日々進化する自動車考察

第76日 見島−油谷

2003年7月31日(木) 参加者:東戸・安藤

第76日行程  演歌調のメロディーが流れる本村港を高速船「おにようず」は7時25分に出航。グルメ三昧だった見島を名残惜しみながら離れる。今日は天気も良さそうなので萩までは甲板で過ごすことにした。船内だとすぐに酔ってしまうのだが、甲板で潮風に当たっていると不思議と酔わない。もっとも、萩−見島間は海流の流れも速く、天気が良いとはいえ船体はかなり大きく揺れる。「おにようず」はコンピュータ制御で揺れを小さくしているというがにわかには信じがたい。普段はまったく船酔いをしない安藤クンでさえ、昨日は見島へ来るまでに船酔いになってしまったのだ。
 なんとか船酔いをせずに萩商港へ到着。船上で麻痺した平衡感覚を取り戻しながら東萩駅に近いマツダレンタカー萩店へ向かって歩く。マツダレンタカー萩店は「タイヤガーデン萩」という自動車修理工場の事務所の一角が事務所で、マツダレンタカーから業務の委託を受けているとのこと。クレジットカードが使えずに14,700円のレンタカー代が現金で消えていく。懐が寂しくなり、途中で現金の補充をせねばなるまい。
 東戸クンがAZワゴンのハンドルを握り出発する。萩市街の平安古郵便局で旅行貯金と現金の引き出しに立ち寄る。平安古は古風な字面であるが「ひやこ」と読むと郵便局員に教えてもらう。ゴム印にもルビが振ってあった。
 萩から三隅までは、山陰本線は海沿いの外周ルートをたどっているものの、幹線道路の国道191号線は内陸部に入り込んでしまっている。本来ならこの区間は鉄道利用としたいところであったが、営業所の所在地の関係で、萩からレンタカー利用とせざるを得なかったのだ。かろうじて一般道路が海沿いに通じていたので、細い道路であることを覚悟して先に進む。赤鼻、黒崎、二股瀬とレンタカーがなければ通らないような景勝地を走る。日本海を眺めれば手前に鯖島、その向こうには昨年訪問した相島が浮かんでいる。天気は快晴で青々とした海はおよそ山陰という響きは似合わない。三見駅からは山陰本線と交錯するように道路が通じており、長門市行き567D普通列車が追い抜いていく。飯井駅近くで萩・三隅道路の工事現場に迷い込んだりしたトラブルがあったものの、萩から1時間30分かけて仙崎駅近くの青海島シーサイドスクエアに到着した。
 青海島シーサイドスクエアからは青海島観光汽船の遊覧船で青海島を一周するのが目的。青海島は周囲40キロで、別名海上アルプスと称され、断崖絶壁や洞門、石柱など数多くの奇岩や怪岩などが連なる景勝地。観光船に乗ればこれらを間近に見学することができる。ところが観光船乗り場へ足を運ぶと、強風のため青海島一周コースは欠航で、青海島の北東端に位置する筍岩までを往復する赤瀬コースに変更になっていた。筍岩までの往復では青海島の4分の1程度しかカバーできずに不満が残るが、乗船券売り場の係員に青海島一周コースは2日に1日は欠航していると聞かされて諦める。一周2,200円の乗船料が赤瀬コースへの変更に伴い1,200円となったのが救いか。
 待たされることなく10時40分発の観光船に乗って青海島観光が始まる。さすがに北長門海岸国定公園を代表する観光地だけあって観光客の姿も多い。青海大橋をくぐるとやがて右手に波の橋立と呼ばれる砂州が広がる。青海島はいくつかの島が砂州で繋がり、ひとつの島を形成しているとのこと。やがて、日本海の荒波を受けた浸蝕地形が現われ、岩場の上からカメラマンがこちらに手を振っている。船内に記念撮影をするとのアナウンスがあり、観光船が青海島シーサイドスクエアに戻るまでに、ここで撮影した写真が現像されているという。ご丁寧に観光船は方向を変えて左右双方の乗客の写真をしっかりと撮影する。ご苦労なことにカメラマンは朝一番の観光船に乗船してこの岩場まで来て、最終の観光船に乗って戻って来るという。
 筍岩が近づくにつれて波が高くなり、観光船も容赦なく揺れる。青海島のメインは北岸の浸蝕地形であり、その目前でUターンするのは腑に落ちない気分であったが、この様子ではやむを得ない。青海島シーサイドスクエアに戻れば下船したところに先程の写真が掲示されていたが、船から顔を出しているだけの写真を買っても意味がないのでパス。年輩者や家族連れの乗客が何枚か買っていたので、多少の利益は出たのではなかろうか。
 仙崎駅へ立ち寄ると、駅前から仙崎みすゞ通りが整備されている。仙崎みすゞ通りは仙崎出身の童謡詩人である金子みすゞにちなんで命名された。仙崎みすゞ通りを歩いて行くと、金子みすゞ縁の地を示す標柱などがあり、各家の軒下には、金子みすゞの詩の中で一番好きな詩を木札にして掲示してある。私が金子みすゞを知ったのは、1997年(平成9年)3月31日に美祢線の南大嶺−大嶺間の廃止にあたり、お別れ乗車に来たときに、合間を利用して仙崎に足を運んだときであった。要するに仙崎でしか聞かない名前なのであるが、地元の金子みすゞに対する思い入れは強いようなので、仙崎みすゞ通りに面した金子みすゞ記念館に立ち寄ってみる。金子みすゞ記念館は金子みすゞ生誕100年を迎えた今年4月にオープンしたばかりで、前回訪問したときには、当然に存在していなかった。
 金子みすゞ記念館には、「金子文英堂」の看板が掲げられており、一瞬戸惑う。入口正面も昔の書店の装いだが、金子みすゞの実家である金子家は仙崎で書店を営んでいたことから、当時の様子を再現したものだという。金子みすゞ(本名金子テル)は、1903年(明治36年)に仙崎で生まれ、20歳の頃から童謡の執筆活動を始めたという。4つの雑誌に投稿した作品がすべて掲載されるという鮮烈なデビューを飾り、「童話」の選者である西條八十に「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛された。しかし、23歳で結婚した旦那の理解を得られず、創作を禁じられたうえ、病気、離婚と苦難が続く。やがて26歳の若さで自らの命を絶ったという悲劇の生涯であったようだ。2階には金子みすゞの部屋が再現されており、目の前の仙崎みすゞ通りを眺めることができる。金子みすゞはこの部屋で何を思いながら執筆を続けていたのであろうか。
 青海島シーサイドスクエアに戻り、レンタカーで青海大橋を渡る。観光船での青海島周遊が果たせなかった以上、陸路を踏破していくしかない。最初に観光船とは無縁であった青海島東端の通(かよい)へ。波静かな仙崎湾に臨む通は、かつては鯨組が活躍した北浦捕鯨最大の基地として栄え、「鯨一頭捕れば七浦が賑わう」と言われた。現在では、網捕り捕鯨の伝統は途絶えたが、鯨に縁のある旧跡が残り、漁師町らしいたたずまいを醸し出している。
 白い建物の屋上に鯨のオブジェが飾られているくじら資料館にレンタカーを停めて、まずは予備知識を仕入れる。くじら資料館では、漁師の写真や古式捕鯨の道具、鯨唄に使われた太鼓などが展示されており、当時の捕鯨の様子に思いを馳せる。鯨の胎児や巨大なペニスまで展示されていたのは驚いたが、あまり気持ちの良いものではない。
 くじら資料館の裏手にある清月庵には、1692年(元禄5年)に建立されたくじら墓がある。くじら墓は捕獲した母鯨を解体したときに出てきた鯨の胎児を葬ったもので、胎児を葬った漁師としては、鯨の胎児にまで危害を与えるつもりはなかったという懺悔の気持ちの表われなのであろう。くじら墓の背後の空地には明治時代までに捕獲された約70体の亡骸が埋葬されているという。
 青海島の東端に近いところには、18世紀後半の建築といわれる早川住宅があった。代々鯨組の網頭をつとめた家で、白壁の土蔵づくり一部2階建て。壁には鯨の油が塗られていると伝えられている国の重要文化財だ。ところが、早川住宅は施錠された状態で外観のみしか見学できなかった。
青海島  仙崎方面へ戻る途中にあったマリンファーム仙崎の「海上レストラン紫津浦」で昼食にする。タイ、メジ、ブリ、イシダイ、ヒラメなどの養殖場を通り抜けて、紫津浦湾海上に浮かんでいるレストランに入る。山口県漁業協同組合山口ながと総括支店のレストランで、新鮮な海の幸を味わうことができる。「海鮮丼」(1,500円)を注文すると、いくら、鯛、季節の魚など約10種類もの魚介類が盛られておりボリューム満点の丼だ。
 お腹も膨れたところで、腹ごなしに「海上レストラン紫津浦」の真向かいに入口があった青海島自然研究路を散策する。青海島自然研究路は遊覧船が断念した青海島北岸を陸上からたどるコースで、眼下に雄大な岩肌が露出している。海岸に出る道も整備されてみたので、岩肌に沿って設置された階段を降りて行くと紫津浦海水浴場で、大勢の海水浴客で賑わっており驚く。静かな海水浴場だと勝手に思い込んでいたが、北長門国定公園の中心部にあり、この辺りでは定番の海水浴場なのであろう。随所に設置されている植物群落や名勝についての解説板を眺めながら展望台にたどり着くと、海上に屹立する大小の岩が16人の羅漢のように見える十六羅漢や象の鼻などの奇勝が眺望できる。海上アルプスの一部に過ぎないが、十六羅漢が北岸屈指のビューポイントとのことなので満足しておく。
 今度は遊覧船からも眺めた波の橋立を目指す。青海島を一周する道路が整備されていないので、一旦青海大橋の手前まで戻ってから西に向かう。波の橋立により海と隔てられた青海湖の湖岸をレンタカーで迂回する。青海湖は南北400メートル、東西1,000メートルの山口県最大の淡水湖。海辺の湖なのでてっきり汽水湖だと思っていたのだが意外である。砂州により海と隔てられているため波静かで周囲の山々や松林を水面に写し出している。湖岸にはハスの花が咲き、荒波の日本海とは無縁の場所だ。
 波の橋立の西端に整備されている駐車場にレンタカーを停めて、海側に松林が並ぶ砂州を歩く。東端まで1.3キロの距離で、せっかくなのでこのまま歩いてしまいたいが、レンタカーをどうするか。
「向こう岸までレンタカーを迂回してあげるから行ってきなよ」
安藤クンの好意に甘えて、レンタカーの回送を任せて波の橋立の踏破を試みる。てっきり、付いて来ると思った東戸クンは安藤クンと一緒にレンタカーへ引き返してしまった。2人に裏切られたら置き去りにされるなと思いつつ、一人で対岸を目指す。右手の深川湾と青海湖は完全に遮断されており、青海湖が淡水湖であることも納得ができる。波の橋立を渡り終えると青海島シーサイドホテルの敷地に入り込み、やがて今朝から世話になっているAZワゴンの姿が確認できた。
 青海大橋を渡って本土に戻り、深川湾沿いにレンタカーを走らせる。青海島を望む日本海に迫り出した日置町(へきまち)の高台に登り、1995年(平成7年)5月にオープンした黄波戸温泉交流センターに到着した。400円の入浴料を支払って施設内に入るが、地元のお年寄りばかりで老人ホームではないかと戸惑う。交流ホールや多目的和室もあるので、老人会の集まりでもあるのかもしれない。浴場に入れば目の前に深川湾を一望できる景色が広がり、ジェット浴付きの内湯と屋根付きの露天風呂が待っていた。泉質はアルカリ性単純温泉で、湯は無色透明。屋根のない露天風呂へ入れば少々塩素の臭いがするものの、気になるほどではない。青海島や長門市街地を眺めながらゆっくりとお湯に浸かって汗を流す。
 さっぱりしたところで日置町北部にある千畳敷を目指す。細い山道を案内標識に従って登って行く。やがて直径20〜30メートルのプロペラが見え、プロペラを目指してレンタカーを走らせると千畳敷に到着した。千畳敷は標高333メートルとちょうど東京タワーと同じ高さにある。一帯は草原になっており、主にネザサとススキの群生だ。雄大なコバルトブルーの日本海が見事に広がり、天候に恵まれれば見島を確認することもできるという。
 千畳敷周辺は強い風が吹き付けており、プロペラの正体は中国電力の風力発電の試験設備であることが判明。千畳敷の東隣は日置ウインドパークとして整備されており、2基の風力発電装置が設置されている。ウォンウォンと音を立てながら巨大なガラス繊維プラスチック製の3枚のプロペラが回転し続ける。風が吹くと自動的に適切なプロペラの角度に変化させ運転を開始し、風速に応じたプロペラの角度をコンピュータ制御して発電を行うという。毎秒約13メートルから20メートルの風が吹くと1号機は300キロワット、2号機は107.5キロワットの電力を発生し、約140世帯の電力がまかなえるというのだから相当なものだ。ここにはアスレチックも整備されており、東戸クンが反応したことは述べるまでもない。
 千畳敷を後にして今度は油谷町の西北端にある竜宮の潮吹へ。日本海側特有の海蝕岩の荒々しい地形が続いており、打ち寄せる波が海食岩の隙間に入り込み、強い圧力を受けて空高く吹き上げる。その高さは波が強いときは30メートルにも達することもあるそうで、遠くから眺めていると竜の昇天を思わせることから竜宮の潮吹と名付けられたようだ。飛び散るしぶきは太陽を反射して銀の砂をまくような光景にも見えるという。傍らには元乃隅稲成神社があり、参道には幾重もの鳥居が続いており、京都の伏見稲荷大社を思わせる。それもそのはずで、元乃隅稲成神社は伏見稲荷大社と共に日本五大稲荷に数えられる津和野の太鼓谷稲成神社の分霊という。赤い鳥居は潮風に吹きさらされてかなり老朽化していた。
川尻岬  毎度のことながら時間に追われて本州最西北端の川尻岬に向かう。最西北端の西と北の割合をどのように判断するのか知る由もないが、本州最西北端を名乗っているからには外周の旅では無視できない。今回、レンタカー利用とした目的のひとつにはバス路線がない川尻岬を踏破する目的もあったのだ。
 地味な存在の割には有料駐車場しか存在せず、川尻岬へ続く遊歩道の入口にあった食堂「おきた」で300円の駐車料金を支払って川尻岬へ向かう。芝生に囲まれた遊歩道を歩いて行くと、やがて「本州最西北端川尻岬」と銘記された石碑が建っていたので記念撮影。もっとも、遊歩道は更に先へ続いており、小高い丘を越えたところに小さな灯台があるようなのだが、さすがに疲れてきた。東戸クンと一緒に丘の中腹まで足を運んだものの、時間もないので引き返す。
 川尻岬付近は航海の難所であり、海上警備の見張りには最適の場所だという。藩政時代には遠見番所があり、近代軍備の時代に入ると監視哨がおかれ、現在も密航の取り締まりが行われている。日露戦争の日本海戦は川尻岬の沖合で繰り広げられ、戦勝の第一報は、川尻岬から4キロ程南下したところにある久津郵便局から電報で報告されたという。
 向津具半島と砂嘴で陸続きになっている油谷島に渡り、玄武岩の柱状節理からできている俵島と灯台を眺めて引き返す。時刻は18時を回っているが、どうしても久津にある楊貴妃の里には立ち寄りたい。楊貴妃の里とは、楊貴妃伝説にちなみ二尊院周辺を整備した公園である。どうして油谷町と楊貴妃が関係するのかと言えば、すべては二尊院に残る2冊の古文書に記された楊貴妃伝説に起因する。楊貴妃は中国唐朝の6代目皇帝玄宗の愛妃である。楊貴妃の美貌に溺れた玄宗は楊一族を高官に取り立てて政治を疎かにした。やがて楊一族に反発する安禄山と史思明による安史の乱(755年)を招き、首都長安を捨てて蜀に逃亡する。唐軍の兵士は安史の乱を招いた楊一族を殺害するとともに、楊貴妃の処刑を玄宗に要求。玄宗はやむを得ずこれに応じ、楊貴妃は756年に38歳の生涯を閉じたというのが史実である。ところが、1766年に当時の二尊院福林坊55世住職恵学和尚がこの地に伝わる話を古老から聞き取り書きとめた古文書には続きがある。楊貴妃の処刑を忍びないと考えた近衛隊長が楊貴妃を船で逃がし、川尻岬の西側にある唐渡口海岸に楊貴妃が漂着したというのである。もっとも、楊貴妃は既に息も絶え絶えの状態で、手厚い看護も甲斐なくまもなく息を引き取ったそうだ。
 楊貴妃の里には、純白の大理石で、高さ3.8メートルの楊貴妃像が待っていた。西安(かつての長安)近郊の楊貴妃最期の地、馬嵬坡(ばかいは)に立つ像と同じ白亜の石像であるそうだ。二尊院の境内には、楊貴妃の墓と伝えられている五輪の塔が祀られており、にわかに楊貴妃伝説が事実ではないかとの錯覚さえ来たしてくる。その他にも楊貴妃が好んで食べたといわれる中国山東省原産の肥城桃を30本栽培したり、休憩所を中国風にアレンジしたりと、楊貴妃の里は異国の雰囲気が漂っていた。
 楊貴妃に魅せられたからというわけではないが、今宵の宿は楊貴妃の里から油谷湾を挟んだ対岸に位置する「ホテル楊貴館」を予約していた。1泊8,900円と外周の旅ではもっとも高価なホテルとなるが、これには夕食のビアガーデン代(3,500円)が含まれている。アルコール付きの値段なのだから妥当な範囲といえよう。19時に「ホテル楊貴館」に到着すれば既に日は暮れている。すぐにビアガーデン会場へ足を運ぶが、冷たい風が吹いており寒い。
「暑かったらビールも進むのになあ」
ビアガーデンを楽しみにしていた東戸クンも意気消沈。外周の旅で初めての試みとなったビアガーデンは盛り上がりに欠けたまま早々にお開き。
 冷えた体を温めようと展望大浴場へ向かう。「ホテル楊貴館」にも油谷湾温泉が引かれており、油谷湾を眺めながらぬるぬるの湯に浸かる。対岸には楊貴妃の里があるはずだが、真っ暗で何も確認できない。展望露窓風呂と称して、油谷湾に向かって全面ガラス張りになっているが、景色は明日の朝風呂で楽しむしかなさそうだ。

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