旅をしよう。旅に出よう。

第74日 萩−萩

2002年8月4日(日) 参加者:東戸・安藤・奥田

第74日行程  居心地の悪い「菊ヶ浜観光ホテル」から朝食を済ませると逃げるように飛び出す。冷房が効かないうえに風通しが悪いホテルの部屋よりも、浜風が吹く海岸通りの方がよっぽどすがすがしい。昨日たどった道を再び萩商港に向かって歩く。萩商港の待合室にあるコインロッカーに荷物を預け、昨日は利用を見合わせた連帯サイクルを活用する。萩商港のレンタサイクルは利用者が少ないためか、空気が充分に入っていない車両ばかり。貸し出し手続きを終えたらまずは空気の充填。1日300円のレンタル料なので我慢はするが、一応は有料で貸し出す商品なのだからメンテナンスはきちんとしておいて欲しいところだ。
 午前中は主としてレンタサイクルで萩市内観光に当てる予定である。再び菊ヶ浜に面した道路を通って萩城跡の指月公園を目指す。萩城は1604年(慶長9年)に毛利輝元が指月山麓に築城したことから、別名指月城とも呼ばれ、山麓の平城と山頂の山城とを合わせた平山城で、本丸、二の丸、三の丸、詰丸からなっていた。1874年(明治7年)に天守閣、矢倉などの建物は全て解体され、現在は石垣と堀の一部が残っているに過ぎない。
 城址公園は一般的に無料で開放され、市民の憩いの場になっていることが多いが、指月公園はなぜか有料。8時から開園している指月公園の入口で自転車を停めて入園料210円を支払う。歩いて公園に入ろうとしたら、「自転車のままでいいですよ」との声がかかった。広い園内を自転車で移動できるのは有り難い。旧本丸跡に志都岐山神社が創建された際、境内が指月公園として整備されたが、その広さは総面積約20万平方メートルにも及ぶ。
指月公園  まずは入口近くにあった天守閣跡に立ち寄る。東西約20.0メートル、南北約14.5メートル、高さ14.5メートルの規模であった5層の天守閣も現存しているのは礎石と台座のみ。天守閣跡を中心に土塁が内堀に沿って連なり、武者走り、矢倉台座跡が確認できる。
“Does this board say it how?”(このボードにはなんて書いてあるの?)
天守閣跡の解説板を読んでいると不意に背後から声がかかる。声の主は金髪の若い女性で、一人旅をしている模様。
“I do not understand Japanese.”(私は日本語がわかりません。)
今まで散々海外を旅してきたがとっさに話し掛けられると対応できない。もっとも、天守閣の解説文を英訳するだけのスキルも持ち合わせていない。
“Here was Hagi Castle.”(ここに萩城がありました。)
情けないことに4人が顔を見合わせてやっと出てきた英語がこれだけだった。就職してから海外はご無沙汰しているとはいえ、旅が終わったら多少の英会話の勉強に取り組まねばなるまい。 次は標高141.8メートルの指月山頂を目指す。樹齢600年を超えるとされる巨樹が生い茂る遊歩道を自転車に乗ったり降りたりしたながら先へ進む。ところが、途中の分岐点で道を間違えて山頂に向かっていたにもかかわらず、海辺に出てしまう。気を取り直して分岐点まで戻ったが、山道を自転車で登るのは無謀であるという当たり前の結論にようやく至り、分岐点で自転車を乗り捨てて徒歩で頂上を目指す。40分近くかけてたどり着いた山頂には山城の所以たる萩城詰丸石垣や矢倉跡などが残っているものの、樹木が茂っているため見晴らしはほとんどきかない。
 乗り捨てた自転車を回収して、今度は梨羽家茶室へ。萩藩の重臣であった梨羽邸内にあったもので、年一度の城中煤払いのとき、藩主が一時この茶室で過ごしたといわれ、煤払いの茶室とも呼ばれる。茶室としては全国的にも珍しい花月楼形式になっている。その隣には、旧三の丸にあった13代藩主毛利敬親の別邸花江御殿の茶室「自在庵」を1889年(明治22年)に移築した花江茶亭があった。毛利敬親はこの茶室で、支藩主や家臣たちと茶事に託して時勢を論じ、国事を画策したといわれている。今日でも藩主敬親の命日の毎月17日には茶会が開かれているそうだ。500円で抹茶が飲めるのだが、時間がないので見送り。
 旧三の丸にあった萩藩の永代家老福原家の書院を1882年(明治15年)に志都岐山神社の社務所として移築したという旧福原家書院を眺め、志都岐山神社前の池に架かる中国風のデザインを施した太鼓橋を渡る。太鼓橋は花崗岩で造られており、万歳橋と名付けられているが、藩校明倫館の遺構とのこと。
 歴代藩主を祀る志都岐山神社を参拝し、1925年(大正14年)に復元修理された東園に足を運ぶ。萩藩主の遊息の庭園で、2代藩主毛利綱広は園内に稲田を設け、自ら耕したとのこと。士農工商の身分社会であったにもかかわらず、武士が鍬を握っていたのだからおもしろい。
 指月公園の見学を終ると旧厚狭毛利家萩屋敷長屋へ足を運んだ。指月公園と共通券になっているため、別途入館料は必要ない。旧厚狭毛利家萩屋敷長屋は厚狭に領地を持っていた厚狭毛利家の武家屋敷長屋。全長51メートルの長大な長屋で、屋根は一重入母屋造り瓦葺き、式台および縁付で、中間部屋もある。現存する萩の武家屋敷の中で最も大きく、国の重要文化財に指定されている。室内は座敷や中間部屋が横一直線上にいくつも連なり壮観。内部には、毛利家の姫が使った駕籠や道具類などを展示していた。
 「向かいの史料館にも行ってみよう」
奥田クンに促されて指月公園の駐車場の脇にある萩史料館へ。入館料が500円もするし、文献などが展示されていても面白くないからパスしようと思っていたのだが、歴史に興味を持つ奥田クンにとっては重要なポイント。いつもわがままに付き合ってもらっているので、ここは奥田クンの希望を尊重する。館内には藩政時代から明治時代にかけての文化遺産がずらりと並ぶ。歴代藩主の書簡や絵画、武具など貴重なものも多い。江戸時代から明治維新にいたる萩の歴史や文化資料を展示している。歴代藩主の書簡や武具、伊藤博文や吉田松陰、高杉晋作らの書、城下の絵図などもあった。入館料の割高感は否めないものの、思ったよりも多くの展示物があり、奥田クンも満足してくれたので良しとしよう。
 萩史料館から自転車でしばらく東に進んで国指定史跡の萩城城下町へ。この辺りは一帯には高杉晋作や桂小五郎などの旧宅も残っており、時代が幕末にタイムスリップしたよう。まずは菊屋家住宅を目指したが、周囲には歴史ある建築物ばかり並んでいるので、1度は気が付かずに素通りしてしまい、慌てて引き返した。
 菊屋家は毛利輝元に従って山口から移ってきた萩藩の御用商人。毛利輝元が関ヶ原の戦いの直後、京都の伏見から広島へ帰る途中、銀が不足していることを聞いて急場の難を救ったこともあるそうだ。萩城下の町造りに尽力して呉服町に屋敷を拝領し、阿古ヶ浜に藩士や足軽衆のための惣固屋を建てて住まわせたことから、阿古ヶ浜を菊ヶ浜と称するようになったという。その後、代々大年寄格に任命され、菊屋家の屋敷はしばしば藩の御用達として借り上げられていた。本来であれば、幕府の使者は萩城で応接するのであるが、萩藩では関ヶ原の戦い(1600年)で裏切られたという思いから、幕府の使者を萩城に入れず、常に菊屋家で応接を行ったそうだ。
 江戸初期に建てられたという主屋は広い座敷をもち、幕府からの使者が泊まる本陣として使われた。5,470平方メートルという広い敷地内にはなまこ壁の蔵が立ち並び、主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場などが国の重要文化財に指定されている。各部屋には藩主からの拝領品や古書、民具、衣装など約500点が展示されていた。
「菊屋家は伊藤博文のスポンサーをしていたのだよ」
展示物を眺めていると菊屋家の管理をしているお婆さんが教えてくれる。お婆さんからはガイドブックでは紹介されていないような話をいろいろと聞かせてくれる。興味深いのは江戸時代を通じて毎年正月に交わされる藩主と家臣の掛け合いで、「今年はどうしますか」という家来の問いに、「まだ早い」と藩主が答えていたそうだ。真意は今年こそ幕府を倒しに攻めあがりますかという問いで、この地には当初から倒幕の気概がみなぎっていたようだ。
 再び東へ向かって自転車をこぐ。松本川に架かる松本大橋を渡り、山陰本線の踏切を越える。やがて観光バスが何台も駐車している立派な神社が現われた。1890年(明治23年)に創建された松蔭神社だ。吉田松陰を祭る神社で、当初は吉田松陰の兄の家に祀られていたが、1955年(昭和30年)に現在地に移転し、社殿が新たに造営された。学問の神として庶民の信仰が厚く、まずは学力向上を祈願して社殿を参拝。
 社殿の右手には久坂玄瑞、高杉晋作、木戸孝允、山縣有朋、品川弥二郎、伊藤博文など明治維新を通して近代日本の原動力となった多くの逸材を輩出させたことで有名な松下村塾があったので覗いてみる。吉田松陰の教育道場であった松下村塾は、叔父の玉木文之進が1842年(天保13年)に寺子屋を開いて、松下村塾の看板をかけたのが村塾の名の起こり。吉田松陰は1855年(安政2年)の冬に出獄してから1857年(安政4年)11月まで、吉田松蔭の実家である杉家で子弟を教育していたが、11月5日に八畳一間の松下村塾の塾舎が完成することとなり、吉田松陰はこの時から塾に起居し、塾生に対し子弟同行の実際教育を指導した。塾生が増加して手狭になったので1858年(安政5年)3月に十畳半の増築が行われたとのことであるが、目の前の塾舎はそれでも手狭な感じがする。吉田松陰が名実共に公に認められたのは、1858年(安政5年)7月20日に藩主より家学(山鹿流兵学)教授を許可され、12月に安政の大獄で投獄されるまでの5ヶ月の間のことで、実際に塾生に教育を施した年月は通算2ヶ年半程であったとのこと。
 松下村塾とは反対側の社殿の左手には、木戸孝允によって奉納された鳥居の先に吉田松蔭の墓碑があり、周囲には尊皇攘夷の志士の墓碑も並んでいる。吉田松蔭と同じく安政の大獄に連座して処刑された者の墓碑が多いようである。
 松蔭遺墨展示館には、吉田松陰の「東北遊日記」をはじめとする著書や和歌、遺品や遺墨などが展示されていた。「至誠にして動かざるものは未だこれあらざるなり」という江戸へ向かう前に残した吉田松蔭の書を眺めていると、誠の心をもって話をすれば自分の考えも幕府はきっと理解してくれるという思いがあったのではなかろうか。「留魂録」は処刑前日に書かれたものであり、後世への遺言を兼ねていた。
 松蔭神社のラストは一際観光客を集めている吉田松蔭歴史館へ。吉田松陰は1830年(天保元年)8月4日に長州藩萩松本村で毛利藩士であった杉百合之助常道の次男として生まれた。杉家は貧しい家であったが、勉強家であり勤勉な武士の父の下、幼い頃は兄梅太郎と共に「論語」「孟子」などの中国の古典を学び、1840年(天保11年)には若干11歳で藩主の毛利毛利慶親公に武教全書を講義したという。1854年(嘉永7年)にペリー来航時には、弟子の金子重助と共に下田沖に停泊中であったペリーの軍艦に小舟で近づき、アメリカに連れて行ってもらえるよう懇願したが認められず、翌朝に自首して海外渡航を計画した罪で江戸伝馬町の獄に投獄されている。1855年(安政2年)に杉家に戻ることを許された吉田松蔭は松下村塾を開き、身分の上下や職業などは関係なく、若者と共に畑仕事などをしながらそれぞれの長所を見つけ伸ばすという教育を行った。1858年(安政5年)に井伊直弼が大老となり、安政の大獄が始まると松下村塾は閉塾され、吉田松陰は再び投獄。1859年(安政6年)10月27日に享年30歳という若さで処刑された。吉田松陰歴史館では、これらの波乱に満ちた生涯を等身大のロウ人形を使った20の場面によって紹介している。等身大のロウ人形は、当時の様子に思いを馳せるには役立つが、獄中の様子などは薄気味悪くもある。
 再び萩城下町に戻り、今度は木戸孝允旧宅を訪問。木戸孝允は1833年(天保4年)に萩藩医和田昌景の長男として生まれ、後に桂家の養子となったので桂小五郎の名でも知られている。明治維新後に名を木戸孝允に改め、明治政府の要職を歴任して、西郷隆盛や大久保利通と共に維新の三傑と呼ばれた人物だ。旧宅には木戸孝允誕生の部屋や庭園などが残されており、当時の藩医の生活様式を伺うことができる。無料の施設であるにもかかわらず、ボランティアガイドが常駐しており、施設の案内が始まったので恐れ入る。それほど広い施設ではないので案内そのものは短時間ではあったが、最後にアンケートの記入を求められた。しかしながら、今日の予定は萩商港を11時に出航する便で相島へ渡る予定。時刻は10時30分を回っており、時間が段々と押してくる。1度は断ったものの、「京都から来られたのであればぜひお願いします。木戸孝允と京都は縁があるのです」としつこい。無料で案内してもらったので、アンケートくらい応じてあげたいのであるが、用紙を確認すれば記述式のアンケートなので時間がかかりそう。申し訳ないなと思いつつ「次回、必ず記入しますので」と言い残して木戸孝允旧宅から逃げ出す。
 菊屋横丁にある高杉晋作旧宅にも立ち寄ったが、こちらは有料で100円を徴収される。高杉晋作旧宅は、晋作が生まれ育った生家で、座敷や居間、裏庭には産湯に使った井戸などがそのままに残っているものの、木戸孝允旧宅と比較すると見るべきものが乏しい。高杉晋作は、萩藩大組士高杉小忠太の長男として1839年(天保10年)に生まれ、1857年(安政4年)に松下村塾に通い始めた。吉田松陰からは「有識の士」として将来を嘱望され、吉田松陰の死後も佐久間象山らとの出逢い成長していった。1863年(文久3年)5月に萩藩は下関海峡で攘夷の火蓋を切ったものの、四国連合艦隊の攻撃を受けて藩兵力の弱体ぶりをさらけ出す結果となった。この危機打開のために高杉晋作は同年6月に奇兵隊を結成。身分を中心に編成された封建的軍隊とは異なり、身分を問わず有志の集まりで、力量中心に編成された新しい軍隊であった。奇兵隊は幕末の長州伐軍を破り、倒幕戦争においても諸隊の中核として明治維新に大きな歴史的役割を果たしたが、高杉晋作自身は肺結核で倒れ、明治維新を見ることなく1867年(慶応3年)に28歳で他界した。
 萩商港に戻れば相島行きの「つばき2」の出航10分前。幸いにもレンタサイクルも萩海運で借りていたので融通が利き、自転車は待合所の前に置いておけば良いとのこと。荷物はコインロッカーに預けたままなので、身軽な状態で「つばき2」に乗り込む。船内は冷房が効いており有り難い。昨夜は冷房の効かない部屋で寝苦しい一夜を過ごしたこともあり、相島までの40分の航海は船室で睡眠を補充する。
 相島は萩市の北西約14キロの日本海海上に位置し、北長門海岸国定公園の区域に指定されている。島内には平家伝説が多く残されていることから、平安時代末期には人が住み始めていたものと伝えられる。また、この島の旧庄屋中村家に伝わっている「略記文」によると、1182年(寿永元年)1月4日に、大日如来をはじめ多くの仏像が島の西側に流れついたので、島民が堂舎(大日堂)を建立して安置したことが記されている。さらに1508年(永正5年)と推定される大井八幡宮の御済納米銭役人文書に「愛島」として献納が行われていたことが記され、室町時代末期には、阿武郡20郷と並んで農作物、農製品や人役などを大井八幡宮に献納していたことが記されている。寛永年間(1624〜1644年)には大島と同じく萩藩の船究役が萩沖を出入りする船を取り締まり、幕末には黒船渡来の見張り役として相島遠見役が置かれ、萩城の海上防備としての御藩所や大砲台場なども設けられていた。現在は、スイカと葉たばこの産地として知られている。幕末には黒船来航を見張るため相島遠見役が置かれ、毛利藩の海上防備のための御藩所や大砲台場なども設けられていたようだ。
 まずは相島港から集落へ続く道路をたどって行く。起伏に富んだ地形のため、坂道が延々と続いており辟易とする。島の面積の約40%が利用されている農地のほとんどは段々畑で、丘陵地の斜面に石垣を築き作られた畑は芸術的な光景でもある。その段々畑には立派なスイカが実っており、安藤クンは「農家に頼めば1つぐらいもらえないだろうか」と呟いている。かつての相島では、除虫菊の栽培が盛んであったが、現在ではスイカの産地として有名なのだ。山口県内の生産量の60%以上が相島で栽培されているという。島内の日当たりのよい段々畑でとれたスイカはとても甘く、「萩スイカ」のブランドで県外へも出荷されている。他には葉煙草やさつまいもなどが栽培されているようだ。
 白くて近代的な萩市立相島小・中学校を眺めて、しばらく段々畑の小道を進む。相島の周囲には、ライオン岩、通ヶ鼻、男柱、女柱、鵜の松原と呼ばれる奇岩や海岸線の景勝地である入海海岸と相島漁港、陸の景勝地である大山を合わせて相島八景があると聞いたので、どこかでこれらの景観を眺めることはできないのであろうかと模索していたのだ。ところが、小道は延々と続くので諦めて回れ右。港に戻る途中の高台にお堂があったので休憩させてもらう。お堂からは日本海を挟んで本土が一望できるうえ、さわやかな風が吹き抜けるので気持ちがいい。お昼時ではあるが、見掛けた雑貨屋は日曜日なので休みの様子。あまり食欲もないので出航時刻までおとなしく過ごす。
 帰りの「つばき2」は5分遅れの14時45分に萩商港に入港。コインロッカーから荷物を出して、唯一の客待ちをしていた萩第一交通のタクシーを利用して東光寺に向かう。東光寺は松蔭神社の裏手の高台にあり、距離的には午前中にまとめて訪問してもよかったのであるが、高台なので自転車での訪問が不便と判断したのと、東光寺の近くの「萩本陣」でモノレール付きの温泉に入れるという情報をキャッチしていたので後回しにしたのだ。
 松蔭神社と異なり、観光客の姿もわずかで静けさの漂う東光寺は、1691年(元禄4年)に萩藩3代藩主である毛利吉就が建立した黄檗宗の名刹。大照院と並んで毛利家の菩提寺で、本堂裏の毛利家墓所は国指定の史跡となっている。毛利吉就から11代までの奇数代の藩主とその夫人、近親者の墓があり、墓前には藩士が寄進した500余基の石灯籠が立ち並ぶ。文化年間(1804〜1818年)の最盛期には全山40棟を数えたといい、総門、三門、鐘楼、大雄宝殿はいずれも国の重要文化財に指定されている。周囲には杉や桧の大樹が生い茂り、木陰を作ってくれているので有り難い。カメラを向けていると「お墓で写真なんて撮っていたら幽霊が写るよ」と安藤クンからお叱りを受ける。
 東光寺から坂道を少し下って萩市唯一の温泉ホテルである「萩本陣」へ。吾妻山麓全体にホテルの施設が広がり、露天風呂や展望台や庭園を備えている。フロントで入浴券を購入すると1,000円という結構な値段だが、ホテルの温泉なら相場の範疇だし、モノレールの運賃込みなので妥当なところか。モノレール乗り場に赴くと、10分間隔の運行で利便性は良い。3両連結の8人乗り車両の最後尾に乗り込む。急勾配を登っていくケーブルカーに乗る場合は、先頭車両に乗っても山の斜面しか見えないが、最後尾の車両に乗れば視界がきく。今回はモノレールだけれども同じ発想でよいだろう。タンタンタンタンと上り始めたモノレールからは、やがて日本海と萩の街並みを望む視界が広がり始めた。
 モノレールは途中で男性用露天風呂のある中間駅に停車。ここで奥田クンは下車して1人で露天風呂へ向かう。奥田クンは石見空港18時30分の羽田行きエアーニッポン578便を予約しており、石見空港へ連絡する防長交通バスの萩バスセンター発車時刻が16時10分なのだ。既に時刻は15時30分を過ぎているが、「萩本陣」からタクシーに乗れば、萩バスセンターまで5分もかからないので、かろうじて入浴時間は確保できる計算だ。東戸クンと安藤クンは新幹線利用なので時間に多少の余裕がある。奥田クンを降ろした中間駅から少し登ったところに女性用露天風呂の駅があり、ここでモノレールを乗り換えて山頂の展望台を目指す。
萩本陣  山頂でモノレールから降りると、野外博物館奥萩恐竜の森やわんぱく砦といった子供向けの施設があり、先客の家族連れが子供を遊ばせている。とりあえず遊戯施設には興味がないので展望台を目指すとモノレールから眺めた景色が眼下に広がる。日本海や大島、相島の姿がもちろんのこと、笠山から萩市街地に至るまで見事な景色だ。ここからのロケーションであれば、夕焼けや夜景も見事であろうが、いずれ「萩本陣」に宿泊したときの楽しみにしておく。
 モノレールで露天風呂へ戻ると、ちょうど入れ替わりで奥田クンが下山するモノレールに乗り込む。奥田クンを見送ってから紅葉谷露天風呂へ。ここも展望台と同じような萩市街地の景色が広がる。紅葉谷温泉は、環境に配慮して石けんやシャンプーを置いていない、浸かるだけの温泉。洗髪できないのは残念であるが、大きな岩を配した広めの浴槽は開放感があり、かけ流し温泉の贅沢を味わえる。泉質はカルシウム・ナトリウム塩化物温泉で、微かに硫黄の臭いがする。源泉は地下1,200メートルの深さから汲み上げているとのことで、かなりのコストがかかっていそう。1,000円の入浴料で間に合うのか心配になるくらいだ。
 さっぱりしたところで下山し、あらかじめフロントで呼んでもらった萩交通のタクシーで東萩駅に向かう。来年は萩商港から見島に渡る予定であるが、鉄道かバスで東萩駅までやって来ることは間違いないので、今回は東萩駅で外周の旅を打ち止めとする。16時50分の防長交通バスの特急「はぎ」で小郡駅に向かう予定なので、それまでを各々が自由に過ごす。安藤クンは職場の友人の結婚祝に萩焼きを買いたいというので駅前のお土産プラザへ付き合った。もっとも、お土産プラザの一角に地ビールパブ「村塾」の看板を見付けたので早々に離脱し、ブラウンエール、ヴァイツェン、ペールエールの3種類の地ビールを試せる「3点セット」(525円)で温泉上がり喉を潤す。空きっ腹にビールを流し込んだのでたちまち酔いが回り、アルコールを薄めるために「夏ミカンジュース」(315円)を追加注文した。

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