日々進化する自動車考察

第75日 萩−見島

2003年7月30日(水) 参加者:東戸・安藤

第75日行程  深夜0時23分の岡山から東戸クンと快速「ムーンライト九州」の車内で落ち合う。東戸クンは仕事を終えてから「のぞみ31号」で岡山まで先行し、「ムーンライト九州」に乗り継いできた次第。深夜なので挨拶もそこそこに眠りに付く。
 「ムーンライト九州」は5分遅れの5時41分に下関に到着。慌しく山陰本線の長門市行き820D普通列車に乗り継ぐ。本来であれば下関での乗り継ぎ時間は12分間であったので、朝食を仕入れようと考えていたのだが当てが外れた。今回の外周の旅は、萩から下関へたどる予定であり、できればこれからたどる地域にアプローチで足を踏み入れたくなかったが、夜行列車を利用して東萩へもっとも早く到着するためには、下関から山陰本線をたどるのがベスト。厚狭から美祢線をたどっても東萩の到着時刻は変わらないが、睡眠時間が少なくなるので山陰本線経由にした。
 長門市で奈古行き566D普通列車に乗り継げば、車内は制服姿の高校生で賑わっている。既に夏休みのはずであるが、夏期講習でもあるのだろう。萩市街地に近い玉江や萩でほとんどが下車してしまう。山陰本線は萩の市街地を囲むように線路が敷かれており、東萩、萩、玉江の3駅が砦のように配置されている。
 566Dは東萩に定刻の8時32分に到着。駅前で客待ちをしていた萩観光タクシーで萩商港に向かう。1年ぶりの萩商港には、既に見島行き高速船「おにようず」が入港していた。船名の由来である鬼楊子(おにようず)とは、鬼の面を描いた大きな凧のことで、赤青黒の3色で描く独特のデザインは見島の象徴。高速船「おにようず」の船体にも赤青黒の3本のラインが入っており、後方には鬼の面がデザインされている。見島では古くからの習慣で、長男が出生した年の暮れ、親戚や縁者はもちろん、知人や友人など多くの人々が傘紙を持ち寄り、子供が威勢よく、大空高く舞い揚がる凧の如く大きく元気に成長するようにという願いを込めて鬼楊子を作るという。見島へ渡れば本物の鬼楊子を目にすることができるかもしれない。
 実は見島へは昨年渡航する予定で「おにようず」の予約を済ませていたのであるが、見島の宿泊先が決まらなくて断念した経緯がある。旧盆で休みのところが多いうえ、営業している民宿や旅館も週末だったので軒並み釣り客の予約で満室だったのだ。今回は平日であるうえ、早めに手配をしたので、「赤崎旅館」を無事に予約することができた。
 船内は1階がカーペット敷きで、2階は椅子席となっていた。甲板席もあるのだが、今日は風が強く、見島到着まで揺れるのは間違いない。船内でウロウロしていれば船酔いになるのは間違いないので出航前から1階のカーペット敷きの部屋で横になる。「ムーンライト九州」利用で充分な睡眠を確保できていないのが幸いして、すぐにウトウトしてきた。
 途中で目が覚めたものの、見島に到着するまでは横になったままじっとしている。東戸クンもさすがに疲れたのか熟睡の様子。やがてエンジン音が小さくなり、高速船「おにようず」は定刻の10時15分に見島の本村港に入港した。
 見島に上陸すると多少フラフラするが、幸いにも船酔いは免れたようだ。今日は1日かけて見島を周遊する予定であるが、まずは本村港近くの「赤崎旅館」へ荷物を預けてしまうのがよさそうだ。迷路のような路地をさまよい、「赤崎旅館」の看板を見付けて声を上げれば仲居が出てきて、ここは別館なので本館へ行って欲しいとのこと。再び迷いながら本館へたどり着けば、別館で本館へ行くように案内してくれたはずの仲居さんが現われた。
「あら、随分時間がかかったわね。部屋はもう空いているので少し休憩してから観光すればいいですよ」
仲居さんの配慮で追加料金なくアーリーチェックインができた。しばらく部屋で横になったものの、やはり時間がもったいないので東戸クンを促して見島観光に出掛ける。
本村・見島牛  本村港へ戻ると見島牛のモニュメントがあることに気が付く。見島牛は、島で古くから役用牛として飼われてきたが、離島という環境状況の中であったため、これまで他の品種との交配を免れ、世界でも稀に見る遺伝的に純度が高く、和種としての原型を今日まで留めている。日本では明治維新になって、牛肉や豚肉を食べるという西洋の食文化が入ってきたため、古くから役用牛として飼われてきた和牛を食用牛として改良を行うために外国の品種を導入し交配させてきたという経緯がある。その結果、日本古来の純粋な和牛はほとんど姿を消してしまったのだ。それだけに純粋和牛の存在は貴重であり、1928年(昭和3年)には、国の天然記念物に産地指定されている。ところが、1932年(昭和7年)の最盛期には約700頭も飼育されていた見島牛も、農業の機械化により役用牛としての地位を失い、急減に頭数は減少。1967年(昭和42年)に見島牛保存会が発足し、増頭に取り組み始めたものの、現在の飼育頭数は90頭にも満たないという。
 時刻はまだ11時過ぎであるが、島内観光に出掛けてしまうと昼食を食べ損なう可能性があるため、早めの昼食を摂ることにする。本村港近くの食堂処「八里ヶ瀬」に入れば、「赤崎旅館」の仲居が店員をしていたので驚く。「八里ヶ瀬」も「赤崎旅館」の直営店とのことであるが、仲居も別館から本館、そして食堂と忙しい。
「夕食にお刺身が出るから他のものを注文した方がいいですよ」
東戸クンが「刺身定食」を注文しようとすると、仲居兼店員から忠告がある。おそらくメニューがかぶっているのだろう。先に見島牛のモニュメントを見たので、見島牛を賞味したいところであるが、上質の霜降り肉の見島牛は年間12〜13頭しか出荷されないうえに人気が高く、メニューにはなかった。見島牛をオランダ原産のホルスタインを交配した見蘭牛のステーキならあるというが、「見蘭牛ステーキセット」(3,600円)を昼間から手を出すのは躊躇する。結局、「焼肉定食」(850円)に落ち着いた。もちろん、焼肉は見島牛でも見蘭牛でもない。ただし、特筆に値するのは定食に付く「ぐべ汁」という味噌汁。見島周辺の磯で採れるヨメノサラ(笠貝)やカメノテ、ニーナなどを味噌汁の具にしたもので、濃厚な出汁が出ていて病み付きになりそうな味だ。
 お腹が満足したところで見島観光に出発。見島には公共交通機関が存在しないので、本村港近くの「ショップ見島」のレンタサイクルを活用する。1日300円と良心的な料金だ。
「16時で店を閉めてしまうけど、戻ってきたら店先に戻しておいて下さい。見島には自転車泥棒なんていないから大丈夫」
店のおばさんは笑いながら言うが、借りた自転車はかなり老朽化しており、自転車泥棒がいても盗んだりはしないだろう。
 レンタサイクルで見島観光を開始する。外周の原則に従って時計と反対周りに出発。見島は周囲約24.3キロの島で、最北端の長尾の鼻を鼻に見立てると、全体が牛の形をしており、何かと牛に縁のある島である。
 本村港沿いの道路が内陸に折れて海が見えなくなったかと思えば最初の目的地である見島ジーコンボ古墳群に到着した。自転車を道路脇に置いて雑草に覆われた遊歩道を進むと横浦海岸一帯に積石塚がある。海浜の比較的大きな玄武岩の礫を利用して、封土を用いずに造った積石塚で、その数はおよそ200以上あるという。この古墳群は7世紀後半から10世紀初頭にかけて造られたもので、被葬者は地理的位置からみると、対外関係のための前線基地として駐留していた比較的身分の高い人々の墳墓ではないかと考えられているそうだ。朝鮮半島に近いことから、早くから大陸との交易の中継地として文化の流入があったことを伺わせる。見島にも防人が設置されたこともあったようだ。
 今度はレンタサイクルで20分かけて日崎へ。日崎は見島東部に位置する位置する標高82.1メートルの半島である。遊歩道の入口に自転車を停めて遊歩道をたどるが思ったよりもきつい。距離は1キロ程度であるがとにかく起伏の激しいのだ。ところどころに蜘蛛の巣が張り出しており、ここ最近は誰も訪れていない様子。やっとの思いで山頂にたどり着けば、不動明王を祭った小祠があり、高木層としてヤブニッケイやエノキ数本が枝を広げ、マサキ、マルバグミなどの低木、笹などが生い茂り見島唯一の原生状態が保たれている。しばらく浜風を受けながら小休憩する。携帯電話にメールが着信していたので確認すれば、安藤クンから高速船「おにようず」に乗船したとの報告。今朝、東京を出発した安藤クンは山口宇部空港から小郡駅経由で見島へ向かっていたのだ。
 牧場で飼育されている見島牛を眺めて宇津港へ。見島のもうひとつの集落で高速船「おにようず」は宇津にも寄港する。安藤クンが乗船した「おにようず」も間もなく姿を現わすはずであるが、安藤クンは我々と同じように本村港で下船して、荷物を「赤崎旅館」に預けた後、レンタサイクルで追いかけて来るはずだ。
 宇津港に隣接して白い砂浜海岸の砂見田海水浴場があった。ここは見島唯一の砂浜海岸である。平日であるため誰もいないが、白い砂浜と青い海は沖縄を連想させる。海岸近くの雑木林の中には日露戦争露兵上陸記念碑が建っていた。日露戦争で見島がロシアに占領されたという話は聞いたことがなくおやっと思う。日露戦争で最大の海戦である日本海海戦は、1905年(明治38年)5月27日から28日にかけて行われ、遠く対馬海峡で繰り広げられる海戦の砲声が萩まで響きわたって来たそうである。その間、萩の民家の障子やガラスが音を立てて揺れたという話が伝わっている。見島にも5月28日にロシア軍の特務艦「カムチャッカ」の乗員55人が漂着したそうだ。見島の巡査は敵国の兵士であったにもかかわらず、直ちに医師を手配し、人命第一に対処したという。当時は敵兵といえども、祖国のために健闘した者に対し、厚い敬意を払っていたのだ。
 砂見田海水浴場から宇津港を囲むように突き出た観音崎へ向かうと古牧台公園に入る。テニスコートを備えた立派な公園であるのだが、肝心なテニスコートには雑草が生い茂っており荒れ放題。こんな状態であれば、学生のテニスサークルでさえ敬遠してしまう。崎へ進めばアスレチックコースが整備されており、東戸クンが素早く反応する。
「秋ふかき海をへだててゆりやかひのすめる見島をはるか見さくる」
貝に造詣の深かった昭和天皇が見島のユリヤ貝を詠んだ歌碑を眺めて、高台に天然の高麗芝が一面に広がった観音平へ足を運ぶ。眼下の宇津港にはちょうど「おにようず」が入港するところで、安藤クンも無事に見島へ上陸を果たしたに違いない。
 観音崎の先端に足を向ければ、全国で3ヵ所といわれる正観音を祭っている観音堂の一つである宇津観音堂が待っていた。お堂は海に突き出た岩の上に設けられており、参拝には断崖に設けられた階段を降りていかなければならない。目前に開ける観音崎の断崖絶壁と日本海の眺めは見事であるが、観音堂は「冥土への入り口」と呼ばれている。まさか観音堂から日本海へ飛び込めというわけでもあるまい。
長尾ノ鼻  宇津観音堂から30分近くかけて見島最北端の長尾ノ鼻にたどりつくと、灯台の前に2人の人影が見える。1人は安藤クンであることは間違いないのだが、もう1人は誰だろう。一瞬、昨年のサプライズ参加をした奥田クンのことを思い出したが、海上保安庁の職員であった。我々が到着するのと入れ替わりに原付自転車で走り去っていく。
「こんな寂しいところで延々と待たされて、嫌がらせかと思ったよ」
到着の遅れた我々に安藤クンからチクリと一言。本村から長尾ノ鼻へ直行すれば30分程度で到着するようだ。
 長尾ノ鼻からは水平線から昇る太陽と水平線に沈む太陽を眺めることができるという。白亜の北灯台の傍らからのぞく海岸線は、太古の時代から手付かずになっている玄武岩の断崖絶壁など雄大な自然が残されている。汗が引くまでしばらく長尾ノ鼻でたたずみ時を過ごす。
 長尾ノ鼻からは今来た道をしばらく引き返して、今度は牛の背中にあたる西側をたどることになる。こちらは東側よりも起伏が激しく、上り坂では自転車を引いて歩かねばならない。自衛隊のレーダー基地を経て一気に南下し、見島南端の見島灯台を目指すが、道に迷ってたどり着けず、遠くからその姿を眺めるだけで済ませる。
 見島牛と同様に国の天然記念物に指定されているクサ亀・イシ亀生息地に立ち寄って亀を眺めてから本村港の「ショップ見島」に自転車を返却する。時刻は16時30分だったので既にシャッターは下りていた。
 本村港近くの酒屋で飲み物を仕入れていると、酒屋の女将さんが見島総合センターを訪ねることを勧める。なんでも建物の一部が博物館になっているとのことで、折角なので足を運んでみる。「赤崎旅館」のすぐ近くにあった見島総合センターは公民館のような雰囲気。玄関で伺いをたてると初老の館長が現われて「自由に見学して下さい」とのこと。資料室に案内されると、見島の鬼楊子や見島ジーコンボ古墳群の出土品などが展示されており、立派な郷土資料館である。我々を出迎えてくれた館長は、我々が東京や京都からやって来たことに感激し、丁寧に見島や展示物の解説をしてくれる。
「明治の初めには干ばつや冷害で島民の生活は生存すら困難な状態になりましてね。萩の商人や銀行から現在の金額で50億円もの借金をしてしまって、担保の家や田など全てを手放す寸前となったことがあるのです。でも、見島の島民はその後13年間、酒や鬼楊子作りなど一切の娯楽を禁止して節約に努め、全ての負債を返したのですよ」
もしも当時、見島が破綻していたら、現在は無人島になってしまっていたかもしれない。見島総合センターの前には館長の話を裏付けるように見島還債碑が建てられていた。
 「赤崎旅館」での夕食は期待通り豪勢なもの。刺身はもちろんのこと、生ウニ、サザエの壷焼きやアワビの刺身、ウニとサザエを炊き込んだうにめしに海老フライなどが並ぶ。ただし、残念なことに見蘭牛は食卓に並ばなかった。
 夕食は満足したのであるが、やはり見蘭牛は賞味しておきたい。一杯やりたい安藤クンと意見が一致して、昼食で立ち寄った食事処「八里ヶ瀬」へ。生ビールやカクテルを各々注文し、「見蘭牛ステーキ」(3,200円)を注文する。定食よりも400円だけ安い。見蘭牛は、日本における全ての和牛のルーツ見島牛と、また肉用牛としても世界の一級品であるホルスタインとの交配によって誕生した肉用牛で、肉質は見島牛の性質できめ細かくサシが入り、ホルスタインの影響で発育が良いという。ジュ−ッという調理の音がして、やがて運ばれてきた見蘭牛を3人で酒の肴にする。見蘭牛は、適度な霜降りで自然のコクと香りが感じられ、柔らかくて甘みがある。1枚の見蘭牛を3人で分けたので1人あたり2切れだけであるが、見蘭牛を口にすることができて大いに満足した。いずれ見島牛も口にしてみたいものである。

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