功皇后が蓋井島に立ち寄った際に、乞月山に登って月を乞われたところ満月になったという神話に由来して名付けられたという。
 響灘が一望できる高台にある蓋井島灯台は、関門海峡と本州北岸や朝鮮半島とを結ぶ船舶の守神であり、1912年(明治45年)7月15日に下関と韓国釜山との間に就航していた関釜連絡船の強い要望を受けて初点灯した。当時は石油蒸発白熱灯を光源として使用していたが、1951年(昭和26年)6月8日に灯台としては日本で初めて風力発電装置を導入し、自然エネルギー利用の先駆けとなったようだ。1967年(昭和42年)の商用電力の導入により風力発電は廃止されたが、現在も風力発電用として直径9メートルの風車が取り付けられていた鉄塔がそびえ立ち、無線中継所として活用されている。その片隅には金毘羅山を祀った祠があり、毎年2月と10月には豊漁と漁の安全を祈願する金毘羅祭が行われるそうだ。
 蓋井島漁港に戻れば安藤クンにばったり出会う。「やまどりの散歩道」は断念したものの、独自に蓋井島散策をしたとのことで何より。民宿へ向かって歩いていると、民宿の前でお婆さんが叫んでいる。どうやら「ビールを買って来てくれ」と言っている様子。回れ右をして、漁港前にある漁村センター「フレッシュマート」で缶ビールを買って民宿に持ち込む。民宿では飲み物を提供していないので、自分達が飲みたい物を買って来て欲しいとのことだった。
 夕食の食卓には刺身、アワビ、サザエなどのほか、焼きイカやかぼちゃの煮付けなどが並ぶ。食材は地元の新鮮な魚介類をふんだんに使った贅沢なものであるが、盛り付けなどにはあまり気を使わずに一般の家庭料理のように並べられている。食材のアワビやサザエはお婆さんが自ら採取してきたというのだから驚き。民宿を経営するお婆さんの本業は海女さんだったのだ。
 「やまどりの散歩道」で散々カロリーを消費したので食は普段より進むが、それでも持て余したのだから相当なボリュームだ。1泊2食付で5,500円という料金はお値打ちである。東戸クンがお婆さんと話をしたところによると、採算はまったく考えておらず、趣味で民宿を経営しているとのことであった。いつまでも元気に民宿が続くことを願う次第。

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